草加の爺の親世代へ対するボヤキ

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2018年12月30日
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第 三百九十三 回 目


 今回は前回の続きの意味合いで 「 情けは 他人 の為ならず 」と言うタイトルで、この

諺の持っている非常に深く、含蓄のある味わいを皆様方と御一緒に再検討してみようと考えまし

た。それが取りも直さず青森県上北郡の野辺地町を起点に始まる、セリフ劇活動の真の目的をも

鮮明に種明かしして呉れると、確信しているからであります。


 私達は、とりわけ現代人と呼ばれる人達は個人尊重の立場からして、自己の利益を第一に全ての

事柄を考え、その考えに基づいて行動をする。そういう思考のパターンが定着しており、それに

従った行動様式が常識となっています。その事自体に注文を付ける積りは毛頭ありません。しかし

「急がば廻れ」という教えもありますので、心にゆとりと幅を持たせて、もう一度対象や状況を




 私・草加の爺自身の体験から言っても、自分の為だけを念じて何か行動を起こすよりも、家族や

隣人、更には社会の為を思って真剣に考え、行動を起こした場合の方が結果としては、何倍も多く

自分の為になって自分に還って来る事を、実感し体感出来ております。この一種逆説的な道理の

在り方が正に「人生の極意」なのであろうと、痛切に思い知らされている。


 此処は説得の場所ではありませんので、ごく簡略に結論染みた事だけを取り敢えず申し述べます

ので、あらかじめご承知置き下さい。

 聖武天皇が国民の安寧幸福を願われて大仏造営を祈願された際にも、先ず「浄財」を全国から

募ることから始められた。明治の日本も西洋の知恵に学んで、当時の浄財集めである株式を広く

民間から集めて大きな国家的な事業の数々を、創始する事が出来た。今日の国際社会や日本でも

この資本主義的な「発想」は、修正資本主義と呼ばれるようになってからでも既に久しいのです

が、いや、それ故に金銭という非常に便利で具体的な力に根拠や原点を求める、一種の浄財主義



大写しになっていて、その他の事柄は全く目に入らない、といった珍風景が現出していますね。

 しかし、これはどう考えても可笑しい、異常でありますよ。

 キリストの愛の教えを引くまでもなく、仏教でも唯識の「一切唯心造」、つまりこの世の全ての

事象は我々の心がそのように認識しているから存在するのだ、とする考え方が厳存しています。

更には「無盡灯」の考え・思想もあります。つまり、一つのろうそくに灯った燈が次々と上下左右



心に確実に掻き起こされた 温もり もまた、次々とリレーされて 全人類に伝達される のであ

ります。

 彼のマザーテレサも言っています、愛の反対は憎しみではなく無関心なのだ、と。絶望もまた

人の心の為せる業であります、同じ心の作用ならば「失望を希望に変える」方向に私達の心を

ちょっとだけ舵を切ってみようではありませんか。私達にはその能力と智慧とが備わっているので

すから。

 以上の言葉は、他人を説得する目的のものではありませんで、私・草加の爺が心の中で自分自身

の心構えを整理整頓したものと、御承知下さい。人様には傍からは伺い知れない様々な「隠され

た」諸事情があるものなのですから、自分勝手に相手を「勝手読み」しては断じてならないので

