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シラスは、様々な魚の仔稚魚の総称であるが、白子干しなどの形で積極的に食用とされるのは、イワシ仔魚(主にカタクチイワシ)がほとんどである。ただ、捕獲方法の都合(シラス網と呼ばれる網を打って捕獲する)にもより、様々な魚の仔稚魚が混入することも珍しくない。この中には魚類だけではなくタコやイカの幼生やエビやカニのゾエア幼生(動物性プランクトンの一種)なども混入する。[1]あまり食用に適さない混在物を除き、食用に適するものを塩茹でにして干したものがいわゆる白子干しとして販売されているため、よく見ると明らかに形の違う生物が混じっている場合も見られる。いずれも、大抵の場合は食べても問題ない。しらすごはん幼魚はまだ骨格があまり発達しておらず、白子干しなどは様々な食品にまぶして丸のまま食べられる。ごはんの上にふり掛けたり、大根おろしと和えて醤油で味付けしたりして食べられる。蛋白質やカルシウムが豊富な食品である。また一部地域ではシロウオのように、生きたままのシラスを酢醤油など調味料にくぐらせ、そのまま食べる「踊り食い」と呼ばれる食べ方も好まれる。塩茹でして加工されるものがほとんどだが、水分含有量の違いで区別され、茹で上げ後水きり程度で製品となるものが釜揚げと呼ばれ85%前後の水分含有量となる。 50 - 60%程度に乾燥されたものが白す干・・関西では太白と呼ばれ、25 - 35%程度まで乾燥させたものがちりめん・・関東ではかちり等と呼び区別される。 それ以外の加工方法として畳いわしという海苔を作るような方法でシラスを板状に乾燥させたものがあり、これは水分含有量15%程度となる。また近年は生食の消費も増えてきている。かつては関西以西ではちりめんが主流、静岡周辺は釜揚げが主流、関東以北はシラス干が主流となっていたが、現在は流通事情も変わり昔ほどの地域性はなくなった。漁場は主に太平洋沿岸で、豊後水道、瀬戸内海、伊勢湾、駿河湾、相模湾などでも多く漁獲される。現在の北限は仙台湾かと思われるが、20年以上前は茨城県が北限とされていた。
2012.12.06
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ヤマセミ(山翡翠、学名:Megaceryle lugubris)は、ブッポウソウ目・カワセミ科に分類される鳥類の一種である。山地の渓流に生息するカワセミの仲間である。かつて日本郵政公社が発行する旧80円切手のモデルにもなっていた。名のとおり山地の渓流や池の周囲に生息するが、冬は平地の河川や海岸にもやってくる。単独または番いで生活する。食性は動物食。採餌するときは水辺の石や枝の上から水中に飛び込んで、魚類や水生昆虫を捕食する。ときには空中でホバリング(滞空飛行)しながら飛び込むこともある。カワセミと同じように捕獲後は再び石や枝に戻ってえものをくわえ直し、頭から呑みこむ。大きな魚をとらえた時は足場に数回叩きつけ、殺してから呑みこむ。繁殖形態は卵生。川や湖の岸辺の垂直な土手に嘴を使って巣穴を掘り、巣穴の中に4-7卵を産む。
2012.11.23
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うだつは、日本家屋の屋根に取り付けられる小柱、防火壁、装飾。本来は梲と書き、室町以降は卯建・宇立などの字が当てられた。 平安時代は「うだち」といったが、室町時代以降「うだつ」と訛った。本来は梁(うつばり)の上に立てる小さい柱のことをいった。そののち、切妻屋根の隣家との間についた小さい防火壁で1階屋根と2階屋根の間に張り出すように設けられているものも「うだつ」と呼ぶようになる。本来、町屋が隣り合い連続して建てられている場合に隣家からの火事が燃え移るのを防ぐための防火壁として造られたものだが、江戸時代中期頃になると装飾的な意味に重きが置かれるようになる。自己の財力を誇示するための手段として、上方を中心に商家の屋根上には競って立派なうだつが上げられた。 うだつを上げるためにはそれなりの出費が必要だったことから、これが上がっている家は比較的裕福な家に限られていた。これが「生活や地位が向上しない」「状態が今ひとつ良くない」「見栄えがしない」という意味の慣用句「うだつが上がらない」の語源のひとつと考えられている。
2012.10.13
