ヴァーチャリターは哲学の基礎の「現実」ということである。
科学の基礎には形而上学があるんだが、隠れている。
哲学の基礎には享有反省や科学的認識ではなく、「現実」という時空認識科分離された学があるという、へんな構造なのだ。
なぜか心身一体ではなく、学問なので観想され、テオレインされている。
信仰と先験的誤謬があるのは、宗教的な認識のほうである。
哲学においては「現実」とその「認識」が別々にある。
哲学における享有反省は、だから宗教を除外するのだ。
形而上学の先験的誤謬も取り去って、素朴で曖昧な自己享有へと行き当たり、「有」と「無の図式」を見出した。
倫理カテゴリーと、純粋悟性概念の図式という現実の、よじれた様を確認した、ということ。
その学的認識を、「ヴァーチャリター論議」という。
ヴァーチャリターは、中世スコラ学の精妙博士ドゥンス・スコトゥス先生が述べた理論のこと。
信仰上で学問に立ちはだかる「現実」のこと。
仮想現実(ヴァーチャル・リアリテイ)とは無関係で、直接の「現実ということ」である。
人の経験的認識は、必ず先験的認識の一意的にあることがモトだ、という理屈から入る。
つまり「認識の枠」が必要で、それが経験を導いて認識をつくる。
その、一意的にあることを得るにはしかし、感性や知性が「経験」認識的にある必要がある。
要するに、いつまでも自分のしっぽに食いついて堂々巡りしてしまうのである。
この事態をウロボロスという。
享有の・・・である、ことなしには、哲学をはじめとする諸学問は、はじまらないが。 その・・・であることを経験的に得ているのも、先験的認識次第なので。
・・・である「枠の認識なしには」経験認識ムリなので。
しかもその枠の認識は、経験を経ないと認識されない、という不都合がある。
要するに学を意識する人の「現実認識」自体が、まったくのウロボロス的なもので成り立っているのである。
真理は、経験的知識の同義反復的な、享有時空の実質把握狙い。
つまり「本質の確認」のはずなのだが。
その知識が、知識だけでは、まったくもって、なりたたんのだ。
無知の知という「先験性の部分」がなければ、バーチャリターな現実は一般的にも認識できない。
つまり哲学がないと、現実も本質は理解されない。
しかもその先験性は、経験する「感性」によって得ている感性的なナニカ。
つまり「自由に由来する」、というわけだ。
アリストテレス先生は、「享有する実在」においてのみ諸々の物事の本質が「ある」、そのことを明確に哲学として述べていた。
「ある」は、享有においてのみ言える事なのである。
実質がある、ことを述べ。
つまりオイラが「一意に観察する」ことで。
実在が、その「本質をオイラ個人に見せる」。
共有者に論文で見せるんじゃない、享有者個人に先験性をもたらすことで、まず見せる。
(もちろん、この先験性は、完璧には見えてないのである。)
ある、には「共有の部分は見えずのまま」だが。
個人の時空の一意もののみが、「現実」として、「実質」的に見えてるんだと主張し。 スコトゥス先生は、ここで聖アウグスチヌスの修辞論議を使ったのである。
「オイラが誤るんなら世界はある」。
この論議を、更に徹底したんだと言われている。
しかし実際には、ヘラス時代のアリストテレスに還っただけ、哲学しただけである。
必然的なものである(神の)被造物と、必然的なものでない(意思の)自由を、わけて考」えた、とされるんだが。
それは一神教徒特有の教義が騙らせる、ウソだ。
科分離思惟は一意であるように見えて、実は哲学的思惟ではないからだ。
哲学的思惟は、心身一体で反省であるが、科分離思惟のみではない。
一神教徒には、科分離されて、純粋化されて二元論的になる此処。
此処の、ダーで。
先生は自分の認識時空を、ウロボロス的に実質へと反転させるのである。
人の思惟が、そういう構造を持つと言うか・・・現実導入というか。
科分離認識から、一体認識への反省的思惟をもたらす。
神々の世界へ、つまり哲学へと自分享有が入ってゆくようには見えるが。
実際には、享有へと「反省思考」をしているはず。
つまり「ポシティブな有を、学問として採り上げようとしている」のだ。
これがヴァーチャリター論議ということなのである。
ヴァーチャリター論議は修辞学や神学ではなく、哲学である。
一神教の世間では、神、意思、と、存在をすべて一意に神のもとに対象化する。
そうしないと信仰が失われるし、ポシティブでもなくなる、からなんだが。
さらにこれらを神の立場から考えて、「捉え直し」、しようとする。
人の側でも、もちろん反復するのだが、それを重視する人は少ない。
これを例外的にやったのがキルケゴールと呼ばれている人物だ。
だから、享有世界に潜んだ共有は、どうしても二元論的に、科分離思惟になるしかない。
科分離思惟の共有論議では、「知性は個をとらえる」という、へんな言い方になる。
「神の一意世界から(共有)修辞されてしまう」のだ。
つまり哲学ではなくなって、修辞学的世界に堕ちてしまうのである。
これは古典ギリシャ的な認識の宿命である。
しかし修辞の前に、あらかじめすでに「認識があった」んや、おまへんか?
生まれつき信仰持つ人なんか、おらんでえ。
「自分享有」という時空が必ずモトにある、信仰の前にあるのである。
超越なんか、してやしまへんで。
赤ん坊の思惟考えて見なはれ。
その場合の知性は、「いいかげんな人の共有知性」でいいのである?
一方は必然で、他方の自由には、必然でない?
偶然が関わるように見える?。
不可解だが、ここで、共有がミステリーになって出てくる場がある。
これらは享有側からの時空認識なのに。
どうしても「共有が先験的にある」ことになる。
赤ん坊にも、必ず両親がいるからだ。
これはしかし当然なのだ、自分享有に対する「他者の神々」を、共有の神々を考えているからミステリーが忍び込むのである。
これらの問題を神学や形而上学としてではなく、正しく「哲学の問題」として、学問として追及したのが、スコラ哲学徒に愚鈍と揶揄された先生なのだ。
だから一神教的信仰を持っていても、異端思想論者として迫害された。
先生は(神の)被造物と、(意思の)自由を、一意にごった煮にせず。
分けた。
これを、「神々」、「我々の」、としてみれば簡単でいいのであるが。
西洋の神は必ず単数。
ありてある一意な同じもの。
原初の曖昧な複数系のままに、源泉注視できるんだが。
一意にするとミステリーになりようがない。
時間と空間が絡んで、わからんなる、だけだ。
泥沼になるんじゃなく、曖昧になる。
だから教義を忍び込ませて、ミステリー化するんやけど。
ここではむしろ<時間と空間の秘密>が、ヴァーチャリターが、自分の自由として不安なよじれとして浮かんでくるはずである。
「神々」の被造物と、「我々の」自由。
そういった単純明快な二元論には決してならない。
曖昧になるのだ。
源泉が、享有のポシティブさが、アルケーとして見えているだけである。
コレをオイラは、「在るケー?」と呼ぶ。
冗談やけど、真剣な問いを含んでいるのだ。
自分自身が、享有自体が、曖昧になる。
スコトゥス先生は、その「時間と空間の秘密」に、宗教的な問いを含むミステリーに踏み込んだのでもない。
時間と空間相手の思惟であるのはまちがいないが。
信仰は捨てていないからだ、が。
(先生は根っからのキリスト教徒なのである。)
決してオイラみたいな、いいかげんな多神教徒じゃないが。
そこで佇んだ、だけ。
つまり哲学した。
享有哲学という「学問優先になった」、だけなんである。
優先の「あり」に自分を選ばず、「学問」を選んだ。
先生は、存在が個物においてのみ成り立つ(「知性は個をとらえる」)と考えたのだが。
知の奴隷の意味じゃない。
先生の場合、「存在も知性も、佇みにおいては実質ウロボロス的」なのだ。
絶対に「一意で判断済み」、じゃないのである。
唯一の神と言えるような絶対精神見出してる、んじゃない。
ましてや、できそこないの神なんか絶対に見てない。
「曖昧な自分追及の学問」やってるだけ。
人の認識はそれほど、神の世界を直に認識できるほど「精妙じゃない」。
先生を精妙博士と言って、スコラ哲学派は馬鹿にしたらしいが。
しかし「知性は個をとらえる」。
つまり一意にあってこそ、みつめ(られ)る反省に気が付ける。
(これはオイラの意見)
「神と被造物とを同列の〝存在〟にし、人間が神を認識する道を拓いた?」。
と言う意見があった。
ウソくさくてバカバカしい意見だ、とオイラ思う。
「哲学の領域から閉め出されていた個物そのものについて考察することであった」、と、みなすほうが、まだましだが、不純泥沼。
先生が見つめてるのは、多様な世界ではなく、一意な「自分」だ。
汝自身を知れの、「汝自身」のほう。
しかも見つめ「られ」の、デカルトを先取りしたかのような反省的思惟の方なのだ。
自らの分言、その「自分」に由来する「自由」。
在ることにおいて、知性や絶対の神といった命題に捉われず、アルケーが「自分の自由に由来する」ことを見出した。
カント先生をも先取りしているのである。
これを(神の)原理が人間精神を創造、なんて修辞学的かつ宗教的に言い出したら。
まるで180度違う意味になってくる。
そのことがわかるだろう。
同じ、「知性は個をとらえる」の、先生の言葉の解釈である。
これが「スコラ哲学を騙る偽奴隷銘柄」と、「本物の学校」の違いである。
そしてここからが、超大事な部分である。
一神教徒では一切理解できない部分なので無視されることが多いのだが。
<バーチャリター論議>の内部に入ろうと思う。
バーチャリター論議は、仮想論議ではない。
なので、既存意見に惑わされんように。
バーチャリター論議は、認識における「実質論議」である。
ディアレクチークそのものについての思惟でもある、のだ。
バーチャルというのは確かに「つかみどころのない対象の実質的な」、という意味である。
つかみどころがなくなるのは主語の方なんだが。
共有修辞学的論議にされると、それが見えんなる。
実際現代認識が、へんなもの(リアリティというウソに)に書きかわっちょる。
そんなようなものになるのだ。
ヴァーチュで「徳」「得」を意味する。
感性の認識がもたらす智の、共有枠の、形容詞的な部分だ。
実践動詞の様態と言うべきか。
オイラたちは「個人」を騙り主張するが、他人見て、「自分も人に属するんだ」と気が付く。
その個人はしかし、オイラだけのものであるのか?
他人は無関係?ですむんか?
徳も、得も、「すまさへんで」と身構えるのである。
いいや身構えるだけではすまさへんでえ。
普遍的な個体性=「このもの性」という形で、知性(のようなもん)が把握し、見張っている」と、スコトゥス先生は、学問の立場から主張するのだ。
そこで、形而上学的「濃度差」うんぬんを主張しても、無意味なんだと。
つまり「宇宙論的意味相なんてない」んだと。
濃度差主張、個体差の主張、にはなるかもしれんが。
それは判断済の優生学思想に堕ちるということを意味する。
ましてや「時空超越して、おまはんら何スんねん」、と、エセ哲学を真っこうから批判したのだ。
だからスコラ哲学とスコラ学は、戦争状態にあったようだ。
敵が多くて、逃げ回ってた。
おいらは劣勢側だが先生側の陣営の下っ端です。
だからスコラ哲学などは、堕落したある種の修辞学とみなす。
哲学とは絶対に見なさない。
享有の個人を神から騙りたくなるおいらたちには、共有の認識が、じつは「先験的」に備わっている。
これは自分に由来する・・・である、ことの、「自由な個人認識の内に、すでに」ある。
但し、ネガチブな図式なので、そこは見えないはずなのだ。
認識の対象を選び出す、その前からある、認識の型枠様のナニカ。
これこそが「源泉」であり、アルケーなのである。
つまり哲学のアルケーは。「原因」なんぞじゃおまへんよ。
勝手にあふれ出してくる、「源泉」。
問いをも含み。
時間・空間を必ず含む。
「汝自身を知れ」は、だから知識を得るその前からある神々のロゴスであり。
哲学がそこに、その時空に「あること」を意味する。
経験的認識は、先験的認識が先行していなければ、ありえない、ということ。
そして先験的認識はまた、経験なくしては、絶対に、ありえなかった。
という、実質的なヴァーチャリター論議がある。
これは人として自己認識する上での宿命なのである。
生き死にと同じ。
人の現実の存在認識は、この「(ウロボロスな、かつ実質的な)現実に基づく」のである。
それが=「バーチャリター」という、「人の現実だ」、ということ。
この論議は、現代でも目の敵にされているらしく、意図して消されている。
一神教徒たちは、ほぼ全員がスコラ哲学派なので。
それが証拠に、この重要な語句が、ネット上で検索できんなってる。
なんと、オイラの昔の、わかりにくい混乱したヨタ話が出てくる始末。
その昔は、先輩の意見がいっぱい出て来てたのに、出んなった。
検索において、消されてしまっているのだ。
ヴァーチャリターという超重要な、ドゥンス・スコトゥス先生の用語。
これは現代用語の「仮想の現実」などでは絶対に「ない」。
デジタルなそれは全くの無関係。
そうではなくて。
「享有者の現実」である。
機械仕掛けで詐欺やって現実認識を騙すことがバーチャルだ、などと今は言われている。
ヴァ-チュ(徳)が、しかし、「詐欺」で得られたりは、しまへん。
点取り虫の高位の人が必ず持ってるとも、限りません。
仮想現実に生きる者は、むしろ現実を失うだけだ。
中世の学校の先生が述べた、「現実あり(の時空)の実質ウロボロス形容の様」。
それがバーチャリター。
これは、表現しがたい「現実」である。
その「実質」を「個物」表現する動詞形容の様。
そしてこの「享有時空の現実」を、親しく共有レクチャーするためにこそ、「哲学」があるのだ。
神を、知的に瞳着させ写し絵にするために、邪(よこしま)な目的企画して仕立てたウソの疑似哲学はある。
バーチャリターは、その形而上学の一つとしてあるんじゃない。
形而上学自体が先験的誤謬で、まちごうちょる。
しかも、未来志向のアジェンダなどとも、一切無関係。
アリストテレスのギリシャ古典哲学において「形相」や「質料」が重視された。
個物は、哲学の領域から閉め出されてしまった。
「そこに個物を戻したのが先生」、とする説もあったが。
これは、「修辞学」や「神学」を「哲学」と間違えてるだけの話。
修辞学や神学は共有学だ。
だが、哲学は必ず享有に始まる学。
ドゥンス・スコトウス先生によってはじめて、哲学史から、修辞学も神学も脱ぎ捨てられ得たのである。
但し反対派によって脱ぎ捨てられなくされた。
何度でも、これらは繰り返すべきだろう。
多くの部分を、オイラの過去の哲学史から切り出した。
超重要な部分だからだ。
学問は一意な対象を持つ。
だが、「神々は享有において一意ではない」。
だから、重要なのだ。
享有において、有は「自由」なのである。
そして哲学と言う学問は、信仰ではない。
つまり享有の「ある」ことにおいて、「神の力は立たない」のである。
仏教にも、似たような思想がある。
神々の力にも翻弄されない「貧者の一灯」。
「ポシティブな有」の「ある」ことにおいて、神は立たんのである。
そして「神がポシティブな有だ」とするのが、そもそも「ウソ」教義なんである。
神々は、共有の時空において「隠れてある」図式で関与して来る。
未知の「ナニカ」にすぎん。
「力」や「形容」かどうかも、はっきりせん。
明晰判明な「エゴ命題」が替わって立つと、共有の神々は、あらぬ彼方に遠ざけられて、見えなくなる。
科学的認識においてすらも、「神々は、ネガチブな図式と化す」のだ。
しかし「学問」は「必ず一意」なのである。
科学者に多い、「一神教無神論者の理由」がここにある。
同時に、その危うさもここに見えているはずだ。
多意に、あれもこれも、やっていたら、学問は成り立たない。
そして神々は、必ず共有の神々である。
享有者の一意の神を「信仰」と呼ぶが、信仰は神そのものではないし、仲介者メシアでもない。
そもそも神は、享有者の有とは、「無関係」なのである。
個々人の生き死にに、神は個人的に、享有的に関わらない。
関わるのは、共有においてのみ、なのだからだ。
一意ではないので、必ず曖昧な複数形で、しかもネガチブな共有の図式に属する概念命題が神々だろう。
信仰ではないので、この神々は「命題にすぎない」のである。
つまりあんまり意味のない存在。
この状況で享有信仰を捨てなかったドゥンス・スコトウス先生もすごいが、それを可能にしたのがヴァーチャリターの概念なのだ。
哲学の基礎は、この「現実」である。
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