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小林一茶(1763-1828)は、信濃の国柏原で中農の子として生まれた。15歳の時に奉公の為に江戸に出て、やがて俳諧と出会い、「一茶調」と呼ばれる独自の俳風を確立して、松尾芭蕉、与謝蕪村、と並ぶ江戸時代を代表する俳諧師の一人となった。 雪とけて 村いっぱいの 子どもかな 雪とけて 町いっぱいの 子どもかな 名月を 取ってくれろと 泣く子かな 涼しさや 糊(のり)のかわかぬ 小行燈(こ あんどん) 雪とけて くりくりしたる 月夜かな 屁くらべが また始まるぞ 冬籠り 木がらしや 二十四文の 遊女小屋 おらが世や そこらの草も 餅になる 菜の塵や 流れながらに 花のさく かすむ日や 目の縫われたる 雁が鳴く 猫の子が ちょいと押さえる 落葉かな 慈悲すれば 糞をするなり 雀の子 あこが餅 あこが餅とて 並べけり 鳴く猫に 赤ん目をして 手まりかな 麦秋や 子を負いながら いわし売り とうふ屋が くる昼顔が 咲にけり けふからは 日本の雁ぞ 楽に寝よ 桜さく 大日本ぞ 日本ぞ とく暮れよ ことしのような 悪どしは 世が直る なほるとどでかいい 蛍かな ずぶ濡れの 大名を見る 炬燵かな 虫鳴くや わしらも口を 持た(持った)とて 花の影 寝まじ未来が 恐ろしき こう一茶の俳句を並べてみただけで、誰でもない、骨太で、どこか太々(ふてぶて)しい一茶調が浮き出てくるのが感じられて、たちまちに親しみを感じてしまう。気取りや衒学的な匂いは何処にもなく、ド百姓生まれたる土の臭いが、香水の如くに薫り立ってくる。 私は一茶が特別に好きでもなく、従って彼の駄句が大半と言う世評を鵜呑みにして、人口に膾炙している彼の所謂代表作や評判の良い句だけを、自分勝手に鑑賞しているだけであります。 それで感じた事ですが、一茶の目線の低さということであります。小鳥や、蛙、ハエなどと言った人間から見れば取るにも足らない対象を、感情移入どころか、その物になりきって、俳句作りをしている様が、共感を持てると言うか、凄まじいと、肌で感じるのであります。 生きてあるもの全てに愛情ある眼を注ぐ。音楽で言えば、ロックを感じる。俳諧の更に先を行く。傾きに傾き、綿雲のように様に「重く」、そして軽く、森羅万象に同化して共鳴する。心は幼子や、無邪気な子供と同列であってどこまでも純真、潔白。最下等の遊女にすら、熱い涙を灌がずにはいないのだった。 私は以前、金子兜太が一茶を称揚する為に芭蕉を貶めたと、断じましたが、ここで訂正ではなく、芭蕉と一茶の出自の違いが、作品の肌触りを全く異質にしたのだと、言い直したいと思う。両者の血管に流れる血の違いといってもよい。 金子が芭蕉は越えられるが、一茶は越えられない、そう言ったのはある意味で正しく、同じく発句と言ってもその拠って立つ地盤が違うので、芭蕉を引き合いに出すのはお門違いと申すべきで、野太い作風で知られた蛮カラ・インテリの及ぶところではなかった事はよく理解できる。その意味でも、一茶と言う人は、一種の天才人と呼ぶのに相応しく、俳句を、句作を、放屁の如くにまき散らした、根っからのド百姓の変種と見なければならないだろう。念の為にお断り致しますが、私は「ド百姓」の言葉を称賛の形容として一茶宗匠に呈しているのであって、上流人士を気取って、小便も大便も、ましてや屁などという下品な言葉は神聖なるポーエムの世界には持ち込みません。などと、乙に取り澄ました似非詩人やまやかしの俳人に類した人非人などには、頼まれても、見向きはいたしませんで、従って、論評も一切致さないでありましょう。私がどんな風にではあっても、このブログ上で名前をあげたり、あげつらったりするのは、根本的には敬意を抱いている証拠なので、その上での評価を勝手に放言しているだけなのです。 従って、権威ある、学問上の名文句を読みたいと願っている奇特なお方は、私のブログは無視して、二度と顧みなくて結構であります。私は、自分に相応しいお方だけを、このブログを通じてでも相手にして行けたら満足なのであります。 さて、御存知の様に私は別のブログで、源氏物語の現代語訳を浅学菲才の身をも顧みずに、十数年にわたって連載していて、幸運にも多数の方々から御愛読を頂いて居ります。それは一重に、我々日本人の先人・偉人の偉大なる業績を次の世代に伝えていきたい。絶やしたくはないと、切に願うからにほかならず、小林一茶もまた、我が日本国の誇るべき素晴らしい詩人のひとりとして、尊敬の念を以てして鑑賞、或いはじっくりと味読する必要があると思うのです。その為には単なる知識として、例えば源氏物語の作者は紫式部であると知るだけでは、何の意味もない。一茶は駄句の多い、私生活では精力絶倫の男だった程度の興味・関心の向け方では、一茶を知った事にはならないのであって、彼の句と真正面から向き合い、心を通わせ合う努力をしてみなければ、最低でも、そのくらいの努力は払わなければ、古典や古人との真摯な交流は望めないのであります。その点は、現代に生きている人の場合と全く同一であります。時代と空間を同じくする隣人であるか、時間軸を異にする隣人であるかの違いだけで、本当の隣人となれるか否かは、かかって今日に生きる我々の心掛け次第と言う事になるわけであります。古人は、とりわけ日本人は名誉と信義とを重んじた。現代人も謙虚に先人に学ぶ努力をしなければ、素晴らしい日本国に生を受けた甲斐がないというものです。コロナ禍という国難をピンチはチャンスと前向きに捉えて、偉大なる先人と交流を深める契機としたいもの。一人静かに古典と向き合う。又、喜ばしいではありませんか。 私は、源氏物語を「宇宙第一の書」と激賞するのですが、一茶の作句もまた、源氏に劣らない傑作表現であると、専門の研究者や実作者のあれこれの評価にも拘わらずに、断言して憚らないのであります。 これがまあ 終(つい)のすみかか 雪五尺 すずめの子 そこのけそこのけ お馬が通る 痩 せ蛙(がえる)負けるな一茶 ここにあり うまさうな 雪がふうはり ふわりかな 春風や 牛に引かれて 善光寺 名月を とってくれろと 泣く子かな めでたさや 中位なり おらが春余り鳴て 石になるなよ 猫の恋 鶯や 懐の子も 口をあく 梅が香に 障子ひらけば 月夜かな 陽炎に さらさら雨の かかりけり 門松や ひとりし聞ば 夜の雨 亀の甲 並べて東風(こち)に 吹かれけり 蛙鳴き 鶏なき東 しらみけり 大名を 馬からおろす 桜かな 手枕や 蝶は毎日 来てくれる なの花も 猫の通いぢ 吹き閉ぢよ 初午に 無官の狐 鳴きにけり 初夢に 古郷を見て 涙かな 春風に 箸を掴んで 寝る子かな 春雨に 大欠伸する 美人かな 振向ば はや美女過る 柳かな 蓬莱に 南無南無といふ 童かな 夕ざくら けふも昔に 成にけり 夕燕 我には翌の あてはなき 夕不二に 尻を並べて なく蛙 行く春の 町やかさ売 すだれ売 私に二人の監督の友人がいます。私が撮影所に入った時、現場の先輩として助監督のセカンドとサードとしてついていて、何かと現場に疎い私を手助けしてくれた。以来、焼き鳥屋での日本酒の飲み方やら、現場でのスタッフ同士の喧嘩の作法やらを実地に見分させてくれた、謂わば兄貴分のような二人でしたが、私が直ぐに現場を仕切るプロデューサーに昇格したので、助監督から監督に昇進するにはそれなりの年季がいるので、以後は立場が逆転して、銀座の高級クラブへの出入りを皮切りに、一人には第一回監督作品を提供するなど、彼等を手助けする立場にたちました。 こんな思い出があります。夜中の自宅に電話が入って、「杉村六郎と申します」、「吉田啓一郎です、御元気でしょうか」と半分酔っぱらった声で、改まった挨拶の声です。助監督の稼ぎだけでは食えないので居酒屋でアルバイトをしながら食いつないでいるとのこと。以後は、順調に監督業を続けた二人にも、苦しい下積み生活があった事を思い出します。 そう言えば、私には所謂苦難の時代が皆無だった。業界に入った時から、順風満帆でエリートコースをひた走ったからで、彼ら二人が監督としてフリーランスの厳しい洗礼を受けつつ活動を継続したのに比較して、安月給取りとは言え、会社員としての安定した地位が保証されたのとは、少し誇張して言えば天と地ほどの相違があったわけです。しかし監督業にはプロデューサーから全権を委任されて現場を取り仕切り、主役のスター俳優や女優を筆頭にした出演者や、様々なパートの職人集団で構成される数十人のスタッフを指揮して作品を自らの手で作り上げる、一種ヒロイックな爽快感があり、演出料も安月給取りなどには及びもつかない高額なギャラを得ることが許されており、それに比べて、プロデューサーの私は、同じく現場を仕切るとは言え、一旦現場に作品を渡してしまえば、何かアクシデントが起きた際の手当てやらオンエアーに間に合うようにスケジュール調整を、裏方として支える、謂わば縁の下の力持ちに徹する役割であり、監督のような疑似英雄の陶酔を感じることは全くありません。 そうい言えば、私は子供の頃から縁の下の下支えが専らの役所であり、スポットライトが当たる主役とか監督の役割からは遥かに遠い場所で、それでも物作りが大好きで、無意識にでも映画やドラマや、芝居などの世界に強い憧れがあって、結果的には業界人の仲間入りを果たすことになった。 俳句の宗匠は、芝居やドラマとはまったく違う分野ですが、俳句を生み出す上では自分自身がプロデューサーであり、監督であり、敢えて言えば主役などをすべて兼務した、大作家足りうるので、その孤独な作業と引き換えに、偉大なる先人の偉大なる演技やパフォーマンスを意識しつつ、それを凌駕する爽快感や陶酔に耽る事が許される、素晴らしい職業であり、役割であります。 道の辺の 木槿(むくげ)は馬に 喰われけり (松尾芭蕉) やれ打つな 蠅が手をすり 足をする (小林一茶) 同じく動物を対象としても、馬と蠅と関心や興味の向かうところが、両者の違いであっても、俳諧師としての眼光は鋭く、時代を超越した感性が生物の実存に肉迫している様を、読み取って下さい。
2021年01月31日
