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パリは嫌いだと話す女性にこれまで2度くらいあったことがあります。その口ぶりに何か疎ましいものを感じてそれ以上話を聞かなかったので、パリの何が嫌いだと言っているのかはついぞ分からずじまい。それでも、「パリ素敵!」と無邪気に言い放つような女性とは、私は違うのよ、という屈折した自己顕示欲のようなものがあるのはわかりました。世の中にはパリに一生行くことすら覚束ない人もいれば、生涯の記念に一度だけようやくパリに行くような人もいるだろうに、意図的にではないにせよ、結果としてそういう人たちの思いを足蹴にするような言葉はどうしても受け入れ難い、とそのときも思ったし今もそう思います。そして堀江敏幸の『おぱらばん』を読みながら、ふとそのことを思い出し、そして、パリは嫌いだという彼女たちは、果して堀江敏幸の描くようなパリを知っているのだろうかとひとりごちていました。 ただ、自分自身、そんな偉そうな感想を抱くほど「堀江敏幸のパリ」を知っているわけでは実のところありません。ずっと前、おそらく出たばかりの『子午線を求めて』を書店で手にとって購入し、その視線には強く惹きつけられながらも特に理由もなく四分の三ほどを読んだ時点で放り出しておき、その後、書評本ばかりを読んでいた頃、今度は『本の音』を購入して、今度は文章が硬すぎるのではとか、短い文章に少し詰め込み過ぎではないかとか、賢しらな感想を抱いてみたり、その後で古本屋で目についた『郊外へ』を購入してこれまた全部読まないままに、本の中のエピソードを真似してバスに乗って「郊外」(といっても僕の住んでいる場所自体「郊外」ですが)に行ってみたりと、何だか堀江さんとは中途半端なつきあいが続いていました。 ただ、今回もまた特別の理由もなく図書館で『おぱらばん』を手に取り(三島賞を受賞していたことも、その瞬間は忘れてました)、一つ一つの作品をゆっくり読んでいると、自分の中に入ってくるものが、これまでとは随分違うことに少し驚きました。別に『おぱらばん』が、『郊外』や『子午線』とそれほどスタイルが違っているわけでもないでしょう。おそらくは、場所に関する個人的な記憶の断片と重なり合い、そこに文学的な記憶と記録、さらには歴史的な記録を織り重ねていく堀江さんの手法が、ようやく自分の腑に落ちた、ということでしょうか。考えてみればこのスタイルはまさに「読書地図」とも言うべきようなものなのでした。あくまで個人的な、「それぞれのパリ」に対する関係から語り起こし、それをまた多様で入り組んだ歴史と結びつけて行く手際にもひどく共感を覚えます。そう、そうすると、これだけ「パリ」とは様々であるのだから、そんなに簡単に「パリ」が好きだとか嫌いだとか言ってどうするのだろうということになるのです。もちろんそうした態度だって、「パリ」との関係の1つの取り方であると言えばそれまでですが。それからもう1つ、彼が狭い意味での「文学的」なるものに拘泥せず、例えば普通であれば「政治的」なものとしてくくられてしまうようなものなどにも、万遍なく目を向けようとする姿勢も個人的には好きです。もっともこのことは既に気がついていたことで、2005年にパリ郊外で異なる国を出自に持つ若者たちが暴動を起した際、ふと思いついて『子午線を求めて』を読んでみたら、そうした暴動が既に1980年代から頻発していることが、移民の歴史についての丁寧な説明とともに書かれており、そこでの説明は、他のニュース解説などよりずっと参考になったということがありました(尚、冒頭に掲げた写真は今年やはりパリ郊外で起こった同様の暴動の写真です。日本では殆ど報道されてなかったような気がしますが)。もちろんそうした「文学的」なものに収まらない事柄についての記述はとりわけて強調されている訳でもなく、読みとばすこともできるくらいのものですが、それでも個人と社会の様々な関わりの中に、そうしたものが避け難く含まれているということを、堀江さんはきっちりと理解しているのだなと、今回『おぱらばん』を読みながら、そのことも確認していました。 本そのものについて、読んだことのない方のために少しだけ紹介めいたことを書くと、『おぱらばん』という不思議なタイトルの意味は、最初の物語を読むとすぐにわかるようになっています。そして、それを読めば、その不思議な言葉がタイトルにならざるを得なかった理由を理解できるでしょう。その物語の終盤近くで、その言葉が作者によって高らかに口にされる瞬間は、上述したような堀江さんの姿勢が、奇妙な人物とのユーモラスな関係の中に織り込まれつつ、清々しく宣言されているようで、ひどく幸せな気分になったのでした。
2007年12月23日
