2025年04月22日
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カテゴリ: 哲学研究室


 科学の基礎には、精確さと誤謬が併存してある。

 哲学の認識では、無知の知というネガチブさが自分の共有部分を隠していて。
 科学の認識には、自己撞着という知性が、のさばって自分を隠ぺいしている。
 これらが、無反省や無責任を創り出してしまう原因なのだ。
 知とか、知性が問題だっつうこと。

 知性は反省すれば自己撞着に陥る。
 この撞着は、正しくは瞳着であるとオイラ思う次第。
 知性そのもののことである。
 モノ自体はないが、知性と言う「現実」ならある。


  <瞳着>

 科学の基本認識は、純粋な(経験のない)理性がもたらしている。
 その「自己認識」部分の「知」が、やる行為なのである。
 汝自身を知れの、その「汝」であるはずのもの。

 知も、モトは無知そのものであるので。
 つまりテオレインそのものでも、あるはずなので。
 哲学がやる反省動作をも、含むはずなのである。

 しかし今の科学技術は、へんな人たちの努力によって、哲学ではなく修辞学に堕ち、その影響下にある。
 目的優先の優生学に、なりきってってしまっているのである。
 哲学のやる反省は死に体。
 なので反省部分が消えて、指示書(ノート)に化けていると言える。
 科学に化けているわけだ。

 テクノロジーもまたロジック主導により、テクネーが虚無主義クラスの「技術」になってしまって。
 心構えが技術に化けているといえる。

 これは知性のみで優先者原因自己自身となり。
 自己撞着しているからだ。
 瞳着はあるんだが、やはり優生学に堕ちているわけだ。

  しかし科学の認識部分は、知りたいという欲求に基づく限り、人のいいかげんな認識を見出したいわけではない。
 西洋では、神の知性認識とされる「厳密」ものが目指される。
 そのために、人的経験のそぎ落とし、すら実施されてしまう。
 メタバシス行為が行われてしまうのだ。

 いつまでたっても厳密は得られないのだが。
 これはテオレインの対象を人工物として仕立て直し、「先験的領域」のモノでとする一連の作業なのであるのだが。
 そんでも必ず領域のモトがある。

 (現実の)居場所を示す時空が、必ずある。
 人の感性で出来ている「バーチャリター」という形式がモト、なんであるが。
 それがあっさり知性のメタバシス行為で削ぎ落されて、消えている。

 つまり個々人の「現実」というモトがあるんだが。
 それが消えて、まったく見えてないので。
 結果的にウロボロスになって、認識上よじれてしまい。
 そのよじれもまた無視されたのだ。

 だから、「自己享有」というモトのものがちゃんとあっても。
 無知なオイラがいるはずなんだが。
 さらに疑問あげつらうなら、プログラムでできたAIの「知性的客観認識」という名の、 空虚な形式やお客さん構造がモトなんじゃないんだが。

 現実が消えてるので、空虚な知性が公共の表に出る。
 自己撞着したそっちが、てきてしまう。
 つまりこれが、科学の無責任になる、てことだ。
 現実を見ないような構造ができてしまっている。
 客観に頼る、その構造が原因。

 モトなしが、理論としては見えやすい。
 なので推奨され、居場所のない「知性がしゃしゃり出る」というわけだ。

 つまり、テオレインとされたこの純粋理性は、ほんとうは「知性」や「知識」といった「客観的な物じゃない」はずなのである。
 哲学的に批判できる、知の自分、の「モノ」であるはず。

 あくまで、自由な「モノ」のはず、なのだ。
 悪魔の持ち込んだモノじゃないはず。
 但し現代は、モトのない、悪魔的なモノになりきってるのだ。

 モノ自体がない理由を、客観では「無に等しい」という。
 意味をあえて見失わせ、認識の基礎が誤謬となる、その理由と取り違えさせて理解するためだ。
 つまり認識の基礎に、自分の「知ではなく」神を置いてしまった。
 そして神ではなく、悪魔が居座っている、のが現状なのである。

 具体証拠は物理学の諸法則に見えている。
 ・・・の悪魔。
 ラプラスの悪魔、ド・ジッターの悪魔、・・・必ず悪魔がでてくるのだ。
 悪魔の居る(不可解な)現実という、現実の優生学が取り仕切っているかのようである。

 実際には現実はバーチャリターなので、悪魔が采配することは、ありえない。
 客観的認識を采配しているのは図式。
 特に、見えている数学の方程式なのだ。
 これは図式そのものではないお客さん。

