戦国ジジイ・りりのブログ

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2015年06月13日
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カテゴリ: 旅日記(近畿)
良源さんは参内する時の宿所として、御所の近くに与願金剛院というのを賜っていた。

「輦車の宣旨」を受けてから初めて参内する際も
そこから行列が出発することになっていたが、ここでサプライズが起こった。

叡山を出て多武峰に移っていた良源さんの弟子の増賀は
古典にも奇矯のエピソードが語られている異色の僧だけど、
増賀のエピソードの中でもこの時の話が一般に最も有名なんじゃないかな。

その増賀が突然やってきて行列の先ぶれを務めると言ってきかなかったが、
増賀のいでたちというのが赤いふんどしをさらけ出して腰には鱈の長い干物を差し、
はだか牛に乗るという大僧正の晴れがましい行列にはとても似つかわしくないものだった。


そもそも増賀は師の権勢欲に辟易して叡山を出たのだから、
師の最高の栄誉を披露するパレードにわざわざそんな恰好で出向いて
師の栄達を批判したという説。

歴史に華々しい成果を残した偉人でも晩年は挫折したり寂しい老後を送ったりする人は多いけど、
良源さんも見方によってはそういう一人であり、栄誉の裏で山内のもめごともあったし
寂しい心情を吐露した書状などもあるので、師を知り尽くした増賀だからこそ
そういう師の心の隙間を埋めるような行動にあえて出た・・・みたいな説。

良源さんがこの時の増賀をどう思ったのかはわからないし、
増賀のエピソードも本当のことかはわからないけど、
弟子の顔ぶれは実にバラエティに富んでいたとは言えるかもしれない。


ここからの流れは過去の記事でぱらぱらと書いてきているので


大僧正になった天元4年(981)の11月には 余慶さんが法性寺の座主に任じられる 。
それに関連して 時の関白・小野宮頼忠 の邸へ大衆が押し寄せ、
叡山で初の強訴が行われる 。


円珍派の主だった僧は叡山を下りた。
それでも一部の円珍派僧侶は円珍の住房・千手院へこもっており、
良源さんが円珍派僧侶の殺害を命じたというデマまで流れた。
ここに至って朝廷も放置できなくなり、翌天元5年(982)正月には
朝廷の詰問使が叡山へ登り、千手院の守護を命じるとともに
噂の真偽について良源さんに問いただすというスキャンダラスな事態へと発展した。

もちろん、詰問使に対しては良源さんは弁明しているのだけど、
上記リンク先にも書いたように法性寺の座主問題にからんでは
今のところ調停などの目立った動きをした証跡は見つかっていない。

良源さんが積極的に介入しなかったのはなぜだろう。

少しおさらいもかねて流れをまとめますと、世間にも有名な円仁派と円珍派の争いは、
そもそも二円のお2人が犬猿の仲だった訳じゃなく、
元をただせば 最澄たんの「悔い返し」から起こったものだった 。
円澄と義真の流れを汲む派からそれぞれ叡山の発展に大貢献したビッグスターが出たもんだから、
両派の争いは時代が下るごとにエスカレートし、円珍が密教を持ち帰ったことで
世間のウケが良かった円珍派が一時は天台座主を独占し、
良源さんが入山した頃も座主は円珍派僧侶だった。

それが、良源さんの修行中に円仁派の座主が復活し、
藤原北家とのつなぎを付けた 良源さんが横川へ入って円仁の旧跡を復活させ 、
さらに良源さんが座主となって 綱紀の粛正 を行うなどの強烈な指導力を発揮するに至って
円仁派の勢いも増すことになった。

「円仁派を継ぐ者」という大義名分は、有力な師僧や裕福な実家を持たない良源さんにとって
重要なものだったとは思うけど、さりとてハナから円珍派を敵視していた訳でもない。

良源さん飛躍のきっかけになった 応和の宗論 には余慶さんなどの
円珍派僧侶も含まれているし、その後の法要などでも円珍派僧侶の参加があり、
場合によっては円珍派を優遇しているようなこともある。

余慶さんは良源さんより7歳年下で、源信や禅師の君よりは
よっぽど増賀の年齢に近い。
つまりは若き日を共に過ごしてきた訳で、時にはライバルであり、
時にはよき協力者という存在でもあった。

その一方で、良源さんには 藤原師輔との約束 がある。
師輔の子である禅師の君に自分の跡を継がせることは譲れない路線であり、
横川の長から天台座主へと上り詰めた今となっては、
座主職を禅師の君に継がせる必要がある。

もちろん、法性寺の座主となった者すべてが天台座主になる訳でもないけど、
余慶が法性寺の座主になることは、すでに法性寺座主を経験している禅師の君と
同じ資格を得ることにもなる。

だから、禅師の君の師という立場と、余慶さんとの個人的関係との板挟みになって
さしもの判断力も鈍ったんじゃないかと後藤宏行氏は言う。
うん、確かにそういう側面もあるかもね。

良源さんがどう考えていたにせよ、座主直属の「僧兵」をもって
強訴の参加者を厳罰に処することはなく、代わって朝廷が重い罰を下し
叡山に詰問使が来るという前代未聞の不祥事となった。
もうコントロールが効かなくなっていたのだろうか。


