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生まれ年の次は生まれた場所。これも山城とか近江とか陸奥とかさまざま。『寛永寺』では会津・蘆名氏の一族だとし、その中の三浦氏か船木氏だという説を紹介している。ウィキペディアによると、船木氏説が現在では最も有力らしい。前回紹介した「胤海伝」では陸奥は会津の生まれだとあるそうだが、蘆名氏の一族だとしていながら同時に「室町11代将軍・足利義澄の末子だって言ってる人もいるよ」なんて紛らわしい文章まである。将軍のご落胤説の原因のひとつに、天海が用いた紋があるそうで、「上野第二編(8)」で両大師の門に天海マークの「丸に二引」が沢山付いてる写真を載せましたが、一般的に蘆名氏の紋は「二」じゃなくて「三」・・・「丸に三引」といわれてるらしい。上記リンクで、「丸に二引」を蘆名氏が使用していたという『閾(いき)ペディアことのは』様の考察を紹介しましたが、まあ別に無理はないと思う・・・というか、反論できるだけの材料を持ってない。が、やはり「丸に二引」で最もメジャーなのは足利家であり、ゆえに天海=丸に二引=足利将軍家という単純な図式が成立し、将軍のご落胤という俗説が生まれたのではないかという。それから、宇都宮氏の系図に「下野守正綱の女が古河高基に嫁し、永正七年天海を生む」という記述があることから、古河公方・足利高基の子だとする説。そして、おそらく誰もが一度は聞いたことがあり最も有名、かつ最もうさん臭い天海=明智光秀説。まあご存知の方も多いでしょうが、いろは坂を登った上にある明智平の名称だとか、東照宮におわす随身さんの付けてる紋が明智の桔梗紋だとか、徳川秀忠・家光親子から一字を抜き出すと「光秀」になるとか、見方によっては面白くもあるけど、こじつけ的な印象もある。光秀だと年齢的に無理があるから、その娘婿の秀満じゃないかと言ってみたり、明智説の世界は元気だなあ~と思うものの、『寛永寺』では「どれも信ずるに足りないものである」と一蹴しているでは、蘆名氏出身説で天海の前半生をざっと見ましょうか。わたくしの手元には、1枚のリーフレットがある。前々回、日光で大護摩堂の若い坊様に教えられて『輪王寺 宝ものがたり』を買いに宝物殿へ行ったことを書きましたが、ここへ入ったのはじ~つ~に久しぶり。てか、過去1度か2度しか入ったことないかもしんない・・・(笑)。だって、相当昔に行った時は書画が多くて、よくわからないしあんまり興味もなかったからさ・・・それに、まだ日本史を好きになる前の話だから、徳川家に特別の関心があった訳でもなかったし。あ、ここでいう宝物殿は、東照宮の宝物館とは別モノなんですよ。現在では東照宮と輪王寺は分かれてますのでね、輪王寺にも宝物殿があるんです(輪王寺の配置図はこちら)最後に行った時からは、もう10年ぐらい経ってるかもしんない(笑)。今回の宝物殿のお目当ては『宝ものがたり』ただ一つだったんだけど、どうせ私ここもタダで入れるんだし(通常は有料です)、せっかく寄ったので内部も見学していった。で、宝物殿に置いてあったリーフレットを戴いてきた訳です。タイトルは『天海大僧正生誕の地 会津美里』。発行元は福島県大沼郡会津美里町の観光協会。これまで私の中での日光における天海というのは、三仏堂の暗い隅っちょにおわす天海坐像と、そこに書かれているありがたいお言葉。これに尽きていた。が、今回は寛永寺モードで日光に行っていたので、このリーフレットを見つけて「おお~、こんなのあるのか!」とすかさず手を伸ばしました。リーフレットはタイトルの通り、天海生誕およびゆかりの地として見どころを紹介しているもので、地図には天海の両親の墓とか誕生地(舟木氏館跡)などが描かれている。天海の生誕地についての寛永寺の公式見解は『寛永寺』にあるように会津の蘆名氏出身説になるんだと思うけど、日光輪王寺に会津美里町のリーフレットが置かれてるってことは、日光サイドでも寛永寺と同じ立場を取ってる訳だよな。で、リーフレットでは天海107年の歩みを簡潔に紹介している。前回紹介した両大師にある解説は、天海の事蹟を中心に書かれたものだったけど、リーフレットの方は人生そのものを子供でもわかるようなスタイルで書かれていてなかなかいいものだと思うので、リーフレットの「天海大僧正一大絵巻」に沿って紹介したいと思います。・・・ただし、当然簡潔すぎるきらいもあるので、一部黒字で補足していきます。 ◆文殊菩薩の申し子生まれる・・天文5年(1536)1歳 天海さまは両親が文殊堂にお祈りをして授かったといわれ、幼い頃から とても知識欲が旺盛だったと言われております。幼名は兵太郎といいました。 ◆龍興寺にて11歳で得度す・・天文15年(1546)11歳 天海さまは龍興寺で、11歳のときに仏門へ向けて修行に入ったのです。 天台宗の寺として名高い龍興寺で、名僧で知られる弁誉舜幸(べんよしゅんこう) 法印のもと、随風(ずいふう)という僧侶になりました。得度とは、 世俗の生活から離れて、僧となって仏道の修行をすることをいいます。 ◆長い修行の旅へ・・天文18年(1549)14歳 天海さまは、14歳のとき故郷を離れて、仏教だけでなく儒学(中国古代の学問)や 史学(歴史を勉強する学問)、易経(古代中国から伝わった占い)などを 学ぶために、各地を巡り歩くのです。随風の他、「無心」と名乗ったともされる。「天海」に改めるまでが50年。随風時代に蒐集した写本の中には、「随風」の直筆サイン本が現存しているものもある。天文18年、まずは宇都宮で天台の教義を学ぶ。在籍した粉河寺は当時、関東の天台の寺では興隆をきわめており、全国から雲水が集まっていたという。1年も経つと「名器」と言われるほどに頭角を現していたそうな。天文22年(1553:18歳)、叡山に登り天台三大部を修める。弘治2年(1556:21歳)、山門(延暦寺)から寺門(三井寺)へ移り、仏教哲学や法相宗などを学ぶ。同じ頃、奈良の興福寺において仏教のほか、神道家から日本書紀の神代巻を習っている。永禄元年(1558:23歳)、母の病気により帰郷。母の死にあたって2年の喪に服する。永禄3年(1560:25歳)、足利学校にて儒学を学ぶ。当時の足利学校は、トップレベルの総合教育期間。儒学だけでなく、幅広い知識を得たという。永禄7年(1564:29歳)上州で易経などを修める。5年の上州滞在を経て再び叡山での修学を希望するが、時は織田信長による叡山攻めにより甲斐の武田信玄の下へ赴き、甲斐でも勉学に励む。 ◆会津に戻り、稲荷堂の別当に・・天正元年(1573)38歳 天海さまは会津の領主・蘆名盛氏に切望されて帰郷すると、黒川城(今の鶴ヶ城) 内にある稲荷堂を、10年近く守り通しました。ここでいう別当とは、僧侶と 神職を兼務することをいいます。稲荷堂に10年とあるけど、会津にはもっと長くいた。この間にも会津や上州・世良田などで研鑽を積む。 ◆蘆名義広を護り、常陸へ・・天正17年(1589)54歳 磐梯山麓の磨上原の合戦で、蘆名義広は伊達政宗に敗れました。天海さまは 甲冑に身を包み、義弘を護って常陸の国(茨城県北東部)へ落ち延びました。東北の歴史はあまり知らないけど、磨上原くらいなら知ってる。が、天海にも関係があったとは知らなかったなあ~。この逃避行について、『神君家康の誕生』(曽根原理著・吉川弘文館)ではこんなエピソードを紹介している。 【伊達政宗との戦いに敗れた蘆名盛重は会津から逃亡を図るが、敵の追手に阻まれる。 同行した天海は、一族であり檀家でもある盛重のため、敵に向かってそれまでの 不義をなじり「自分は僧侶の姿をとっているが血縁を捨てず檀那の恩を忘れない。 ただ義のために命をかけるのみ」と大声で呼ばわった。敵はその剣幕を恐れ、 殺生の報いを思い自ら退いたという。】「殺生の報い」って、つまり相手が「坊主を殺したら後味悪い」って思ったって意味?それに、すでにこの時点では、普通の人なら「晩年」と言っていいぐらいの年齢。まあ天海は普通の人じゃないので、ここがちょうど折り返し地点だけどね実は、大阪城天守閣に天海所用といわれる甲冑が所蔵されている。私が大阪城に行ったのは史跡めぐりを始めて間もない頃だったんだけど、天守閣では過去の企画展の図録も結構販売されていて、重量も考えず沢山買って帰った。その中の一冊に『武装』という武具展の図録があり、天海の甲冑載ってるかな~と思って久々に開いてみた。そしたら、あった!載ってました!!図録の写真を転載するのはマズいかなと思うので、お見せできないのが残念ですが、一度見たら絶対忘れないだろってぐらいインパクトのある見事な甲冑。「銀小札萌黄糸威二枚胴具足」(ぎんこざね もえぎいとおどし にまいどうぐそく)。前立には金の麒麟、脇立に朱の水牛。赤い水牛のツノだけでもかなりのものだけど、とにかく目立つのが脇立を包み込むように背に付けられてるビッグサイズの繰半月の指物。さすがに大阪城の所蔵品だけあって、一緒に図録に掲載されてる甲冑は真田信之とか藤堂高虎とか後藤又兵衛とか仙石秀久とか片桐且元とか浅野長政、脇坂安治・・・きりがねえ(笑)。とにかくメジャーな方々や、その子孫、あるいは有名人から拝領したという、実にゴーカな顔ぶれの甲冑ばかり。そういう甲冑を押しのけて、この中では1・2を争うインパクト度だと思います。指物がとにかくデカくて、これでホントに歩けるのか!?ってカンジはありますが、少し色あせた若草色で統一された、シックで品のいい甲冑です。これが常陸への逃避行の際に使用された甲冑かはわからないけど、図録の解説には天海の遺品だとある。武家の家に生まれたといっても、世俗を捨ててもう40年にもなるのに、故郷で城主の近くの寺に住まううち、周囲の環境の変化を受けてもしもの時のために備えておいたのだろうか。あるいは、元々は天海のものではなかったけど、一族であり領主でもある蘆名義広(常陸へ移った頃、盛重と改名)のためにムラムラと侠気が湧いてきて、みずから甲冑をまとったのかもしれない。ちなみに、蘆名義広は佐竹義重の次男だったため、実家である常陸を目指したようですね。兄の佐竹義宣が関ヶ原で所領を没収された後は、父・兄とともに秋田に移り、角館(かくのだて)を与えられる。義広が現地で城を移転してあらたな城下町を造り上げた。これが現在観光地でもある角館城下町の始まりだそうで、もし逃亡中に追手に討たれていたら、角館は重要な観光資源を失っていたかもしれない。してみれば、天海もみちのくの小京都・角館の繁栄に一役買ったともいえる。にほんブログ村
2013年12月11日
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弁天島最後はこれ↓。 本堂の斜め前にある、大黒天堂です。なかなかに立派な建物なんだけどね、 天井が汚らしい千社札のせいで台無し。1枚残らずはがしてえ ここには確か解説版らしきものはなかったと思うけど、お堂の前には 【豊太閤護持 大黒天堂】という、気になる立て札が建っている。「豊太閤」は言わずもがなの豊臣秀吉です。秀吉が護持していた大黒天を祀っているといったところだろうけど、その詳しい歴史や由来については手持ちの資料やネットを見てもどこにも載っていない。ただ、『東叡山 寛永寺』の小冊子だけが【右手の大黒堂では、縁日に豊太閤護持の大黒天尊前にて護摩供養を執り行い、人々の信仰を集めています】とある。えっと、縁日なら毎月公開されるってことかな?覚えておこう。にしても、なんで秀吉の護持仏がこんなとこに・・・かつての不忍は寛永寺ではなかったとは言っても、寛永寺グループの一員と言える立場だったのに、秀吉の護持仏なんか将軍家の聖地であった上野で祀るかなあ。あるいは近代に入ってから、ひょんなことで手に入れたって可能性もあるけど、どうして由来を公開しないんだろう。ナゾです。で、この時はお堂のガラス戸は閉められていたので、確かガラス越しに中を覗いたくらいだったんだよな。不忍は御水舎を除いて大震災や戦災に遭ったっていうけど、このお堂はそこそこ古い建物のように見受けられる。どこかから移築してきたものか、あるいはこれも生き残ったのか。お堂の前は四半敷↓。 お約束の床下↓。 お堂の脇にはなぜか古い石材が積み上がっていた↓。 古い玉垣の部材とかかな。なんで処分せんのじゃろ?あと、こんなものも↓。 確か遠目に撮っただけだったから、何やら銘が彫ってあるのはわかるんだけど、少し摩耗してて文字までは読めない。まあ、江戸期に建立されたものだろうな。 おし、これで弁天島は済んだと聖天島をすっ飛ばして池の奥まで進みました。 現在の不忍池は3分割されていて、西側のエリアがボート乗り場になってます。手漕ぎボートのほか、白やピンクの白鳥が池に浮かんでます。手前側を漕いでいる手漕ぎが、ジイちゃんと子供が片側に寄っていて明らかにボートが傾いてるので危ないな~と思っていたら、管理のお兄ちゃんが「危ないので両脇に座ってくださ~い!!」と声がけしてた。そりゃそうだ、こんな池だって転覆して運が悪けりゃ死ぬもんな。不忍はこれで終わり。そろそろ13:30。今回はまずまず順調です。本堂を背中にして参道を出口に向かうとこんな光景↓。 