2025年05月03日
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カテゴリ: 哲学研究室


 明晰判明な享有ものなのに、学問にして一般化するとそうなる。

 一方、科学には形而上学と言う誤謬(ごびゅう)した基礎があり、認識は精確なのに居場所次第という「無責任」があることになる。
 居場所のない自己撞着つまり知恵は、無責任放置しているとウソを作ってしまうのである。

 これらが起こる理由は、知性が自己撞着するのではなくホンマは瞳着だからだ。
 感性が倫理でちゃんと見張ってるのに、それをマナーにすると別物に変えてしまうからである。
 自己撞着がインスタンスして勝手に増えるから、でもある。

 人は無知で曖昧な状態に満足しないので。
 知性に拠って居場所がなくても「知恵を知恵足らしめん」としてしまうのである。
 知性が悪事に使われる、その理由である。

 まるでおいら、「自然科学は成り立たない」ことを、あえて言いたいようだ。
 現にある、のに。

 しかし主観的には語れても、客観的にはウソしか騙れん。
 それは事実なのである。
 瞳着に、瞳の<居場所がなくなる>、んだから、成り立たん。
 この節のまとめとして、このテーマを考えてみたい。


 <自然科学は成り立たない>

  成り立たんはずでも、ちゃんと共有社会にあるやんけ。

 自然ではない別ものが立ってるんだから、である。
 自然科学は認識にはじまるが。
 そこに成り立っている自然科学つうもんは「認識(のこころ)」ではなく、「技術(のモノ」に化けている。
 認識ではなく、別物の「物質」に化けちょる。

 自然という(こころ)を人工物にし、認識知見を、ある普遍物だと<みなして>、存在させているのだ。
 つまり想定して「あらしめている」わけだ。
 ハッキリ言うなら、嘘ついちょるのである。

 共有物なのだが、むりやり享有物にして。
 ずらせて所有させ、あらしめている。
 だから「成り立つ」んである。

 つまりこれが、優生学の賜物というものなのだ。
 心構えが消えて、人工物で製造の「技術ブツ」となっているのだから、あるわけだ。

 「そないなあほな」、と、常識に頼り切った人は言うだろう。
 「技術で、できて、なんで悪いんや」と言うかもしれん。
 「ちゃんと成り立っとるやんけ」、とも言うだろう。

 ちゃんと成り立ってない、だからあかんのや。
 現実と必ず、ずれている。
 「認識」がなくなって「技術」に化けているし、享有もしてへんモノを有らしめている。
 言うなれば詐欺やってるわけだ。
 やってて、その認識がない。

 「そやけど自然があり、科学があり、基礎や認識すらちゃんとあるやないか、なのに何が不満なんや」。

 それだと。
 自然は、しぜんなモノ、つまりこころの副詞表現でなく、「人工物だ」こころとは別物だということになってしまう。
 自然の定義が、まるでウソになってくるわけだ。
 感性が掴んでる者、ナニカとは、まったくの別物に、なっちょる。
 自然が「副詞」でなく、「名詞」になってしまうということが、ここで起こっているわけだ。

 科学の目指す「もの」が、客観「認識」ではなく。
 想定で「できた」優生学的人工物と、なりさがってしまうのである。
 テクノロジーの成果物へと、自動的に移行することとなる。
 いわば科学は、テクノロジーに堕ちたのである。

 つまりそれで以後は、テクノロジーの「成果物」が表に出て来る。
 天然のはずの「自然物」が、いつのまにか人工物に化けているのである。
 しかし世間では、そんな見方はしていない。
 テクノロジーの「成果だ」と、別方向から肯定的に見る。

 この典型が、中国製に限らん「粗悪鉄鋼」などという「現実」を生むのである。
 ひどいもんは、鉄筋が手で折れるほどらしい。
 (鉄自体が、そもそも自然にあるモノではなくて、人工製造物。)
 創り上げて、大自然という架空の居場所に置いたのである。
 つまり自然物という詐欺材料が、ここに「ある」のだ。