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さて、ようやく『制裁』について書いてみます。 この前たまたま本屋で目についたので(そして安かったので)、『このミステリーがすごい!』の2008年度版を買いました。『制裁』はベスト40の中にすら入っていませんでしたが、たった一人だけ個人的なベスト5に挙げている人がいました。まあ、そんなもんだろうなと思います。先に書いたように、『制裁』はちょっとミステリとは言い難いので。 確かに『制裁』はミステリの体裁で書かれてはいます。でも実のところ、多くの人がミステリから期待するであろうものに、この本は殆ど応えてくれないのです。例えば前半のプロット。まず残虐な性犯罪歴を持つペドフィリア(幼児性愛者)の男性が、施設から施設への移送中に逃げ出します。たいがいのミステリであれば、ここで、その男性が次の犯罪を犯す前に何とか捕まえようとする警察の必死の操作を事細かに描くでしょう。でも『制裁』ではあっさり一人の少女がその男に誘拐されてしまいます。そして、警察の追跡が殆ど進まないうちに、犯罪を食い止めることも、少女の命を救うこともできなかったことが明らかになるのです。性犯罪者と彼に捕まってしまった少女との行き詰まるような攻防、そして警察の必死の追跡を描いた、キャロル・オコンネルの『クリスマスに少女は還る』などを読んだ人間からすると、この展開の異常な早さは呆気に取られてしまうほどです。 未読の人のためにこれ以上は書きませんが、主な犯罪の過程は前半でさっさと終ってしまい、後半はその過程に対する司法の場での出来事、そしてそうしたこと全体に対する人々の反応について描かれることになります。「謎解き」の要素なんて微塵もありません。 ちなみに、著者の1人、アンデシュ・ルースルンドさんは刑務所に関するドキュメンタリーを作ったというジャーナリスト、もう1人のベリエ・ヘルムストルムさんは刑事施設・更正施設評論家という肩書きの持ち主です。著者2人のこうした経歴からして、刑務所や犯罪者の更正に関する問題点を指摘しつつ、何らかの積極的な提言を行うような物語なのかな、と最初は思ってました。でもそれはとんでもなかった。彼らはおそらく現行の司法制度の理念を否定するつもりなど全くないと思うのですが、それでも、そこで描かれる性犯罪者の像は、他人と最低限の意志の疎通を行うことすら殆ど出来ず、そしてそれが大きく変化する見込みは殆どないというもの、つまり更正の余地など殆ど期待できない存在です(もちろん「サイコパス」などといった安易な用語は使われませんが。余談ですが、ピーター・ラヴゼイのある著作では、一人のプロファイラーの口を借りて、「サイコパス」という用語に対する批判が述べられています。さすがはラヴゼイ)。 一方ではまた、性犯罪者、とりわけペドフィリアが何故ここまで徹底的に憎悪され、特別な監視の対象となることが許されているのか、という問題についての、多少批判的なコメントも見られます(正確には知らないのですが、アメリカやイギリスの少なくともある部分では、ペドフィリアの犯罪者は、その後も住所等が一般に公開されている筈です)。以下は、刑務所内でのペドフィリアの扱いについて述べたものですが、これは何も刑務所内に限ったことではないでしょう。「囚人たちは皆、恥辱や自己嫌悪の念を抱いている。そのはけ口が必要だ。塀の外の社会で馬鹿にされるのには、とても耐えられない。だから代わりに、自分とはちがう罪を犯した囚人を馬鹿にしてやる。自分よりも醜く、もっと傷つき、もっとのけ者にされているやつがいる。みんなでそう決めてしまえば安心する。それが、世界中の刑務所に昔からある、暗黙の了解だ。……他人の生きる権利を奪った俺は、ペニスであそこをずたずたに突き刺したおまえよりも、価値ある人間だ。他人を踏みにじったのは同じだが、俺のほうがだんぜんましだ」。これは明らかに矛盾です。しかし話はそこまで。『制裁』は、現在の司法制度・犯罪対策が明らかな矛盾を抱えていることを丹念に指摘していくのですが、その解決を示そうとはしません。むしろそうした矛盾を、もしくはその矛盾から生まれかねない新たな矛盾の可能性を、これでもかといわんばかりの迫力で1つ1つ丁寧に描いて行くだけ。例えばスウェーデンには死刑制度がありませんから、更正不可能と思われる犯罪者も一定刑期を満了すれば刑務所を出られます。著者たちはだからといって、死刑制度復活を主張するようなそぶりは全く見せません。ただ「更正」という近代的な理念が明らかにあやうくなっている事態を読者に突きつけるだけ。またそうした矛盾に対する市民の反応も描かれます。その反応というのは、まさに性犯罪者(ないしはその恐れがあるもの)を自らの手で罰することで、犯罪を未然に防ごうとするもので、少なくとも近代的な司法制度の理念からすれば決して許されないことです。しかし、そこにはまた現代の司法制度に対する不信、そして現代の犯罪に対する不安感というものが潜んでいることもまた事実であり、その事実を著者たちは決して否定しません。もちろん市民による制裁という考え方を決して肯定はしませんが。そしてその先には、性犯罪者だけが他の犯罪者に比べても劣等な処遇を受けることが公式に認められている、という別の矛盾が続いてくるわけです。もちろんそうした事態を認めるような市民感情が確実に存在することを(ある程度批判的に)認めつつ。 