科学・科学技術の発祥
汝自身を知れ
無知の知
演繹構想という図式
享有と共有の違い
倫理と論理の違い
先験的誤謬
これらをどう整理していくか。
「無知の知」である西洋哲学はヘラスで生まれたが、ローマに征服されて消えた。
ローマ帝国では、古典ギリシャ修辞学という誤りの基礎ができてしまって別物となった。
その後紆余曲折あって今は西洋哲学という名にはなってはいるが、実質修辞学に堕ちているままである。
いや、まっとうな修辞学ならそれでもいいかもしれん。
修辞学どころか、優生学に置き換わってしまっているのである。
共有化、知識化されて、さらに悪魔化してしまっている。
優生学は他人の生き血を吸う、人の道を誤った悪魔の学問である。
同時に、宗教が絡んでカルト化もしてしまった。
学問の理念と学校を通じ、今日までなんとか生き残ったそれらの「事実」認識が、まず必要。
おいらたちはその哲学の歴史を、哲学史として個々の「享有哲学」から観ることができるし。
この個々人享有の「無知の知」も、親しいレクチャー(ディアレクチーク)を通じて学ぶこともできる。
そこに学校や学問が、大きな役割を果たした。
しかし優生学は個人享有の学問にまで、信仰を通じて忍び込んで来ている。
古くは新プラトン派といった悪魔派閥をつくり、最近では(数学)論理主義という虚無主義思想を、この学問に持ち込んで破壊工作をやってきた。
哲学の派閥というものは、あくどい害毒ものなのだ。
信仰に拠るカルト化と、一神教教義による「虚無主義」や「悪魔主義」が、その害毒の正体だと、哲学史を通じて確認したところである。
これらは哲学ではなくて、知識学やプログラム技術学といった優生学。
哲学は「徹底した多神教」的なナニカであって。
しかも「無知の知」、以外の教義を持たない。
明晰判明な自分から始める。
だが、客観的に見ようとすれば極度に曖昧物となるものなのである。
コンクリートの教義素材にはならない。
つまり決してカルト化されようがない。
つまりつまり、哲学は宗教ではないのだ。
無知の知の反省を勧める、「教え」であるにすぎない。
ソクラテスが始めたものだ。
享有者が、自分の無知を自分で確かめ、それを親しい共有者にレクチャーしようと努力することである。
(知識とはなりえない個人経験構築なので、しかも個人にも知識としてはとどまりえないので、オルガノンの正しい認識などは不可能。)
自己反省の思惟であるとともに。
自己を客観化して全体認識しようという、けっこう大それた目論見でもあるわけだ。
ただ、これらは決して、世界全体を像化して見回そうとするものではない。
というか、できない。
「優生学的意図を持たない」からだ。
存在の運命を見出そうだとか、宇宙の生体構造を規則として見出そうと言う、<宗教、求道の行為でもない>のだ。
ナチスは、ヴェルタイス・レーレ(世界像普遍の規則化認識)をもくろんでいたし。
世の人々に志向されるオルガノン(世界を生体オルガンとして認識する事)やエステチカ(倫理学)などは、形而上学とともに今日では哲学の目標とみなされている。
そのことも、残念ながら事実である。
しかしこれらはことごとく、哲学の道としては「誤り」の道としてハッキリわかっている物なのだ。
そもそも形而上学という問いの理念そのものが、先験的に誤りを持つ(純粋形式にして誤謬がわかる)し。
世界の全体存在は個人のものなので、世界全体存在論のような、宿命を持たないし。
そもそも個々に見まわされた世界は、オルガン機械ではない。
つまり論理的な共有物ではありえないし。
倫理も、プロテスタントのフランス人が考えるような社会的ルールなどではない。
世界像とそのレーレ(ルールの事)という、形而上に齎された理念が、先験的に「誤っている理念の規則」なのだ。
カント先生の哲学で出会った形而上学の先験的誤謬をもとに、それをまずきっちりと押さえておいていただきたい。
世界像に規則はない自由だし。
人は神ではない。
これは人の誤った認識である、ということ。
おいらたちは「有限」な「死すべき存在」であるにすぎんからだ。
この場限りの存在。
生体としても、あきれるほど精緻だが、不完全な出来損ないなのだ。
永遠の命など、どこにもないことが証拠。
それを求めて、対象認識すべき世界を像化、奴隷化しようとしても無意味である。
