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補足、および鎮魂 本論を続ける前に、補足の必要を感じます。「ひめゆり学徒隊」および沖縄県民の犠牲者に関する取り扱いのことです。これら数多くの死者を、片やは一意的に「戦争の犠牲者」と叫び、もう一方は「愛国者」と呼んで、それを根拠に反戦や安全保障を言い立てる仕方は、ひとえに生き残った側の「都合」で死者を語っているということなのです。どういう論陣をはるにせよ、今生きている自分の思惑で死者を弔ってはいけない。というか、それでは死者は永遠に弔うことが出来ない。そうした思考回路を採用する限り、死者は何度でも墓場から掘り起こされることになる。 現にお隣の国々では、死者(だけでなく生者の記憶も)を掘り返し、歴史を何度でも改変しようと試みています。今の都合で自身も含めた「過去を書き換えよう」とすると、それは結果的に「確かにあっただろう過去から、必ず復讐される」。要は過去に呪縛されて永遠に呪い続けられるという結果を招く。「死者(過去)をないがしろにしてはいけない」というのはそういうことなので、古代人はそれをよく知っていたのでした。私は今の思惑で以って死者(過去)を語ることは、死者(過去)に対する冒涜だと思っています(これは何も「従軍慰安婦はいなかった」「南京事件は存在しなかった」ということを言っているわけではないですよ。立論の仕方、あるいは過去や死者への向き合い方が間違っている、と言っているのです)。 こういう場合、私たちに共有出来ることというのはただ一つ、愚劣な作戦の最中にあっても、あるいは惨烈な火力を前にしても、「ひめゆり」や沖縄の県民は死ぬまで、「自分の生を、必死に生きよう」としただろう、という一点だけであって、「天皇陛下万歳!」と叫んだか「お母さん!」と叫んだかは関係ない。極論すれば、どういう死に方をしたか、というのも死者からすれば関係ない(彼らは我々が生きている限り、永遠にたどり着けない別世界にいるのです)。生き残った側が死者に対して出来ることは、ここにかつて「ひめゆり」の女学生や沖縄の県民がおり、戦争によってその数多くが死んだ、という事実を記録に止め、それを語り続けることだけだということです。 という意味で蛇足ですが、大岡昇平の「レイテ戦記」は数多くの戦記物が陥る、生き残った側の思惑や情緒を極力排除して、死者たちの経路だけをひたすら追い続けて記録した、という点でまったく別の表層に立っている。「鎮魂」という言葉を使うとすれば、それはたぶんこうした仕方でしか出来ないのではないか、と思ってしまうのです。その中でレイテ戦で行われた特攻作戦について、うろ覚えですが大岡氏は「参謀部の作戦がどれだけ愚劣なものであっても、それを自身の生き方として受け止め、米艦隊に突っ込んでいった特攻隊員の勇気は、どこまでも称賛されねばならない」というくだりは胸を打ちますね。「犬死」という仕方でこれらを罵倒する、あるいは「愛国行動」の英雄と称揚するとはまったく別の地点で、死者たちの「生き様」を見詰めているでしょう。「ひめゆり」も沖縄県民もまた、同じ地点で見詰めなければならないと思う。 さて、話を戻します。 これは完全な妄想なのですが、アメリカ人とか中国人といった、いかにもスタンドアローンな気質を持ち出すまでもなく、日本人以外の自治組織の成員が、東日本大震災ような状況に立ち至った場合に、「自己決定に先立つ、何ものか」を意識して、自分の振る舞いを規制することがあるということが、私にはどうしても想像出来ない。逆に言えば、そもそもそれを統べている国家権力自体、国民にそんなことは最初から要求も期待もしていないのではないか?「国が出来るのはここまで。後は自分たちで何とかせよ」というのは、何も開発途上国の話ではなく、米中はじめほとんどの国家と国民の間の了解事項なのではないか、と思うのです。 彼らは「持ち場を守る」「職責を全うする」という自身の役目について、東日本大震災のような状況に置かれた場合、常に「自己決定を優先する」のではないか?その是非とか価値論は別として、肝心なことはそうした自己決定した振る舞いに関して、本人たちが「疚しさ」を感じることはないし、おそらく周囲も(どこかの船長みたいに、誰よりも速く真っ先に逃げたみたいな)よほどの場合は別として、「それを非難することは、あまりしないだろう」ということなのです。早い話、この自己決定の中には「自分の家族(一族)」の生存は、他の何よりも優先する」という判断も含まれるので、一概に「だからスタンドアローンな構えは利己的だ」と決め付けるわけにはいきません。 では目前に迫った津波を前にした警察官や消防団の人たちの行動を規制したものは何だったのか?確かにそこには多少「世間の目」が働いていたかもしれない。それを全部否定することは出来ません。で、それをもって「日本人は自己決定出来ない」というのが、従来から面々と続いて来た(主として欧州帰りの)文化人の、言わばネガティブな立論でした。この人たちの言説に伏流しているのは、スタンドアローンな生き方に対する無前提な肯定です。しかし私はここで話を片付けてしまうのには違和感というか、もっと深堀りする必要を感じる。なぜなら、こうした断定には、無意識の「価値論」が潜んでいるからです。私は出来ればこうした他律的とか英雄的といった、安手の価値論を超えたところまで話を進めて、そこから現れるものを見てみたい。 私がここに見止めるのは、何よりも本人たちが「ここで職務を放棄して、持ち場を離れた」場合、あとで「きっと自分は後悔するだろう」という、心の疚しさを抱えていたのではないかということなのです。大事なのは本人たちの意識内にあったもの、そして他の国ではなかったであろうものとは、何であったのかということです。
2015.07.30
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沖縄、そして大震災 私は田原総一朗の「朝まで生テレビ」が嫌いで、長らく敬遠していたのですが、青山氏が出るというので先日久しぶりに観ました。それが意外に面白かったので、いずれ取り上げたいと思っているのですが、それはさておき、この番組が嫌いだった理由は、大半の人たちがそうだと思うのですが、シビアな議論を強引に仕切って、ある一定の方向に誘導しようとする。で、その方向というのが、かつては明らかに昔ながらの左翼であり、あるいはまた既成勢力(ということは、要するにほとんど保守)に対する反権力的擬態をしてみせる、というステロタイプな番組作りにあったのです。 私がこのことで一番気に障るのは、そうした議論の途中でコマーシャルを入れる、あるいは割って入って他の論者に振るといった手法自体が、この番組というか田原氏の大きな「売り」になっていたことで、それってシビアな議論そのものを随分バカにしたやり口じゃないか、ということなのでした。まあこの手の批判は、今さら触れるまでもなく言われ続けて来たことでしょうが。 じつは前回の「朝生」もたまたまなぜか観ていて、確か沖縄がテーマだったと思うのですが、ゲストの布陣を見ても明らかに旧態依然とした右左の論者ばかり。最初から自論の投げつけあい、相手の揚げ足取りの応酬に終始するばかり。というか、両者ともハナから相手の話を聞く気がないのだから、新たな視点を期待するだけムダという内容でした(全部観たわけではないですが)。 では一体何の目的で、こんな番組を作っているのだろう、ということなのですが、立場のハッキリした論者を並べれば、論点は放っておいても明らかになる、とでも思っているのか知らん。しかしこうした手法は敗戦後無理矢理導入した、アメリカ製「民主主義」の一番古びきった論争形態なので、私たちはもうすっかり、その種の議論は「聞き飽きた」。