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今回は久しぶりに孔子の教えである「論語」を取り上げてみます。 孔子は、春秋時代の中国の思想家、哲学者。BC 551―479、釈迦、キリスト、ソクラテスと並んで世界の四聖人と讃えられる偉人である。 孔子が生きた時代は、周王朝が有名無実化し、権力は臣下に移り、政治の道も、人間の礼も乱れ、社会は無秩序化してしまいました。 その中での孔子の主張の中心は、忠 = まごころ に基づく人間愛としての 仁 の強調である。親への孝行や年長者への悌順(親しくして、従うこと)、そして利欲を離れて自己を完成させる学の喜びなどを述べている。 それでは「仁」とは一体何か? 他者の心を思い遣る事に尽きる言葉です。すると、四聖人は共にこの仁の徳を最大限に発揮した偉大なる人物と言うことになりますね。 所で、他者、自分ならざる者への思い遣りは、如何にしたら可能となるか。学びであります。白紙状態で生まれでた個人は、自己の欲求だけしか持ちません。古典を学ぶ事を中心にして、先人達の仁義(慈しみの心と正しい行い)の在りどころを具(つぶさ)に知る。これ以外にはありません。 また、赤子としての自分の最も身近にいて、母乳だけではなく、様々な生きる源の力を与え続けてくれる母親を始め、父、兄、姉達に始まるこの世の先輩諸氏から、自ずから体得する学びが根本でありましょうか。 勿論、例外も多く見られますが、基本的には母親を始めとしてこの世の先輩たちは、献身的に赤子に対してくれるものでありますから、他者の心を正しく思い遣る仁の基礎は、幼時に体得していると考えてよいでしょう。後は、その仁の芽を損なわないように真っ直ぐに育てていけば、誰でも容易に極めて人間らしい人間に自然に育ち上がるもの。理屈では、いとも簡単に好結果が得られる道理なのですが、現実は皆さんがよく御存知の通りに、理想とは程遠い現実が出(しゅっ)たいしている。 ですから、学びは一生涯にわたって絶えず継続されなければならないわけであります。つまりは、学びに完成はないのであります。ですから人は、この世に学びを実践するために生まれて来たのだと、言えなくもない。ここで言う学び、学習とは学校や教場で行われるものばかりとは限りませんで、日常生活のあらゆる局面で、その人の心構えさえしっかりとしていれば、必然的に「教え」と「学び」とはセットになって行われているものなのであります。 私の体験から申しますと、教えの達人とは、それ以前に、学びの達人であった。また、教える、教育するとは「より深く、詳細に学ぶ」ことを必然的に意味します。学びの達人こそは、教えの達人へと極めて自然に移行する。 「学びて、時にこれを習う」のは非常に楽しいと孔子は述懐する。習う、お浚いを完成させるのにも人に教える行為が最高のものであります。ですから、孔子は弟子三千人に教えて倦まなかった。学習の理想の姿を実践した、達人の姿が偲ばれるのが名著「論語」であります。俗に論語読みの論語知らずと、エセ学者を嘲弄するのですが、偉そうな外見だけに威圧されて、人間の何たるかを知らない、知識人にありがちな権威主義の権化の如きインテリを戒める言葉として、心に留めておきたいものです。 所で、私の事を、またぞろお話致しましょう。私は小学校から、大学まで、まあまあ優秀な成績で通すことが出来、中学の時の恩師からは「イマイチ」と判定されはしましたが、私なりには一応「出世コース」を辿り、業界でのエリート街道をひた走った。そんな風に解釈して、満足しています。 私の凄い所は、( こんな表現を、自分のことに対して使うのは、馬鹿げていると思われるでしょうが、他に適当な言葉が見つからず、実際にそう感じているのですから、遠慮なく使用致しますよ )、私の 凄い ところは、実社会に出てから、本当の学習を絶え間なく継続し、優秀な成績を収めた事でありましょう。社会に出て、一定の収入とポストを得てしまえば、学びなど必要ではないのだ。そんな風な顔をして済ましているのが、普通の社会人でありますが、私は学びの達人であります故に、所謂学業生活を終えた地点から、本当の学習生活がスタートすると心得ていたのでありました。 私は様々なタイプの人々と出会い、色々な恩義に預かっております。勿論、思い出しただけでも反吐(へど)が出てしまう様な実に嫌な奴とも一時期顔を突き合わせなくてはならない憂き目にも合いましたが、概して人間関係では恵まれていたと、感謝の思いで一杯であります。 それは私が、孔子様の言葉を借りれば、仁の精神を以て他者と接したからにほかならない。そう思っています。キリスト流に言えば、まず与えよ、さらば汝にも、与えられるであろう、の精神を、巧まずして実践した賜物なのですね。 今の私は非常なオプチュニスト、人生肯定論者、人性性善説支持者、女性崇拝者、などなど、人間を百パーセント無条件に肯定し、賛美する者でありますが、若年の頃には全く正反対の暗い人生観、絶望的な人間観を抱いて希望のない毎日を送迎しておりました。 私を根本から変えた 観世音菩薩 に例えるべき女性・悦子の出現が、私を生まれ変わらせた。と、言うよりも本来の私に立ち戻らせてくれた。そう言うべきでありましょう。 つまり、私の家族がまず以て素晴らしかった。母親が美人で、賢夫人で、貧乏所帯を切り盛りしながら、中々の料理上手で、子供をこよなく愛して、何よりも夫を愛し抜き、どこまでも良い母親でした。父親もまあ素晴らしい男性でした。兄も妹も、姉も、皆が素晴らしかった。類は友を呼ぶとか、縁あって結ばれた伴侶達も皆素敵だし、従って類縁もまた、最高の人々と言えましょうか。 もうひとり、能村庸一氏がいましたよ。氏は巧まずして人生をエンジョイし尽くした、塚原卜伝の如き人生上裡の英雄豪傑とも称すべき、ものすごいお方でした。その様なお方に愛され、認められ、友情を終生にわたって育む事を許されたのは、私の誇りとするところであります。 私が誰彼の区別を設けずに、私の真心・仁を以て一心に接し続けたからこそ、様々な素敵な人々と出会うことが出来たのだと思っています。人との出会いとは、結局相互の心の響き合いが叶ったか否かにあるので、ただ物理的に顔を合せ、ある一定期間同様な行動を共にしただけを意味しません。つまり、つまりは知識として、かく生きるべきと承知をしていても、それが即行動として実行されなければ、知識は、或いは行動の原理は生きた意味を発揮しないわけであります。 私は、学んだことを実践しようと心掛けてはいましたが、それが功を奏して素晴らしい邂逅を生み出したのではありません。何時も決まって「予期せざる」何物かが作用して、私の為になる何物かを産んでいた。 作家の長坂秀佳氏との付き合いもそうした一つでありました。長坂さんとは T B S の映画部のプロデューサーの橋本洋二氏から御紹介を受けて、新番組の企画書作りから急激に親しい関係に入りました。 長坂さんは非常に独特の個性の持ち主で、映画の世界に憧れて、工業高校卒業後に東宝撮影所に小道具係として採用され、その後も苦労して同じ東宝(株)のテレビ部へと転身し、更にフリーの脚本家になった。そしてその後めきめきと脚本家としての頭角を現して、相当の流行作家へとのし上がるわけですが、長坂さんが脚本家としてスタートを切ったばかりの頃に私は知人・友人兼、仕事仲間になったので、大変公私共にお世話になりました。 こういうエピソードがあります。長坂さんのお宅に伺った際に、たまたま彼の御母堂に御目にかかる機会があった。私はごく普通に御挨拶したのですが、後で聞くと「あのお方は、皇室の出ではありませんか」と息子に訊いたと言う。「秀佳の友人で、あんなに上品なお方は他にいないからね」と付け加えたとか。そう言えば、長坂さんは腕白小僧がそのままで大人になったような感がありました。業界でも各局の担当者と直ぐに口論を始めたり、中には暴力沙汰を実際に演じたりと、とても紳士的とは言えない振舞が目立つお方でしたよ。それが、どうしたわけか、皇室出の御坊ちゃまと非常に馬が合った。私と彼は喧嘩一つしない仲良しの仕事パートナーとして終始したのです。 序ですから申し上げますと、私は東京下町の「最後のガキ大将」を自称する、大人から見ると 手の付けられない 悪ガキ でした。と見たのは、大人たちの偏見でして、私の周りでは暴力は愚か、喧嘩一つ起こらなかった。つまり、私という存在が子供達のグループにあるだけで、平和が保たれ、男女の諍いも、弱い者虐めも発生しなかった。これが本当の餓鬼大将の名に恥じない、ボスの役割だった。 どうです、皇室出は実は下町の餓鬼大将の成れの果てだった。実は、長坂氏と私とは地方出と東京育ちとの違いこそあれ、周囲を無言で仕切るボス精神の塊のような人間だったからこそ、あんなにも馬が合ったのでありましょう。私達二人を称して「美女と野獣」または、「弁慶と牛若丸」と陰口した不届きな輩も居たとか、居なかったとか。此処でも暗に、同性愛者を暗示する符牒で二人の仲を中傷する意図が見えますが、フジの能村氏との交際でも、一寸見に不釣り合いな仲を、あたかも合理化するように、陰口が登場するわけであります。つまりは、私は非常に目立った存在だったが、一見すると敏腕プロデューサーには見えず、ちょこまかと業界をはしっこく動き回る、小才の利く小ネズミ的曲者としか評価したくない、負け犬のような連中が大勢いた。それが実相だったのです。何と嫌な、スケールの小さな小社会ではありませんか。 長坂秀佳の話をしたので、もう一人世間的には評価の高かった市川森一についても最後に触れておきましょう。私は「仁」を語る時に、それから最も遠い地点で生きた人間の一人として、彼・市川を思い出さずにはいられない。勿論、彼の人間としてよい所も人一倍よく知っている私です。 私は彼を脚本家と呼ぶよりは、希代のペテン師と呼びたい。私のような生真面目で、人を疑うと言う事を知らない純情青年を、悪辣至極なやり口で裏切った。その悔しさ、無念さは、言葉では表現できない。今は幽冥境を異にしている故人を鞭打つような言葉の制裁は、本当の所、振るいたくはないのですが、天国ではせめて天使たちを相手に、ペテンを働かないで、本来の真人間に立ち戻って呉れることを、切に願っている、嘗ての親友の言葉として、受け止めてくれたまえ。私は、このきつい言葉を、私の仁精神から発しているのであって、私憤を晴らそうためなどでは断じてない。少なくとも今の君は、私の真心を素直に受け取って呉れなくてはいけないよ。市川森一の霊に合掌!