つまり、生まれ変わりや輪廻転生などは、仏の教えの「入り口で排除される」迷信であるにすぎん。
おいらは仏門とは無関係だが、仏教に西洋哲学の根幹とも抵触する部分はありそうだ、とは感じている。
但し、「宗教」や「求道」と哲学は、その基本からして違うのである。
べつもの。
哲学は学問であって、求道ではない。
仏教は宗教カルトとは言い難いが、有限な自分のあるものに仏の<知恵を教える>。
哲学は、知恵をではなく、自分自身の<無知を教える>ものである。
ルールや生命は、共有する部分もいっぱい多くあるが。
有限な人の倫理は徹底して、<個人享有にのみ有効な牢獄>だし。
感性的な規則制約も、そうなのである。
個人享有のものとしてあるのみだ。
共有的にはネガチブな図式となって、ない、のである。
(見えてない、だけなのか、ほんとにないのかは、わからない。)
そして哲学における明晰判明な「ある」ことの認識も、共有客観の知識ではネガチブな図式でしか伝達されない。
この個人享有においてのみ、「ある」。
これは自己完結した同義反復なのだ。
つまり「存在論」は、個人享有の感性から出るとなれば、まったくの無意味と化すのである。
ナチスが考えるような、存在者に共有されるゲシェーエン(生起)ではない、ということ。
ダー・ザイン(此処に、ある)をもとに論議されるゲシヒテ(存在論的な歴史)の意味も、ここでは一神教が入り込むことで変節してしまっている。
自分で、自分の無知であることを悟らないことには、まずなんにも見えないのだ。
西洋哲学は、この個人享有をもとに、キリスト教社会で異端児として生のび。
やがてデカルトの登場で、形而上学として発展するようにも見られた。
だが。
その「形而上学」の正教授であったカント先生が、それの先験的誤謬を見出し。
哲学はそこに深化した。
共有論議の基礎を見つけたのか、とも思われた。
しかし先験的哲学は、すぐに隠ぺいされて、観念論にとって代わられ。
以後は論理学(ヘーゲル)路線が、共有認識の主流だった。
これは哲学が哲学ではなく優生学に落ち込んでいたためである。
すべては、<享有・共有の違いを曖昧にしてきたこと>に拠る。
誤りの泥道だと思う。
感性のありかが曖昧になり、時間・空間が、感性のモノではなくなってしまっている。
享有が、そのアルケーがモトなのに。
モトを無視しては、どうしようもない。
1:だから、第二章でも、まずこの「享有・共有の違い」を徹底して整理したい。
その観念論の路線も、20世紀に入るころに怪しくなった。
特に感性論無き唯物論や、ナチスなどの宗教運動の介入で、認識の泥沼がいよいよ泥沼となって。
虚無主義や悪魔主義との関係が、モロに表に見えるようになってきた。
唯物論は「感性論が命」なのに、感受性をすら客観化したため悪魔が入り込んできた。
これは、「宗教なき一神教教義」とも言えるものの介入によって生じた害毒病気なのだ。
現実主義とも言える、誤った修辞学を引きずっている。
そのことの誤謬が、相互によく見えて来たのだ。
これは形而上学に加え、功利主義や道具主義から始まった世界像化、ゲシュテル化が進んだから、起きて来たことである。
主たる担い手は、超賢いユダヤ人たち中心だった。
泥沼の上にビルディングが立って、基礎ともども、そのビル群が見えて来たのだ。
これを指摘したのはなんと、ナチズムにいた哲学者。
ナチスの一員なのに、ユダヤ人に取り囲まれていた不可解な人。
ハイデガー先生だった。
先生はその主著で、自分の足元の誤った「基礎的な存在論」を、破壊して見せてくれた。
ナチズムの別名は、積極的キリスト教という宗教団体である。
カルト教団である。
つまりこれは、なんと宗教カルト内部からの哲学的指摘だったのである。
先生は結局、古典ギリシャからの哲学の<終焉を、宣言>した。
しかし素朴な思惟も反省も、終焉せずに残ったのである。
つまりヘラス哲学は、失われてはいないのだ。
失われ、終焉したのは、古典ギリシャ哲学と言う名の、修辞学のほうなのである。
つまり優生学のことだ。
米国風共有論議、フランス風共有論議、英国風共有論議、といった、共有論議はぜんぶ修辞学になり下がっていて。
その哲学は、なんとナチスが、その特異な感性論で個々に享有に、素朴に、復興させたのだった。
哲学者であるかぎり、聖アウグスチヌスがカトリックの基礎を作った宗教家ではなかったように。
哲学者であるかぎり、ハイデガー先生はナチスという宗教家ではないのである。
アリストテレス先生のヘラス哲学が、アリストテレス全集のギリシャ古典とは別物であることを教えてくれてたのは、このハイデガー先生である。
このナチスの態度が感性優越の傾向を持つのも、科学技術において顕著であるように見える。
英国攻撃のv2ロケットを打ち上げるにあたり成層圏をかき乱すので、自分たちの生存環境に悪影響を及ぼさないか、真剣に検討したりもしているのだ。
現代の科学技術者には、そんな発想は、ない。
彼らは感性的な生き物ではなくなってしまっているからだ。
ナチスでは、まだ感性が生きていた。
つまり西洋では、ローマ帝国時代に主流だった「修辞学」が再び表にでてきて。
アリストテレス先生以来の哲学では、なくなってしまっていた。
つまりアリストテレス全集を基礎にした、「優生学」になってしまっていたのだが。
ナチスが、そこ優生学に、独自の感性論を持ち込んで。
存在論の基礎が崩れてしまい。
「科学技術的認識」目当てに基礎建てするには、哲学という基礎を復興させるしかなかったのである。
だからナトルプの妨害に会っても、哲学が立った。
フンダメンタルオントロギー(基礎的存在論)の理念は、オン(存在)の基礎を破壊して踏み固め、始めて成り立つものであった。
科学技術の「技術的」意図も、その技術の「感性的」基礎に由来するのだ。
テクニークの語源テクネーを、マシナリー・テクニーと区別して、心構えだと教えてくれたのも、このハイデガー先生だ。
つまり技術的意図は、認識論的意図に負う、ところがあるのだ。
2:第二章でも、この「科学的認識」ということを、もっともっと整理していってみたい。
第一章で排斥してきたのは、科学的認識に忍び込む形而上学的信仰と、修辞学的優生学であった。
それにはデカルト先生の「ワレ思う享有」と、カント先生の「批判精神と自由」、そして英国「経験論と分析」が、つまりバートランド・ラッセルの学問志向などが、手引きしてくれていた。
この学問志向においては英国はずば抜けていて。
ドォウンス・スコトウス先生なども忘れてはならない。
3:その学問志向の意味で、ドゥンス・スコトゥス先生をも採り上げてみたい。
哲学は、享有論議をディアレクチークで共有へと持ち出すこと。
なので。
自分自身が、いつまでも無の彼方にわからないままでいては、闇夜のカラスだ。
認識ということには、必ず「汝自身を知れ」という、自己反省認識もつきまとう。
見ることは同時に必ず、みられること。
これはデカルト先生が教えてくれた。
しかし見えんものは見えんままでも、あんよひもが適度に邪魔して導いてくれる。
これはカント先生が教えてくれる。
享有・共有世界に見えずとも、あるのは、「感性とその図式」で。
これは時間・空間的な在り方が、人の経験を導く、ありかた。
その自由を、先験的に判断させる論理は、図式に沿ったカテゴリーにおいて、知性的な反省を通じて客観理性を見出すことが出来る。
これがカント先生の言う悟性判断だ。
この理性の「純粋な悟性概念(の図式)は」もちろん倫理的なカテゴリーの道を踏み外したら、「先験的誤謬」なのだが。
見えない図式に正しく導かれた悟性判断は、理性とも言えるべき現実のもの、なのだ。
分析は有効だし、その場の心構えもまた、心に構えた限りの時空において有効。
つまり、「あり」、「なし」を形成した実在なのだ。
これらが存在論を形成する。
4:この図式を見えるようにするための努力も必要だろう。
第二章のテーマは、以下のとおり、決まったようだが、途中で変わるかもしれん。
1、享有・共有の違いの徹底整理
2、科学的認識ということ
3、学問志向の意味で、ドゥンス・スコトゥス先生の哲学
4、ネガチブな(共有)図式を見えるようにするための努力
**
ネット表題の提示に(誰かの)切り貼りの誤りがあるので注意されたい。
たとえば「電磁波の使い方」をオイラは書いていない。
オイラが書いたのは電磁波の使い方?、わからん?部分が誰かに切り取られて消えている。
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