第 三百二十一 回 目
私の俳優論の七回目。今回、私自身の為に、そして野辺地町の住人の方々の為にも、延いては世の
中の善良なる人々の為になるように、少し「教科書」風な解説を可能な限り施してみたいと考えました。
文章というものは、或いは広く言葉の表現世界と言うものは、試みてみないと分からない部分が大半で、
海図の無かった時代に大海原目指して、手漕ぎの小舟で旅に出るのとまるで変わらない、実に五里霧中
といった不安この上ない心境なのですが、とにかく乗りかかった舟ならぬ、自分から好んで招いている
困難な事態ですので、ここは遮二無二突き進んでみようと思います、男らしく蛮勇を鼓して…。
私は俳優を次の如くに定義致します。
俳優とは、神の演出に従って台本の指定する役柄を演じて、人々の心にダイレクトに働き掛け、その
琴線部分に触れ、完全なるカタルシスをもたらす者を言う。
私が新たに申し上げたい事柄は、この定義の言葉で全て尽きて居りますので、残るのは実践あるのみ。
と本当は申し上げて、事を済ましたいのでありますが、そうは問屋が卸さない困難極まりない諸事情が
ありまして、正直、私と致しましては難渋致して居る所なのであります。
俳優論は即ち人間論だと、私は言いました。そうです、人は生まれながらに一個の俳優である。しかも
例外なく名優や名女優たる十分な素質を備えた、という付帯条件・資質さえ加えられているのですから、
その有難い、本当に感謝の言葉も直ぐには浮かばない好条件ばかりなのですから、それをそれぞれの
人生に役立てない手はない、断じてない。と、せっかちで先を急ぐ癖のある私・草加の爺はとかく結論を
言い出したくなってしまう、どうしても。でもしかし、ここはじっと腰を落として、しっかりと構えなく
てはいけない。( これ、私自身に向けての、戒めの言葉でありますよ )
つまり、私の俳優論は「才能に溢れた者であるならば」、万巻の書を物する事が出来る程の私たちに
とって非常に、格別に重要な、最重要テーマなのであります。現代のドン・キホーテを自称する私・草加
の爺でなくては恐ろしさにしり込みしないではいられない、底ひ無き態の、掘り下げても掘り下げても
極め尽くせない奥深さを、深く広く蔵している。
ではありますが、私にいま与えられているミッションの重大さと緊急性に鑑みて、たじろいだり、怯ん
だりは絶対に許されてはいないので、再び三度、蛮勇を奮い起こして前進にこれ努めることに致しますの
で、どうぞ御寛容をもちまして拙文にお付き合いの程、宜しくお願い致します。
演劇とは見るものでは決してありませんで、体験するものであります。しかも、読書とは違って一人切
りで、孤独な体験をするのではなく、大勢の仲間・同士・同胞と共に歓喜して、勇躍して全身で、体当た
りで経験する最も大切なイニシエーション・儀式の形式なのであります。
結果はどうなるか? 生まれ変わるのであります、
新しい人間として再生・蘇生・甦生するのであります。
神と共に生き、生きることの真実を実地に噛み締める、身も心も完全開放を遂げるプロセスこそが、
演劇・芝居・ドラマ・劇の醍醐味であり、真骨頂なわけでありますよ、全くもって。
では所謂プロの俳優はどういう役割を果たすのかと言えば、絶対者の「神」と人間とを結び合わせ、そ
の「霊的な交信」を活発にさせる触媒の役割を果たす人物・機能を、正しく意味している。その意味から
しても演劇の場に集まった善男善女を代表する、観客代表でもあるので、俳優の果たす役割は神との
交信・交流の促進能力の良し悪しに、全面的に依存している、確かにそう言える存在。
さてさて、言葉での説明は以上で尽くしている。分かる人には十分なのですが、分からないお人には
百万言を費やしても無駄でありましょう。井蛙の譬え話を持って来れば済むのですが、そうも言っていら
れないので、私の能力の及ぶ範囲で最善を尽くしてみようと存じます、はい。
絶対者とか、神だとか「訣の分からない言葉」をいきなり持ち出すから、急に話がこんがらかってしま
う。それくらいの事は私も先刻承知して居りますので、ご説明致します。
私が使っている絶対者とか神とかの表現は、例えば一神教の天上の神でもないし、仏教で言う如来や仏
とも違います。強いて言えば一神教や仏教で言う「神」や「仏」の遥か彼方に想定される、フィクション
としての神であり、絶対的な存在者なのです。物理学でいうところの梃の力学で説く「支点」に相当しま
す。どのように重い物でも、これを利用すると軽々と動かすことが出来る。
人間は弱い存在であり、実に儚く短い生を終えて、死を迎えなければならない。己の弱さ微弱さを心得
ている健気な動物でもある。その人間は「真実に頼りになる強い存在」を、根源的に渇望して止まない。
常に希求し続けてもいる、それを、「本質的に強く頼りになる対象」を。無意識の裡であっても…。
ここに、この心理的な現実にフィクションとしての絶対者が必然的に要請され、その強い願望に促され
て、どうしても、厭が応でも出現させずには置かない。心理的な側面から見れば必然なのであります。
必要は発明の母とも言います。かくて、神は、絶対者的な存在者は、少なくとも人々の心理上では、極め
てリアリティに満ち満ちた実在と化す。―― 如何でしょうか、幾分合理的な説明、解説となったでしょ
うか? 非合理な実在を合理一点張りで割り切ろうとすれば、どうしても無理が残ってしまう。
自分たちの勝手な要請から神をも造りだした人類は、自分たちの信仰心の薄さ、生命力の希薄化と共に
神殺しを敢行した。ニーチェがいみじくも言った如くに「神は(文字通りに)死んだ」、「殺された」の
でありますが、人類の根源的な強い欲求である神的存在への渇望・強烈な願望は衰える事はなく、一旦は
伏流水として地下深くに潜り込んだのだが、なし崩し状態であちこちと様々な機会をとらえては、地上に
噴出している。
健全な演劇・ドラマが切に希求されなければならない必然性が、近年とみに顕在化している。人類全体
としての生命力はまだまだ健康な生命力を失わずに、健在を誇っている証左でありましょう。
ここで、演劇の定義をしてみましょう。
演劇とは、根源的に途轍もなく巨大且つ深遠な神の愛情に包まれる人類最高の儀式を、良好な台本に
基づいて行う集団パフォーマンスである。この演劇のプロセスで人々の魂は完全なるカタルシスを体験
し、心を根柢から清掃し、罪や穢れを祓い清めることが可能となる。
もしくは、目下のところはその理想の形を目指して試行錯誤の状態にある、人間の最高の営みであ
る。
ここでも、言葉での表現は稚拙ではあっても、これで尽きている。完全に表現し尽くしてしまっている
ので、残るは 実践・行動・パフォーマンス あるのみと言って済ましたいところなのですが、短気は損
気、最後まで懇切丁寧に解説・説明を続行したいと、考えます故に、どうぞ宜しくお付き合いを申し上げ
ますよ、誠実に続行したいので。
さて、日本は神の国、神ながらの国柄と言われますが、もしくは嘗て盛んに言われたことがありました
が、その意味合いについて私・草加の爺なりの考えを申し述べたいと、この際思いました。
日本の国技とされている相撲、大相撲についてであります。先ごろ、土俵上で挨拶をされておられた市
長さんかどなたかが、急病で倒れてしまった。女性が土俵上に上がってはいけない旨の放送を、若い行司
さんが行ったのが問題だと、マスコミなどでも大きく取り上げられて、一種の社会問題化した。
これは現代人と神との関係を考える上で、非常に参考になる好材料だと思うので、取り上げることに
致します。御断りしておきますが、私は大相撲に関してあまり造詣が深い方ではありません。専らラジオ
やテレビ桟敷での観戦が主体であり、一時期それさえも途絶えてしまった期間が多い、非常にずぼらな
相撲ファンとも言えない市井の隠れファンの一人であります。
ただし、大の日本贔屓ではありますので、大相撲が辛うじて残し得ている「古き、佳き時代の日本文化
のエッセンスの残り香」には、こよなく惹かれる所がある。
例えば取り組みのスタイルですが、序の口から始まり一番毎に序列の上の番付の取り組みへと、順序
よく取り進み、最後は大関・横綱の取り組みで閉める。これは和歌の歴史の歌合せに始まり、連歌、俳諧
連句へと連なる日本古来の伝統を、奥ゆかしく忠実に踏襲している典型的な日本文化の様式美なのであり
ますよ、実は。まだありますよ、お相撲の極意である、押さば引け、退かば押せ。これも日本文化の誇る
精神分野での奥義にその儘で通じている、実に奥深いリファイン・洗練の極みに達した心得でもある。
しかも、見世物・ショー・興行でありながら、神事であるという伝統を頑ななまでに固守して、単なる
近代的なスポーツとも一線を画する伝統的なプライドを捨てない。体重制限などという世界の趨勢に
目もくれず、無差別を貫き通すアスリート魂は、見事の一語に尽きる。横綱の土俵入り、行司や呼び出し
等の役割分担、礼に始まり礼に終わる作法、塩撒きによる清め、水を附ける所作、弓取り式での土俵の
納めの儀式などなど、いちいち挙げていたらきりがない程に、徹底して儀式に拘り、神と人との交わり
交流を重視する態度。全部が全部、人々の心や魂に働き掛け、癒しに、心のカタルシスに焦点が合わされ
ている。そう言う意味では、目指すところは演劇と同類であると、断定して差し支えがないでしょうね。
そこで、日本と言う国のお国柄としては「神国」という表現を日本人みずから好んで使用するのです
が、その心はというと、神と言う最大限に不合理な対象と附き合う事において、非常に長けている。
伝統的に長じている。その意味では正に、精神性においての先進国であると主張してよい。そういう資格
を十二分に備えている。自国に対して当然の自信を持ち、それを深めようではありませんか。
特に私・草加の爺としては今の若い世代に、自国の事をもっともっと積極的に知ろう。そう声を大に
して訴えたい。自国の歴史を、文化を、人々の生き方を、先人の考え方の根底にあった大切なものを、
親身になって探求しよう。結局それは、自分自身をより深く掘り下げて知るきっかけになるに相違ない
し、真の意味で生きることの大切さや意義を教えてくれるだろうし、延いては人生を肯定的に、積極的に
生き、その延長として生きることを心底から楽しむ・エンジョイする姿勢に直結すること、請け合いだ
からなのです。「学問の勧め」ならぬ、「人生積極肯定のすすめ」の序なのでありました。