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姥島姥島(うばしま)は神奈川県茅ヶ崎市の沖合1,200 m付近にある無人の岩礁群である。乳母島とも記述され、古くは筆嶋ともよんだ。高さは20 m余り。東西約600 m、南北約400 mにわたる複数の岩からなり、高低の岩が海中にも存在する。凝灰質砂岩を主とする新第三紀の池子層からなり、最大の岩礁は烏帽子の形をしているため、一般に烏帽子岩(えぼしいわ)とも呼ばれている。釣り人のために茅ヶ崎漁港から渡し船が運航されている。 江戸時代には、対岸にあった相州炮術調練場の大筒稽古においても姥島が標的となることがあった。 戦前は烏帽子状の岩の先端がもう少し先に延びスマートな形をしていた。太平洋戦争後、対岸の辻堂海岸一帯が在日米海軍辻堂演習場となり、その海上演習場である「オーボー第一区域」の標的として1954年4月13日まで姥島が使用された。このために先端が欠けて現在の姿となったといわれている。
2012.10.08
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三千院(さんぜんいん)は、京都市左京区大原にある天台宗の寺院。三千院門跡とも称する。山号は、魚山(ぎょざん)、本尊は薬師如来、開基は最澄である。 京都市街の北東山中、かつては貴人や仏教修行者の隠棲の地として知られた大原の里にある。青蓮院、妙法院とともに、天台宗の三門跡寺院の1つに数えられている。三千院は8世紀、最澄の時代に比叡山に建立された円融房に起源をもち、のちに比叡山東麓の坂本(現・大津市)に移され、たび重なる移転の後、1871年(明治4年)に現在地に移ったものである。「三千院」あるいは「三千院門跡」という寺名は1871年以降使われるようになったもので、それ以前は「梶井門跡」「梶井御所」「梶井宮」などと呼ばれ、「梨本門跡」「円徳院」などの別称もあり、「円融房」が正式の寺名だったようである。一方、往生極楽院(旧称・極楽院)は、平安時代末期の12世紀から大原の地にあった阿弥陀堂であり、1871年に三千院の本坊がこの地に移転してきてから、その境内に取り込まれたものである。 境内には往生極楽院のほか、宸殿、客殿などの建物がある。このうち、境内南側の庭園内にある往生極楽院は12世紀に建てられた阿弥陀堂で、内部には国宝の阿弥陀三尊像を安置している(三千院と往生極楽院は元来は別々の寺院であった)。
2012.09.22
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尖閣諸島(せんかくしょとう)は、東シナ海の南西部(八重山諸島)にある島嶼群。石垣島北方約130 – 150kmの、北緯25度44分 - 56分、東経123度30分 - 124度34分の海域に点在する。尖閣列島(せんかくれっとう)ともいう。「尖閣諸島」の名称は、明治政府からこの島を無償貸与された実業家の古賀辰四郎の依頼により、1900年(明治33年)5月に当地を調査した高知県出身の教師、黒岩恒が命名したもので、島の尖っている形状と「イギリス海軍水路誌」にある "The Pinnacle Islands" の意訳に由来する。付近海域は、好漁場であるためそれを餌とする大量の海鳥の生息地となっており、特に絶滅危惧種のアホウドリ(1953年8月1日~4日に行われた、高良鉄夫琉球大学助教授、宮城元助助教授と琉球大学学生11人の尖閣諸島学術調査団による尖閣諸島調査において、尖閣諸島北小島でアホウドリ数羽の生息を非公式に確認。その後、1971年4月1日に、池原貞雄琉球大学教授ら琉球大学学術調査団が尖閣諸島南小島でアホウドリ12羽が生息していることを公式に確認。)やクロアシアホウドリ(1970年12月10日に、九州・長崎大学合同学術調査団は、尖閣諸島北小島でクロアシアホウドリ数羽を発見。1971年に、池原貞雄琉球大学教授ら琉球大学学術調査団が尖閣諸島北小島でクロアシアホウドリ6羽の生息を確認)の繁殖地となっている。しかし沖縄県がアメリカ軍に占領され、日本政府が主権を行使できなかった1960年代には、尖閣諸島に大量の台湾人漁民が「不法入域」していたため、1963年(昭和38年)5月15日~18日に行われた琉球大学の高良鉄夫教授らによる第四次調査で100万羽以上の海鳥が生息する事を確認していたが、1968年(昭和43年)7月7日~9日に行われた第五次調査では、小島のカツオドリが20万羽から1万羽、北小島のセグロアジサシは50万羽から10万羽に激減していた。これは台湾漁民が不法操業のついでに上陸し、海鳥や卵を大量に収奪していたからである。その後も台湾漁民による不法上陸が報告されているが、現在では上陸そのものが厳しく制限されており、保護されているため、元の海鳥の楽園となっている。