しかも取り上げるテーマが、毎回「政治向きのシビア」なものなので、不毛な論争の継続がそのまま当事者たち(この時は沖縄県民)を傷付ける結果を招く場合もある、ということに誰も気付いていない、という滑稽な景況を呈するのです。 一例を挙げれば、「ひめゆり学徒隊」に代表されるような沖縄県民の捉え方。左派というか沖縄はもとより大半の日本人は、彼らは一意的に「戦争の犠牲者」で、だから彼らを無益に死地に追いやった日本の施政者は永遠に糾弾さるべき、という見方をするのですが、果たしてそれで十分なのかどうか?当時の施政者たちの無能はともかくとして、私は沖縄をはじめ広島や長崎、あるいは東京大阪など一般市民の死者を、一律に「一方的に巻き込まれた戦争の犠牲者」という括り方で弔っていいものかどうか、というためらいがあるのです。 断っておきますが、だから彼らの中には「愛国者」もいただろう、「天皇陛下万歳!」を叫んだ人もいただろう、という話ではないのです(右翼的な人たちには、ことさらにそうした事例を強調する向きが多い)。 そうではなくて、日本軍の守備隊と同道せざるを得なかった沖縄県民は、果たしてその時我が身を「一方的に巻き込まれた被害者」と規定していたのかどうか、ということです。結果として洞窟に追い込まれ、赤ん坊を殺し手りゅう弾その他で自決せざるを得なかったとしても、彼らはその時、我が身を「理不尽な戦争に巻き込まれた、惨めな犠牲者」と思いつつ死んでいったのだろうか、と私など思ってしまう。「そんなことはないだろう。『酷いことになった。この先どうなるのだろう』と思いつつ、なおその上で『主体的に我が身を処そう』としたのではないか?」。なぜなら「一方的な被害者として死ぬことほど、人として惨めな死に方はないから」というのが私の読みなのです。 アメリカ軍という圧倒的な敵を前に、彼らの心を占有していたのは明らかに「恐怖」であり、中にはその仮借のないアメリカ軍の火力に「怒り」を感じる人もいたでしょう。しかし、「理不尽に巻き込まれた戦争で、それを招いた日本軍が憎い」と考えながら同道した人たちは少なかったのではないか。もしそうなら、もっと集団投降があってしかるべしです。これまた妄想ですが、中国やその他の国ではもっと早く、いくら自軍の兵士が止めたとしても集団投降は起るでしょう。私はここにサイパンでも同じですが、日本人のエートスを見てしまう。 誇り高い日本人などというのではもちろんなくて、ここに見止められるのは、どうしようもなく「あらかじめ規定された日本人のエートス」であって、それはたぶん先に触れた東日本大震災に現れた消防団や警察官の身の処し方に通底するものだろう、ということなのです。 話が「東日本大震災」に戻ります。 たんに「職務に忠実だった」では、とても括り切れない強い心理的な「行動規制」が、おそらく彼らには働いていた。しかもその多くがボランティアである消防団員だったというのが、私たちの心を痛めます。そもそも消防団は火事や洪水などの災害時に共同体維持に不可欠な成員として、その性質上主として若い人たちに付されていたものでしょう。消防や警察といった言わば公の機関に先立つ、内輪の成員としてそれらはあったわけで、その淵源はたぶん青年団のような若衆の組織だったのではないか。私の記憶でも、子供のころには町や村に青年団があって、祭りとか市民運動会のような各種行事には必ず顔を見せていたものです。 しかし、そうした自治的な内輪の組織は、何も日本に限った共同体成員というわけではないでしょう。で、それでもなお、こうした内輪の組織における成員には、日本だけに特異的に現れる振る舞いというのがあったのではないか? それはたぶん「自己決定に先立つ、何ものか」を、意識しているか否かの差だったろう、と私は思う。
2015.07.29
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Mission 楽しい話のおわり近く、坊主の説教よろしく随分鬱陶しい話になってしまい、ゴメンナサイなのですが、なぜ唐突に京都の話を持ち出したかというと、今現在「安保法制」反対を叫ぶメディアとか議員や市民運動家たちの議論の立て方や、根底に潜む思考マインドには共通した傾向があるからです。キツイですが一言でいえば、「ややこしい、鬱陶しい話はイヤ(セシウムはイヤ、戦争はイヤ)」という児戯めいた構えが根っこに見て取れる。しかしややこしくても鬱陶しくても、現実に目の前で燃えている火事から、目を逸らすわけには行かないでしょう。要は端的に「当事者意識」の有る無しなんだろう、と私は思うのです。 反安保にせよ反原発にせよ、あるいは男子サッカーの称揚にせよ、そうした立論を何もかも否定するわけではない。立て方の幼児性を言っているのです。結局それらを呼号する人たちの思考マインドには、「事柄を真から引き受ける」という構えが本当にあるのか、と疑わざるを得ない。かつて起こった拉致事件や、現在進行中の尖閣問題、沖縄米軍基地移設問題、あるいはドイツやブラジルを本気でいつどう倒すか、というようなごく現実的な問いを立てたとき、上のような思考マインドでは、絶対に具体的なプランは出て来ないと私は思う。 こうした立論の仕方は、結局自分自身の見識を貶めるどころか、ことと次第によっては、今現在自身が当たり前に享受している生活と安全が損なわれる事態も招くかもしれない。現に去年は小笠原諸島などで、領海侵犯した200隻以上の中国船が、日本の漁民が魚の生活環境を考えて、保護して来た珊瑚礁をほぼ根こそぎ破壊しました。現行法制では海上保安庁の取締りには限界があるのを見切って彼らはそれをやり、さらに中国政府はそれを事実的に容認した(海賊なのに中国国旗の掲揚を許した)のです。辺野古移設反対にあれだけ熱心な沖縄の行政府も、県の行政区域であるはずの尖閣諸島については何も言わない(我が家の軒先ですよ)。 現実の事態を「引き受ける気がない」当事者たちは、そういうふうに事をすり替えて傲然と振る舞っている自分というものが、本当は何を毀損しているのか(自分自身でしょうが!)まったく気付いていないのではないか。 と、つい興奮してしまいました。すいません。閑話休題 試合後でしたか、宮間キャプテンが「女子サッカーをブームでなく、文化にしたい」と言っていたのには驚きました。まあ、彼女がそこに込めた思いは、いろいろあるのでしょう。私は発言の意味するところでなく、現役のアスリートがこういう言葉を淡々と口にする、その「心組」に感服したのです。「本気で事柄を引き受ける人」からは、こういう言葉が自然に発せられるし、彼女が抱いている危機感は、まともに私たちの耳に届く。なぜなら彼女たちは現に今までそうして来たから。すっかりスターシステムに乗っかったサムライブルーの諸氏は、これと同じような発言をし、それを聞き手の心に届かせることが出来るだろうかと思ってしまう。そんなことは誰か他人の仕事だろうと、どこかで思っていないか? 「人を見抜く」とか「本者と偽者を見分ける」方法というのは、たぶんそんなとんでもない技術じゃないだろうと思うのです。彼らから発せられる「言葉」が、どれだけ素直に自身の腑に落ちるか?要は自身の心を、どれだけ「子供のように」外に開いておけるか、という器量に過ぎないのでしょう。この年になって、実はそれが案外難しいというか、日常が六十年も続くと、何と膨大な滓が我が身にまとわりついて、物事を見え難くしてしまっているのだろう、と改めて思うのです。 という意味でも、まだ日本のマスメディアやしかるべきスポーツ関係者たちは、「なでしこ」たちが体現している「真の意味」、あるいは日本の文化にもたらしている「新たな価値」のようなものに対して、充分なリスペクトを払っているとは到底思えないのです。「本者とは何か、事柄を引き受けるとは、どういうことなのか」と。 