言葉を介した「現実への鍵」であり「実在のあることの証」でもある。
それがカテゴリー。
カント先生が、「純粋悟性概念の図式」としたものだ。
辞書にはやはりカテゴリー=「範疇」だと書いてあるが。
これはウソである。
この巷の言葉は中国政治思想の「広範九躊」から採った言葉で、修辞学の領域のモノ。 だから西洋哲学の言葉ではないのだ。
修辞学は確かに哲学より古くて、幅も、すそ野も広いが。
論議の対象が「ディアレクチーク」ではなくて、「優生学の領域になってしまう」のだ。
優生学は、あり・なし、を優劣で論じ、倫理・論理を論じ、主観・客観を直に選民思想で論じる。
だから理論の道を掃き清めようとする哲学の領域とは、出会えない。
「異なる」領野の論議なのである。
哲学は優生学ではなく、身体の数学を援用する無知の知。
倫理にも論理にもカテゴリーにも忠実なのだ。
メタバシスは、決してやらない。
無知の知は、修辞学を論議に利用するのだが、基礎には踏みつけて使わない、ということ。
ましてや深遠な政治思想による、損得勘定での基礎語彙選びなど、論外なのだ。
哲学の辞書は、哲学者が、いずれ書き直していかねばならない。
だが。
こういった「対象論議の現実の様」が、哲学の場合は特に「曖昧」となる。
それは事実なのである。
そのために「カテゴリー」があり、「倫理」があり、「論理」があるのだが。
これらが泥沼の中で見えなくなってしまっている。
これらが「ロゴスを導く図式」なんだと、広く一般に理解されていないために、現実は泥沼となってしまっている。
カント先生の言う通り、図式は純粋悟性概念(としか捉えようのない見えていない)の図式。
明晰判明な享有のあること、その無知の知から出発するのに。
歩む世間は鬼ばかり、いや泥沼ばかり。
カテゴリーといった「言葉の混乱」は、その典型となる。
「現実認識」の大事な鍵なのに、その鍵が、カギとして機能していないのだ。
それどころか、鋳造されてしまって一般に広く間違って多用され、偽物が大手を振って横行しているのである。
カテゴリーという言葉は、政治思想を含んではならない。
純粋悟性概念の領域に属する、先験的な享有物。
オイラのみに通用し、しかも経験的なものではない。
そんなものはもちろん、「存在教義のカテゴリー」といった意味には、「決してならない」のである。
ただただ人の「現実理解」の、その「認識」における、「ロゴスのカタログ」を示しているにすぎない。
鋳造されて範囲を形作るような、そういった人工の共有ものでは「ない」のだ。
人工の共有理解のそれは、「修辞学的なカテゴリー理解」、であって。
ロゴスのカタログにするには、優生学という厄介な問題を含んでいて、基礎語彙として根本からムリなのだ。
純粋悟性、でなければならない。
経験以前の、見えない純粋な悟性でなければいけない。
しかもこの図式は、ネガチブな共有品から相手できない。
存在的には、「ポシティブな享有」。
プラトン先生は、哲学における「ロゴスのカタログ」として、「存在」、「動く」、「静止」、「同一」、「異質」、などを提示した。
享有に始まる「哲学への鍵」を示したのであって。
物事や情報を共有分類する基準を示そうとしたのではない。
「享有認識」できる、「イデア的規範」を提示した、にすぎない。
プラトン先生はイデアが絡むこの世の「享有現実」をこそ提示せんとしたのであって。
政治思想を鋳造せんとかかったのでも、主義主張目的で基準要素を選んだのでもないのである。
親しいレクチャーのために、個人個人が相手できる言葉のカタログ提示し、選んだ。
それだけだ。
取りあげて、ならべてみただけ。
図式指示したのではない。
図式と言うそれはロゴスの、神々の役目であって、人のすることではない。
ましてや共有の不明な神コックリさんに委ねたのではない。
カテゴリーと類似の言葉に、<種別>、<クラス>、<種目>、<範疇>、<分類>がある。
カテゴリーは、これらにおいて、そのいずれでも、カテゴリーとしてはあてはまらないことはわかるだろう。
これらは「共有認識論議のための規則規範」ではある。
カテゴリーに似ているが、哲学のカテゴリー基礎語彙では「ない」。
これらは心構えの図式として構想した共有物であって、科学には重宝する言葉だが。
カタログとして提供された以上、共有物にはすでに見えてない下品さ、上品さがつきまとってしまうのである。
「感覚や理解上の優越」が、(見えてないが)付きまとってしまい、その基準の優劣判断に落ち込んでしまう。
これらの言葉は、どうしても優生学を導いてしまうのだ。
哲学のカテゴリーは、品位を持たず一見中性のように見えるもの、なのである。
カテゴリーも、確かに人の利用する直観的感性のもの。
その型枠ではある。
モノの型枠は、西洋では過去に「十全なモノの欠如態」として理解されていたようだ。
鍵となるべき重要なカテゴリーが、感覚や理解が欠如しているクラスとして理解されてきた。
粗野な、下品な、といった、「優生学的に下劣な意味」を持たされていたようだ。