 しかし純粋悟性概念のモトには、「図式」と、その「カテゴリー」が控えており。
 図式のモトには、「感性でできた先験的諸形式の規則」がある。
 これらは同じものなのである。
 図式=カテゴリー=感性の先験的諸形式の規則。

 カテゴリーのモトというのは、この(享有専門の)「倫理」形式なのである。

 悪魔のやる範疇ではないんだが。
 世間では、悪魔想定の範疇だと理解されるのが普通だ。
 だから、悪魔を認めてる、というわけだ。

 まったくもって、優生学的な範疇理念では「ない」、ことがわかるはずなんだが。
 他者を含めた、ありもせん「あり」、に拘ってしまう。

 アー・プリオリな先験的諸形式は、時間・空間の純粋な形式であって。
 実務経験的な諸形式を、もともと一切含まないのである。
 現実ではなく、「うふぉ」、だからだ。
 瞳着の形式的図式も、先験的というより、うふぉ的なのだ。
 だから優生学どころか、じつは修辞学ですらありえない。

 これらの事柄は「知的な認識」であるとして、特に「瞳着」と呼ばれる。
 客観的に、この事態を見るなら自己撞着だが。
 その世界は「無」であるはずのものなので、この世のものとして瞳着というのだ。

 つまり「瞳着」には、たしかに神のごとき「力関係様のもの」の関与が見える。
 知性が心構えとは別に、直接関与するようには見えてるのだ。
 それは「知性の働き」ではあるのだが。
 全知全能の神では、決してない。

 人の知性は、優生学的権能ですらない、のである。
 人は死すべき者、あっさり共有ごと滅ぶ者である。

 知性は、「倫理」形式や「図式」といった、客観的には見えてない「主観形式」に拠っている。
 そのような、自由で曖昧なものに拠ってしか、ポシティブに働きはしないのである。
 精神だけが、人から離れて働くこともない。
 主語という形式がなければ、言語は、成り立たない、つうこと。

 しかし見える形式には、必ずしも拠らないんだが。
 自己瞳着ゆえに自分に見えない形式、つまり図式に従っての権能を、オイラたちは「うふぉ」の居場所で見出している。
 つまり瞳着させて反省し、そのたやすく滅ぶ権能を知性と呼んでいるにすぎない。
 権能は、「ない」のに。

 知性は「自由」由来ではなく、あくまで「瞳着」がモトの、「反省」的モーメントにすぎんのだということ。
 「カテゴリー規制の事実」がもとで、「倫理の牢獄」がもと。
 極度に曖昧な物だ。

 しかし「あくま」という優生学がモトなんじゃなく、「あくまで」そう。
 あくまで、という副詞が働くのみなのだ。
 オイラたちは言語に拠って人、なのである。

 共有現実においては、知的な他者、言語対象となる自然ブツは、存在しない。

 物理的現実においては、あるように見える。
 だが、それは知的な他者対象ではなく、享有における自分だけに関わる、優生学的な「あり」にすぎない。
 殴られ、ヤラレるのはおいらのみ、っつうことである。
 なんら知的じゃない粗暴的。

 共有事態としては、「かくれなきこと」、という表現ができるのみ。
 日本語では、「自然」は、副詞があるのみである。
 名詞でも動詞でもない。
 外人が「自然物信仰」なんて言ってるが、ちゃんちゃらおかしいやろ。

 既存の「知恵」や「知識」が、現実のモトなんだからそうなってしまったのである。
 自然がモノ化した。

 あくまで「自己瞳着した副詞」が自然で、それがモトに化けた。
 純粋理性の認識の根元には、この現実への自己「瞳着」が「ある」んだと言える。
 つまりこれらは、おいらたち共有認識が「享有してるナニカ」。
 個々に居場所を持っている、ともいえるものである。


 瞳着は、瞳、着ける、と書く。
 知る、その事態の「事自体」をいうのだ。

 瞳というコレがやれるのは、オイラだけだ。
 電磁波操作で他人共有の脳をいじれても、享有は決していじれやしない。

 西田先生なども「撞着」の扱いだったと思う。
 撞着だと、「いじれる共有者扱い」なのである。
 しかし他人の身体と頭ん中の享有は、いじれない。
 いじれると思ってんのは優生学だけだ。

 お客さんはやらないで、「オイラが」やるからだ。
 それも、ウロボロスに撞着するんではなく。
 よじれて点を見せて、自己撞着するんだが。
 撞着行為に囚われると、出来事を見誤ってしまうのである。

