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楽しい歓談が終わったらもう午後4時に過ぎた。駅まで歩いて戻り、近くの松山慈祐宮へ参拝。 主祭神は媽祖とも呼ばれる天上聖母。松山慈祐宮(Sōngshān Cíyòu Gōng )は1757年に創建。清国統治の時この界隈は錫口(Xíkǒu)と呼ばれた。このため、寺は創建当初に「錫口媽祖宮(Xíkǒu Māzǔ Gōng )」と呼ばれた。後ろが基隆河であり港があったため、この界隈は、媽祖宮を中心に徐々に発展してきた。日本植民地統治時代の1920年に錫口界隈の景色は四国の松山に似てるとして松山へ名を改めた。錫口媽祖宮も松山慈祐宮へ名を改められた。このため、慈祐宮は東京阿波おどり振興協会との国際交流を進めているらしい。 なお台湾の媽祖廟の御神体は基本的に中国の福建省からの分霊だったが、松山慈祐宮は清国統治時代で逆に福建省の仙霞媽祖廟(Xiānxiá Māzǔ Miào)に分霊を請われた。仙霞媽祖廟は文化大革命の時に破壊されたが、1991年に再建。その後、仙霞媽祖廟の関係者はかつて松山慈祐宮から分霊を請ったことを確認することができた。
2024.08.24
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今回の台湾帰国で初めての遠出で松山駅エリアに来た。中国語の発音は松山車站(Songshan Chejhàn)となっているが、日本植民地統治時代からの地名なので、松山駅という日本語も今でも通用している。MRTの松山駅、台湾鉄路の松山駅が一緒であるg、台湾鉄路の松山駅は、JR四国の松山駅とは姉妹駅提携。松山区は台北市でも地理的に中心部の位置にあり、かなり早く開発されてきた界隈であるため、再開発がかなり進んでいるところでもあれば、歴史のある界隈も残っている。 駅から出たら、会合までまだ時間があるので、台北府城隍廟へ参拝。主祭神は城隍神(じょうこうしん)。清国は1875年に台湾北部で今の新北市、宜蘭県、基隆市、新竹界隈まで管轄する台湾府を設置。1881年に陳星・台北府知事は今の延平南路や漢口街あたりに台北府県城隍廟を建立。日本植民地統治時代の1908年に城隍廟が取り壊されたため、ご神体が霞海城隍廟へしばらく安置された。国民政府がのち台湾省城隍廟としてかつての台北府県城隍廟の跡地の近くに城隍廟を再興したが、台北府県城隍廟の信者はすでに1924年ご神体を松山界隈へ迎え、1927~28年に昭明廟という名前の新し寺を建立した。さらに信者らの要望で2002年に昭明廟は台北府城隍廟へ改めた。
2024.08.24
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疲れが溜まったせいかもしれぬが、昨日にやらなくてはならない出張前の準備をし忘れた。結局平日に駅前の郵便局で済ませることができることを駅から20分ほど離れる松戸郵便局へゴー。しかもその後は土曜出勤...。 心を静めるために松龍寺へ参拝。献灯まつりおよびとうもろこし市が行われているので、山門だけではなく、坂川周辺にで店がかなりある。 松戸では、江戸時代から今日に至って毎年の夏における松龍寺の「すくも観音」の縁日に「とうもろこし市」が行われてきた。本堂の前に置いてあるのは灯りである。この日に松龍寺へ参拝すると四萬六千日参詣したのと同じご利益があるといわれている。 観音堂は、この縁日のみに御開帳。 本堂と観音堂へ参拝した後に、寺務所へ御朱印をいただいた。ご住持がお忙しそうで、よく留守している。そのため、数回参拝してきたが御朱印をいただくことができなかったが、やはり縁日ならご住持はいらっしゃるね。
2024.08.10
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板橋駅から帰宅するが、久しぶりにこの界隈に来たので、懐かしい所へ見学。 板橋駅前にある「近藤勇と新選組隊士の墓」に来た。2004年に放送されたNHKの大河ドラマ「新選組!」がきっかけで、幕末の勉強を始めたが、その時初めて見学したスポットは近所の流山にある近藤勇の陣屋ではなく、ここであった。 入り口の右側には、由緒、新選組局長近藤勇、同副長土方歳三、同二番隊組長で墓碑の建設の発起人でもある永倉新八の絵が飾っている。 近藤勇の絵が彫ってある石。20年以上前に来た時にこれがなかった。 墓碑、近藤勇の像。近藤勇は、慶応4年(1868年)4月25日に板橋平尾宿にあった一里塚で斬首され、首は京都三条河原にさらされ、胴は滝野川三軒家の無縁塚に埋葬された。墓碑は、近藤勇、土方歳三のほか殉死した隊士の供養のために、永倉新八が発起人となり、旧幕府典医松本良順の協力を得て明治9年(1876年)に建てられたものである。新選組の祭祀を目的とする最初期の供養塔として学術的に貴重である。側面には110名の新選組に関わった人々の名が刻まれている。 永倉新八の墓碑。永倉新八は松前藩出身で新選組最強の剣士と言われる。神道無念流だが近藤勇の道場・天然理心流「試衛館」の食客となり、浪士組、新選組の結成に近藤とともに行動してきた。新選組の勇名が天下に轟いた池田屋事件では、近藤勇、沖田総司、藤堂平助とともに池田屋に切り込み、近藤と最後まで戦ってきた。油小路事件で伊藤甲子太郎らを粛清した。ドラマだが、「新選組!」で描いたように、沖田総司が病気で倒れた後に、原田左之助とともに、新選組のすべての戦いで、土方が現場に出ないなら現場責任者、土方が現場に出るなら先陣、切込み、ナンバーツーとして動いたという役割を担っていた。甲州勝沼の戦いの後に近藤、土方と意見衝突し、新選組を離れたが、靖兵隊(靖共隊)を結成し、北関東で官軍と抗戦していた。米沢藩滞留中に会津藩の降伏を知って江戸へ帰還し、松前藩士として帰参が認められ、明治3年(1870年)、藩医・杉村介庵の娘・きねと結婚して婿養子として松前に渡った。その後に、牛込、小樽へ転居し、大正4年(1915年)1月5日に小樽でなくなった。77歳であった。永倉の墓所は小樽市中央墓地、札幌市里塚霊園、ここである。墓碑の字はのち貴族院副議長になった蜂須賀正韶侯爵によるもの。永倉の協力でできた『新選組顛末記』は新選組を研究するための重要な史料として知られる。
2024.07.30
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「神也. kaminari」から出た後に、東武東上線で帰り道へ。 乗り換える前に板橋駅前公園に鎮座する板橋豊川稲荷社へ参拝。御由緒は不明。祭神は豊川吒枳尼天。豊川稲荷を祀る稲荷社は都内で少ないが板橋区にいくつかの豊川稲荷社があるのだ。豐川稲荷東京別院へ参拝する時間が作れないので、ここへ参拝。
2024.07.30
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末廣神社への参拝が終わった後に、すぐ近くの松島神社へ参拝。 創建の年代は不明だが、鎌倉時代の元亨(1321~24)の前かと言われる。当時この辺りが海であったが、松の木が鬱蒼と生えた小島に柴田家の邸内社として祭られてあった。神社は毎晩に掲げる燈火を目標にした舟人が航海の安全を得たと伝えられる。天正13 年(1585) 2月13日に松島稲荷大明神として一般に公開参拝の自由が許され、大正5年(1916年)6月10日に松島神社と改称される。伊邪那岐神や大国主神をはじめ、14柱の神様が祀られる。大国主神は大黒天の仮の姿と言われる。大黒天は日本橋七福神である。
2024.07.13
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土曜出勤だが、その前に上様に謁見するために人形町を降りた。 その前にまず末廣神社へ参拝。 創建の年代は不明だが、慶長元年(1596年)には鎮座していたという。「葭原(吉原)」が「明暦の大火」によって浅草閉店する前に総鎮守社として信仰されてきたが、その後にも難波町・住吉町・高砂町・新泉町の氏神として信仰されている。今の社殿は昭和22年(1947年)に再建された。主祭神は倉稲魂命、武甕槌命(毘沙門天)である。毘沙門天は日本橋七福神である。武漢ウィルスとやら新型コロナウィルスとやらの感染拡大から御朱印は書き入れではなく、書置きでの授与になった。
2024.07.13