2021年01月28日
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今回は「日本書紀」について書いてみようと思います。 御承知の如く、神話の神代から第四十一代持統天皇まで、それぞれの天皇の事績が年代順に記載されている、日本で最初の正式な歴史書であります。また、同時期に「古事記」が編纂されていますが、その違いは目的の違いで、日本書紀が外国向けに作られたのに対して、古事記は国内向けに作られている。共に、天皇家の支配の正当性をアピールするものとされます。地域ごとの首長国を束ねるだけの倭王権が、周辺の東アジア諸国と影響し合う中で、古代国家へと成長する過程こそが、この書が編纂された時代的な背景だった。 日本書紀の記述で特徴的なことは、当時の国際語であった漢文で書かれている事であります。従って編纂には中国人が加わっていると言われています。古事記が日本に固有の古語という言葉を大切にして、可能な限りそれを保存しようと努めたのとは好対照をなしている。また、神話の部分が著しく簡略化されているのも、特徴の一つであろう。日本書記、古事記ともに、典拠とした資料が同一な部分が多かったために、記述されたエピソードは類似な物が大多数を占めている。 私は、古事記をかなり詳しく読んで、稚拙ではあっても、現代語訳を試みた過去がありますので、熟知した説話が日本書紀にも出てくるので、書紀では割愛されている物語のとても魅力ある部分が、何だかもったいないような気持になったりします。しかし、先進大国の中国の歴史書と肩を並べるべく、国家的な意図をもって企画されている以上、私的な物語に始まる、神話的なエピソードは可能な限り簡略化しなければ、目的には合致しなかったことは、容易に納得できるのです。 納得は出来ても、歴史を純粋に楽しもうと待ち構えている私のような素人愛好家には、古事記が大切にして収録している楽しく、魅力ある、語る喜び満載の、従って、聴き手である( 文字化される以前は、語り部と呼ばれるプロの職業集団が代々、口承で伝えてきているので、読者ではなく、聞き手である )人々をいかに楽しませて、巧みに物語世界に引き込むかに、専ら情熱が注がれて、洗練の度を時代が下るにしたがって増すという、嬉しい限りの進歩発展こそ、真の聞き所、読み所であるわけであります。 つまりは、歴史と言えども、いや、歴史であるからこそ、無味乾燥な所謂事実の羅列であってよいわけはなく、楽しく、エンターテインメント性に富んだ、語りであり、叙述である必要性が必須になるのだ。 源氏物語の中で光源氏が、「日本紀なぞは、片側(そば)ぞかし」と正式な歴史書を、女子供が愛玩する物語類の下に置いて、娯楽を実用や公務などの権威の上に置く、至極尤もな発言に、私ももろ手を挙げて賛成したい。人間の真実、人間性の秘密の宝庫、それが結局は本当に人々の心を掴み、動かし、正しい行動へと駆り立てる原動力となることは、紛れもない事実であろう。 天皇家を神格化し、同時にその支配を正当化する、国家的な大事業、など、当時の東アジアに於いて国家的な権威を確立する野望は野望として、それは結局、一大豪族の権力拡大の手段でしかなく、物語の芸術性尊重の視点からすれば、途轍もなく野蛮で、恣意的に過ぎるエンタープライズと言わざるを得ない。結果として、生き生きと、根源からする生命の息吹という、極めて大切な物を矯めて、命のない、従って精彩の失せ切った、形骸だけの遺物の羅列の観が、無きにしもあらず。そう言ってしまったら言い過ぎであろうか。否であり、然りであると、ここは体を躱しておこうか。 ここでも、一寸御断り致しておきますが、私は全く私的な立場で、極めてフリーな物言いをしているのであって、例えば、教室とか、講演会などの公的な場では、絶対に発言する事はない事柄を、勝手に述べているにしか過ぎませんよ。それも、日本書紀が利用した資料の説話集の精神を大切にしたいと心掛ける物語愛好家の一人として、発言しているもので、それ以上でも、それ以下でもありませんので、お含みおき下さいな。 そもそも、物語とはその性格上極めて私的な場での、極めて個人同士の親密な語り合いの中から発生し、継承され、発展を遂げていくという性質上、尤も私的で、個人的なものであります。である以上は、それが少しでも外部的、公的な場に持ち出されて来た場合に、その固有の性格を変化させずにはおかない。その極端な例が、国家がその公的な権威を最高度に発揮して、歴史書作成などという、およそ物語とは性格を異にする舞台に無理やり登場させられた際に、もうそれだけで、物語が本来持っていた素敵な、魅力ある特徴を、何処かに置き去りにしてこなければ、その強制的に発揮させられる役割を果たすことは出来ないわけで、エンターテインメント至上の物語は既にその生命力を根源の所で、絶たれてしまっていると言わざる得ないのだ。 従って、光源氏の物語に関する称揚の言葉はまさしく正しかったのであり、命あるものが死体に等しい記述の権威的で、厳めしい外見に少しも気圧されたりせず、徒手空拳で勝利するのは当然過ぎるくらいに当然な、言わば自明な事柄だった。 私の言いたいのは、歴史などと大層らしくいった所で、王などと呼ばれる覇王や最高支配者の主だった業績を羅列する記述に過ぎず、それが庶民のひそやかで、慎ましい日輪や月輪の下で、母なる大地に見守られて行われる人間味溢れる地味な生活より勝っていると判定する確たる根拠など、何処にもないのである。 私が日本史と言い、中国史、乃至は世界史と言って若い頃に繰り返して学んだ内容は、主としてその地域で勢力を最大限に発揮した Sacred king や War king などの業績を主体としたエピソードの集積であり、支配され、収奪された庶民たちの生活や文化に関しては、申し訳程度にしか言及されてはいないのだ。 支配する側だけが大切であって、それを支え、盛り上げる底辺は無視される。それが、御大層に歴史などと名乗って幅を利かしている。ならば、命のない、精彩のない、無味乾燥な内容に大した意味を感じ取れずに、単なるお飾りとして、外見上は如何にもにぎにぎしく、そして虚仮脅かしに過ぎない文章のオンパレードと化している現状の歴史書などに、大した意味をくみ取る事など不可能である。 三度目に、強調して言おう。私的な場で、生き生きと、密やかに、しかし力強く語り伝えられて人々の心に脈々と真の命を繋いで来た 物語 に、躊躇なく軍配を上げようではないか。 物語は、私的で、個人的な狭い範囲のものであるが故に、歴史書などが及びもつかない、普遍性や宇宙的な広がりをすら獲得する。この、支配階級から見た時には非常に皮肉で、パラドキシカルな現象は、人は驕り昂ぶることなど許されておらず、ただ、絶対者によって創造され、表現され、踊らされる木偶の坊にしか過ぎない存在だと、改めて襟を正すように求められている事を、明らかにしているのである。 以上で私の日本書紀を読んだ印象は尽きるのですが、私の主張、私的な物語は権威ある公的な歴史書に勝る、の実例になるかどうか、非常に心もとないのでありますが、私の体験して心に銘記している事柄をお話し致します。 私が接した子供たちの中で強く感じた事、それは親の子供に及ぼす影響力の強大さと言う事でありました。そう、ごくごく当たり前な事であります。「親に、私の生殺与奪の権を、握られている」、これは或る実に気の毒な高校生が、胸に秘めていた悲痛なる叫びの声でありました。生殺与奪などと、古めかしい表現でありますが、実感は超現代の感覚なのでして、ボクが生きるのも、また死ぬのも、親の気持ち次第でしかなく、その親の心はまるで氷の様に冷たく、その絶対的な影響下にいるボクは、毎日生きた心地が全くしないのだ…、誰か助けてください!。 これは、私のような傍観者の目から見ては、ただ仲良く暮らしている平和そのものの家族の、性格の良い青年の抱いていた極めて切実な悲鳴なのであり、誰かに伝える事など不可能と諦めていた願いなのでありました。良き母、善き父、そして善良を絵に描いた如き若者。それが一体どの様な悪魔の働きで、この様な修羅の嵐に飲み込まれてしまったのか! 風が吹けば桶屋が儲かるの譬えではありませんが、小学生たちが悪戯半分に苛めを試みた、言ってみれば些細な行為から始まった事。 苛めが原因ではありませんが、母親が「氷の様に冷たい態度で接した為に」学習障害に陥っていた小学生がいます。学校の担任から「お宅のお子さんは、普通の学校では対応が出来ませんので、精神障害者などを受け入れる学校に入れた方が、お子さんの為になると思います」と告知された一人の御母さんがいました。人一倍聡明で、男勝りの美人の母親は、家の子供が知恵遅れで絶対にないと確信していましたが、現に学校でのテストではゼロ点ばかりの惨憺たる成績ですから、担任の言い分に反論など出来ません。 様々な学習塾を試した挙句に、最後に授業料は高いけれども成果を上げているらしい学習塾にたどり着いた。 その塾でも大半の講師が匙を投げてしまったが、一人だけ進んで担当を引き受けた変わり者の、教師らしくない、従って講師らしくない講師が登場した。それが私でした。私は自分の孫か曾孫位の年齢の生徒と目線を同じにして対したのです。なにしろ、精神年齢万年十歳ですから、その生徒と少なくと精神的には同年代です。詳しい経緯は企業秘密ゆえに省きますが、ほぼ二年程で、その生徒が知恵遅れではないことを見事に実証して見せました。「先生、うちの子、テストで百点満点を取ってきました」、そう言うお母さんの声が、喜びで震えていました。私は、当然の事をして、当然の結果を得たのですから、平常心でありましたが、やはりお母さん以上に嬉しかったですよ。 最後の締めに、やはり一種の知恵遅れとの烙印を、学校の教師を始め、両親からも公認されていた中学生を、私は見事にひっくり返して見せましたよ。