す。呉れ呉れも慎重に、細心に、そして最後には大胆に相手に向かって切り込む。そういう心構え

が私には必要でありましょうから…。

 扨て、どうしても野辺地の方々に申し上げなければならない、大切な事があります。既に大風呂

敷を広げに広げ過ぎた感があるので、個人的にはもう十分過ぎるくらい十分に申上げた積もりに

なったのですが、ここまで来たからには肝腎要の真実を申し述べろと、私に「啓示が降りて来て

居て」どうしても中断が許されないので、独り言と聞き流されても仕方がないと覚悟の臍を固め

て、開陳致しましょう。

 私達は全員がイエスキリスト的な存在なのだ。もしくはキリストは私達一人一人の直ぐ隣りに

立っていて「敲けよ、さらば開かれん」と声なき声を発している、のだと。

 別の比喩を披露しましょう。ips 細胞と言う細胞がつい最近話題になっています。将来において

人体のあらゆる細胞となり様々な臓器に変化する可能性を、内側に秘めた万能細胞の事だそうで

す。人類全体を人体に比すれば、一人一人の個人はこの万能細胞に準えることが可能です。

 人は簡単に奇跡、奇蹟と御大層らしく口にしますが、この世の中で奇蹟の類に属さない事象や

現象があるでしょうか。見る物聞く物の全て奇蹟と言えないでしょうか。私達は、特に現代人は

この奇跡に慣れ過ぎて、奇跡を奇跡と感じなくなってしまっている。私達の人体にしてからが、実

に奇蹟の塊そのものではありませんか。受胎から発生のメカニズムを知れば知る程に、驚嘆の

一語に尽きるではありませんか…。

 精霊による懐胎、人間としての受肉、人類の罪を一身に背負っての十字架上の悲惨な死と復活、

大いなる愛情の人であると同時に贖罪を齎す者、そして常に我々の良き隣人とし在る「キリスト」

は特別な事であって、実は特別な事ではない、この此岸に於ける人間の「在り方」の象徴であり、

一代表であるとも解釈可能なのです。

ですから、私達は「意欲」さえ正常に保てば「奇跡」が可能なのであります。様々な有形無形の

メッセージがその事実を明瞭に私達に告げています。ただ、私達の側にその有難いメッセージを受

け入れる心の準備が、有るのか無いのかが問われるだけ。アンテナをしっかりと張り巡らしさえ

すれればOKなのであります。謙虚であり、感謝の心さえ忘れなければよいのでありますよ。

 浄財ではなく、善意、無垢な心、赤心を集めることがその儘で、正に画期的な一大偉業をスター

トさせるに十分なのであります。その大変さは普通に新しい事業を開始するのと、何等選ぶところ

はありませんが。

 そして、古代からの名言・至言の最たるものに「ペンは剣よりも強し」という格言があります。

長い時間のスパンで見れば、人を殺し、破壊において最強の武器である剣は、遂に人を活かし建設

に強力な力を発揮するペンには敵わない。ペンは、人類が手にし得た「武器」の最大のものだ、の

謂いですね。

 そのペンの象徴する言葉・文章・文学・劇の力を以ってして、偉大なる仕事を成し遂げるのに

何の疑いがありましょうか。あるとすれば、その責めはきっと言葉の側にはなく、それを用いる

人間の側にあるに相違ないと肝に銘じて、様々な障害や壁に対処しようと私・草加の爺は滿を持し

ている所なのであります。普通なら、神の御加護をと敬虔なる祈りを捧げてしかるべきなのでしょ

うが、御加護の手応えは既に十分過ぎる位に受けておりますので、後は粛々と行動を開始する段階

に到達した。そう言えるのであります、間違いなく。

 私に可能な事に対してベストを尽くす。 レッツ アクト!

