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明暦の大火供養の仏像の隣にはもうひとつ供養碑がある↓。 なんか無縫塔のような形してるけど・・・以前は銘まで見なかったので、セットで明暦の大火用かと思ってたけど、 當山草創巳来古墳無縁霊魂 南無妙法蓮華経 安政●地震歴死焼亡群霊供羪と表にあり、裏には「安政三・・・當・・・一六世」だけは読めるけど、真ん中の部分が大きく欠損しているのでよくわからない。まあ、安政の大地震(嘉永7年/1854)の供養碑で、安政3年(1856)に本妙寺16世住職が建立したってとこかな。真ん中の「南無妙法蓮華経」は日蓮宗独特のひげ文字。本妙寺は法華宗らしいです。さて、本妙寺はこれでおしまい。寺の前の道をそのまままっつぐ進んで、再び染井霊園へ入ります。これは結構細い道なんだけど、歩いてるとやたら後ろに子供を積んだ自転車が通りすぎていく。なんで揃いも揃って子供を満載してるのかと思ったら、霊園の隣は「東京スイミングセンター」なんだよな。このプールはわたくしが物心ついた時からあるので、結構古いよな~。さっき慈眼寺の墓地から見えた立派な宝篋印塔が見たいと思ってたんだけど、近くを通りそうな脇道がなくて、やっと出てきた小道を入ってみたらお目当ての宝篋印塔ではないものの、やたら立派な墓があった↓。 ここは一般の墓地のように細かく仕切られてはおらず、広い区画。都立染井霊園には数多くの著名人が眠り、中には(もと)武家の墓もある。墓石もこれだし広いし、見るからにパンピーの墓じゃないのでもしや名のある家の墓じゃ・・・と思って墓石に刻まれてる部分をズームしてみたら 書き出しには「山内豊城翁」とある。「豊」の字を使ってるので山内一豊の子孫の家系かと思って嬉々として写真を撮った。・・・が、帰ってから「山内豊城」で検索してもわずかな件数しかヒットせず、さらにその中で土佐の山内家っぽい記事はない。いや、あるにはあったんだけど、それは土佐の藩主・山内豊城が日本で初めての睾丸摘出手術を受けたという簡単な内容だった。そうだよな、やっぱ土佐の山内さんちだよな~と思って山内家の系図を見たけど、豊城の名前はない。しょうがないので、睾丸摘出手術の方の記事を見てみたら、確かにその手術を受けた人のようではあるけど、土佐の山内関係ではないらしい。でもせっかく調べたので、以下「国立病院機構 千葉医療センターニュース」(第42号)から簡単にご紹介します。山内豊城(とよじょう)は文政5~6年(1822~3)の頃に興津隼人(←誰だか不明)の祐筆を勤めるかたわら、手習いにも行っていた。そこで手習いの仲間である田辺庄右衛門(佐藤泰然)と親しくなり、妻「川端せい子」の妹を泰然が娶り、さらにお互いの子供同士が結婚するなど、かなり親密な間柄だったらしい。上の写真の左半分は奥さんに関する銘のようですが、これには「河端清子」と刻まれている。泰然は長崎留学で蘭学を学び、江戸に戻ってきた。弘化4年(1847)頃から豊城の右睾丸が腫れ、潰瘍ができて痛み、嘉永2年(1849)正月頃には歩くのもままならなくなるほどだった。47歳の豊城は、義弟にあたる泰然(46歳)らに相談するも、こりゃ、「取る」しかないね~という宣告を受ける。ただ、取るとは言っても、手術のノウハウが書かれた文献はあるものの、時代の先端を行く当時の日本人蘭方医たちには当該手術の経験がない。しかも難しい手術ということで、豊城は迷ったらしいが、ついに手術を受けることを決断する。この時の経験について豊城は「玉とり日記」なる随筆を残しているそうで、手術前の心境を 身をせむるあだとしきけばけふこそは いざ切りすてめしぬをまためやと詠んでおるそうな。現代で医療ミスが起こると、ろくな経験のない医師が執刀してるなんてオソロシイ話が話題になったりしますが、豊城の場合は医療チームの指揮者から執刀医まで完全な未経験者揃い。頼りは本だけ。麻酔もなし。まあ、すでに豊城の股間は「はちすのはなのひらくごとく」だったというから、選択の余地はなかったんでしょうけど、それにしたって想像するだに恐ろしいこうして、嘉永2年(1849)11月4日、本邦初の睾丸摘出術が始まった。執刀医は3人、指示を出す役が1人、本で手順を確認する役が1人。それから麻酔がないので、術中の豊城の気分を聞く「薬係り」が1人。豊城の足を押さえる役が2人。あと外回り2人ってあるんだけど、雑用とか見守り役かな。上記サイトには「玉とり日記」の本文が掲載されてますが、結構長いので簡単にジジイ風現代語でご紹介します。 艮斎(ごんさい:執刀医・三宅艮斎)は刀をおろして、陰茎の脇から「ふぐり」の右側を 18センチほど断ち割ったが、ただヒヤヒヤもんだったよ~。 ちょうど昼の12時の鐘が聞こえた頃だったな。 今度は切った中を見たらしいんだけど、時おり響くこともあったけど、そんなに痛くも なかったし、我慢できないほどじゃなかったよ。中に水を注いで洗ってる時は冷たく 感じたよな。医師たちは様々な術を施して、精系を糸で結ぶ時はもうこれまでか~と 観念するだけで、腹の中に何か入ってくる感覚があったな。 そうしてほどなく「ふぐり」を切り捨てると、そういう感覚はなくなったな。それで、 いよいよ切り離す段になって、左右につながる筋などを切ったんだけど、2~3回は 響く感じがしたものの、大したことはなかったよ。この玉を取った感覚というのは、 なんともすっきりと清々しいものだったな~。 それで、千歳の命も尽きたと心も落ち着いたんだけど、傷口を縫う時ってのが結構辛くて、 周りの人に笑われちゃったよ。手術が終わる頃にはもうとっぷり日が暮れてたんだ~。ま、大体こんな感じでしょうか。11月だから日の短い時期ではあったけど、術前の準備も含めると最低でも5~6時間はかかってそうだよな。上記サイトの推定によると、豊城の病気は睾丸結核、奇形腫、精上皮腫の類か、とある。「ふぐり」はイヌフグリなどの名称で御存知の方も多いでしょうが、つまりは睾丸のことです。いやあ、今回からはとっとと話を進めるつもりでしたが、思いがけず面白いものに出会ってしまったので、つい・・・しかしホント、勇気あるよな。男性のみなさん、無麻酔でタマ取る度胸ありますか?私ですか?私は根性出そうにも、あいにく持ちあわせがございませんので・・・わたくしのブログでは、汚物とか「下」の話は準レギュラー格ですが、医療従事者ではないものの、それに多少関係する仕事をしておりますもので、このテの話も恥じらいというものがございませんのよ。ホホホ。さて、豊城の墓付近から周りを見渡しても、あの立派な宝篋印塔群は見えない。ちょっと来すぎちゃったかな・・・でも暑かったのでもう今回はいいやと諦めて先へ進むことにした。それで、この道を突き当りまで行くとスイミングセンターの裏手に出ますが、そこに花吹雪公園なる広場があってベンチもあったので、ちと座って休憩。ああ、もう10:30だ・・・10時頃には地蔵通り商店街の方へ移動したかったんだけどな。凍らせてきたアクエリアスで体を冷やして、ついでに持参したシリアルバーで軽く腹ごしらえ。今回は12時には行動を切り上げるつもりだけど、昼ごはんを食べなきゃならないくらいまでは行動しない、とも固く心に決めていた。ので、最近では都内へも弁当持参で史跡めぐりなどをしてますが、今回持ってきた食料はシリアルバー1本と、小腹が減った時用のクッキーバー「ぐーぴたっ」だけ。これで耐えられなくなったら、もう絶対帰る。その貴重な食料をここで半分消費しました。汗はダラダラだし、ちょっとピッチを上げていかないとな・・・つっても、早くは歩けないんだけど。霊園にカラスはつきものですが、この時も数羽のカラスがすぐ近くにいた↓。 私のすぐ真後ろにも1羽いたので、食料を奪われないように隠しながら食べてたんだけど、ここにいた子はみんな口を開けてた。カラスも暑いのかな・・・ 休憩を終えて、公園を出る。霊園のはじっこにあたる公園の隣の場所はこうなってます↓。 霊園内に最初入った時の看板で、ひとつ寄るところを増やしたのでそれを次のお目当てにここまで来たんだけど、門が閉まってる・・・えええ~、中見れないのお~?んでもいじましく、門の隙間から中を撮影↓。 中には墓がいくつか、それと奥の方には鳥居が見える。なんとか見えんもんかな・・・そうだ、公園の方はこんな立派な塀はなかったから、脇から覗き見はできるだろう。そう思って、ふたたび公園内へ。にほんブログ村
2014年08月08日