お断りいたしておきますが、以上記述したのは、似たようなお子さんが世の中には大勢いるに間違いないので、世の大人達に警告を発するのが主たる目的であって、私個人の手柄話を吹聴しようとの狭い根性からではありません。また、私は精神一到何事か叶わざらんと蛮勇を振るうのが癖で、最初からなにがしかの成算があって事に臨む人間ではないのであります。私が生徒とともになしとげた 奇跡 は、神仏が仲立ちして仕上げを施されたもので、人間の手柄と見えて、さにあらず。人に出来ることは、ただ一心不乱におのれに与えられた「悩みや障碍」に体当たりする一事だけであります。 さて、問題の中学生ですが、御両親が実は外国人で、実の親ではなかった。謂わば、生まれながらに言葉のハンデを負って生活していた。その上に、弱視に近い、こちらは本当の障害を抱えてもいた。 この生徒との出会いも、神仏がその様に仕組まれたとしか、今では考えることが出来ない程に、生徒は私に出会っている。尋常ならざる邂逅だった。特別に優しく丁寧な教えを以て知られた「古屋先生」が、別人の如くにスパルタに徹して教育する。声を荒げ、暴力を振るわんばかりにして生徒に対している。何事が起こったのか、と教室中が耳目を集中させている。詳しく書き出すと長くなりますから、省略します。 実の親が暴力を振るって自分の子供にせっするのと、義理の親が撫でさするのとは、同じくらいの愛情だと、私の母が幼い頃の私に諭した記憶があります。親でも、義理の関係でもない、全くの赤の他人が、それも現代のまやかしの愛情教育がまかり通っている御時世の中で、学習塾という微温的な商売環境中で、暴力的な言動で生徒に臨み、真の教育効果を上げる。これだけで、人間業ではありませんよ。それを私は自然に、普段の極めて温厚一筋の真綿の如き扱いを豹変させ、相手の生徒は文字通りに涙を流しながら講師の愛の鞭を受け止めて、成績を飛躍的に伸ばした。生徒も立派だったが、この場合に一番立派だったのは、私でありましょうか。 人間の世界では誰一人、私を褒めてくれる人はいないのですが、神仏が「あっぱれ!」と称賛してくださいましたね。それで、十分と言ったら神仏から御叱りをうけるでしょうか。
2021年01月26日
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今回は、芭蕉の「奥の細道」を私なりに味読してみようと思います。 ( 蛤・はまくり の ふたみにわかれ 行・ゆ く 秋ぞ ) ― 草の戸も 住替・すみかわる 代・よ ぞ ひなの家 ― 行春・ゆくはる や 鳥啼・とりな き 魚・うを の目は 泪・なみだ ― あらたふと 青葉 若葉の 日の光 剃捨・そりすて て 黒髪山に衣更・ころもかへ(曾 良) ― 暫時・しばらく は 瀧に籠るや 夏・げ の初・はじめ ― かさねとは 八重・やへ 撫子・なでしこ の 名成・ななる べし(曾良) ― 夏山に 足駄を拝・をが む 首途・かどで 哉・かな ― 竪横の 五尺にたらぬ 草の庵・いほ ― 啄木・きつつき も 庵・いほ は やぶらず 夏木立 ― 野を横に 馬索・ひきむけよ ほととぎす ― 田・た 一枚 植ゑて立去る 柳かな ― 卯・う の花を かざしに 関の晴着・はれぎ かな ― 風流の はしめや おくの 田植うた ― 世の人の 見付けぬ花や 軒の栗 ― 早苗・さなえ とる 手もとや 昔・むかし しのぶ摺・ずり ― 笈・おひ も 太刀・たち も五月・さつき に かざれ 帋・かみ 幟・のぼり ― 笠嶋・かさしま は いつこ さつきの ぬかり道 ― 桜より 松は 二木・ふたきを 三月越シ ― あやめ草 足に結・むすば ん 草鞋・わらぢ の緒・を ― 松島や 鶴に身をかれ ほととぎす(曾良) ― 夏草や 兵・つわもの どもが 夢の跡 ― 卯・う の花に 兼房・かねふさ みゆる 白毛・しらが かな ― 五月雨・さみだれ の 降りのこしてや 光堂 ― 蚤・のみ 虱・しらみ 馬の尿・しと する 枕もと ― 涼しさを 我宿・わがやど にして ねまる也 ― 這出・はいいで よ かひやが下の ひきの声 ― まゆはきを 俤・おもかげ にして 紅粉・べに の花 ― 蚕飼・こがひ する人は 古代のすがた哉(曾良) ― 閑・しずか さや 岩にしみ入・いる 蝉の声 ― 五月雨・さみだれ を あつめて早し 最上川 ― 有難や 雪をかほらす 南谷 ― 涼しさや ほの三か月の 羽黒山・はぐろさん ― 雲の峰 幾つ崩・くづれ て 月の山 ― 語られぬ 湯殿にぬらす 袂・たもと かな ― 湯殿山・ゆどのさん 銭ふむ道の 泪かな ― あつみ山や 吹浦かけて 夕すずみ ― 暑き日を 海にいれたり 最上川 ― 象潟・きさかた や 雨に西施・せいし が ねふの花 ― 汐越や 鶴はぎぬれて 海涼し ― 象潟や 料理何くう 神祭(曾良) ― 蜑・あま の家・や や 戸板を敷きて 夕涼(低耳) ― 波こえぬ 契・ちぎり ありてや みさごの巣(曾良) ― 文月・ふみつきや 六日・むいか も つねの 夜にはにす ― 荒海や 佐渡によこたふ 天河・あまのがは ― 一家・ひとつや に 遊女もねたり 萩と月 ― わせの香や 分入・わけいる 右は荒磯・ありそ 海 ― 塚も動け 我泣・わがなく 声・こゑ は 秋の風 ― 秋涼し 手毎・ごと に むけや 瓜・うり 茄子・なすび ― あかあかと 日は難面・つれなく も 秋の風 ― しほらしき 名や小松吹・ふく 萩すすき ― 無残やな 甲・かぶと の下の きりぎりす ― 石山の 石より 白し 秋の風 ― 山中・やまなか や 菊は たおらぬ 湯の匂・にほひ ― 行・ゆく行・ゆ きて たふれ伏・ふす とも 萩の原(曾良) ― 今日・けふ よりや 書付・かきつけ 消さんん 笠の露 ― 終宵・よもすがら 秋風聞くや 裏の山 ― 庭掃・はき て 出・いで ばや 寺に散・ちる 柳 ( 終宵・よもすがら 嵐・あらし に波をはこばせて 月をたれたる 汐越の松 西行 ) ― 物書・かき て 扇・おふぎ 引・ひき さく 余波・なごり 哉 ― 月清し 遊行のもてる 砂の上 ― 名月や 北国・ほっこく 日和・ひより 定・さだめ なき ― 寂しさや 須磨にかちたる 浜の秋 ― 浪の間・ま や 小貝・こがひ にまじる 萩の塵・ちり ― 蛤・はまくり の ふたみにわかれ 行・ゆ く秋ぞ これは読んで直ぐ分かるように、奥の細道の俳句だけを拾い出して並べてみたものです。意味がよく分からない所があっても、何度か音読して下さい。有名な句もあれば、そうでない句もありますね。しかし、私は何度も読むうちに芭蕉の魂が呼びかけるのか、どの句も捨てがたい程に素晴らしい名句だと、感心してしまいました。親友・河井曾良と同行二人で東北を、裏日本を、そして金沢辺りからは仲間とも別れて独りっきりで旅を続ける。何か人生を象徴する行程ではあります。 わざわざ私がお断りするまでもなく、実際の紀行文の体裁を取ってはおりますが、全体は血のにじむような鏤刻、推敲に推敲を重ねて創作された文章による絵巻物なのであります。天の川を詠み込んだスケール壮大なものもありますが、遊女、蚤や虱や蟇(ひきがえる)、馬の尿、田植え歌、衣更えや遊行の行者などの庶民の生活に密着した風物などをフューチャーした俳句が主体であります。 旅に病で 夢は枯野を 駆け廻る 命ふたつの 中に生きたる 桜かな の絶唱を創作する前奏曲の如くに私には思えるのです。 ここで私流の、伝統的な解釈を踏まえながら、意図的に誤訳や拡大解釈を持ち込む、創作的な鑑賞をこの「奥の細道」にも加えて見たいと思うのであります。西行柳を踏まえた 田一枚 植えて立去る 柳かな の句は、明らかに 道のべに 清水流るる 柳かげ しばしとてこそ 立ちとまりつれ(西行法師) を頭に置いて詠んでいるのですが、私流は乱暴狼藉的な鑑賞法を勝手に持ち込んで、万葉歌人の大伴家持の鋭く近代を先取りした「 我宿の いささ群竹 吹く風の 音のかそけき この夕べかも 」、 「 春の野に 霞たなびき うら悲し この夕かげに うぐいす鳴くも 」、「 うらうらに 照れる春日に ひばり上がり 心悲しも ひとりし思へば 」と明瞭に響き合っているのを肌で感じつつ、更には同じ万葉家人の額田王の 「 あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る 」、「 熟田津に 船乗りせむと 月待てば 潮も適ひぬ 今は漕ぎ出でな 」をも連想させてくれるし、極端な話では雪舟の絵や、若冲の超微細画をも彷彿とさせるエネルギーを潜ませている。私の独断とばかりは言い切れない和歌や連歌、そして俳諧へと変化発展を遂げる文化の豊穣さの裾野には、様々、色々の含蓄・ニュアンスが入り込んで、イメージをいやが上にも膨らまさずには置かないかの如くであります。さすがに、ボードレールの「悪の華」やアルチュール・ランボーの突き抜けた近代詩の傑作との響き合いまでは強引に引き合いに出さないにしても、出しても一向に構わないと正直本心では思っているのですが、イエスキリストの名言とは、明らかに音色を同じくしている。と、感じる人には感じ取れる体の、味わいは秘めて存在している。 年闌けて また越ゆべしと 思ひきや 命なりけり 小夜の中山 ( 西行 ) の一世一代の名吟は私の常日頃愛唱する和歌でありますが、芭蕉もこれを一つの目標にして俳句道に精進したに相違なく、業平の ついに行く 道とはかねて 聞きしかど 昨日今日とは 思わざりしを の絶唱中の絶唱と相俟って古今に絶した一代の名俳諧師・桃青松尾芭蕉の血の滲む様な努力を必然のものとしていたことは、論証の余地もないほどに、明明白白であります。 松尾芭蕉(1644 ー 1694)が目指した詩境の高みはそれ程に崇高にして、敢えて言えば宇宙的な広がりを結果として持っているのでして、従って、鑑賞者の力量次第では芭蕉自身が夢にも想い設けなかった世界が突如として姿を現して、私の様な風変わりな 風狂者 をも驚かせてくれる。