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人が平和教育の可否などという、珍しく高邁な問題について考察しているのに何、この記事?女子高生スカート丈 熱く論議 (沖縄)県教育委員会http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050429-00000006-ryu-oki あまりにも短いためトレパン通学に変更って、どういうスカートなんだろう?「制服の問題は、生徒自らの問題としてとらえ、考えさせることなどが問題解決への近道」またこれか・・・?良心の自由とか表現の自由に基づいてパンツを見せているのだろうか?親も親である。自分のところの娘が、しりを見せながら登校して、何もいわないのか。 委員会の空気としては、今後規制強化に向いそうな感じで心強いが、規制したらまた「強制反対!」だの、ほんの一部の教師が騒ぎ始めて、学校運営が混乱、処罰、違憲訴訟とか行くのだろうか? うちの大学は、まあ大学だから当たり前だが、服装について規定のなど全く無いが、ミニスカートなどはいてうろうろするような、おいし、いや、けしからん女子大生など一人もいないぞ。おしゃれな子も中にはいるが、ジーンズを中心に大抵は素朴な身なりをしている。勉強に来てるんだから当たり前である。 沖教組の弱体化後、不毛なイデオロギー闘争をやめ、若い教師を中心に、教師自身のスキルアップ、教育のレベルの向上のために勉強会などしていることを知っている。沖縄戦の悲劇のため、だの、占領下の劣悪な教育環境など、もう復帰後33年もたっているのであり、そろそろ言い訳はできない。まあ、これからは次第によくなるだろう、という期待も込めて公立に入れたのである。うちの学区は名簿も男女別であり、おぞましいジェンダーフリーの感染も食い止めているようであり、近所の方の話だと、学級崩壊も起こっていない、ということである。が、こういう記事を読むと、公立で本当によかったのか?などと自問してしまう一保護者であった。
Apr 29, 2005
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沖縄の平和教育は主として、沖縄戦を語り継ぐこと、そしてそれを通して戦争の悲惨さ、無意味さを学ぶことである。近年その形骸化が危惧されているが、形骸化どころではない。むしろ逆の効果を生んでいる。自らのよって立つ過去を遠ざけ、自らと遮断する、そのようなケースもあるのである。 もっと深刻な例もある。読書活動研究家の蔵元和子氏が次のような体験を告白している。 彼女は読み聞かせ活動として、戦争児童文学を小学校4年生に読み聞かせ続けていた。あるとき「南京虐殺の記事」を紹介したところ児童たちは手をたたいて喜んだ。驚いて理由を尋ねると「だって、日本がやられてばかりだったから・・・」「日本が、やっつけたから嬉しかった」 なんとも痛快、いや、深刻な話である。これは現在の中国における愛国主義教育の効果ともつながっていると見てよいだろう。「日本軍の残虐さ」のみならず「自民族がやられっぱなし」という部分も、大きな憎悪につながっているのだと思う。 最近インターネット上の若者が、右傾化している、と嘆く人もいるようだが、何パーセントかは自虐教育の賜物なのかもしれない。 悲惨な現実を教え続ければ、子供たちが自ずと戦争嫌いになる、という大前提そのものにあやまりがあると思われる。もちろん戦争の悲惨さをこれでもか、これでもか、と見せることにより、本当に戦争嫌いになる子供もいるかもしれない。しかしうまくいったところで、恐怖と嫌悪のために萎縮しているだけであろう。(つづく)
Apr 28, 2005
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私は「現代文学理論」という偉そうなタイトルの講義を担当している(汗)。前期は主に森鴎外の「舞姫」を取り上げ、空間論、身体論、ナラトロジー、精神分析批評、構造主義文芸批評などを取り上げる。後期は沖縄文学を取り上げ、オリエンタリズム、ポストコロニアル、カルチュラル・スタディーズなどを取り上げている。私は原則として出席はとらない。面白い話を講義をすれば、学生は出席するし、欠席が多くなれば、講義がつまらないことのバロメーターである。一部学生には「自分は勉強はともかく、出席だけは自信がある。毎週出席を取ってほしい」という要望もあるのだが、拒否している。 で、この講義の出席率はというと、前期は良好である。中には半分お世辞だと思うが、「大学に入って一番面白かった授業だ」などといってくれる学生もいる。ところが後期に入ると出席率はガクンと低下する。前期の鴎外は、優れた先行研究を平易に述べたものであるのに対し、後期はほとんどオリジナルである。ああ、やっぱり俺は二流だなあ、と悲憤慷慨していたところ、ある学生が光明を与えてくれた。 「小中高と沖縄戦や、占領中の悲惨さは散々教えられた。もう、暗い話は聞きたくない」つづく