 科学にかこつけて、技術「成果」をうたって。
 そっちばかり見て、「優生学的に儲ける」ことばかり考えてる。
 修辞学を働かせ。
 よそから、いつの間にか優生学が導入されていて。
 なのにそれを気にせんから、こうなるのだ。

 「人工物」を優生学で所有させて製造し、詐欺っているんじゃ、にゃーか?
 とオイラ言ってるわけだ。
 「基礎」も「認識」も、すでに怪しいじゃんか、と。

 科学の基礎には、形而上学と言う、取り消し難い「先験的誤謬」がある。
 だがそれを一神教徒は、常に不問にしてきた。
 自己撞着の知性に、すっかり拠りかかっているからである。
 自己撞着ではない、のに。

 見えるモノづくりの構想が、どこかで隠れて指示して「ある」、その結末なのだ。
 その「居場所」が、ちゃんと定まって、見えてない。
 だから想定外になるのである。
 現実の時空との認識のズレが、大きく「ある」ことになる。

 これが悪さしてる理由なのだが。
 享有を見ようとせん科学者には、全く問題のありかすら見えんのだろう。
 だから現実と科学は必ず、なにがしか必ず「ズレるように感じる」。
 それを感じる人、ズレを感じる人は、まだましだ。

 ズレどころか、占有の手で作りあげた偽物を据えて公理にして。
 つまり客観の「目的標本」に仕立てて。
 それを成果物にして定理を見出し、優勢誇って詐欺やっている、というのが現実なのだ。

 世に、100%純粋な鉄なんぞは、無い。
 なのに、科学(認識)は、それを目指すのである。
 認識が独自に目指すんではない。
 優生学使って修辞学が焚きつけているため、そうするのだ。

 「動機不順でも、成果物がよけりゃいいじゃんか」。
 それだと見えてえへん想定外が怖い、のに。
 目的ブツしか見てないので、想定など普通は、ない。

 その認識は、そのままでは「演繹の根拠なし」となる。
 「帰納根拠の基礎も、なし」となっている。
 無責任に陥るしかない、のだ。

 だが。
 科学的認識は「無責任だ」とは言わないで、「技術目標」と言う。
 いつも、ありもせん未来を見てしまって言うからだ。

 いつのまにか科学的<認識の位置>がズレて、技術が先導している事態なのである。
 技術先動だと、果てしなく無責任になっていくのだ。
 だが、それには気が付きようがない。
 そういう怖さがあるんだが、そもそも怖い物に気がついてない。。


 これを防ぐには。
 基礎に哲学を、おいら生まれつき無知です、ということを持ってきて。
 先入観無いことを明確にして。
 なおかつ客観的判断から優生学を遠ざけねばならない、んだが。

 そないな厳密な基礎認識要請、まるで誰も、何処からも得てないのだ。
 皆無で、もともと、ないんかもしれん。
 科学者の世間は、モロに「一神教の形而上学が作った世界」だからである。
 自分の基礎を疑わん。
 せいぜい、科学でできんこともある、と言う程度だ。

 科学は科分離認識で、客観的にきっちり精確に、できてる。
 だから基礎に、多神教めいた未知のモノを置くわけにはいかんのだ。
 だからだから、自分の基礎を確認、なんぞは、せんというか。
 できん。

 生まれつき神の「奴隷」で、任務に「選ばれて」いて。
 「優生学は世の真理だ」と言うことになっちょるからなのだ。
 つまり「享有認識しちょるから、それは自己撞着でええんや」としてしまうのである。

 享有が過去にすでに、導入されて、終わっているのである。
 だが反省なしなので、見えてないんだろう。
 だから宗教家がいくら仲間増やしても、その「厳密な基礎認識なし」のそのために、世の共有社会のサイクル自体が、終わりかける。

