この節では、違いを徹底して示したい。
ハイデガー先生の述べた現存在(ダー・ザイン)は、享有哲学であるので参考になる。 つまり、哲学のアルケーを明確に示す意図があって提示されている。
しかし同時にそれは西洋の伝統によって必然的に、共有における命題の提案でもあったわけで。
実在だとか、現実だとか、・・・であることの様々な側面を、修辞的に曖昧に示してもいた。
つまり哲学的意図でなく政治的意図で読めば、厄介な泥沼でもあったわけである。
享有、共有は、日本語では区別される。
ヘラスでも峻別されてただろうが、古典ギリシャでは同じもの(修辞命題)なのである。
おなじ、「きょうゆう」で区別がないので、哲学を持たない者には理解の糸口がない。
伝統上では、おいらという「主語の曖昧さの有」、となってしまうわけだ。
(実際には、共有の「無」図式も含んでいて、もっと厄介。)
これを先生は、ダー(此処)という、此処のオルト(居場所)を示し、享有時空を自分限定して明示することで、論議を明晰判明に齎す努力をしたわけだ。
デカルト的努力といえる。
一方、宗教上のプロテスタント教義は、享有を抹殺する。
意図があってのものだろうが、主語の混乱に拍車をかけてた。
ハイデガー先生はカトリック的態度ともいえるが、その宗教的態度表明は極めて「曖昧」なのである。
哲学上は、自分自身が共有論議上曖昧となってしまうのだ。
だがもちろん、混乱泥沼は嫌がる、のである。
だから教義主体の宗教的側面をあえて抹消して「有の時空論議」にしていった。
享有部分へと、哲学へと誘導していったわけだ。
宗教的態度を遠ざけて哲学的態度を示し、「存在論という感性的なもの」を表面化させていったともいえる。
ここ(ダー)にある宗教上の泥沼を、混沌煉獄の世界から追放せんとした、存在論という宗教的態度なのである。
これはナチス(積極的キリスト教)の態度ではないので宗教に囚われんように。
哲学は「明晰判明な自己享有の世界」から「のみ」、始まる。
「無知の知」が哲学の本質だから、あからさまで、隠し事もないのだ。
知識の知じゃないので、間違わんように。
なんにもしらん自分の、からっぽを自分で知る事。
ダーザインがわからん非哲学的な人は、自分の無どころか、知についても、たぶんわからんので、ここで「知識修辞学」となってしまう。
哲学とは無関係の修辞学となる。
哲学のアルケー(しょっぱな)は、しごく「明晰判明」なのである。
デカルトのエゴに始まる、享有命題なのである。
そこで(その場所=オルトで)自分自身に、反省的に思惟し、思惟の過去に徹する事のみだ。
アジェンダや空想は、一切やらない。
自分自身の政治的態度確認じゃなくて、此処にあるこの「感性の関係」に徹する事。
ハナから混沌世界に消える曖昧対象物であってはならないのである。
ところが実は、人の固有の命なんてのは、あっさり消えるものではある。
ハナから消えるんじゃなくて、終末に消えてなくなる。
自分の認識してきた「時間」・「空間」が、そこで雲散霧消して、無くなる。
エゴという主語なんて、「自分自身の内でしか完結しない」から、なんだが。
つまり自分を倫理的に完結させるから、なんだが。
享有は、「おいらの命が、ここに現にあること」だからでもある。
有と、無の図式が絡んでいるのだ。
それが「ダー・ザイン」という、あなた固有の、享有の、そして共有の時空である。
共有の時空は、同時に無の図式なのである。
知りたいという知恵への欲望があり、よこしまな心構えを持たない、ただ真似したい欲求がある。
つまり知ることへの「無の図式に突き動かされる」「ある」こと。
哲学の世界は、それだけの、小さな小さな自由がモトなのである。
享有者は、小さくて卑小な、「無知」の不安なのだ。
自分の過去はそこに、すでに、また未だ、「ない」。
そんなアホな?
ダー・ザインという享有においては、本当に、ないはず。
生まれる前を、前世を思い出してみなされ。
そないなもん、ないはずだから言える事だ。
ダー・ザインという、ここにある、そのことの場所、オルトのみが「ある」はずである。
此処にしかない。
前世の自分の過去がある、という人は詐欺師であると思う。
他人の過去ならありうるかもしれんが。
「共有を享有と取り違えている」、享有と共有の違いが認識されてないわけだからである。
自分の過去が今も此処に「ある」という人は、その「過去の奴隷」でもあるわけだ。
しがらみを、そこに囚われた過去の死体を、引きずっているのである。
人は自由が本性なので、過去をムリに引きずる必要はないはずだ。
おいらは落第した哲学という過去を一生引きずってきたが。
これは学ぶことが好きというより、常に「無知な不安定」にあるからだ。
知ることの恩寵が見えるからでもある。
具体的不安ではなく、無知ゆえの不安定が確かにある。
安心立命勝ち組の点取り虫はハナにつく。
いつも落第ばかりしてきたお仲間は多いはずだが、個々人事情は違うじゃろ。
享有は、その固有の時空への、安心立命な着地点を持たないのである。
十全には共有化されずに宙ぶらりんなので、教義カルトにも囚われない。
そのくせ、無を見出して、無の上に直接立って、有を主張しようとする場合がある。
論理にしたがる。
というよりこれが、此処にダーザインにある「無知な共有不安図示が、有と言うこと」、なのだ。
(有は不安な享有者の共有、つまり「無の図式」なのである。)
だから、この無に耐えられない人は虚無世界に堕ちて悪魔と化すのだ。
まるで悪魔の光のように、突然に自己出現し。
「不安な有」を、じつは「自己所有の永遠」を主張する。
所有も永遠も、ないんやが。
ほんまに、ないんやでー。
だから案外、享有「存在自体」が、もともと悪魔なのかもしれんのである。
但し卑小な、その場限りの、力のない悪魔だから、人畜無害。
他者人畜無害の享有悪魔。
享有は無の中に単独で立って、卑小なくせに「天上天下唯我独尊」と自己主張するのである。
但し必ず、両親はあるのだ。
これは絶対に否定できない。
(この絶対に否定できんものを教義上で否定するのがキリスト教だ。)
だからキリス教はダメだ、とハッキリ言える。
人の命は両性生殖であって、片親では絶対に生まれない。
(人工培養のクローンなら可能。)
だからクローンはダメだ、とハッキリ言える。
しかも親とは、精神も肉体も分離していて、一体感もその記憶もすでに、ないはずだ。 人は、テレパシー能力も、時空遡及能力も、「ない」からである。
経験として知識を得、過去を思い出せるだけだ。
(テレパシー能力は経験を阻害する。)
図式の働きが、ここにあるのだが。
テレパシイ「ある」、と言う人は、これまた詐欺師確定。
経験も自由をも認めん詐欺師。
生物の中には、こういった超常能力を持つんでは?と疑える種も確かにあるが、人は普通は持たないのである。
経験と自由を持ち、詐欺師ではないからである。
経験として新知識を得るようにできている。
おいらたちは「精神」や無知そのものではなく、肉体や知識を持つ精神。
受肉してんじゃない。
肉体が精神のモト。
なので、どうしても享有者として自由に孤立するしかない。
だからといって肉体をなくせば、精神も必ず雲散霧消する、享有者ではなくなるのだ。
機械の肉体を持てば、サイボーグ・ロボットと化す。
自分の此処のオルトのものでない機械に、操られてしまうからだ。
モトが、無知な小悪魔だからかも。
生まれて以降は、庇護されるべき期間は長いが、一応「自由」となる。
リバタリアンの言うような奴隷的自由じゃない。
此処にのみある、享有にのみ、「ある」自由。
それに「自己由来する」、ってこと。
だから、共有認識にかかる自己所有物は、命以外、実は何もないかもしれない。
肉体形式なんて、形式認識は享有にはないだろう?。
それ(形式)はいつも共有、無の図式だ。
享有物は、此処に命として「ある」、その認識のみがあるはずだ。
だから顔かたちとか優れた精神、といったもんは共有の図式(無)に属する。
しかし共有認識にかかる形式を形作る時空は、それも享有の「ある」次第なので。
「無」の図式指示以外に何も持たない、そのことがわかるだろう。
享有は「命や有」に絡み、共有は「図式や無」に絡むことがわかってきただろうか。
「享有」モトの反省の学問が、哲学であり。
「共有」モトの優生推進の学問が、修辞学である。
これらは同じものだが、学識としてのヘラス哲学とギリシャ古典修辞学は別物である。
科分離整理しても、享有哲学・共有修辞学の違いは見えてこんだろう。
本稿は哲学概論なので、どうしても修辞学がおろそかになってしまうためでもある。
享有は反省するが、モノ自体への知識構造的推進などはしないのである。
モノ自体、教義自体へと、積極推進するのはナチスという宗教だ。
それは倫理という純粋悟性概念への認識誤りが起こす。
悲劇だと思う。
倫理を倫理として個人享有のものとして認識できず、共有の教義へと持ち込んでカルト化してしまうから、誤り悲劇となるのだ。
倫理を規則として、レーレとしてしか認識できない、共有認識の誤りが引き起こす。
ナチスだけでなく、西洋がすべて誤っているし。
今は東洋もおんなじ盗用。
この誤りに没頭すると、政治家になる、というわけだ。
反省ばかりで「自己享有を無くしていってしまう」のが愚かな哲学者で。
過誤の積極推進ばかりで「自己の共有を無くしてしまう」のが無能な政治家だとも言える。
純粋な哲学者などいないし、純粋な政治家なんてのもいない。
悪魔的でない人間など、この世にいないようなもんだ。
エンテレケイアはこの世の理念ではないし、この世はデジタル世界ではない。
それら理想のイデアは古典ギリシャのアリストテレス全集でも達成されていないし、トピカでも、できなかった。
享有哲学・共有修辞学の違いは、まだ見えてこんだろう。
この享有と共有の、お互いにべつものであること、じつはおなじものであること、が理解できないと哲学は始まらない。
矛盾論理を持ち出しているんではなくて、現実がそう、なのだ。
この世は割り切れないヴァーチャリターなのである。
それが現実だ。
これを、現実を持ち出すのはまだ無理なので、次節では、基礎と認識の関係あたりからこの享有・共有問題も再度含め、整理したい。
*コピー自由。営利は相談。楽天会員でないとムリですが。
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