Apr 27, 2005
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前ので終わりにしようと思ったのだが、四人の方がコメントを下さったので、最後にもう一回思っていることを書く。既に書いたとおり日の丸は、これはどうしてもこれしかないだろう、と思っており、個人的には楽曲としての「君が代」はそんなに好きではない。実際私は音痴なので「八千代に」の部分は非常に苦手である。しかし法制化された以上、素直敬意を表する。その程度の問題なのである。 Reiさんに関しては、過去に反省すべき点もある。Reiさんの本名暴きの件に関して「信念があるなら、本名で主張すればいい、私もそうしている」といったのだが、これは間違い。撤回します。大学の教員というのはおよそ言論に関して、不当ともいえるほど保護されている。最近では東大の先生が「NHK受信料不払い運動」を展開しており、いくら独立法人になったとは言え、なんぼなんでもまずいんじゃないか、と思うのだがお咎めなしである。Reiさんはそのような保護を受けておらず、私の認識は他者の立場に対する十分な配慮に欠けていた。お詫びします。 「強制を拒否したい」ということですが、Reiさんの場合特に教育現場に関与していないので、全く差し支えないと思います。Reiさんの家に国旗を上げろなどという強制は、相当長期的に見てもありえないので、大丈夫だと思います。またウチナーンチュの死については、本土在住の方に容易に届くことではないと思うので、Reiさんが気にする必要はありません。 次に不惑をこえた社会人同士の対話としては、私の誰やねんっ20号さんに対する態度は非常に礼節に欠くように思うのだが、ネットのみの付き合いであり、まあお互い様ということで。 誰やねんっ20号さんの見解は、私と同様40代親父の平均的感覚だと思われる。Reiさんやいさをさんのような団塊の世代とはちょっと異なっている。 昨日の天皇会見を見て、誰やねんっ20号さんを見直した。「元々国旗に対して敬意を持つことは、その国に対する敬意であると考えます」の部分は天皇のお言葉とほぼ同じである。一日前に言うとは。誰やねんっ20号さんの感覚は大御心に通じている。だが不満もある。「んっ20」の部分を簡単に打つキー操作を教えていただきたい。また参考までにどのような発音を想定しているのだろうか? るんたruntaさんは、ページを参照するとエスニック文化に関心を持った若いウチナーンチュだと推測される。心強い限りである。国際感覚を持った若い世代は強制とかせずに、中国の排外主義的なナショナリズムとは全く異なった、ライトな、しかし健全なナショナリズムを身に着けていくのかもしれない。だとすればわれわれの世代がなすべきことは、時代の推移を見守ることであろう。 ただ気になるのは、自分のがとっくに失効しちゃって手元に無いのであるが、パスポートのマークは日の丸ではなく、菊の御紋では? いさをさんに対してはやや非難めいた文言も含むため、敬体で書きます。まずるんたruntaさんコメントは特にいさをさんを意識したコメントではないと思われます。 次にいさをさんのお宅でどうしようが全く自由であり、実際現時点で沖縄において国旗を掲揚する個人住宅は極めて稀です。問題ありません。しかし教育関係者としては異議があります。 私は公教育において最も重要な点は、全国一律、平等だと思っています。仮にどの様な地域に生まれようとも、最低限の全国共通の常識が身につけられなければならない。近年やや緩和されてきましたが、義務教育において、基本的には学校は選べません。沖縄において、全国一律の教科書を配られて、言語教育なしに、すぐさま教科内容に入れるようになったのは、ここ3、40年のことです。 不幸にも80年代から90年代の教育を受けてしまった安室奈美恵は君が代が歌えなかったため、無用な誤解を受けてしまいました。こういう気の毒な卒業生を二度と出してはいけないのです。 また外国人については、全く配慮する必要はありません。日本人にも他国の国旗国歌に対しても敬意を表するように指導すればいいだけのことです。自国の国旗国歌を尊重し、さらに自国と同様に他国の国旗国歌も尊重するように指導する。国際化時代の今日において、国旗国歌に対する敬意を指導するのは必要不可欠だと思います。「球陽丸事件」について知らなかったということは、沖縄の問題について発言する方としては非常に不勉強だと思います。
Apr 26, 2005
