アホなおいらが口挟んでも難しさは改善されんが。
先験的誤謬とは何か、どうして誤謬がダメなのか、そこのところだけを簡単に概説したい。
<形而上学における先験的誤謬とは、何か>
先験というのは、経験に先立っての経験枠の、あらかじめ構成、ということ。
人工の図式形成構想みたいなもんだし魔術に似ているが。
ちがう。
超越ということではないので、絶対に間違わんように。
なので、そこのところ、つまり宗教教義との選り分けての理解、が大事になる。
飛び越えての無視利用ではなく、先立っての枠構成構想的参与。
そこに誤謬がある、つうことが、先験的誤謬。
経験は、おいらたちの日常にとっても大事な出来事だが。
自動で行われるように見えて、この「先験枠作成次第」で変わってくるところがある。 宗教の泥沼が入り込むと、この経験がカルト化されて、見えなくなる。
だから宗教では哲学はダメなのだ。
教義に囚われて奴隷となり、経験が自由享有の経験ではなく、組織共有の泥沼教義に溺れることとなる。
おいらたちの日常的ありかたの本質は、自由である。
「自分享有」に由来して人はある。
エゴ コギト エルゴ スム。
この享有時空ゆえに、オイラたちは・・・であることの認識ができている。
誰にとっても、それが基本で、その上の共有社会のはずだ。
ロボットや神の奴隷ではない人間、なんだから。
人は、自分の時空を自由に体験し、それを経験として知識化したり感性化したりすることで、特有の有を創り出して享有している、とみなすこともできるだろう。
経験というのは・・・がある、ということの知識化、技術化、その記憶準備などの心構え化である。
これは、おいらたちの生きている日常の、「自由」に由来している。
自分自身が生きている、その事に由来するんであって。
宿命や、持たされた死すべき本性に由来するんじゃない。
「宿命」があるだの、「予定」があるだの言うのは、カルト思想に囚われてる宗教家。
確かに命は、神々からのさずかりものとしか言いようがないのだが。
自分にどうしようもないその、「共有時空の不自由」に由来するんじゃない。
優生学が関係するんじゃない。
「自由に」、さずかりものをどうするか、が関係する。
おいらの享有判断が関係する。
共有は常に、ネガチブなのは間違いないんだが。
享有は常にポシティブである。
あくまで自分享有の「ある」ことに由来し、関係する。
これは固有・享有の、自分の身体が、その「命に由来する」ということでもある。
命が、「ある」ことに由来する。
自分にどうしようもない、自由にならない共有時空の解釈や解決策として宗教が見出されたのであるが。
これがまさに「先験的誤謬でできた教義」なのである。
宗教は、経験的に認識するのでなく、経験に先立って、その認識をあらかじめ決めてしまい、先験的な「教義」として受け取るからだ。
つまり宗教と言うのが、そもそもイコール、先験的誤謬の「典型」を示しているわけで。
経験に先立って、しかもそれを無視し超越して経験までをも形づくろうとしている。
先験を創り出しておきながら、意図して見ずに、奴隷的経験枠へと誘導しているのだ。
なぜ誤謬と言うのかと言えば、その宗教行為が、・・・であるという享有の道を、誤っちょるからだ。
共有にしてしまって、誤謬に落ち込ませて、ワヤにしちょる。
そのうえ、羽はやして診断させて、騙しの予防措置にしている。
(おいら、宗教的な物を全否定してるわけじゃないが、宗教カルト行為は今は全否定する。)
臆病なはずのおいら自身が、騙された予防接種でガンにヤラレた事実がある。
未だ生きてるので、患部の外科手術は有効だったのだが。
予防的に勧められた全摘出も、これ選んでたら多分、もう死んでた。
今や、予防・防疫思想のことごとくは優生学だ、ということも、少しづつ自分でわかってきた。
世間的にも、予防接種が超過死亡招いてる事実が、わかってきてる。
マスゴミはだんまり、だが、論文山のように出てる。
宗教カルト社会では、教義内容経験してないのに、あらかじめ経験してることにされてしまう。
だから、防疫思想と宗教は、同じ事態になるわけだ。
個々人は享有なのに、共有の身体ごと教義でコンクリート詰めにされ、殺される。
宗教では、自分の経験に先立っての共有時空があることになっちょるわけだ。
ネガチブなのに、あるんだという。
自分の「免疫に先立っての免疫」が、ムリヤリ人工的に「ある」ことにされる。
予防接種などは、まさに、これ。
これは享有の自分固有の時空が、ワヤにされて。
別の共有時空から、えらばれし有が「悪魔的にやってきちょる」わけだ。
一神教的な宗教行為と同じ事態で。
必ず、悪魔が参与する。
人は享有経験で学ぶ「生き物」であって。
生き物を「超越した精神」の奴隷じゃないし、共有の先験教義の奴隷じゃない。
ましてや悪魔とは無縁なはずだ。
人の経験は、共有の有から彼が選ばれてそうなると考えるこれは、実は優生学なのだ。 優生学は、奴隷主義であり、必ず「選ばれし者」の主張となる。
つまり食物連鎖で、人間が上位に立つのは唯一神の授けた宿命だ、と考えるわけだ。
この考えは、「時空関係」をまちがえちょる、のである。
享有してるはずに時空が、共有になっちょる。
享有無視のおかしげな魔術的共有思想なので、ダメなのだ。
それだと「自由な時空を滅ぼすことになる」んだし、経験も個人的な意味を亡くすだろう、とオイラ言っとるわけだ。
オイラが言う、この「享有自由」と言う考え方に立つと。
逆に神から形而される認識が、あらかじめ「享有時空次第」となってしまう。
共有依存が、陰謀が、すべてことごとくワヤになる。
つまり、ご破算になっちまうんで万々歳だ。
またまた逆に「優生学宿命」に立つと、それはカルト教義なので、人の一生は「選ばれし者の惨めな宿命」と化すわけだ。
偶然性選択の余地が消え、生まれつきの身体にのみ囚われた、奴隷的生涯という考え方となる。
「享有の自由」は、「優生学の選ばれし者」と、まさに対の関係にあることがわかる。
共有優生学はしかし、必ず競争相手の他者を「殺すことが目的」。
優越することの追及に陥るからなのだ。
これを、優生学を、間違った思想だと認識しないといけない。
そうでないと現代みたいに、悪魔達がいっぱいできることになる。
享有自由に立つと。
今度は唯一神から啓示されてたはずの、「形而上の知恵がワヤになる」のだ。
捕まるべきものがなくなり、すべてがあいまいになり、奴隷は不安に落ちる。
つまり「自分で自分の自由を選ばねばならんなる」、どうしていいかわからんなるわけだ。
生きることを選ぶのは、優生学だろうか?
違うと思う。
自由が選ぶ。
認識を司る神が唯一の神だと、道を選ぶのにどうしても二個できてしまうんである。
イエスかノーか、になる。
神の奴隷か、神と無関係の(悪魔的)自由か。
しかし生きることを選ぶのは優生学じゃないつうこと忘れてる。
そもそも神々は、唯一じゃない、からだ。
唯一の判断という、基礎認識が、あらかじめ誤っっちょるのである。
それをまさに、「啓示された基礎認識の誤謬」というのだ。
神々は、オイラたちの認識以上の、何かワカランもの。
それを解り、プラマイの二進法にしてしまう「神の認識への間違い」が、形而上学の誤謬であり、その原因なのだ。
人の拠り処となるのは、自分の身体という十分理解できんワカラン時空であって。
享有の一意なるイデアなんぞじゃない。
イデアは、先験的な命題ものであっても、共有を含む十全な「もの」なんかじゃないからだ。
つまり自分には、自分の身体という「明晰判明な享有宇宙」しか「ない」のであるが。 それは当然神じゃ「ない」。
ない、と、日本語では<否定形で共有論議に示される>が、これは享有では「有」ということなのだ。
この日本語用法に慣れることができん一神教徒がいるようだ。
死すべき者の認識にすぎん、ありてある(人の側の)もの。
ありてある明晰判明なものは、曖昧な形而上の誤謬認識が生み出した時空を、反復認識しちょるにすぎん。
つまり形而上の先験的誤謬がもたらす、ありてあるものに関するカルト優生学なのだ。
有が非十全なままに、自分の身体という明晰判明な「享有宇宙」を示すんだが。
これを「啓示された学問体系」に仕立ててしまい。
優生学やって絶対の信頼を置いたのが、「形而上学」という「修辞上の基礎項目」。
実際には十分理解できんワカラン時空なのに、それを、啓示する自分の感性を、信頼する基礎に据える。
しかもその事実を、カルト導入で忘れてしまう。
そんなんでは、これじゃダメでしょが。
自分の身体あっての、そっちが先の自分なのだ。
認識や精神は、肉体に宿って後の認識や時空精神。
肉体の無い電子判断機能は、精神とは言わん。
しかしデジタルカルト者は、精神が先だと言うのだ。
実はそれが享有者として「ある」、ということなんだが。
共有のネガチブを「ありてある」唯一神とみなしてしまう悪魔は多い。
同時にその身体の自由あって、自分が共有している諸々の宇宙も、同じ認識上にあるわけで。
これまで感性の中に見出してきた拠り処となる時間・空間は、すべて「自分固有の身体認識」である、ことがわかるはずなのに。
自分が共有し属している宇宙そのものが、実際には有限な自分が享有する自分の身体というもの。
ほんまは有限な、ちゃちな不可解ものだ、とわかるはずなのだが。
これを共有論者は認めない。
それが普通の世間。
だから世間には悪魔が溢れる。
対象化すれば神々の恐ろしい力ともなることも。
宇宙の法則だの神の世界の規則だのは、ぜんぶ、人の「死すべき身体の、ちゃちな時空認識」がオオモトである。
オルガノン幻想などは、そのチャチな時空をもとに、共有としての否定命題へと悪魔的にはめた、未知の対象への先験的享有認識がもとで。
かような形而上学的幻想を認めるのは無謀だと、わかるはずなんだが。
感性的認識が、その時空を「理解可能」にしているわけで。
理解できなければ、そもそも認識もないわけで。
自分の「自由」が、自分の「認識」のモトにすぎないのに。
そもそも、「自由」でなく、「カルト」にしちゃダメでしょうが。
おいらが宗教はダメというのは、こんだけの些細な事言ってるわけで。
「啓示され形而された宿命」なんぞが、いかに無意味なものかが、わかるだろう。
その啓示され形而化された宿命の、(あらかじめ誤った、享有が見えてない)認識に基づく宗教的学問。
それが形而上学である。
先験的誤謬が、この形而上学には必ず、付きまとうのだ。
人は共有啓示(形而)下に生きるだけの存在ではなく、享有者で「ある」。
明晰判明なくせに、自分が不可解な存在でもある。
形而上の存在に頼ったり、運命に頼ったり。
カルトに頼ることは、ことごとくあらかじめ誤謬していることがわかるのである。
この「形而」、ということの解釈が、いろいろ出来るので戸惑うが。
人の認識上に、<見えるように啓示される神からの宿命指示図式>、だと考えていい。
共有認識に基づく優生学的判断なんだと。
これは誤っちょるわけだ。
要は、図式を人の側の「命の機能」と見ずに、唯一神からの「命令図式」と見る。
人生の実質内容と見ずにプログラムだと見る。
その誤ったオルガノン認識とする学問が、形而上学なのである。
そしてその誤りは先験的なものなので、普通には見えてえへんのである。
ところで、世には宗教家でないことを主張する一神教カルトもいるので、注意がいる。
彼らの多くは「無宗教」を主張したり、自分が神や絶対のものとの仲介者だと主張する。
おいらの親父も実は、「無神教」を主張する一神教徒だった。
神々をも認めん、立派な教育者でだったのだが。
どこかヘーゲル主義者に似ていた。
まあ、普通は倫理観の無い、つまり自分への反省的思惟の無い「詐欺師」連中が多いようだが。
無神教徒の心情は複雑で、わからん。
彼らは大概自分独自の形而上学を立てる。
但し、破綻してないと主張のものを立てる。
人の立てる形而上学は、先験的に必ず誤るのに、それが誤っていないとする。
この典型が、二進法の科学技術絶対主義者たちである。
この連中がヘーゲル主義と結びつくと厄介、つまり厄災を介入させてしまう。
誤謬していないと言う二進法、デジタル頭の人は、必ず、ライプニッツの形而上学を上げることが多い。
形而上学に説明破綻はなく、すべてに説明がつくと言う。
これが間違い。
すべての人の認識つうのは、必ず、どっかから見てる神がおるんやろ?
そこが破綻点なんや。
ライプニッツの形而上学は、どこか天上で未知の「隠れカーネル」が、必ず支配し采配している。
古今の西洋哲学において、本物の形而上学はすべて、あらかじめ破綻していて。
そのうえ宗教の泥沼にはまって、見えんなっちょる。
それで正しいのに。
なのに、その破綻を基礎に踏みつけにして。
科学技術を仕立て、信仰を仕立て、日常の自らの身体をも仕立てている。
そりゃだめでしょうが。
基礎の破綻を忘れちゃいかん。
信仰教義が、その破綻をカルト化して胡麻化すのだが。
それは必ず「形而されたもの」として胡麻化すのである。
これ、「啓示された」を。
「天使が現れて示したんだ」と、とんでもないウソをつく。
世に完璧なオルガノン(論理学)などはないし、完璧なエステチカ(倫理学)もない。
そもそも論理は理論にせんと見えんし、倫理は道徳にしないと他人にはワカランはず。
それどころか、これらが生命に由来すると言う、その基礎をも胡麻化すもんで。
論理学は自分の基礎である身体の時空定義を見失い、へんな虚無主義論理学となったし。
文献学にはその基礎となる享有が居(要)るんだが、それもとっぱらって中性のデータにしたがるし。
倫理学も、倫理が享有への力であることに気づけない人々が、感性美学エステチークやってる始末。
優生学に基づいてるが、それ隠してヘルスセンター経営してるようなもんだ。
死体の山ができる。
<どうして誤謬がダメなのか>
これは、なぜ盗人(ぬすっと)がダメなのか、みたいな同義反復論議になる。
だから命題を、主張して繰り返すしかない。
享有の、「ある」生命「論理」を逸脱し、生命「倫理」を外れているからダメなのである。
ウイキは、形而上学を認めない立場として。
1実証主義や不可知論の立場から見て、客観的実在やその認識可能性を認める立場。
2ヘーゲル・マルクス主義の立場から見て弁証法を用いない形式的な思考方法。
を上げているが。
これは論議を進める自分が神となって、虚無主義の立場から悪魔的に世界像を描いている(と思い込んでいる)から言えること。
論理や倫理を超越している認識がある、と思い込んでるから可能な事。
どう見ても享有哲学から言ってるんじゃない。
つまり「形而上学の完成系を虚無を支点に悪魔となって置いているから」言える立場だ。
自分が悪魔判定者であることの表明なのであるが。
悪魔的判定者が見えちまう。
そないな論理や倫理を「超越している認識」など、ありえんからだ。
世界は、世界像化して客に仕立てんかぎり、客観論議の対象にはならんのである。
その世界像を啓示(形而あるいは掲示)するのが形而上学なんで。
「ダメなもんを、ダメなもんとしても、一応見せん事には、論議が出来ん」わけで。
だから放蕩児デカルトは、あえて「ダメな形而上学」を提示したんである。
火あぶり刑の危険から逃れるためにも、必要な措置だった。
だから、わかってるひとに大うけしたんだが。
これ、わかっちょらん人も多すぎ。
つまり明晰判明な、「ある」ことのううちにある享有論議から始めんことには、いかなる論議も始めらんのだが」。
(つまり文献学的中性なんてのは、金輪際ウソ八百なんだが)。
盗人に論理も倫理もないように、「生命論理」と「生命倫理」は形而上学として外せんものだ。
どうして誤謬がダメか、と言う問いは。
問いの「誤謬の内に消えるしかない命題」なのである。
ワカランからだ。
そして誤謬があることを解っていながら、その誤謬に従うことは、本人がウソつきの詐欺師だからなのである。
おいら、「悪人を自覚してない宗教家は詐欺師だ」、と言ってるわけだ。
宗教と違い、哲学は享有論議であるので、この懸念はない。
ディアレクチークは、親しい者同士のみの、ある種の「詐欺的馴れ合い事態」とは言えると思う。
これが共有論議の科学技術となると、決定的に違ってくるのだ。
「本物の詐欺体系」となる。
つまりニュートン力学と言う嘘に基づく詐欺、アインシュタイン物理学という嘘に基づく詐欺、ハイゼンベルグ物理学と言うウソに基づく詐欺。
科学は「そこそこの」ウソだ、と理解している人は多いし。
それはまったく問題ない。
うそつきでないひとなど、世にはいない。
仏ですら方便使う。
ただ、ウソに嘘を重ねて新理論が出来ていくのが科学技術だ。
それが大問題なのである。
統一場の理論があるはず、と思い込んじょる科学絶対主義詐欺師者も多いってこと、これを危惧して言ってるわけだ。
客観論議の科学的立場の「基礎」には、世界像的「形而上学に基づく嘘や詐欺が」あるのだ。
オイラたちの現代認識の基礎にあるのは、科学技術。
それは、その基礎に、形而上学を踏みつけて、できている。
つまり、微妙な「先験的誤謬やウソ」の上に成り立っている。
オイラ、そういうバカバカしい話をしてる、わけだ。
「形而上学は哲学的方法に基づいた研究であり、物理学や心理学や生物学といった科学的方法に基づいた自然諸科学や、特定の聖典や教義に基づいた神学と区別される。」
とウイキは言うが。
知識や理論に基づく限り、区別なんてないんだよ。
その哲学からして、ハナからウイキは修辞学と間違えとるし。
自然を対象に置く諸科学というのは、わけのわからん対象物を勝手に細分化してこさえる。
「嘘つき詐欺師の学問」なのだ。
いや、学問ではなく。
むしろ技術という、マシーナリー・テクニークだし。
その基礎となる部分にある宗教は、ぜんぶ教義カルトにすぎんやろ、とおいら言ってるわけだ。
形而上学の先験的誤謬という問題は、バカバカしい話だが。
じつは超深刻なのである。
これは、ヘラス文化を無視して古典ギリシャ文化を作って、それを世界像の基礎としたそこに由来し。
その誤謬がヘーゲル論理学的虚無主義や一神教至上主義となって、今や誤謬世界を飲み込みにかかっているからだ。
享有論議であれば、個々の形而上学の破綻で済むという簡明な問題なのだが。
そこに「他者の、客を持ち込む共有論議」となると。
一神教至上主義は、グノーシス主義や悪魔主義となってしまう。
世界を、ともに破滅に向かわせねば気が済まなくなる。
優生学の奴隷に堕ちる、からだ。
あなたに事の重大さが見えてるだろうか。
たぶん、オイラにも、まともには見えてない。
スマートシティ作りたいからといって、反対する地権者たちを、山林ごと焼き討ちして済むと考えるような、そんな簡単な問題じゃないってことだ。
** 第二章は、共有と享有問題をさらに掘り下げて、泥沼清掃徹底していきたい考えているが、変るかもしれん。
科学技術についての清掃作業もやりたいので。
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