人生の持つ奥深さや複雑さにも気づかせずには置かない「かぶき方」を、そもそもしているわけでありまして、例えば、現代の俳人・金子兜太の「 若駒の ふぐりは風に 吹かれけり 」のユーモアも遥かに凌駕するスケールの大きさを巧まずして豊富に内包して、決して人を飽きさせない温かみをも備えていた。 僭越ながら、芭蕉は簡単に超えられるが、一茶はそうはいかない、と発言されていましたが、それはいかがでしょうか。一茶を賞揚しようとする余りに、芭蕉を過小に見過ぎていると、断定しておきます。、 芭蕉は一座した俳諧仲間に気を配り挨拶している以上に、中国古代の詩人を始め、先輩歌人諸々に挨拶を送っている。勿論、時代の空気を謳歌している西鶴や近松にも気配りを忘れていないと、私は勝手に決め込んで芭蕉に向き合う。だから、国文学の専門家や、俳句実作者その他のプロフェッショナルとは異なる気儘勝手なアマチュア、無軌道なディレッタントの流儀を押し通して、憚るなどという洗練された都会人士の塵一つ寄せつけない洒落たペイブメントは歩かない。例えば、グロテスクな蟇に象徴される土俗的な土地の精霊とも心を容易く通わすことが、出来るだけでなく、それこそは軽みや滑稽味をエッセンスとする俳諧精神の土壌に直結するエスプリなのであると、固く信じているのです。 空海は宗教界の一大偉人でありますが、現在でも「同行二人」と書いた笠を身につけて四国遍路を絶やさないお遍路さんたちの一所懸命な姿は、むしろ芭蕉たちの行先知れぬ野の果での野垂れ死に精神と、酷似していることは、紛れもない大和魂の発露と見えて来るではありませんか。 芭蕉もまた、人生を如何に生きたら良いかを命懸けで追求して止まなかった求道者、純粋な宗教家と見做して一向に差し支えないばかりか、日本人の魂の原点には常に一刻で、生真面目一途な 純粋無垢な神仏探求者の面影が仄見えている。 純粋でも、真面目一途ではありませんが、不肖、この私も又知らずして芭蕉が追求して止まなかった一筋の道を、辿っている一人なのであります。 今朝の夢に、嬉しい神・仏のお告げの声を聞きました。お前は間違った道を歩んでなどいない。怯まずにお前の信ずる道を行け。翻訳すると、大凡その様な意味合いの勇気付けでしたね。夢は逆夢とか一般に言われていますが、夢見が悪く、嫌な気持ちになることの方が多いので、それをこじつけで、夢は逆夢なのだから安心しようと、元気づけたものでありましょう。だから、滅多にない縁起の良い夢の時には、夢は時に正夢と自分の都合の良い解釈を用いて、自己暗示に使用する。誰にも迷惑を及ぼさず、自分が良い気分になれるのであるから、それを用いない手はないのである。 私はしみじみ幸せ者だと実感する。吉田善平さんの事を最後に書いてみようと誘われました。善平さんは名前の通りにどこからどこまでも善人でした。悪意のない助平男でしたよ。女性(にょしょう)をこよなく愛して、人間の善性を全的に信じて五十を前にして若死にしました。私がプロデューサーとして曲りなりにも独り立ち出来たのも、彼が会社の先輩としていてくれて、私の入社を待ち受けていてくれたかの如き行動をとってくれたからこそでありました。私を、有能な後輩として、弟分として存分に可愛がって、慈しんで、天国に旅立って行かれた。感謝、感謝であります。私が誰彼の分け隔てなく後輩を優しく接したのも、この善平さんの行動を無意識に見習ったものだと、今過去を振り返ってみた時に感じることです。人生は泣いても笑っても、短いのであります。人との出会いを大切に、悔いのない人生を送りたいものです。遅ればせながら、吉田善平氏のご冥福を心より念じたいと存じます。
2021年01月21日
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三番目、 幼さは 結婚さえも 遊戯(あそび)にす わが魂(たましい)は 不能(インポ)なりせば これはフィクションなしの全くの実話ですが、体験した私自身が狐にでもつままれたのではないかと、訝しく感じたくらいに不可思議千万な成り行きですので、詳しく述べれば述べるほどにホントらしさから離れてしまう嫌いがあるので、大きく端折ります。それと、当事者にとってだけでなく、周囲の関係者にも迷惑を及ぼす虞(おそれ)もあることですので、そうするのが礼儀でもありましょう。 題して「築地物語」。私がある料亭の一人娘と結婚して、逆玉の輿と陰口されたのですが、戸籍の上だけで六ヶ月の実態のない結婚に終止符がうたれました。原因は、私のインポテンツと言う事でした。或る下品な、と言うよりは非常に下卑た初老のデスクが、「古屋ちゃん、聞いたよ、あんた、インポなんだって…、道理で…」と、獲物を前にした狼宜しく、今にもヨダレを垂らさんばかりにして、好色そのものの両の目で、私の顔を舐め回した。無論、私は終始無言で、相手にもしなかった。世間というものは、こうしたものと、世間知らずのお坊ちゃんも、少しずつ知恵がついてきていましたから。 所で、事の真相ですが、ハニムーンベイビーという言葉を生まれて初めて当時耳にしたのですが、結婚相手はそれを恐れる余りに、私との肉体交渉を理由も告げずに拒否し続けた。そんな事とは露知らない私は、理由はわからないにしても妻から夫婦としての営みを拒絶、それも頑強に突っぱねられたので、手篭には出来なかっただけにしか過ぎない。私は戸籍上だけの妻の母親の悲しい過去を聞いていました。地方の有力者で富豪の息子に見初められて、それこそ絵に描いた如き玉の輿に乗ったのですが、相手のドラ息子は結婚式の当夜から芸者遊びで外出するという、手の付けられない放蕩ぶりで、いたたまれなくなった母親は実家に逃げ帰った。しかし、お腹には放蕩三昧の亭主の子供を身籠っていた。郷里には居づらくなった母親は、単身上京してその美貌と才覚とで周囲が驚く程に蓄財して、小さいながらも築地という一等地に料亭を構えるまでに出世した。私の如き世間知らずでも、女の細腕一本で銀座のホステスを皮切りに、一国一城の主にのし上がる為には、どれだけの血と汗の滲む苦労を重ねたか。容易に想像がつこうと言うもの。私は正直、この母親の苦闘話に心底ほだされてしまった。娘の不幸な生い立ちにも深い同情を抱いたのですが、私好みの年上の女性が、この見合い話から婚約、そして結婚へと進展した結婚の、謂わば最後の切り札になった。仕事のパートナーとして私の身近にいて、実の兄以上に私の事を愛してくださっていた C X の能村庸一氏は、私にこう言ったものです、「古屋ちゃん、頼むから、あの母親と男女の仲になる様な真似は、しないでおいてね」と。私は不遜にも不幸な母娘の縁の下の支えになってやろうと密かに覚悟を固めていたので、世間の陰口が想像する、財産目当ての婿入りを目論んだわけではなかったのです。私には、そうした安っぽい浪花節的な人情に絆されるという弱点があった。 最後は、「高田馬場物語」 深夜です 愛しています 死ぬほどに 恋告げ電話 夜明けまでなり これも私が実際に体験したのですが、不思議と言えば不思議な話で、リアリティが希薄で、知人が言いそうな言葉が聞こえて来るようです、「古屋な、そういう事があったらいい。そう思う君の気持ちは分からなくもないが、そんな子供だましな話は、安っぽいテレビドラマでも通用しないよ」と。 兎も角、一応の顛末を掻い摘んでお話しましょう。或る深夜に、聞きなれない女性の声が、受話器の向こうから親しげに語り掛けて来た。「私、モデルをしている F M と申します。古屋さんの御友人から御紹介を受けて今お電話差し上げているのですが、結婚を前提にお付き合いをお願い致したいと存じまして……」、相手は淀みなく素敵な声音で話し続ける。私はかなり酩酊している上に、ハードな仕事のスケジュールで疲労困憊している。いい加減な相槌を打ちながら、適当な所で受話器を置こうと考えているのだが、相手の美人(らしい)はその隙を中々あたえてくれない。こうした事が連日連夜に及び、相手は電話だけでは満足できずに、直ぐにでも会いたいと猛烈なモーションを掛けて来る。不思議なもので、最初は正直迷惑だったものが、家に帰って電話が掛かってくるのが楽しみになった。ついつい気が付くと明け方近くになっている。私の事は離婚歴を含めて、仕事の関係まで、かなり詳細な情報を得ているらしい。彼女の言によると、直接に仕事をしたことはないながらも、容貌や服装その他、仕事仲間の誰それとも交流があって、私にゾッコンで惚れ込んでしまっていると恥じらいもなく明言するのだ。 とうとう、相手の情熱に負けた形で、深夜喫茶で会う約束をして、高田馬場駅近くのその場所まで行くと、彼女が、店の前で待っていた。「私の部屋が、この近くですから」と言って彼女は先に立って案内する。高級なマンションの一室であった。 彼女には東南アジア人の恋人がいたらしかった。その男性の写真を私に見せて、その場で破いて見せた。これで、自分はフリーですから、私さえ良ければ直ぐに結婚出来る身だ、と言うのだ。 私は身動き出来なくなってしまった。深夜であり、独身を名乗る美人モデル。当然に肉体的な経験は経て来ている。それも、相手は自分の方から私を招じ入れている。私にしても直接に会うのはこの時が最初だとは言え、かなり長時間にわたる電話での会話のやり取りがある。謂わば、絶好の 据え膳 が目の前に据えられた形である。私には、行動に移る「勇気」ではなく、意欲が湧かなかった。あれこれと、彼女のよくは分からない情熱だけは感じられても、一晩だけでも相手を抱く気に、正直なれなかった。 彼女は突然声を挙げて泣き出していた。そして、「帰ってください」と涙に咽びながらに小声でいった。私はすごすごと、悪いことをした人間の様に、肩を落としてそのマンションを後にした。