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私が現地でコピーさせてもらった例の100枚を超える大量の資料の中には、備後の通史を書いた一般図書もある。そのうちの(たぶん)『備後史夜話』という本では、天文15年の暮れになって山名理興と大内氏の間で和睦交渉が進められたが、和睦の条件をめぐって対立し、結局交渉は決裂したとしている。う~~ん・・・結構言いきっちゃってるけど、これはどこかに書いてあるのかなあ?私は備後の郷土史料はホントに断片的なものしか持ってないので、何とも言えないんだけど・・・ただ、他ではこうした記述は私は見たことがない。で、天文16年からは合戦の事実を裏付ける書状などが多く存在して、天文12年~15年までとは大違いなので、天文16年以降を神辺合戦と呼んだ方がいいんじゃないかと私なんかは思っちゃうんだけど、当事者でもある小早川隆景が7年かかったって言ってるんだしなあ・・・でも、前回紹介した渡辺家の文書の全文を私はまだ読んでないんだけど、田口義之氏によると、説得に熱が入りすぎたのか、事実と少々異なるとおぼしき記述が見受けられるという(笑)。ダメじゃん、隆景ちゃん・・・「神辺城攻め7年かかったよ説」がこの隆景の書状だけによるものなのか、あるいは他の史料も存在してこう言われているのかはわからない。『新裁軍記』では、隆景の書状について 【ただしこの証文は写しなり。然れども文勢事実共に虚脱に非ざること疑いなし、 その上吉田記にもこの証文を取用たり】としているけれども、田口氏の指摘もあるし、果たして「7年」部分に全幅の信頼を置いてもよいものなのか・・・父親譲りのオーバーさでちょっと大げさに書いちゃった可能性だって、なくはないんじゃない?(笑)え~、ま~、とにかく世間的には大内氏が神辺城を落とすまでには7年かかり、神辺合戦のスタートは天文12年(1543)だとされておりますです~(←なげやり)。天文16年(1547)に神辺城攻めが激化する以前から大内方による準備が進められ、攻略がすでに始まっていた証拠として、天文13年(1544)7月3日付けの大内義隆から因島村上氏への書状がある。これは備後・鞆に18貫の地を給与するとした下文で、神辺合戦を語る上で欠かせないひとつのファクターとなっている。つまり、神辺合戦の話では必ずといっていいほど取り上げられる書状な訳で、書状の写しは『因島村上家文書』の中にあるらしい。そして、これを機に因島村上氏は大内氏の傘下に入り、小早川氏とのお付き合いも深まったと当然のように世間で語られているので、私もそれをそのまま受け止めていた。が、田口義之氏は『びんご古城散策/大可島城と村上亮康(2)』の中で、この書状はニセモノだろうと判定しておられる・・・おえ~~~~っぷ!!吐きそう何が何だかわからなすぎて、もう神辺城の記事書きたくないんですケド・・・ととととりあえず、私は『因島村上家文書』は持ってませんが、『小早川隆景のすべて』によると、因島村上家から竹原小早川徳寿丸あてに太刀を贈ったそうで、年不祥ながらも幼名の徳寿丸の名前でお礼状を出しているようなので、おのずと年代は絞られる。ので、有名な義隆の下文がニセモノであったとしても、徳寿丸の元服以前からそれなりのお付き合いはあったようです。まあ、お隣さんだしね。え~っと、真面目にあれこれ考え始めるとマジで気分が悪くなってくるので、ぽちぽち天文16年に入りましょうか。ここからの流れは、おそらく郷土史料などにも書かれてるんじゃないかと思うけど、わたくしの乏しい手持ちの史料やコピーした資料だけでも結構色んなことが書かれていて、「ホントかよ?」て感じなので、ひとまずここでは『大内氏実録』『萩藩閥閲録』『小早川家文書』『毛利家文書』からの情報をメインにしてご紹介します。4月28日 毛利軍・小早川軍が備後外郡五ヶ荘に戦い、坪生の要害を落とす。7月ごろ 毛利元春が吉川家の家督を継ぐことが決まる。8月?日 小原隆言が安芸入り。8月12日 大内義隆、毛利隆元を備中守に推挙。12月下旬 尼子軍が国境に駐軍。小原隆言は賀茂郡志芳にて毛利元就と会談し、 外郡へ出陣。尼子軍退散。出典が限られているので、並べるとこれっぽっちの出来事ですが、書くことは沢山あります。青字の部分が神辺城関連、黒字はその他の出来事です。まず最初の坪生要害。小早川軍と言っても、主力は恐らく竹原軍。とゆーのも、徳寿丸の初陣がこの坪生要害攻略と言われておるのです。徳寿丸、この時14歳。そして、徳寿丸の署名での感状も残されております。この戦いに関連しての『萩藩閥閲録』に掲載されている書状は、天文16年5月3日付けを最初に、最も遅いもので天文17年3月17日。1年近く経っちゃってるよ・・・ざっと見ただけなので、1~2通の見落としはあるかもしれませんが、しめて12通の感状を見つけました。差出人はそれぞれ徳寿丸、毛利元就、毛利隆元、大内義隆、あと神辺城攻めの責任者と思われる大内家重臣の面々。受取人は、ちょっとはっきりしない人もいるけど、因島村上家家臣、備後国人、安芸国人、毛利家家臣、大内家家臣てとこかな。坪生要害は神辺城から東南の小山に築かれた砦。上記の因島村上家への下文の真偽はともかく、大内サイドでは海側からも攻めていったらしく、本陣は鞆に置き、徳寿丸は天文14年から鞆に在陣していたともいわれる。で、鞆から北上して山名理興方の城を落としていったので、理興は大内対策として坪生に出城を築いたとされる。一方の大内方では、小早川軍をして手城に城を築かせ、前進基地としたという。「坪生」も「手城」も、現在も地名が残っている。(周辺地図はこちら 。右上に坪生、左下に手城)つい何日か前、坪生町にお住まいのお客さんがどっかの銀行の手城支店を振込先に指定した書類があって、もう仕事中だというのに意識が飛んでいきましたよ・・・て、真面目に仕事しろって?ただ、この辺てカッチン(水野勝成)が福山城を築いて以降、相次ぐ干拓でかなり地形が変わっている。んで、干拓の状況の地図を見てみると、現在の手城町はぽっかり海の中。手城町から北も結構海で、天文16年当時は坪生付近まで海だったかもしれない。手城には手城島城跡というのがあり、現在は陸続きらしいがかつては海に浮かぶ小島で、四方が絶壁の堅固な地形であったという。先に挙げた感状の受取人、この中には気になる人が含まれている。1人は小早川一族の乃美宗勝。この方は一般的に、厳島の戦いから小早川水軍の提督として活躍したという風に言われているけれど、乃美を名乗ってはいるものの、実は浦家の人間。(乃美氏と浦氏の関係図はこちら )宗勝の父・賢勝は乃美氏の生まれで、浦氏を継いだ。のに、なぜか父ちゃんも宗勝も乃美を名乗っていてちょっとややこしいんだけど、竹原に近い海に面した一帯が浦氏の所領だった。その地理的関係からも推測できるように、浦氏は初代から水軍を擁していたという。もう1人は、末長景道。この方は名前がよく出てくる割に詳しいことがわからないんだけど、『萩藩閥閲録』の文書には、景道さんの先代・先々代は竹原小早川氏に仕えたとある。景道さん自身はといえば、『小早川隆景のすべて』によれば因島村上家と小早川氏の両家に同時に仕えた人だという。どちらも海の一族。それから、浦家の家臣と思われる人も坪生要害の戦いで感状を受けており、これらの人々から、この時の小早川軍の構成は水軍がメインだったかな~ということが窺われる。さて・・・大内義隆から因島村上家へのアヤシゲな書状とセットで語られる話に、手城に城を築いたというのがある。これはおそらく『小早川家文書』の中の、年不祥8月7日付けの書状から来ていると思われる。内容は、「備後外郡五ヶを竹原に預けるので、ここに城を築きがっちり固めておくように。そして海上の安全を確保するように」てな感じ。「五ヶ」は五箇荘(ごかのしょう)のことで、まあ大ざっぱに言って手城と坪生の間にまたがる一帯ですかね。で、これを受けて手城島城を築き、その後に坪生要害を落とした、という流れで語られることが多い。・・・のだけど、ちょっとすっきりしない。この書状、受取人は弘中隆兼。差出人は吉見興滋・青景隆著・陶隆満の大内家重臣。吉見さんは石見国人の吉見さんの一族じゃないかと思われるんだけど、『大内殿家中覚書』の奉行衆に見える「波多野備中守」がそうだともいう。青景君と陶隆満君は「神辺城(4)」で簡単に紹介しました。東西条代官・・・この頃はもう「西条守護」と言ってたかな、の弘中君は結構長いこと東西条を中心とした安芸、それから備後南部を任されていたけど、神辺城関連の書状を見てると万年管理者の弘中君とは別に、合戦イベント用に臨時に重役が派遣されたらしいことがわかる。しかも、ちょいちょい入れ替えがあったらしい。書状に残るイベント要員は、天文16年6月 小原隆言・青景隆著・陶隆満天文17年3月 吉見興滋・青景隆著・陶隆満天文17年6月 杉甲斐守・弘中隆兼・小原隆言天文18年7月 小原隆言・青景隆著・右田隆俊天文18年8月 小原隆言・青景隆著・陶隆満天文18年11月 竜崎隆輔・小原隆言・陶隆満てな感じで、天文18年は短期間で署名する人が変わっているので、必ずしも署名をした人が神辺城攻めの責任者とは言えないかもしれないけど、ある程度は実態を反映しているものと思われる。こうして並べてみると一目瞭然だけど、吉見興滋は天文17年にしか顔を出さない。ので、天文16年前半の坪生要害攻め以前に竹原家に五箇荘を預けたというのは正しい見方なのだろうかという疑問が湧く。ただ、天文17年の安芸国人へのとある書状の中で「去年、興滋が帰る時さ~」って言ってるものがあるので、吉見君がどこから帰る途中だったのかはわからないけど、あるいは天文16年にも備後に遠征していた可能性はある。そもそも、天文12年~15年の書状が少ないからなあ・・・信頼性が高い文書系史料の空白部分は、郷土史料に頼るしかないのかもなあ・・・にほんブログ村
2013年09月13日