今度は正面の石段を上って、ふたたび山内に戻ります。通りを渡って見上げたところ↓。 このお堂が次のお目当てです。ズームすると、お堂の前にはこんなものがあります↓。 「歌川広重 名所江戸百景 月の松」ぐるりと巻いた松の枝を満月に見立てたもので、江戸期の浮世絵にも描かれているもの。しかし、現在あるこの木は江戸期のものではない。初代は明治の初めに台風でダメになってしまったんだそうな。それを、去年(2013年)に寛永寺が復活させたのが写真の木。月の松のお目見えは150年ぶりらしい。お披露目の時だったかは忘れたけど、去年これがTVに映ってるのを見て見てみたいな~と思ってたんだよね。初代の月の松も自然の造形とは思えないけど、2代目のこの月の松は足立区の造園職人によって3年がかりで満月を作ることに成功したんだそうな。2013年1月19日付けの「上野新聞」によると、 【この造形を生み出すことは難しく、都内でもわずかな職人しかできない】らしい。同記事には、新たな観光名所を作って上野を盛り上げたかったという寛永寺担当者のコメントも載っている。ここまでの上野編でもあれこれ書いてきたように、寛永寺は寺格も非常に高く、徳川将軍家および幕府にとってそれは重要な寺だったのに、幕末から明治初年にかけての不遇な時代を経て現在ではとても地味な存在になってしまっている(と思う)。だから、こうやってPR活動に乗り出すのはとってもいいことだと思う。ガンバレ、寛永寺それじゃあ、石段を上がってお堂の方へ向かいま~す。石段の途中には、華灯路があった↓。 華灯路の絵柄は歌川広重の「名所江戸百景 上野山内月のまつ」↓。 もうひとつの華灯路は同じく広重・江戸名所百景の「深川洲崎十万坪」↓。構図がカッコ良すぎ。 第三編ではそのまますらっと上まで上がっちゃいましたが、「春の寛永寺」の時に石段の途中にある灯篭を撮ったので、先にそちらを紹介します。 【奉献 石灯篭 東叡山 常憲院殿 尊前 寶永六年巳丑年正月十日 大洲城主 従五位下遠江守藤原朝臣加藤氏泰恒】銘は見える範囲だけです。たぶん、「石灯篭」のあとには「両基」あたりの語句が続くと思われます。常憲院はこれまでにも何度も出てきたので覚えた方も多いかと思いますが、5代将軍・綱吉のことです。宝永6年(1709)1月10日って、まんま綱吉の命日なんだけどこれまで見てきた灯篭の日付は、霊廟に奉納されたものの場合、どんなに早くても数カ月後の月命日だったんだけどな。霊廟が簡素化されるのは8代・吉宗以降だから、綱吉の霊廟が完成したのは数カ月はかかってるハズだけど。なんでこんな日付なんだろ?まあ、ともかくこれは現在の寛永寺霊園にあった綱吉の霊廟へ奉納されたものであることに違いはない。で、この加藤さんは七本槍の加藤さんのどちらかの分家あたりかと思ったら、ご先祖は美濃の斎藤龍興(道三の子)に仕えていたらしい。灯篭はもう1本ある。 【奉献 石燈籠壹基 武州 東叡山 浚明院殿 尊前 天明六丙午年九月八日 日州佐土原城主 従五位下淡路守源姓嶋津氏忠持】「浚明院」は10代将軍・家治(1737-86)。8代吉宗の孫。奉納者の島津忠持さんは、日向佐土原(さどわら)藩主。もとは島津四兄弟の父・貴久の弟の家系が佐土原藩を継いでいたが、のち薩摩の島津本家からは陪臣の分家の立場と見なされるようになったらしい。そうは言っても一大名ではあるので、単純に薩摩藩の支藩という訳でもなさそうで、ウィキペディアを軽く読んだくらいじゃよくわからないにしても、「石燈籠」の後は「壹基」のように読めるんだけど・・・「両基」じゃないことは確か。ここまで山内で見てきた灯篭の中では、はっきりシングルとわかる灯篭はなかった。もしかしたら、吉宗以降霊廟の簡素化に伴い、灯篭の置き場も限られちゃったから寄進の灯篭は1基のみに変えられたのかもしれないな。それと、加藤泰恒の灯篭と同じくこちらも不思議な日付になっている。家治の命日は天明6年(1786)8月25日。灯篭の日付は天明6年9月8日。もはや、月命日ですらない。どうも後代の将軍への奉納品は初期のそれとはルールが違ってきているらしいな。今後、他の灯篭とも比較して観察する必要があるけど、家治への灯篭なんか、現在の寛永寺にどれほど残っているのだろうか。霊廟は一般公開してないしな・・・ にほんブログ村
2014年06月16日
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連休はバシバシ記事を上げようと思っていたのに、アマゾンプライムの無料月間に入ったため、映画観まくりでした(←もちろんすべて時代劇)。少し前の記事で、日本史にはそこら中に面白い話が転がってるんだから同じ時代ばっか大河でやってんじゃねえ!と書いた記憶がありますが、今回お祖師を扱った映画を2本観ましてね。お祖師を扱うとなれば、その宗派の本山の介入・・・いえ、アドバイスも当然入る訳だからそこそこポイントは外さない訳ですが、観ていて正直「言うは易し、だな・・・」と思いましたね。面白くないとかって言うんじゃなくて、お祖師を描くのは難しいもんだな~と思って。1本は難しい人物を描いたなかなかの意欲作だと思ったけど、もう1本はちょっと意図的なものも感じてね。それに、映画ともなればそれなりの興業収入も挙げねばならんから一般にもわかりやすいような見せ場も作らなきゃならんし、ドラマティックな材料が沢山あっても、それをひとつの作品に仕立てるには色々と難しい問題があるもんなんだな~と思った訳でして。ところで、お祖師といえばわたくしがトライしていた『金光明最勝王経』(大辨才天女品)、ようやく最後まで行き着きました頭で考えずにスムーズに言えるようになるまではあと少し時間が必要ですが、その期間を含めて1年半ぐらいかかったことになりますかね(笑)。その間、回向文を覚えたり、公私で家を何日も空けていたり、中だるみで1~2週間もサボったりと色々ありましたが、天女がいかなる人なのかわかったし、理解できることも増えたので、コンプリートできて良かったです。わたくしの場合、きちんとした仏教の勉強をしている訳じゃなく独学で勝手な解釈をしていることは百も承知ですが、ごく最近、金光明最勝王経について少し触れている歴史ブログをたまたま読みましてね。それを読んで「この人は単に他人の文章を小綺麗にまとめているだけだな」とすぐにわかりました。ま、そんなことも自分なりにあれこれやっている中で付いてきたオマケな訳で、仏教であれ歴史であれ、つたない知識でもしっかり自分のモノにするとしないとでは記事の厚みや深みがずいぶんと違ってくるものなんだな~と思いました。