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いつもここに来たら、立ち寄って参拝します。
殿、国替えにございます。
やすみあけなのか、まばらな入場者で、ゆっくりと見学できました。
15年という短い時期、しかも領主が9歳という幼さ、黎明期の家臣団のご苦労は大変でしたでしょう。光政公が世に名をだされたのは岡山に国替えされてからのことです。展示資料も県外からのものが大半で鳥取市と県内のものは、3割ほどで、収集にご苦労があったことでしょう。
因幡と伯耆、性格が異なる國を領主は幼く、家老が分担統治できたことはあっぱれです。
忘れてならないのは、住民のすなおな協力性があったことです。
家臣団の成果は、頭首の成果ですので致し方ありませんが、個々の具体的な活動資料があったらよかったと思いますが、そんなものはないのでしょう。
池田の領主が9歳で、倉吉の担当家老は、6歳であれば、家老以外の家臣の活動があったわけですが、長門土手、二重土手、勝入寺(池田家始祖菩提)の実績のみの報告でした。里見忠義の扱いも至極簡単な扱いの記載でした。
神君家康を攻めて討ち死にした祖先を持つ池田家、融和策で家康の娘督姫を貰った輝政に、前妻の子、家康の孫と複雑な構成ができ、光政は神君とは関係ない系列です。鳥取在任後半で、豊臣秀頼の妻だった千姫(家忠の子)と本多忠刻の子、勝姫を正室にしています。しかも本多忠刻は、光政の後、姫路城を領した大名です。
光政は、勝姫との縁組をよしとしなかったようですが、疱瘡にかかり、勝姫が、他を寄せ付けず寝食忘れ介抱してくれたようで、それから親密になり、江戸には側室は一人もおかなかったといいます。