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西築出の酉門跡まで戻って、現在では跡形もない浮世川堀を渡ると、そこが西大手門跡(場所はこちら)。 古図での位置はここ。 手前の電柱のあたりに、立派な大手門があると妄想を働かせて下の写真を見て下さいね ここから西国街道を西にしばらく進むと、西惣門跡碑があります。(場所はこのへん) 碑の側面の写真を撮ってないので、イマイチ記憶が定かじゃないけど、この碑も確か隆景400回忌記念てあったような気がする・・・ここから先は、城外です。 城外ですが、西惣門からちょっとだけ西に行ったところには、西の出城といわれる法常寺があります。(「三原編(11)」~「三原編(15)」も参照ください)西国街道に沿ってさらに西に行くと、県立広島大の近くには芸備国境碑があります(「三原編(8)」をご覧ください)。再び西大手門へ戻りましょう。ここからは、天守台も見えます。 西国街道に沿って門を一つくぐると、天守台に平行して延びる曲輪に入ります。現在の隆景広場がある、侍屋敷の区画です。その辺りにも石垣があります(場所はこちら)。 ここは、2日目の怒涛の寺社巡りを終えて、でろでろになって成就寺から帰る時に見つけました。古図でいうと、たぶんこのピンクのあたりでしょう。 三原城下の細かい史跡を巡るのに、「城下町みはら散策マップ」は大変参考になったけど、さすがのマップにもここの事は載ってなかった。けど、古図の櫓付近の地形はおおむね現在のそれと一致するし、石垣の中には矢穴のある石もあったので、これもかすかな遺構なんじゃないのかな。ここから北の方は少し地形が変わってるし、当時の石垣が巻きこみになってるハズはないから、まあほとんどが後世の石積みだとは思うけど。 西国街道に戻りまして、東へ向かいます。こちらが、東大手門跡の碑(場所はこちら)。 古図では、この場所。 この場所を、門の外側から見ると現在はこんな感じ。 この写真で左右に延びてる道は、かつては東築出堀という堀でした。その名の通り、三原城東築出を取り囲む堀な訳ですが、この堀のすぐ東側には、堀と並行して和久原(わくはら)川が流れております。つまり、二重の堀な訳ですね。古図だと、こうなってる↓。 黄色が東築出堀。水色が和久原川。図を見ればすぐにわかるでしょうが、これは自然の流れじゃなく、南の方は流水路が付け替えられてます。岡山城の旭川とよく似てるでしょ。流れに無理があるので、水量が多い時にはそれなりのリスクがある。そのための装置が現在も残っておりまして、それがこちら↓。 矢印と赤丸でマーキングした部分、これは「刎(はね)」といって、川の流れを弱めて城の石垣を守る役目と、川の流れを変える役目をもったものなんだそうな。この場所にある「はね」はちゃんと古図にも書かれている(上の古図の赤丸の部分)。いい仕事してますねえ~。ここの他にも「はね」は残ってるそうなんだけど、とりあえず上の写真の「はね」は東大手門跡を望む神明大橋から見られます。洪水対策は、実は「はね」だけじゃない。和久原川の堤防は、東西で1mくらい高さが変えられている。もちろん、城側の方が高い。だから、水かさが増すと川の水があふれるのはきまって城外の町屋側だったそうで、ちょっと可哀想・・・けど、いくら海城だからって、城内に水を引き入れる訳にはいかないしねここから南西に行ったところの和久原川はこんな。 この時はほとんど干上がってました(笑)。和久原川は三原城域の最東部。確か、ここまで拡げたのは福島時代だと何かで読んだような・・・地図を見てたら、この近くに不自然な形の水路があったので、寄ってみました(場所はこちら)。 水路の奥は左側に折れていて、そんな形のものは古図には描かれてないので、残念ながら昔のまんまのものではないみたい。けど、ちょうどこの辺りは東築出堀のあった場所だと思うので、もしかしたら堀の名残なのかもしれない。保護色で背景の石とほとんど同化しちゃってるけど、ここにはちっちゃなお魚さんがいた(写真の真ん中へん)。 にほんブログ村
2012年11月08日
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元和2年(1616)10月、幕府は家康を祀る「東照社」を日光に置くことを定め、10月26日、天海・藤堂高虎らが縄張を行う。造営奉行は藤堂高虎、本多正純。大工頭は中井正清。中井正清は、久能山東照宮の方も手掛けてるみたいね。久能山のサイトでは元和2年5月に着工とあるから、かけもちか?(笑)ただ、日光の工期は約半年だから、その期間だけは日光でしゃかりきに頑張ったのかもしれないな(久能山の工期は1年7ヶ月)。11月17日、東照社の造営に着手。翌年の4月までには社殿を造り終えるようにとの命があり、近隣の城主などもお誘い合わせの上、社殿造営にいそしむ。翌元和3年(1617)2月21日、朝廷から「東照大権現」の神号が下される。3月9日、家康に正一位が追贈される。3月15日、東照社竣工。この日の早朝、天海は自ら鍬を持って久能山に仮埋葬された遺骸を掘り起こしたともいう。遺骸は金箔を貼った輿に載せられ、300余騎、雑兵1,000人の大行列でもっていよいよお引越しのスタート。現在日光東照宮で行われる例大祭の中での大イベント、「千人武者行列」はこの久能山から日光への引っ越しを再現したもので、神のお渡りだから神事のひとつで正式には「神輿渡御(しんよとぎょ)祭」という。私はイベント嫌いゆえこのお祭りは見たことはありませんが、流鏑馬と同様、徳川宗家の方も参列されるそうな。これにからんで、歴史ファンの想像を掻き立ててやまないものに家康の遺骨の行方のナゾがある。驚いたことに、久能山東照宮のサイトでは家康(のホネ)の引っ越しについては一切触れていない。久能山の方にも、日光と同じ宝塔形式の墓があるみたいだね。久能山サイドの気持ちもわからなくはないけど、総合的に考えてやはり天海はごっそり家康を連れてったんだろうと思う。分骨の可能性もなくはないけど、おそらくそれはないだろう。以後の徳川将軍は、わかっているところでは最後のケイキさんを除きみな土葬なのだ。それに、御年80才のスーパージジイ・天海が家康を権現とするためにどれほど走りまわったことか。強い信念を持って葬送戦争を勝ち抜いた天海が、家康の骨のひとつぶたりとも残していくことは私には考えられない。まあ、そもそも柩は開けなかったんじゃないかと思うしね。だから、久能山のは供養塔的なものなんじゃないかと思う。かと言って、1年近く最初に埋葬された地ではあるし、「久能山はカラッポで価値がない」なんてことを言ってるんじゃないですよ。あるいは久能山の宝塔は、仮埋葬の期間に墓を務めたものの名残かもしれないな。んでは、寛永寺とは直接の関係はありませんが、ご参考までにここで徳川将軍の埋葬方法について少しご紹介しましょう。以前雑談で『徳川将軍家十五代のカルテ』(篠田達明・新潮新書)という本を(たった2行だけど)紹介しましたが、増上寺の発掘調査結果が確か結構詳しく書かれていたと記憶にあるんだけど、ただいま近隣の図書館が蔵書整理期間中でその本を借りられないので、『魔都江戸の都市計画』(内藤正敏)を参考にいたします。まずはこちらの図をご覧ください↓。 徳川11代将軍・家斉(いえなり:1773-1841)さんの埋葬の様子を図解してみました。最初にご本人の処理をするんですが、家斉さんについては詳しい処理方法は書かれてないので、そこは省いて、家斉さんを座らせます。座っていたとは書かれてないんだけど、皆様座っておられるようなのでたぶん座っていたんでしょう。個人的には、いつどうやって座らせたのかが気になるところだけど。硬直するでしょ?で、 御肌付(おはだつき)と呼ばれる桐の箱に入れる。 ↓ 桧の箱に入れて、間に練香を詰める。 ↓ さらに桧の箱に入れて、間に石灰を詰める。これで御内箱の出来上がり。 ↓ 御内箱を厚さ三分の銅の棺に入れて、間に木炭の粉を詰める。 ↓ 穴を掘って石垣を組む。これが御鞘(おさや)石垣。 ↓ 御鞘石垣の中に切石で組んだ御石槨(おせきかく)と呼ぶ石室を組む。 ↓ 御石槨の中に銅棺を入れてふたをかぶせ、上に土をかけて完成。図の中では便宜上それぞれの箱にふたを描いてませんが、もちろんそれぞれ密封されてます。御肌付からスタートしてなんと5重。厳重もいいとこです。個々の違いも多少はあるようですが、だいたいこんな感じで埋葬されているらしい。ただ、こういう埋葬の仕方そのものは将軍家の専売特許ではなく、他の大名クラスなどでもよく保存された遺体が見つかっているんだと。上以外の方法では、内部の棺の箱の外側に松ヤニが塗ってあったり、棺と棺の間の詰め物には漆喰や抹香が使われたり、茶が詰められていたケースもあるそうな。 【このシックイの成分は石灰と同じである。これらの充填剤のうち、石灰には殺菌作用 があり、現在でも農作業に畑にまかれている(また、石灰のカルシウムは 後述する石鹸型屍蝋の生成には有効である)。木炭の粉は活性炭のような 吸着作用があり、汚水が入ってきたときには、バクテリアや細菌を吸着する 濾過作用がある。 また石灰も木炭の吸湿作用があるので、埋葬直後に棺内が湿気をおびたときに、 腐敗しにくい状態にする効果があったのかもしれない。抹香や練香は防虫作用が あり、茶も殺菌作用があることは、民間療法でノドが痛いとき、緑茶や紅茶で うがいをする方法が知られている。】 (『魔都江戸の都市計画』より)だいぶ以前、お医者さんに「お茶でうがいするといいんですか?」って聞いたら、「お茶~!?ハッッ!!」ってものすごいバカにされたけどね。ま、それはともかく、こういう外側の処理以外にもご本人の処理があった。 