それきりで、この実に奇妙な恋は終局となった。何故、私は彼女のいいなりにならなかったのか。自分にも解らない。しかし、本当に自分らしい行動だったと感じている。私の肉体ではなく、精神・たましいは生来インポテンツなのではなかろうか。そんな風に、漠然と感じているだけだ。 最後に、 与えるも 奪うも同じ 恋愛(あい)ならば 我は与えん 生命(いのち)の限り K さんと呼んでおきましょうか。私の方からすれば、恋ではなかったのですが、K さんからすればある意味で大恋愛だったのではないかと思われる、心の交流であります。 K 嬢との出会いは九州の博多でしたから、題して「博多物語」と名づけておきます。フジテレビの特別番組「西海道談綺」で大分県一帯を大ロケーションした、私には忘れられない時代劇ドラマでした。松本清張原作で松平 健主演、中村敦夫・丹波哲郎・古手川祐子などの共演で、予算も配役も劇場映画そこのけの娯楽巨編でした。 この番組の制作を裏から支えて下さった女性が K 嬢だった。彼女は松平 健さんの大ファンで、ファンクラブには属さずに独自の応援活動を続けていた、松平さんにとっても特別なファンだった。 こんなエピソードがあります。彼女は横浜にある或る大病院の一人娘で、両親は亡く、祖父の院長先生が親代わりに育て上げ、自分の後継者にと選んだ東大卒の俊才を孫娘の婿にして、病院の経営を継続しようと目論んだのでした。ところが、K 嬢は結婚式の式場から、松平 健さんが主演公演していた劇場の楽屋に花嫁の振袖姿で逃げ込んでしまった。 このエピソードは私と K 嬢が大分親しくなってから、本人から直接に聞かされたものです。 さて、前置きが長くなりました。彼女との最初の顔合わせは、番組の宣伝も兼ねた西日本放送とフジテレビの合同制作発表会のあった、博多の夜であります。発表会の後、西日本放送の名物プロでューサーに博多の名物料理屋などを案内されたのですが、かなり酩酊状態だった松平さんが、マネージャーに「K を呼べ、K を」と命じたのです。その博多の夜が、私と彼女との最初の出会いでしたが、それはほんの顔見せにしか過ぎませんで、大分県での撮影が開始された直後くらいに、国有林での神経を使う撮影の最中に、関係者以外には立ち入り禁止のエリアに、彼女が高級車でものすごいスピードで乗り込んで来たのです。すんでのところで大事故が起こり、報道関係の格好の題材となるところでした。何しろこの作品は大分県が一丸となって協力体制を敷いてくれた作品でしたから。 で、私はその場に当然のように居合わせておりましたので、いの一番にその車に飛んで行って、彼女を怒鳴りつけたのでした。私にしては珍しい事でしたから、出演者もスタッフも吃驚したようであります。「すいません」と K 嬢は首を竦(すく)めて平謝りでしたが、私の怒りはなかなかおさまりませんでした。それはそうです。謂わば命懸けで臨んでいる一世一代の大作が、こんなアクシデントで傷が付いたのでは、泣くにも泣けないではありませんか。 所が、所がであります。後で聞くと、彼女はこの時の私の怒りの罵声に、心の底から痺れてしまって、この御方の作品なら私も精一杯応援させて頂こう。そう思ったとか。 何しろ彼女は、大病院の大先生の大切にする宝物の掌中の玉でありましたから、生まれてこの方人からチヤホヤされる事はあっても、叱られるという経験を持ったことがなかった。 彼女は生まれて初めて血の通った生きた人間の真心に接したと感じ、本当に嬉しかった。私は、今自分をお人形としてではなく、一個の人間として接してくれる人に出会った。それは、何物にも代え難い体験であった。私が思うに、この感情は恋とか愛など言った普通の感情を遥かに飛び越えた、尊く、有難い人間感情の一つであって、この様な純粋で偉大な感動は、なまじっかの人には享受できない種類のものでありましょう。 以来、彼女は傍から見ると一種異様と言って良い私への献身ぶりを見せてくれたのでした。福岡空港への愛車での送り迎え、現場間の移動に、彼女はまるでお抱えの運転手の如くに奉仕したのでした。 それは、最初知り合って間もなかった松平 健さんの目にも、異様と映ったようでした。あのプライドの高い裕福なお嬢さんが、あたかも奴隷の如くに奉仕し、仕えているのですから。ずっと後になってからの話ですが、当時松平さんも K 嬢が私と恋人のような特殊な関係に発展したと、勘違いして心配したようでしたが、すぐに誤解だと知ったそうです。 この K さんの事を書き始めたら限がなく、必然的に悦子の嫉妬を煽ることになってしまうので、ここは最小限度で留めておきましょう。K さんの御両親のことです。父親は九州のさる大地主の一人息子であり、母親は前に述べた横浜の大病院の一人娘です。二人は恋に落ちて K を儲けたのですが、結婚に関しては両者ともに両親から猛烈な反対を受けた。それが引き金になったのか、父親の方は間もなく病死し、それを知った母親は後追い自殺してしまった。K がそれを知らされたのは成人してからだという。 私はそれを彼女から聞かされて、一層彼女に対する同情を深めた。その上に、彼女は難病を抱えていて、それこそ世界中の病院を訪れたが、根治は不可能だと宣告されている。 彼女にとって湯水の如く使えるお金がなんになりましょうか。敬して遠ざけられ、お人形の様に可愛がられても、胸の痛みや、深い悲しみは拭うことは出来ないのであります。 その彼女が、この世に生を享けて最初にして最後の「人間らしく」普通に接した人間が、奇しくも私だった。彼女の献身や、異常な奉仕の姿勢は、謂わば必然だった。そう、私は納得して K に接したのですが、それが益々結果として彼女をして私の 虜 にさせてしまった。 以後、彼女は九州から飛行機で高級な明太子を私に届けたいと、黒ずくめの粋なドレス姿で、東京の私の元に駆けつけるなど、私の周囲から謎の女性として注目を浴びるなど、様々な話題を振りまき、果ては悦子を「お姉さま」と呼んで九州から度々長電話して来たりと、何かと私に関係して話題作りをしてくれています。 以上、読み返してみると、何か自慢話のオンパレードの様で気が引けてしまうのですが、何の誇張も嘘も交えずただ思いつくままに述べたに過ぎません。皆、一様に素晴らしく、チャーミングな女性たちでした。すこし冗談を交えて照れ隠しを言えば、私が今現代語に翻訳している源氏物語の主人公・光源氏に勝るとも劣らない 女性遍歴 を自分が閲してきたのだと確認して、吃驚仰天であります。しかも、光源氏は人の道に悖る大罪を犯しているのですが、私はその点でも潔白でありますよ。( どうです、すごいでしょう、へっへっへっ、へっ ) ご退屈様でした、お後が宜しいようで。
2021年01月16日
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今回は「大和物語」について書きます。 この物語は、歌物語の系譜に属するものですが、「源氏物語」や「伊勢物語」程にはメジャーではありません。平安時代の中期に成立したもので、「伊勢物語」が成立した後、天暦5年(951年)頃までに成立したと推定されている。登場する人物達の名称は実名、官名、女房名であり、具体的にある固定した人物を指していることが多い。通常では173段に区切られ、約三百首の和歌が含まれ、統一的な主人公はおらず、オムニバスの構成になっている。 作者は未詳である。 百一段の和歌 ―― くやしくぞ のちにあはむと 契りける 今日(けふ)を限りと いはまし物を(― 残念な事を言って約束してしまった、健康であってさえ何時とも知れない不定の命の中に、儚い泡の如くに生かされてある我々の生命であるのに、その事をつい失念して、また後にお会い致しましょうとなどと、気軽に約束してしまったことだ。もはやこれまでであると明瞭に死期を悟った今は、あの時に、今日限りでもうお目にかかる事は出来ません、どうぞ、お体御大切にお暮らし下さいと、惜別の言葉を述べておけばよかったと、悔やまれてならないのです… ) 気縄(すえなわ)の小将が親友の公忠(きんただ)に伝えた最後の便りに記した和歌である。 三十一段には、 よそながら おもひしよりも 夏の夜の 見はてぬ夢ぞ はかなかりける (― 逢うことが叶わずに別々に暮らしていて、一日も早くあなた様にお逢いしたいと恋焦がれていた当時の、恋心は今にして思えば、充実したそれでありましたよ、あの懐かしい夏の一夜にあなた様との嬉しい限りの逢瀬が叶った夢のような、めくるめく数時間。それも今となっては儚く、空虚に思われてなりません、確かにお逢いは致したのですが、無我夢中とはこのこと、自分が自分でない一刹那の如くに時は飛び過ぎ、無情の明け方を迎える、何て薄情で残酷な定めだったのか、それと前もって分かっていたのなら、あの期待や、希望に満ち満ちた、孤独な自分であった方が、どれほどに幸せであったことか、それも、再び三度、いや、夫婦として長く長く、末永く添える望みがあるのならばまだしも、もう金輪際お目にはかかれない宿命(さだめ)と判った時のあの絶望と、落胆。私はいっそのこと自ら命を絶ってしまおうかとさえ、思いつめたものです。しかし、ジタバタするだけで、遂に実行はできませんでした、それも未練ゆえでした、一度は確かにお逢い出来たのです、どの様に絶望的な状況でも、生きてさえあれば、二人の思いが変わらずにあれば、今生での再会がたとえ叶わなくとも、次ぎの世での逢瀬は希望が持てるというもの、せめて生きてこの世にある限りは、この夢だけは諦めずに大切にこの胸にしまっておこうと思うのです ) また、四十段に、 つつめども かくれぬものは 夏蟲の 身よりあまれる おもひなりけり (― 自分で恥ずかしさに、包み隠そうと心を用いているのですが、どうしても内側から光が漏れてしまうのですわ、今目の前で眩い光を点滅させながら空を飛んでいる、あの夏の虫・蛍ではありませんが、私の胸の中で燃え滾っている恋の火が激しいのです、恋の火は私の胸を焦がして、それだけでは済みそうになく、やがて私の身体全体を焼き尽くしてしまうに相違ありません。