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4ヶ月半をすぎたこのごろ、娘にも自我らしきものの芽生えを感じます。 あれがほしい! 手に取りたい! かじって確かめたい! 自分でたどりつきたい! でもできないから悔しい!!頭をぶつけたり横に転がったりしながらもほしいと決めたらまだ自由に動かせない手足をなんとか駆使して必死で向っていきます。(最近の一番のお気に入りはおしりナップの袋。 カシャカシャという音が好きみたいです。)時にさりげなく手を出しつつ、時に助けたいのをあえてぐっと我慢しつつ「がんばれがんばれ・・」とそばで静かに応援。目的を遂げたときのうれしそうな顔がたまりません。この達成感が積み重なって、明日への力になるのかな。生理的な欲求から、外の世界(?)へと娘の関心が広がっていくのをみるのはなかなか感動的です。私たちにはなんでもないようなことでも小さな彼女には大仕事。ついつい「でかした!わが子よ!!」と大きな賞賛を浴びせてしまいます。(神様もこんなふうに目を細めて私たちを いつくしんで育ててくださっているのかな。)「自分でできたよ!」そのちいちゃな得意げな笑顔をみたくて、今日もそばで見守ります。 「わたしはエフライムに歩くことを教え、 彼らを腕に抱いた。 わたしは愛のきずなで彼らをひいた」ホセア11:4(聖書)
April 23, 2005
連日の報道を聞きながら思いめぐらしていることがいくつかある。そのひとつが学生時代のマレーシアの旅でのできごと。アジアで私たちが多かれ少なかれ経験する戦時中の話題になり彼の親族が目をえぐられたり刺し殺されたといった残虐なしうちを受けたことに話が及んだ。(できればこの話は避けたかった・・)逃げ出してしまいたい気持ちを抑えて「私の民族がしたことを恥ずかしく思う。 どうか私たちを赦してください。」と何とか言葉にしたら、静かにこう帰ってきた。「恐ろしいのは日本人だといいたかったんじゃない。 もしも自分が彼らの立場だったら 自分も同じことかもっとひどいことをしたと思う。 戦争っていうものはすべての悪を正当化する。 どの時代の人もどの国の人も同じだよ。 そのことがこわいって言いたかったんだよ。 僕らはお互いその時代には生きていなかったんだから、 僕らの世代は未来志向で行こうよ。 戦争のない時代のために。」もっともっと憎しみを吐き出されることを覚悟していたのに意外な答えだった。「どうしてあなたは憎しみから解放されているの?」「僕はシーク教徒だからね。 唯一の神様を信じているから。」私はその頃、「本当に神はいるのだろうか」と問い続けて旅をしていた。唯一の神を信じるということは、この世界のすべての人の上に同じ神を見出すことだ。誰が悪いとかあっちが悪いとかいうことをストップして創造者なる神の前に、被造物のひとりとして立つことだ。この世界と人々を、同じ被造物として観ることだ。世界大の視野で小さな自分の生をしっかり生きていくことだ。はっと気づかせてくれたのはシーク教徒のその人だった。
April 20, 2005
最近、デジカメを使うことが多くなった。子どもの成長や、美しい季節の色、ついついたくさん撮っていると、前触れもなく表示が出てきて「あ~・・」と思う。「空き容量がありません」先日もこれがでてきた。どうやら容量自体があまり大きくないらしい。ふっと思った。私の心もこうなってるな・・。何が忙しいわけでもないのだと思う。それでもばたばたと走り回って心の余裕をなくしている自分がいる。本当に心を使うべきところまで届いていない自分がいる。「動いている」ということに満足している的外れな自分がいる。「何をするか(doing)よりも どうあるか(being)が大切だよ」かつての恩師の言葉を思い出す。神様の前にもう少し静まろう。的外れにならないように。「空を打つ拳闘」をしないように。 わたしのそばにいる魂が 傷つき悩んでいるのに もしそれを読み取るだけの思いやりが わたしになくて 無関心のままでいるならば その時わたしは カルバリの愛を全く知らない -エミー・カーマイケル- 「カルバリの愛を知っていますか」より
April 17, 2005
今日もとびきりのお散歩日和。夕ご飯は生姜焼きにしよう!思い立って娘をスリングに入れて、てくてく歩いて買い物へ。どこもかしこもすっかり春の匂い。堤防沿いの桜、道端の草花、新学期の子どもたち・・。最近ご用達の「主婦の店」では、お店の人とのおしゃべりにも花を咲かせます。「今日は何にするの?生姜焼き?いいねぇ~。」「油揚げは何枚にしとく?」「もう4ヶ月になったかい、そうかい、かわいいねぇ~♪ 女の子は持ち出すばっかりで大変だけどいいよねぇ~」以前は余裕がなくてちょっと面倒だったこんなやりとりも、最近は楽しくなってきました。こどもが生まれてから、嬉しいことに知らない人と話す機会が増えました。駅前のおだんごやさんのおばちゃんは今日も遠くから手をふってくれました。ミニスカートでばっちりメークのお姉さんも足を止めて「いやぁ~ん、可愛いですねぇ~♪」ひとりだとお互いに知らん顔の人たちでも小さなこどもを見ると思わずにっこり。ぎすぎすしたりイライラしがちな人間関係をあったかくうるおしてくれる小さなこども。何もできないようで、何よりも大切なお仕事を存在するだけでしているのですね。このところの暗いニュースで連日心を痛めていますが目の前の小さな幸せに目を向けることができました。
April 8, 2005
あなたの子は、 あなたの子では ありません。・・ あなたを通って やってきますが、 あなたからではなく、 あなたと一緒にいますが、 それでいて あなたのものでは ないのです。・・ あなたは弓です。 その弓から、 子は生きた矢となって 放たれていきます。 射手は無窮の道程にある的を見ながら、 力強くあなたを引きしぼるのです。 彼の矢が強く遠くに飛んでいくために。・・ -カリール・ジブラン「預言者」より抜粋 「こどもは神様から預かったもの」母がよく話していました。ちょっと冷たいなぁ・・と感じたこともありましたが、自分は神様のものなのだ、と教わったことは私の財産です。人の期待にでも、親の期待にでも、自分の願望にでもなく、神様の喜ばれる道に従って生きればいいのです。こどもを与えられたときにも、「託された大切ないのち、 ご用にお返しできるように育てよう」と夫婦で話し合いました。礼拝の後、待望の献児式がありました。(キリスト教のいわばお宮参りです)子をゆだねられた責任を感じるひとときでした。ジブランの詩のいう「射手」とは神様のこと。「無窮の道程にある的をみながら・・」と詩人はいいます。わが子に与えられている人生の的が射手の思いの中にはすでにあるのですね。それにふさわしく彼女を育てられるように、日々新たに、知恵を祈ります。
April 3, 2005
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