【津軽承祐が死去したとき藩内から朱を集めて、遺体の口、鼻、耳、肛門などの 穴々に朱をつめたことが、埋葬に立ちあった藩士の話として伝わっていることである。 (中略)朱とは硫化水素(HgS)のことであり、朱の殺菌・防腐効果は 古くから知られている。 徳川将軍の場合にも、柩の充填剤に「朱とみつかね」を用い、外側は「朱と石灰」を 詰めたという。この’みつかね’とは水銀のことである。以前、上野の裏山を 工事で掘ったところ水銀が出て大騒ぎになり、調べたところ将軍の棺に入っていた 朱が流れ出たものだったという事件があったという。実際に増上寺の徳川家墓所の 学術調査で、後述するように棺の中から大量の朱が発見されているのである。】 (『魔都江戸の都市計画』より)こうした処理を受けた遺体は、思ったよりも保存状態がいい。ただし、乾燥した場所でできるミイラとは違って湿った土の中なので、「屍蝋」(しろう)という状態になる。土の中の水分量や地質、周囲の温度などの外的環境に加え、本人の脂肪の量などの内的要因も色々違いがあるので、出来上がった屍蝋には様々なバリエーションがあるらしい。6代・家宣の場合は【顔や四肢には黒褐色の軟部が薄い板状に固着し、顔面には一面に不精ひげが生え、さかやきにも短い黒色の生毛が生えていた。】そして遺体の入った棺には石灰と朱が詰めてあり、中にあった朱はなんと370キロもあったという。家宣あたりになると、埋葬の仕方もかなり高度化されてたんじゃないかと思うけど、じゃあ増上寺埋葬組初代・秀忠はどうだったのか?秀忠の場合は銅の棺は使われず木棺だけだったので、砂利が棺の中に入り込み、その重みでぺしゃんこにつぶれていたという。『徳川将軍家十五代のカルテ』では確か「折りたたまれた提灯のように」みたいな表現が使われていて、それを読んだのは何年も前のことだけど「うわあ・・・・・」って衝撃を受けたことをよく覚えている。それでも、つぶされた事を除けば保存状態はなかなかのものだったらしく、【半白の頭髪を正しく髷に結った上に、衣冠束帯の姿で、東方の拝殿の方を向いて座っていた。胸の前におかれた手の先には、金地の扇子、遺体の左には太刀、右に小刀が発見された。上・下肢部の軟部はよく保存され、濃い生毛やイン毛もよく残っていた。】(【】内はいずれも『魔都江戸の都市計画』より。)「イン毛」はもちろん陰の毛と書きますが、楽天ブログではわいせつな表現としてエラーになります。ちっ、めんどくせーな・・・ま、秀忠も400年近く後になってから自分の下半身が白日のもとにさらされるとは、あの世でびっくらこいただろう。家康の死から秀忠の死まで16年。秀忠よりは簡易かもしれないけど、家康にも何らかの処理を施した可能性はある。ただ、家康の場合は前に書いたように、当日の夜に急いで久能山に運び上げられているので、浦井正明氏ははたしてそういう時間があったのか’94の時点では懐疑的に見ておられるようだけど。科学技術が進んだ現代では、モノさえあれば結構色々なことがわかるもんだけど、なにぶん日光埋葬組は墓の調査が行われていない。ゆえに久能山には骨があるのかないのか、それぞれが好きに想像する余地が残されている。なぜこんなにしてまで遺体の保存に努めたのか・・・正確なところはわからないし、呪術系な話が好きな方だとかなりオカルトちっくな説明も見受けられる。ただね、上野編で一度、朱を使った埋葬をちょろっと書いてるんですが、記憶にありますか?それは日光埋葬組・・・ただし、将軍ではありません。かの天海大僧正がそうなんです(「上野第二編(18)」参照)。天海の埋葬に使われたとされるのは、水銀、朱、塩。あの記事を書いた時はどういう意味があるのか知りませんでしたが、まあこれは天海大好きの家光の指示によるものだろうな。久能山からの改葬の際、家康の棺の中まで手が入れられたかはわからないけど、それなりの保存処理はされていたんじゃないかと個人的には思う。家康が東照宮に鎮座した後、天海も保存処理が施され東照宮の西の大黒山に葬られた。ついで家光が天海の墓のすぐ近くに大猷院を構えて葬られる。家光は間違いなくちゃんとした保存処理がされているだろう。仲良し3人組が生きてる時とあまり変わらないような状況で今でも日光で固まっている・・・オカルトちっくなのがお好きな方達があれこれ推測したくなるのも、わかる気がするな・・・とちょっと思った。にほんブログ村
2014年02月22日
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階段にも、解説がついてる。 【この階段には踊場が付き、折れ曲がっている。敵がすぐあがれないように曲げ、 幅も一人しか通れないように狭く階段の勾配も急で、すべて防御に有利に考えられて いる。勾配が急であるため各段の踏板にすべり止めも工夫されている。】上がってまず目に付いたのが、これ。 【御社壇 天和3年(1683)当時の城主水谷左京亮勝宗がこの松山城を修築したその節、 松山藩5万石の守護として三振の宝剣に天照皇太神を始め、水谷氏の守護神 羽黒大権現等十10の神々を勧請し、この御社壇に安置し、事ある毎に盛大な 祭典を行い、安康を祈った。】今は飾り付けもさみしくなっちゃってるけど、なんとなく厳かな雰囲気。でもそれより、私はやっぱりこっちの方に惹かれてしまふ~。 ああ、むき出しの梁が、桁が、小屋束があ~!!もうね、こーゆー骨組見るの、大好きなんです。ちょぼちょぼと城郭建築についても勉強して、簡単な構造なら少しはわかるようになってきたけど、最上部の梁組、特に隅部なんかは複雑で、まだまだわからない事がいっぱい。これがあーなって、こーなって・・・って考えながら見るので、ホントに見てて飽きない。まあ、松山城の内部は当時のままじゃないけどね。雨漏りで部材が腐っちゃって、倒壊寸前だったっていうから。しかしすごいよなあ、この技術。木を組んだだけで建物と重い屋根を支えちゃうんだから。天守の部材は非常に太いので、現在の住宅よりはずっと強度があり、また各階が独立した構造をしているため、耐震性にも優れていたんだと。ただし、心柱を通さない場合ね。「火天の城」みたいな心柱を通すと、心柱が穴だらけになっちゃってかえって強度が落ちるんだって。あ~、このままず~っと木組を眺めていたい・・・とポケーッとしているのは私だけで、皆さんさっさと帰っていく・・・いいけどさ、別に。こんなに素晴らしいものがあるのに、もったいない2階からは本丸の表側全体が見渡せる。 向かって左側が五の平櫓、右側が六の平櫓。奥に見えてる下の段は、二の丸。窓には、解説もついてる。 【武者窓(連子窓) 正方形の角材の角を外側に向けて並べて、外からは内が見えにくく、内からは 広角に敵兵の動きを見ることができる。】1階には、「装束の間」とよばれる小部屋がある。 【籠城時の城主一家の居室床下に石を入れ隙間のないようにし、忍びの者でも 侵入できないように工夫がされている。戦に敗れ、落城の時は城主一家の死に場所 でもある。】ってしんみりするような部屋があるかと思えば、こんなものもある。 【囲炉裏(いろり) 板石造り、長さ一間、幅三尺、籠城時の城主の食事、暖房用に用いられたと 言われている。天守閣の中に切りこみの囲炉裏があるのは全国でも珍しい。 これは戦国時代備中の首都として、この城の激しい争奪戦が幾度も繰り返された 経験から生まれたものである。】いやいやいやいや~、そりゃないっしょ~!天守だって御殿だって、一番の敵は火事じゃないの~?火気厳禁な気がするんだけどな・・・「用いられたといわれている」って言っても、この建物自体は実戦に供されてないしな。よくわからないこの頃、天守へ入ってきた一般の観光客のおばさんが、入ってくるなりデカい声で「しょぼっっ!!」と言いやがった現存天守でしょぼい言われたら、もはやお手上げですわ・・・てゆーか、一般の人が城を知らなさすぎるんだと思う。自分の国の歴史なのに。お城って、きらびやか~なイメージがどうしてもあるんだよね。さらに、天守の外観がその勘違いに拍車をかける。外が綺麗だから、中も同じように綺麗だと思わせちゃうんだろうな~。権威を高めるために、あれこれ意匠を凝らすってのもわかるんだけど、何とも罪作りなものよ・・・しかし、天守が示す権威は何も過去だけの話じゃない。現存でも復元でもあるいは模擬でも、「天守が存在する」という、ただそれだけで、この現代においても城に何の興味も持たない人でも吸い寄せられる魔力を放つ。それが現存天守ともなれば、なおさら。円滑な城跡の維持・管理のために、できれば沢山の人に訪れて欲しいのはヤマヤマだけど、人が多いとしばしばこうした問題発言も耳にするので、現存天守は見たいけど、観光客はウザイというジレンマを払拭できない。あ~、ホントに罪作り・・・さて、1階には色々パネルが置いてあり、興味深い事や写真が載ってる。 【壁の構造 修理時の調査では、天守の南と北側部分に創建時の部材が残されていることが わかりました。その部分をさらに調査したところ、外壁と内壁とが一体となった 構造ではなく、壁内部が空洞であったことが確認されました。 通常、城郭建築では、銃弾等による攻撃が想定されることから、かなり厚く 造られます。中には、砂が充填されたものや、人頭大の礫などが塗りこめられたものも あります。 今回確認された備中松山城天守の壁構造から、実戦を想定していない建物であることが うかがえます。】その修理の際の写真がこちら。 パネルを写したものだから見づらいと思うけど、貫(横に渡した板)の奥は、ホントに空洞になってる。こりゃ~びっくりだわさ~。丸亀城なんか、下の部分が特に厚く造られてたよ。パネルには、比較のために彦根城の壁内部の写真も載ってる。こちらも見づらくて、ごめんなさい。 石がみっちりと埋められてるのが、わかりますか?本丸に入るあたりまでは、これでもかってくらいあれこれ防備に努めてるのに、天守が実戦を想定してない・・・?なんともアンバランスな城だことにほんブログ村