とにかく出口が見えない。解決の糸口を示すどころか、事態がより深刻になるのではないかという懸念すら伺えます。だから話はとにかくひたすらに息苦しい。最近のミステリは読んでいて苦しいものが少なくないですが、ここまで息苦しいものは正直初めてです。話には救いがこれっぽちもなく、ラストも悲惨。もちろんこうまで行き詰まり感に溢れているのは、著者たちが死刑制度の復活とか、「サイコパス」の隔離とかいった、安易で扇情的な解決策を提示せずに、何とか近代的な司法理念の内側に留まろうとしているからこそだとは思います。そうでなければ、そもそも矛盾など生まれないのですが。でもそれでも、そのどうしようもない矛盾には身体が締め付けられるような思いがします。せめてもの救いというか、驚きなのは、これがスウェーデンのベストセラー・リスト(何位まで載るのかわかりませんが)に14週連続でランクインしたということ。とにかく矛盾を矛盾としてきちんと向き合おうという人たちがそれなりにいるということなのだと思います。出口は見えないままにせよ。
2007年12月18日
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以前『真説ラスプーチン』を取り上げたとき、歴史の大きな動きが見えにくいという感想を書きました。その時念頭にあったのは、ここ数年で読んだ、伝記的な社会史とでもいうべき、幾つかの優れた作品です。 例えば、サイモン・ウィンチェスターの『世界を変えた地図』。これはイギリス地質学研究の草分け的存在であるウィリアム・スミスという人の伝記なのですが、むしろ、スミスについて語りながら、当時の地質学、そして博物学の発展、そしてちょうど同時代にあたる産業革命との関り合いを、全体として描く優れた作品になっていたのでした。毛色は少し違いますが、サイモン・シンの書いた『フェルマーの最終定理』も、基本的にはジョナサン・ワイルズという、フェルマーの定理を解いた数学者を中心に話が進むのですが、その過程を通じて最終的には、ギリシャから現代に至るまでの数学の歴史、そして現代における数学業界の様子などが明らかになるという構成を取っていました。どちらにも共通しているのは、ある個人を軸にして、そこに関わる人や物事を書き込んでいくうちに、1つの時代、ないしは1つの領域が全体として浮かび上がってくるという点です。そもそも社会史というジャンル自体、歴史の中で今まであまり重きを置かれなかった領域や主題に光を当てることで、歴史全体を違う角度から眺めることを可能にするものですが、上記の2冊は伝記というスタイルを取ることで、その点をさらにはっきりさせていたように思います。そして、つい最近読んだ、ベンジャミン・ウリーの『本草家カルペパー』もまた、そのような作品といってよいでしょう。 ちなみにカルペパーというのは、17世紀のイギリスで、当時使われていた薬草の類いについて、その効能を英語で説明する本を始めて出した人です。それまで薬についての知識はラテン語でしか書かれておらず、従ってラテン語を読めない多くの民衆は、薬についての正確な情報を持つことが出来なかったのですが、カルペパーの本によって、薬の、ひいては医学に関する知識をようやく普通の民衆でも手にいれることができるようになったのでした。原題は『ハーバリスト・カルペパー』。つまり多少大袈裟な言い方をすれば、現在日本人の私たちですら何気なくハーブティーを飲んだりしているという事態の、その出発点に彼がいるという訳です。実際ネットで調べてみると、イギリスには「カルペパー」の名を冠したアロマオイルの会社もあるようで、そういうことに詳しい人はもしかするとその名前を聞いたことがあるのかもしれません(最初に掲げた写真はそこのロゴだと思います。例えばにこんな製品も↓)。 ただ、ハーブに興味のある人が、イギリスのハーブの本?と思って手にとると多分びっくりするかと思います。何せカルペパーが活躍した時代というのは、イギリス市民革命(世界史で「清教徒革命」とか「名誉革命」とかいう名前で習うあれです)の真っ只中。そしてカルペパー自身も、市民革命に巻き込まれるどころか積極的に参加していたため、本の三分の一以上が、市民革命についての、そして市民革命期のロンドンの様子(カルペパーはロンドンに住んでいた)の描写に費やされているのです。もちろん戦争に従軍して王党派と戦うことと、民衆向けのハーブの本を書くことは、カルペパーの中ではしっかりつながっており、そのつながりを説明するのがこの本の眼目ですからそうなるのも当然。そしてそのおかげでこの本は、そこからハーブについての知識はそれほど得られないにせよ、イギリス市民革命という途方もない歴史的事件を当時の医学・薬学の世界から眺め、そうすることで革命の過程自体を非常にわかりやすく、かつ生き生きと描き出すことに成功することになったのでした。もっとも、カルペパーについて書かれた文書が殆ど無いので、そういう社会史的なアプローチを取らないと、そもそも何も書けないという事情もあるにはあるようですが、それはまあさておき。