 そういった経験的事態をも一切含まず。
 合一化した、「モト」の空想ものに撞着するんだからだ。

 瞳を「操作する」と、考えて来た人が多いようだが。
 操作経過や図式などは、「一切見えていない」はずなのである。
 だから操作のしようがない、はず。
 神の構想など、「ない」、のがわかる、はず。

 無知な子供に戻って、大きな目で網膜に像を結ぶと、そう考えてみたらわかるはず。

 同じ享有の「あり」を「あり」として認識すること、その「自己撞着的同義反復にある有のこと」、いってるんである。
 神の力ではなく、オイラだけの、「享有するポシティブな命の力」だ。
 これはエネルゲイアじゃない。

 だが、じつは。
 (主観的)有の方にではなく、(客観的)認識の方にのみ注視させて。
 その客体現実の「よじれを瞳に映す」、というへんな作業が行われてる。
 これが「知性」と言う「命題」なのだ。
 有の、客観化操作狙いがあってそうしている。

 それが「瞳着」ということ、なのである。
 「見て、客観化へ導く」。
 つまり現実のインスタンス転写の「場」作りのことだと考えてもいいかも。

 主観的にはまったく見えん、客観場なのだ。
 自分で自分は見えんのだから、見えん。

 主観に戻ると、そこに明確にオルト(居場所)があるはずということになる。
 それが「知性ということ」、なのだ。
 知性はモノではなく。
 コトなのである。
 主観的に見えんのに、居場所見つけてそれで「オノレを見定める」。

 知性は(主観を含めた)客観的「居場所」の「事」、なのである。
 そのもの自身は、見えてないのである。
 見えてないのに、おいらたちはこれを勝手に「魂」と名付けて呼ぶ。
 居場所があるから、予想する、のだ。

 言霊は言う霊と書くが、正しくは事魂だろう。
 瞳着の居場所の事。
 瞳着はだから単純に言うなら、認識コピー転写の領域にある、「現実点」のこと。

 これがファンタシアと言う言葉で想定されたようなことが、反省に見なされて。
 居場所が指し示され。
 それが知性の働きだ、と、みなされているのである。

 実際には反省にすぎんのに。
 ファンタシアは享有の出来事なのだが、これを共有に見立てて、知性が客観的なものとなった。

 知性の働きの根本には、「クラス」の認識と、そのインスタンス転写的な働きなどがあると、客観的にのみ言うならそうなる。
 だが、もちろんこれは間違いである。

 これは図式的にも構想できるだろう。
 だから、図式も当然関与しているはずなのであるが、そこも見えてない。

 同じものを同じものとして模(かたど)り、クラス(型枠)に仕立て。
 それを使って同じものを製造ずる。
 「見えてない共有の(ナニカの)力」が、「ある」、からだ。

 しかしこの力は、感性が持つ「享有のポシティブな力」であり。
 人の認識は人の認識として、ぜんぜん共有できそうにない、のである。
 共有部分においては、これら認識は、あくまで「ネガチブ」になってしまうのだ。
 享有のポシティブな力はエネルゲイアではない。

 つまりあなたの知性とおいらの知性は、まったくの別モノなのだ、ということ。
 別の異場所にあるんだから。
 享有の反省で、そのことがわかるようにできている。
 同じような形式で出来ていても同じことを考えていても、時空点が違うし、知性点も違う。
 つまり「居場所が違う」、ずれてるのだ。

 宗教でコレをむりやり、まとめようとする優生学者がいっぱいいるが、ムリだ。
 多次元空間があるんじゃなくて、現実個々人の居場所が違うだけの話。
 これを一意に神でまとめようとしてもできやしない。
 感性は一意にはならない。

 これは享有の感性が、その享有「特有のクラス」を形成して、「あらしめている」いるから、共有でまとめることは到底ムリなのである。
 あり、が関与すれば、共有の無は、引っ込むしかないのだ。
 感性における、見えてない図式的働きの関与があるのも、そのためなのである。
 すべてが享有、共有の違いから来る。

 それらの仕組みが、カテゴリーの(倫理)クラスを形成している、とも言える。
 倫理クラスはネガチブだとわからないから、無も同然。
 享有者のみに、倫理の牢獄は見える。
 共有者に倫理は見えない。

 図式も加わっての、享有の「もの」。
 それが共有のエトヴァス(ナニカ)なのだ。
 カテゴリーや倫理抜きで、共有倫理規制委員会やってたんでは、ここらの理解は一切ムリである。
 倫理は、共有所属では決してないからである。
 享有の自己牢獄が、その理由が、倫理で「ある」。