 これではいかんのや。

 学問や知識の狙いは違うんや。
 優生学は、詐欺師の騙る虚偽思想なんや。
 というような基本の単純なことを認識できんことには、この誤ったサイクルからは抜け出せない。


 優生学は、ダメ学問である。
 誤った破滅サイクルを生みだしてしまい、その根本原因となるからだ。
 この「単純な認識が要る」のだ。

 しかし、その単純な認識持ってる科学者が果たして、いるんだろうか?
 ロクにおらんのじゃあるまいか?
 世に哲学がない、のを見てもわかる。

 自然との「調和」だとか。
 持続可能な良好「環境」など。
 ばかばかしいものをいくら追及しても、基礎を間違って優生学持ってたんでは無意味になるんやが。
 それがわかっちょるんか?

 「自然科学は成り立たない」、というのは。
 修辞学が立ち、それが優生学を育み。
 自然という科学認識を、優生学的な技術対象に目的や目標に、ズレたナニカを据えてしまっている。
 だから、オイラ、これを老人の繰り言として言うのである。

 科学認識が成り立っておらず、別物になっちょる、んだが。
 それが見えてない。

 かといって、「修辞学は捨てられないもの」なので、実に厄介なのだ。
 アリストテレスは気がついてたが。
 キュニコス派のディオニソスなどは、それを自己実験してた。

 それ(修辞学)捨てたら、人は生きていけなくなる。
 ダメな優生学だけをポイ捨てするべきなのであるが、簡単じゃないのである。
 修辞学捨てたら、人は生きていけなくなる。

 基礎の一つに「自然は優生学において常に優先で「ある」」という思い込みがあるので、これがあかんのだ。
 知性への自己撞着がある。
 自己撞着というこれは間違いで、正しくは自己瞳着。
 自己は共有ではなく享有。

 知性優先のこれは「悪魔を信奉してしまって、優生学修辞やっている」、ということと同義になるのだ。
 科学的自然認識において、優生学をそぎ落とすには。
 「人の自然認識」と、「モノの自然物」の違い、これを明確に把握する必要がある。



 <人の自然認識、モノの自然物>

 エイドス・エネルゲイアという、修辞学上の基礎概念がある。
 哲学の基本概念じゃないんで、コレを間違わんように。
 おいらも若いころ、間違えてた。
 間違うと、演繹の道が見えんなる。

 「形容」によって、オイラたちは「モノを知的に認識差別」し。
 「力関係」によって、オイラたちは「牛耳れる」。
 ということだ。

 何事かを判断済の、共有概念なのである。
 哲学の基礎的な概念ではない。
 人との自然な関係でもなく。
 自然「物」との、「優生学的(力・形容)関係」こそが、ここにある。

 これは優生学の基礎に横たわる、超重要な概念なのであるのは事実。
 西洋で、「古典ギリシャ修辞学を支えている根本理念だ」、と言ってもいいほど。
 「かたち」と、「エネルギー」。
 アリストテレスが見出したものだとされている。

 が、実際にはローマ帝国が、古典ギリシャ語で生んだものだ。
 哲学命題ではなく、修辞学命題なのである。

 これは、一なる認識がどうしても二通りの側面を持つことになる、そういう、修辞学上超重要な概念となるのだが。
 つまり形容修飾の修辞は、同時に力関係優越を示すということなんだが。

 この教義に自己撞着・帰依してしまうと、とんでもない不都合が生じるのだ。

 知性が、瞳着の働きであることが見えなくなる。
 享有との関係が見えなくなり、悪魔が忍び込めるようになってしまう。
 つまり一意の享有のイデアがアイデア化して、見えなくなるのだ。

 それが、共有アイデアという「ブツ」に変わって、勝手に立つようになる。
 つまり自然という副詞や形容詞が、名詞に変わる、のである。
 自然が名詞化する。

 同時に。
 倫理が神のマナーに変わって、人々を生かす規則と化す。
 優生学的生殺権に化け、食べ物にもなりかわって。
 カテゴリーが、これまた範疇という、「神の権能の」見えない図式と化すのだ。