ちなみに、やはり17世紀イギリスという大変な時代を、スコットランドという「辺境」から眺めた物語として、ローズマリー・サトクリフの『はるかスコットランドの丘を越えて』があります。サトクリフについては、アーサー王物語や、ローマ時代のイギリスを扱った作品で知っている人も多いかと思いますが、優れた歴史文学作家。一応「児童文学作家」ということになっていますが、大人が読まないのは勿体ない。ついでに言えば、『アイヴァンホー』で有名なサー・ウォルター・スコットの『ウェーバリー』なんかも、まさにサトクリフと同じ題材を扱ったものらしいのですが(というかサトクリフはスコットに対するオマージュとしてその本を書いたようです)翻訳は出ていないようです。そうそう、スコットやサトクリフほど偉大ではないですが、ロス・キングの歴史ミステリ『謎の蔵書票』も、17世紀「革命後」のイギリスを扱ったものでした。これもまあまあオススメです。 最後にもう1つ。『カルペパー』を書いたウリーという人は、これより前に、エリザベス一世のお抱え占星術士だったジョン・ディー博士という人の伝記も書いているそうです。カルペパーもまた占星術にそうとう入れ込んでいたようで、そうした今から見れば「うさんくさいもの」を、彼がどういう風に利用したかというのが『本草家カルペパー』のサブテーマでもあったことを考えると、非常に非常に興味深いです。翻訳、出ないもんでしょうか。お願いします、白水社さん。
2007年12月15日
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(『制裁』について、ではありません。それについて書けるまでもうしばらくかかりそうです) 前回、クックの作品について書いたときのタイトルは「いくつものアメリカ」でした。そのタイトルについてきちんと説明をしていなかったのですが、つまるところ、「アメリカ」という言葉で多くの日本人がイメージするであろうものとは全く違うものをクックは書いている、ということが言いたかったのです。ただ「もう1つのアメリカ」とか「アメリカの光と影」というような言い方はしたくなかった。そういう二項対立ではこぼれ落ちてしまうほどに、一人一人のアメリカ人にとっての多様な「アメリカ」の経験があって、それぞれが、その様々なアメリカの土地で、様々な記憶を抱え、様々な物語を生きているということ。そのことを忘れないように「いくつものアメリカ」というタイトルをつけたのでした。 おそらく、クックが場所と記憶に執拗にこだわるのも、そうしたことなんだろうと思うのです。クックの小説の登場人物たちの多くは、成功者というほどではないにせよ、少なくとも生まれ育った土地と、そこでの境遇からは距離を取り(抜け出し)、それなりに安定している人が多い。そして彼ら・彼女らはその場所の記憶を懸命に忘れようとしたり隠そうとしたりするのですが、それはふとしたことで現れてきては、現在の自分の足を引きずり、悩ませ、時に振り回す。きっと、過去を鷹揚に振り返り、時に美化し、そしてあの過去があったから今の自分があるんだ云々と満足げに語るのが、「正しい」アメリカン・ドリームなんでしょう。けれども、クックの登場人物たちは、そうした大きな「アメリカ」の物語には頼ることができません。どこまでもどこまでもローカルな過去の記憶が、いつでも現在の安定を脅かし浸食しようと待ち構えている。もちろん、過去がそのようなものとしてあるのは、「成功」はもとより、「安定」にすら縁のない数多くの人々の「現在」があるからです。そこにもまた、非常にローカルな「たくさんのアメリカ」がある。そもそもアメリカン・ドリームという大きな「物語」は、「成功」できなかった様々な人々を見捨てることを正当化したという側面もあるのですから(そこにアメリカの社会保障の貧困があります)、そうした「物語」が、排除した人々によって復讐されるというのは当然のことかもしれません。もっとも、多くの「成功」の物語はそんなことを気にかけていないのですが、少なくともクックは、そうした事態を強く意識している作家の一人だと言ってよいでしょう。そして、同じことを、おそらくクック以上に痛切に意識していたのが、リチャード・ブローティガンという作家でした。今回取り上げる藤本和子『リチャード・ブローティガン」は、まさにそのことを書いた作品です。ちなみに藤本和子という人は、ブローティガンの小説の多くを見事な日本語に訳して来た人で、実際にブローティガンとも親しい友人だったようです。以下は主にその本から。 実の父親は母親の妊娠中に姿を消し、その母親は家を飛び出したり帰ってきたりを繰り返しつつ生活保護でかろうじて暮らしていたという少年時代を持つブローティガンは、生まれ育ったオレゴンを抜け出してカリフォルニアへと向かい、そこで様々な仕事をしながら小説を書き、1967年に出版された『アメリカの鱒釣り』という小説で一躍有名人になります。そして彼もまた、死ぬまで一度も生まれ故郷に戻らず、母親にも妹にも会うことはありませんでした。