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おどろきの金沢【電子書籍】[ 秋元雄史 ] 本書は金沢観光案内ではない。 21世紀金沢美術館を通じて金沢の人となりや風土を詳しく説明したものだ。 なぜいま金沢の本を読んだのかと言うとつい最近まで車で京都を訪れることを画策していたからだ。 新幹線ならともかく車となると山形からは単純に計算して9時間かかる。 だとしたら途中どこかを中継基地にしてなんてかんがえていたら本書を見つけそうだ金沢にしてみようと考えたわけだ。 その金沢までも山形からは車で単純に6時間かかる。 それはともかく金沢は 「一見さんお断り」──これは京都の老舗でよく聞く言葉だ。 花街であれ、ほかの店であれ、その店と懇意にしている人と連れ立って行けば、店は快く迎えてくれる。 次の回には紹介してくれた人を連れて同じ店に行き、支払いはこちらがもつ。 3回目にして初めてひとりで店を訪れられる……とまあ、これは花街のルールだが、紹介者とは私のことを保証する後見人だ。 花街なら、私がツケを抱えたまま行方不明になっても、店は後見人に請求書を回す。 私が店に不義理なことをしようものなら、後見人と私の人間関係にも、もれなくヒビが入る仕組みになっている。しかし、今の時代、後見人の有無など、ふだんのビジネスシーンでは、あまり問われないものではなかろうか。 ところが金沢というまちでは、今でも花街でなくとも、後見人と被後見人に近い関係性が発動する。なのだそうだ。 何しろ加賀百万石自分と他所をきちんと分ける文化がある。 それで一番困ったことがイオンモールだそうで金沢の周辺にイオンが出ても市内にはなかなか進出できなかったそうだ。 もっとも私が考えているのは京都までの中継基地であるから上記のような金沢人の気質は特別関係ない。 その金沢、 掘り起こした政策のひとつに、「旧町名復活運動」がある。 これは、戦後の住居表示によってつけられた地名を、昔からあった町名に戻したものだ。 町名はその地がもつ歴史に由来するもの。 花街の主計町は加賀藩士の富田主計の邸があったところ、下石引町は金沢城の石垣を築くために石を曳いた道筋のところ、というように、金沢のような伝統文化のまちなら、歴史を刻んだ町名のほうがふさわしい。こう考えて、一つひとつ町名を復活させている。 というような骨太の政策を成功させている。 この点米沢の人は十分知ってほしいものだ。 この辺が金沢が現在も加賀百万石でいられるのに米沢が斜陽化している一つの原因ではなかろうか。
2022.04.11
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JR崩壊 なぜ連続事故は起こったのか?【電子書籍】[ 梅原 淳 ] 本書はJRのうち特にJR北海道の問題点を指摘した本だ。 まずJR北海道の連続事故の1つについて、 「危うく燻製にされるところだったよ」とある男性乗客はテレビカメラの前で憤った。 ある女性乗客は「よく生きて出てこられた。乗務員の指示に従っていたら全員が死んでいたと思う」(「北海道新聞」2011年5月 31日付け朝刊、 16版、 29面)と振り返る。 火災によって焼失したJR北海道の特急列車から間一髪脱出に成功した乗客はマスメディアの取材に対して口々にこう語った。 脱線による強い衝撃を受け、列車がトンネルの中で立ち往生した直後に床下から出火したにもかかわらず、特急列車の乗務員が乗客に対して適切な避難誘導を行わなかった不手際を指摘して思わず口に出したのである。などと紹介する。 本州3社であるJR東、西、東海と3島社である、北海道、九州、四国それに貨物とではその経営基盤も損益も違うという。 それぞれに課題があるとは言え、はっきりしていることは本州3社が3島社と貨物を支えているという構図だろう。 その中で特に北海道に事故が多い理由のひとつに北海道の車両にディーゼルカーが多いことが挙げられるのだとか。 実はこのディーゼルカー、寒い中での維持がとても大変らしい。 