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久しぶりの休日だが、1年以上ぶりの北小金へ。 西口から10分ぐらい進むと、本土寺の山門が見えた。 山門から仁王門まで歩いても5分ぐらいかかる。 本堂。本土寺は、日蓮の寺院。御本尊は三宝尊。池上の本門寺、鎌倉の妙本寺とともに「朗門の三長三本」と呼ばれる。「朗門」とは日蓮の弟子日朗の門流という意味である。建治3年(1277)、下総国八幡荘曾谷郷(今の千葉県市川市曽谷)の領主であり、日蓮の信者である曾谷二郎兵衛尉教信の協力によって、日朗・日像ら日蓮の門人を輩出した源氏の名門平賀家の平賀忠晴の屋敷で寺号を得て開山した。 松戸市指定文化財の秋山夫人の墓所。天正10年(1582年)の甲州征伐で武田信玄直系は男子の自害・戦死・処刑で断絶。甲斐と武田氏の名跡継承という条件で武田勝頼を裏切って徳川家康に臣従した武田一族の穴山梅雪が本能寺の変の後に殺害され、子の勝千代も病気で15才の時になくなったため、穴山家も断絶。徳川家康はのち側室の秋山夫人が生んだ5男の信吉を甲斐の武田氏に継承させた。秋山夫人・下山殿(於都摩)は武田二十四将の一人である秋山虎繁の甥とされる秋山虎康の娘で、穴山梅雪の養女として家康に嫁いだ。信吉は家康の関東移封に従って下総国小金城へ移った。秋山夫人はともに小金へ移ったが、翌年でなくなり、本土寺の参道脇に葬られる。信吉は慶長7年(1602年)に水戸藩へ移ったが、慶長8年(1603年)に21才でなくなった。のち、信吉の甥にあたる第二代水戸藩主徳川光圀が鷹狩りで小金を訪れた際に、埋葬地の目印である松を発見し、貞享元年(1684年)に本土寺の本堂脇に立派な墓石を建て、手厚く供養した。なお本土寺には、お都摩の父・秋山虎康の墓石もあるが、見当たらない。武田信吉の関係で、松戸界隈では旧武田家臣との縁のある寺院も多い。 日像聖人をお祀りする像師堂。 「乳出のご霊水 日像菩薩誕生水の井戸」。日像上人が生まれた時、清水が湧き出て、それを産湯として使ったとされる。後に井戸とし、その水を飲むと病気が治り、たちまちに乳の出がよくなるという不思議なご利益により参詣祈願の列が絶えず、安産・子育てに霊験があると伝えられている。 本土寺は、現在関東地方で最も知られる「あじさい寺」であるが、「四季花の寺」としても知られる。 この時期だと、アジサイがちょうど見所だった。花見の後に、寺務所で限定の御朱印を書き入れていただいた。
2024.06.20
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「Japanese noodle 葉山 神楽坂店」を出た後に、善国寺の隣の裏道へ進み、飯田橋と市ヶ谷の間の住宅区へゴー。 神楽坂若宮八幡神社へ参拝。 マンションと一軒家に囲まれた小さい神社だが、文治5年(1189年)創建。源頼朝が奥州藤原氏征討の出兵(奥州合戦)をした際、当地で戦勝祈願をし、成就したことから、鶴岡八幡宮の若宮(仁徳天皇)の分霊を勧請した。のち文明年間(1469~1487年)、太田道灌が江戸城鎮護のために社殿を再興した際に鶴岡八幡宮を分祀したと伝わる。このため、八幡神は誉田別命と呼ばれる応神天皇であるが、神楽坂若宮八幡神社の主祭神は、仁徳天皇、応神天皇ということである。本来の社殿の規模が大きく、境内が広かったが、東京大空襲の時にすべて焼失された。今の社殿は平成11年(1999年)再建されたものである。 かつては歓喜天社や稲荷社などの摂末社があったが、稲荷社のみ現存している。 社務所は神社と隣接するマンションの1階にある。ここで御朱印を書き入れでいただいた。
2024.06.17
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フクフクから出た後に、あんまり歩いていない古ヶ崎界隈から歩行で帰宅。 途中にバス停の「小僧弁天」という文字を見て、向かえの祠へ参拝。ここはまさに小僧弁天と呼ばれる義真を祀る祠である。萬満寺と同じ、小僧弁天の碑にも義真弁財天の文字も書かれている。境内は武漢ウィルスとやら新型コロナウィルスとやらの感染拡大の令和2年に整備が完成された。
2024.06.09
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土曜出勤だが、少し散歩をしてから仕事に行きたいので、国会議事堂前を降りた。 少し歩いたら、去年の東京十社めぐりの時以来の日枝神社に到着。 明治5年(1873年)の官国幣社の選定時に漏れ、東京府の府社となったが、皇城鎮護の神社が府社であっていいはずがないという声もあり、明治15年(1882年)に官幣中社、大正元年(1912年)に官幣大社へ昇格したという経緯があった。武漢ウィルスとやら新型コロナウィルスとやらの感染拡大以来のフルコースの山王祭も行われたばかりだ。明治時代で神仏分離令が執行されたにもかかわらず、周辺の神社、寺院は今日に至って山王祭に協力しているようだ。 外堀通りの辺にある鳥居は山王鳥居と呼ばれる。男坂の鳥居は日枝神社鳥居と呼ばれる 男坂に登ると、神門に着く。 神門。 正殿と拝殿。主祭神は大山咋神。相殿に国常立神、伊弉冉神、足仲彦尊を祀る。境内社は山王稲荷神社、八坂神社、猿田彦神社。 父神猿。 山王祭の時のみ見られる宮神輿。 象の山車。 御鳳輦二基。 鎌倉時代で江戸氏が山王宮を祀るのが起源である。時代小説などでは日枝神社のことを山王社とも呼ぶ。文明10年(1478年)に太田道灌が江戸城内に鎮護の神として川越山王社を勧請した。徳川家康が江戸に移封された時山王社を城内の紅葉山に遷座し、江戸城の鎮守とした。徳川秀忠による江戸城改築の際に、山王社を江戸城外の麹町隼町に遷座した。徳川家康、秀忠、のち家光は社地を寄付。明暦の大火で焼失されたが、四代将軍家綱は山王社を江戸城から見て裏鬼門に位置する現地へ遷座した。昭和20年(1945年)の東京大空襲で社殿が焼失し、昭和33年(1958年)に再建された。 境内にかなり参拝客と観光客がかなり多くて、混雑しているため、境内社への参拝と撮影を断念し、御朱印をいただいた後に職場へ。
2024.06.08
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久しぶりの休日だから、ちょっと歩いて、あまり行かないお店へ食事しようかと思って、新松戸方面へ歩行でゴー。 途中に三日月神社へ参拝。 普段無人だが、かなり歴史のある神社だ。鎌倉時代の建久9年(1198年)、千葉氏が三ヶ月台に築いた小金城の鬼門・守護祠が発祥とされる。寛延4年(1751年)、村の有志が三日月にゆかりの出羽三山(山形県)の月山に参拝した際「月の神霊が宿る石」を持ち帰り、鬼門守護祠と合せて三日月村鎮守「三日月大明神」として祀ったと伝えられている。 境内にも菅原天神が祀られている。 大師堂は江戸川八十八ヶ所霊場25番である。 千葉氏のどの代の当主が三日月神社の発祥とされる祠を建立したか不明である。いろんな資料は、千葉介頼胤としているが、千葉氏八代目当主の千葉頼胤は延応元年(1239年)生まれだ。建久9年の時の千葉氏当主は、四代目の千葉胤正。
2024.06.06
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勤務を無事に済ませた後に、帰宅の道と反対方向にあるニ七通という道でゴー。 少し裏道へ進んだら、ニ七山不動院に到着。二七山不動院はかつて江戸幕府に仕えた直参旗本の桜井氏の屋敷内にある小さい不動明王を祀る祠であったが、徐々にお寺へ発展してきた。お不動さまのお告げである僧が27日の断食を伴う荒行による供養を行ったことから二七不動と呼ばれるようになったと言われる。このため、二、七、十二、十七、二十二、二十七、と月六回の縁日というお決まりもあり、寺の前の道もニ七通りと呼ばれるようになった。大正12年(1923年)の関東大震災の時に火災で焼失したが再建。平成17年(2005年)の火災により焼失され、ご本尊および御前立本尊が大日山神崎寺へ移した。平成26年にニ七山不動院は墨田区太平町に復興したが、令和4年(2022年)に本来の場所に近い現地へ復興したのである。 都内でも珍しい切支丹灯籠。 ニ七山不動院は、あの東郷平八郎元帥とも縁が深い。東郷平八郎は結婚した翌年に、それまで住んでいた品川の下宿屋から現在の東郷公園敷地へ移り住んだ。日清戦争の時に、東郷平八郎の母は、「浪速」の艦長として出征した息子の武運を二七不動尊へお百度詣でをした。さらに、日露戦争の時、東郷夫人は、毎日二七不動尊へお百度詣でをしたが、5月27日というニ七山不動院の縁日に東郷平八郎が司令官として率いた連合艦隊は日本海海戦でロシアのバルチック艦隊に勝利した。のち、東郷平八郎はこのことを知ったため、自宅にあった楓の木を自ら二七不動堂の境内に手植え、さらにしばしば二七の縁日には奥さんと一緒にニ七不動院へ参拝した。しかも、自ら筆をとり、南無大日大聖不動明王と書かれて奉納した。 関東大震災の時に火災で本堂が焼失されたが、ご本尊は無事であった。東郷平八郎は、自宅が災害を免れたのもお不動さんを信心していたためであろうと思って、不動堂が再建されるまでに屋敷の表玄関の高所にご本尊を安置していた。 ニ七山不動院の御朱印にも、東郷平八郎が揮毫した「南無大聖不動明王」、「為二七山大正十二年十一月東郷平八郎書」という東郷平八郎の書の写し印が押印されている。 今の情勢ということで、前から5月27日にニ七山不動院へ参拝することを決めていた。無事に5月27日の日付の御朱印も授与していただいた。
