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2015年09月02日
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           第 六 回 目






  イザナギの みそぎ とキリストの贖罪を一緒に扱うことは許されませんが、不可抗力な原因で身に負ってしまっ

た「罪や汚れ」を綺麗さっぱりと払拭したいという願いは、極めて人間的であり、素直に共感共鳴できる感情でありま

す。個人としての人間ほど か弱く、また、頼りない 存在もありませんね、実際。そこに、自分とは対極にある 絶

対者 からの許しや、信認が渇望され、懇望される、根本的な理由がありますし、その人間による本質的な強い願望

は、その信仰の対象を現実のものとしないでは、いられないでしょう。


 慈悲、大悲は如来の根源的にして、広大なる御心。それに対して、旧約聖書などに見られる天上の父なる神は「荒々

しく、怒り」を露わにする。日本古来の神々も、唯ひたすらに恐ろしく、その前に畏まりひれ伏す畏怖の対象としての

印象が、前面には出て来てはおりますが、私は偉大なる父(=大地に擬えられる偉大なる母も同意)の極めて特徴的な



釈して間違いないだろうと思います。





 「キリストは神の子供なのですよね?」


 「そうだ。神そのものと言っても良い」


 「それなら、何故、カエサルの物はカエサルに、などと言って、地上の王であることを拒否したのか?」


 「目的がちがうからだ」


 「目的が違う?それはどういう意味なのか、分かりやすく説明してくれないか…」


 「神の御心は、人間と覇を争うことには無かった。人間をお造りになられた神は、ご自分と同じくらい地上の人間た

ちを慈しみ、愛されておられた。だから…」


 「だから?だから、どうだというのか」


 「出来る限りは、人間の自由意思を尊重したかった…、可能な限りは」


 「人間の自由意思?一体、人間に自由意思などというものが、あるのか?また、それが許されていると言うのか、そ




 「許している、許している。許し過ぎているくらいに」


 「許し過ぎているだと、バカバカしい。許し過ぎている!ハッ、誰がそんな見当違いを、信じるものか?」


 「……(悲しみの表情)」


 「人間ほど、不自由で、力弱く、頼りない存在が他にあるだろうか、一体全体」


 「不自由で、力弱い…」





  「しかし、それは人間だけの問題だろうか…」


 「人間だけか、そうでないかなど、今は問題ではない。どうして人間は、余りにも弱く、不完全でしかないのかが問

題なのだから」


 「……」





 神の沈黙―、という言葉が私の印象に残っていますが、例えば、キリスト教作家の遠藤周作


に「沈黙」と言う作品があります。弱者の神、同伴者イエスという考えは遠藤の到達した結論であったようであります

が、此処では遠藤の思想に深入りしませんので、興味のある方は「おバカさん」などから彼の作品に入門されたら宜し

いのではないかと、考えます。


 さて、神と沈黙の問題ですが、拙い対話として絶対者と善男善女のやり取りを会話で表現しようと、深い考えもなく

取り掛かってはみたものの、あまりにも奥深く、軽々しくこのテーマに近づくのは 危険 であると直ぐに気づきまし

たので、中断いたしました、はい、やむなく…。


 一口に善男善女と申しましても、人それぞれ、興味の対象や、理解度の深浅が多岐に渡りますので、一つの質問に対

して単純な回答で済ますことは、不可能なのであります。従って、「……」即ち「沈黙」ということに必然的になって

しまう、ならざるを得ないのでした。


 「弱いは、強い。強いは、弱い」なのであります、実に、実際、全く。沙翁(シェークスピア)の「オセロ」の冒頭

で魔女達が言う「綺麗は穢(きたな)い、穢いは綺麗」ではありませんが、真実に「弱いもの」は実は「強い」のであ

り、


本当に「強い性質」は「弱い」と同義なのでありますよ。

 ですから、其の伝からすればイエスの「弱さ」は、最大限の、人間離れした「強さ」を暗示しているように、今の私

には思われてならないのですよ。そして、大黒様とイナバの白兎のお話の 大国主の命・みこと によって表現されて

いる「軟弱さ」と愚直な優しさと、天真爛漫な素直さ、等によって表徴されている 神性 は、イエスのそれに通底し

ていると言うか、お互いに非常に似通った 何か を感じさせるように思えてなりません。


 数々の奇跡を起こす超人の部分と、それとは極端に矛盾する「弱い」、そして人間の中でも「超人的に見える程に、

弱さの極限」に迄行って見せる要素と、謎の如くに鋭く矛盾・葛藤・対立する姿自体が、紛れもなくこの地上の者でな

い露(あらわ)な神聖性を指し示している、イエス。


 大国主の命もまた、八十神達の残虐非道な行為の犠牲に再三再四なり、悲惨な死をも蒙るのですが、女性の神たちの

手で二度の再生を遂げ、古代の国土の偉大なる支配者におさまる。が、結局、カエサルの物はカエサルにではありませ

んが、大和朝廷に権力を譲り渡すのでありましたね。





如来蔵思想を考えてみましょうか。如来蔵の原語・サンスクリットは「如来を胎児として宿すもの」であり、全ての

衆生は如来を胎児として蔵(やど)しているという主張。如来とは元々は「修行完成者、その様に行きし者、あの様に

立派な行いをした人」の義。代表的な如来には、釈迦如来、大日如来、阿弥陀如来、薬師如来の四如来がある。


 ですからごく平たく言えば、如来蔵思想とは、人は誰でも完全なる悟りの境地に達する事の出来る存在である、とい

う非常に積極的にして肯定的な思想でありますね。一般に、憂き世とか、八苦の娑婆などという言葉が巷に氾濫してい

る仏教的な雰囲気からすると、とても意外な気さえしますよ、何か。











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最終更新日  2015年09月02日 07時14分00秒
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