さてさて試合の最終盤、ベテランのワンバックやランポンがピッチに入り、アメリカの祝勝会がすでに始まったような感じになって、真剣勝負が出来る雰囲気で無くなってしまったのは残念でした。まあ、致し方の無いことではありますが。 それにしてもアメリカチームは、「なでしこ」とはまた違った「召命性」を背負ってるんだな、と改めて思ったものです。以前、女子サッカーは欧米ではフェミニズムの体現者としての「召命性」を帯びている、と言ったことがありますが、アメリカなどはその旗頭であって、ワンバックさんは同性婚なのです。先般アメリカ最高裁が同性婚を承認した裁定が話題になりましたが、彼女はそれの具体的体現者としての英雄でもあるわけでした。そうかあらぬか、アメリカの監督、ロンドン大会後男性が一時やっていたと思っていたら、いつの間にやらまた女性に戻っている。彼女たち、フェミニズムの「召命」は何が何でも背負って行くんだ、という意地のようなものが感じられて、思わず笑ってしまいました。 日米異なる「召命(mission)」とは言え、それぞれが背負うものを持った「同志」であることで、彼女たちは互いをリスペクトしあっている。私はそういう関係である彼女たちを「美しい」と思いました。招き寄せる力 おわり
2015.07.25
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見返せること さてその後の「なでしこ」は、どういう戦い方をしたのか?後半15分に最後の切り札、岩渕さんを投入して超攻撃的布陣を敷き、重層的な攻撃も何度か仕掛けたのですが、いかんせん残り30分で3点のアヘッドは大きい。これが1点差もしくは2点差の局面だったならば、彼女のドリブルはかなり利いたかもしれない。しかしこれはまあ、それこそタラレバの世界の話でしょう。岩渕さんという持ち駒を使う機会は、この試合に関しては失われたのです。 私はそれでもこの間の「なでしこ」たちの戦いぶりを評価するのです。最後まで自身のスタイルを頑として変えることをしなかった。自分たちの矜持を最後まで失わずにプレーし続けた。「そうでなきゃ、サッカーなんてやってられないじゃない」と言うかのように。 思い出すのが2006年男子ワールドカップ、ドイツ大会での日本対ブラジル戦です。中田英寿や中村俊輔といったスター選手を擁しながら、1分け2敗という結果で予選落ちした最終戦、せっかく先制しながら逆転されて敗色濃厚となった後半半ばあたりから、日本は組織立ったプレーがまったく影を潜めて、各自バラバラにピッチを駆け回っているというような景況を呈していましたね。いくら相手が格上とはいえ、「戦う姿勢」が完全に消えて「投げやり」とは言わないまでも、「速く終って欲しい」というような気落ちした姿だけが目立つ試合でした。 これは何もこの時だけでなく、先だっての2014年ブラジル大会の時もそうだったでしょう。「気持が折れた」選手たちのプレーは、ハッキリ言って見苦しい。それが証拠にJリーガーファンの皆さん、これらの負け試合を後から見返したことがありますか?おそらく大半の人が「いやな記憶は、早く忘れよう」「これらは無かったことにして、次を考えよう」としているのではないか知らん。 私は不思議に思うのです。「なでしこ」の試合はロンドンオリンピックや今大会のような負け試合でも、何度でも見返したくなる。そして見返すと、今回長々としゃべって来たような発見がある。この違いは何なのだろうと考えるとき、それはやはり「気持が折れた」パフォーマンスを、ホイッスルが鳴るまで一度足りとしなかった、というところにあるのではないか?確かに「勝負には負けた」、それも今回はスコア的には惨敗の内容なのに、彼女たちのサッカーに対する「気持は折れなかった」。先の2006年では中田が引退してしまいました。おそらく(サムライブルーをまとって)サッカーをすることに嫌気が指したのでしょう。 これはほぼ確信を持って言えるのですが、今回の敗戦で「なでしこ」を辞めようと思った選手は一人もいないに違いない。否、むしろますますスキルアップしたサッカーをしたい、と思うようになった人が多いでしょう。佐々木監督が試合後の会見で、早くも来年のオリンピックの話をされていたことが、それを雄弁に物語っています。無残な試合の最中にあっても「今ここで出来ることは何なのか」「自分にとってプラスであることとは何なのか」「戦う心を保つこととは何なのか」。それもこれもひっくるめて、要は「サッカーを『真に楽しむ』には、どうすれば好いか」という気持を切らさなければ、それは明日へ繋がる。結果それは何度でも「見返すに足る」試合になるのです。 いきなり話が難しくなります。このように「まともに見返せる目」「見返すに足る過去」というのを、敗戦後日本は出来る限り持たないように努めて来た。戦争に負けたという「負の遺産」とまともに対峙することを忌避し、我が身を一意的に「被害者」と同定することによって、そこから意識的に逃れようとしたのです。これは戦後イデオロギーの右左関係なく、すべての日本人に見られた思考態度です。 残念ながらそれはある種の政治政党、あるいは反原発、反米軍基地、環境保護団体そしてマスメディアなどに、今も色濃く残っているので、堅苦しくなりますが、今般の「安保法制」の議論においても、敗戦後今に到る日本の繁栄が何によってもたらされているのか、自分たちが享受している安全と社会的安定が、どうやって維持されているのか(勝手に天から降って湧いたわけではないですよ)、まともに見ることをすっ飛ばして、「戦争反対」という意味不明のプラカードを押し立てることに何の疑問も感じない思考態度として残っています。私たちはそうした論者たちのすっかり古びきった振る舞いに、見え隠れする胡散臭さにはとっくに気付いているのです。 かつて触れ、うんざりすることなので、あまり繰り返したくないのですが、いつぞや大文字の送り火で福島の薪を燃やすのを拒否した人々、現実に自分たちが享受している生活が何によって成り立っているのか、についての視点を一切ネグレクトして、セシウムによる環境汚染だけを言い立てていました。福島の人々はこの事実を決して忘れないでしょう。これによって京都が失ったものが何なのか。端的に「私たちはあなたがたの痛みを一切共有しません」というメッセージを発信してしまっていることに気付いてない。京都の人はこの過去に選択した事実を、まともに「見返すことが出来ない」でしょう。 私が糾弾しているのは、それを言い出したある種運動団体ではない(そんな連中はいつの世にも、どこにでもゴマンといます)。それをはねつける見識を持たなかった京都人(とくに学識経験者や宗教団体の人々)の在りようのことを言っているのです。 その人たちは「なでしこ」の振る舞いかたをしかと見て、それが真に語っていることを、とくと考えたほうが良い。なぜ「彼女たちは前を向けるのか」、そしてなぜ「男子サッカーは世界と戦えないのか」と。
2015.07.24