2024.05.27
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瀬佐味亭から出た後に、職場と反対方向へゴー。 少し歩いたら、浄土宗法真寺が書かれる石柱が見えた。 山号が和順山、院号が歓喜院。正確な開山年代は不明であるが、安土桃山時代だった。慶長元年(1596年)京都の知恩院より寺号を附与されている。 御本尊は阿弥陀如来。天保9年(1838年)に火災に遭ったが、御本尊は無事であった。大正12年(1923年)の関東大震災や昭和20年(1945年)の東京大空襲では被害されなかった。 樋口一葉の小説『ゆく雲』に登場した「腰ごろもの観音さま」。 樋口家は明治9年に法眞寺の隣に引っ越した。樋口一葉はここに9歳まで5年間で住んでいだが、樋口家にとって最も安定した時期であった。法真寺は『ゆく雲』に描写されるため「樋口一葉ゆかりの寺」として知られる。
2024.05.22
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「麺や KATSU!」を出た後に、さらに北へ進み、東水元界隈へゴー。 10分ぐらい歩いたら、「業平山 南蔵院」という文字が書かれる石柱が見えた。 山門。 本堂。天台宗の寺院で、山号が業平山。御本尊は釈迦如来。伊勢物語で知られる平安時代の歌人、在原業平が隅田川の溺死者を弔った経塚のそばに創建された。元禄11年(1698年)、水戸藩下屋敷の用地となった、江戸本所区小梅から本所区中之郷八軒町(現・東京都墨田区吾妻橋3丁目)へ移り、大正12年(1923年)の関東大震災で罹災したため、昭和4年(1929年)に現在地へ移転した。 開運の鐘。 地蔵堂。 南蔵院の地蔵尊は、『大岡政談』にも記載される「しばられ地蔵」として知られる。江戸幕府八代将軍徳川吉宗の治世で、日本橋にある呉服問屋の手代が南蔵院の境内でうっかり一眠りしている間に反物を荷車ごと盗まれてしまった。調べに当たったのは、南町奉行大岡越前守忠相であった。大岡越前が「寺の門前に立ちながら泥棒の所業を黙って見ているとは、地蔵も同罪なり、直ちに縄打って召し捕って参れ」と命じたため、地蔵はぐるぐるに縛られ、車に乗せられ江戸市中を引き廻され南町奉行所へ引っ立てられた。多く野次馬はどのような裁きかと奉行所へなだれ込んだが、大岡越前はタイミングを見計らい、ドアを閉めることを命じ、白州への乱入の罰として反物を科した。さらに手代に多くの反物を調べさせ、盗品を見つけ出すことができ、さらに当時江戸市中を荒した大盗賊団が一網打尽できた。大岡越前は地蔵尊の霊験に感謝し、お堂を建立し盛大な縄解き供養を行った。それ以来、お願いするときは縛り、願い叶えば縄解きするという風習が生まれ、盗難除け、足止め、厄除け、縁結びなど、あらゆる願い事を聞いて下さる霊験あらたかな地蔵尊として祀られている。 聖徳太子堂。ここは元々聖徳太子をご本尊とする聖徳寺という天台宗の寺院があったが、明治維新の神仏分離令による荒廃したらしい。聖徳太子堂の建物は旧聖徳寺の本堂の一部である。本堂の前の松は聖徳の松と呼ばれ、聖徳寺の時からあるという。 水子地蔵。 出世牛。牛に跨ると出世するということであるが、許可が必要かなと思って、御朱印を寺務所へいただいた時に聞いたらご自由にどうぞ、許可の必要がないと教えていただいた。
2024.05.19
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五方山熊野神社への参拝が終わった後に、青砥駅を経由し、環七通りから亀有へ。 途中に東京慈恵会医科大学葛飾医療センター界隈へ向かい、環七と並行する住宅区の道からさらに進むと、青砥神社に到着。正面の鳥居は住宅区に向かうため、わかりづらい。 むしろ拝殿の左側の鳥居は比較的に大きい道に向かうので、すぐ見えるのだ。 拝殿。 青戸界隈ではもともと土の質がよかったので、多くの米と土器を作る人が生活してきた。いろんな変遷で1576年(天正4年)に青戸村の鎮守として、「三社明神」として創建された。三社とは、稲荷、白髭、諏訪ということである。つまり元々の祭神は猿田彦命、健御名方命、宇迦之御霊命であった。明治5年(1872年)に社名が「白髭神社」へ改称されたが、昭和18年(1943年)に旧青戸4丁目で鎮座した白山神社を合祀し、「青砥神社」へ改称された。さらに昭和35年(1960年)に旧青戸町内に鎮座した高木神社、八幡神社、北野神社、葛葉稲荷神社、水神社を合祀した。そして、昭和45年~55年にかけての環状七号線の整備により、葛西城址鎮座の青砥藤綱神社を合祀した。このため、祭神は、猿田彦命、健御名方命、宇迦之御霊命、伊耶那美命、高皇産霊神、誉田別尊、菅原道真公、彌都波能目神、青砥藤綱公。
2024.05.16
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「自家製麺 純」を出てから、中川に沿って青砥界隈へ散歩。 ゆっくり歩いてきたので、20分ぐらいかかったが、無事に10年以上ぶりの五方山熊野神社に到着。熊野神社という石碑は陸軍大将荒木貞夫によるもの。自分の仕事では、皇道派と統制派、荒木貞夫、二・二六事件について語らなくてはならないので、感慨深い。近くに、ロンドン海軍軍縮会議(1930)をめぐって艦隊派の重鎮として知られ、軍令部次長、連合艦隊司令長官を歴任した海軍大将末次信正による紀元二千六百年記念の石碑もあったが、見当たらない。 神門。創建1000年の記念で造営された。 拝殿。主祭神は、伊邪那岐命、速玉男命、事解雄命。 平安時代中期、一条天皇の長保年間(999~1003)に、あの陰陽師として名高い安倍晴明によって熊野大神が勧請され、創建された。しかも、安倍晴明ゆかりの神社として関東唯一、さらに葛飾区内で最も古い神社ということである。 五方山熊野神社の創建も放送されているNHKの大河ドラマ「光る君へ」のお話に関連している。花山上皇が出家して法皇になった後に、今「西国三十三所巡礼」として知られる観音霊場へ巡礼・修行していたが、出発する前に紀伊国熊野の那智山で修行していた。天狗が現れて、花山法皇の修行に様々な妨害を繰り返したが、花山法皇と同行した安倍晴明は、岩屋に天狗を封じ込める祈祷をし、天狗たちの妨害を止めた。安倍晴明は法皇に伴い、熊野の地で三年間の滝行と山籠りの行を上皇と共に行った。そして、その後清浄なる聖地を求める旅の途中に、水害に悩まされていたここに来た時、安倍晴明は陰陽道の陰陽五行説(木火土金水)に基づき、三十間五角(一辺が約55mの正五角形)という形状の境内地に結界を張り巡らせ、古代の石剣を御神体として 紀州熊野の神を勧請したとは五方山熊野神社の起源と言われる。正五角形の境内地は創建時のままであるという。 熊野の杜の幸せを呼ぶ白ふくろう。2014年に参拝しに来た時にはなかった。 境内社の天神社。安永5年 (1776年)に 菅原道真公の木彫像がここへ奉納された。そして、昭和61年(1986年)に 亀戸天神社より御分霊を頂き、菅原道真公の木彫像を奉安する天神社が建立された。 境内社の浅間神社。 境内社の香取神社と水神社。 境内社の稲荷社。 ご鎮座一千年記念事業として建立された五重塔。銅造りのものとしては日本一の高さ(地上より7m)という。 五方山熊野神社が飼う「神馬(しんめ)」のポニー。きらら号とちょこ号は見当たらない。姿を現したのは、一番年下の、ばにら号だ。神社の公式インスタを確認したら、30歳になったきらら号は今も活躍しているという。
2024.05.16
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京成立石駅に近づいたら、線路に沿って青砥界隈へゴー。 少し歩いたら、立石諏訪神社に到着。 祭神は、建御名方神、八坂刀売神。諏訪大社の分社であるが、創建の年代が不詳で、たぶん江戸時代中期かと言われる。御朱印は、兼務社の五方山熊野神社で授与するそうだが、五方山熊野神社の社務所で諏訪神社の御朱印が見当たらないので、もらわなかった。
2024.05.16