2012.09.14
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ススキ(芒、薄)とは、イネ科ススキ属の植物。萱(かや)、尾花ともいう。野原に生息し、ごく普通に見られる多年生草本である。 高さは1から2m。地下には短いがしっかりした地下茎がある。そこから多数の花茎を立てる。葉は細長く、根出葉と稈からの葉が多数つく。また、堅く、縁は鋭い鉤状になっているため、皮膚が傷つくことがある。 夏から秋にかけて茎の先端に長さ20から30cm程度の十数本に分かれた花穂をつける。花穂は赤っぽい色をしているが、種子(正しくは穎果・えいか)には白い毛が生えて、穂全体が白っぽくなる。種子は風によって飛ぶことができる。 日本には全国に分布し、日当たりの良い山野に生息している。夏緑性で、地上部は冬には枯れるのが普通であるが、沖縄などでは常緑になり、高さは5mに達する。その形ゆえに、たまにサトウキビと勘違いする観光客がいる。国外では朝鮮半島・中国・台湾に分布するほか、北米では侵略的外来種として猛威をふるっている(日本にセイタカアワダチソウが侵入したのと逆の経路で伝播)。物遷移の上から見れば、ススキ草原は草原としてはほぼ最後の段階に当たる。ススキは株が大きくなるには時間がかかるので、初期の草原では姿が見られないが、次第に背が高くなり、全体を覆うようになる。ススキ草原を放置すれば、アカマツなどの先駆者(パイオニア)的な樹木が侵入して、次第に森林へと変化していく。
2012.09.07
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イングリッシュ・スプリンガー・スパニエル古来より鳥猟を業としてきた、祖先はスペインからイギリスに上陸。激しい狩りにも耐えうる体力・持久力を有し、かなりの運動量が要求される。 賢く、とても明るい性格で、はしゃぎたがる性格であるが、突発的に興奮する事もあり、初心者には不向きな犬種である。股関節形成不全、網膜萎縮になりやすい。
2012.09.04
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城ヶ島(じょうがしま)は、神奈川県三浦半島の南端に位置する島。 周囲長約4 km、面積0.99 km²で、神奈川県最大の自然島である。東西幅約1.8 km、南北幅約0.6kmと東西に細長い菱形の地形であり、東西南北にそれぞれ安房ヶ崎(東)、長津呂崎(西)、赤羽根崎(南)、遊ヶ崎(北)という岬がある。長津呂崎には城ヶ島灯台、安房ヶ崎には安房埼灯台が建つ。安房ヶ崎は神奈川県の最南端でもある(北緯 35゜ 7'32)。行政区分は三浦市で、220世帯604人が暮らす(2005年10月1日現在)。 尚、しばしば伊豆の城ヶ崎と混同されるが、三浦三崎周辺に城ヶ崎という地名は存在しない。風光明媚な三浦半島の情景を凝縮したような景観で知られる、鎌倉時代以来の景勝地である。漁業、軍事、交通、文学に深く関わってきた多面的な歴史を持っており、大正時代に北原白秋の『城ヶ島の雨』(後述)が評判を呼ぶと、ロマンの島として全国に名を知られるようになった。大正末期から終戦までは東京湾要塞の一部として砲台が存在したが、戦後に「城ヶ島公園」として開放された。現在は磯釣、磯遊びに適する行楽地として知られる他、三崎と共に海を囲み、遠洋漁業基地三崎漁港の一角を成す。 三崎との距離が約500mと近いため、歴史的にも三浦三崎の一部と言える存在である。かつては三崎仲崎岸壁より出ていた渡し舟が唯一の渡島手段であったが、1960年に城ヶ島大橋が開通すると三崎との一体化は一層進行した。
2012.08.30
