科学の基礎には、精確さと誤謬が併存してある。
哲学の認識では、無知の知というネガチブさが自分の共有部分を隠していて。
科学の認識には、自己撞着という知性が、のさばって自分を隠ぺいしている。
これらが、無反省や無責任を創り出してしまう原因なのだ。
知とか、知性が問題だっつうこと。
知性は反省すれば自己撞着に陥る。
この撞着は、正しくは瞳着であるとオイラ思う次第。
知性そのもののことである。
モノ自体はないが、知性と言う「現実」ならある。
<瞳着>
科学の基本認識は、純粋な(経験のない)理性がもたらしている。
その「自己認識」部分の「知」が、やる行為なのである。
汝自身を知れの、その「汝」であるはずのもの。
知も、モトは無知そのものであるので。
つまりテオレインそのものでも、あるはずなので。
哲学がやる反省動作をも、含むはずなのである。
しかし今の科学技術は、へんな人たちの努力によって、哲学ではなく修辞学に堕ち、その影響下にある。
目的優先の優生学に、なりきってってしまっているのである。
哲学のやる反省は死に体。
なので反省部分が消えて、指示書(ノート)に化けていると言える。
科学に化けているわけだ。
テクノロジーもまたロジック主導により、テクネーが虚無主義クラスの「技術」になってしまって。
心構えが技術に化けているといえる。
これは知性のみで優先者原因自己自身となり。
自己撞着しているからだ。
瞳着はあるんだが、やはり優生学に堕ちているわけだ。
しかし科学の認識部分は、知りたいという欲求に基づく限り、人のいいかげんな認識を見出したいわけではない。
西洋では、神の知性認識とされる「厳密」ものが目指される。
そのために、人的経験のそぎ落とし、すら実施されてしまう。
メタバシス行為が行われてしまうのだ。
いつまでたっても厳密は得られないのだが。
これはテオレインの対象を人工物として仕立て直し、「先験的領域」のモノでとする一連の作業なのであるのだが。
そんでも必ず領域のモトがある。
(現実の)居場所を示す時空が、必ずある。
人の感性で出来ている「バーチャリター」という形式がモト、なんであるが。
それがあっさり知性のメタバシス行為で削ぎ落されて、消えている。
つまり個々人の「現実」というモトがあるんだが。
それが消えて、まったく見えてないので。
結果的にウロボロスになって、認識上よじれてしまい。
そのよじれもまた無視されたのだ。
だから、「自己享有」というモトのものがちゃんとあっても。
無知なオイラがいるはずなんだが。
さらに疑問あげつらうなら、プログラムでできたAIの「知性的客観認識」という名の、 空虚な形式やお客さん構造がモトなんじゃないんだが。
現実が消えてるので、空虚な知性が公共の表に出る。
自己撞着したそっちが、てきてしまう。
つまりこれが、科学の無責任になる、てことだ。
現実を見ないような構造ができてしまっている。
客観に頼る、その構造が原因。
モトなしが、理論としては見えやすい。
なので推奨され、居場所のない「知性がしゃしゃり出る」というわけだ。
つまり、テオレインとされたこの純粋理性は、ほんとうは「知性」や「知識」といった「客観的な物じゃない」はずなのである。
哲学的に批判できる、知の自分、の「モノ」であるはず。
あくまで、自由な「モノ」のはず、なのだ。
悪魔の持ち込んだモノじゃないはず。
但し現代は、モトのない、悪魔的なモノになりきってるのだ。
モノ自体がない理由を、客観では「無に等しい」という。
意味をあえて見失わせ、認識の基礎が誤謬となる、その理由と取り違えさせて理解するためだ。
つまり認識の基礎に、自分の「知ではなく」神を置いてしまった。
そして神ではなく、悪魔が居座っている、のが現状なのである。
具体証拠は物理学の諸法則に見えている。
・・・の悪魔。
ラプラスの悪魔、ド・ジッターの悪魔、・・・必ず悪魔がでてくるのだ。
悪魔の居る(不可解な)現実という、現実の優生学が取り仕切っているかのようである。
実際には現実はバーチャリターなので、悪魔が采配することは、ありえない。
客観的認識を采配しているのは図式。
特に、見えている数学の方程式なのだ。
これは図式そのものではないお客さん。
しかし純粋悟性概念のモトには、「図式」と、その「カテゴリー」が控えており。