特に仏教関係は、読む人が読めば自分なりの理解の上に書いてるのかが一目瞭然なので、何も知らない人が安易に他人の文章をコピペしない方がいいもんなんだと知りました。まあ、わたくしのようにバカ丸出しってのもどうかとは思いますがさてと、2話続けて桂川家が出てきたので、話の流れでここからは奥医師と桂川家について書くことにします。奥医師には広義の奥医師と狭義の奥医師があるそうで、ここで取り上げるのは狭義のほう。幕府が抱える広義の奥医師のうち、狭義の奥医師が医官の実務上の最高位で、その制度が確立されたのは5代・綱吉の代だという。古くは「御匙」(おさじ)「御近習医師」といい、宝永年間(1704-11)に「奥医師」という名称が登場し、延宝の頃には「御側医師」という呼び名も現れる。狭義の奥医師は文字通り「奥」のエリアで将軍およびその家族たちの診療を行うのが役目。「奥」には本丸御殿の中奥も含まれ、その他二の丸や西の丸でも診療にあたったそうな。現在の総合病院は各診療科に分かれているけど、江戸期にもいくつかの診療科があり、このうち最高位が内科。ほかに外科・針科・眼科・口科があった。桂川家は外科ね。文化・文政年間(1804-30)には各科をあわせて15人ほどの奥医師がいたらしい。ものによっては、各診療科でそれぞれ20人程度の医師を抱えていたと書いてる人もいる。その奥医師たちが交代で毎日登城して、中奥での将軍様のお支度の間にお脈を測り、場合によっては腹診なども行った。将軍だけでなく、将軍世嗣や御台所、側室たちの診察もしたので、大奥への出入りは比較的自由だったという。大奥へも出入りする関係からか、奥医師は坊主だったようで、高貴な方々を診察するという職務上、格上になると法印や法眼という高位に叙せられた。スウェーデン人医師のC.P.ツュンベリーが1776年に初めて江戸参府した際、日本人医師たちが彼のもとへ色々と質問に来たが、ツュンベリーは 【医師らは、頭髪を全部剃りあげていることで、他の者と区別できることもあるが、 他の者と同様、剃らずにそのままにしている者もいる。】 (『江戸参府随行記』平凡社/高橋文氏の訳によるもの)と書いている。TV時代劇でおなじみの小石川養生所の医師も広義の奥医師に含まれるけど、竹脇無我(←古い)は頭にちょんまげ載せてたもんな。だから、必ずしも奥医師が坊主だったとも言えないのかもしれないけど、職場が江戸城の「奥」になれば出家は必須だったんじゃないかという気がする。今泉みねの父は桂川7代・甫周(ほしゅう)で、甫周の弟に甫悦(ほえつ)という人がいた。甫悦はのちに三千石の旗本の藤沢という家に養子に行ったらしいが、 【御城に何かありました時の話、叔父(甫悦:ジジイ註)は「こんどこそおあにいさまと 同席ができると思ったら、あにはからん、自分はまだまだはるか小さく見えるくらい 段がちがって下座にいた」と申して、私の父(甫周:ジジイ註)を心から敬って おりました。】 (『名ごりの夢』今泉みね/平凡社より)『江戸幕府大事典』には、内科が200俵高でそれ以外の科は100俵高だとある。もっとも、『名ごりの夢』の解説には甫周の頃は家禄2~300俵、役高100ぐらいだったとあるものの、いずれにせよ三千石の知行取りの家に養子に行って「藤沢志摩守」となった甫悦とでは年収にかなりの差がある。それでも、江戸城では甫周は甫悦よりはるか上座にいたというのだ。『名ごりの夢』の7代・甫周の解説にはこうも書いてある。 【公卿に準じて地位は非常に高く、参議、納言にも匹敵したという。】いやいや、さすがに参議・納言に匹敵とはちょっと大げさじゃないかと思うものの、『名ごりの夢』の初代・甫筑の解説文にある奥医師は 【(前略)道中には長柄の駕(かご)に乗り、駕かきの陸尺(ろくしゃく)四人、駕脇侍 二人、薬箱持ち一人、傘持ち、挟箱持ち、袋杖持ち、草履取りなど、すべて十一人の供方を 備え、旗本などと行きあうときに道を譲らせるほど幅をきかせたという。】とあり、みねが語る少女時代のエピソードにも、奥医師の「格」を物語る内容がある。桂川家は蘭学をもって代々世襲で幕府に仕えた家柄で、みねは娘時代に明治維新を迎えているので、歴史に名を遺した幕末の著名人たちが桂川家に数多く出入りしていた。福沢諭吉もその1人で、みねが6~7歳の頃、福沢諭吉におぶわれて出かけたことがあった。 【普通は駕籠でなければ出られないのですが、福沢さんがかまわずそっとつれ出して 下さいましたので、はじめて大川を見て大きなお池だとびっくりいたしました。】食事の時は家の主人だけは別格で、その辺の区分けはかなり厳格だったようなんだけど、 【お給仕のしかたがまた問題で、誰が給仕に出るということまできまっていて、女中に それぞれ順番がありました。(中略)女中のことを考えてみますと、(中略)それぞれ 係りがあって、燭台を磨いたり、行灯をつけたり、あかりの係りだけも上下で数人、 洗たくのもの、お客様のお茶係り、その他女中たちの数からしても、人間が多かったように 思います。】こうしたことについては、みね自身、なにぶん子供の時の記憶であり、よそ様の旗本がどうだったかは知りませんが、と断っており、わたくしもみね同様、他家と比較する材料を持っていないのでどこまでが旗本のスタンダードなのかはわからないものの、おそらく同じ年収の旗本の家の娘はみねほどのお姫様育ちはしなかったんじゃないかと思う。とにかく年収と格が見合っていなかったことは確かで、それが桂川家にひとつの悲劇をもたらすことになるんだけど、その話は少し置いといて、みねが語る桂川家の実情をいくつか拾ってみると、 【食物は前申しましたとおり、旗本屋敷だなどいっても、まことに簡単でお粗末でした。 まあおからだのお豆腐だの八杯酢だので、お肴といったらひものか鮭をよく使ったようです。 ごまみそ、てっかみそなどもありました。平生は精々二種ぐらいのもので、江戸に生まれても 浅草のりの香などそのころはあまり覚えがありません。私は一人娘も同様でしたのに そんな風でした。】 といい、 【それにいただきものは少なくって、いわば位まけがしていた桂川のことですから。】と言っている。7代・甫周の父の代でもかなり家計が苦しかったことを前々回紹介してますが、甫周の代になってもそれは続いていたようで、ビンボーなくせに奥医師としての対面は保たなければならない、プラス洋学を志す若者たちが多く出入りする。ので、 【朝などあんまり大勢で、おみおつけの実がなくなり「桂川の山吹汁」・・・ みの一つだになきぞ悲しきは当時有名だったようです。】という。