天元6年(983)には円融天皇の御願による円融寺が建立され、
良源さんと禅師の君が法要に出席。
三僧正のうち2人の僧正がそろって出席し、しかもその2人は師弟だというので
世の人々は感嘆したという。

同年には禅師の君の兄・兼家によって横川に薬師堂と 恵心院が建立 され、
恵心院の落慶法要では余慶さんが導師を勤めた。
この時も音楽供養が行われたそうで、良源さんにはこれが最後の落慶法要となる。
ただ、初めから源信が恵心院に住んでいたのかはわかっていないらしい。

同じ年の3月には改元があり、永観となる。
「永観」というと京都の永観堂で耳になじみがあるので、
永観堂はこの時代に元号を戴いて創建されたのかと早合点しがちですが、
永観堂の正式名称は禅林寺で、元号を冠したものじゃないみたいです。

夏頃になると良源さんは病がちになったようで、7月に東寺の僧へ手紙を出している。
東寺は空海たんが賜わった寺で真言宗なのになんで?ってカンジですが、
良源さんが若い頃、 石山寺の淳祐から東密を学んだ 際に
淳祐の弟子である元昊(げんこう)という僧と親しくなったようで、
長年にわたる友人である元昊が永観元年には東寺へいたらしいんだな。

ま、手紙といっても高僧なので

「元気かの?
最近、めっきりワシも衰えちゃってさ~。
あちこち痛くてかなわんですわ~」


なんて俗っぽいものじゃなく、金剛界を称える賦がメインのようなんだけど、
その賦の前で

昔日壮齢の時(40代)より、白月(月の前半)には胎蔵界、黒月には金剛界に、
  手ずから華香を供す、老病以来、自ら修するに堪えず、同伴に供せしむ、
  永観元年七月十六日、法を作するに人なし、事止むるをえず、なまじいに以て
  進修す、是れ身病の癒るに非ず、常勤の欠かざらしめんがためなり、ここに
  壇に向うに感相催す、珠を転じ涙しばしば下る、仏唯照らしたまえ、人誰か知らん、
  今中心を賦し、同志にこれを呈す、
  ((『人物叢書 良源』より。送り仮名など一部読みやすく修正)


と語り、さらに賦の中でも「ああ老樹まさに枯れんとす、病根抜きがたし」とか
「方今年八旬に向い、意万事に嬾(う)む、余命いくばくの寒温を忍び、余命永く名利を
忘る」といったような寂しげな言葉が並ぶ。

『女人成仏への開眼』ではこの頃、余慶さんの法性寺座主問題に絡んで
謹慎か隠棲でもしていたんじゃないかといい、

 【老いと病いで気弱になった良源が、寂寥感から山外の心友に愚痴をこぼしたくなった
  というのが、具体的な状況であろう】

とし、『人物叢書 良源』では円仁派と円珍派の諍いの責任を問われたことは
良源さんにはまったく心外なことであり、

 【彼が全力をあげて挑んだのは腐敗した叡山を再生させることであった。それは長い間
  主要な位置にあった智証派に替って慈覚派の自分たちがなさねばならなかった。それを
  人は名利を追った行動といい、手塩にかけた自派の弟子たちのなかにもこれを批判する
  者がいる。自分の意図を誤解し暴走して制止もきかない。永く続けてきたこの仏事さえ
  絶えようとしている。いま自分は老いて病んだ身をおして仏前に香花を供えている。
  友元昊よ、この真実をみ仏だけは照覧してくれるだろうか。仏前で流した涙を
  このように解するのは立ち入り過ぎようか。】

とする。

うん、相当立ち入り過ぎですな(笑)。
ただ、病が治った訳でもないのに定心房に仏前に花を供えてくれる伴僧が誰もおらず、
仕方なく向かった仏前で念珠を繰りながら思わず涙が出てきた・・・
そういう日もあったのは事実で、年来の友に向けられた言葉に潤色はない。

たまたま誰もいない日に寂しさと空しさがこみ上げてきただけだとしても、
そういう時間を持てたことはむしろ良かったのではないかとも思える。
賦の中には「唯願う金剛手、念念の加持」等によって「我をして当来の世に、
常に普賢菩薩に遇い、我をして順次生して、必ず妙記を得しめよ」ともあり、

 【(前略)<我ヲシテ>来るべき次の世では、普賢菩薩のお導きによって、順次転生
  (生れ替って)してかならず<我ヲシテ>仏に近づけさせてほしい、という願望表白
  である。確信の吐露でも、信仰の告白でもない。たんなる願望の表白である。他者の
  ための修法でも、鎮護国家のための祈祷でも、下品者の救済でもない。僧位僧階の
  頂点にのぼりつめた高僧が、死期を前にしての率直な表明は、「我ヲシテ」の
  一点に帰結する信仰の原点であった。】
  (『女人成仏への開眼』より)

とし、イチ僧侶としての原点に戻った良源さんがさらに別の方面へと
影響を与えた可能性があると後藤氏は推測しておられる。


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最終更新日  2015年06月13日 22時04分33秒


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