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女神 さて肝心なのは、この時の監督の決断と、ピッチに立つ選手たちの意思は、どこまで統一されていたのかということです。結果論でなく、この時の采配に対して当の「なでしこ」たちには、考え方の共有に若干のタイムラグがあったのかもしれない。 要はより強い戦う姿勢を出す前に、本来の「なでしこ」らしい戦いのリズムをもう少し続けたかった、というところがあったかもしれないのです。監督の覚悟をピッチの上で表現するのに、少し時間が掛かったのではないか? こんな勝手な妄想を並べるのは、その後しばらくして「なでしこ」にしては、まことに珍しいパフォーマンスが観られたからです。これはあるいは私の見間違いかもしれないのですが、本来常に冷静に自分たちのペースに持ち込もうとする彼女たちの中に、通常観られない激しいプレー、言ってみれば一種「怒り」を伴なったようなパフォーマンスを観たような気がしたからです。 もちろん、ここで言う「怒り」とはアメリカに対するものではなく、自分自身に向けてのもので、「こんな無様な試合をしてたまるか」みたいに、肩肘を突っ張ったような素振りを観止めたのですが、あまりにもわずかな瞬間のことだったので、確かなことは分りません。 さて、以下はまったくの妄想なのですが、あるいはこの時監督の求めていたものは、まさしくこの「外にハッキリ見えるパフォーマンス」だったかもしれない。「なでしこ」本来の沈着冷静なペースは戻りつつあるにしても、しかし前半の30分というこの局面で、もっとも欲しかったのは「相手に対して、ハッキリ目に見える激しい威圧感」ではなかったか。今だかつて見せたことのないパフォーマンスを示さないと、かすかに残された「招き寄せる力」もすぐ飛び去ってしまう。 澤さん菅沢さん投入の意図は、たんに彼女たちの個人的な技量を期待してのことではなく、それによってピッチ上の全員が、いっせいにもう一段ギヤアップすることを期待したわけでしょう(妄想ですよ)。まあ、技術的にはポジションやフォーメーションの変更など、若干のタイムラグが生じるのは致し方ないですが。私が先に観たと思った一人か二人の「激しいプレー」は、結果的には全体に広がらず、ペースはつかんだものの前半にもう一得点するということは出来ませんでした。 しかしそうした若干のズレが生じた原因も、結局はロイドの4点めが利いているのだと思う。矢継ぎ早の監督の選択にピッチの動きが追いつかないのは、3点という得点差が生じさせているのです。受けに立ったアメリカもこの点差なら、そうそうの威圧感では浮き足立つことなく防御網を張ることが出来たでしょう。 驚くべしは、それでも後半の開始7分に相手のオウンゴールを奪っていることで、局面としてはこの試合でもっとも高潮した場面でした。しかしこれが前半でなく後半だったというのは、案外大きかったのではないか?後半を2点差で迎えるか3点差で迎えるかでは、アメリカの入り方は心理的にかなり違って来るような気がする。それが直後の5点め(後半9分)に繋がったのだろうと思うのです。 この試合アメリカの5得点のうち4点までが、コーナーキックを含むセットプレーというのは、力攻でガンガン押して来る従来のイメージとは随分違って見えます。この5点目のコーナーキックは、まさしく勝利を呼び込む女神が生んだと言っていい。この時点で1点差でなく2点差だったということが、アメリカの選手に余裕を与える。そして得てしてそうした局面では、センタリングからの折り返しのボールが、スポッと味方の選手に収まってしまうものです。 まだ時間はだいぶ残されてはいましたが、勝負は実質的にこの瞬間に決まったと言っていい。「勝利の女神は永遠に飛び去った」のです。
2015.07.23
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勝負の機微 序盤で4失点という有り得ない展開にあっても、「なでしこ」は不思議なくらい自分たちのペースを崩さない。アメリカチームが知っているとしたら、たぶんこの不気味なほどの「冷静さ」であったでしょう。これまた同じ状況が出来した場合、男女を問わず他のチームならどう振る舞うだろうと想像してしまう。通常ボクシングに代表されるように、打たれたら空かさずパンチを繰り出して相手の攻撃を封じる、というのが、こうした「相手がある戦い」の場合の鉄則でしょう。 準決勝のアメリカ対ドイツ戦は、ランキングの点でも事実上の頂上決戦で、興味深く観たのですが、果敢に先制攻撃を仕掛けるドイツに対してアメリカも攻撃で応戦し、結果的にドイツのエースストライカー、シャチッチを完全に封じることに成功しましたね。男子サッカーでも点が入ると同時に選手の動きが変わると言うか、はっきり言えば「頭に血が昇った」感じでプレーし出す。まあそれが悪く出た場合は、先のような極度に集中を欠いてファウル退場を連発、自らゲームを潰してしまうこともあるのですが、基本的には「力には力で応戦する」のはmomentum(勢い)な対戦型ゲームでは当然の反応でしょう。 しかし何度も言いますが、「なでしこ」はそうではなかった。反撃の素振りを見せると言うよりは、明らかに自分たちのペースを何とかつかもうと、試行を重ねていたのであって、ヘタに相手の挑発に乗って乱戦に入ってしまえば、それこそ戦力を無益に消耗する結果になったかもしれません。現に4点め以降、まあアメリカ側がクールダウンしたこともありますが、「なでしこ」の防御網はようやく活性化したように見える。 ここまでの経緯は開始二十数分の間に起った出来事です。ほとんど有り得ない状況下でも、冷静に問題点を修正しそれを実行する。これって普通のチームではなかなか出来ないのではないか?それが証拠に、これ以後のボールポゼッションは「なでしこ」が六割がた支配し、いつもの自分たちのペースに持ち込んでいるのです。 その結果が、あるいは本大会最も綺麗な大儀見さんのシュートを生んだのかもしれない(27分)。彼女の反転シュートが個人技として見事と言うばかりでなく、攻撃の起点になった宮間さんから、川澄さん大儀見さんに到るロングパスのプロセスが、ほとんど教科書的と言って好いパターンを示しているのです。練習でもこのように絵に描いたような形は、なかなか出来ないかもしれない。細かいパス回しの交換で、相手の守備陣を撹乱してゴールを奪う、という「なでしこ」お得意の「バルサ」のような攻撃でなく、少ないパスで短時間に得点するという、新たな彼女たちの形を見た気がしました。 私は4点差という有り得ない状況下で、華麗なゴールをしてみせた「なでしこ」を称賛したいと思う。彼女たちが想定外の事態にあって、頭に血を昇らせずに目指していたものは、あるいはこれだったかもしれないからです。 これは何も「美しいサッカー」を目指していたから、こうなったということではない。4点差を取り返し「勝ちに行く」のに、試合開始二十分の時点で何が一番必要なのか、全員が同じマインドを共有していた結果なのです。このゴール以後、明らかに試合は「なでしこ」のペースに傾きつつあった。アメリカの突進は彼女たちの網に封止されつつあったのです。 ここで佐々木監督は敢えて守備の要、岩清水さんを下げて、攻撃的ミッドフィルダーとして澤さんを投入しました(33分)。後半に入る前、ペースが傾きつつあるこの一瞬にしか、追加点をもぎ取るチャンスはないと踏んだのでしょう。引き続いて(39分)フォワードの菅沢さんを川澄さんに換えて投入したところにも、チャンスの機微を嗅ぎ取った監督の姿勢が伺えますね。 このあたり、「何で岩清水が、何で川澄が」という声も出そうですが、この時点で2点差でなく3点差だったというのが、決断の大きな理由でしょう。「この試合に勝つには、今使うしかない」「最低でも2点差で後半に持ち込めば、じゅうぶん勝機はある」。限りなくギャンブルに近いとしても、目下の試合の進行はそう告げている。持ち駒は使うタイミングを間違えると、持ち腐れになってしまうのです(将棋で手持ちの飛車角を、出し惜しみして負ける人いるでしょう)。結果としての取れる確率より、「今取る覚悟」を優先した結果なので、この采配を周りからどうこう言うことは誰にも出来ません。賭けでは、賭けに出た人に任せて、私たちはその人たちのツキを信じるしかないわけです。
2015.07.22