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久しぶりの平日の休日だが、どこへ行くかちょっと悩んでいた。とりあえず起きる時間で決めようということにしたが、睡眠の品質が悪くて、深夜までデスクワークをしていたのに、11時頃に目覚めてしまった。 予定通りに亀有を降り、亀有新道に沿って京成立石界隈へゴー。亀有信用金庫本店の前にある本田像、つまりこち亀のキャラクターである本田速人の像が立てられてある。 さらに20分ぐらい歩いたら、略称が南葛の東京都立南葛飾高等学校が見えた。南葛と言えば、『キャプテン翼』に出ている私立南葛高校だが、ここは都立高校だ。ただし、キャプテン翼の原作者である高橋陽一先生は都立南葛飾高等学校のOBだ。 正門の近くに大空翼(ツインシュート)の像が建てられる。高橋先生の監修で四つ木や立石界隈に『キャプテン翼』のキャラクター銅像9体が設置されている。大空翼(ツインシュート)の像は平成30年3月に完成され、九体の中で最も遅く設置されたものであるが、この像や渋江公園に設置される岬太郎の像や最初に設置された四つ木つばさ公園の大空翼の像のみは等身大のものである。ほかの像は小型サイズということである。今日の散歩のルートで9体のうちの3体と出会うことになる。 立石みちひろばにある『キャプテン翼』で「天才キーパー」「S.G.G.K」「東洋の守護神」と呼ばれる若林源三の像。 立石一丁目児童遊園に設置され、「ボールは友達!」という原作漫画・アニメにある大空翼がヒールリフトをするシーンを再現させた像だ。 ほかの6体の像と出会うために四つ木界隈にも時間があれば行ってみようか。
2024.05.16
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一乗寺への参拝が終わった後に、入谷ではなく、上野方向へゴー。 少し歩いたら、護国院に到着。天台宗の寺院で、東叡山寛永寺の子院の一つだけではなく、最初の子院であるため、東叡山護国院とも呼ばれる。山門に大黒天という文字も書かれてあるが、谷中七福神の大黒天を祀るということである。 寛永2年 (1625年)、天海僧正が東叡山寛永寺を開いたと同時に、天海僧正の片腕とも言われた生順僧正は、天海の命で護国院を創建した。本堂は寛永寺の釈迦堂として建てられ、寛永寺の根本中堂が完成するまでの間、東叡山の総本堂の役割を果していた。釈迦堂には釈迦、文珠、普賢の三尊像が安置された。御本尊は釈迦如来であるが、子院としてのご本尊は千手観音。また、寛永16年に大坂城落城25年にあたって、豊臣、徳川両軍の霊を弔うため、大念佛法要が執り行われたが、この功績を称えて徳川三代将軍家光より、藤原信実卿筆と伝えられる大黒天の画像が寄贈された。このため、大黒天を祀ることになった。 なお、今の本堂は、享保2年(1717年)に焼失したたため、享保7年(1722年)に再建されたものである。
2024.05.11
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玉林寺への参拝が終わった後に、入谷方向へ引き続き進む。 一乗寺へ参拝。日蓮宗の寺院で、山号が大法山である。 天正年間(1573~92)創建と言われる。言問通りの角に位置することから「かどいち」と呼ばれる。御朱印にも「かど一」の文字が入っている。御本尊は、釈迦牟尼仏であるが、帝釈天も祀られる。安永9年(1780年)4月、松屋橋通り(多分今の日本橋、八丁堀あたり)の川から帝釈天の石像が見つかった。10月に石像は一条寺に委託したが、明治年間でまた八丁堀あたりに京橋の帝釈様として祀られていた。ただし戦災で堂宇が焼失され、復興も難しいということで、昭和24年9月11日帝釈天はまた一条寺で祀られることになった。 かど一の御朱印は種類が多くて綺麗なのでかなり人気があるという。御朱印帳も結構人気が高い。
2024.05.11
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土曜出勤だが、やはりちょっと散歩したいので、根津を降り、谷中界隈へゴー。 今日の最初に参拝する寺院は玉林寺だ。玉林寺は山号が望湖山、院号が香華院であり、天正19年(1591年)、現在地に創建された曹洞宗の寺院である。 ご本尊は釈迦如来。 今日のもう一つの目的は、千代の富士貢への偲びである。第58代横綱で、昭和最後の大横綱と呼ばれる千代の富士は、初めて通算1000勝を達成し、通算成績、幕内成績、横綱成績の通算勝率、横綱在位が歴代3位の力士である。千代の富士の偉業を称えるために、秋元家の菩提寺でもある玉林寺に千代の富士の像が2011年に建てられた。引退後に九重という名跡を継承した九重親方本人も除幕式に出席。千代の富士は2016年に亡くなったが、九重部屋は今でも玉林寺との交流があり、ここでイベントを行う。 千代の富士の像の眼差しは富士山と秋元家のお墓に向けられるという。実際にこの話に基づいて秋元家の墓を見つけ、偲ぶことができた。なお、わしは千代の富士の試合を一試合しか見たことがないが、あの試合でのちの第65代横綱の貴乃花光司(当時は貴花田)のファンになった。 参拝の後に事務所へ御朱印をいただいた。
2024.05.11
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諏訪神社への参拝が終わった後に、旧水戸街道に沿って柏市区へ戻った。 柏神社へ参拝。参拝者がかなり多いので、いずれの写真も参拝者が少ない翌日の金曜日に撮影したものである。 拝殿。江戸時代に柏近辺で流行した疫病から人々を救うために、寛文元年(1661年)に京都の八坂神社から厄除けとして名高い素盞嗚尊とその妃稲田姫命の分霊を迎えて祀るのが始まりと言われる。万治3年(1660年)頃に山形県出羽三山の羽黒神社より柏の羽黒台に迎えた羽黒神社が、明治21年(1888年)に、八坂神社の境内へ遷宮。明治40年(1907年)に羽黒神社が八坂神社に合祀。昭和49年(1974年)、柏神社へ改称。八坂神社の主祭神は、素戔嗚尊、稲田姫命、羽黒神社の主祭神は月読命、大山祇命、大己貴命、少彦名命、伊氐波神、稲倉魂命。月替わりの御朱印だけではなく、交通安全のイベントも人気。ワイルドスピードに出演したポール・ウォーカー氏の弟さんも柏神社による交通安全のイベントに出席したことがある。 境内社。 境内社の「待道さま」。東葛界隈で信仰されているお産の神様だという。 諏訪神社の御朱印も授与しているため、巫女は、諏訪神社の御朱印の授与を依頼した方に、諏訪様への参拝もしてくださいと必ず言っておく。ご朱印は、参拝した後に授与を依頼するものだと考えているので、わしは、諏訪神社→柏神社というルートで参拝することにしたのだ。
2024.05.09
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にし尾から出た後に、大道まで戻り、交差点まで進んだら右折し、旧水戸街道に沿って北のほうへ向かう。 「明治天皇柏御小休所」の碑。ここは元々江戸時代の柏村の名主で、明治時代になって村長を務めた寺嶋家の邸宅で、多くの文化人が通い、私塾、文化サロンの役割も果たした「摘翠軒」と呼ばれるところであった。寺嶋家は「柏駅」の誘致や「柏郵便局」の開設など実現したともいう。明治13年(1880年)、明治天皇は、陸軍の軍事演習を見学する途中に休みのためにここに立ち寄った。昭和16年に「明治天皇柏御小休所」として、史跡名勝天然記念物保存法による史跡に指定された。 さらに10分ほど歩いたら、「下総 柏鎮守」として知られる諏訪神社に到着。 主祭神は、建御名方命。創建年代は江戸時代だが詳しくは不明ということである。明治40年(1907年)に近辺の山王社・香取神社、天神社、八幡宮、雷神社、琴平神社の6社はに合祀。 境内社の三峯神社、阿夫利神社、八幡宮。 柏諏訪神社は近年、ハシビロコウのお守り・御朱印・御朱印帳を授与することでかなり人気が高い。社務所が都合でしまった場合、柏神社へ授与してもらうこともできる。
2024.05.09
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金ヶ作熊野神社への参拝が終わった後に、県道57号へ向かおう。 無事に祖光院を見つけ。 山門と六地蔵。 本堂。曹洞宗の寺院で山号が金城山。釈迦牟尼仏がご本尊。本堂の隣の観音像は、ご本尊と誤解される如意輪観音のようである。金ヶ作熊野神社の創建に関わる石川彦次右ヱ門は江戸時代天明年間(1781-89)で、金ケ作の開墾を機に菩提寺であった川越の養寿院から住職を迎え、ここを創建したと言われる。秋のお彼岸の時期に、境内の樹林一面に彼岸花(曼珠沙華)が綺麗に咲くということで、彼岸花の名所として知られる。 不動尊と大師堂。大師堂は、東葛印旛大師44番である。ただし御朱印の授与がないようだ。 松戸史跡七福神の恵比寿や大黒天、木魚の上に座り眠って肩の上にネズミが乗っている小坊主の像。