図式のモトには、「感性でできた先験的諸形式の規則」がある。
これらは同じものなのである。
図式=カテゴリー=感性の先験的諸形式の規則。
カテゴリーのモトというのは、この(享有専門の)「倫理」形式なのである。
悪魔のやる範疇ではないんだが。
世間では、悪魔想定の範疇だと理解されるのが普通だ。
だから、悪魔を認めてる、というわけだ。
まったくもって、優生学的な範疇理念では「ない」、ことがわかるはずなんだが。
他者を含めた、ありもせん「あり」、に拘ってしまう。
アー・プリオリな先験的諸形式は、時間・空間の純粋な形式であって。
実務経験的な諸形式を、もともと一切含まないのである。
現実ではなく、「うふぉ」、だからだ。
瞳着の形式的図式も、先験的というより、うふぉ的なのだ。
だから優生学どころか、じつは修辞学ですらありえない。
これらの事柄は「知的な認識」であるとして、特に「瞳着」と呼ばれる。
客観的に、この事態を見るなら自己撞着だが。
その世界は「無」であるはずのものなので、この世のものとして瞳着というのだ。
つまり「瞳着」には、たしかに神のごとき「力関係様のもの」の関与が見える。
知性が心構えとは別に、直接関与するようには見えてるのだ。
それは「知性の働き」ではあるのだが。
全知全能の神では、決してない。
人の知性は、優生学的権能ですらない、のである。
人は死すべき者、あっさり共有ごと滅ぶ者である。
知性は、「倫理」形式や「図式」といった、客観的には見えてない「主観形式」に拠っている。
そのような、自由で曖昧なものに拠ってしか、ポシティブに働きはしないのである。
精神だけが、人から離れて働くこともない。
主語という形式がなければ、言語は、成り立たない、つうこと。
しかし見える形式には、必ずしも拠らないんだが。
自己瞳着ゆえに自分に見えない形式、つまり図式に従っての権能を、オイラたちは「うふぉ」の居場所で見出している。
つまり瞳着させて反省し、そのたやすく滅ぶ権能を知性と呼んでいるにすぎない。
権能は、「ない」のに。
知性は「自由」由来ではなく、あくまで「瞳着」がモトの、「反省」的モーメントにすぎんのだということ。
「カテゴリー規制の事実」がもとで、「倫理の牢獄」がもと。
極度に曖昧な物だ。
しかし「あくま」という優生学がモトなんじゃなく、「あくまで」そう。
あくまで、という副詞が働くのみなのだ。
オイラたちは言語に拠って人、なのである。
共有現実においては、知的な他者、言語対象となる自然ブツは、存在しない。
物理的現実においては、あるように見える。
だが、それは知的な他者対象ではなく、享有における自分だけに関わる、優生学的な「あり」にすぎない。
殴られ、ヤラレるのはおいらのみ、っつうことである。
なんら知的じゃない粗暴的。
共有事態としては、「かくれなきこと」、という表現ができるのみ。
日本語では、「自然」は、副詞があるのみである。
名詞でも動詞でもない。
外人が「自然物信仰」なんて言ってるが、ちゃんちゃらおかしいやろ。
既存の「知恵」や「知識」が、現実のモトなんだからそうなってしまったのである。
自然がモノ化した。
あくまで「自己瞳着した副詞」が自然で、それがモトに化けた。
純粋理性の認識の根元には、この現実への自己「瞳着」が「ある」んだと言える。
つまりこれらは、おいらたち共有認識が「享有してるナニカ」。
個々に居場所を持っている、ともいえるものである。
瞳着は、瞳、着ける、と書く。
知る、その事態の「事自体」をいうのだ。
瞳というコレがやれるのは、オイラだけだ。
電磁波操作で他人共有の脳をいじれても、享有は決していじれやしない。
西田先生なども「撞着」の扱いだったと思う。
撞着だと、「いじれる共有者扱い」なのである。
しかし他人の身体と頭ん中の享有は、いじれない。
いじれると思ってんのは優生学だけだ。
お客さんはやらないで、「オイラが」やるからだ。
それも、ウロボロスに撞着するんではなく。
よじれて点を見せて、自己撞着するんだが。
撞着行為に囚われると、出来事を見誤ってしまうのである。
そういった経験的事態をも一切含まず。
合一化した、「モト」の空想ものに撞着するんだからだ。
瞳を「操作する」と、考えて来た人が多いようだが。
操作経過や図式などは、「一切見えていない」はずなのである。