私は、それでよいのですが、貴方様は、それでも宜しいのでありましょうか、とても言葉になど出して言えなかったのですが、つい燃え盛る恋の炎に急き立てられて、こうして、三十一文字に表現して、貴方様の御意向を打診致さずにはおれませんでしたの、お分かり頂けるでしょうかしら… ) 百四段には、 恋しさに 死ぬる命を おもひいでて とふ人あらば なしとこたへよ (― 貴方様恋しさで、私はもう死んでしまいますわよ、それで宜しいのでしょうかしら。もし仮に、私のことを思い出して、尋ねて下さる奇特なお方がいらっしゃったならば、貴方様、どうぞこうお伝えしてくださいませ。あの女性は死んでしまった、と。そして、そのお方の流す涙に誘われでもして、薄情な貴方様も、もしかしたら、可哀想な女性だったと、一掬の涙を私のために流して、せもてもの私への餞別としてはくださらないでしょうか、如何でしょうか、これも無理なお願いでありましょうや。いや、いや、私の本音はそうでは断じてありません、もうおわかりでしょうが、自分でも随分と嫌味な申し分と存じておりますが、貴方様の随分と薄情な仕打ちに捻じ曲がってしまった私の心が、ついつい素直にはなれなくて、心にも思っていなかった憎たれ口を利かせているのです、どうぞ許して下さいな、そして、貴方様が一番良くご存知の筈の、あの素直で従順で、仔犬の様に愛らしい本来の私のことを、後生ですから思い出しなされて、今すぐに私のところに馳せ参じては下さらないでしょうか。貴方様の本当にお懐かしいお姿を心待ちにして、死になど致さずに一日千秋の想いでお待ち致します。どうか、お願いです、後生です、貴方様こそは私の全てなのですし、私も貴方様にとって全てであると信じます。お互いに意地の張り合いをして、相互に相手を傷つけるのはもうこれくらいで、止めに致しませんか。貴方様の為にせいぜいおめかしをして、貴方様好みの着物なども身に付け、お酒なども準備して、お待ち致しますので、どうぞ一刻も早くお運び下さいな ) この他、「大和物語」は上流人士を数多く扱った説話が載っておりますので、私流の深読みを施す機会を是非ともお持ちなさることをお勧めいたします。所で、私はこの物語にインスパイアーされて、次の四つの私にとっては忘れられない「恋懺悔」の小話をご披露致したいと思います。ご一読の上で、そのままお忘れ下さるようお願い申しておきます。 第一、「秩父物語」、 初恋は 音せず消えし 花火かな 秩父の夜空に 北斗七星 私が二十代の後半に経験したプラトニックラブの顛末です。彼女の名を実名でも一向に構わないのですが、一応 M と呼んでおきましょう。M とは友人の紹介で、花の銀座で初めて会いました。お互いに気が合ったのでしょうか、途中にインターバルがありつつも前後で三年程の交際期間をもちました。葛飾区にある水元公園の菖蒲田、新宿のマンモスバー、同じく新宿のフラメンコ劇場、都心のホテルのプールでの遊泳、彼女の実家のあった秩父での多くのランデヴー、聖夜の清いロウソクに照らされた教会、秩父夜祭の感激のデート、奥秩父への楽しいピクニック、などなど、幾つもの忘れがたい思い出が残っていますが、口づけは愚か手さえろくろく握ったが覚えがない。二人共に相手を前にするとシャイな気持ちが異常に前面に出て、そうなってしまっただけで、私にしても、彼女にしても不自然な態度を取り繕っていたわけでは、なかったのです。結局は、彼女に私が振られる形をとって、このプラトニックなラブは破局に終わった。直接的には彼女が乗馬の練習中に落馬して、左腕を骨折したのが原因で、私と結婚しても迷惑をかけるだけで、御荷物になるだけだからと、健気な心根の彼女の方が身を引いたのが、後で知った真相でしたが、私としては「もう、秩父には来ないで下さい」と、言われた言葉がいつまでも耳に強く残って、復縁を願うべき勇気を奮い起こすことが出来なかったのだ。ずっと後になってから M を私に紹介した友人の話ですが、M は私との事を忘れられなくて、ずっと独身を通し続けているそうです。「古屋さんは私の事を買い被り過ぎていたのですよ」と、 M は友人に語ったと言う。「古屋、M は相変わらず綺麗だったぞ」と、さも勿体無い事をしたと、窘(たしな)めるような口調で言ったものです。美人で気立てが良いことは誰よりも私自身が知っている事であります。彼女が誠心誠意私に向き合ってくれた以上に、私も全身全霊を以て彼女に対した。それだけは間違いのないこと。誰が悪いのでもなく、そうした縁だったので仕方のない事と諦めるのが本当だったと、ひりひりと痛む胸をさすりながらも観念する私なのでした。後から思い起こすと、 M との交際に関しては不思議な思いが数多く付き纏っている。心の中で、ここで、周囲に誰も見る者のない恋人同士なのだから、彼女を抱きしめて唇を押し付けてやらなければいけない。彼女もそれを望んでいるに相違ないと確信していながら、何故か行動に移れないのだった。 悦子と結婚して思ったのは、悦子の予知能力的な強力な愛情が、当時の私とM との素敵な関係に予め強力なバリアーを敷いて、妨害に及んだとしか考えられない現象でした。 さて、第二番目の「四谷三丁目物語」に移ります。馴れ初めは銀座のクラブでした。H はホステスで私は客という関係でした。このクラブを私に紹介して下さったのは TBS を定年で退職して、私の会社の常務取締役として迎えられていたとても人の良い、上品なご老人でした。私を事のほか贔屓にして、何かと便宜を図ってくれる私にとっては本当に有難い、恩人と呼んでも差し支えのない上役でした。 H の所属していた銀座のクラブですが、比較的年配者が多い客層で、それ程高級という程ではありませんでしたが、T B S 時代から重役が愛用していたアジトの様な場所でした。ですから、私の会社のプロデューサーでここに出入り出来たのは私だけでした。従って、私の H との密かな情事は紹介者の重役を含めて、誰ひとりとして知る者はいなかった。 一途なり 本能だけの 恋でした 愛の臥所は 清浄涅槃 きっかけはタクシーの中で突然に唇を奪われた夜に始まります。私は重役から、このクラブを利用した際には、閉店まで居て、ホステスさんの何人かを車で送るように言われていましたので、律儀にそれを励行していたのでした。最初は大塚駅の近くのホテルでした。次には、四谷三丁目のホテル。三回目からは彼女の自宅としていたアパートの部屋での逢瀬が継続することになったのですが、途中からは、クラブには行かずに、電話で「今夜、会いたい」とだけ連絡して、彼女の部屋のある駅近くの喫茶店などで、彼女の帰りを待つのが常になりました。お断りしておきますが、私は見かけも中身も謹厳実直を絵に描いたような真面目一方の青年でしたから、この様な秘密の愛人を持ち、濃密な情事を重ねているなどと想像できる人間は、私自身を含めて、この世には誰ひとりとして存在しなかった。 H ですが、不幸な過去を持っていました。子供が出来ない体だったので夫から離縁されたのでした。私よりは確か五六歳年長だった。昔から、年長の女性から愛の手解きを受けるのが、男にとっては最高の事なのだと聞いておりましたが、私は H のお蔭で最高の性教育を受けるという果報に預かることが出来、ハッピーでした。肉欲に溺れるなどと肉体的な性愛を獣欲などと軽蔑する向きがありますが、私の経験からはそんなことはない。プラトニックが純粋で清らかと形容出来るのなら、肉体だけの、精神の殆ど介入する余地のない恋愛も又、清浄で、涅槃にいる如き境地だったと実感致しました。神が作られた肉体であります。戸籍上の夫婦の夜の営みだけが清浄なのだ、などと誰が一体決めつけてしまったのでしょうか。不倫や、姦淫と呼ばれる肉欲は決して上等だとは、私も思いませんが、離縁された女性と独身の男が成り行き上で、自然に結ばれたのですから、人倫上でも少しも問題なく、全体から見れば少数の部類に分類されるでしょうが、不潔だとか、厭らしい関係だとか頭ごなしに蔑視する偏見は如何なものでしょう。 あれは、当事者の私達にとって祝福されて然るべき、正しい男女の在り方だったと、今でも信じています。 念の為に申し添えれば、H の存在は妻の悦子にも結婚してから後に伝えてありますし、西大久保のオンボロアパートの部屋に彼女から電話が入り、悦子の存在を知った H は以後ぷっつりと連絡を絶ってしまいました。彼女にはその様な潔さがあったのでした。
2021年01月12日