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河口湖(かわぐちこ)は、山梨県南都留郡富士河口湖町(旧河口湖町、勝山村、足和田村)にある湖。富士五湖の一つである。富士箱根伊豆国立公園に指定されている。富士五湖の中で最も長い湖岸線を持ち、最も低い標高地点にある。面積は富士五湖では2番目の大きさで、最大水深は精進湖と並び3番目の深さ。 湖の中央に鵜の島と呼ばれる小さな島がある。富士五湖の中で最も北に位置し、全体が南都留郡富士河口湖町に属する。 河口湖には天然の流出口がないため、古来より大雨により増水し、湖岸の村々に洪水被害を出した。一方で、山を挟んだ東の富士吉田市域の新倉村では透水性の溶岩台地が広がり、水利に乏しく、湖水を新倉方面へ通水させる用水路の開発が求められていた。新倉掘抜は江戸時代初期から工事が行われ、曲折を経て、江戸後期の1865年(慶応元年)に完成し、新倉村は河口湖の水利権を保持している。1911年(明治44年)には新たなトンネルが掘削されたため、それ以降、新倉掘抜は利用されていない。 現在は、1917年(大正6年)に竣工した第二嘯川(東京電力の放水路)と1994年(平成6年)に完成した嘯治水トンネルを合わせた、嘯(うそぶき)川から構成される放水路により、宮川に放水される。この宮川は桂川(=相模川)の支流であるため、河口湖は相模川水系に属している。 湖の東には三つ峠、北には御坂山地の黒岳、節刀ヶ岳が連なり、さらに西には十二ヶ岳がそびえる。南側は開け、そこに富士山が美しい山容を見せ、湖面に写る逆さ富士は、湖の優れた景勝である。
2012.08.29
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南大隅町(みなみおおすみちょう)は、鹿児島県(離島部除く)の東南部、大隅半島の南部にある町。肝属郡に属する。 2005年3月31日、根占町(ねじめちょう)と佐多町(さたちょう)が合併して発足した。日本本土最南端の佐多岬を有する。縄文時代早期の遺跡として大中原遺跡が、弥生時代中期の遺跡として谷添遺跡があり、この頃からの定住があったとみられる。 713年の大隅国設置時には肝属郡に属していたが、後に大隅郡(1887-1897年は南大隅郡)所属となる。平安時代からは禰寝院として荘園支配がなされたのち禰寝氏領となる。 江戸時代は薩摩藩(島津氏)が根占・佐多に外城をおき薩摩藩直轄領となった。外城は1784年に郷に名称を改め(根占郷・佐多郷)、1889年の町村制実施時にほぼそのままの区域をもって小根占村・佐多村となった。小根占村は1941年に、佐多村は1947年にそれぞれ町制を施行し根占町・佐多町となった。 平成の大合併では2003年6月に根占町・佐多町・大根占町・田代町の4町で南隅地域合併協議会を設置し合併協議を進めたものの、大根占町側の反対により交渉は決裂した。根占町と佐多町は2004年9月に南大隅合併協議会を設置。同年11月の合併調印式の実施・議会による議決を経て、2005年3月31日に2町は合併し南大隅町が発足した。 町名は一般応募により決定されたものであるが、南大隅(南隅)は錦江町を含む2町を合わせた地域をさす名称でもある。
2012.08.24
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キタダケソウ(北岳草 Callianthemum hondoense)はキンポウゲ科キタダケソウ属の多年草。高山植物。 南アルプス北岳の固有種で、高山帯の草地に生育する。花茎の高さは10-20cmで、先端に直径約2cmの白い花をつける。花期は雪解けの6月中旬から7月上旬と他の高山植物よりも早く、登山最盛期の8月には姿を消してしまう。1931年(昭和6年)7月17日に千葉高等園芸研究科生の清水基夫が北岳山頂直下で新種のこの植物を採取し、後にキタダケソウと名付けられた。
2012.07.20
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イトウ(伊富、伊富魚、伊当、??(魚偏に鬼) 学名 Hucho perryi)とはサケ目サケ科イトウ属に分類される淡水魚である。別名はイド、チライ、オビラメなど。日本最大の淡水魚として知られており、体長は1mから大きいものでは1.5mに達する。記録上最大のものでは、1937年(昭和12年)に十勝川でおよそ2.1mのイトウが捕獲されたことがある。 和名は「糸魚」の意味で、これはサケ類としては全長に比して体高が低く細長い体形である上に、後述のようにサケとは違い早春に上流に遡上・産卵するため、初春から晩春にかけては生殖活動後の痩せ細った個体が多く見られるために、「糸のように細い魚」という印象が持たれたことによる。日本では北海道の一部の河川・湖沼に、日本以外では樺太、南千島に生息している。かつては岩手県で1水系、青森県小川原湖のほか1水系にも生息していたが、絶滅した。現在、イトウの生息する南限は北海道の尻別川である。