だから操作のしようがない、はず。
神の構想など、「ない」、のがわかる、はず。
無知な子供に戻って、大きな目で網膜に像を結ぶと、そう考えてみたらわかるはず。
同じ享有の「あり」を「あり」として認識すること、その「自己撞着的同義反復にある有のこと」、いってるんである。
神の力ではなく、オイラだけの、「享有するポシティブな命の力」だ。
これはエネルゲイアじゃない。
だが、じつは。
(主観的)有の方にではなく、(客観的)認識の方にのみ注視させて。
その客体現実の「よじれを瞳に映す」、というへんな作業が行われてる。
これが「知性」と言う「命題」なのだ。
有の、客観化操作狙いがあってそうしている。
それが「瞳着」ということ、なのである。
「見て、客観化へ導く」。
つまり現実のインスタンス転写の「場」作りのことだと考えてもいいかも。
主観的にはまったく見えん、客観場なのだ。
自分で自分は見えんのだから、見えん。
主観に戻ると、そこに明確にオルト(居場所)があるはずということになる。
それが「知性ということ」、なのだ。
知性はモノではなく。
コトなのである。
主観的に見えんのに、居場所見つけてそれで「オノレを見定める」。
知性は(主観を含めた)客観的「居場所」の「事」、なのである。
そのもの自身は、見えてないのである。
見えてないのに、おいらたちはこれを勝手に「魂」と名付けて呼ぶ。
居場所があるから、予想する、のだ。
言霊は言う霊と書くが、正しくは事魂だろう。
瞳着の居場所の事。
瞳着はだから単純に言うなら、認識コピー転写の領域にある、「現実点」のこと。
これがファンタシアと言う言葉で想定されたようなことが、反省に見なされて。
居場所が指し示され。
それが知性の働きだ、と、みなされているのである。
実際には反省にすぎんのに。
ファンタシアは享有の出来事なのだが、これを共有に見立てて、知性が客観的なものとなった。
知性の働きの根本には、「クラス」の認識と、そのインスタンス転写的な働きなどがあると、客観的にのみ言うならそうなる。
だが、もちろんこれは間違いである。
これは図式的にも構想できるだろう。
だから、図式も当然関与しているはずなのであるが、そこも見えてない。
同じものを同じものとして模(かたど)り、クラス(型枠)に仕立て。
それを使って同じものを製造ずる。
「見えてない共有の(ナニカの)力」が、「ある」、からだ。
しかしこの力は、感性が持つ「享有のポシティブな力」であり。
人の認識は人の認識として、ぜんぜん共有できそうにない、のである。
共有部分においては、これら認識は、あくまで「ネガチブ」になってしまうのだ。
享有のポシティブな力はエネルゲイアではない。
つまりあなたの知性とおいらの知性は、まったくの別モノなのだ、ということ。
別の異場所にあるんだから。
享有の反省で、そのことがわかるようにできている。
同じような形式で出来ていても同じことを考えていても、時空点が違うし、知性点も違う。
つまり「居場所が違う」、ずれてるのだ。
宗教でコレをむりやり、まとめようとする優生学者がいっぱいいるが、ムリだ。
多次元空間があるんじゃなくて、現実個々人の居場所が違うだけの話。
これを一意に神でまとめようとしてもできやしない。
感性は一意にはならない。
これは享有の感性が、その享有「特有のクラス」を形成して、「あらしめている」いるから、共有でまとめることは到底ムリなのである。
あり、が関与すれば、共有の無は、引っ込むしかないのだ。
感性における、見えてない図式的働きの関与があるのも、そのためなのである。
すべてが享有、共有の違いから来る。
それらの仕組みが、カテゴリーの(倫理)クラスを形成している、とも言える。
倫理クラスはネガチブだとわからないから、無も同然。
享有者のみに、倫理の牢獄は見える。
共有者に倫理は見えない。
図式も加わっての、享有の「もの」。
それが共有のエトヴァス(ナニカ)なのだ。
カテゴリーや倫理抜きで、共有倫理規制委員会やってたんでは、ここらの理解は一切ムリである。
倫理は、共有所属では決してないからである。
享有の自己牢獄が、その理由が、倫理で「ある」。
意識は反省において、「経験的に」得られる。
モノである。