 全て同じ修辞原因となる。
 全てが一神教信仰から来ているその変化に、かわってしまうのである。
 ローマ帝国がそうなり、西洋ぐるみ、そうなって、優生学に捕まったのである。

 だから享有世界に潜んだ共有認識は、どうしても二元論的になって。
 つまり科分離様の思惟になる、しかなかったのである。
 つまりつまり、「享有と共有が曖昧だと」科分離思惟となり。
 それらが、まわりまわって優生学を生んでしまう、ようなのである。

 だからだから、無知の知の哲学は、もともと多神教。
 曖昧な数多い「神々」、これがアルケーの先にいなくちゃならんのである。
 一神教の自己撞着的知性のもとで、「無知の知」認識は絶対にできやしない。

 悪人になるか、ヴァーチャリター認めて認識破綻するか、放蕩児やるか、例外的に単独者となるか、虚無に落ち込む、しかないのだ。
 上げた例は、聖アウグスチヌス、ドゥンス・スコトゥス、デカルト、キアケゴード、ヘーゲルの、それぞれの「一神教徒の哲学」的享有に対応する。

 これらの哲学者はそうやって一神教の中に多神教を持ち込んだ。
 虚無論理主義者ヘーゲルも、哲学者だった時期があるのだ。 
 多神教徒であれば、これは問題ないはずである。
 まあ、落第生でなければ、一意の哲学課題が出てこんかもしれんが。

 冗談はさておき。
 「人の自然」と、「モノの自然物」の、その違いがわかるだろうか。
 もちろん、これはおなじもののことを「反省したもの」と、「突っ走らせたもの」。

 しかし自然は必ず「人の自然」であって、モノの自然ではないのだ。
 後先見ずに、想定無視で突っ走らせたら、モノの自然物となる。
 ひとの「享有する隠れ無き認識の様」のことを、表現・修辞してるだけだからだ。
 享有物は共有できる客観ブツではない。

 モノというのは必ず人工の物。
 だから。
 「モノの自然物」と「人の自然」は、「全くの別物」修辞なわけだ。

 人の自然は、哲学に対応し多神教的である。
 モノの自然物は、修辞学課題に対応する「一神教的な認識」、つまりモノ自体への自己撞着なのである。
 これは誤った認識なのだ。

 形容と力関係でもって、人の自然認識、モノの自然物を考えるというのは必ず、誤った物への修辞学になるのだ。
 イデアやヴァーチャリターを、つまり享有認識やその現実を無視して、モノをずらせて、自然物として客観立てることになるからだ。 

 モノの自然物は必ず、立てた客観ブツを表し、それを修辞する。
 形容と、力関係を掴もうとする(つまり優生学に囚われる)。

 人の自然認識は、ブツによって隠されたりはしないのだが。
 瞳着対象が「曖昧に」なる。
 イデアは語れず、ヴァーチャリターはウロボロスに、自分のしっぽを飲み込んで消えてしまうのである。
 モノではなく、現実が、そこにやってくるので。

 この差異を明確にして、人の自然(副詞的自然)を見る努力が哲学。
 その「演繹」への実践行為、なのである。
 客観ブツはしかし、自己撞着に拠り「ある」ことになっている。
 ホンマは、「ない」のだが。

 人が創り上げたモノが、そこにあることになる。

 この「ある」は時空的なもので、ほっとけば時空の由来に帰っていく。
 しかし、より精緻に、より優生学的に優越を持たそう、という努力が生まれる。
 グノーシス思想と似た何かが、悪魔的な何かが、ここに生まれて来ているのである。

 優生学は、危険な極まりない通ってはならない道である、んだが。
 「エイドス」と「エネルゲイア」を公理にして、それを一心に追求しているのが現代なのだ。
  これらの概念は、どこかで優生学とつながっていそうであるが誤った道なので。
 遠ざかるべきなのである。


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最終更新日  2025年05月03日 10時33分20秒
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