個々人や集団で人の持つ感性を一切気にせず、主語のエゴだけで乗り切りパスするからだ。
エゴが、感性の力を一切無視してる。
特に賢い連中に多くて、遺伝する。
論理の世界、つまり「時間・空間」の界隈には、そういった連中が創り出した泥沼がいっぱいなのである。
普通の人が論理を見出そうとしての通行には、哲学による時空掃き清め作業が要るのだ。
この、人の認識する時間・空間は「共有」のもんだと思っている人多いが、実はそのほとんどは「享有物」である。
自分自身の、自由な(自分に由来する)時間・空間である。
享有と共有のちがいが、なぜ倫理と論理の違いに関係してるのか、まずそこんところを考えてたんだが。
主観、客観、の違いだけなんかやろか、とも思い始めた。
ほかにも理由あるんかもしれんが、おいらの頭ではわからん。
ただ、見えてなきゃ、わかりようがない、って理屈だけは、わかった。
論理は普通、それを逆さに剥いて、理論に料理して利用する。
見えてなきゃ無意味。
理の論議にして、客観の具体物と見なしてしまうこと。
これで、見えるようにして使っているということ、なのだが。
裏返す前の、論理とは微妙に理論が違ってしまってて。
そもそも見えてなきゃ逆さにもできんので、いくらかは見えてるはずなのだが。
論ずることで「理とみなす」、何がしか元のモノはあるはずなんだが。
この論ずることで、理とみなすことに利用される鍵が「カテゴリー」である。
「実在の証」、言葉を介する「現実への鍵」である。
それがカテゴリー。
単に見えるように人工鋳造するもんやない、っつうこと。
既存のカテゴリー解釈は誤り。
これは次節で概説したいことの先走り。
現実に時間・空間が絡んで言葉ができているわけで、理とみなす」何がしか元のモノも現実を逆さにされたらおかしくなるわけで、それで見えて来る以上の被害を被っていると考えるべきなわけだ。
理論は見えるが、論理は見えてない、何か規則みたいなもんがありそうには思うんだが、それは被った被害が見えてるだけで・・・。
被害を被らなければ、見えないナニカが時空を超越して整然とあるかのように(実際にはない)思えてしまうわけだ。
この論理の主は主観として見えてはいない。
客観置いて見えて来るもんでもない。
論の元のもの、そもそも論ずるとしても理に見えてないモトのもの。
論の理だと言ってるのに、理じゃないのだ。
およそ「絶対英知の神」とも言うべき未知のものなのである。
道のモノじゃない、未知のもの。
モノの仕組みではなくて、論理は判断の点にすぎない、からだ。
見えてないが、「客観の客観」、「主観の主観」みたいなもんだ。
しかも理にする、理の規則にしてしまう。
それが虚無から、しかも強力無比に命令している。
絶対の「理」へと一点集中して、「あらしめてくる」のが論理、というもの。
本体は虚無のまま。
特に、自由の根源に「自分の無知があるのだ」と気が付きようがない科学者には、虚無からの「命令だけが見えている」ような事態のはずである。
途中の理屈は一切見えずに、判定済みの結論だけ見える。
だから、これを逆さにして見えるようにして、理論にして共有に呈する。
一方、倫理は、享有者相手に限定された、「ネガチブな命令力」だった。
内向きの規制力であるんで、ポシティブな面は見えてないのだが。
これをムリヤリ道徳にして客観化すれば、見えて来るように思ってしまうものだった。 実際には、「道徳」だけを見ていたわけで、「倫理」が見えてなかったのだが。
それは倫理を理解しない人の側の「病気が生む別物」なのだ、ということを先に述べた。
倫理はあくまで「人の図式」で、感性の力として身体に備わっているはずなんだと。
では論理は、人の図式ではないのだろうか?