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なでしこ流サッカー・マインド 試合を支配するために先制点は絶対取るというのが、サッカーというスポーツにおいて当然のセオリーであるにしても、私の観測では、アメリカは「序盤でどうしても2点、出来れば3点取る」という目論見があったのではないかと思う。試合「冒頭での過剰な攻撃」と言ったのは、例えばドイツ戦で開始直後もし1点先制したなら、アメリカはたぶん同じような戦いかたはしなかったろう、という気がするからです。 サッカーというのは攻撃に注力しすぎると、どうしても守りが薄くなるというところがある。作戦通り得点出来ればいいものの、そこは相手があるわけですから、前回大会のようにまったく不発に終わり、戦力を消耗する恐れも実際にはあるのです。しかしアメリカはそうしたリスクを犯しても、序盤の波状攻撃を止めなかった。それは先の「どうしても2点、出来れば3点(想像ですよ)」という想念に引っぱられているからで、なぜ「出来れば3点」なのかと言えば、それは過去二回の決戦の経験から来たものだったでしょう。「2点では必ず追いついて来る。試合を完全に支配するためには、成し得るなら3点」というのが正直なところだったのではないか。 アメリカとしてはまことに珍しい「サインプレー」を採用したのも、たぶんこのような一種「脅迫観念」に駆られたものだったのではないか。それがあまりにも見事に当たったので、4点めのロイドのロングループシュートは、いわば行き掛けの駄賃みたいな余裕から生まれたものでしょう。しかし結果的にはこの4点めが、この後の試合に微妙に影響したようにも思えます。 さて、対する「なでしこ」は文字通り完全に「虚を突かれた」ので、しばらく自慢の防御網は崩壊していたと言っていい。ロイドが遊兵の位置にいるということが分かってみると、そちらにも気を使わなければならない。しかし組織的防御というのは、ガタイ高さに劣る「なでしこ」がギリギリのところで編み出したものなので、警戒すべき新たな因子が一つ入ると、バランスを大きく損なったということでしょう。という意味で、最初のグラウンダーは単なる先制点以上の効果を、アメリカにもたらしたと言っていい。いつも薄っすらと張られたような紗幕が今は破れていると、とくにラピノーやロイドなどは嗅ぎ取ったに違いない。 と言うわけで、序盤の失点だけを見れば、双方の実力差だの力の壁だの、おなじみの慨嘆的感想が溢れ返りそうですが、実はそれほどでもなくて、上のような経緯の結果と見るべきです。先の鮫島さんの「この時点で『負ける』という選択肢はなかった」というのは、そういう文脈で見ればよく分かる。まあ、一つにはまだ試合のムードというか、ニオイも固まらないうちに、バタバタと取られてしまったので、サッカーをしている気がしなかったのかもしれませんが。 こうした状況に追い込められた時、男子サッカーではどういう振舞いかたをするだろうと思ってしまう。まあ申し訳ないですが、昨年のワールドカップ・ブラジル大会での準決勝、ドイツ対ブラジル戦はあるいはその好個の例かもしれない。ブラジルの防御が完全に崩壊して7-1という歴史的大敗を喫した試合です。これには伏線があって守備の要の選手が、累積カードで本戦に出場出来ない事情があったとはいえ、後半は仲間内で怒鳴りあうなど、試合そのものを自ら壊しているようで残念でした。 これほどではないにしても、得点差が開くとファウルやイエローカードを連発して、自ら試合を壊すチームというのは世界に結構多い。ひょっとすると「なでしこ」のように振舞えるチームのほうが少ないのではないか、とさえ思ってしまいます。これは何も「なでしこ」のフェアプレー精神を称揚しているのではない。もちろんそれは立派な態度であって、普通なら揉めそうな判定の場面でも、素っ気無いくらいさっさと次のプレーに入る。微妙な判定で身構えている審判の前を、さっそうとすり抜けていく彼女たちを観ていると、時々噴出しそうになります。 しかしこれらはたぶん訓練の結果というよりも、彼女たちのサッカーに対する基本的な「取り組み姿勢」、あるいはサッカー・マインドから来ているのではないか?一言でいえば、「自分のプレーでピッチを汚したくない」みたいな。
2015.07.20
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パールハーバーとミッドウェー それにしても今回のファイナル、前回大会と同じカードで序盤の戦いの状況もまったく同じ。前も冒頭アメリカ側の怒涛の攻めに、「なでしこ」は完全に防戦一方で、いつ2,3点入ってもおかしくないという感じでした。しかしこの時は、海堀さんの好ブロックやゴールポストに阻まれて、アメリカは得点出来なかった。しかし何より「なでしこ」の組織的な防御網が、功を奏したと言えるでしょう。特に高さに対する準備は万全で、これはその前のドイツ戦での経験も大きかったでしょう。 とはいえ、前半を0点に抑えられたのが、すべて「なでしこ」の手柄かと言えば、それは無理がある。私は前回大会で起った真の奇跡には、「なでしこ」の得点シーンとともに、相手方の無得点というのがあると思う。ドイツ戦でもアメリカ戦でも2,3点入っておかしくないシーンで、なぜか点が入らなかった。こちらのほうが、むしろ「あり得ない」ことだったのかもしれない。もし僥倖とか幸運と言うような言葉を持ち出すとするなら、これらこそ優勝をもたらしたカギだったかもしれないのです。 サッカーというのは、不思議とそういう「努力しても努力しても、なおそれを超える何ものか」が、働いてしまう場面が結構多い。この部分は自分たちの力ではどうにもならないもので、それはたぶんこのスポーツが手の使用を禁止しているからでしょう。メッシやロナウドのように「手のように足を操れる」選手でも、野球のピッチャーと同じようなコントロールで、ボールを扱えるわけではない(あたりまえです)。 要はそういう「どうにもならない何物」かが、サッカーでは頻繁に現れる。ということは逆もまた真なりで、この種の僥倖とか幸運というのは、いつでも飛び去ってしまう種類のものなのでしょう。今回のファイナルを観ていると、「なでしこ」にとっての幸運の女神が、前回大会の「貸し」を、そっくり「取り返しに来た」のではないかとさえ思ってしまいますね。 しかしそこには逆に、アメリカ側の「そうした力を呼び寄せる」周到な戦略があったようです。冒頭2分のラピノーからのコーナーキック、ここでまことに珍しく、アメリカは「サインプレー」を仕掛けてきましたね。佐々木監督が「一本取られた」と述懐するように、これはまさしく「なでしこ」側が採用するような意味でのサインプレーだったのです。高さ対策でいつものようにマンツーマンで臨んだ「なでしこ」に対して、ご存知のようにラピノーは敢えてグラウンダーを放った。それも後でアメリカの監督が言っていたように、「徹底したセットプレーの訓練」を重ねた上での、ピンポイントのボールを。 これってある意味、「メジャーリーガーが、送りバントをする」というのに似ていて、まあ「あちらのスポーツ文化」においては、必ずしも馴染まないプレーではなかったか?もちろん欧米でも、フォーメーションプレーというのはあるのですが、それは日本人が思い描くようなサインプレーとはたぶん違う。クロスにせよセンタリングにせよ、その選択は最終的には個人の技量にゆだねられるのであって、あまり厳密に練り上げるということはしないのではないか。 しかしここで採用したグラウンダーというのは、送りバントと同様「絶対に失敗してはいけない」というレベルでのコーナーキックで、そしてまたラピノーというのがそれが出来る選手であり、受け手のロイドもまた男勝りのスピードとコントロールの利いたシュートを放てる選手だったのです。アメリカの監督が「『なでしこ』から学んだ」と言ったのは、ある程度お世辞であるにしても、あちらとしたら前回大会の宮間さんと澤さんがして見せた例のサインプレーが、間違いなく頭にあったでしょう。アメリカとしたら「してやったり」、それこそ「パールハーバーの借りを、そっくりミッドウェーで返した」という感じではなかったか? 逆に言うと、それほどアメリカ側は冒頭の戦いに注力していた。サッカーにおいて先制点というのは、その試合全般を支配する上で、野球その他のスポーツよりはるかに重いのですが、普通の戦い方ではきっと「なでしこ」は防戦して来るだろう。で、しのぎきった後の「なでしこ」は怖い、ということをアメリカはよく知っていたのです。したがって準決勝でのドイツ戦とは、まったく違った試合をした。簡単に言えば「過剰な攻撃」を冒頭で行ったということです。