 ここで私が野辺地の町の人々に対するスタンスに就いて一言、述べさせて頂きたいと存じます。

確かに私・草加の爺は私独自のコンセプトに基づくセリフ劇を御地に根付かせ、花開かせようと考

え直接の働き掛けを始めたいと考えて居ります。その事自体は世の中広しと言えども余人を以って

代えがたいユニークな特殊な能力を必要とする特別任務であります。その事実は素直に認めて頂き

たいし、私自身にもなにがしかの自負が御座います。

 けれども、それだからと言ってその事を過剰に恩に着せたり、殊更に驕り昂ぶったりといった気

分や態度は金輪際ないつもりであります。神が勿体無くもこの様な大切な仕事で、私如きふつつか

で未熟な者をよくぞお使いになるお気持ちになられたと、恐れおののくような気持で拝命したミッ

ションであります。町の方々との息の合った二人三脚は必須にして最低限の条件でありますから

して、何卒宜しくご指導ご鞭撻の程を何度でもお願いしたい率直な、文字通りに謙虚な、そして

ごくごく素直な気持ち、心の持ち方で居りますので、そのお積りで御対応をお願い申したいと存じ

て居ります。

 その事に関連して、私・草加の爺の人生の大事に処する姿勢について、一言しておきたいと思い

ます。私は何事によらず徹底してやらないと気の済まない性分でありますが、よくも悪くもプロ意

識に徹し切れない所があります。と言うよりもディレッタントが性に合っていると申しますか、

何事にも遊び心を持ち込んでしまう癖がある。ですから、人様から見て「何々らしくない」という

評価を頂戴する事になる。プロデューサーの時はプロデューサーらしくないと言われ、教師を勤め

れば教師らしくないと評され、学習塾の講師としても普通の講師らしくないと「褒め言葉」を頂戴

しました。結局のところ「らしくない」のが私らしさ、古屋克征のライフスタイルとなっていま

す。バカは死ぬまで治らないと言いますが、私の らしくない 流儀は生涯直しようのない物と

御承知おき下さり、せいぜい可愛がってやって頂きたいものです。しかし、甘えたり、楽をした

りをおねだりする心算は毛頭御座いません。

 西行は「 寂しさに 耐へたる人の またもあれな 庵ならべん 冬の山里 」と詠みました

が、言ってみれば私は同じ呼び掛けを野辺地の土地神様から受けた、そこで私で宜しかったら庵を

並べる隣人として住まわしてくださいませんか。そして、共に花咲く春を待とうではありません

か、と応じた者として優しく受け入れて頂けたなら、これに過ぎる幸福は御座いません。

 蛇足めいた付け足しになりますが、私は六十歳を過ぎてからおよそ十五年間、学習塾の講師と

して暮らす実に幸せな時を過ごす幸運に恵まれました。それと言うのも、生徒の子供達から様々な

教えを蒙ったからであります。えっ、何だって? 学習塾の講師なら「教えた」、「指導した」

と表現するのが本当なのではないか。そう貴方は仰る、はい、教えもし、指導も致しましたが私

は教えるよりは遥かに多くの事柄を、教え子達から学んだのであります。或いは、生徒達を通して

教えられた、と表現した方がより正確なのでしょう。そして、何度もブログに書いた事ですが

小さな奇跡を連発した。六十五までの五年間は同時に東京都内の私立高校で、虐めにあって学校に

通えなくなくなった引き籠りの生徒達を十人程担当したが、ここでも奇跡と学校側の関係者から

称される評価を受けたが、生徒達から多くの事を教えられた、実際の話が。

 私は、そういう意味からも本当に教師・先生らしくない教育者でありましたし、プロデューサー

の時代にも「時代劇を玩具にして遊んだ」能村庸一氏と一緒に、仕事を徹底して「遊んだ」の

であります。そんな私を評して或る女優さんは「プロデューサーらしくないお方」と驚嘆の言葉を

発していましたよ。

 私は既に後期高齢者の仲間入りを果たした老人でありますが、精神年齢は十歳を高言して憚らな

い変な爺であります。野辺地の町の方々にせいぜい可愛がって頂き、多くの事柄を御教授願いたい

と期待いたしても居ります。

 また、六十歳の折にキャリアカウンセラーの勉強をして、自己の棚卸をしました。プロデュー

サーとしての自己をカタリスト、つまり触媒だと規定しました。

 今度の新しい仕事の始めに当たって、自分の立ち位置を自己規定するならば、「歩みを共にする

良き隣人たれ」と念じている者、と考えるのであります。少なくとも 善意を持った隣人 と

暖かく迎え入れて下さると有難い。そう念願する気持ちでいっぱいであります。





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最終更新日  2019年01月15日 17時33分38秒
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