いいや、これも「人の図式」のはずなのだ。
この図式は現実を動かすが、メカニズムではないし具体的な仕事では決してない。
この論理も、倫理同様の「感性の力」であって、論理のメカニズムではないし未知の神的な力としか言いようのないもので「ある」。
(ネガチブしか見えてないんで、この「ある」はオクケンなのだが。)
特に逆向きの理論にすれば、客観の「仕事」になるので。
これはやはり図式力、つまり「感性の形式」力臭いんである。
オイラが必ず絡むんで。
そしてオイラなしには、観察者なしには論理どころか理論にも、絶対にならんので。
論理は特に、倫理とは逆に働く。
「共有に限定されて働く」のである。
やはり「図式」なんだとオクケン想定。
これは数学といった人の時空基礎認識が絡んだ、図式だと思う。
なので世間での論理尊重には、享有意図排斥の力があって働いているようにすら、感じられてしまう。
論理はまるで「宇宙の図式力があるかのように」働いて、未知の力が、そこから来るのだ。
宇宙全体と言う、得体のしれない巨大なものとも、どこかでつながってるはずだと考えてしまうのだが。
これは「錯覚」の部類じゃろう。
得体のしれない巨大なものとつながってんじゃなくて、自分勝手に、自分の虚無を優生学へとつなげとるんである。
時間・空間はあるが、人の知性は此処には無い。
宇宙も自然も、命題として立つ名詞じゃなくて・・・。
共有が立つから、ワカラン宇宙を背景に優生学仕立ててしまう、だけの話。
論理はやはりどうしても、「ネガチブ」な図式特有の「力」として感じてしまうのだが。
「共有」が力を感じるというのは、これが、ぜんぜんへんなのである。
感じているのは必ず「享有」だからだ。
共有で感じる力など、「ない」はずだからだ。
無なのだ。
おいらたちの認識には、粘菌が持つようなテレパシー能力などは、ない。
また、粘菌のあの共同作業力も、テレパシーではないのかもしれない。
共有に限定されて働く、論理独特のこの力は、外向きの力のように見えて。
ホンマは、外向きでも内向きでもないんじゃないか、とも思えて来た。
逆向きにして見えるように作った人工の「理論」に、つい騙されてしまうのだ。
ポシティブな面がまったく見えないはずなのに、理論にすればポシティブとなり。
理路整然と見えて来るように思わされてしまう、それが此処に騙しのある理由だ。
オイラという享有相手のものでないので、現実として観れば。
決して明晰判明では「ない」のである。
背後に「時空定義」が控えているだけなのだ。
思わされる、だけであって。
実際に采配してるのは、やはり数学的な時空「定義」だろう。
やはり、これが図式的に働いている。
享有も共有も、もちろん何処かで、オイラという享有エゴが必ず絡む。
これは倫理も論理も同じ。
オイラ、が絡まなければ、認識もない。
文字通り、なにもなくなる。
虚無に落ち込む。
享有は、内向きの、力だけの想定モノで、「あり」。
共有は、外向きの力のもともと「ない」仮想定のモノ、「あらしめ」だ。
ぜんぶ想定モノ、つまり虚無からのナニカ利用しての構想なんだから。
やはり論理自体が、享有感性利用しての、<感性の形式としてのネガチブ図式>。
ここで、この場所で。
力関係へと短絡して「時空」に入り込み優越を「特権」考えてしまえば優生学というものになるのであるが。
時空関係は論理では見えてないので。
論理吟味のここでは、優生学やらずに、哲学的に無知から考えるべきなのである。
つまり一神教がやるように絶対の英知をもってくるのではなく。
ワカラン神々を論理の支点にもって来て、祀るべきなのである。
哲学は、自分が無知であることを最初に見出して、そこから認識を始める。
だから内向きの力には囚われようがないので、「あり」は明晰判明に解るのである。
倫理には、ありがあるが、論理にはない。
論理には、「時空定義」以外の「あり」が、「ない」。
ありようがないのだ。
共有論議だから。
また自分が無なので、外向きの力にも囚われへんのだが。
自分が無なので、その自分が皆目ワカランなってる。
倫理の奴隷にはなりようがない、とだけ、わかる。
倫理は、無知に対して働く類の一般力、つまりイデアやオルガノンといったものではなく、「知識に対して働く、ある種の力想定である」ことがわかるだろう。
だから「力そのもの」ではない。