2012年05月01日
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当初の予定では、商店街で買い物を済ませたらそこで巣鴨を出るハズだった・・・が、おせんべ屋さんのおばさんとのおしゃべりで私が以前見たお地蔵様がお色直しの前なのか後なのか気になったので、ついでに真性寺へ寄ってみることにした。境内へ入ると、300年イベント用に大きな看板が設置されていた。 頭にかぶる大きな笠で影になっちゃって以前はお顔が見えなかったけど、笠取るとこんなだったのか~。で、看板に書かれてる文章は大変長いですが、「プチ巣鴨編(8)」ではロクな縁起を紹介してなかったし、この看板は一時的なものだと思うので、せっかくだから全文紹介します。 【このお地蔵さまは、高さが2.7メートル 台座を含めるとおよそ3.5メートルの 大きな唐銅製の座像です。右手に錫杖、左手には宝珠を持って蓮台に趺座しています。 これを称して江戸六地蔵といい、江戸御府内に6ヵ所造立された地蔵尊の一つです。 各所の地蔵菩薩像6体は江戸深川の地蔵坊正元が願主となり宝永3年に願を発し、 14年間に6体の地蔵菩薩を造立しました。眞性寺の1体は、300年前の正徳4年 9月に4番目として完成しました。 地蔵尊造立にあたり、地蔵坊正元は「江戸六地蔵建立之略縁起」という勧化書を 造って人々の寄進を募り、莫大な寄進額が記録されています。造立由緒については 「当国六地蔵造立之意趣」に詳しく述べられていますが、当時の時代背景を考えると、 元禄末から宝永年間の相次ぐ地震や大噴火などで社会不安が増したこともあり 江戸庶民の神仏に対する切実なる願いが込められていることが推察されます。 また、中山道を今日まで連綿と行き交う人々の願いや地域の人々の敬虔な願いが お地蔵様には込められてまいりました。ここに2011年東日本大震災犠牲者の ご冥福をお祈りすると共に、未来300年の平安を御祈願いたします。】 (漢数字は戦国ジジイが変換)それで、地蔵坊正元の「当国六地蔵造立之意趣」の略文が続きますが、こちらは漢字の読みも難しかったりするので、読みやすくしてご紹介します。 【そもそも我12歳の頃古郷を出で、16歳にして剃髪受戒す。その後24歳の秋の 頃より重病を請け25歳の春の末に至りて医術も叶いがたく、死すでに極まれり。 これ定業のなせる所にして、前日よりその相、己に顕れり。父母これを悲しみ、 ひとえに地蔵菩薩に延命を祈り奉る。 自らも親の嘆き骨髄に通り、一心に地蔵菩薩に誓願すべく、我もし菩薩の慈恩を こうむって父母存生のうち命を延べる事を得ば、尽未来際に至るまで衆生のために 菩薩の利益を勧め多くの尊像を造立して衆生に帰依せしめ、共に安楽を得せしめんと 誓う。 その夜不思議の霊験を得て、重病速やかに本復す。(中略)帝都の六地蔵に同じく 御当地の入口ごとに1体ずつ金銅(かなぶつ)一丈六尺の地蔵菩薩を六所(むところ) に都合6体造立して、天下安全武運長久御城下繁栄を祝願し、かねては又諸国往来の 一切衆生へあまねく縁を結ばしめんと誓う。(中略) 大凡此尊像造立は国土あらん限りの宝なるべし金銅仏なれば火災にも滅せず、 一丈六尺の大像なれば盗賊の失もなかるべし。諸人往来のちまたに立てれば 一切衆生皆ことごとく縁結び奉る。あおぎ願わくは神明仏陀の加護をこうむりて 6体の尊像つつがなく造立して万代の一切衆生と共に同じく善道に至らん事を。 勧化沙門 深川 地蔵坊正元 謹言(つつしんで申す)】患いの末、ついに死相まで出たのに奇跡の復活を遂げてしまうのはすごい。宝永3年なら元禄赤穂事件の少し後だな。しかし、「こんだけデカきゃ盗まれんだろ~」って書き残してるのが笑える。今年は300年記念の各種イベントが用意されてたみたいだけど、真性寺では毎年「百萬遍大念珠供養」が行われているらしく、その説明が続く。 【百萬遍大念珠供養は「災い回避の御祈願」として毎年6月24日の午後5時より 厳かに行われます。眞性寺境内に沢山の老若男女が、災いの回避を願い、直径3寸5分の 大玉と2寸の小玉が連なった(全部で540珠)長さ9間の大念珠を、お念仏を唱え 廻します。 境内の「陰光地蔵尊石碑」によると、其の大念珠供養は天保10年に始まり連綿と 続けられておりましたが、先の大戦により中断し戦後昭和46年に地内の江戸六地蔵 供養会により復活しました。現在は「江戸六地蔵奉賛会」の方々により運営され、 どなたでも参加いただけます。また、子供用の大念珠も用意され、地域のお子様が 大念珠を廻しております。ご奉仕参加の皆様には奉賛会よりお供物が振る舞われます。】 (漢数字は戦国ジジイが変換)で、その大念珠がこちら↓。 これを、車座に座ったババ様たちが廻してる写真も載ってます。災厄を逃れたい方は、6月24日に真性寺へおこしやす。そのあとは、江戸六地蔵の略年表・・・これはいいか。いや、後で役に立つかもしれないから記事に残しておこう。元和元年(1615) 眞性寺中興さる。祐遍法印・元和偃部武(大阪夏の陣)元禄16年(1703) 元禄大地震(関東地方中心) 宝永3年(1706) 深川の地蔵坊正元が願主となり京都の六地蔵に習い発願する 宝永5年(1708) 江戸六地蔵第一番 東海道品川寺に造立 宝永7年(1710) 江戸六地蔵第四番 奥州街道東禅寺に造立正徳2年(1712) 江戸六地蔵第二番 甲州街道太宗寺に造立正徳4年(1714)6月 眞性寺第六世盛弁法印入寂 第七世意正法印 9月 江戸六地蔵第三番 中山道眞性寺に造立享保2年(1718) 江戸六地蔵第五番 水戸街道霊厳寺に造立享保5年(1721) 江戸六地蔵第六番 千葉街道永代寺に造立 天保10年(1839) 眞性寺にて百萬遍大念珠供養が始まる(安政の大地震)文久3年(1863) 地蔵尊宝珠再造大正12年(1923) 関東大震災にて台座蓮弁2枚再造第二次世界大戦 戦火に遭うも現存するが大念珠等消失昭和46年(1971) 百萬遍大念珠供養が復活 今日へ至る 平成20年(2008)8月 六地蔵修復のため京都へ平成22年(2010)6月 修復完成 還着開眼供養 ん~っ、なるほど、私が初めて真性寺に来たのは平成23年だから、お帰りになった翌年だったんだな。しかし、最初の発願からわずか15年で丈六の地蔵様を6体完成させたのか・・・病み上がりとは思えぬエネルギッシュさだな看板には嘉永7年(1854)の真性寺付近の古絵図も載っている↓。 真性寺の位置は変わってなさそうだから、甲州街道をはさんで少し上に描かれてる建部内匠頭の屋敷地を含めた左側一帯が、現在の染井霊園。その右に大きく伊勢津藩藤堂家の下屋敷が描かれていて、これが巣鴨駅付近の西友とか学校とかをすっぽり包むエリア。デカいなあ、与右衛門ち。それから、江戸六地蔵の巡拝図が載ってます↓。 ほお、これはわかりやすくていいな~。なるほど、こーゆー位置関係なのか。以上で看板からの紹介は終わり。真性寺のお地蔵様へご挨拶に参ります。 境内には人が多いというほどではなかったけど、以前もお地蔵様の前には参拝者がそこそこいたし、この日も数組いた。昔も今も、変わらず庶民の信仰を集めるお地蔵様であります。よし、これで巣鴨は終わり。朝、巣鴨に着いてからずっとトイレに行ってなかったのでまずトイレへ・・・鏡を見ると、汗でひどい顔になっている。下着まで汗でぐっしょりで、自分がクサイ。ああ、これで電車乗るのやだな・・・身支度を整えてから電車の人になる。時計を見ると、12時を少し回ったところだった。ハア、12時には絶対帰るつもりでいたんだけど・・・暑くて疲れたし、それになにより回復途中の足が痛い。松葉杖が外れて、レントゲンでの経過観察も終えてからはリハビリにも行ってないからな~。これだけ歩いたのはケガをして以降初めてのことだし、鈍い痛みが「もう今日は帰ろうよ~」と誘っている。電車で上野へ向かう途中、どうしようかと考えていたけど、ただでさえまだ普通の早さで歩けないのに痛い足を引きずっていたらもっと時間はかかる。ここで無理しなくてもいいんだし、これで帰ろうかと一旦は考えたものの、このクソ暑い中また来るのも気が重い。この後のお目当てははっきり決まっているから、あともうちょっとだけ頑張ろうと自分を励まして、寛永寺へと向かう。にほんブログ村
2014年08月12日
