光圀の西山荘

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2024.07.30
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カテゴリ: 光圀の諸国への旅




 板橋駅前にある「近藤勇と新選組隊士の墓」に来た。2004年に放送されたNHKの大河ドラマ「新選組!」がきっかけで、幕末の勉強を始めたが、その時初めて見学したスポットは近所の流山にある近藤勇の陣屋ではなく、ここであった。



 入り口の右側には、由緒、新選組局長近藤勇、同副長土方歳三、同二番隊組長で墓碑の建設の発起人でもある永倉新八の絵が飾っている。



 近藤勇の絵が彫ってある石。20年以上前に来た時にこれがなかった。



 墓碑、近藤勇の像。近藤勇は、慶応4年(1868年)4月25日に板橋平尾宿にあった一里塚で斬首され、首は京都三条河原にさらされ、胴は滝野川三軒家の無縁塚に埋葬された。墓碑は、近藤勇、土方歳三のほか殉死した隊士の供養のために、永倉新八が発起人となり、旧幕府典医松本良順の協力を得て明治9年(1876年)に建てられたものである。新選組の祭祀を目的とする最初期の供養塔として学術的に貴重である。側面には110名の新選組に関わった人々の名が刻まれている。



 永倉新八の墓碑。永倉新八は松前藩出身で新選組最強の剣士と言われる。神道無念流だが近藤勇の道場・天然理心流「試衛館」の食客となり、浪士組、新選組の結成に近藤とともに行動してきた。新選組の勇名が天下に轟いた池田屋事件では、近藤勇、沖田総司、藤堂平助とともに池田屋に切り込み、近藤と最後まで戦ってきた。油小路事件で伊藤甲子太郎らを粛清した。ドラマだが、「新選組!」で描いたように、沖田総司が病気で倒れた後に、原田左之助とともに、新選組のすべての戦いで、土方が現場に出ないなら現場責任者、土方が現場に出るなら先陣、切込み、ナンバーツーとして動いたという役割を担っていた。甲州勝沼の戦いの後に近藤、土方と意見衝突し、新選組を離れたが、靖兵隊(靖共隊)を結成し、北関東で官軍と抗戦していた。米沢藩滞留中に会津藩の降伏を知って江戸へ帰還し、松前藩士として帰参が認められ、明治3年(1870年)、藩医・杉村介庵の娘・きねと結婚して婿養子として松前に渡った。その後に、牛込、小樽へ転居し、大正4年(1915年)1月5日に小樽でなくなった。77歳であった。永倉の墓所は小樽市中央墓地、札幌市里塚霊園、ここである。墓碑の字はのち貴族院副議長になった蜂須賀正韶侯爵によるもの。永倉の協力でできた『新選組顛末記』は新選組を研究するための重要な史料として知られる。









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最終更新日  2024.09.05 10:35:17
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