2024.05.06
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もともと出勤する予定だったが、無事に予定の作業を土曜日に済ませたため、明日の勤務の準備さえすればよい。せっかくの祝日だから、気楽で行ったことのない界隈へ散歩しようか。 歩行20分ぐらいで新京成線の駅から電車で常盤平を降りた。八柱をさらに東へ進むと、県道とは言え歩道が狭いので、地図の指示に従っても時間がかなりかかることもある。とりあえず無事に金ヶ作熊野神社の参道と鳥居を見つけた。 参道と狛犬。 拝殿。金ヶ作熊野神社は熊野三山のひとつ、和歌山県の熊野本宮大社の分社に当たる。主祭神は、伊弉冉命、日本武命。元武州川越藩郷士の石川家五代目石川彦次右ヱ門氏は金ヶ作で新田開発をしていたが、翌年の天明3年(1783年)7月6日の浅間山の大噴火による大量の火山灰の降灰で田畑が大被害をされた。そのため、急遽、石川彦次右ヱ門氏が神社敷地として1,409坪を寄進され、紀州和歌山の熊野本宮大社から分霊を勧請して、熊野神社を建立した。 境内末社の御嶽神社や稲荷神社。 子供の日の時期なら境内で鯉のぼりや五月人形を飾るようだ。
2024.05.06
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吉祥寺への参拝が終わった後に、山門の写真を撮ってから、本郷通りに沿って職場へ。 途中に南谷寺へ参拝。天台宗の寺院で山号が大聖山、院号が東朝院。ご本尊は阿弥陀如来、不動明王。元和年間に万行和尚が伊勢国赤目山で、不動明王像を授けられ、後に今の駒込に庵を開き、赤目不動と号した。庵の前の道は今の動坂で、当時不動坂と呼ばれた。寛永年間、江戸幕府三代将軍徳川家光が動坂の庵に立ち寄り、目黒・目白不動に対し目赤不動と呼ぶべしと命じた。このため、目赤不動尊となり、江戸の五色不動の1つとして知られている。戦争で寺が焼失されたが、御本尊は無事だ。本堂は1958年、不動堂は1983年に再建された。 本堂。しまったままであり、賽銭箱もない。 不動堂。自分でドアを開けて賽銭箱に賽銭を入れる、護摩木を記入するということになっている。御朱印は隣の事務所から書置きでいただいた。
2024.05.04
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駒込天祖神社への参拝が終わった後に、本郷通りに沿って職場へゴー。 途中に吉祥寺へ参拝・見学。吉祥寺は曹洞宗の寺院で、山号が諏訪山。群馬県の永源寺の末寺、神奈川県の最乗寺の孫末寺にあたる。室町時代の長禄2年(1458年)、太田道灌は江戸城築城の際に、井戸を掘ったところ、「吉祥増上」の刻印が出てきたため、現在の和田倉門のあたりに「吉祥庵」を建てたのが始まりといわれる。山号はこの地が諏訪神社の社地であったとされる。のち徳川家康の関東入府にともなって駿河台(現在の都立工芸高校の周辺)に移り、明暦の大火と江戸大火によって現地に移転した。武蔵野市吉祥寺という地名は、明暦の大火で吉祥寺の門前町の住民が住居を失い、五日市街道沿いの地域に移住し、開墾したことによるものである。 御本尊は釈迦如来。江戸時代の時、境内に後の駒澤大学となる学寮「旃檀林」が作られ、幕府の学問所「昌平黌」と並んで漢学の一大研究地となった。 鐘撞き堂。 西暦1804年に築かれた経蔵。文京区指定有形文化財。寺堂などはほとんど東京大空襲で焼失し、1802年築かれた山門と経蔵のみ無事だった。 境内のある釈迦如来坐像と六地蔵。 茗荷稲荷。御朱印は「茗荷稲荷大権現」ということである。 歴史のある寺院であるため、江戸時代の多くの大名の菩提寺にもなった。ここは榎本武揚の墓所。 榎本武揚は幕府の開陽丸発注に伴いオランダへ留学し、のち幕府海軍の指揮官となった。鳥羽・伏見の戦いの時、徳川慶喜は榎本武揚不在の開陽丸に乗って江戸へ逃げたが、2004年の大河ドラマ『新選組!』で榎本武揚、2021年の大河ドラマ『青天を衝け』で徳川慶喜を演じたのは、草彅剛だった。榎本武揚は戊辰戦争で旧幕府軍を率いて蝦夷地を占領、蝦夷共和国の総裁となったが、箱館戦争で敗北し降伏。2年半投獄されたが、黒田清隆の尽力により助命され、釈放後明治政府に仕えた。開拓使、駐露特命全権公使、海軍卿、駐清特命全権公使、逓信大臣、文部大臣、外務大臣、農商務大臣などを歴任、子爵となった。東京農業大学の創設にも関わった。 二宮尊徳墓。二宮尊徳は自筆で金治郎と書いていたが、金次郎として知られる。つまり薪を背負いながら本を読んで歩く姿として知られる二宮金次郎のことだ。江戸時代後期の経世家、農政家、思想家であり、 相模小田原藩士として農村復興に関わり、のち幕臣として召し抱えら、3度目の病気で役所で亡くなった。享年70。 旗本鳥居家の墓。右側はあの鳥居甲斐守耀蔵の墓だ。妖怪と呼ばれる鳥居耀蔵は天保の改革の時に市民に人気のあった南町奉行矢部定謙を失脚させ、自らが南町奉行に就いた。さらに市川團十郎の江戸追放をはじめ市中取締まりを厳しく行ってきた。鳥居と対抗するのは遠山金四郎、遠山の金さんとして知られる北町奉行遠山左衛門尉景元だった。「遠山の金さん」および鳥居の悪いイメージはこの時から芝居、講談・歌舞伎の物語として出来上がってきた。のち鳥居は失脚し遠山は南町奉行として返り咲いた。開国も反対した鳥居は死ぬまで幽閉されていたのである。 八百屋お七・吉三郎の比翼塚。八百屋お七は、本郷の八百屋の娘で、恋人の吉三郎に会いたい一心で放火事件を起こし火刑に処されたとされる少女である。八百屋お七の墓は不明だが、ここはお七や吉三郎をともに祀る比翼塚。
2024.05.04
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駒込富士神社への参拝が終わった後に、さらに住宅区に進み、本務社の駒込天祖神社へ参拝。 無事に駒込天祖神社の正面の鳥居を見つけた。 拝殿への参道。笑い顔の狛犬はかなり特徴的だ。 主祭神は天照皇大神。文治5年(1189年)、源頼朝が藤原泰衡追討(奥州合戦、奥州征伐)の途中に、霊夢に感じ家臣安達盛長に探させたら、松の枝に大麻が見つかった。それで頼朝はその松の辺りに神明宮を建立したのが神社の起源と言われる。その後、中絶して宮守もなく神木の老松の下に小祠のみとなったが、慶安年間(1648~1659)堀丹後守利直(あるいは年直)は再興した。昭和20年(1945年)2月25日おの空襲により拝殿などは焼失したが、戦後に再建された。社殿は伊勢神宮の流れをくむ神明造りである。 境内社の鎮火稲荷神社。祭神は宇迦御魂命。 境内社の三社合祭社。三社とは、淤母陀流神、阿夜訶志古泥神を祀る榊神社、須佐之男命を祀る須賀神社、天手力男命、倭健命を祀る戸隠熱田神社。 亀石。 駒込天祖神社の脇に奉安されている縁結び子育地蔵尊。江戸時代創建という。
2024.05.04
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麺屋なにがしを出た後、本駒込界隈へゴー。 大通りから住宅区へ歩いたら、駒込富士神社の鳥居が見えた。 境内は結構広く、一部が駐車場になっている。 階段から歩いて富士塚へ登った。富士塚の創建年代は不明。 主祭神は、木花咲耶姫。天正元年(1573年)、本郷村の名主は夢の中に木花咲耶姫を見たため、現在の東京大学の地に浅間神社を勧請した。ただし、寛永5年(1628年)、加賀前田氏が屋敷を建つことになったため、1573年、現在の東京大学の場所に、富士塚へ遷座し、合祀された。駒込富士神社は江戸時代の富士信仰の拠点の1つとして知られる。本務社は、近くにあり、通称駒込神明宮の駒込天祖神社である。
2024.05.04
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世の中はGWの最後の土曜日だが、わしはやはり出勤。もちろん、せっかくの連休だから、連休らしき活動をしながら仕事したいもんだ。 湯島から浅草まで歩行で来た。今日は浅草神社と浅草の観音寺へ参拝しようと思ったが、雷門の賑やかさかつ観音寺の参道の行列で観音寺への参拝をあきらめた。 まず弁天堂へ参拝。浅草七福神の弁財天を祀る。観音寺の南東の小さい丘にある。弁財天は池中の小島に祀られることが多いが、弁天山もかつては池の中にあった。現在、池が埋め立てられて公園となっている。 弁天堂への参拝が終わった後にそのまま直進したら、通称「三社権現」、三社様の浅草神社に到着。 主祭神は土師真中知、檜前浜成、檜前竹成。東照宮(徳川家康)・大国主命を合祀。土師真中知、檜前浜成、檜前竹成は観音寺の創建に関わったため、のち観音のお告げで神として祀られることになった。明治の神仏分離により浅草寺とは別法人になり、明治元年に三社明神社に改称、明治5年に郷社に列し、明治6年に現在の浅草神社に改称した。 境内社の被官稲荷神社の鳥居。 被官稲荷神社の社殿。主祭神は、倉稲魂命。 神社の裏通りにある鬼太郎と目玉おやじの像。ウルトラマンの像もあるそうだが、見つけられない。境内はGW期間中に多くの棚が建たれたため、一部の文化財も見つけられなくなった。