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新年おめでとうございます。今年が良い年であることを心より念願致します。 さて、「 月やあらぬ 春や昔の春ならぬ わが身ひとつは もとの身にして 」―― 月は、あの時の月ではないのだ、この春も、あの春ではない、ああ、ああ、何としたことだ、虚しくて、悲しくて、実に遣る瀬無いことだ、ただ一つ、こんなにも熱い血潮を滾らせて、あの女性(ひと)を想い続けている我が身だけは、あの嘗ての昔に恋焦がれて気も狂わんばかりだった、若き自分自身と少しも変わっていないと言うのに……。思えばあの恋は、自分にとって人生で初めて、そして最後の命懸けの恋愛だった。ああ、あの人は今どこにいて、何をしているのだろうか、私の事など疾うの昔に忘れて、どこかの誰かと幸せな人生を送っているのだろうか、それなら、それならそれでよいが、もしや、ひょっとして、今幸せでなかったなら…、いやいや、そんな事は、あの女性(ひと)に限ってそんなことはない筈だ、せめて今は、あの人の幸福を心から祈ろう、今はただ ) 今回は「伊勢物語」を読み、私の和歌に関する姿勢などを書いてみようと思います。 私は和歌の専門家でも、学術的な研究者でもありませんで、ただ一人のディレッタントとして、日本文学に魅惑されて、愛好しているだけの者であります。 やまと歌は、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。世の中にある人、事業(ことわざ)、繁きものなれば、心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて、言ひ出せるなり。花に鳴く鶯、水に住む蛙の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌を詠まざりける。力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女の仲をも和らげ、猛き武士の心をもな慰むるは、歌なり。 有名な古今和歌集の仮名序の書き出しであります。人間だけが歌を詠むのではない。生きとし生きるもの全てが歌を詠んでいるのだ、そう仮名序を書いた紀貫之は喝破しております。 私も日本の和歌をそう言うものとして捉えて、親しんでいる一人であります。 今更申すまでもなく、和歌には長い長い伝統があります。記録に残らずに打ち捨てられた名歌が、それこそは海岸にある砂粒の如くに、数え切れない程にあります。その無数の和歌たちはそれぞれ個別に、バラバラに存在するのではありませんで、それぞれが互いに密接に叫び声を、喜怒哀楽の心を、呼応させ、響き合わせている。そうです、一固まりの巨大な森を想像して見て下さい。世に持て囃される所謂名歌・名吟とは一際高く聳え立つ巨樹でありましょう。 で、ありますから、一つの歌を読むときには、巨大な森の一木だということを強く意識して、読み、解釈し、鑑賞しなくてはいけないと思うのです。 例えば、非常に突飛な発言を致しますと、伊勢物語の絶唱は与謝野晶子の「 清水へ 祇園をよぎる 桜月夜 こよひ逢う人 みな美しき 」とも、石川啄木の「 死にたくは ないかと言えば こを見よと 咽喉(のんど)の痍(きず)を見せし女よ 」とも、響き合い、呼び合い、声を掛け合っている。 こんな暴論を吐くと、専門家の間から、きっと激しい反対の声が上がる。それでも、私は、鑑賞者も創作活動の一翼を担っているし、(現に、そうなのですが)、そうである以上は、敢えてする誤読や、和歌の作者が想像だにしなかった拡大解釈こそ鑑賞の極意なのだから、進んで大胆な鑑賞態度を取るべし、そう主張したい。 連歌という形式があります。日本古来に普及した伝統的な詩形の一種。5・7・5の発句と7・7の脇句の長短句を交互に複数人で連ねて詠んで、一つの歌にして行く。和歌の強い影響のもとに成立し、後に俳諧の連歌や発句(俳句)がここから派生している。 従って、芭蕉の名文「奥の細道」とも密接に関係を持ちながら、響き合っている現実があるのです。芭蕉は杜甫や李白などの中国の名詩人や、西行・宗祇などの先人をも強く意識して、諧謔を最大の特色とする俳諧へと飛躍的な発展を遂げさせた、天才俳諧師であった。彼は発句・俳句よりも連歌を得意とし、同時代との連携だけなく、時空を超越した連帯を自らの実作で我々に示してくれている。「 荒海や 佐渡に横たふ 天の川 」が見せる短詩での最大級のスケール感は、思わず息を飲まずにはおれない。 響き・移り 映り・調べ・匂い・撓り(しをり、たわみ具合を意味する)・侘び 寂び・細み(ほそみ)などなど、対象に対する作者の繊細な感情が、余情となって滲み出た姿が創作の上で大切とされるが、それは鑑賞する場合にも同様で、鑑賞者の全人的な参画を得て、複雑にして微妙なる膨らみや厚み、陰影を獲得する。我々の現実の生活がそうである以上に、和歌や詩の世界では同伴者や共鳴者の存在は必要にして不可欠な存在となっている。 さて、「伊勢物語」に戻ろう。 ―― つひに行く 道とはかねて 聞きしかど 昨日今日とは 思わざりしを (― 最後には辿って行くことになるのだと、以前から聞いてはいたのではあるが、昨日や今日といった、差し迫り、切迫した事柄とはついぞ思ってもみない事であった、不覚である、残念至極である…、まだし残してやってみたいと思うことは山のようにあると言うのに。ああ、神よ、天よ、御仏よ。ああやんぬるかな、やんぬるかな、やんぬるかな、悲しいかな、悲しいかな…。若者よ、美人たちよ、この死という恐ろしいものを自覚せよ、私の今の無念の思いを肝に銘じて同情してほしいのだ、恋せよ、そして遊べ、舞い踊れ、叫べ、死をも恐れぬ若さを謳歌せよ、我々生きとし生きる者には有限の死というものがあらかじめ予定されてあり、その中に閉じ込められた生の輝きを嫌が上にも美しく浮き立たせてくれているのだ、人生に万歳を叫ぼうではないか、人生に、恋に、涙に、喜びに、悲しみに、怒りに、歓喜の盃を高々と挙げようではないか、これが、恋に生き、恋に狂った大バカ者が青春にある若者と、美しさゆえに身を持て余している佳人達に贈る、最後のはなむけの言葉なのだが、実を申せば私は後悔など断じて致してはおりませぬ。ある種とことん一事をやり遂げた者のみが知る、完全な満足感を、充足の気持ちを、安らかな達成者の気持ちを、じっと味わい、噛みしめている次第であります。自分の最期、死期を忘れるほどに無我夢中で生き切った者のみが知る、人生の真実。これは遊び惚けに呆けた、一代の放蕩者の最期の 勝利宣言 なのだわいな ―― 現在ただ今の私が、ざっと稚拙に拡大解釈した一例を、上に示してみました。稚拙ではあっても、私にとっては大切な作業でありました。小林秀雄はこの絶唱を讃えて「悟りの境地」と表現していますが、成程、そう言ったものかも知れないと思うだけで、この和歌の世界から厳しく拒絶されてしまっている自分を感じて、後は呆然とするだけなのですが、自分流にたどたどしく、そして又、くだくだしく砕いて解釈を施してみると、名歌の名歌たる所以のものが、腑に落ちるの形容通りに納得する。そして、この悟りの実相がおぼろげながらにイメージ出来る。傍から専門家達が何と言ってケチをつけようと、私はこの絶唱と個人的で、近しい好誼を結ぶことには成功したのですから、満足なわけであります。 私は、公式な場で、例えば教室や公開の場では、こうした私的拡大解釈を推奨は致しません。権威を持った立場では、当たり障りのない範囲でお茶を濁すに若くはないのですから。しかし、古典に親しむだけが目的のディレッタントの身であれば、私的な場での、ごく内輪のサークルなどでは大いに推奨したいと考える者であります。T P O を弁えて使い分ける事で、古典などのオーソドックスな道は正しく守られるし、プライベイトな散歩道的な楽しみの幅も広がる。一石二鳥とはこの事だと自画自賛したい気持ちで一杯でありますよ。 再び、「伊勢物語」に戻りましょう。 思ひつつ 寝(ぬ)ればやひとの 見えつらん 夢と知りせば さめざらましを(― 恋しいと、逢いたいと、四六時中思っている、この私、言い寄って来る男の数は数えきれないほどにいる。でも、私が心の底からお慕いして、切ないほどに恋焦がれている御人は、あの御方だけですの、ですから、どんなに大金を積まれても、金銀財宝を山の如く差し出されても、見向きも致しませんわ、ああ、ああ、ひたすらに恋しい、恋しい、あのお方様、私の恋心に気づいて下さいませ、私はもう狂い死にしそうで、発狂する寸前のように思われます、ああどうか、一言、いえ、いえ、一目だけでよいのです、決して求愛者の多さに心昂ぶって、数え切れない数の求愛者の多さに目が眩んで、横道に逸れることなど思いもよりませんわ、私の心はあなた様の事で一杯ですので、その他の事など入れる余地もないのです、本当に、恋しい、切ない、ああ、ああ、出るのはもう切ない吐息だけです、そんな時でした、ふと転寝(うたたね)をしていたのです、するとどうでしょうか、懐かしいあのお方の御姿が、目の前に見えたのですわ、あら、いつの間に、どのようにしていらっしゃったのかしら、そう思うと、嬉しさでもう涙が溢れ出して、止まらなくなってしまいました、いや、いや、泣いていたりしてはいけない、せっかく思いもしなかった千載一遇のチャンスが来たのですもの、あのお方の胸に飛び込まなくては、そう必死に自分自身に言い聞かせたのですが、どうしたことでしょうか、まるで金縛りにでも遇った如くに、体が少しも動きません。どうしたことでしょうか、焦れば焦るほどに、棒のように固まってしまった身体は、指一本さえ動こうとはしないのです。どうしよう。どうしたらよいのかしら、駄目な駄目な私、いつだってそうなのだわ、肝心な時、ここぞという時に限ってベストな行動が取れない、この儘だとあの御方、恋しい恋しい心の恋人、私が拒絶のポーズを取っていると勘違いして、この場を去って行てしまうかもしれない。なのに神様、私の神様、どうか体を、指だけでも動かせるようして下さいませ。ああ、どうしよう…、ふっと我に返って、直ぐに夢だったと悟った、悲しさが全身を包んだと同時に、嬉しさが雷(いかずち)の如くにわが身に降り注いで来た。ああ、私はあのお方に御逢い出来たのだ、とうとう、懐かしくて、恋しくって堪らなかった恋人に御逢い出来たのです、私の神様、本当に有難うございます。夢でお会いできたのは本当にお優しい神様の御導きで御座います。これまで、夢なんかって、軽く見ていたけれども、今度のこの体験で、夢が頼りになるものだとしみじみと分かりました ) 以上、「伊勢物語」の一部の和歌を取り上げて、私的な交流を試みる御手本と言っては語弊がありますが、実例を提示してみました。読者の皆様方も是非、原文を鑑賞なさって、御自分流の楽しいお遊びを開拓なさって下さいませ。
2021年01月05日
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