けれども「逃げるつもりで出奔した故郷はかれを追いつづけ、ついにその束縛の手をゆるめなかった。それはかれにもよくわかっていた」[64頁]。だから彼はそれ以上逃げようとはしませんでした。むしろその過去を決して忘れまいとし、そしてその過去の経験を、そして少年時代の彼が置かれていたような境遇に今も生きているような人びとのことを書き続けた。「働きづめで報われることもなく死んだ女たち、不幸だった酔いどれの、あるいは、やさしかったが間抜けだった親爺たち、非業の死をとげた若者たちの」[24-25頁]アメリカを。藤本さんはそのことをこんな風に説明しています。「呪詛のような風景。ブローティガンはそこで言葉という道具を手にして戻っていく。風景から逃亡するためではなく、それを葬りさらないための行為だ。オレゴンをあとにしてサンフランシスコへ、いわば逃亡したはずのかれは懲りもせずに、『呪われた土地』の原風景を語ることで、そこへもどる。いや、いまだにそこに佇んでいる」[162頁]。「語られなければ過去は時間の屑籠にすてられたままである。語られることで、記憶が掘りおこされる。埋もれた時間はときに、呪われた時間でもあるが、それでも語られさえすれば、傷ついたこころが休息を得ることはある。いや、呪われた時間こそ、語られなければならない。それではじめて、悲傷や失意や屈辱に威厳があたえられるだろう」[140頁]。それは彼がどんなに有名になっても、そしてその後再び忘れ去られてしまっても、ずっと一貫して変わらないことでした。1982年にモンタナ州立大学で創作講座を持っていた頃のこんな話が紹介されています。「授業のあとは、バーへ行った。過去を忘れてしまいたい人びと、あるいは現在をどうにかやりすごす力を得たいと願う人びとがバーに集まっていた。『これこそ、偉大なるアメリカの楽しみの追求さ』とかれはいった。『人生は壮絶だ、残酷だ、人びとは苦しみ嘆いている』」[27頁]。もちろん、カリフォルニアの陽光の下で生きながら、「陽光の土地の、石や建物や樹木の蔭にひそんでいる人々の挫折や悲哀が、太平洋北西部の原風景に重なってみえてしまう」ようなブローティガンに、心の平安が訪れることはありませんでした。「彼は引き裂かれていた」と藤本さんは書いています。ブローティガンは20歳の時に精神病院に強制入院させられて以来、何度も何度も抑鬱に苦しめられ、酒量は増える一方、そして何らかの救いを求めて訪れた日本でも結局安らぎを得ることが出来ませんでした。きっと彼は、本当にぎりぎりのところを綱渡りのようにして生きていたのだと思います。それほど土地の記憶、土地の呪縛は強かった。もちろんいつでも目に入ってしまう「苦しみ嘆く」人々の姿も。おそらくブローティガンにとっての「アメリカ」とはまさに、自分の知る「いくつものアメリカ」に引き裂かれ続けることだったのでしょう。そうして、酒場のエピソードの2年後に、彼は自ら命を断ちます。44口径マグナムで、頭を撃ち抜いて。 追記:ブローティガンの本は、数年前に文庫が出て手に入りやすくなりました。喜ばしいことです。
2007年12月10日
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まずとても私的なことを書きます。今思い出すと不思議なくらいですが、中高生の頃は「北欧」という言葉にひどく思い入れがありました。別に福祉がどうとかそういうことではないのです。ただ単にムーミンが大好きだったのですね。とりわけ『ムーミン谷の冬』は小学校の時に一回読んだくらいだったのですが、圧倒的な印象を自分の中に残していました。もっとも当時は、トーベ・ヤンソンがフィンランドの出身であることすら知らないくらいで、思い入れといってもひたすらに抽象的なものでした。そういえば高校一年生の時、地理の授業で国を1つ選んで壁新聞を作れという課題が出た時があって、そのとき「一国ではなく北欧三国で作っては駄目か」と先生に絡んだこともあったなあ。意味不明な情熱。ダメと言われて仕方なくスウェーデンについての壁新聞を作っていたら、そのときヤンソンさんがフィンランド人だと気付き、随分恥ずかしい思いもしたのでした。そうそうちょうどその頃、当初は原作にひどく忠実に作っていたムーミンの新作アニメも放映中だったっけ(放映後半はみるも無惨なことになってましたが)。 その後も北欧に対するファンタジックで一方的な思い入れは続き、大学生の時には念願かなって冬の北欧旅行(そしてムーミン博物館見学)という無謀な夢もかなえることが出来ました。その後『ムーミン谷の冬』を再読して、ますますその素晴らしさを確信もしました。ただそれでも、北欧の国々について具体的なことは殆ど知らないという状態は依然として変わらず、漠然と好印象を持ってはいたものの、いつしか「北欧」という言葉は自分の中で薄れていってしまいました。 それが変わったのはここ数年。スウェーデンの研究をしている友人が出来たり、北欧音楽を少し聞くようになったり(ヴェーセンとトリアケルくらいですが)、そして何より、ヘニング・マンケルのクルト・ヴァランダー・シリーズに出会ったのが大きかった。