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2018年07月14日
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第 三百二十二 回 目


 私の俳優論の八回目。相撲つながりで、前回の補足を少し加えておきましょう。日本文化全般に

言えることですが、非常に融通無碍と言いますか、柔軟性に富む所があります。

 例えば和式の部屋、畳敷きの部屋ですが、寝室になるし、客間としても使用可能だし、居間でも、

食堂でも、書斎にも兼用が易々と出来る。自由自在の多目的使用のフリーな空間として、最初から

設定されている。洋室のように固定的では無い所が、最大の特徴となっている。

 そこで、土俵に女性を上げるなのタブーですが、相撲の取り組み以外で土俵を利用する場合には、

意識の上でよいのですが、もうそこは土俵であって土俵ではない。そいう自在な発想を応用しさえ

すれば、何の問題もなく解決する事柄だったのですよ。如何でしょうか…。



関係もないもの。むしろ女性上位の趨勢が勝っていた古代の文化からすれば、尊重すべき女性を命がけ

の死闘を繰り広げる戦闘の場から、大切な女性を敬するが故に遠ざける意識の方が、多分に勝っていた

と想像される。百歩譲って、仮に発生の当初にその様な意識がなかったとしても、後付けでもよいから

その様に理由づけすれば、全てが丸く収まるのですから、そう説明すれば良いのですよ、実際の話が。

 学問とか、事実に基づいた歴史的な真実などと言われると、それだけで恐れをなし、尻込みしてしまう

軟弱なインテリとか学者、知識人に警告を発して置きたい。何のための真実であるか、と。

 まあ、ここはこのくらいにして、俳優論に戻りましょう。

 質問、俳優とはそもそも何者であるか? どのような人の在り方を目指すのか?