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それでは、久々に現地へ戻って「(134)」の慈忍和尚廟の続きに移ります。天梯権現社が根性入れて探さないとわからなそうな場所にあるのに対し、第2の魔所は実にオープンな場所にある。石段を登りながら前方を見ると巨木がそびえ、墓域に足を踏み入れる前からなんか雰囲気が違う↓。 石段を上がると鳥居があり、参道を奥へ進んだ先に廟所がある↓。 まずは手を合わせて禅師の君にご挨拶してから、ちょっと失礼して脇に回って玉垣ごしに墓石を覗く。 へえ?面白い形・・・円仁さんの墓石は無縫塔だったけどな。ただ、僧侶の墓石イコール無縫塔の図式が一般化したのがいつ頃かは知らないけど、個人的には円仁さんの墓石が無縫塔だったって方が違和感あるんだよなあ。まだひとケタ世紀の頃は禅師の君みたいなスタイルの方が一般的だったんじゃないかって気がするんだけど。円仁廟の方は全体的に新しい感じがしたから、近世以降あたりに綺麗に整備し直されてるかもしれないしな。もっとも、飯室谷不動堂のホームページに掲載されている略歴を見ると、江戸中期の1753年に慈忍和尚廟も修復されてるらしいんだけどね。でも墓石の上の部分なんかはかなり古そうだから、やっぱり元からこのスタイルだったんじゃないのかな。『比叡山 その歴史と文化を訪ねて』によると、毎年3月17日には「慈忍講」という法要が厳粛に行われているんだそうな。禅師の君の命日は永祚元年2月17日で西暦に直すと990年3月16日。「慈忍講」は新暦での命日にちなむ法要だとは思うんだけど、1日ズレているのはなぜなんだろう・・・さてここはこの日のお目当てのひとつと言っても、誰もいない静かな谷にお墓の前に一人ぽつんといるのもちょっと怖いようなイメージもあったし、それにここは三大魔所のひとつ。長居するのもどうかと初めは思っていたし、長居するつもりもなかった。しかし実際に現地へ来てみると これは禅師の君にお尻を向けて来た道を振り返ったところですが、巨木が立つ中にも若木などもあるので、文字通りの谷という地形にあっても意外に明るく、冬の叡山の清冽な朝の空気が清々しい。それに何と言っても、この静けさ。いちおうこの日のメインは良源さんの横川なので、結果的にここにはそう長い時間はいませんでしたが、そのわずかな間にも時間が経つごとに足の裏から根っこが生えてきてここから離れたくなくなる衝動にかられた。「(106)」で叡山に大のお気に入りが2つあって、ひとつが最澄の眠る「掃除地獄」の浄土院、もうひとつは魔所だと書きましたが、そのもうひとつのお気に入りの魔所がここ慈忍和尚廟です。魔所といってもここは聖域だとわたくしは感じました。ここと最澄の浄土院、この2つの聖域を訪れた時の感覚は1年以上経った今でもはっきりと覚えています。叡山のお坊さんの中にも、ここを聖域だと言っておられる方もいます。ぶっちゃけわたくしは、もうこの日はここだけで終わらせてもいいと思った。この先で待っているのが良源さんでなかったら、あるいはホントにそうしていたかもしれない。それぐらい、理屈じゃなく無性に惹かれる場所でした。それにしても、なんでこんな聖域が魔所と言われてるんだろう・・・プラス、叡山七不思議のひとつでもある禅師の君のユーレイの伝承。禅師の君の情報は少ない。わたくしは良源さんのことを勉強する間に必然的に禅師の君の経歴などについても知ったものの、それでも彼自身の人柄を語るようなエピソードは知らない。『大鏡』で紹介するのは藤原北家の中心メンバーとその子弟、およびそれに関連する天皇たち。九条家繁栄の基礎を築いた師輔の子である禅師の君もいちおう出ては来るものの、今のところ2箇所しか記憶にない。師輔の子のうちで僧侶となったのは禅師の君とその同母兄の高光の他にも数人おり、 【これらの方々は、法師とは申せ、当代第一の験者で、朝廷でも民間でも 生き仏のように信じあおがない人はありません。】 (小学館「日本古典文学全集」/橘健二氏の訳によるもの)と僧侶になった子をひっくるめての紹介となっている。もう1箇所は兼家の娘の詮子が宮中で加持祈祷を依頼したというもので禅師の君が導師として出かけていったらしいんだけど、その話のメインは禅師の君が連れていた伴僧の中に人相見に長けた者がいて、あの人の人相はどうか、この人の人相はどうかって話ばっかりで肝心の禅師の君は一切話に出てこない。まあ、『小右記』のような日記類を根気良く探せば多少の情報はつかめるのかもしれないけど、今回はそこまでしていない。飯室谷へは車で入ることもできるので、慈忍和尚廟もそれなりに史跡めぐりブログなどで紹介されているものの、歴史ファンにも色々いるもので、ごく一部には玄人顔負けの研究や考察をしている方もおられるものの、お出かけ前の事前の下調べで先人の訪問記などもいくつか見てみるとほとんどの「歴史ファン」はネットで得られる情報だけを基に世間で言われることをうのみにしてそのまま紹介している方が多いように思われる。禅師の君のように情報が少ない人の場合は、必然的に皆様よく似た表現をしておられる。ただ単に誰かの文章をコピペしてるんじゃないかと思うんだけどね。で、例の伝承とからめて禅師の君が何て言われてるかとゆーと、「自ら魔道に身をおとしめて叡山の守護をした」なんてのが実に多い。それと、伝承そのものの説明にもある「戒律を守って厳しい修行をした人」ぐらいのもんかな。魔道に身を落としてはいないと思うんだけどね・・・だってここは、神々しいまでの聖域なんだもの。修行に厳しかったってのはあるかもしれない。良源さんと師輔の夢を背負って誕生した、九条家出身の第1号叡山僧だから。にしても、なんであんな伝承が生まれたろうか・・・疑問を抱えながら何かをネットで検索している時、なるほどと思う記事を見つけた。 【寺によると、みだりに立ち入られることを防ぐ意味もあり、特に明治時代以降、 慈忍和尚のような怪談話が流布するようになったらしい。魔所といえばいかめしいが、 延暦寺にとっては、聖地にほかならない。】 (’13年8月16日付 YOMIURI ONLINE/ 「お寺と神社と その物がたり~第5部 異界と交わる~」より)これだよ、これ!聖域を守るために生まれた伝承だったんだ~!!そうに違いない。うんうん。別に、禅師の君が魔物になったって一向に構わないんですが、彼自身の経歴と廟を訪れた印象からはどうもしっくり来なかったもんでね。どっちかってーと、魔物になるなら良源さんの方がぴったり来るような『比叡山 その歴史と文化を訪ねて』には 【慈忍廟の周囲は、樹齢五百年以上の杉の大木が十数本、亭亭と天をついているが 決して伐採しないのも魔所なるが故である。】という解説があるけど、「魔所」を「聖域」と読み替えてもいいでしょう。さて、不思議な伝承にケリがついたところで先へ進めましょう。強い磁場のような慈忍和尚廟の持つ引力をどうにか振り切って廟を出て奥へ進むと おお、石垣だあ~。この日は平日だから人もいないし、禅師の君のお墓という聖域もあるし飯室谷サイコーーー!!と心の中で叫びながら石垣の間を歩く。途中には僧坊もあるが、入れない場所もある↓。 少し歩くと道が上下に分かれてたんだっけか。正面の道は門が開いていたので、とりあえずまっつぐ進む。 ↓ぽちりとよろしく~。にほんブログ村
2015年05月03日
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うう、もう歴バナやめたい・・・けど、エピソードをあともうひとつだけ(笑)。「上野第二編(60)」で幕府から朝廷に対する締め付け法令を紹介してますが、前回の最後にちらりと顔を出したいわゆる「紫衣事件」について少々書きたいと思います。ただ、この一連の問題って思ったより色んな要素がからんでいるようで、まともに書くと崇伝が主役の話になっちゃいそうなのでなるべく崇伝のことは抑え、与右衛門のことについて書きますのでご了承ください。まず慶長18年(1613)の「勅許紫衣法度」。ここでは大徳寺・妙心寺・知恩寺・知恩院・浄華院・泉涌寺・粟生光明寺・金戒寺に対し、勅許の前に幕府に知らせること、その上で幕府の選考に合格すれば紫衣の勅許を認めるという内容だった。その後の元和元年(1615)、「禁中并公家諸法度」では対象を限定せず、全宗派本山にまで拡大して紫衣の勅許に干渉している。 【紫衣は本来天皇が自由に決めることであり、紫衣が売官ゆえ天皇家にとっては 最大の収入源であった。】 (『崇伝の生涯』/圭室文雄より)圭室氏によると、各宗派本山への紫衣の発給は膨大な数に上っていたそうで、 【紫衣(宗内第一位の僧階)・黄衣(第二位の僧階)の僧達が巷にあふれ、 人々の嘲りもかっていたと記している。(中略)さらにそのほか京都の門跡寺院は 全国の寺院僧侶の資格のうち、僧正(大・正・権)、僧都(大・正・小・権)、 律師・法印・法眼等の僧階を出すことができるがこれはいずれも売官である。 これは本山のみでなく全国の寺院を対象とするのでその収入は莫大であり、また それを取り次ぐ伝奏家(公家)の収入も同様である。幕府側はこれらの特権を 細かく制限し、その収入の削減を図った。】 (『崇伝の生涯』より)だそうな。もちろん、経済的な問題だけじゃなく、朝廷の権威を削ぐことも目的のひとつに入っている。ところが、後水尾天皇はこれに従わなかった。ウィキペディアによる事件の経緯は、 【後水尾天皇は従来の慣例通り、幕府に諮らず十数人の僧侶に紫衣着用の勅許を与えた。 これを知った幕府(3代将軍・徳川家光)は、寛永4年(1627)、事前に勅許の 相談がなかったことを法度違反とみなして多くの勅許状の無効を宣言し、京都所司代・ 板倉重宗に法度違反の紫衣を取り上げるよう命じた。 幕府の強硬な態度に対して朝廷は、これまでに授与した紫衣着用の勅許を無効にすることに 強く反対し、また、大徳寺住職・沢庵宗彭や、妙心寺の東源慧等ら大寺の高僧も、 朝廷に同調して幕府に抗弁書を提出した。】