おかげで北欧に対する、とりわけスウェーデンに対する興味がぐんと広がりました。そして気付いてみれば、マンケルさんの邦訳が2001年に出て以来、数は少ないですが、スウェーデンのミステリがぽつぽつと定期的に出版されるような状況も生まれていたのでした。 長い前置きになりましたが、ここからが本題。最近立て続けに2冊のスウェーデンのミステリを読みました。リサ・マークルンドの『爆殺魔』とアンデシュ・ルースルンド/ベリエ・ヘルストレムの『制裁』です。以前最近のミステリの傾向について少し書きましたが、スウェーデンにおいても基本的にはそれは変わらず、犯人は誰か、トリックは何なのかといった「古典的」な問いはどちらのミステリにおいても殆ど問題になりません(もっとも僕はスウェーデンミステリの名作マルティン・ベック・シリーズを読んでいないので、それとの比較はできないし、いわゆる「古典的」なミステリも翻訳されていないだけで存在しているのかもしれませんが)。むしろ2つのミステリで中心的となるテーマはスウェーデンとはいかなる社会であるのかという問いかけであって、あくまでその1つの視点として犯罪を描いているという印象を受けます。マンケルさんの場合は、まだ警察小説という性格が色濃いですが、それでもやはり同じ傾向を持ってますね。だからマンケルさんもそうですが、この2冊のミステリでも、スウェーデンについての様々な事柄が細々と描かれることになります。 例えばスウェーデン人はシナモンロールが大好きで、あちらこちらで食べているとか、冬にはグルッグと呼ばれるホット赤ワインに香料を混ぜた飲み物を飲むとか、そういう日常の風俗がわかるのはとても楽しい(特に『爆殺魔』はクリスマス前の数週間が描かれているので、スウェーデンのクリスマスについてよくわかります)。正直、ここまで日常的なことをきちんと書き込んでいる小説というのは(特に現代文学では!)そんなにないと思います。残念なのは、スウェーデン人であれば説明せずにわかることが、こちらにはわからないこと。例えばある登場人物がある地域の出身であると書かれていれば、スウェーデンの人はそれだけで何らかの印象を持つのだろうし、作者もそれを分かって書いているのだろうなと思うのだけれど、日本人には全くわからない。ただそうしたことを補ってあまりあるほどに、スウェーデンの、おそらく観光しただけでは決してわからない日常の風景が、くっきり浮かび上がってきます。 そしてもちろん、その日常の風景というのは、楽しいことばかりではない。例えば『爆殺魔』の訳者あとがきでも触れられていますが、スウェーデンには個々人に社会保険番号というものが割り振られています(日本の住民基本台帳のようなもの?)。そして他人の番号も、普通の市民が簡単にわかるようになっているらしく、つまりは他人の住所・電話番号・職歴等々のいわゆる「個人情報」が簡単に手に入ってしまうのです。知り合いのスウェーデン研究者によれば、スウェーデンの人たちはみんな「便利で良い」と言っているらしいですが、『制裁』にはこんな文章もありました。「赤の他人であっても市民番号さえあれば、どんな人生を送っているか、細かく調べ尽くすことができる。なんと便利なことだろう。なんと異常なことだろう」。 実のところ、マンケルさんの作品も含め、これらの現代スウェーデン・ミステリから浮かび上がってくるのは、スウェーデン人が社会に対して抱えている漠然とした不安だったりします。スウェーデンの社会保障制度が非常に発達しているのは間違いない。それはスウェーデン人もはっきりわかっていることだと思います。彼らは自分たちが便利で快適で安心できる社会システムを作ってきたという自信を持っています。いや少なくとも持っていた。けれども、それが本当は上手くいっていないのではないか、もしくは便利で快適なのは確かだけど、その裏側には何か「異常」なものが隠れているのではないかという不安が、どちらの作品にも強く伺えるのです。 正直ミステリとしては強くオススメするようなものではないかもしれません。『爆殺魔』は悪くはないけど地味。そして『制裁』は殆どミステリとは言い難い。でも、ミステリとしての楽しみはそんなに期待できずとも、ある1つの社会と、そこに生きる人間の姿を多層的にきちんと捉えているという点で、やはり優れた小説であるとは思うのです。とりわけ『制裁』は本当に凄い小説です。 なお、『爆殺魔』の方は原作が 年に出版されて邦訳は2002年。訳者あとがきによれば、その2002年の時点で、『爆殺魔』と同じ主人公の物語が既に2冊出ているらしく、ぜひ読みたいと思うのですが、今の時点で翻訳されていないということは、もう出ないんでしょうねえ・・・。売れなかったんだろうなあ。これが英語であれば、よっしゃ原作で読んでやると思えるのですが(実際に読むかどうかは別として)、スウェーデン語だともう手も足も出ません。今年邦訳が出たばかりの『制裁』も、同じ作者2人による作品が数冊出ているそうで、こちらも激しく読みたいですが、どうかなあ。『制裁』の売れ行きによるのだろうと思いますが、『爆殺魔』以上に期待できません。なぜ『爆殺魔』以上に期待できないかというと・・・・。これはまた回を改めて書くことにしましょう。