つまりJR北海道はそもそも大変な鉄道を扱っているということなのだ。 その解決策として JR北海道の線路や施設を北海道をはじめとする沿線の地方公共団体が保有し、JR北海道は列車の運転といった営業に特化した鉄道事業者として再生を図るというのが上下分離での生き残り策の意味するところだ。 この方策のよい点は、固定費の占める割合が多い営業費を節減しようという呪縛からJR北海道が解放されるという点である。 上下分離自体は国内の鉄道では珍しいことではない。 JR各社のなかでもJR貨物は線路や施設の保有をJR旅客会社に任せ、身軽な立場で鉄道事業を展開している。 鉄道のなかでも最も採算制が低いと言われる貨物輸送部門を円滑に進めるには、莫大な固定費を負担しては障害になってしまうのだ。ということが提案されている。 このコロナ禍で日本全体の経済が沈みつつある中果たしてどれだけの救済がJR北海道になされるかは疑問だ。 ただなんとかしなければならないことは確かだろう。 今の日本の問題点は問題を問題として捉えることなくほったらかしにし続けているところではないか。 少子高齢化もそう農業問題もそうそしてこの公共交通機関に関わる問題もそう、どれひとつ前向きな斬新な創意工夫のあるアイディアは出ていない。 それが問題だというのだ。
2020.08.25
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【中古】 大きな文字で読みやすい 京都ゆとりの旅 ブルーガイドてくてく歩き/ブルーガイド編集部(著者) 【中古】afb さて今年の目標は妻と車で京都を旅行することだ。 去年まで3年連続して京都を旅している。 もう京都にいかないでその年を終えることはできない。 だが、山形からは旅費が馬鹿にならない。 そこで今回は車で行こうと考えたわけだ。 必ず行くのは東寺。 我が家が真言宗なのでここにいかないわけにはいかない。 それから去年は神社神道に目覚めたので、神社にも行ってみたい。 お土産の関係では西陣も欠かせない。 それはともかく、既に行ったことのある場所でも何回も行ってみたい。 たとえば、清水寺。◎ 清水の舞台は何のためのものか 清水の舞台、は、懸崖造りと呼ばれる観音堂特有の形式。 崖から中空に張り出し、観音菩薩の南の補陀落浄土を遠く見はるかすための舞台と言えばそのその有り 様もうなずけるだろう。 厚さ10センチの檜板416枚が張られたこの舞台で蹴鞠や相撲が行われたこともあるらしいが、まあ余興 のようなものだ。 その観音浄土への舞台とあって、祈願のために飛び落ちる人は後を絶たず江戸時代だけでも未遂を含め 234人を数えたという。 それにしてもこの寺の大舞台が観音信仰のものだったとは全く知らなかった。 恥ずかしいというのはこのことだ。 確かにあの大舞台は補陀落浄土の大舞台なんだろう。 しかしそれにしても、昔人のダイナミックなことよ。 結局、究極の信仰というのはこういうことを言うのだろうなあ。 また、銀閣寺にもまた行きたい。 というのは次の一文を読んだからでもある。◎ ニヒリスト足利義政 父義教の暗殺、兄義勝の早世により足利義政に8代将軍の座が回ってきたのは8歳のときだった。 幕府最盛期を現出させた祖父義満の死からわずか20年、早くもその衰えが見えはじめ、室町幕府は管領 など有力守護の連合政権の様を呈していた。 義政も最初は政務にはげんだようであるが、ある時からそれを一切放棄してしまう。 それどころか幕府の権威をおとしめようと努力したようにも見える。 稀代の悪女妻日野富子との不和、弟義視と子義尚の将軍後継争い、それを遠因とする応仁の乱の勃発、 そんな状況の中で38歳の義政は将軍職を義尚に譲り、早々に隠棲してしまう。 寺社への参詣、そして東山殿の造営に心血を注ぎ、湯水のように金を使い、能楽・茶道・築庭、と風流 三昧の暮らしを東山の山荘で送る。 なのだそうだ。 銀閣寺=慈照寺、は、東山にあるものねえ。 京都東山は魅力的な観光スポットだ。 それはともかく、足利義政がこの東山文化の、いわば、主、だったなんて知らなかった。 これもうかつなことだね。 もう一度東山を歩きたくなったことは確かだ。
