草加の爺の親世代へ対するボヤキ

草加の爺の親世代へ対するボヤキ

PR

プロフィール

草加の爺(じじ)

草加の爺(じじ)

サイド自由欄

カレンダー

フリーページ

2018年12月14日
XML
カテゴリ: カテゴリ未分類
第 三百九十 回 目

 台本候補としての「平家物語」の続きです。

       [ 源氏 揃 (げんじぞろへ)]

 ―― 新帝の御即位はめでたいが、世の中はまだ治まっていない。例えば法王の第二皇子・高倉

宮以仁王(もちひとわう〉などは不遇をかこつ一人であった。そのころ源三位入道頼政が高倉宮に

向かって宮の不遇、平氏の横暴、諸国に雌伏する源氏の状況を説いて、しきりに奮起をすすめた。

宮は最初は迷ったが意を決し、熊野にいた源行家を密使として東国に派遣した。


 その頃一院(ゐちいん)第二の王子以仁の王と申しけるは、御母(おんはは)加賀大納言季成(

すえなり)卿の御娘也。三条高倉にましましければ、高倉の宮とぞ申しける。去(いん)じ永萬(



大宮の御所にて御元服ありけり。御手跡うつくしうあそばし、御才学すぐれて在(まし)ましけれ

ば、位にもつかせ給ふべきに、故建春門院の御そねみにて、おしこめられさせ給ひつつ、花のもと

の春の遊びには、紫毫(しがう)をふるッて手づから御作(ごさく)をかき、月の前の宴には、玉

笛(ぎょくてき)をふいて身づから雅音(がいん)をあやつり給ふ。かくしてあかしくらし給ふほ

どに、治承四年には、御年三十にぞならせ在(まし)ましける。

 その頃近衛河原に候(そうらひ)ける源三位(げんざんみ)入道頼政、或る夜ひそかに此の宮の

御所にまいッて、申しけるこそおそろしけれ。「君は天照大神(てんせうだいじん)四十八世の

御末、神武天皇より七十八代にあたらせ給ふ。太子にもたち、位にもつかせ給ふべきに、三十まで

宮にてわたらせ給ふ御事をば、心うしとはおぼしめさずや。當世(たうせい)のていを見候に、う

へにはしたがいたるやうなれども、内々(ないない)は平家をそねまぬ者や候。御謀反(ごむほ

ん)をおこさせ給ひて、平家をほろぼし、法皇(ほうわう)のいつとなく鳥羽殿(とばどの)に



ごかうかう)のいたりにてこそ候はんずれ。もしおぼしめしたたせ給ひて、令旨(れうじ)をくだ

させ給ふ物ならば、悦(よろこび)をなしてまいらむずる源氏どもこそおほう候へ」とて、申しつ

づく。「まづ京都には、出羽の前司光信が子供、伊賀の守光基、出羽の判官光長、出羽の蔵人(

くらんど)光重、出羽の冠者光能(みつよし)、熊野には、故六条判官為義が末子(ばつし)十郎

義盛とてかくれて候。摂津国(つのくに)には多田の蔵人行綱こそ候へでも、新大納言成親の卿の



の二郎知實(じろうともざね)、手嶋の冠者高頼、太田(おほだ)の太郎頼基、河内国には、武蔵

の権守入道義基、子息石河の判官代義兼、大和国には宇野七郎親治が子供、太郎有治・二郎清治・

三郎成治・四郎義治、近江国には、山本・柏木・錦古里(にしごり)、美濃尾張には、山田の次郎

重弘、河邊の太郎重直、泉の太郎重満、浦野の四郎重遠、安食の次郎重頼、その子太郎重資(しげ

すけ)、木太三郎重長、開田判官代重国、矢嶋先生(せんじゃう)重高、その子太郎重行、甲斐の

國には、逸見冠者義清、その子太郎清光、武田太郎信義、加賀見二郎遠光・同じく小次郎長清、一

条次郎忠頼、板垣三郎兼信、逸見兵衛有義、平賀冠者盛義、その子四郎義信、帯刀先生善賢が次男

木曾冠者義仲、伊豆の国には、流人前右兵衛佐頼朝、常陸の国には、信太三郎先生義憲(よしの

り)、佐竹冠者昌義(まさよし)、その子太郎忠義(ただよし)、同三郎義宗(よしむね)、四郎

高義、五郎義季(よしすゑ)、陸奥國(みちのくに)には、故左馬頭(さまのかみ)義朝が末子(