 答え、何よりも俳優は、人を人として最大限に愛し、その愛情を自分の声とジェスチャーによって

観客に伝える最上の技術を体得している者である。

 自己への最大限の愛情に始まり、他者への限りない愛情表現にきわまる。その円弧は更なる自己への



く高まりを示しつつ永遠の彼方へと連なる。

 自己に始まった愛情の運動は、絶対の彼方を支点として再び自己へと回帰を遂げる。そして、その愛情

の描く円は波紋の如くに放射状に拡大し、しかも質的な発展を遂げるのだ。大掴みなイメージを心の中に

描いて頂ければ、取り敢えずは結構です。部分が断片として切り離されてはいない。大きな愛情の絆で

しっかりとつながっている。その全体が、更にまた一段上のステージへとスムースに結ばれていて、次々



ありません。

 ですから俳優は次の様に定義することも可能である。つまり、俳優は人間の素晴らしさ、生命の

賛歌を見事に歌い上げる最高の楽器であり、その楽器の理想の演奏者でもある、と。

 それではその目的は何かという点が問題になりますが、それは「心の、精神面の、いわば新陳代謝を

継続して促進する必要から」と説明するのが、一番実情に合ったものと言えるでしょうか。

 それでは、その心の新陳代謝とは一体どういうことなのか、について解説をしましょう。

 先ず言葉の意味ですが、古いもの〔=陳〕が去り〔=謝〕、新しいものが代わって現れること。生物

体が生存・活動に必要なものを体内に取り入れ、不必要なものを出す事、であります。小学校や中学校

の理科の教科書などに詳しい説明が載っていますので、必要があれば参照して下さい。

 私たちの身体は実によくできている。身体に必要な作用・活動は必ず精神の方でも行われなければ、

いけないのであります。所が、身体的な所見は目で見たり、観察が一応可能でありますが、心の中の

事柄は目には見えない。想像力を働かせたり、感じたりするわけですが、これが非常に厄介極まる仕事

である。ここに精神活動の諸問題発生の根源があると言ってよい。

 しかも、身体や物質の世界は一応ではあるが合理的な解釈がなされ、様々な法則がこれも仮説と言う

形ではあっても、或る程度まで万人が納得し得る体系が示されてもいる。物理学とか化学とか、生物学、

地学等々の諸科学が曲がりなりにも成立している。

 翻って、精神や心の分野ではいまだに手探り状態が続いている、と言ってよい。言ってみれば分からな

いことだらけ。フロイトとかユングなどという精神医学の巨人が、病理的な側面からの偉大な業績を

打ち立てはしたが、未開状態を完全に脱したとは御世辞にも言えない、でありましょう。

 そして、私たちはどうして自分自身の気持ちや、他人の気持ちが理解できるのか? 自分がいま

嬉しいとか悲しいとかはっきりした感情に関しては、明確な判定が可能なのですが、もやもやした自分

自身でも原因や理由が分からない気分などについては、判断がつかないし、それをどう次の行動につなげ

たらよいのか、迷う場合もしばしばですね。そして、他人に関しては、もっと分からない事が多くある。

大概のケースでは、密接な利害関係が無い時には、見ても見ないふりをするというか、要するに無視して

しまえばそれで済んでしまう。しかし例えばの話、最近のように「誰でもいいから人を殺したかった」な

どといって、実際にとんでもない行動に走る人間が少なからず出て来ている現実を知りますと、それこそ

他人事では済まされなくなる。私たちとしては無視し続ける態度を改めなくてはならないでしょう。が、

一体どのような防止・予防手段があるのか、本当に厄介で、複雑な問題を数多く抱えている事実だけは、

どうやら間違いがない。

 誰でもよいから殺したかった、と言って殺人を犯した人間を逮捕して、裁判にかけるのが関の山でしょ

うが、そこにも問題が待っている。その殺人者に「責任能力」があるのか、ないのか? それは専門家の

長時間にわたる審問・鑑定に委ねなければならない。もし仮に、責任能力がなかった、犯行当時は精神喪

失の状態にあった場合には罪に問えない。罪に問わない制度がとられている。

 要するに、この事件一つ取り上げても、私たちの住む現代社会は「未開で、野蛮な原始状態」が依然と

して継続している模様である。それだけは、どうやら間違いなさそうである。

 さて、私たちは自分の心理も十分には理解出来ないし、他人のことはなおさらに理解が難しい。それで

も一人では生きていけない以上は、お互いの相互理解を大幅に深め、意思の疎通を活発にしなければなら

ない。が、その決め手が見つからずに困り切っている。大きくは国際政治から、国内の政治や社会問題、

小さくは友人や知人との関係や、親子などの家族関係にいたるまで問題は山積していると、言うのにで

す。一体全体、どうしたらよいというのか? どうしようもない、打つ手はないのだ。そう言ってこの

まま放置しておくわけにはいかない。さあ、どうする…。

 人任せ、政治任せにする態度を根本から改めて、個人で、一人で出来ることから始めて、徐々に大きな

輪に広げて第一に御近所の為になる事をおこなう、積極的に。

 そしてその延長線上で、町起こし、地域活性化、県の健全化、国の振興、交際社会の一体化へと

前向きで肯定的な活動を推進する、全力を挙げて。断って置きますが、予算と言う名の「巨額な資金」は

無用であります。元気という町民の「資源」さえ掘り起こすことに成功すれば、の話でありますが。

 そのとっておきの素晴らしい「奥の手」は何か? お答え致しましょう。新しいコンセプトに基づいた

セリフ劇がそれである、と。

 新しいという意味合いは、色々とあるわけでして、例えば劇場といった特別な設備を必要としていな

い。人と人が出会える空間があり、そこに言葉による愛情溢れる交流がある場が設定されるならば、それ

で十分なのだ。その他、様々な相違が存在するわけなのですから、もしかしたら違う名前で呼んだ方が

少なくとも誤解は生じない、だろうとも思うのですが、翻って考えてみるに、伝統的な「お芝居」の

要素もそこには色濃く残っていることからすれば、その類似性を頭から否定する必要もなさそうです、

どうも、つらつらと考えてみるに。

 端的に言って、従来から呼びなれ親しんで来たお芝居のたどり着く 理想の形 であり、その完成形だ

と規定するのが、無理のない自然なことだと思われますよ、そもそもが。

 どこに力点を置くかがポイントでありまして、それによって全体の様相ががらりと変わってしまう。

「劇場」の場における主役が「舞台」から「客席」に移り、謂わば主客の逆転現象が生じる。セリフ劇の

場では「ショーや見せるお芝居が行われる」のではなく、心の癒し、魂の清掃・クリーニングが行われる

のですから「観客」ではなく、体験者の心の中である種の治癒行為が施されるのですから、「主役」は

舞台上にはいない。舞台の役者は「客席」の主役に代わって、被治験者の心の中で行われる癒しのプロセ

スを促進させる補助手段としての演技が、パフォーマンスとして実施されるのみ。同時に、グループと

して劇の場に参加した人々同士相互の精神的な交流と、「舞台上」の役者との親密な心的な交流と交感

乃至は交歓が、もっと言えば精神の共鳴・共振が加わって、輻輳的に相互の高め合いが混じり合い劇的な

場としての目的が達成される。

 この様相を比喩的にクラシックの演奏会場になぞらえてみると、舞台上の役者たちは集団として一つの

指揮者としての役割を果たし、客たちはそれぞれに得意の楽器を演奏する楽団員に匹敵する。この場合の

聴衆は「神」でありましょう。真の絶対者との交流交歓が成立した場合に、真実の意味のカタルシスが

その場全体としても完結する。目出度し、めだたし!

 ここまで言及したのですから、もう申し上げてしまいましょう。人間、人類としての神祭りの最高の

形こそ、セリフ劇なのでありましたよ、実のところは。





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最終更新日  2018年07月14日 20時15分07秒
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