2020.03.06
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京都を歴史に沿って歩く本(平安〜室町時代篇) [ 武光誠 ] この三年、毎年妻と京都を訪れている。 これからも毎年訪れたいと思っている。 ただ、旅費が私のところから東京の倍かかるというのがネックだ。 一泊ではすまず、最低二泊必要だという点もネックだ。 さて、そのような京都は神道と仏教の宗教都市である。 まず神道的には、 桓武天皇は仏教勢力の政治の関与を排除するに当たって大和朝廷が神々の最上位に位置づけた天照大神の祭祀は奈良時代には皇室中心の閉鎖的なものになっていた。 そのため天皇は天照大神信仰のあり方を変えるのではなく古い自然神の信仰の名残を持つ賀茂神社を平安京の護り神とする方針をとった。ということで、桓武天皇は敢えて天照大神に依らず、賀茂神社に依ったのですなあ。 これは意外なことだ。 賀茂神社の神様は神話にない神様で、したがって著者の言うように京都土着の神様ということになりますなあ。 上賀茂神社の御祭神のパワーのすごかったこと、桓武天皇はそのことをよくご存知で、賀茂神社をおしたいしたということなんでしょうなあ。 次、仏教。 現在の西本願寺には江戸時代はじめの優れた建物や庭園が多く残っている。 これはおもに本願寺の末寺から上納された資金を用いられて作られたものである。 権力者の助けを受けず教団独自の財源で寺づくりができた点に浄土真宗教団の底力を感じる。 東西両本願寺はまるで京都の楔のように京都駅北側に位置する。 その力は上記のとおりなのだ。 だから京都は、賀茂神社と本願寺の街でもあるのかもしれない。 両賀茂神社と両本願寺の位置関係は、これらをくまなく回ることによって京都を堪能できる位置づけになっていることも大きな特徴だ。
2020.02.15
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福島のことなんて、誰もしらねぇじゃねえかよ! [ カンニング竹山 ] カンニング竹山がこれだけ素晴らしい本を書いていたなんて知らなかった。 感動したね。 この本の題名のとおり、竹山のことなんて誰も知らねぇ、だった。 まず、福島のことを、フクシマ、っていうなという著者のポリシーが素晴らしい。 全くそのとおりだ。 著者によればあの原発事故後、福島の放射線量は普通に生活できるレベルまで回復し、なんら問題はないとのこと。 そこで彼は福島県内を縦横無尽に駆け巡る。 福島は、うつくしま、である。 海辺の浜通り、新幹線が走る中通り、山地の会津に大別される。 北海道、岩手県に次いで広い県だ。 その良いところを余すところなく紹介している。 著者は福島とは特に縁がなかったそうだ。 それが今や福島の一番の理解者になったといういういことだ。 そもそも福島の北隣、山形に住んでいる私は、米沢に住んでいた時代は毎週のように福島を訪れていたが、仕事の関係などで米沢を離れ、また、原発事故が起きたりして福島から疎遠になっていたのだった。 それが今また福島を足繁く訪問している。 今私は山形市に住んでおり、米沢の時代より2倍の距離になってしまったが、それでも今足繁くまた福島に行っている。 福島が私を呼んでいるのだなあと思う。 そもそも米沢の時代は定年退職したら福島に移り住もうなって考えていたのだ。 福島再訪の機運は米沢福島間の高速が開通したこと。 そして今、山形まで通じ、山形福島間は約一時間だ。 土日、妻とどこへ行こうかなんて話になると迷わず福島に行く。 でも、福島のどこへ行ったらいいだろうか、なんて考えると、行くところは決まってしまう。 そんな時に本書に出会った。 この本は本当にいい福島のガイドブックである。 ちなみに本書で今度行ってみたい飲み屋は、バーパイプのけむり、ラーメン店、伊達屋、おなじく、えなみ、円盤餃子屋、満腹、だね。