2015.07.18
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本者と偽者 イングランドの監督が戦いのあと、「なぜ負けたのか、今でもよく分らない」と言っていたのは、あるいは世界中のサッカー関係者が、誰しも抱く感想を代表したものだったかもしれません。パワーも迫力も個人の技量も、明らかに他のサッカー強国より劣って見える「なでしこ」に対する場合、特に欧米のチームは力攻と空中戦で一気に押しつぶしてしまいたい、という欲求を抑えることが出来ないのではないか? しかし何度も触れたことですが、それこそが言わば「守り慣れた『なでしこ』」の術中にはまる」ことを意味するのであり、佐々木監督が言うようにイングランド戦は「守備で勝った」試合なのです。並々の高さと技量のチームなら、ことごとく今は「なでしこ」の網に引っ掛かる。これこそ長い時間をかけて「なでしこ」が編み出した、力攻と高さの欧州サッカーへの解答なのです。決勝点になったオウンゴールも、偶然とかラッキーという結果ではもちろんなくて、延長戦必至と誰もの頭によぎっていたであろう後半最終盤でも、敵ゴールに向かって走るのを怠らなかった川澄さんと、その意図を汲んでアーリークロスを受けようと、相手ゴール前に詰めて行った大儀見さんのガッツが生んだ必然の決勝点だったように思う。 このあたりの不思議な強さというか、しなやかに広がったような「なでしこ」特有の「拡張された身体性」の危険を、肌で感じて「本当に知っていた」のは、たぶんアメリカだけだったろうという気がするのです。 しかし「耐えて耐えて、わずかなチャンスをモノにして、最少得点で勝つ」というのが、「なでしこ」のすべてなのか、と言えばそうでもない。 前回ドイツ大会の翌年、つまりロンドン・オリンピックの年に行われたアルガルペ・カップ大会では、決勝でドイツと点の取り合いをやって4-3で負けてますね。前年に例の長い長い延長戦を戦って、最後丸山さんの劇的ゴールで降した相手と、まったく趣きの異なった試合をここではやっている。オリンピックの前哨戦ということもあって、佐々木監督もいろいろ試したいというところがあったのでしょうが、「へえ、『なでしこ』もこういう試合が出来るんだ」と思ったものです。 これまたドイツが先制すると「なでしこ」が2回追いつくという展開で、試合最終盤大儀見さんが同点ゴールを決めると、アディショナルタイム1分の間にドイツが決勝点を挙げるという、はなはだスリリングな展開なのでした。このあたり力攻型のチーム同士が、互いにノーガードで撃ち合ったらこうなるというような試合。随分いろいろな引き出しを、「なでしこ」は持っているんだなと思ったものでした。ドイツとしたらロンドン・オリンピック出場を阻んだ「なでしこ」に対して、「真の王者は私だ」という意地があったでしょう。 以下、今大会のアメリカ戦を話すとき、私はどうしてもこの試合を思い出すのです。 さて、今大会の決勝戦は先にも言ったように、確率的にはなかなかあり得ない三回めの頂上決戦ということで、すでに女子サッカー界のレジェンドになりつつある対戦となったわけですが、ご存知のとおり日本にとっては残念な結果となりました。テレビの解説者の中には「野球で言うなら、コールドゲームのような試合」と評されていましたが、多分この人はアメリカが4点取った時点で、以後の展開はほとんど観なかったのではないか? 確かにサッカーというゲームが、なかなか点が入り難いスポーツで、序盤16分間で4点失うというのは、なかなか考え難い。ましてここ最近の「なでしこ」では、ほとんど想定外の事態であったのは間違いないにしても、現実にはそういうことも起こり得る。肝心なのはそうした想定外の事態が出来した時、当事者たちがそれにどう対処したか、ということでしょう。後のインタビューで鮫島さんが「4点取られた時点で、『負けた』という選択肢は無かった」とおっしゃってましたが、常識的にはどう考えても、限りなく絶望的な状態であっても、「負けた(終わった)」という仕方で物事を捉えてない。これは彼女に限らず、監督も含めて「なでしこ」全員が、ごく当たり前のように共有していたマインドだったでしょう。 私は以下、このようにまったく想定外で限りなく絶望的な事態に置かれたとき、当事者たちはそれにどう対処すべきか、どういう立ち位置で我が身を処すべきか、という格好の事例として今回の「なでしこ」の戦いを取り上げたいのです。実際のところ「想定外」を金科玉条のように振り回して、そういう身の立て方に何の疑念も抱かない各方面の専門家諸氏は、この世の中に今も昔もゴマンといるわけでしょう。そういう人たちと「なでしこ」を峻別するものは何なのか?月並みな「努力と根性」論で片付けるのではなく、誰でも分かる本者と偽者の見分け方のようなものを探りたい。 また中には「ファイナリストだから、充分偉いじゃないか」と誉める方もおられますが、これもまた当事者たちの気持を汲んで言っているというよりは、傍観者の自己満足的言辞の臭いがしないでもない。「なでしこ」たちは、宮間キャプテンの言うとおり、掛け値なしで「本当にトップを取りに行った」のです。この場合「ファイナリストだから…」という誉め言葉は、彼女たちにとって激励にもねぎらいにも、何にもなって無いと思うのです。いろいろ、うるさいようですが。
2015.07.16
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しなやかな戦い 実際のところ、カナダ大会のフタを開けてみれば、まるで生まれ変わった「なでしこ」が登場して、勝ち進んだわけではもちろんなくて、予選リーグの戦い方を見るかぎり、試行錯誤(型の決まらなさ)が依然として続いている感じで、「ひょっとして予選落ちかも」という危惧さえ抱かせたものです。 驚くべしは、そうした幕開けであっても、様々な試みや変更を躊躇せず行っていく。そしてそうした試行錯誤の過程で、選手たちのマインドをどんどん本戦モードに引き揚げて行く佐々木監督の指導力であって、これって並々の指導者ではたぶん出来ない。男子サッカーならスター選手やマスコミ、ファンその他、わけの分らない外部に気兼ねして、思い切ったポジションチェンジやフォーメーションの変更など、かえってチーム内部の揉め事となってかなり難しいのではないか? しかもそこには、キツい大会日程で選手たちをいかにベストコンディションで戦わせるか、という含みも持たせていたようです。これって決勝までの全7試合を初めから戦う前提で、メンバーを組み直しているわけで、無闇に目前の予選突破だけに注力しているわけではない。このあたりの監督の姿勢というのは、おそらく選手にも伝わるはずで、当面の不出来な側面に目を奪われるより、先の希望を当たり前のように提示して、「今の気持」を落ち着かせる。 このあたり佐々木監督だけでなく、宮間キャプテンやその他、前ドイツ大会時のメンバー全体が醸し出している不思議な雰囲気であって、おそらく彼女たちは「いつも、この状態で戦って来た」のです。「この状態」とは、「なでしこ」結成以来、言わば宿命付けられたような条件であって、それはガタイも体力もはるかに勝る欧米の選手と、世界でいかに対抗するか?ということだったでしょう。 