2024.05.03
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萬満寺への参拝が終わった後に、すぐ隣の馬橋王子神社へ参拝。 「王子神社は建長八年(1256年)に馬橋の萬満寺の守護神として創建されました。萬満寺は、千葉氏一門の菩提寺でもあり、当時は大日寺と称していました。また、馬橋一帯は、当時砂丘のような地質で水が乏しかったことから、諏訪明神を勧請して寺領の鎮守として祀っていたといわれています。16世紀半ばになると熊野の若一王子(にゃくいちおうじ)を勧請し「王子権現社」としました。さらに、明治6年には政府の神仏分離政策により「王子権現社」は萬満寺と分離され、「王子神社」と称されることとなりましたが、第二次世界大戦終了後は昭和28年に「宗教法人王子神社」となり、現在に至っています。」というのは神社の説明。 拝殿。祭神は幸江序命、市杵島姫命、猿田彦命。幸江序命という神様の名前はあまり聞いたことがないが、調べたら、お諏訪さま、諏訪南宮法性上下大明神として知られる建御名方神の別名らしい。また、幸江序命で建御名方神を呼ぶのもここしかないみたい。 境内社の浅間神社。 境内社の三峰神社。三峰神社の隣に祀られる道祖神は寛文元年(1661年)の銘を持つ安山岩製で「石祠型」としては千葉県内最古のものだという。
2024.05.02
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柏から電車で松戸に戻った途中に新松戸を降りて自宅へ歩行でゴー。 途中に松戸市でかなり有名な萬満寺へ参拝。臨済宗大徳寺派の寺院で、山号が法王山。山門と鐘楼堂はかなり綺麗。 仁王門。左右にある木造金剛力士立像は鎌倉時代の作品だという。寺伝に平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活動した仏師である運慶作というが、実際の作者は不明であると思われる。関東地方に残る仁王像としてはもっとも古くかつ優れた像の一つである。1916年、当時の古社寺保存法に基づき旧国宝(現行法の重要文化財に相当)に指定された。春秋の例大祭や年始には仁王像の股の下をくぐって無病を祈願する「仁王の股くぐり」が行われるという直接に国の指定文化財を触れることができるため、参拝客が多いようだ。 本堂。御本尊は阿弥陀如来。建長8年(1256年) 下総国守護千葉頼胤が忍性を招聘して、真言宗大日寺(現在千葉市稲毛区轟町)として創建。室町時代に入ると、千葉満胤が臨済宗の寺院として再興した。室町幕府第3代将軍足利義満、あるいは鎌倉公方足利氏満の満をもらい、万満寺へ改名したとも言われる。明治41年(1908年)、大火により伽藍のほとんどを焼失してしまったが、昭和62年(1987年)、新本堂が完成した。ただいま本堂の整備工事が行われるようだ。 本堂前にある水掛不動尊と浄行菩薩像。 義真弁財天。二つの説があるが、寺の看板は、「享保の頃(1716~35年)に萬満寺に弟子入りした義真という子が13才の時にいたずらが過ぎて寺を追われ、義真のことを恨んでいる2人の寺男に捕えられて、米俵につめられて川に投げ込まれてしまって亡くなった。義真は「この恨みは必ず子孫にたたってやる」と叫んで死んだ。義真は古ヶ崎村に流れ着き、円勝寺住職によってねんごろに葬られたが、その後に、古ヶ崎の村人の夢枕に義真が立ち、「弁天にまつり供養せよ」と告げた。そのため、坂川のほとりに祠を建てて祀り、「小僧弁天」と呼ばれるようになった。義真を殺した2人の寺男は7日間熱病に苦しんで悶え死に、子孫にも災難が続いた」という説を用いた。
2024.05.02
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西徳寺への参拝が終わった後に計画通りに国際通りに沿って、裏道へゴー。 通称飛不動の龍光山正宝院に到着。享禄3年(1530年)に創立。本来、修験道本山派(天台宗系)の流れをくむ修験道場であったが、明治期の修験禁止令により天台宗寺門派(現・天台寺門宗)に属し、現在は単立寺院となっている。 ご本尊は不動明王。創建後、住職がご本尊のお不動様を笈で背負い、大峯山へ修行しにいったが、ある日、ご本尊が留守の寺に人々が集まり、不動尊を観想して一心に祈ったら、不動尊は一夜にして大峯山から江戸に飛び帰り、祈った人々の願いを叶えたという。それ以来、「空を飛び来て、衆生を守りたもうお不動様」飛不動尊と呼ばれるようになった。小惑星探査機はやぶさが一時行方不明になった際に、プロジェクトマネージャの川口淳一郎が飛不動へ参拝したら、はやぶさは無事帰還してきたということも有名。 下谷七福神の恵比寿様も祀る。 飛不動のすぐ近くに豊川稲荷もある。
2024.04.29
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法昌寺への参拝が終わった後に国際通り方向へゴー。 大きい寺院を見かけたが、山門の前に立たれた「十七代目中村勘三郎墓所」の石碑を見た。調べたら、西徳寺という歴史のある寺院ということがわかった。。しかも十八代目中村勘三郎さんもここに眠っている。 真宗佛光寺派の寺院。山号は光照山。御本尊は阿弥陀如来。寛永5年(1628年)に江戸の金助町(現在の東京都文京区本郷付近)に建立されたが、三回の火事も遭ったが、八百屋お七のお話である天和の大火の後の天和3年(1683年)に現地へ移転。関東大震災で本堂が全壊したが、昭和5年(1930年)再建。2019年に公開された映画「WELCOME TO JAPAN 日の丸ランチボックス」のロケ地となり、「大日本鎖国寺」という架空の寺院として登場した。 御朱印は手書きだったが、武漢ウィルスとやら新型コロナウィルスとやらの感染拡大で書置きとなったものの、種類が増えたようだ。一番伝統的な「常照我」をいただいた。そして寺務所の方の案内で、第十七、十八代目中村勘三郎の墓所へお参りした。
2024.04.29
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小野照崎神社での参拝が終わった後に、国際通りへ向かおうとしたら、毘沙門天と書かれた旗を見た。 下谷七福神の毘沙門天を祀る法昌寺ということである。 法華宗本門流の寺院で、山号が日照山。情報が錯そうしているが、御本尊は大曼荼羅、十界曼荼羅のようである。流派からみれば、法昌寺は、法華宗本門流の「大本山 光長寺」の末寺であるため、「南無妙法蓮華経」が御本尊である可能性が高いかな。関東大震災で罹災したが、震災後に再建。 本堂の隣の地蔵は、たこ八郎地蔵と呼ばれる。たこ八郎は、元プロボクサーで役者やコメディアンとして活躍し、「あしたのジョー」の矢吹丈のモデルとも言われるが、酒を飲んでから一人で海水浴をしていたところで心臓麻痺でなくなった。たこ八郎の墓は故郷の宮城県にあるが、由利徹、赤塚不二夫、映画監督の山本晋也らが「東京でもお参りする所があったらいい」という提案をした。このため、発起人としてたこ八郎地蔵が建てられた。胴体の部分には、たこの遺筆による座右の銘「めいわくかけて ありがとう たこ八郎」と刻まれている。地蔵像の後ろには、ボクシングのグローブの石像が立てられる。 毘沙門天堂。日蓮聖人御開眼の毘沙門天が祀られる。 入口のすぐ近くにある救世観世音。
2024.04.29
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ほかの方にとって今日は連休の前半戦だが、わしはやはり出勤。しかし、やはり休みのような活動もしたいので、直接に職場に行くのではなく、根津を降り、歩行で入谷界隈へゴー 20分ぐらい歩いたら、小野照崎神社に到着。神社の境内で一番大きい鳥居だが、ここから境内に入ると正殿ではなく、正殿の隣にある社務所が見えるのだ。 主祭神は平安初期有数の歌人、法律にも詳しいため参議まで務めた小野篁。仁寿2年(852年)、この地の住民が小野篁が住んでいた上野照崎の地に神社を創建したが、寛永寺の創建で現地に移転された。江戸末期、回向院より菅原道真自刻と伝わる像を迎えて相殿に祀る。このため、小野照崎神社は「江戸二十五天神」の一つに数えられた。樋口一葉の「たけくらべ」にも「小野照さま」の名で出ている。 庚申塚 、青面金剛、喜宝院庚申堂(入谷庚申堂)遺跡。元日本三庚申の一つだったが現存しない。 天明2年(1782年)に築かれた富士塚「下谷坂本富士」。国の重要有形民俗文化財に指定されている。夏越の大祓と富士山の開山に合わせた毎年の6月30日と7月1日の2日間に限り、一般の方々に開放される。 境内社の御嶽神社・三峰神社・琴平神社。 境内社の稲荷神社・織姫神社。 鶯谷駅から来れば正殿正面の鳥居は一番近いのだ。 鶯谷駅から来れば、ここは参道となる。