イトウ属には、北海道やサハリンなどに生息するイトウの他にもロシア沿海州地方・中国東北部(旧・満州)・シベリア地方・モンゴルなどに生息するアムールイトウ(別名:タイメン)、中国の揚子江(長江)に生息するチョウコウイトウ(揚子江イトウ・長江イトウ 川西北名?猫?虎嘉? Hucho bleekeri )、ヨーロッパ中央部のドナウ川(ダニューブ川)に生息するドナウイトウ(ダニューブイトウ。別名:フッヘン)、北朝鮮に生息する高麗イトウ、中国メコン川に生息するメコンイトウ(瀾滄猫?虎嘉? Hucho bleekeri中国科学院西北高原生物研究所認定)などがいる。これらは北海道などに生息するイトウとは違い、一生を完全に河川や湖沼で過ごす純淡水型であり決して降海しない。
2012.07.15
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大賀ハス(オオガハス、おおがはす)は、1951年(昭和26年)、千葉県千葉市検見川(現・千葉市花見川区朝日ケ丘町)にある東京大学検見川厚生農場(現・東京大学検見川総合運動場)の落合遺跡で発掘された、今から2000年以上前の古代のハスの実から発芽・開花したハス(古代ハス)のこと。 戦時中に東京都は燃料不足を補うため、花見川下流の湿地帯に豊富な草炭が埋蔵されていることに着目し、東京大学検見川厚生農場の一部を借り受け草炭を採掘していた。採掘は戦後も継続して行われていたが、1947年(昭和22年)7月28日に作業員が採掘現場でたまたま1隻の丸木舟と6本の櫂を掘り出した。このことから慶應義塾大学による調査が始められ、その後東洋大学と日本考古学研究所が加わり1949年(昭和24年)にかけて共同で発掘調査が行われた。その調査により、もう2隻の丸木舟とハスの果托などが発掘され、「縄文時代の船だまり」であったと推測され落合遺跡と呼ばれた。 そして、植物学者でハスの権威者でもある大賀一郎博士(当時・関東学院大学非常勤講師)が発掘品の中にハスの果托があることを知り、1951年(昭和26年)3月3日から地元の小・中学生や一般市民などのボランティアの協力を得てこの遺跡の発掘調査を行った。調査は困難をきわめめぼしい成果はなかなか挙げられなかったが、翌日で打ち切りという30日の夕刻になって花園中学校の女子生徒により地下約6mの泥炭層からハスの実1粒が発掘され、予定を延長し4月6日に2粒、計3粒のハスの実が発掘された。 大賀博士は5月上旬から発掘された3粒のハスの実の発芽育成を、東京都府中市の自宅で試みた。2粒は失敗に終わったが3月30日に出土した1粒は育ち、翌年の1952年(昭和27年)7月18日にピンク色の大輪の花を咲かせた。このニュースは国内外に報道され、同年11月17日付米国ライフ誌に「世界最古の花・生命の復活」として掲載され、博士の姓を採って「大賀ハス」と命名された。また大賀博士は、年代を明確にするため、ハスの実の上方層で発掘された丸木舟のカヤの木の破片をシカゴ大学原子核研究所へ送り年代測定を依頼した。シカゴ大学のリピー博士らによって放射性炭素年代測定が行われ、ハスの実は今から2000年前の弥生時代以前のものであると推定された。自宅近く、博士の銅像が建てられている府中市郷土の森公園修景池には、この二千年ハスが育てられており、鑑賞会が催されている。
2012.06.21
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ムササビ(?鼠、?鼠)は哺乳類の一種である。ムササビ属に属する哺乳類の総称でもある。 ネズミ目(齧歯目)リス科モモンガ亜科に属する。野臥間、野衾(のぶすま)という異名がある。長い前足と後足との間に飛膜と呼ばれる膜があり、飛膜を広げることでグライダーのように滑空し、樹から樹へと飛び移ることができ、160m程度の滑空が可能である。長いふさふさとした尾は滑空時には舵の役割を果たす。頭胴長27~49cm、尾長28~41cm、体重700~1500gと、同じくモモンガ亜科に属するモモンガに比べて大柄である。(ホンドモモンガPteromys momongaは頭胴長14~20cm、尾長10~14cm、体重150~220g)のみならず、日本に生息するネズミ目としては、在来種内で最大級であり、移入種を含めても、本種を上回るのものはヌートリア位しかいない。
2011.12.16
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