沢庵宗彭(たくあん・そうほう)は大徳寺の僧。「たくあん漬け」はこの沢庵氏に由来するという説もあるけど、漬け物のようなべったらのんびりした方という訳でもなく(笑)、大寺の高僧らしくプライドも高くまたなかなか激しい一面を持った人であったらしい。「上野第二編(45)」で崇伝の履歴を簡単に紹介してますが、慶長17年(1612)からは板倉勝重とともに寺社を統括する役割を与えられている。崇伝は絶大な権力をふるったと言われるが、大徳寺とはいくつかの因縁もあり、大徳寺と妙心寺についてはちょっと簡単に手が出せない状況でもあったらしい。「禁中并公家諸法度」を発布した同じ月、大徳寺と妙心寺に対して同じ内容の法度が出された。それは5つの内容に分けられ、そのうちの1つ、出世の条件として30年の修行+1,700の公案透過を課すというのは特に厳しいものだった。出世、はコトバンクによると現在使う意味などのほかに【禅寺の住持となること。特に、紫衣を賜り、師号を受け、あるいは勅宣を蒙って官寺の住持となること】とある。公案は一口で言うと、禅におけるなぞなぞみたいなもの?つまり長く修行して沢山勉強しないと昇進できないぞ、みたいな感じかな。ただ、この法度は真面目に守られなかったようで、寛永3年(1626)、幕府は大徳寺と妙心寺に対し厳重注意の上出世の儀を禁止し、秀忠の口から伝えられた。ところがその翌年4月、沢庵はおもむろに但馬から京へ出てきて大徳寺の僧を出世させた。いい根性してるじゃん。当然これは問題になり、7月、幕府は元和の法度以降に出世した者は無効などとする通達を出した。今度はこれに大徳寺と妙心寺が反発した。といっても、山内でも意見は恭順と抵抗の2つに分かれたらしいが、沢庵は強硬派で、大徳寺の僧連名で沢庵が意見書を書いた。この内容がまたキョーレツで、特に30年修行と1,700公案の件については「それは家康様のお考えですかね?それとも、法度の作成者が寺院の事情を知らなかったんですかね?だいたい、1,700もこなしたなんて自称する奴がいたら、そいつは嘘つきでしょ~よ!」てな感じらしい。ま、「直江状」みたいなもんかな「禁中并公家諸法度」は崇伝が起草したともされる。その後の7月の通達を出した際にも崇伝は会議に参加しており、要するにこの件については崇伝が深く関わっている。なもんだから、沢庵の痛烈な抗弁書に崇伝が怒るのは無理もない。京都所司代・板倉重宗経由で江戸へ渡った抗弁書を見せられた崇伝は、その日の日記をぷりぷり怒って書いている。大徳寺と妙心寺の穏健派はその後も詫び状を提出するなどしたが、大徳寺強硬派は相変わらずとんがったままだった。寛永6年(1629)2月、沢庵は江戸へ召喚される。秀忠は当初、沢庵らを島流しにするつもりだったとも言われる。江戸に入るとまず沢庵は小堀遠州らを通じて与右衛門の居所を尋ねたそうな。して、幕府は天海、崇伝、そして与右衛門を集めて対応を協議した。 崇伝:ご法度に背いたことを自ら白状してるんだから、 こりゃもう全員きつ~くお仕置きすべきでしょう! 天海:ま、その必要はないでしょう。 例の書付の件については沢庵殿が自分1人の責任だと 言ってるんじゃし、玉室・東源はおとがめなしとして、 沢庵殿はお好きなように処分したらよいじゃろう。 大体、経緯を話すことを白状と言うもんじゃが、 初めっから話しとるのは白状とは言わんでしょ。 寺のためを思って己を捨てて書付を出すなんざ、 近頃奇特なお人というもんじゃ。 ワシの寺には今はそんな者おらんしの~。フォッフォッフォッ。 しかしまあ、ご法度に触れるような事をしでかしたのはいかん。 この責任を沢庵殿1人に押し付けたんじゃ~罪も重くなるから、 ここは3人に罪を分け与えて、1人あたりの罪は 軽くしとくってことでどうでしょうな~。 ・・・と何やら経文などを引いて天海が申し上げたところ、 与右衛門:そうですな。 ワシも天海殿と同意見です。 いかがでしょう、大御所様?(←秀忠)て~な感じで、ここも天海と崇伝のバトルがあったように言われますが、崇伝はあくまで幕府方の代弁者なんだよね。ま、多少は寺院勢力の何たらとかゆー話も絡んではくるようだけど、別に天海が善人で崇伝が悪人て訳じゃない。今回の記事の大まかな流れは『紫衣勅許事件』(船岡誠)を参考にしてますが、同文によると 【今回の天海の弁護にはほかにも理由があった。この時期、柳生宗矩(家光の兵法師範) や堀直寄(越後村上藩藩主)らが、沢庵たちのために奔走し、天海や老中たちに 取り成しをはかっていたからである。】だそうだけど、一般的に柳生宗矩の尽力が有名らしいものの、『寛永寺』では 【実は当初からこの処罪に強く反対していた大師(天海)は、両寺の僧の釈放を 訴えて地味な運動を続けていた。】という。まあ、誰が一番頑張ったかってのはここでは問題ではないんだけど、とにかく色んな人が水面下で沢庵らのために動いてたってことらしい。結局、沢庵・玉室(大徳寺)、単伝・東源(妙心寺)はそれぞれ大名の預かりとなり、大徳寺の江月は処罰を免れた。のち、家光の代になって全員が釈放される。江月は茶の弟子・堀直寄を通じて、沢庵・玉室と共に天海に礼を言いに行っている。東源はこの縁がきっかけで天海の死後、『東叡開山慈眼大師伝記』を書いた。(「上野第二編(14)」参照)でちっとこの一連の事件の中では与右衛門の影は薄いんだけど、『江戸時代初期の朝幕周旋について』では 【さて朝幕関係は幕府と後水尾院との対立において、まさにその頂点に達したが、 高虎天海の斡旋によってあやうく事をおさめ、かれらが東西折衝の緩和の役割を はたしたことは今迄あげた史料で多少なりとも証明できたと思う。】としている。紫衣事件においてなぜ与右衛門が天海に賛同したのか、その真意はわからない。細川忠興は「崇伝と与右衛門って仲悪いんだぜ~」って言ってるけど、どうもコイツの言うことは信用ならん。一方で、一色氏出身の崇伝と一色氏の娘を娶っている与右衛門は親類のよしみで仲は良かったとする人もいるし。けど、これはまだ後水尾天皇が譲位する前のことで、松姫の入内問題でもさんざんモメたし、朝幕の間に立って奔走してきた与右衛門としてはこの件でこれ以上朝廷との間に波風を立てるのは得策ではないと判断したのではないだろうか。ただ、結局紫衣勅許の件は寺院だけの問題ではなく、朝廷の経済と権威にも関わることだったから、与右衛門の配慮もむなしく、沢庵らの処分が決まった数か月後に後水尾天皇は譲位する。久保文武氏は『徳川和子の入内と藤堂高虎』の中で、対朝廷との折衝で与右衛門が外様でありながらもこのような役を果たしたことについて、 【秀忠の高虎に対する信頼度は茶事に托して、父家康以上のものがあったように 思われる。これが秀忠夫妻が娘和子入内の紛糾の処置を高虎に托した第一の 理由であろう。 第二には、高虎が京都公家衆、ことに近衛家とかなり親近な交流を有していた ことも大きい理由になろう。】としておられる。にほんブログ村
2014年03月10日
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前回のタイムテーブルの中に 弘仁6年(815) 空海が徳一や勝道とみられる「東国の某師」に真言宗普及のための協力を 要請し、広智に真言密教の経典書写の援助を依頼。という出来事を織り込みましたが、「広智」というのは道忠の弟子で、熊倉浩靖氏によると【1、最澄東国巡錫に際して緑野寺法華塔前で両部灌頂を受けたこと 2、下野国大慈寺の安北宝塔は広智により守られたこと 3、第4代天台座主安恵(あんね)も広智の弟子で、最澄東国巡錫の際、 最澄に託されたこと 4、最澄入寂のため直接に渡すことができなかった徳円への印信はその師広智より 付嘱されたが、徳円は第5-7天台座主円珍・惟首・猷憲の師となったこと 5、「師師相伝之明験として、最澄が唐より将来した天台香爐峯栢木文笏4枚のうち 1枚が付されたこと 6、空海からも弘仁6(815)年・天長4(827)年の少なくとも2回、 働きかけのあったこと】 (『東国仏教と日本天台宗の成立-最澄東国巡錫の意義と背景を導きとして-』より。 人物解説などについては一部割愛))が知られているというお人だそうです。で、6つ目の項目の1回目が上の援助依頼で、2回目が前回のタイムテーブルの 天長4年(827) 空海が広智に「十喩を詠ずる詩」を贈る。にあたる訳ですが、「叡山攻め」でもさんざんお世話になった佐伯有清氏によると、1回目の援助依頼に広智が具体的にどういう返事をしたのかは不明だが、京都高山寺所蔵の密教経典に 【「弘仁六年五月、海阿闍梨の勧進に依りて、上毛の沙門教興、書き進ぜり」】 (『人物叢書 円仁』佐伯有清/吉川弘文館)より)という記載などがあることから 【広智とならんで道忠の門下であった上野の国浄土院(浄院寺・緑野寺)の教興が、 空海の勧進に応えて経典の書写に携わったことが確かめられる。】 (前掲書より)そうなんだけど、佐伯氏が『円仁』を執筆した時点では空海たんと教興を直接に結び付ける史料が見当たらないそうで、広智が両者の仲立ちをしたんじゃないかと推測されているそうな。