山吹のエピソードをご存じの方も多いでしょうし、それゆえにあえて太田道灌さんのところでは書かなかったのですが、補足としていちおう書いておきますと、ある時道灌さんが父の所へ行く途中で突然雨に降られた。「うわっ、スゲー雨!あ、あそこの農家でミノを借りようっとごめんくださ~い、ちょっと雨に難儀してるんで、ミノ貸してくださ~い」農家から出てきた娘は黙って一輪の山吹の花を差し出すだけだった。「え、いや、花じゃなくてミノを・・・あ~もう、わかりました!どうもお邪魔さま!!」と怒ってその場を立ち去った。あとで家臣にその話をすると、「ははあ・・・で、殿はその意味がわからなかったというワケですな?それは娘ごに可哀想なことをしましたな。後拾遺和歌集にこんな歌があります。 七重八重 花は咲けども 山吹の実の一つだに なきぞ悲しき娘の家は貧しくて、ミノ(実の)一つもないということを奥ゆかしい方法で殿にお伝えしたのですよ」そんなこともわからなかった道灌さんは恥じて、それ以後古歌も勉強して立派な歌人となったというお話。このエピソードにかけて、「実のひとつだになき」味噌汁を桂川家では山吹汁と呼んだというワケですな。にほんブログ村
2016年03月22日
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足利直義の挙兵に呼応して、直義派の上杉氏も挙兵した。上杉憲顕の子で、前回高師直に殺された重能の養子になっていた能憲(よしのり)が常陸で挙兵。憲顕も、能憲と連携するために領国の上野国へ向かう。さらに奥州でも直義派の挙兵が相次いだ。これを受けて、鎌倉公方・基氏の補佐にあたっていた高師冬は基氏を連れて鎌倉を脱出するも、途中で反乱にあって基氏を奪われてしまい、師冬はその後討ち死にする。尊氏の方は摂津での合戦に敗れて、直義と和睦することになった。高師直・師泰兄弟の出家という条件で講和が結ばれたものの、京に戻る途中で高氏兄弟らは上杉能憲らに殺される。高師直が上杉重能を殺してなかったら自分も殺されることはなかったかもしれないけど、まあこれは仕方ないわな。で、尊氏・直義とも京に戻って一旦は落ち付きかけたものの、何やかやで再びキナ臭い匂いが漂い始め、結局また2人は決別。その過程で南北朝も統一された。そして合戦に敗れた直義は再び兄と講和を結ぶが、鎌倉に入った尊氏によって幽閉され、その翌月に急死する。高師直・師泰兄弟が殺された日からちょうど1年後のことだった。享年46歳。直義の死は表向き病死とされているが、毒殺説もある。ま、あまりにもタイミングの良い死でもあるし、誰がどう見ても不自然。実父の尊氏に嫌われながらも養父の直義に尽くした足利直冬はまだその後も10年ちょっと頑張りを見せるので、直義を生かしておくのは危険すぎる・・・尊氏と直義の兄弟は母を同じくし、1歳違いと年の近いこともあってすこぶる仲が良かったらしく、尊氏は直義に全幅の信頼を置いていた。直義だってそんな兄を全力でサポートし、兄が身体を張ってもぎ取った勝利をしっかり統治し続けていくために理想を掲げて頑張った。でも、やはり二頭体制というのは無理があった。観応の擾乱は、尊氏と直義のどちらが悪いということでもなく、必然の結果とも言えるのかもしれない。さて、直義の死によって幕府は一本化され、一件落着・・・となるハズが、直義の亡霊はその後も生き続ける。亡霊っていうと「出た」みたいだけど、別に「出た」訳じゃなくて、直義の遺志が引き継がれたって意味ね。養子の直冬ももちろん直義の遺志を引き継いだといえるだろうけど、そんな遠い場所の話じゃありません。観応の擾乱の最中、尊氏も直義も戦況を有利に進めるためにそれぞれがこともあろうに南朝に投降していた。それがために、南朝が再び息を吹き返して京の奪還を目論むなど「戦時」はまだ続いていた。して、鎌倉の制圧までも目論んだ南朝は、前回の中で北畠親房の船団がちりぢりになった際に遠江に漂着して井伊氏に保護された親王を征夷大将軍に任じて関東に向かわせた。この皇子・宗良親王は遠江に上陸したあと各地を転々としたらしく、最終的には信濃に拠点を置いて頑張っていたそうで、オヤジ譲りのしぶとさにちょっと笑いましたが、宗良親王の軍には新田義貞の遺児もおり、さらに上杉憲顕や坂東の一揆勢も呼応した。なんでここで憲顕が南朝に混ざるんだよ~と理解に苦しみましたが、旧・直義派として尊氏に対抗したってとこなんだろうか。宗良親王の軍は一旦は鎌倉に入ったものの、すぐ合戦に負けて尊氏に奪還される。勝利した尊氏は東国の体制を整備し直す。すなわち、直義との合戦および宗良親王との合戦において功のあった尊氏派を据える人事を行い、直義派だった関東管領・上杉憲顕は排除された。この時の人事を「薩埵山(さったやま)体制」といい、宇都宮氏綱・畠山国清・河越直重の3者が中心となって「尊氏の、尊氏派による、幕府のための東国支配」てな新体制ができた。このうち、畠山と河越は源頼朝のリベンジ戦に遅れて参陣した仲良し秩父トリオで、どちらの当主も鎌倉期に滅ぼされたことを「(13)」で簡単に触れてますが、河越氏の方は重頼の死後もどうにか存続したらしい。ただし、薩埵山体制を担った直重が最後の当主となるそうな。畠山といえば~、室町幕府内で斯波・細川とともに三管領として華々しく活躍した有名な氏族ですが、実はこれは秩父流平氏の畠山の名跡を継いだもの。ただ、秩父流の畠山は平氏だったのに対し、室町の畠山は足利一門の出で源氏なので、足利の者が畠山を継いだ時点で秩父流畠山氏は消滅したことになるらしい。観応の擾乱の前、直義は一揆の禁止を打ち出していた。が、泥沼の兄弟試合の最中に、一揆勢は自然発生的な連帯からのちの戦国時代でも見られるような契約状を取り交わしてのスタイルへと進化を遂げており、河越氏などは「平一揆」という集団を拠り所としていたらしい。足利系畠山氏も、武蔵の名族・秩父流畠山氏を継いだことでその存在が重要視されるようになったようで、尊氏は信頼する者を関東の支配に就けながらも、そうした地元の勢力を取り込まざるを得なかったともいい、 【上部権力の側も一揆を自らの権力構造に取り込むうえで、彼らが自立的行動をとる危険性を もつことを承知しながらも、こうした動きを受容・促進したのである。】 (『動乱の東国史4 南北朝内乱と東国』より)・・・つまりは、直義の政策を否定したことになる。とは言っても、各地でまだ戦乱は続いており、いつまでもそんな状況を放置する訳にもいかないので、あらためて直義の定めた故戦防戦の停止を命じており、基本的に直義の路線を継承しながらも一部現実と妥協したというところだろうけど。