力の想定、エネルゲイアではないのだ。
論理は力だと思い込んでいる人が多いが、それは間違い。
論理は判断でないのはもちろん、力でもなければ「なんにもない」。
数学的時空定義次第の、虚無の点があるだけ。
論理も「ある種の力想定」のはず。
構想の一部の想定、あくまで「人の側の」、感性の心構え形式。
つまり、人意外のモノに通用する図式モノではない、っつうこと。
(空想多次元人など異種の想定者には、論理は通用しない、っつうこと。)
一神教は、これの垣根を取ってしまって、理論を「力そのものの構想」にしてしまう。
論理は倫理とは全然また違う形式なんだが、その理は同じはず、なんだ。
だから。
論理は見えてる理論を見ている限り、理ことわりを使うのは同じだが、この理はメカニズムではないし。
単に、ことわれるもの、であるにすぎんもの。
知識に対して働くのではなく、感性の感情に対して「勘定的に働く」ように思う。
まるで「力の方の想定ブツ」、図式の力そのもののようですらある。
力の物理的想定ブツであるエネルゲイアに似ているが。
ロン(論)が、それ自体を持つ、ネガチブ図式なんで。
定義して働けるようにする、客観にして、感性を勘定できるようにするだけの話。
これを利用するのがプロテスタントたちだ。
感情も勘定も同じものだが、オイラたち普通の日本人だと、これは区別できる。
感情の勘定規則を、つまり「倫理」を、あらかじめ知っているからである。
ポイエシス使って抒情を叙情化し、うたをうたいにする、みたいなもんの理屈だ。
論ずるんだから客観想定で、なおかつ想定ブツとした図式形式。
お客様を見ているのだが、その実、実体は「主観の感性部分」のみを見ているのだ。
まるで「主観の主観」みたいに。
こういった不毛の論議の際に、ここでは避けるべきもののほうが、よく見えてくるのである。
選ばれし「選択」と。
よそから差し込む唯一の「命の光」と。
どこにもない「絶対の規則」といった虚偽ものは、避けるべきだ。
どこからか持ち込まれた、カルトだからだ。
なにもかも曖昧な中での論議なのだから、「優生学的正義はない」し。
絶対の命もなければ、「宇宙の不変法則もない」はずなのだ。
これらよそからの侵入者が、「泥沼の原因」を作っているのである。
論理は、中空の虚無の中に浮かんだ判定そのもののように見える。
それが侵入者によって、とんでもない食わせ門になってしまうのだ。
侵入者たちの侵入後、見えているのは、判断済の「理論」。
裏返しの「跡付けた言い訳もの」であって、論理ではないのである。
これの、跡付けた言い訳の別名を、弁証法という。
自動で言い訳してくれる法律ですらなくて。
「人工化し跡付けした理論」だってこと。
特に、「弁証法という言い訳介入」の、「法律化」が最低だ。
修辞的には軽蔑すべき対象となるべき、権威の介入、なのだ。
論理は、「人にとって虚無」なのである。
論ずべき対象が、なんにもそこにないからだ。
なのに、この論理を利用したくて、その虚無の周辺にはいっぱい泥沼が積み重なって、実に大変なことになってきている。
享有の扱う論理なのに、共有がドカドカ割り込んできて、選ばれし者を主張するし。
虚無なのに、どこからか他者の光が忍び込んできて、眩惑して。
しかもどこからか命令が来るので、世界規則が光の組織に集まる。
掃き清め作業は、これら三つを中心に見据えて、具体的に取り掛かるべきだろう。
論理自体は、モノ自体みたいなもの、であって。
これは客観的思惟の「支点」にすぎない。
固有の享有時空がないので、逆さにして理論にしないと、言い訳すらできんもの。
人の享有する感性が働く形式。
その純粋悟性概念という構想の働きの、支点みたいなもんだ。
実際に、純粋悟性概念の図式というカント先生の発想はそのとおりだ、と思う。
論理判断は実際には、数学的な定義であって、それが振り分けられる時間・空間という直観の形式。
まさにそれが働く支点みたいなもんだと思う。
(これらはもちろんオクケンなんだが。)
論理は享有の感性利用するんだが、客観に対して、つまり共有に対してしか作用しないので見えない。
常に複数形のものが対象であることは見えてる。
だからネガチブな面しか持たないので、そのものとしてまったく見えていないのだ。
そこへ客観でネガチブを利用した「選ばれし者」、「他者の光」、「絶対世界規則」が紛れ込んで、泥沼と化していたので、ウソのメカニズムが見え。