空海たんに関する記事で幾度かお世話になった密教21フォーラム様のサイト「エンサイクロメディア空海」によると、弘仁6年の際には広智・徳一のほか甲斐・武蔵・常陸や大宰府などにも密教の流伝や経典書写依頼のための使者を送ったそうなんだけど、広智へのお手紙には 【「闍梨は遐方に僻処すれども、善称は風雲と与(とも)んじて周普す (広智阿闍梨は、辺境に居住しておられるけれども、すぐれた名声は、 風雲とともにひろく知れわたっております)」】 (前掲書より)と書いてあったそうで、多少のリップサービスが含まれていたとしても、広智が遠く離れた空海たんからご指名を受けたことに変わりはなく、佐伯氏は前掲書で 【これによると、弘仁六年当時、広智の名声は、空海のもとにまで 達していたのである。】とする。それで、2回目の天長4年の時については 【真言修行の要諦を詩に託した「十喩を詠ずる詩」を空海が広智に贈ったのは、 空海が最澄没後の空隙をねらって、広智のもとで東国の地にひろまっていた 天台の教学に楔を打ち込もうとしたためであろう。】 (前掲書より)と語る。これについてはまた別の解釈もあるのかもしれないけど、いずれにせよわかっているだけで2回、空海たんは広智に熱いラブコールを送っている。ここから、 【最澄、空海共に依拠・協力を願う強力な仏教集団が東国周辺に居たこと、そして、 それらの人々の中に、空海よりは最澄に近い存在があったことを重視すべきだろう。】 (以下【】内は熊倉氏の論文より)と熊倉氏は言っておられる。最澄との関係についてはこれから紹介していきますが、道忠を中心とする「強力な仏教集団」とはいかなるものであったのか、引き続き熊倉氏の論文に沿って見てみましょう。 【道忠・広智教団の社会像としては次の4点が指摘できる。 1、円仁の俗姓は壬生氏で壬生氏は円澄の俗姓でもあったこと 2、緑野寺に一切経があることは広く知られており全国から注目されていたこと 3、幾つもの寺院を建立し一切経を書写できるだけの経済的基盤を有していたこと 4、菩薩戒に立った利他行を活動の中心としていたこと】詳しくは氏の論文を読んでいただきたいのですが、壬生公は【東国六腹の朝臣に比べればセコンダリークラスに属する氏族と見られ】、上野国甘楽(かんら)郡・群馬(くるま)郡・下野国都賀郡を中心に勢力を張った氏族で、【一般に奈良・平安時代の1郷の人口は1250人前後と見られて】いるのに対し、【緑野郡の人口は12,000-14,000人程度】で現在の藤岡市・鬼石町と比較して人口の伸びは5~6倍。同じく壬生氏の勢力範囲あたりと思われる甘楽郡・多胡郡の伸びはそれぞれ8倍程度、4倍程度。ところが、全国で見ると人口の伸びは21倍程度、群馬県では17倍程度と緑野郡・甘楽郡・多胡郡とは比べ物にならないほど高い伸び率となっている。ここから 【緑野郡は極めて人口密度の高い、つまり生産性の高い地域であった。】という、群馬県人には失礼だけどかなりオドロキの結論が導き出される。『日本書紀』には緑野郡には屯倉が設置されていたという記述があり、またかつての緑野郡に相当する現在の藤岡市の平井地区というところでは、昭和10年の調査で県内最多の古墳が確認されたそうな。古墳・・・てそういえば、奥武蔵から上のエリアにかけて古墳が多いもんな。それで、緑野寺は緑野郡最有力の勢力と推測される 【佐味君が中央の有力な貴族・官人になった後、なお高い生産性を維持したこれら 中小豪族と彼らに率いられた人々によって建立されたと見てよいだろう。】と熊倉氏は語り、下野大慈寺・武蔵慈光寺にも建立・経営主体の類似性が認められるとする。 【結論を急げば、道忠・広智教団が活動した8-9世紀の東国は、農業生産以外の 各種手工業生産によって、当時の平均的人口密度を数倍するほどの人口を食べさせ られるだけの成熟を遂げていたと考えられるのである。これら手工業生産は当時の 最先端の産業技術であり、それらによって高い人口密度が維持されていたとすれば、 そこには、いわば古代の地方都市が芽生え始めていたと言ってよいであろう。 道忠・広智教団の登場は、古代東国社会が「地方都市」を析出させるまでに成熟 していたことの宗教的、思想的表象とさえ言えるのである。】いつも以上に引用が多くて恐縮ですが、今までは想像もしなかった内容を極力そのままに紹介したいので、致し方ありませぬ。「手工業生産」てのは、人物埴輪や瓦の製造、機織り、採鉱・冶金、金属加工などを指し、当然渡来系氏族の指導・サポートも考えられる。しかし、裕福なエリアだってのはわかったけど、それがすぐに仏教に結びつくとも限らんじゃろ?どっかの国みたいに軍事費につぎこむ場合だってあるだろうし、成熟も過ぎると頽廃へと向かうのは人間の性ともいえる。しかし、これらの地域にはちゃ~んとキヨラカな方向へと向かう素地があった。まずは識字。 【(前略)建碑という形式自体が注目される。つまり相当数の人々が文を読み、書き、 残し、伝えあることに価値を見出していたわけで、このことは手工業生産への関与とも 関係すると考えられるが、こうした知的伝統があってこそ、膨大な写経、造塔活動も 可能だったと思われる。】膨大な写経・・・なるほど。即座に脳裏をかすめたのはもちろん、延暦16年の最澄の一切経書写です。だいたい、この事業に協力したのは大安寺の聞寂と道忠ぐらいしか名前が出てこないので、わたくしも「叡山攻め」ではそのように紹介をしましたが、熊倉氏が言うには 【『開元釈経録』によれば1076部5048巻に及ぶ一切経の4割、二千巻余は 道忠による助写だった。】というからまたオドロキ。「ひとつの鉢ごとにひとさじの米」なんてレベルの協力じゃないじゃんか~!!最澄の歴バナでは、最澄だけ見ていてもわからんという趣旨に基づいて長々と政治的状況まで書いていったけど、さすがに協力者の詳しい背景までは考えが及ばなかった。簡単に調べただけで終わらせた程度だった。実は現在のわたくしのマイブームはすまほゲームのオセロなのですが、レベルを上げるともう負けっぱなし。この記事を書いていて久々に一切経書写事業の記事を読み返してみたところ、熊倉氏の論文を読んだ今では当時の記述が見事にひっくり返されて、まさにオセロの終盤で血も涙もないコンピューターに綺麗に黒石をぱたぱた裏返されるのと同じ状況。なんでそこまでひっくり返されたのか、もう少し論文の紹介を進めますね。んで、仏教についてですが、7世紀後半には「知識」と呼ばれる同信の結社(講)が現れ、東国でも高崎・・・のちの山名氏を輩出するあたりですが、726年には佐野三家の子孫を中心とする9人の知識による金井沢碑という先祖供養・入信表白の碑が建てられているそうな。そして佐野三家の一族は681年時点で早くも僧を出しており、 【一人の僧を出すことから在俗の知識結成へと進んでいる。そして「三家(みやけ) 子孫」嫡系の6人を中核としながらも、他の3人が知識に参加する形となっており、 血縁から地縁・職縁へと知識が拡大されていく傾向が見られる。こうした地域での 動きを発展させるところに道忠・広智教団の活動は存在した。在俗の様々な職種の 人々が進んで参加できる活動形態こそ大乗戒に支えられた知識という形態であった。】職種の広がりは身分の広がりをも意味する。 【つまり、道忠・広智教団に結集した人々は、単に苛酷な律令国家の収奪体制から 逃れようとした人々ではなく、手工業生産という付加価値の高い産業技術をもって 自立性を高めようとした人々だった可能性が高いのである。だからこそ進んで、 その中から多くの菩薩僧を出して中央-世界の最高の学問を吸収させようとし、 自ら一切経を揃えんとしたのである。】そうして緑野寺に一切経が整った。この時期、一切経を有する寺院なんて全国でも数えるほどしかなかったハズだ。また、同じような発展を遂げた下野・武蔵の各「地方都市」はネットワークを持っていた。でも、そんな古い時代に自立性を求める民衆がいたとして、権力者が危険視しなかったのか?ところが、 【先に挙げた有姓の壬生氏の多くは、窮民に代わって調庸を納め、戸口増益に功があったと されており、壬生公、壬生吉志、及び彼らと同じ社会階層に属する人々は、氏姓を異に しながらも、民衆に密着した地域有力者として、地域民衆の「利生」に身を尽くしたと 見られ、彼らのそうした行為を実践的に裏うちする思想こそ大乗仏教の菩薩行、利他行に 他ならず、事実「化主」あるいは「菩薩」と呼ばれた僧侶の行った架橋、造寺、衆僧供養、 病患者の治癒、飢者への施食、寒者への給衣などは華厳経や梵網経では福田つまり菩薩行 の内実とされている。 言い換えれば、地域最優勢豪族による多分に勢力誇示的な造寺行為ではなく、地域民衆の 学習・修行・救済センターとして寺を建てようとする意識の高まりという社会基盤の成熟が あってこそ、東国化主としての道忠・広智の菩薩行は具現化できたものと見られ、そのこと が最澄に大きな影響を与えたと考えられるのである。】全国各地に造寺・造仏の伝承を残す行基様はよく「行基菩薩」と表現されるのを不思議に思ったことはないですか?「菩薩」といえば観世音菩薩、弥勒菩薩、地蔵菩薩、勢至菩薩などなど、現代一般人には「ほとけ」と同格のイメージが強いと思うのですが、なにゆえ生身の人間を菩薩と呼ぶのか・・・それはこーゆーことだったんですね。そうしたことを踏まえると、最澄たんがどういう気持ちで「山家学生式」を書いたのか感覚的に理解できそうな気もしてきますが、その全文はもそっと後で紹介しましょうね。にほんブログ村
2018年01月08日
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