して、直義の死の翌年、尊氏は帰洛するが、出発の前日、鎌倉公方・足利基氏を武蔵の入間川(現・埼玉県狭山市)に移した。基氏はこのあと、足かけ9年を入間で過ごし、基氏の在所は「入間川御陣」と称される。基氏はこの時点で13歳。そんな基氏をなんでまた武蔵なんかに据えたのか、その理由については色々な推測がなされているようで、 ・武蔵に地盤を持ちながら相模守護となっていた河越直重を牽制するため ・越後、信濃、上野、武蔵などの周辺諸国でまだ反幕派が健在だったため、 それに対する備え ・薩埵山3人組の中で尊氏が最も信頼できる畠山国清の庇護下に置いて、 周辺の反幕派へのにらみをきかせるためなどの諸研究者の論が前掲書で挙げられているが、それに加えて櫻井彦氏は基氏がかつて直義の養子として育てられていたことももっと考慮に入れてよいだろうし、直義の養子として育った基氏だからこそいくばくかの警戒心を尊氏は持っており、ゆえに腹心ともいえる畠山国清の庇護下に置いたのではないか、ともしておられる。はたして尊氏の真意がどこにあったのかはわかりませんが、幕府内部だけに絞ってももうほっとんど訳のわからない状況になっている。足利一門にしても、それぞれの立場で尊氏につくもの、旧直義派となっていた者などさまざまおり、直義が死んでも観応の擾乱の影響はすぐに消滅するようなものではなかった。まあ、武士を統括するにもっともふさわしい鎌倉を出てまだ幼さの残るような基氏をわざわざ武蔵に置いた理由は、たった1つに限定されるというよりも、総合的な政治判断だっただろうけど、もし「直義の養子」という経歴を持つ基氏に尊氏がいくばくかの警戒心を抱いていたのなら、さすがに室町幕府を開いただけのことはあるじゃねーのとも言いたくなる。京に戻った尊氏は、旧直義派や南朝勢力に対し、幕府方として戦功を挙げれば本領は安堵するという呼びかけをした。なんせ、両派のそもそものトップである直義も後醍醐天皇ももはやこの世の人ではない。尊氏のこの呼びかけに早速応じた者もいたが、本州の西のはずれでは大内家のひろよんがやっと周防を平定したところで、大内氏が幕府方に帰属するのはこれよりまだ10年先のこと。全国を巻き込んだ争乱は少しずつ収束に向かう流れが始まっていたものの、まだ先は遠い。そんな中、尊氏が死去して義詮が2代将軍を継いだ。新体制がスタートした義詮の幕府は早速南朝叩きに乗り出し、基氏も関東から兵を出した。この兵を率いたのは、畠山国清だった。この時の出兵は一定の成果を挙げたものの、まだ帰国命令も下りないうちに畠山国清は関東に戻ってしまう。なんでも、配下の武士たちが何やかやの理由を付けて勝手に領国に帰り始めてしまったそうで、 【今回の国清の上洛が、国清にとってさまざまな意味を有していたとしても、それに動員 された東国武士に上洛の直接的な必然性は存在しなかった。(中略)『太平記』が伝える 「国清の軍勢は長い移動と在陣にくたびれてしまったうえ、馬や武具を売らねばならない ような状況になったので、とうとう我慢できずに、国清に挨拶もなくばらばらと本国へ 帰っていった」という光景は、実態をかなり正確に描写したものではなかったか。国清は、 東国武士の強い要望を無視できず、帰国しなければならなかったものと思われる。】 (前掲書より)尊氏や直義は、禅に深く帰依していたという。禅といっても当然臨済の方だろうけど、吐きたくなるほど長く流転する情勢の中で、静かに自己を見つめる禅は確かに彼らの救いとなっただろうと流れを追う中で思った。鎌倉幕府の滅亡からここまで、26年。戦働きによる恩賞にあずかれる可能性はあっても、そりゃ~武士たちも疲れるだろう。しかも、さしあたって直接的な利害の絡まない戦への動員で、坂東武者の我慢も限界にきていたかもしれない。それでも、この時点での国清には知るよしもないが、社会の混乱は収束に向かっているといってもまだまだ続く。そして、東国にはいよいよ新しい風が起ころうとしていた。にほんブログ村
2015年12月07日
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それじゃ、回向院の境内へ入りましょう。 ・・・なんか、寺っぽくないなあ。少し進んだところ↓。 木に隠れちゃってるけど、正面に見えてるのが本堂らしい。今では現代風な建物だけど、入口にあった史跡解説の高札にはかつての立派な本堂の写真が載っていた↓。 え~と、本所松坂町公園内の史跡整備の趣意文には関東大震災での火災によって区画整理が行われ、その結果松坂町の名称が姿を消したとあったから、回向院も被害を受けたかもしれないな。もしくはその後の東京大空襲で堂宇が焼失したかもしれない。まずは、上の写真の左に写ってる場所へ。ここにも回向院の歴史を物語る石碑があるんだけど、先に古そうな灯篭の方へ目が行きました。ああ、なんか灯篭オタクへの道を歩み出してる気がする・・・ この灯篭はどの角度からでも見られる訳じゃないので、日付などは見えませんでした。下部の裏には名前らしきものが彫ってあるけど、結構摩耗している。ただ、向かって右側の灯篭の裏には朱で「相撲茶屋組合」となぞってあった。 このブースのメインはこちら↓。 【相撲関係石碑群<力塚> 墨田区と相撲の関わりは、明和5年(1768)9月の回向院における 初めての興業にさかのぼります。以後、幾つかの他の開催場所とともに 相撲が行われていました。天保4年(1833)10月からは、回向院境内の 掛け小屋で相撲の定場所として、年に2度の興業が開かれ、賑わう人々の姿は 版画にも残されています。 明治時代に入っても、相撲興業は回向院境内で続いていましたが、欧風主義の 影響で一時的に相撲の人気が衰えました。しかし、明治17年(1884)に 行われた天覧相撲を契機に人気も復活し、多くの名力士が生まれました。そして、 明治42年(1909)に回向院の境内北に国技館が竣工し、天候に関係なく 相撲が開催できるようになり、相撲の大衆化と隆盛に大きな役割を果たしました。 力塚は、昭和11年に歴代年寄の慰霊のために建立された石碑です。この時に この場所に玉垣を巡らせ、大正5年(1916)に建てられた角力記と 法界万霊塔もこの中に移動しました。 現在は、相撲興業自体は新国技館に移りましたが、力塚を中心としたこの一画は、 相撲の歴史が76年にわたり刻まれ、現在もなお相撲の町として続く両国の姿を 象徴しています。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)『両国物語』(墨田区観光協会発行)にはもう少し詳しい歴史が載っている。 