但し対象が「享有意識=今」なのか、「共有意識=過去経験」なのかで違ってくるし。 (今は未だない、過去はすでにない。)
反省主体がどちらなのか、享有(あり主観)主体なのか、共有(なし客観)主体なのかによっても、違ってくる。
意識には様々な多様な居場所があって、「一意に明確にはならない」のである。
だから自分をいくら覗き込んでも、ここそこは、はっきりしない。
主観的享有の現実意識反省では、主観的享有の現実は、じつに「曖昧」になるし。
客観的享有はとなると、現実意識として一切「反省できん」ものとなる。
(つまり自分で自分は見えん、となるのと。)
(モノ自体はない、に対応してる、と言える。)
主観的享有の現実意識における反省では、客観的共有現実は、ヴァーチャリターとなってしまうのである。
必ずよじれてしまうのだ。
見えとらん自分から見ているんだから、現実はすでになく、未だない、となるし。
(未来が、ここで初めて出て来る。)
但し未来も、未到来であって未完結の「想定もの」となる。
そして「客観的共有現実の意識」なんてのは、もともとすでに「ない」だけなのである。
過去のご先祖では一緒だったかもしれんが、「すでに居場所がない」ので、どこにもない、となる。
ニルゲンツという、副詞。
客観的共有現実の意識、といったものには、どこにも「主観」の「居場所」がない。
客観的時空は、お客さん招く前には「ない」んだから、あたりまえなんである。
つまり論理形式が、ここでよじれてヴァーチャリターを形成し、空虚を準備してしまうわけだ。
これらの不都合は、オイラの自己反省や用語において見出せる。
「享有と共有の区分」がきっちりできていないため、の、ものだし。
もっぱら「知性の撞着的行為」その誤謬が、引き起こしているのである。
これは不都合だが、いたしかたない。
つまり「知的に認識する」という、その「瞳着」に、何らかの「欺瞞」が、「ある」のだ。
「主観的優生学が関与してしまっている」と推測ができる。
瞳着というのは、客観の知性のこと。
なのに。
ある主観を、「オレの瞳であることを主張」せんとしているためである。
客観は、その所有を主張できない。
あくまでお客さんであって、当事者じゃない。
知性をもてあそぶのは、その客観認識だけなのに。
主観がそれを、自分だけの享有物にしたがる。
勝ち組に、入りたがるのだ。
すでにない過去と。
未だない未来を、今でもって「あらしめよう」とする、謀るんだが。
その素材からして、怪しくなるわけだ。
ここでは、反省しても何も手がかりがなくなって、思惟自体が消えてしまう。
「客観的共有現実」を意識しようと謀ると、知性には居場所がなくなる?
のだ。
もう一度、この節を反省してみたいのだが、無意味かも。
今頭ン中、手がかりナシ、からっぽになる。
客観的共有現実は空虚である。
つまり知性は、優生学やって「居場所を無くしてしまうことによって知性、なのかも」、ということが浮かんで出て来る。
これもどこかで感性の一部にすぎないからだ。
科学の基本の認識である、「純粋理性の自己認識」は、「自分の居場所」をすら、あっさり亡くしてしまう。
これは知性が、論理と関係して「権能化される」、そのため起こることなのだろう。
見えてない図式の導きが、どこかにあるのだ。
瞳着は、撞着として理論的に仮想認識できるが。
生物である人には、居場所がなければ、手がかりすらわからなくなる。
哲学できんなる。
だから非生物が認識、には、決してならんとわかる。
AIには、もともと機械仕組み以外の居場所がないわけだから。
居場所としては、製造された当初の「目論見がある」のみだ。
ウソ理論は見えてても、居場所のない論理は無意味。
だから、非生物には、目論見以上の認識がない、と言える。
但し「瞳着」はある、のだ。
目論見があるんだから。
居場所を隠す知性がウソつきになる最右翼の、これが理由だろう。
AIには、目論見以上の居場所がないから、ウソつきだとは言えない?。
厄介な疑問が出て来た。
科学の基本認識にウソを居座らせてはいけないんだが。
現実を、ヴァーチャリターを、自分にワカランことを、先に認めるべきだが。
魂の居場所のないウソつきには、倫理が通用せんのである。
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