2007年12月08日
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上手く続きになるかどうかわかりませんが、前回の続きです。 「うさんくさいもの」というタイトルからすると、超能力者であるとか超常現象であるとか、そういったものをネガティブに捉えていると思われてしまうかもしれませんが、実のところ、基本的にそういう「うさんくさいもの」は大好きです。ただ「うさんくさいもの」はあくまで「うさんくさい」から素晴らしいのであって、それが色々な意味を付与されすぎてしまうのは良くないと思うのです。前回の『職業欄はエスパー』に絡めて言えば、例えばスプーン曲げは是非見てみたいと思います。でもそれが、「人類の新たな能力」を発露であるとか、「物理法則を覆すもの」であるとか、そういう意味づけは正直どうでもいい。多分、そういう過度な意味づけをするから、今度は「トリックがあるに違いない」とかいった「否定派」が活気づくのです。不思議なこともあるもんだ、とそのくらいでいいではないですか。「うさんくさいもの」は「うさんくさいもの」のままにしておきましょう。理由がわからなくてもいい。いや、理由がわからないからこそ面白いのです、きっと。だから極端な話、「超能力」にトリックがあっても全然かまわない。僕の中では手品もスプーン曲げも、そして大道芸も「うさんくさい」ことにおいては変りないです。もちろん、手品だろうとスプーン曲げだろうと、パフォーマンスとして素晴らしければ、賞賛を送るべきなのは言うまでもありません。 とても極端な言い方をすると、「うさんくさいもの」とは「無意味だけどとにかく凄い」もの」と言い換えてもいいです。例えばあらゆる「見世物」は全て「無意味だけどとにかく凄い」ものでしょう。反発を覚える方もいるかもしれませんが、僕にとってはスポーツもまた、その「見世物」の部類に入ります。だって100メートルを9秒台で走ろうが、49.195キロを2時間ちょいで走ろうが、昔ならともかく現代においては全く意味がないのですから。スポーツから何か人生の教訓を学ぼうとか、そういう態度はとても苦手です。イチローにしたってちっとも面白いことを言っているとは思いません。それよりパフォーマンスに徹している野村監督の方がずっと面白い。小沢昭一という俳優なんかは、「役者というのは所詮、河原乞食である」という意味のことをよく言っています。極めて肯定的な意味において。その段でいくと、スポーツ選手もまた、河原乞食の類いでいいではないかと。だいたい、身体能力の高さ、とか自己管理能力の高さ、という点で言えば、中国の雑技団とかサーカスの人たちなんかすごいですよ。でも誰も彼らから人生の教訓を学ぼうなどとはしないわけです。 身体能力のことばかり書いていますが、実のところ、人間の想像力の中にも「限りなく無意味だけど凄いもの」というのはあると思います。そしてそういう想像力のあり方を、実のところ「オカルト」というのではないかと。例えばレイラインというものがあります。考古学的ないしオカルト的に重要なものが同一線上にある、という考え方です。正直、同一線上にあるから何なんだ、と思いますが、少なくともそういうことに気付いてしまう想像力というのは凄いと思うのです。もちろん人間の想像力のすることですから完全に「無意味」にはなりえない。でもそこに付与された意味は限りなく「無意味」です。少なくとも、僕たちが日常的に生きている世界においては「無意味」。僕は『ダヴィンチ・コード』とか、それに続いて出版された数々のオカルトチックな長編冒険小説の類いをそれなりに読んでいますが、その理由もまた同じです。アーサー王の墓を捜すとか、聖杯の正体を突き止めるとか、そもそもいつになっても達成できないとは思うのですが、そういう限りなく「無意味」なものに向かう想像力というのは、とても魅力的だと思うのです。「荒唐無稽」っていいではないですか。 あと、そういう「うさんくさい」想像力を一挙に集めたマンガ『イリヤッド』も、話の大雑把さと合わせてとても好きです。もちろん『イリヤッド』と同じく長崎尚志の原作による『MASTERキートン』も。 「オカルト」的想像力は、確かに厄介なものにもなります。とりわけ宗教的なものと結びついた時には、意味が膨らみすぎてしまう。リン・バーバーというイギリスの社会史家が書いた『博物学の黄金時代』という本には、18世紀から19世紀にかけて続々と登場する地質学的な証拠が聖書の記述を否定するのに対して、教会側が用意した涙ぐましいまでに荒唐無稽な説明が書いてあります。それは今読むととても微笑ましいけれど、同様の事態が、現在のアメリカのように「進化論を教えるな」という話になってしまうと笑うに笑えない。やはり『博物学の黄金時代』に書いてあったと思うのですが、ネス湖のネッシーというのは、科学者の間で「想像上の動物」と「実際に存在する動物」との区別がほぼ完全になった19世紀後半から生まれてきた話だそうです(ちなみにそれ以前には、グリフィンなどという動物まで「実際に存在する」と考えられていたらしい)。