2024.04.29
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蔵前駅へ向かう途中に浅草駒形諏訪神社へ参拝。 正式な名前は諏訪神社だが、浅草の駒形にあるため、浅草駒形諏訪神社として知られる。創建の年代は不明。「後冷泉天皇の御世」(寛徳2年〈1045年〉~ 治暦4年4月19日〈1068年〉)、あるいは「承久の乱(1221年)の後とされる。諏訪大社の御分霊を勧請したためか、諏訪大社と同じ諏訪梶の御神紋を使用する。江戸時代に神社周辺の地名諏訪町の由来でもあった。主祭神は、建御名方神、八坂刀売神。小さい神社だが、裏に社務所があり、宮司が御朱印を対応してくれる。
2024.04.27
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東本願寺での参拝が終わった後に、職場へ行くために蔵前駅界隈へゴー。 途中に、本社三島神社へ参拝。 台東区では三つの三島神社があるが、ここは本社三島神社、浅草の寿にあるため寿三島神社とも呼ばれる。主祭神は大山祇命。 弘安年間(1278年 - 1288年)に創建された。鎌倉幕府御家人の河野対馬守通有は、モンゴル(元)・高麗軍による日本侵攻という「弘安の役」の時、今の愛媛県である地元の大山祇神社で戦勝祈願をしたところ、成就して伊予水軍を率いて武勲を挙げることができたが、「武蔵国豊島郡に大山祇命の分霊を勧請せよ。」という霊夢を見たため、上野山に大山祇命を祭神とする神社を創建した。 1650年慶安3年(1650年)、宝永7年(1710年)、幕府により2回の立ち退きを命じられ、最終的に現地に移転されたが、氏子の要望で、分霊を勧請する形で根岸には元三島神社が、下谷には三島神社がそれぞれ創建された。本社三島神社は、関東大震災、東京大空襲で焼失されたが、昭和47年(1972年)復興。 境内社の石稲荷神社・髪稲荷神社の合祀殿。祭神は倉稲魂命。 宮司がいないようで階段を降りて帰ろうとしたら、宮司がちょうど帰ったため、御朱印を書いてくれた。 なお、1944年に上映された映画「くて神風は吹く」で河野対馬守を演じたのは、わしが一番好きな俳優である田村正和のお父さん阪東妻三郎であった。
2024.04.27
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「自家製麺 甚」から出た後に、そのまま道に沿って浅草と反対方向へゴー。 少し歩いたら、浄土真宗東本願寺派本山東本願寺に到着。この写真は甚へ向かっている途中に浅草通りの向かいから撮ったものだ。 東都浅草本願寺、浅草本願寺、浅草門跡とも知られるが、正式な名称は浄土真宗東本願寺派本山東本願寺。浄土真宗東本願寺派の本山である。ご本尊は阿弥陀如来。東本願寺は仏縁を結ぶ一助として御朱印、朱印帳ではなく、巡拝印、巡拝帳という名称を使っている。 1591年あるいは1603年に、教如が神田に開創した江戸における本願寺の録所(教務所、出張所)である江戸御坊光瑞寺が始まりという。本願寺の東西分立でここは真宗大谷派の本山である東本願寺の掛所(別院)となったが、明暦の大火で焼失されたため、浅草へ移転。西本願寺の江戸浅草御堂は築地へ移転し、今の築地本願寺となった。戊辰戦争の時にここは彰義隊の拠点となった。関東大震災、東京大空襲で再び焼失され、1953年に再建。1965年に浅草本願寺から東京本願寺へ改称。1969年から起こった真宗大谷派内部の対立で、東京本願寺と賛同寺院により「浄土真宗東本願寺派」が結成され、東京本願寺はその本山となった。 浄土真宗の宗祖とされる親鸞の像。 東西分立前の浄土真宗本願寺派の中興の祖とされる蓮如の像。 五・一五事件や二・二六事件などにより戦線の日本は政党内閣が崩壊し、政党政治が衰退してしまった。この流れで、憲政功労者の慰霊、顕彰、更には国民の憲政、政党政治に対する認識を高め、憲政、政党政治の擁護、発展に貢献するを目的として新たな憲政碑は建立された。浅草本願寺は、明治8年(1875年)に明治天皇の臨幸で、日本で最初に開かれた「地方官会議(知事会議)」の議場に使用されるため、その建立地として選ばれたのである。
2024.04.27
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今日から連休だが、わしにとって大残業の始まりだ。しかし、やはり少し連休らしき活動をしたいので、湯島を降りた後に職場と反対方向にある上野界隈へゴー。 30分ぐらい歩いたら、「摩尼山 成就院」に到着。連休の関係で法事をする方も多いようだ。 先週参拝した元浅草にある「神勝山 成就院」と同じ院号だけではなく、同じ真言宗智山派に属し、ご本尊も大日如来、同じ御府内八十八箇所の霊場でもある。また、大日如来の左手に観世音菩薩、右手に阿弥陀如来が祀られ、左端に吉祥天、右端に多聞天、不動明王も祀られている。大日如来は、江戸時代から伝えられたという。 大師堂。 ここは、池波正太郎の『鬼平犯科帳』の「夜鷹殺し」で名前が出たため、「鬼平」の聖地でもある。「夜鷹殺し」は中村吉右衛門版のテレビドラマ「鬼平犯科帳」第3シリーズ第11話である。御朱印をいただいた時に御府内八十八箇所巡りかとお寺の方に聞かれた時、鬼平巡りと答えたら、『鬼平犯科帳』で話が盛り上がってきたとは意外だった。
2024.04.27
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うるちから出た後に、職場へ仕事するため蔵前駅へゴー。もともと歩いて戻ろうと思っていたが、想定より時間がかかったので、やはり電車でも取ることにした。 その前に駅近の蔵前神社へ参拝。 元禄6年(1693年)に江戸幕府第5代将軍徳川綱吉が山城国(現・京都府)の石清水八幡宮から分霊を勧請して創建された。享保17年に起こった火事の延焼の被害で浅草三嶋町へ一旦移されたが、延享元年(1744年)に本来の地へ戻った。昭和22年(1947年)に隣接の稲荷神社と相殿・北野天満宮を合祀し、昭和26年(1951年)に「藏前神社」へ改称されたが、江戸時代で正式な社号が石清水八幡宮であるため、藏前八幡または東石清水宮としても知られている。主祭神は應神天皇、神功皇后、姫大神、倉稲魂命、菅原道真公、塩土翁命。 古典落語の演目の1つ『元犬』ゆかりの神社であるため、元犬像が平成22年に奉納された。 古典落語「阿武松」ゆかりの神社でもある。歌川國安が文政7年(1824年)にここで行われた「力持」という技芸の奉納を描いたものである。その後に、ここは勧進大相撲の発祥地となり、勧進大相撲の三大拠点の一つとなった。 境内末社の福徳稲荷神社。祭神は倉稲魂命。 なお、神社が配布した資料によれば、令和2年12月発行「中央義士会報」の記事に、忠臣蔵、いわゆる赤穂事件の直前に、堀部安兵衛の従弟佐藤條衛門が堀部安兵衛らの名代でがここに「討ち入り成功祈願」に来ていたという。
2024.04.20
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百観音成就院への参拝が終わった後に浅草通りに沿って田原町界隈へゴー。途中に裏道に入った。浅草界隈では寺院が多いね。 浅草寿不動尊と呼ばれる阿遮山不動院を見つけた。真言宗智山派の寺院で、関東三十六不動第22番札所、御府内八十八ヶ所72番札所。ご本尊は不動明王。慶長16年(1611年)開山し、元々八丁堀にあったが、寛永12年(1635年)に現在地に移転した。山門がなければ、普通の住宅だと思われる外見だ。アラームを鳴らすと、ご住持がドアを開けてくれる。2階へご本尊へ参拝している間に、ご住持が御朱印を書いてくれている。本堂に一人で不動明王を参拝するのも初めてだかな。
2024.04.20
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下谷神社への参拝が終わった後に、浅草通りに沿って田原町界隈へゴー。 途中に「神勝山成就院」へ参拝。 御府内八十八ヶ所霊場43番札所である。ご本尊は大日如来。何世となるかわからない観宥法印(寛永5年1628年没)が日本橋矢の倉(浅草橋付近)に創建し、万治年間(1658~60)現地に移転。かつて境内に西国三十三観音・板東三十三観音・秩父三十四観音の百体の観音が祀られ、ミニ霊場となっていたため、百観音成就院とも呼ばれる。百体の観音像が関東大震災や東京大空襲により破壊されたため残っていないが、平成2年(1990年)特信者の寄進によって聖観世音菩薩の像が建造された。観音像の台座には「百観音」と刻まれ、脇にはその由来の説明板がある。近所の東上野に同じ院号、同じ真言宗智山派に属し、ご本尊が同じ大日如来、同じ御府内八十八箇所の霊場の寺院があるが、来週のお楽しみ。