しかしカテゴリーは、哲学において、絶対に、下劣な意味を持たないのである。
十全なエンテレケイアといった「虚構は相手にしない」からだ。
カテゴリーは、こころの型枠ではある。
だが、モノの十全な型枠といった優劣の意味を持たないのである。
しかし現実に、カテゴリーは<種別>、<クラス>、<種目>、<範疇>、<分類>といった「権能を持つ」ように思われてしまっている。
それは西洋の伝統が誤った道を歩んできたから、こういう言葉ができたのだ。
修辞学に由来する、同時に優生学に由来する、「間違い」、なのだ。
英語圏で実際に、クラスは人の行動や態度を指す。
クラス・イグノイランスは、人の無知な様を表現する。
この無知の表現に、下劣な意味が、すでに含まれてしまっている。
それは英語という、古典ギリシャ修辞学を基礎とする言語が、カテゴリーという言葉の基礎理解を誤っているため、そうなったのだ。
哲学を亡きものとし、修辞学に従って来たためだ。
これらと違うカテゴリーも、じつは中性的であっても何らかの感性的繋がりを持つのかもしれない。
しかしそれらは図式として働くので、共有の働きは常に「ネガチブ」なのだ。
そこが決定的に違う。
全く感性的に、上・下品側面や修辞学的な優生学的側面を持たない、見えない指示もの。
それがカテゴリー。
だから「カテゴリー」と特に断って呼んだわけで。
範疇などの政治思想は、これには「全然、あてはまらない」。
優生学を持つので、ダメなのだ。
優生学というのは「間違った学問だ」という認識がなければ、おかしくなる。
アリストテレス先生は、「実体」、「分量」、「性質」、「関係」、「場所」、「時間」、「位置」、「状態」、「能動」、「所動」の10個をあげているらしい。
本稿は概説でありカテゴリアイではないので、これの個々の吟味はしないが。
存在の究極のありかたということでは決して「ない」ので、「範疇された」その間違いに、ひっかからないようにしていただきたい。
特に新プラトン主義などといった宗教観に落ち込むと、この先生のカテゴリー理解は、たやすく誤解されてしまうようだ。
カテゴリーは、あくまで人個々人の「実在の証」、享有モノ。
共有にはディアレクチークする「哲学論議のモノ」であって、宗教教義のモノではない。
ましてや世間一般のものではない。
ロゴス・ミュトス的なありかたという、人の構想力を、分離してテオレイン認識できるように証してくれている、「分類カタログの反省的な再提示」なのだ。
オルガノンの規則を体現するもの、なのだろうが、もちろんこんなことは「憶測」で。
オクケン。
政治的世界に持ち込んだ「範囲を鋳造するものではない」こと。
図式力ではあるが、クラスでも範疇でもないこと。
あらかじめロゴの中に含まれてあるんだが、優劣示す型枠ではないこと、に注意されたい。
「優生学は決して含まない」とだけ認識いただければ、それでよい。
カテゴリーは範疇ではない。
泥沼がきれいに掃き清められたら、しぜんと見えて来るものであるはず。
共有図式なので、図式として見えてないのである。
言語を言霊と考えず、プログラムやクラス、あるいは鋳造する量子と考えることで、現代の優生学世界の世界像は出来ているが。
つまりはカテゴリーを倫理や論理と別個のモノとして考えることで、つまり範疇にしてしまうことで、そうなって、誤って見ているのである。
カテゴリーは、イデアや倫理や論理と同じく、何度も言うが、享有のもの。
まり哲学用語である。
共有論議の範疇として扱いたければ、ヘラス語の「カテゴリー」ではなくて、「ギリシャ古典の範疇」と言うべきで。
共有論議の下品なクラスとして扱いたければ「クラス」と言うべきものなのである。
「付録」
享有のカテゴリーではないが、類似品の共有のクラス概念が面白いものなので、付録的に採り上げた。
この概念は米国の、特にコンピューター用語として利用されることが多い現代用語。
客観的「共用の型枠」を意味する。
感性の型枠ではあるが、その意味は隠れてしまっている。
1組、2組、あるいはA組、B組といった、あの馴染んできたクラスのこと。
馴染めなければ登校拒否となる。
共用品なので上品、下品を、知らずにどうしても含んでしまうのだが。
プログラムのインスタンス・コピーには欠かせない概念ではある。
ループ作業の中で型枠を利用して、まったく同じ対象ものをくり返し作るには欠かせない。
みえないままネガチブに働いて、オブジェクトを創り出す。
まるで図式さながらに働くというか。
この「クラス概念」は、コンピューター世界の「人工図式」なのだ。
オブジェクト指向のデーターベース理念として一時もてはやされたものであるが、ポシティブな現実世界の享有には、無意味な代物である。
**ここまできて、第一章の表題がほぼきまってきた。
第一章は「泥沼」。
未だ提示していない泥沼の最たるものは形而上学だろう。次回はそれを扱いたい。
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