2020.02.02
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【バーゲン本】庭園の謎を解く (GAIA BOOKS) [ ロレイン・ハリソン ] 遊園地という概念の庭について著者はロレイン・ハリソン 楽しむための庭 遊園地は18世紀半ば以降ヨーロッパで人気があった。 そうした広場はすべて社会的な交流や楽しみのためのものである。 格式張らないレイアウトと植栽そして様々な建物の様式が楽しみと気晴らしのための庭を特徴づけていることが多い。 演奏会やゲームをする場所気分転換する場所そして最も重要なのはそこにあるすべてのものの間を散歩するための場所であることだ、 この考え方は都市公園ができた19世紀に完全に民衆の知るところとなる。 指定公共空間の概念は今でも世界中で見られる。と述べている。 なるほど遊園地の真意はここいらへんにあるということだ。 孫たちと遊ぶ遊園地とは全く別の概念である。 公園という概念のほうが近いのではなかろうか。 そういう遊園地というものと日本の庭はまた全く趣を異にする。 その日本の庭もまた禅寺などの庭と優美な貴族の庭とではまた違う。 概念でだけ物事を考えると狭い器量にしかならない。 たった一冊庭の本を読んだだけでこれだけのことが書けるのだから読書というのはまた意義のあることである。 さて今回の京都旅行では今書いたような概念のもといろいろな庭を見てこようと思う。
2018.03.11
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京都坪庭拝見 (Suiko books) [ 水野克比古 ] この3月の20日すぎに京都旅行の予定だ。 そのこともあってこの本を読んだ。 それにしても京都には数多の寺社仏閣があってそのうちの坪庭なんて覚えたてにならない。水野克比古 常徳寺(北区) スギゴケと錆砂利混じりの白砂で構成された平庭に渋みたっぷりの吉野石を大小5個配置している。 新庭だが、古刹の雰囲気を妨げない古趣の味わいを出している。 植栽は満天星(どうだんつつじ)と梅、土塀上のマテバシイも景を添えている。 土屋学優住職の構想を川勝武彦氏が造園する。 新庭だという。 庭というのは一体なんだろうなと思う。 私は心の中にも庭があると思う。 私は心の中の庭を水墨画に託すこともある。 基本は白砂の海、岩、借景の山、樹木。 滝があるときもある。 低木に背の高い木。 その配置に心躍らす。 そのジャンルは一体何なのかなあと考えてみたが、答えは見つからない。 おそらく今回の旅行では常徳寺に行くことはないだろう。 まあそれでも、上記記述に庭の一端がもられている気がして引用した。
2018.03.10
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【中古】 京の古寺あるき 一二〇〇年の歴史を秘めた 通の行く京都/メディアユニオン(編者) 【中古】afb 京都旅行の前こんな本も読んだ。 泉涌寺も訪れるつもりだった。 結局ここも次回回しだ。メディアユニオン 泉湧寺 所在地 京都市東山区泉涌寺山内町27 交通 京都駅より市バス208で泉涌道下車 徒歩10分 拝観時間 3月から11月、9時から16時30分 拝観料 参禅無料 伽藍300円 御座所並びに庭園300円 テレ朝の土曜朝の旅番組で紹介されており、妻とここもいいねなどと話していたのだが、行かないでしまった。 次回は行ってみたい。 何より、別院の窓から見る庭が絶品らしい。 このように、本を読んで抜書しても、行かないでしまうところはたくさんある。 まあ、それでいいじゃないか。 地理的に京都はそうそう行けるところでないので、吟味してしまう。 泉涌寺、心に留めておこう。
2017.11.13