【江戸の大相撲は、寛永元(1624)年四谷笹寺境内で明石志賀之助が打った 6日間の興業が最初と伝えられている。以後、深川八幡宮、神田明神など、 場所を変えて行われたが、”勧進相撲”が回向院で初めて打たれたのは、 明和5(1768)年である。 大相撲興業はやがて江戸一の盛り場、両国の回向院境内で興業されることが 多くなり、天保4(1833)年から年2回の定場所となった。以来、小屋掛け (興業直前に造り、興業が終わればただちに取り壊す)による”回向院場所”が 続くことになる。】ふんふん、つまりは江戸の中で巡業が行われてたようなもんかな。最初は武家地としてスタートした本所両国は、のちには見世物小屋なども建ち並ぶ一大繁華街へと発展した。見世物にもいくつかの系統があるらしく、曲芸のような運動系、からくりや各種細工の工芸系、それから舶来の動物を見せる動物系。現代風に言うなら、サーカスや人形の館や工芸ミュージアムや動物園などの各テナントが入ったテーマパークみたいな感じ?杉浦日向子先生の『百日紅』にも両国の見世物小屋が登場する。この中に出てくるのは、「大力女」と「蛇使い女」。日向子先生は彼女らに「ここのものはみ~んなウソ!!」と言わせているので、高い技術を持ったホンモノの他にも怪しげな見世物も混じっていたらしい。して、大川沿いには回向院での勧進相撲を描いた絵が展示されていたので、そちらを先にご紹介しましょう。 ↑こちらが「勧進大相撲土俵入之図」。土俵以外はギャラリーも力士もぎゅうぎゅう詰め。観客席からはみだしちゃってる人もいます↓。 観客は男しか描かれてませんね。江戸期の相撲興業は、なんと女性は見物できなかったんだそうな。そしてなぜか、土俵の下にいる力士たちは密着してます。お色気顔の力士がぴったりくっついてる図を見て、なぜだか無性に腹が立ったわたくし・・・↓。 お次はこちら↓。「東都両国回向院境内相撲の図」。 こちらもギャラリーがびっしり。んで、こちらが立川斎国郷「両国大相撲繁栄之図」↓。 こちらは外観を描いているので、勧進相撲全体の様子がうかがえます。この絵の左側に描かれているのがメイン会場だな↓。 これが『両国物語』の解説にある「小屋掛け」だろうな。3階建ての桟敷にもびっしり人がいる・・・これを興業の都度造っては壊し、って大変な作業だよな。屋根はないので、雨が降ったら興業は中止したんだろうか?で、画面中央にあるのがこちら↓。 「日本一」の酒樽が高く積まれている。シャンパンタワーならぬ酒樽タワーだと思って、ニヤニヤしながら写真を撮ってました。酒樽タワーのてっぺんにはお頭つきのタイが載ってるし、回向院山門の外まで年末のアメ横ばりの大混雑。江戸期の勧進相撲の盛況ぶりがよくわかります。と、こんな感じで現在も両国は相撲の町だけど、その歴史はここ回向院に由来するものだったようです。力塚の大きな石碑の斜め後ろにも石碑がある↓。 この法界万霊塔は、現地には何も解説はなかったけど、墨田区のサイトによると大正5年5月に初代梅ヶ谷が建立したとある。法界万霊塔のところまで行ってみると、力塚の裏手にも碑などがあってぐるっと一周できるようになっていた。 これは昭和14年に建立された回向院相撲記。 【江戸勧進相撲が記録で判明した最初の場所は貞享元年(1684)深川八幡宮 境内である。其後、新材木町杉森稲荷、浅草御蔵前八幡神社、芝神明社、 本所回向院、市ヶ谷八幡宮、芝西久保八幡宮、市ヶ谷長龍寺、深川三十三間堂、 本所一ツ目八幡宮、茅場町薬師、芝愛宕山、神田明神と転々したが、天保4年10月 (1833年)から明治42年6月(1909年)に国技館が建設されるまで76年間 に亘って回向院境内が本場所の開催地となっていた。 其後昭和29年9月蔵前国技館完成とともに財団法人日本相撲協会はこの地を去るに 当り力塚は残して永く先人の徳を慕い且大相撲回向院時代を偲ぶため、力塚修復祭祀に 際し之を記す。 昭和38年9月24日 財団法人日本相撲協会】相撲の歴史は存外に古い。もとは宮中行事として「相撲節会」(すまひのせちえ)が行われていたそうで、相撲に関する最古の記録は神亀3年(726年)・・・興福寺の東金堂が建立された年です。(「春の寛永寺(6)」参照」つまり、本ブログでもすっかりお馴染みになってしまった聖武天皇の時代ですね(笑)。この頃が節会の成立した時期と見られているらしい。相撲節会は平安時代まで続き、承安4年(1174)で廃絶。が、相撲そのものがなくなったのではなく、武家社会で引き続き行われていた。信長様が相撲好きだったという話は有名ですね。安土には「近代相撲発祥の地」として、「相撲やぐら」が復元されてるしね↓。 現在の大相撲は宮中行事でも武家社会での相撲でもなく、回向院などで行われたような「勧進相撲」の流れを汲むものだという。にほんブログ村
2014年05月16日
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え~、前回の五大堂で動画を撮っていたのを忘れてました(笑)。短いですが、東が開けているので琵琶湖がよく見えます。山道に入ってしまうとこれだけの展望は得られません。さて、前回の続きです。「叡山攻め(82)」で半泣きになった場所があったと少し書きましたが、それは山道に入って少しした場所でのこと。何てことない登山道を歩いていてふと道の脇に目をやると、そんなに木が密集しているという訳でもないのに、木の向こうは漆黒の闇というようなところがあってね。一瞬目をやって、あまりの暗さにソッコー目をそらしました。別に何の恐怖体験をしたという訳でもありません。けど、フツーに木が立ってるだけの場所なのにあんな闇ができるなんて、ちょっと考えられません。ホントにフツーに木が立ってるだけなんですよ。樹齢が4ケタを超えるレバノン杉が1メートル間隔に密集してるとか、そういうレベルじゃないんです。登山は結構長いことやっていたので山の中の薄暗いところなんかは見慣れてますが、そういうわたくしが驚くほどホントに木の奥は真っ暗闇でした。しかも、登山道のすぐ脇だからね。もう、見てはいけないものを見たという感覚で、半泣きになりながら後ろも振り返らず足早にその場を離れました。この時ばかりはマジ後悔しましたね。この先を登る気力も失せたけど、かと言ってここから引き返すにもまたあの場所を通らなければならない・・・それは絶対ヤダ。てことで仕方なく山歩きを続行したのですが、前回「1人で叡山に入るな」とあえて書いたのは、登山そのもののリスクもさることながら、この時感じた恐怖が大きいです。