ばっし)九郎冠者義経、これみな六孫王(そんわう)の苗裔(べうゑい)、多田新發(しんぼッ

ち)滿仲(まんぢう)が後胤(こうゐん)なり。朝敵をも平らげ、宿望(しゆくまう)をとげし事

は、源平(げんぺい)いづれ勝劣なかりしか共、今は雲泥まじはりをへだてて、主従の礼にも猶(

なお)おとれり。國には国司にしたがひ、庄には預所(あづかりどころ)につかはれ、公事(く

じ)雜事(ざうじ)にかりたてられて、やすひおもひも候はず、いかばかりか心うく候らん。君

もしおぼしめしたたせ給ひて、令旨をたうづる物ならば、夜を日についで馳せのぼり、平家をほろ

ぼさん事、時日(じじつ)をめぐらすべからず。入道も年こそよッて候へども、子供ひきぐして

まいり候べし」とぞ申したる。

 宮はこの事いかがあるべからんとて、しばしは御承引もなかりけるが、阿古丸(あこまる)大納

言宗通(むねみち)の卿の孫、備後の前司季通(すゑみち)が子、少納言伊長(これなが)と申し

候は勝れたる相人なりければ、時の人相(さう)少納言とぞ申しける。その人がこの宮を見まいら

せて、「位に即(つか)せ給ふべき相まします。天下(てんが)の事思し召し放たせ給ふべから

ず」と申しけるうへ、源三位入道もか様に申されければ、「さてはしかるべき天照大神(てんせう

だいじん)の御告(おんつげ)やらん」とて、ひしひしと思し召したたせ給ひけり。熊野に候ふ

十郎義盛(よしもり)を召して、藏人(くらんど)になさる。行家(ゆきいへ)と改名(かいみや

う)して、令旨の御使ひに東國へぞ下りける。

 同(おなじき)四(しッ)月二十八日、都をたッて、近江の国より始めて、美濃尾張の源氏ども

に次第にふれてゆく程に、五月十日の日、伊豆の北条に下り着き、流人前(さきの)兵衛の佐殿

に令旨たてまつり、信太(しだ)三郎先生義憲(よりのり)は兄なれば取らせんとて、常陸國信太

の浮嶋(うきしま)へくだる。木曾の冠者義仲は甥なれば賜(たばん)とて、山道(せんだう)へ

ぞおもむきける。

 その頃の熊野の別當湛増(たんぞう)は、平家に心ざしふかかりけるが、なにとしてか洩れ聞い

たりけん、「新宮(しんぐう)の十郎義盛こそ高倉宮の令旨給はッて、美濃尾張どもふれもよほし

、既に謀反を起こすなれ。那智新宮の者どもは、源氏の方人(かたうど)をぞせんずらん。湛増は

平家の御恩を天山(あめやま)とかうむッたれば、いかでか背きたてまつるべき。那智新宮の者

共に矢ひとつ射かけて、平家へ仔細を申さん」とて、ひた甲(かぶと)一千人、新宮の湊へ發向(

はつかう)す。新宮には鳥井の法眼(ほうげん)・高坊(たかばう)の法眼、侍(さぶらひ)には

宇井・鈴木・水屋(みずや)・龜の甲、那智には執行(しゆぎやう)法眼以下(いげ)、都合その

勢二千餘人なり。時つくり、矢合はせして、源氏の方にはとこそ射れ、平家の方にはかうとこそ射

れとて、矢さけびの聲の退轉もなく、かぶらの鳴りやむ暇もなく、三日がほどこそたたかふたれ。

熊野の別當湛増、家子郎等(いへのこらうどう)おほく討たせ、我が身手おひ、からき命を生きつ

つ、本宮へこそ逃げのぼりけれ。


 ―― 鳥羽殿で鼬(いたち)が沢山騒いだので、占わせてみると、三日の間に吉事と凶事とがあ

るということであったが、果たして法皇は鳥羽からお出になることが出来た。都では高倉宮の計画

が知れて大騒ぎとなり、討手がただちに宮の御所にさしむけられた。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2018年12月14日 10時17分58秒
コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: