種族は日本人だったが。
新羅の長い支配下で、政府機関は腐っていた。
日本の下請け財務省が、米国の組織に特別会計のお伺い立てて天下りで暮らしていたような、惨めな状況。
汚い種族の地が出ていた。
すでに百済と取り引きして、仲間を売る裏切り者も出ていたのだ。
そこへ過去の総大将が突如、百済軍の包囲を突破し。
大量の糧秣とともに帰って来た。
これで下っ端の士気が上がらんわけはない。
だが命令を聞いて、腐った指導者層は絶望した。
地下から沸いたような女将軍は、彼らに総退却を命じたのだ。
「十分な糧秣はここにある。」
「しかし汝らの正面の敵は、百済にあらず。」
「百済の敵は秦軍が葬り去るだろう。」
「汝らは、まず生きよ!」
「生きとし生けるもの全員、ことごとく兵士となれ!」
「一丸となりて、扶桑・蓬莱の新天地へと転進すべし!」
冥府の太陽、地下女大将軍である宝姫は以後、斉明帝となった。
そして彼ら阿羅族と運命を共にしたのだ。
日本を攻めた連中は、シウシン族と呼ばれる百済の倭人だった。
多くの城が落ち、阿羅は特に酷かった。
みんなが日本府へと逃げ込んだため、食料確保も、満足にできてないままだった。
もはや首都も包囲されており、裏切りも頻発し。
そこも陥落滅亡寸前だったのだ。
だから、月から帰って来たような女大将軍の命令に、彼らは黙々と従った。
動けるすべての阿羅人は、付き従うしか、生きるすべはないのである。
赤ん坊さえ兵士となった。
しかし動けない病人や足手まといとなる老人は、ことごとく自害して果てたのだ。
敵にやられた時より、ずっと多くの人が死んだ。
これは日本人にとって、ナラヤマの大悲劇、だったのである。
姥捨て山の悲劇といっても、ピンとこない人もいるだろうが。
悲惨そのものである。
描きたくもない。
しかも、だれも思い出さない。
思い出したくないからだ。
全員が一心に、この出来事を、きっぱり忘れようと務め。
本当に、きれいさっぱり、すっかり忘れた。
日本人は熱しやすく冷めやすい。
忘れるのは得意なのだ。
やがて新羅秦軍の反攻が始まり。
ナラ(ナラもヤマも国を意味する)からの撤退は、新羅海軍、つまり金管加羅や耽羅(田村)、そして阿羅の残存艦艇も動員し、滞りなく実施された。
膨大な物資が積み込まれ。
宝姫が金ユシンの父親と、いちゃいちゃしていたとされる金管加羅では。
一行に、二人の幼い人質も加わって、順調に推移。
長期に渡っての大航海の後。
難波津への、敵前上陸が敢行された。
斉明帝に抱かれた金ユシンの子と。
手をひかれた、まだ幼い金多遂。
二人は新羅の人質であるが、彼ら全員が家族なのである。
家族は、耽羅(田村)の星主を従えて上陸した。
国民皆兵日本人の総退却は、ここに総転進となった。
以後おいらたちの辞書から「退却」の文字は消えた。
百済の種族とは血筋関係も近いので、対百済戦に阿羅人を使うには具合が悪い。
裏切るやつも、今後大勢出るだろうと踏んでたのだろう。
宝姫は、彼ら日本人を一人たりとも半島に残すつもりはなかったようだ。
居残ろうとするやつは当然いただろうが、秦軍に殺された。
そのため、伽耶文化の中枢国家であった小国日本が、スッパリと半島から消えた。
ホンマにものの見事に、いっぱいの古墳群を残してきれいに消えた。
教科書は、やはりこれを、まったく説明できないのである。
やがて伽耶の倭人文化そのものも、半島からはことごとく、きれいさっぱりと消えていくのである。
筑紫の倭人とは話がついていた。
四国の阿波勢力などとも、なぜか紛争の跡などはまったくない。
彼らは錦の御旗を持っていたからだ。
それは辰王の、つまり倭国王権の象徴でもあった。
淡路島を拠点に、まず難波津に強行上陸。
上陸地点はたぶん、現在枚方(ひらかた)の地の、星が丘。
小国日本の上陸地点として古い伝承が残るのである。
田村の星主の、第一上陸地点だ。
日本海の若狭側から、やはり強行上陸して南下する、新羅大伽耶や多羅などからの別動隊もいた。
ともに、本州近畿北部にいた百済、高句麗勢力を一掃。
斉明の日本軍は、まず真っすぐ生駒をめざし。
ついで新しい「ナラ」の地の奪還を目指したのだ。
中京方面からは、秦軍が、奈良を目指し攻め上る。
彼らは三方向から、百済・高句麗勢力を包囲し駆逐していった。
猛烈な戦闘が何度も、特に大阪平野の正面で、あったようだ。
しかしこれらは、もっと古い時代のものとして偽装されている。
聖徳太子の戦争物語が、事細かく描かれている。
しかし住民の懐柔も、阿波との進軍経路となる河川の改修もすすみ。
結局、明日香板葺きの宮が立てられた、のである。
新羅勢力による制圧は初めてではない。
なので、農民百姓の抵抗は少なかったようだ。
土地なども強制徴用だが、接収ではなく、食料に拠る買い上げという現地人優遇政策だったらしい。
飢饉時だった当時は、これが大きく利いた。
板葺きの宮を建てた工事の総責任者は、未だうら若い、金多遂だった。
彼は、自分の役職と、この多遂名を、ちゃんと日本書紀に伏字で書き込ませている。
別名を、大海の皇子といわれた人物。
後の天武天皇である。
難波津には、抱かれた金ユシンの子とともに上陸したのである。
激戦の日々だったようだし。
半島とは環境も違う。
寵愛されてたユシンの子は、現地で日本語も覚えぬまま、早く亡くなる。
だが、後釜の子も、ユシンからすぐに送られてきているのである。
倭人・秦人の伽耶姫が、彼ら阿羅人、つまり日本人の危急を救った。
懐柔のため新羅から送り込まれていた新羅聖骨の女王が一度死んで、大活躍したのだ。
過去に書いてた内容だが。
この歴史は、「宮内庁の図書館に、新羅文書として眠っているらしい」。
そのことも書いた記憶がある。
ホンマにないのであれば、オイラの妄想で終わるものなんである?
いいや、日本は、必ずどこからか列島に上陸して、政権捕ったのだ。
でないと、今日はないはずだからだ。
宝姫は、日本の伝承にある「家具屋姫」である。
伽耶姫でもあり。
新羅女王トンマンとなって、これが皇極帝。
さらに地下女将軍となり、斉明となったのであるというこれは妄想なのか?。
残されている系譜には、矛盾する偽装が多くある。
その日本系譜にある宝姫の、父ではなく、祖父のほうが、チヌン大帝。
また日本の文書では、チヌ王となってしまっている。
難波の海に、かけて、胡麻化してあるのだ。
宝姫の新羅血筋、王家の母方は、秦人。
つまり阿羅人ではなく、秦氏だ、ということ。
だが、養子となった子のチヌン大帝から先は、新羅王族は半ば倭人。
新羅配下の任那日本府で育ち。
跡継ぎがいなくなったため、新羅ソラボルの女王となっていたのだが。
死ぬ必要が出て、偽装で死して。
冥府の太陽となり、日本軍を率いて列島侵攻し、斉明帝となったのである。
これまでの説では、史実とぜんぜん付合せず、なので、一切説明できない。
それは、明日香出土の庭園跡地の説明ができんだけでなく。
斉明亡き後の、次の天智帝についても一切、できてない。
天智帝は特に、その墓はちゃんとあるのに、本人がそこに埋葬されてない。
その点も、どうしようもない。
10万もの日本軍があった、そのことは事実だが。
半島まで出兵の事実はないのに、新羅征伐にでかけたことにしたりするのが、へんな説だ。
一方、この時期の、天の王朝皇太子である倭人の主は、このとき新羅正規軍である秦軍を率いて、対高句麗戦に従事していたのである。
金ユシンは、最初から新羅人で倭人だが。
日本人であったことは一度もない。
達者な和歌を、斉明帝とやりとりしてもいるのだが。
この時期、多くの新羅人が漢字やひらがなが使えた。
そして唐系倭人や百済人が、後にカナ文字を必要とした。
超絶官位を持つ金ユシンは、列島には一度も足を踏み入れることなく。
斉明亡き後、なんと7年後に。
半島で、天の王朝の天皇として即位した。
超絶官位を得た、わけだ。
彼は、自分が総代表であった倭国の国号を、聞かされていた通り日本とあらためた。
そしてあらたまの天皇制度の内に、引き上げた辰王権を封じ。
そのまま半島で崩御したのである。
半島の新羅王位は、トンマン女王の死後4年もの空白があった。
普通では、そんなことしないでしょうが。
天智帝の場合、なんと斉明の死後7年もの空白だったのだ。
もちろん金春秋の場合、女王は生きてて日本軍を率い、列島で斉明帝として軍事指揮し活躍していた。
その事実を知っているので、金春秋は即位なんてできなかったのだ。
斉明から、即位すべしと命令が届いたのだろう。
唐はもちろん金春秋の新羅王位継承を認めていて、「早く即位しろ早く」、と催促していたのに、即位しなかった。
天智帝のほうは、斉明の死を、事情知ってる者から聞かされても、たぶん信じなかったんだろうと思う。
それが7年もの空白となった。
天の王朝での、金ユシンのその地位は、新羅王の上だった。
彼の、その超絶官位についても、教科書はまったく説明できないのである。
超大国の王の上の、天皇と聞かされても・・・。
列島では、高句麗、百済、新羅、筑紫、日向、などの各王権が、出雲王権や東国の越や日高見など、あれこれいっぱいある諸王権とともにヘプターキー症状であったようで。
これについても、これまでウソが信じられてきた。
強力な倭王権といったものは、斉明帝が倭国軍として10万もの日本軍(たぶん、これで部族全員)を率いてくるまで、列島ではなかったのかもしれない。
そこは知らない。
日本軍がナラに入って初めて、復興した倭国、天の王朝が機能し始めた。
新羅国ではなく、倭国が復活したのだ。
しかし軍隊だけの、しかも列島では、日本軍は絶対少数派であったために、他の倭人や秦人諸国などともはかり、合議制で事を運ぶしかなかったようだ。
日向勢力は、反乱こそ伝わってない(偽装で反乱時期がずらされている)が、たぶん列島への入植時期が違う、阿羅族連中だろうと推測。
彼らは斉明帝を、「種族が違うやんけ」と、辰王として認めなかったのではあるまいか。
特に斉明帝は明日香制圧後、最愛のユシンの子が亡くなって、心が潰れて引き籠ってしまってた。
というのもあるようだ。
初期に露骨に軍を編成して敵対していたのは、たぶん出雲王朝や河内王朝の物部氏などだろう。
彼ら「神」派は、コテンパンにやられて、「神仏」を持つ新勢力に従った。
そしてやがて唐軍の百済侵攻、大国百済の陥落が伝わって。
そののち、斉明帝は喪から甦るのである。
日本書紀が、百済目線で描かれている。
そのため教科書では、白村江の戦いが、筑紫軍を率いての唐軍相手の百済復興戦争ということになってしまっている。
だが、これ自体がたぶん、大間違い。
実体とは違ってズレてるのだ。
これは筑紫の倭人が、飢えで滅亡に瀕した同族救援を訴え、そのための戦争だったのである。
「イケイケ、百済獲ってしまえ」、連中がいっぱい混ざって、ややこしくなったんだろう。
筑紫は普通なら、国をがら空きにして外国派遣軍など出せるほどの勢力ではないんだが。
しかし日本軍が、「後詰で10万もの出兵を約束」した。
そのため、5千の尖兵軍を出せたのだ。
しかししかし、斉明帝の狙いは、まったく別のところにあったようだ。
教科書どおり荒海を渡り、筑紫は百済に5千の軍を送った。
これは倭国の「天の王朝の軍」として出した。
つまり斉明帝の軍として、民の「救済」のために送ったのである。
つまり百済人救済が目的なのである。
だが主戦派の連中は、百済「王国復興」の軍だと思い込んでいた。
教科書も、その説なのだ。
しかし百済王子は百済に入ってがくぜんとした。
新羅とは、決して事を構えてはならないと聞かされ。
最初から百済人の「倭人救援が目的」だったのに、イケイケ連中が結構多い。
現地では、百済復興軍の指導者を次々と切り捨てるはめになったし。
併せて、筑紫のイケイケ派も唐軍と企んでハメて、大勢殺させた。
現地での、彼の陰謀が絡んでる臭い。
かき集められていただろう百済兵士には、食料を持たせて故郷に帰し。
新天地を目指すモノは、船に乗っけた。
最後は全滅?
ウソやろ。
敗北、敗北、全滅、全滅、と叫びながら、百済人大勢乗っけて帰って来ただけやろ。
多くの中国軍輸送艦で。
主戦派ハメ殺しの、陰謀戦闘があったのだ。
倭人の唐軍相手に必ず、シウシン族救済を持ちかけたはず。
一人でも多くのシウシンの民を救済することが呼びかけられ。
応じた唐軍人も、当然大勢いたはずなのだ。
同じシウシン倭軍だからだ。
最後には、現地に居た唐の中央官僚までが動き。
輜重物資400隻失う、責任取っての降格を彼は受け入れ。
百済経営はあきらめたのだ。
彼はむしろ、シウシン民族救斉の英雄となって。
二千の唐軍を率いて、天の王朝側に帰順したのでは?
長い間見失われていた辰王権が、唐倭軍にモノを言ったのだ。
筑紫軍にはなんと、倭人たちの伝承にある錦の御旗が付いていた。
だから、倭人の部下が言う事聞かん。
部下に反乱されて生涯終わるより、唐から追放されても、百済で権力者になって国の経営ができんでも、英雄になれるほうがええ、と踏んだのでは?
そしてこの、彼が率いた二千の唐軍というものの主力は、実は筑紫兵なんでは?
筑紫帰還者には、捕虜となったと自称する役も割り当てられていたようだ。
帰りたい連中が、まず郷里に帰還し。
彼らが鳴り物入りで、「倭国軍の全滅」を、一早く伝えたのである。
一方、一旗揚げんとするものは、唐海軍とともに、筑紫ではなく難波津を目指した。
二千の唐軍は、死んだはずの筑紫兵の生き残りのほうが多かっただろう、と思う。
同じ倭人で待遇はいいとはいえ、健在な故国の郷里を失ってまで、新利権を求める唐人が、そんなにも多くはいたはずはない、からだ。
里心がつく。
また不名誉な捕虜となったりした者は、倭兵の常として、郷里で敗北は語りたくないはず。
敗北、敗北、全滅、と触れ回ったこと自体が、本当は、「著しく不審」なのである。
だから二千の唐軍というのは「一旗揚げたい筑紫兵が主力」だっただろうと思う。
唐側の、本国政権側にすれば。
白村江で大勢の輜重兵が失われており、船も積み荷も、まったく帰ってこなかった。
なので、いくら「大戦勝だ、筑紫軍を壊滅させた」と、帰還者にいわれても。
ちゃんと死罪覚悟の捕虜役がいても、唐軍側では褒章などは出せなかったのだろう。
結局、中央官僚責任者の降格罷免をもって一件落着にした、あたりが真相では?。
8千人の輜重兵の積み荷は間違いなく、「百済人渡航救済の物資」に化けた。
これはしかも、百済における「唐政権による、飢えたシウシン族移民大作戦」に使われたのだ。
教科書信奉者は未だに、ありもせん要塞地帯と、その背後にあった山を探しているようだ。
それがあるはずのない、北九州に。
後詰め出兵による戦闘も、その真相は闇のままである。
物部氏押さえるためのものでもなくて、反乱日本兵に備えるためのモノだったんだが。 大将だけが死んだ。
物部氏は、すでにこのとき、斉明日本軍の配下に加わっていた。
倭国軍の各地の提督が、足しげく問い合わせで日参し。
新羅の海軍提督までが(倭国軍共通の軍艦旗を掲げて)問い合わせにやってくる。
この不審さ。
当時の関係者はみんな、???だったのだろうと思う。
そしてこの中で、斉明の突然の崩御。
これだけは未だに、わからない。
資料が一切ない、だけではい。
周辺ではUFOいっぱい出てたけど、オカルト詐欺だけには関与したくもないし。
わからん。
陰謀は、しかし詐欺の類である。
時は白村江の役の直前。
日本軍は、「負けた負けた、大将失った」と、鳴り物入りで大和に大帰還し。
その後、筑紫の武将たちの一部も、「負けた負けた、全滅」、と唐からの恩赦を得て帰国し。
その後は、大量の百済難民を積んだ唐軍艦艇が、筑紫のみならず難波にも何度も足しげく出入りし。
天の王朝には、国土に主のいないまま命令だけ来て。
「倭国の滅亡」と「日本国の成立」が宣言されたのである。
建国時と状況似てるかも。
倭王である辰王の伝統は、天智帝とともに消え。
以後は天皇制度だけが残った。
さっぱりわからん?
いや、少なくとも、大勢の日本人の命と、大勢の百済人の命が救われたことはわかるだろいう。
筑紫倭人勢力の凋落はもちろんあるが、何か、大掛かりな陰謀があったのだ。
百済人が減ると、唐軍の勢力も落ち込んで、半島での唐勢力は、その力を失っていく。
しかし2千もの唐軍は、倭人大撤退作戦の最後に、平和裏に倭国へやってきて。
金ユシンの権益の一角を、無事占拠できたのである。
彼らは列島で、主の居ない中臣氏の超巨大な権益を持つ大勢力となったのだ。
この唐勢力が、のちの藤原氏である。
実質は一旗揚げたい筑紫人が主力だっただろうが、唐海軍の倭人ということになっちょる。
そして彼らの中から、後の日本書紀を記述した学者たちが出るのだ。
主のいないまま、天智帝の崩御が伝えられたあと。
主のいないまま、山科の墓所は閉鎖され。
次は壬申の乱である。
兄弟げんかとされているこれで、金多遂の天武帝が立って。
金ユシンの息子は、新羅勢力とともに、列島から排除された。
しかし新羅国は、日本にいる「弟に朝貢していく」のだ。
もちろん、後日はだんだんと疎遠になっていったが。
壬申の乱は、一門の家族争いなので、親兄弟が敵同士になった人も多いようだ。
さらに辰王伝統は、一度も列島に上がらぬまま、日本再建国の天皇の中で、永遠に消えたのである。
さらに後の時代に、今度は桓武帝により、百済勢力の復権がなされた、ということもあるようであるが。
辰(イシン)王伝統は、復活してない。
殷の地方政権が横暴・暴虐やったため、中国では人気のなかった後期シュメールの王名表。
これも辰王統とともに、永遠に消えたのである。
おいらのご先祖も、ずっとのちの時代の、この桓武帝にゆかりの、平氏である。
三ツオモダカの家紋を持ち、江戸期に武家とも通婚の関係を持つ四国の山の中の旧百姓だった。
つまり、百済系の渡来人である。
一門は源氏に敗れて散ったようだが。
この敵であった清和源氏の源は、倭人の伝統。
新羅ではなく、倭人の源花に由来し。
源花は新羅で男色を伴うへんなもんになっていくのだが、もとは倭人の徴兵制度にからむ「女将軍制度」であったものらしく。
これが日本のモノか、倭人のものかは、はっきりしない。
伝統文化というやつは、だいたいが、はっきりしないのだ。
伽耶文化は半島では見事に消えたが。
列島で、日本文化を軸に、倭人文化の多くも生き残ったという事実がある。
扶余族の百済文化も、高句麗の文化も、新羅の地蔵菩薩文化も、ともに、列島で生き残った。
扶桑・蓬莱の地の包容力は、目を見張るものがあるのである。
郷に入れば郷に従え。
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