1人で呑気に歩いてると、登山道のすぐ脇に広がる異界に引き込まれちゃうかもしれませんよ~昔、相棒と登山をしてた頃はなんかヤな雰囲気の時は2人で歌を歌ってカラ元気を出してしのいだものですが、さすがに1人で歌を歌うのはちょっとな・・・いつ人に出会うかわからないし。で、重い気持ちを引きずりながらもなるべくイヤなことは考えないようにして歩いていくと、鉄塔が出た↓。 五大堂先のゲートからここまで10分くらいかな。もともと鈍足な上に周囲を見ながら歩いているので、かなりゆっくりなペースです。上部に出るまでに目当てになるポイントはそう多くはない。そのうちのひとつがこの鉄塔だったので、ちょっと安心した。が、鉄塔にある看板には え・・・ここ、「出る」の?ここから南、織田軍の武将・森可成(よしなり)が城主を務めた宇佐山城のあたりは現在ではすっかり野生の猿のパラダイスになってると聞いたことがあるので、ここまで猿が散らばっていたとしてもおかしくはない。が、クマもおるのか?もちろん、クマ除けに熊鈴は付けてますが、さっきの「異所」で受けたダメージがまだ回復してないところへクマ情報を出されると、またわたくしのライフゲージが下がっていく・・・ それにこの場所、写真にはあまり写ってませんが進行方向まっつぐはあまり道らしくない。登山道を示す看板なんかもここにはないし、クマの看板の裏を覗いてみるとなんか踏み跡のようなものがある・・・どっちへ進めばいいのかしばらく地図などを見て考えましたが、ここには作業の人も来るだろうから、道じゃないところにもそりゃ踏み跡はあるだろう。順当に考えてここはやはりまっつぐが正解かと思ったので、フェンスに沿って登っていくと広い道に出られた↓。 さすがに表参道なだけあって、本坂ではこんな風によく踏まれた広い歩きいい道が多かったです。『比叡山 その歴史と文化を訪ねて』によると、 【法要などに参詣する信者たちの列は、蟻の行列のように坂本から根本中堂まで 続いたという。】という大賑わいの参道だったようですが、参詣の庶民や僧、資材や生活物資のほかにもここを通った方達がいました。近江と京の間にまたがる比叡山へは京側からも登るルートがあります。宣旨を持った勅使や横川へ行くような場合は京側から登ったりもしたようですが、都びとみんなが京側から直接登った訳でもないらしく、わざわざ近江側の坂本へ回ってこの本坂をみやびな方々が登ったりもしました。そして、この道を登ったのは生者だけじゃありません。上記リンク先の「叡山攻め(82)」でも紹介したお盆の伝承がそれで、「叡山攻め(84)」の慈忍和尚の話に続く、2つめの延暦寺七不思議でもあります。お盆になるとぞろぞろ登っていくというユーレイたちは自分の足で歩いたのではなく、船に乗って本坂を登っていったそうな。叡山にたちこめる特有の「もや」に浮かぶその船には額に三角布をつけて白い経かたびらという、いかにもないでたちの亡者が乗っており、それを目撃した僧たちが腰を抜かしたという・・・ふん、わたくしなんかちゃんと自分の足で歩いたのにささてと、少し先あたりにはわたくしが楽しみにしていた場所があるハズだ。先人の訪問記によるといちおうそこに行く表示が出てるらしいんだけど、見落とさないようにしないとな。周囲に気を付けながら進むと、カーブの先に表示が立っていた↓。 が、最初はこの大きな標識しか目に入らず、あやうくスルーするところだった↓。 左にある小さなものに目をやると、 あっ、これだ!表示から少し奥へ入っていくのはわかっていたので周囲を見ると う~ん、道じゃないなあ・・・でも踏み跡らしいものもあるし、表示があるからこの奥でいいハズだ。木の根や落ちた小枝などを踏みしだいて斜面を上がり始めると、上の方は結構踏み跡がしっかりしていた↓。 歩いてみると結構急な斜面だし、小枝や落ち葉はしっとりと濡れていて見るからに滑りやすそう。足場を選びながら登ったけど、下りは気をつけなきゃならんな。上部には立派な木もある↓。 3分ほど登ると、一旦傾斜は落ち着いて細長い踊り場のような場所に出る。ここにあるのが おお、石垣だ~、石垣!!上に目をやると うん、石垣の組み方といい、ここがかつての通路だった気がするな。できれば石垣の間を通ってこのまま直登したかったけど、 さすがにここは落ち葉や小枝が積もりすぎてて人の歩いた形跡もないし、ちょっとムリ。 ので、脇の斜面を上がる。石垣の前には落ち葉に埋もれた石もあって ただの自然石とも思えないので、礎石か敷石の類なのかもしれない。で、最後の急斜面を上がると 出たっ!出たでたあ~!!登り下りにケーブルを使えば時間も節約できてもっと主要堂宇も色々見られたのに、それでもあえて山道を登ることを選んだのはここに来たかったからなのです。 【花摘堂(はなつみどう)跡 伝教大師の御母堂・妙徳(藤原藤子)夫人は、山上の大師の坊を訪ねてこの峰に 至ったが、これより進むことはできず、大師が山を下って母と謁した由緒の地である。 後に智証大師は、ここに自らの悲母を祭る三宮(そうのみや)を建てた。その後 4月八日の釈尊降誕会に限って伝教・智証大師の母君を偲んで女性もこの地に 花を供えることが許された。花はこの峯(花摘峯)の花を摘んで供えたので 花摘堂と呼ばれた。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)という、母の愛と子の愛満載の場所です。『叡岳要記』には東西南北に最澄が張ったとされる結界が書かれていて、「東限比叡社幷天之塠」とある。「比叡社」は日吉神社のことで、「天之塠」は「アマナミノツカ」とフリガナが振ってあるけど、どうもこれは正しい読み方じゃないらしい。で「天之塠」の正確な場所はわからないけど、大ざっぱに言って日吉神社の裏手あたりからは結界に入っていたと見て間違いないだろう。日吉神社をも含むということであれば、結界の東限はもう少し東寄りにずれて本坂の入口、デカい常夜灯のあったあたりから西はもう女人禁制ということになる。なら、藤子(とうし)は愛する息子がせっかく張った結界を乗り越えてここまでやって来たのか?恐るべし、母の愛しかし、最澄が結界を定めたとされるのは弘仁9年(818)4月21日。あとで藤子のゆかりのスポットに行った時、そこにあった年表には「弘仁8年2月15日 妙徳が没」とあった。なら、まだ正規の結界を定める前の話ってことだな。にほんブログ村
2015年02月04日
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