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京都小旅行 腕ききコンシェルジェのネタ帳 結局、今回の京都旅行では、図書館の本は役に立たなかった。 一応抜書したが、行くことはなかった。 ガイドブックは、新しいものに限る。漆島嗣治 レモン館大徳寺店住所 京都市北区紫野上門前町61-1アクセス 地下鉄東西線北大路駅より徒歩10分 市バス大徳寺前より徒歩5分営業時間 11時から18時休み 月曜(祝日の場合は営業)クレジットカード不可予算1人1200円小鉢とお吸い物付きのおまかせ弁当1200円 今も上記の店があるのなら、ぜひ行ってみたい。 来年3月、再度京都に行くことを考えている。 その道中に入れてみたい。 今回、京都ではバスのほか地下鉄も思いの外便利らしいということがわかった。 何より金がなければなんともならん。 でも行って雰囲気を味わうだけでも意義のある街だ。 私はそれを大事にしたい。
2017.11.10
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【中古】京都ビンボー遊び術 / 山崎重子 今年の9月初旬妻と京都旅行を楽しんできた。 この本は旅行前に図書館から借りて読んだもの。 結論。 この種旅行案内書は新しいものに限る。山崎重子 京都駅近くにある丸福。 見かけはごく普通の親しみやすい食堂といった感じだが常連さんや旅行者がひっきりなしに来店する。 メニューはほとんどが1000円以内なのにボリュームたっぷり。 私の一押しは天丼セット980円だ。 大きなエビ2匹に野菜の天ぷらが丼の上からはみ出すほどでこれに蕎麦がつく。 この蕎麦も手打ちに限りなく近い自家製。 どこが手打ちでないかと聞けば「最後に麺を切る工程だけ機械を使っている」のだそう。 「だから純粋な手打ちとは言えないので自家製と言う言葉を使っています」とご主人。 これくらいなら私だったら手打ちと言ってしまうだろう。 下京区東洞院通七条下ル 結局この店には行かなかった。 というよりあるかどうかも確認しなかった。 本というのはこのように旬が重要な場合がある。 かつての旅行記として読む分にはそれもまたありだろうが、案内書は最新版を使うべきだろうな。 しかも最近は案内書をアプリで持ち歩ける。 まあ便利な時代になったものだ。
2017.11.09
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一度は訪ねたい日本の城 (ビジュアル版鑑賞ガイド) [ 西ケ谷恭弘 ] 築城のプロとして、藤堂高虎と言う方がいたらしい。 西ヶ谷恭弘 藤堂高虎 築城の才を最初に発揮したのは豊臣秀長に伝えていた頃で猿岡山城を改修し、和歌山城を築城時に普請奉行として働いた。 以来生涯に28の城を築いたと言われる。 とりわけ家康の信任が 厚く、江戸城本丸の縄張りを手掛けた他、篠山城や丹波亀山城の天下普請で大きな働きを見せた。 江戸初期築城ブームの立役者でもある。 ということだ。 城は、今にして問えば、建造物ということになろうが、当時は、砦である。 命を守らなければならないものだ。 築城のプロということは、つまり、命を狙われる危険性が極めて高かったということになろう。 それが28もの城を築いたと言うことであれば、その城にかかる秘密を無数に持っていたことになる。 この者を拉致してその城の秘密を手に入れれば、その城を陥落できたであろう。 何しろ住宅ではないのだ。 その点、この時代の方々は、おおらかであったとでも言うのだろうか。 戦略的に藤堂高虎を拉致せよと言った軍師がいても不思議ではない。
2017.10.31