で、肝心なことは、この「欧米と戦って勝つ」という命題が、彼女たちにとっては常に「日本女子サッカー界」の存続と直結していたということです。この「召命性」は今に至るも少しも変っていない。このあたり前にも触れましたが、男子Jリーガーたちとは随分由って立つ位置が違うような気がする。かつての中田にしても、今の本田や香川にしても、自身の頑張りが日本男子サッカーの浮沈を握っている、などという「召命性」などサッカーを始めるハナから、少しも抱いたことなどなかったのではないか?彼らはJリーグというシステムの中で、生まれるべくして生まれたスターであり、「男子サッカーが日本から消えてしまうかもしれない」というような危機感を抱く必然性は、最初から無かったのです。 予選のはなはだ煮え切らない三つの戦いを経て、それでも本戦のオランダ戦あたりから、いつもの「なでしこ」らしい、しなやかなサッカーが出て来たように思う。しかし考えてみれば、本命と見られたアメリカやドイツ、フランスとは決勝まで当たらず、しかも欧州タイプのチームばかり(オランダ、オーストラリア、イングランド)と戦えたのはラッキーだったかもしれない。力攻と高さを主体とした攻めというのは、「なでしこ」にとって一番守り慣れているスタイルだったのです。本戦に残った中国や韓国と当たっていたら、どういう結果になっていたか誰にも分らない。少なくとも欧州勢とは別の戦い方をせざるを得なかったでしょう。 さて今大会の「なでしこ」、クオリティとしてベストゲームを挙げるとすれば、明らかに準々決勝のオーストラリア戦でしょう。ブラジルを破ってノリノリの若いオーストラリアに対して、しなやかにその力攻をかわし、全体を通してほとんど「なでしこ」のペースで試合をしていて、その多彩な攻めへの対応に追われて、相手はいつの間にかパワーの消耗を強いられている。同じ僅差の試合であっても、それまでのと全然違っていて、何やら王者の貫禄と落ち着きを見たような気がしたものです。 まあオーストラリアからすれば、ブラジルからの歴史的勝利をあげたことで、気分は最高潮でもフィジカルな面では、ほとんどこの時にすべてを使い切ってしまった、というところが本当ではなかったか。若いチームというのはそういうものだし、逆にそうでなければ新たな地平に立つことは出来ないということでしょう。
2015.07.15
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真の奇跡 準優勝という立派な成績を残した後なので、指摘する人が少ないのですが、今回の「なでしこ」は3月のアルガルペ・カップの結果(9位)を見るまでもなく、きわめて危機的な状況のままワールドカップに臨んだのではないか。で、その危機の中身というのは、前回大会後4年の新「なでしこ」の形が結局見えて来ない。端的に言えば、「ポスト澤」後の在りようが試行錯誤続きで決まらないまま、本戦を迎えてしまったということでしょう。 佐々木監督が本大会に急遽、澤さんを代表復活させたのも、澤さん抜きの現「なでしこ」では危ないと見たからに他ならず、内心忸怩たるところがあったのではないか?この4年間の女子サッカーは、「澤抜き」の「なでしこ」作りにあったと言っても好いのですから。 4年前のドイツ大会での「なでしこ」は、決して「強かった」とはお世辞にも言えない。それでも世界一になったのは、弱い我が身から目を逸らさずにシカと見詰めた上で、そうした「今の自分たちに出来ることは、何なのか?」を、突き詰めていった結果がそれを招き寄せたのです。これは前の話で何度も触れたことですが、ドイツ大会で起こった真の奇跡というのは、厳密には地元ドイツ戦との延長後半に放った丸山さんのシュートだけだったと言っていい。あるいはそれを導いた澤さんの丸山さんへのラストパス成功が、それに当たるのかもしれない。 どうしても決勝の対アメリカ戦での二度に渡る同点弾と、PK戦における海堀さんの神懸かり的なブロックが記憶に残りますが、これらはある種「奇跡の連鎖」によって説明出来る。で、一連の連鎖で説明出来るのであれば、それは厳密には奇跡とは言えない。というか、まあ奇跡の質が違うと言うべきでしょう。 例えば日本絶対有利と見られた「ミッドウェー海戦」とは何だったのか、アメリカにとって真の奇跡、日本にとってあり得ない悪夢というのは、最初の空母赤城の攻防だけであって、その後の一方的な結果は、もちろん奇跡でも天佑でもなく、「必然の連鎖」によって説明出来るでしょう。 とすれば、以前の「なでしこ」が戦力的に一番充実していたのは、ドイツ大会の一年後ロンドンオリンピックの時期だったかもしれない。ファイナルでアメリカに敗れたので、あまり話題になりませんが、試合内容の質はドイツ大会の時より、格段に上がっていたように思うのです。特に攻めの要だった大儀見さんが復活したのが大きい。 それまでの言わば、「ひたすら耐えて耐えて、わずかなチャンスをモノにする」といった、「なでしこ」お馴染みのトレードマークとは違って、戦いの仕方がアメリカと対等に渡り合っている感じがある。これまた相手キーパー、ソロの職人的なブロックで2-1に収まったものの、当時のアメリカ監督が述懐したように「途中で作戦変更を余儀なくされた」のです。この場合の変更とは、「守備に注力しないと、危ない」ということだったでしょう。終了近く、岩渕さんが相手ボールを奪ってゴールに迫った時、アメリカはほとんど一年前の悪夢を覚悟したのではないか。「『なでしこ』は必ず追いついて来る」、そして「それを『招き寄せる力』を持っている」と。 客観的な数字やデータでは解析出来ない、めったに訪れるはずのない「勝ちを招き寄せる力」を、「なでしこ」は通常あり得ない頻度で現出させるチームだというのが、その時のアメリカの認識というか、一種のトラウマとして残ったのではないか、というのが私の見立てです。 今回のカナダ大会で大事なことは、偶然の巡り合わせではもちろんなく、アメリカと日本が三度目の戦いをファイナルで戦ったということです。同じ対戦相手と三回決勝で戦うという確率は、両者以外がよほど戦力的に弱いならともかく、ほとんどあり得ない状況ではないかしらん。
2015.07.11
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神の視座 ここ最近の気伏せりな感じを打ち払うような出来事があったので、本題は当分休んでしばらくその話をしたいと思っています。例の女子ワールドカップ、カナダ大会の「なでしこジャパン」のことです。「なでしこ」については「拡張された身体」という造語を核に、前回ドイツ大会の時に「久しぶりのジャパンブルー」と題して長々と触れたので、ロンドンオリンピックでも今大会でも、話すことはもうあるまいと思っていたのですが、終ってみればやはり触れてみたい、というより自分が元気になる意味でも、しゃべったほうが好さそうだという気がするのです。スポーツとか文学、映画、ドラマの類は、現実とは違って気が楽で便利ですね。 それにしても、サッカーというのは辛気臭くなるほど点が入らないのに、観ていてすこぶる面白い。その面白味というのはさまざまあるのですが、例えば「神の視座」という点があるのではないか?テレビ中継を観ていればすぐ分ることですが、私たちの目線は基本的にほとんど全部、ピッチ全体を見渡せる俯瞰的な地点になっていて、時に「あの選手にボールをパスすれば、絶対シュート出来るチャンスなのに」という場面に、しばしば遭遇しますね。これはある意味、芝居を観ている時や、小説を読んでいる時の感覚とよく似ている。 芝居や小説では観客読者は、しばしば「演者の知らない秘密を、あらかじめ知っている」前提で、演技や物語を観ていることが多い(ヒチコックの映画や「刑事コロンボ」が典型的にそうであるように)。