 意識は反省において、「経験的に」得られる。
 モノである。
 但し対象が「享有意識=今」なのか、「共有意識=過去経験」なのかで違ってくるし。 (今は未だない、過去はすでにない。)
 反省主体がどちらなのか、享有(あり主観)主体なのか、共有(なし客観)主体なのかによっても、違ってくる。

 意識には様々な多様な居場所があって、「一意に明確にはならない」のである。
 だから自分をいくら覗き込んでも、ここそこは、はっきりしない。

 主観的享有の現実意識反省では、主観的享有の現実は、じつに「曖昧」になるし。
 客観的享有はとなると、現実意識として一切「反省できん」ものとなる。
 (つまり自分で自分は見えん、となるのと。)
 (モノ自体はない、に対応してる、と言える。)

 主観的享有の現実意識における反省では、客観的共有現実は、ヴァーチャリターとなってしまうのである。
 必ずよじれてしまうのだ。

 見えとらん自分から見ているんだから、現実はすでになく、未だない、となるし。
 (未来が、ここで初めて出て来る。)
 但し未来も、未到来であって未完結の「想定もの」となる。

 そして「客観的共有現実の意識」なんてのは、もともとすでに「ない」だけなのである。
 過去のご先祖では一緒だったかもしれんが、「すでに居場所がない」ので、どこにもない、となる。
 ニルゲンツという、副詞。
 客観的共有現実の意識、といったものには、どこにも「主観」の「居場所」がない。

 客観的時空は、お客さん招く前には「ない」んだから、あたりまえなんである。
 つまり論理形式が、ここでよじれてヴァーチャリターを形成し、空虚を準備してしまうわけだ。

 これらの不都合は、オイラの自己反省や用語において見出せる。
 「享有と共有の区分」がきっちりできていないため、の、ものだし。
 もっぱら「知性の撞着的行為」その誤謬が、引き起こしているのである。
 これは不都合だが、いたしかたない。

 つまり「知的に認識する」という、その「瞳着」に、何らかの「欺瞞」が、「ある」のだ。
 「主観的優生学が関与してしまっている」と推測ができる。

 瞳着というのは、客観の知性のこと。
 なのに。
 ある主観を、「オレの瞳であることを主張」せんとしているためである。

 客観は、その所有を主張できない。
 あくまでお客さんであって、当事者じゃない。

 知性をもてあそぶのは、その客観認識だけなのに。
 主観がそれを、自分だけの享有物にしたがる。
 勝ち組に、入りたがるのだ。

 すでにない過去と。
 未だない未来を、今でもって「あらしめよう」とする、謀るんだが。
 その素材からして、怪しくなるわけだ。
 ここでは、反省しても何も手がかりがなくなって、思惟自体が消えてしまう。

 「客観的共有現実」を意識しようと謀ると、知性には居場所がなくなる?
 のだ。
 もう一度、この節を反省してみたいのだが、無意味かも。
 今頭ン中、手がかりナシ、からっぽになる。
 客観的共有現実は空虚である。

 つまり知性は、優生学やって「居場所を無くしてしまうことによって知性、なのかも」、ということが浮かんで出て来る。
 これもどこかで感性の一部にすぎないからだ。

 科学の基本の認識である、「純粋理性の自己認識」は、「自分の居場所」をすら、あっさり亡くしてしまう。
 これは知性が、論理と関係して「権能化される」、そのため起こることなのだろう。
 見えてない図式の導きが、どこかにあるのだ。

 瞳着は、撞着として理論的に仮想認識できるが。
 生物である人には、居場所がなければ、手がかりすらわからなくなる。
 哲学できんなる。

 だから非生物が認識、には、決してならんとわかる。
 AIには、もともと機械仕組み以外の居場所がないわけだから。
 居場所としては、製造された当初の「目論見がある」のみだ。
 ウソ理論は見えてても、居場所のない論理は無意味。

 だから、非生物には、目論見以上の認識がない、と言える。

 但し「瞳着」はある、のだ。
 目論見があるんだから。
 居場所を隠す知性がウソつきになる最右翼の、これが理由だろう。
 AIには、目論見以上の居場所がないから、ウソつきだとは言えない?。

 厄介な疑問が出て来た。
 科学の基本認識にウソを居座らせてはいけないんだが。
 現実を、ヴァーチャリターを、自分にワカランことを、先に認めるべきだが。
 魂の居場所のないウソつきには、倫理が通用せんのである。










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最終更新日  2025年04月22日 09時29分27秒
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