言うなれば、常識では説明のつかないものが存在してほしい、ないしは常識ではどうにもならない事に説明をつけてくれるものがほしいという思いが「ネッシー」を生み出した訳です。そういう思いをむげに否定したくはない。だからこそ、そういう思いは「ネッシー」くらい「うさんくさい」ものであってほしいと思うのです。そして「うさんくさい」という言葉を何度も使ったのはそういう訳だったのでした・・・。 まとまったようなまとまってないような、でもいい加減長くなったのでこの辺にします。最後に「うさんくさいもの」を、正しく「うさんくさいもの」として扱った「博物学」の本。荒俣宏の『怪物の友』を紹介しておきます。本当にこのくらいがちょうどいいんですけどね(あ、これはリンク張ってません)
2007年12月05日
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前回取り上げた『真説ラスプーチン』を読んでいると、どうしても、ロシア人の超常現象好きということが頭に浮んでしまいます。確か米原万里さんも、どこかでそのことを書いていました。19世紀後半に降霊会などが盛んだったのはともかく、20世紀の米原さんの友人の中にも、そういった類いのことに熱心な人がいたとか。ついでにいえば、あのオウム真理教は、ロシアではそれなりの勢力を獲得していたのでした(実際『ラスプーチン』を読んでいると、麻原彰晃など、ミニ・ラスプーチンのように思えてくるほどです)。「ロシア人は超常現象が好き」という一般化は現に慎むべきではありますが、少なくとも『真説ラスプーチン』は、なぜ当時のロシア人の一部が「超人」を求めてしまうのかということについてかなり説得的に書いていて、それはロシア人に限らず、ある状況に置かれた時にある種の人が「超越的なもの」を求めてしまう心理についての、それなりに普遍的な説明にもなっていたと思うのです(同じようなことは沼野さんの解説にもちょこっと書いてあります)。もう1つ、『真説ラスプーチン』は、ラスプーチンが完全ないかさま師でもなければ、かといって現世を超越した聖者でもないという立場を一貫して守っており、そこには好感が持てました。ラスプーチンのような人は、自ら誇張していたかもしれないにせよ、確かにある種の「能力」は持っていたのでしょう(それを超能力とか霊能力とか言うかどうかは別にして)。例えばここにアップした写真を含めて、ラジンスキーも書いているように、彼の写真は全てその「目」が凄いです。でも、そうした凄さや「能力」は、彼が何も現世を超越していたということにはならない。そんなことよりずっと重要なのは、そうした「能力」の持ち主と、その周りの人たちが、その「能力」を、特定の歴史的・社会的状況においてどう利用するか(ないしは利用されるか)、ということなのだと思います。ラスプーチンの場合は、おそらくありとあらゆる意味において、その「利用」は悲劇的なものになってしまった訳ですが(そして付け加えると、『石のささやき』もそうなのですが)。そうすると思い出すのは森達也の名作『職業欄はエスパー』(単行本時の題名は『スプーン』)。職業欄はエスパー元スプーン曲げ少年の清田益章、UFO・宇宙人評論家の秋山真人、ダウジングの堤裕二という3人の「超能力者」の「日常」を追ったドキュメンタリーを制作する中で、森達也は、自分の目の前で説明のつかない事態が次々と起こるのにも関わらず、最後まで「超能力を信じるか」という質問に「わからない」(時に「信じない」)と答え続けます。彼らはある種の「能力」を持っている、でもそれが「超能力」なのかどうかはわからない、と。それは、彼らが単なるいかさま師でもなく、けれども特別な人間でもないという立場と言ってもいいでしょう。森達也の関心が、「超能力者」という肩書きを(ある程度までは本人たちも不本意なままに)与えられてしまった人が、そもそもどういう「人間」であるかを探ることにあった以上、「超能力」があるかないかという議論には加わらないというのは全く正しい。そしておそらく彼にしてみれば、「超能力」は存在するかどうかという議論の設定自体が、彼らのもつ何らかの「能力」をメディアが「利用」する1つの仕方なのでしょう(もちろん秋山さんのようにその「能力」を「利用」して生計を立てている人もいるわけですが)。そして彼は「超能力者」たちを「人間」として描くことによって、その「利用」に批判的に対置させようとする訳です。・・・もう少し書きたいことがあるので、次回以降に続きます・・・なお、森達也がテレビ用に撮ったドキュメンタリー『職業欄はエスパー』はYoutubeで見れます↓ あと関係ないけど、森さんはこの頃が一番面白かったなあ・・・。http://www.youtube.com/watch?v=IRYHfNU1rws
2007年12月01日
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