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イラスト図解城 城の基本知識と戦いのための構造がわかる [ 小和田哲男 ] 大阪冬の陣は小和田哲男 真田信繁(幸村)、長宗我部盛親、毛利勝永、後藤基次、大谷吉治などの浪人を合わせ約10万人の兵力が集まった。 1614年 11月 家康は 約20万人の兵で 大坂城に向かう途中数箇所の砦をことごとく陥落させ籠城した大坂城を包囲する。 これが大阪冬の陣である。 豊臣方が奮戦し膠着状態となり大坂城の外堀を埋めることで和睦が成立した。ということらしい。 小学生のころ何回も読んで、いわゆる判官贔屓になった一端でもある。 それが高じて、徳川巨人、豊臣阪神の構図に至る。 その後真面目に歴史を勉強していないので、その構図のまま私の中で歴史が止まっている。 それにしても、10万とか20万などという数字には驚いてしまう。 止まったままの私の中の歴史は、その後この大阪城が徳川の再建にかかるものと知って驚いたり、豊臣秀吉が朝鮮に進出しようとして失敗したりした史実を知り、歴史を中途半端に理解してはいけないということを強く感じた。 ただ徳川VS豊臣の構図はその後、日本において現在まで続いていることに驚きを禁じ得ない。 そもそも言葉、文化があまりにも違いすぎる。 もんじゃ焼きとお好み焼きくらい違う。 それが均衡良くしているうちはいいが、下手するとスペインのカタルーニャ州独立騒ぎみたいになりはしないかと心配しているところだ。
2017.10.30
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徹底図解日本の城 城の歴史と構造、城をめぐる英雄たちの戦略・戦術 [ 中井均 ] 環濠集落の記述があった。 長井市歌丸地区も環濠集落と表示されている。 どういうものなのか抜書した。 中井均 集落の周囲に堀を巡らせた環濠(堀)や柵によって囲まれた集落は縄文時代中期頃に出現する。 しかし縄文時代の環濠集落は外的から集落を防御するものではなく祭祀空間や集落を区画する目的で出現したものと考えられる。 特に城郭があったということを聞いたことがないので、多分祭祀空間だったのではないか。 そうするとパワースポットということになる。 長井市内の職場にいた時は結構周辺を騒いだが、何しろ車でしか動いていなかったので、ほとんど何も発見できなかった。 ただ同地区が環濠集落だと表示された看板は発見した。 そこでこの抜書になったのである。 この世界に生きていると霊界のことなど何もわからないが、その世界がわかる人がいるのは間違いないことだと思う。 古代かの地で何らかの祭祀が営まれていたということを想像するだけで楽しくなる。 環濠集落集落についてもう少し調べてみてもいいのかもしれない。
2017.10.29
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7つの魅力でとことん楽しむ! 日本100名城めぐりの旅 [ 萩原さちこ ] お城というアイテムを語り始めたらきりがないようで… 萩原さちこ 射撃場が発祥の櫓。 櫓のルーツは「矢倉」や「矢蔵」。 射撃場から進化して敵を監視する見張り台や武器庫戦時の攻撃陣地と活躍の場を広げました。 用途も様々で大きさや形の規定もありません。 名称の由来も様々。 多いのは方位や十二支です。 例えば曲輪の東南、辰巳の方角に立つ櫓は、東南隅櫓または辰巳櫓、東北(丑寅/艮)は鬼門です。 甲冑を納める具足櫓や時報の太鼓を置く太鼓櫓など。 用途から名づけられる場合もあれば五間櫓のようにサイズを用いたものもあります。と櫓についてもこれだけの小ネタがある。 文化財と考えたら、あるいは遺跡と考えたら、今日、時の為政者が各地の城を壊しまくったのは許しがたい暴挙だった。 たとえば山形県には、相当数城下町があったのだが、現存する城はない。 上山城は昭和後期に建設されたものである。 上杉の城下町で有名な米沢には天守が無かったらしい。 今も本丸が残っている。 抜書した、櫓があったらしいが、明治政府が取り壊した。 それにしても今にして思えば、明治政府というのは次から次へと悪行三昧だったんだなあ。 廃仏毀釈もそうだろう。 為政者が文化を壊してはならぬ。 そういう輩を野蛮というのだ。
2017.10.28
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