「あらかじめ知っている」結果、演者や筋の顛末を「そこで言わなきゃ良かったのに」とか、「それをしたら必ずこうなるのに」といった「神の視座」に身を置きながら、一種「上から目線」の爽快性を感じているのです。「野球も似たようなもんじゃないか」と言われそうですが、同じような俯瞰的な位置で眺めながらも、ちょっと違うでしょう。ついでに言うと、アメフトだって必ずしも「神の視座」を意識出来るわけじゃない。野球もアメフトも、ここで「あそこに打てば確実にヒット」とか「あちらに走れば間違いなくタッチダウン」といったシチュエーションは、必ずしも観ている側を興奮させる要因であるとは言えないでしょう。それはたぶん一つ一つのプレーが、その都度寸断されているからではないか? しかしサッカーはホイッスルが鳴ったら、審判が途中で止めない限り、誰もプレーを止めることが出来ない。サッカーは優れて「時間が全体を支配する」、いったん始まったらボールをピッチ外に蹴り出さない限り、選手たち人間には誰も止められないスポーツなのです(よく似たものとして、同じくイギリス発祥のラグビーがありますね)。野球やアメフトでは時間はブツ切りに切断されて、プレーヤーに主導権があるのですが、サッカーでは時間の経過は基本的に「人間にはどうにもならないもの」として感知される。ここにもピッチを観ている側が、一種「神の視座」を見出す要因があるのかもしれません。 まあそれはさておき、よく考えてみればサッカー選手というのは、いわば平面空間のピッチを駆け回っているわけで、彼らが実際見ている風景は、我々とは間違いなく違うはずです。であるにも拘らず、選手たちのかなりは現実に見えている光景と、それを例えば上のような「神の視座」から俯瞰した、仮想の風景を重ね合わせて見ているのではないかしらん?宮間さんとか、今回出番は少なかったですが例の澤さんなど、特にそうした感覚に傑出しているように思えるのです。 こういうふうに自分のポジションを、現実に見えている二次元の風景から脱して三次元的に俯瞰して、全体から位置づける仕方を、内田さんはマッピング(mapping)と言ったりしていますね。これを単純に「空間把握」と解してしまうと、「それって、男脳の領分じゃん」ということになってしまいそうです。私はそうではなくて、先の「拡張された身体性」の延長線上で、これを考えているのです。ドイツ大会のところで、澤さんと「なでしこ」たちのパフォーマンスについて、「拡張された身体」と呼んだとき、私はそれをピッチ上に広がった「平面のイメージ」で漠然と捉えていたことに気付きます。 しかし今回のカナダ大会を観ていて、この「拡張された身体性」というのは、縦にも立体的に広がっているのだろう、という気がして来ました。
2015.07.09
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例によって唐突に話が中断していますが、まあいつものように、ごく個人的な事情に気が削がれて、なかなか再開できません。しかし今回はそうした理由の他に、現在進行中の話の中味もまたかなり影響しているのです。 これまで私はこうしたブログではお決まりの、いわゆるハンドルネームでいろいろしゃべって来たのですが、要はこうした匿名性というのはしゃべる側の気分を大いに楽にさせる。自分自身の自省を外せば、極端な話、気分のまま何を書いても構わないというのが、こうしたおしゃべりのメリットなのでしょう。しかし少し書いていればすぐ分ることですが、ごく自己満足的な日記まがいのおしゃべりなど、そうそう長続きするものではない。 それでごく初期のブログなどでは、何としてもヒット件数を伸ばしたい。要は多くの人に見てもらいたい、あるいは注目を集めたい、というような目的で書くようなことも時にありました。しかしそうした書き方というのもまた、すぐさまネタが尽きてしまうもので、いわゆるプロじゃあるまいし、どうしたものかいろいろ思案したものです。 そうした間に「源氏物語」と出会う機会があって、それの印象を書き記すうち、これが思いの他面白い。超低空飛行で舐めるように「源氏」の中味を読み進めるうちに、これこそ私にとってのブログの面白味だな、と思い当たったものです。書いていて無類に楽しい、そしてその面白味を何とか自分の言葉として書き記しておきたい、そうしたツールとしてブログほど便利な道具はないのです(取り合えず、お金も全然かからないし)。 そうした中にあって、このブログを長続きさせるための個人的な原則が、ごく自然に浮かんで来ました。これまで何度も書いたことですが、1. 自分が本当に面白い、と思ったことだけを書く2. だれが読んでも分る言葉で書く3. 引用参考に際して、その出典を出来るだけ明らかにするの三つです。ここ最近、このいずれもがかなり危うくなって来ているというのが、実際のところなのですが、ブログを一種の我が家の庭に例えるなら、やはり立ち木の一本、芝草の枯れ具合など、大いに気になっていろいろ手入れをするわけでしょう。で、その手入れをする理由の大半は、私空間であるにもかかわらず、庭というのは「いつでも誰かに見られる」ことを前提にしているからでしょう。もちろんまったく世間と断絶した「オタク庭」を好む人も居られるでしょうが、それってやはり長続きするとは思えない。底意として「超オタク」ぶりで以って、逆に人に見られたいという含意があるのではないか知らん。 という意味で、庭というのは私的空間でありながら、常に外から見られるという半公共的な側面があるのです(少なくとも閉ざされた室内空間とは、明らかに異なる位置付けをなしているでしょう)。 となれば、やはり庭にはある一定の半公共的な「手入れ」が必要だろう、ということになります。それが私の場合は、上の三つの原則なのでした。 しかし、目下進行中の「敗戦後70年、震災後20年」などの場合特にそうですが、だいいち自分が「本当に面白い」と思って書いているのかどうか、はなはだ怪しいというところがある。もちろん今までの話題も、たんに「笑える」内容などではなくて、出来れば野茂選手がかつて「野球を楽しんで来たい」と言ったような意味での、「面白味」ということを念頭に書いて来たのでした。野球を真に「楽しもう」とするなら、全力をあげて「勝つ」しかしようがないじゃないですか。 まあ「源氏」にせよ「カーネー」にせよ、全力をあげて「勝つ」ような話題ではなかったにせよ、本当の「面白味」の味わう方法として、こういうしゃべり方は我ながらなかなか良かったわいと思っているのです。書きながら新たな発想が不思議なくらい次々と湧いて来る、というのはこのブログ始まって以来のことだったからです。 とは言え、ここへ来て今扱っている話は、そうした仕方ではたぶんダメなんだろうという気がする。私がこれまで「政治向きの話はしない」としてきたのは、要はハンドルネームという匿名性で、この種の発言をするというのが、いかにもいかがわしい。あるいは言っている中味の「無責任性を最初から宣言している」としか思えない部分が、必然的に生じて来るからです。 これがあるので、いかにもキナ臭い政治向き、時事的な話題は注意深く避けて来たのですが、まあ敗戦後70年ということもあり、またそれがちょうど阪神淡路大震災後20年ということもあって、言わば歴史とか時間のようなことを考えるよすがとして、今年の初めから少しづつ書き進めて来たのですが、特に先般の「東日本大震災」のような話になると、やはりこれは匿名のハンドルネームで語ることは許されない。発言の所在をハッキリさせる意味でも「署名入り」で話す他はないんじゃないか、という気がしているのです。何とも気の重い話になってしまいましたが、要はそんなこんなで目下の話が停滞してしまいました。すいません。
2015.07.08
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