2024.04.20
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仕事が少し進んでいるので、ちょっと都内で散歩したくなり、湯島を降りてから浅草方面へ歩行でゴー。 15分ぐらい歩いたら、下谷神社に到着。一の鳥居は浅草通りと交差点のすぐ近くにある。 正面の鳥居。 上野公園にあたる地に鎮座していた。行基が伏見稲荷大社を勧請したとも伝えられるが、神社側は、天平2年(730年)峡田の稲置らが建立し、天慶2年(939年)、藤原秀郷が平将門による天慶の乱追討祈願のため、社殿を新造したという説をしている。寛永寺建立に当り、寛永4年(1627年)別当寺正法院と共に下谷屏風坂下に移転したが、土地が狭いため、延宝8年(1680年)下谷広徳寺前にあった谷中天眼寺先住少林庵抱地525坪余と土地を交換した。元禄16年(1703年)旧地も正法院抱地になった。明治元年(1868年)の神仏分離令により正法院を分離した。翌年、周囲の町名が社名に因み下谷稲荷町となる。明治5年(1872年)下谷神社と改称。関東大震災で社殿を焼失。昭和3年(1928年)現地に移転し、昭和9年(1934年)現在の社殿が完成した。 主祭神は大年神(オオトシノカミ)、配祀祭神は日本武尊。大年神は、須佐之男命と神大市比売(かむおおいちひめ・大山津見神の娘)の間に生まれたとしている。両神のほかの子は、お稲荷様として祀られる宇迦之御魂神である。つまり大年神はお稲荷様は兄妹神であり、同じ穀物神である。このため、下谷神社は、下谷稲荷社、下谷稲荷明神社と呼ばれた都内最古の稲荷神社として知られる。 境内末社の隆栄稲荷神社。宇賀魂命を祀ると説明で書かれたが、つまり、宇迦之御魂神を祀るってこと。 5月の例大祭の期間中に授与する限定の御朱印を狙う参拝者も多いため、神社側は手書きではなく、書置きのみで授与する。 なお、元別当寺の正法院は、明治38年(1905年)西巣鴨へ移転し、今に至る。
2024.04.20
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松戸駅周辺で少し散歩してから帰宅しよう。 途中に「根本山 吉祥寺」へ参拝。 真言宗豊山派の寺院で、ご本尊が薬師如来である。創建年代は不詳であるが、天和年間(1681~1684)の石碑があり、水戸街道の宿場町松戸が誕生した頃には存在したともされる。お寺が祀る薬師如来像は弘法大師が一木から三体の薬師像を作ったものの一つで、根本を根本吉祥寺、中根を馬橋中根寺、上部を印西市歓喜院に祀ったと伝えられ、松戸市の根本や中根という地名の由来となったものだという。下総四郡八十八所霊場63番である。 薬師堂と弘法大師修行像である。 六地蔵。 石仏群。 なお、松戸市役所の近くにある「池田弁財天」はここの境外社である。
2024.04.18
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誉を出た後に、線路の反対方向へゴー。 直線距離からみれば駅近だが、道が複雑なのでさらに時間がかかった。とりあえず無事に幸谷赤城神社に到着。 牛込の赤城神社と同じ、群馬の赤城神社から勧請して、天正17年(1589年)に創建された。ここの赤城神社は、磐筒雄命も主祭神である「大洞赤城神社」ではなく、大己貴命が主祭神である「三夜沢赤城神社(みよさわあかぎじんじゃ)」である。即ち、牛込の赤城神社と違って、ここの主祭神は、大己貴命。大己貴命の別名は大国主命、つまり、大黒天。今の社殿は昭和52年(1977年)にできたという。武漢ウィルスとやら新型コロナウィルスとやらの感染拡大で御朱印の授与を中止していたが、今年から書置きで授与する形で再開した。
2024.04.14
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松戸駅から帰宅の途中に本福寺へ参拝。 浄土教の一宗派である時宗の寺院。松戸市にはここが唯一の時宗の寺院。元々元応元年(1319年)3月15日開基とされるが、終戦後に発見された鉦鼓の口縁部に「嘉元改元癸卯天九月吉日」および「本福寺開祖他阿弥陀仏」と陰刻されていたため、嘉元元年(1303年)に開山とされる。 吉田松陰脱藩の道碑。 長州藩を脱藩し、江戸を出奔した吉田松陰は追っ手から逃れるため旅籠を避け、嘉永4年(1851年)12月14日、ここに泊まった。その翌日、松陰はここで本郷村の子供たちを集めて講義をしたという。 ご本尊は阿弥陀如来。開山した際の踊り念仏に使われた鉦鼓、阿弥陀三尊仏は市文化財であり、非公開。武漢ウィルスとやら新型コロナウィルスとやらの感染拡大の時から御朱印の授与はしていない。 鐘楼と時宗の開祖である一遍上人の像。 大師堂。 斬られ地蔵。上本郷の七不思議の一つ。元々廃寺された覚蔵院にあったという。むかし覚蔵院の境内で盆踊りがあった際、あやしい大男が突然入り込んで巧みに踊り、村の娘衆の気をひいた。村の男たちは面白くなかったが、酒が入っていたこともあり村一番のけんか早い男が刀でその男を斬り付けたところ、不思議なことに火花が散った。大男は悲鳴をあげて暗闇の中に消えてしまった。翌朝、村人が後片付けで覚蔵院に訪れると、境内の石地蔵の胸に生々しい刀傷が残っていた。村民は震え上がり、地にひれ伏して謝ったという。 境内の馬頭観世音。
2024.04.11
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寶光院から出た後に、隣の善照寺へ参拝 下総三十三ヶ所観音第19番霊場、東三十三所観音第13番の札所。真言宗豊山派の寺院で、創建年代が不明である。元々は現在の松戸中央公園や聖徳大学がある高台である相模台の向山界隈にあったが、慶長16年(1611年)に現地に移転された。 山門の右側は本堂。善照寺は、松戸不動尊と呼ばれるが、ご本尊は聖観世音菩薩。本堂の前に鎮座しているのは松戸七福神の布袋尊。御朱印も聖観世音菩薩と布袋尊のみである。ご本尊は恵心僧都(えしんそうず)と尊称される源信の作と言われる。源信は、平安時代中期の天台宗の僧であるが、多くの宗派に影響を与える著作を残している。 山門の真正面にあるのは「不動堂」である。安置されている不動明王像は「火伏不動」と呼ばれている。慶安4年(1651年)に不動堂の建立後は「お不動様」として眼病快癒の祈願で地域に親しまれる。不動堂は文化8年(1811年)に再建された。
2024.04.11
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松戸神社へ参拝した後に、旧水戸街道に沿ってゴー。 少し歩いたら、寶光院に到着。東三十三ヶ所観音霊場の第12番札所。山門の辺に千葉周作修行の地という字が書かれる目印が目立ちなところに立たれてある。 ご本尊は不動明王。慶長14年(1609年)頃から慶安4年(1651年)頃までに松戸村で建立された寺院の一つである、あるいは元禄年間に松戸市小金にある大勝院の末寺として松戸宿に創建されたと言われる。江戸時代には松戸神社(御嶽大権現)の別当寺とされた。安政2年(1855年)の安政の大地震によって本堂を含め倒壊された。 山号の梅牛山にちなんだ牛の石像と山の像、弘法大師のご尊像。 桜も綺麗に咲いている。 かつて向山(松戸東口の丘陵斜面)に祀られていた「四国八十八ヵ所御砂踏み霊場」と呼ばれる西国八十八箇所の石像群が開発を受けてここに集められ、新たに祀られた。 四国八十八箇所を巡ることができない者でも同様の効果を得ることができるとされる。 住持がいないため、この日に御朱印がいただけなかったが、お寺の方に千葉周作の父千葉忠左衛門(浦山寿貞)の墓の場所を教えてもらった。千葉周作の子孫はこの前に墓参りしたばかりだという。 千葉周作が師事した一刀流中西派の浅利又七郎義信の供養碑。現存していないが浅利道場はこのすぐ近くにあった。千葉周作は父と一緒に松戸に移った時、浅利義信の姪で養女のかつと結婚し、道場を継いだが、組太刀の改変をめぐって義信と衝突したため、免許皆伝を返上して修行の旅に出た。千葉周作は旅で「北辰一刀流」を興し、神田お玉が池に「玄武館」を開いたのである。
2024.04.11
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