それで逆にわかってきたことなのだ。
特に最後の、「絶対世界規則」は、オルガノンを自己主張する。
明確な「偽物」である。
享有感性でないのに、享有感性を消して、自分がヴェルタイス「レーレ」だと、規則だと主張しているのだ。
死すべき卑小な有限存在者なのに、永遠の選ばれし力だ、と主張するということ。
これにもどうやら、それなりの理由がありそうだが。
そんな事態や実体が一切見えずに、共有世界の泥沼だけが見えてて。
それが享有を覆い隠してしまっている、そっちのことの方が問題なのである。
泥沼をほっておいたらどうなるか。
カルト教義化して、それはコンクリートみたいになり、やがて「神殿」ができる。
論理を司る絶対の神が宇宙を采配するので、人の自由意志などはハナから存在せず。
どこからか命令受信するのみの奴隷存在と化す。
運命は聖書通り決まっており、悪魔が出て来て破壊工作やり。
それを神が倒すことも、あらかじめ決まっているという、ちゃちなエンターテイメントどおりなわけだ。
アリストテレス先生がポエチカで構想してた、機械仕掛けの神の論議でもあるのである。
つまりつまり、哲学的論議をすべき論理の規則に、唯一絶対の神を持ってくる。
このことが災いの元凶なのである。
多様な、わけのわからん神々を持ってくるべきなのだ。
論理の理は見えておらず、未定で優生判断もできないものなのだから、機械仕掛けて規則判断するのが、そもそもの間違いなのである。
つまり論理の有効性は、その「時空定義の有効性」で決まる。
数学の定義が必ず背後にあるのだ。
その数学定義を誤魔化して二進法のデジタルにしたって、二律背反の背後で唯一の神が采配出来るわけじゃない。
カーネルがいつも見張っているのなら別だが、人の世界はコンピューター宇宙じゃない。
個々人の享有者の自由感性がある。
災いを導入せずに、論理の絶対性を述べる前に、自己享有の有限性と、同時にわからん現実があることを、まず認めるべきなんだ。
絶対の規則がある、なんて思うから、ややこしい泥沼の堆積物がたまっていく。
人の側の、いいかげんな構想力はあるし不可解な命の営みはあるが、絶対のオルガノンなんて、何処にも見えちょらんのだ。
論理を哲学(無知の知)の上位に、将来の絶対の知識として、アジェンダとして持ち出したヘーゲルの構想がある。
これが、論理学を、神の世界をも包摂する大論理学とした。
これが「最もダメなのものの元凶」なのだ。
なんでダメかというと、認識(テオレイン)の質が未知の領域へと堕落して虚無化し、しかも、みえちょらん。
「理」が、みえんなってる。
論じるロゴの、ことわりの規則の「鍵」にも、合致しちょらん。
つまりカテゴリーが無視されちょる。
論理は、数学的な身体的論議によって、その言葉の規則によって「ことわられた」はずである。
理、なので、ことわられるはず。
分解可能であって、テオレインできるはず。
それが「虚無となって、見えん」なっちょる
数学的に、時空の定義が「見える」ように導くのが、カテゴリーというものの作用でありある理由だ。
その領域はおろか、量すら定かでなくなる。
次回はカテゴリーについて、特にそれが範疇ではないことを論じたいが。
現代西洋文明なるものは、この扱いを根本から誤ったのである。
感性が図式で操られているように見えるのは、倫理やカテゴリーや論理が、きれいに揃ってある世界じゃなくなってるから、だろう。
世の本質が客観視できる、と思い込んでいると、図式が見えないだけでなく、神の実在は科学で証明できる、とすら思うようにもなるようだ。
逆に、精神世界において人は悪魔の奴隷であり、生まれ変わる量子の波や絶対精神の一部だ、と思い込むようにもなる。
どちらも、享有と共有の差異、論理と理論の差異、カテゴリーと範疇の差異にすら気がついてない。
主観と客観、イデアと世界、ありとなし、力と形容、ごく単純な物事のことごとくが、こうやって泥沼で見えなくなっていくのだ。
自分の自由が、自分のどうしようもない無知に由来すると、自分で理解しない限り。
論理主義のまえに虚無となって消えていく。
庭の形而上学 ブログ集積 2025年12月05日
物理力を読む、モデル 2025年08月13日
哲学概論 2-2 2025年07月16日
PR
キーワードサーチ
カレンダー
コメント新着