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国旗を掲揚できないというという事は、単に精神の問題だけではない。国旗を掲揚できなければ、時に生命の危険を伴う。1962年の「球陽丸銃撃事件」は、それを証明した悲劇であった。 当事沖縄において、日本の潜在的主権は認められていたものの、船舶旗としての日の丸は当然認められず、そればかりか星条旗の掲揚も認められなかった。代わりに沖縄に押し付けられたのは、「琉球船舶旗」であった。これはD旗に切れ込みを入れて、変形させたものである。D旗とは国際的に「航行不能」を示す信号機であった!「航行不能」を表示しつつ、すいすい航行すれば、不審に思われるのも仕方が無い。そのためウミンチュ達は、しばしば何の船籍表示を示さずに航行することもあったようである。 1962年4月3日、インドネシア近海において、何の船籍表示も示していなかった球陽丸は国籍不明の不審船として銃撃を受ける。必死にSOSを打ったが、容易に銃撃はやまず、結果として死者一名負傷者三名を出した。 何の対抗手段も持たず一方的に攻撃される船。その中でSOSを打ち続ける恐怖感はどのようなものだったろうか?また尊い命を失った船員の無念さはどれほどのものだろうか?しかし国際法上インドネシア軍のとった態度は全く妥当なのである・・・ 日の丸さえ揚げられれば、なんと言うことは無かった。球陽とは固有名詞としては琉球と同義であるが、まさに琉球の太陽の名を持つ船が、太陽を象徴する日の丸を上げられなかったために、このような事件に遭遇したことは、あまりにも残酷な皮肉だといえよう。 この事件は国旗の重要性を示唆してしまうため、左翼陣営が取り上げることはめったに無い。仮に取り上げるとしても、アメリカ占領政策の残虐さを示す例として取り上げられる程度である。思想信条の自由として、国旗に敬意を払わない。民主主義国家である日本においては、それもいいだろう。国際的には法制化されていることの多い、国旗に対する敬意を「強制」する法令は、現時点の日本には無い。 しかし国旗を拒否する時には、国旗を揚げられないばかりに命を失った一人のウチナーンチュのことを、心のどこかにとめていただければ幸いである。(このシリーズ終わり)
Apr 23, 2005
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まあ、本来順序から行くと、明治、大正、昭和(戦前)と行くわけだが、私の勉強不足のため、これといったトピックが無い。で、戦後。 おそらく沖縄県民が最も熱い情熱で日の丸を振ったのは、占領下においてであろう。一方分断政策を行いたいアメリカは日の丸の掲揚を弾圧した。1947年には手製の日の丸を掲示したため、懲役6ヶ月を科せられた人もいた。当時の反米闘争の写真を見ると、日の丸だらけである。 日の丸の掲揚は徐々に緩和され、1961年にようやく全面解禁される。この年那覇市制四十周年の記念祝賀行事として、東映-西鉄戦が行われた。試合前には国旗掲揚、国歌斉唱が行われ、県民は感涙にむせんだといわれている。私が生まれたころ、こういうことがあったのだなあ。 また私の聞き取り調査によると、日の丸の思い出として東京オリンピック(1964)を上げる人が多い。「あの時は本当に誇らしい思いがした」これらの人によると「いつからあげちゃいけなくなったのか、よく覚えていない」ということである。またあるタクシー運転手によると「いつだったか忘れたが、先生がそれまであげろ、あげろといっていたのに、ある日突然あげるな、と言い出した。それ以来、インテリは信用していない」 私の調査によると、いよいよ復帰が日程に上り始めると、空気が変わってきたようである。あげるなといわれるとあげたくなり、あげろといわれるといやになるということであろうか?1970年には、卒業式に突然ある教師が、「回れ右」と号令し、「君が代を歌わない」ことを「強制」したりしている。 やがて復帰後、日の丸への反発が強まり、85年の調査では全国平均70%程度の入学式卒業式の国旗掲揚率が、沖縄のみ6%と驚異的な数字をたたき出している。この調査は結構興味深く、沖縄を除いて突出しているのは高知県の45%である。いったい何があったのだろうか?また君が代に関しては長野県の7%が目立つ。 既に述べたとおり、現在沖縄の国旗掲揚率は100%を誇っている。例えば60代のウチナーンチュは、少年時代千切れるほどに国旗を振り、子供の入学式に行くと国旗は諸悪の根源ということになっており、孫の入学式に出てみたら、また君が代を歌っていた、という不思議な体験をしているはずである。 以前日記で校長、教頭の国旗に対する態度があまりにもうやうやしすぎる、など無責任なことを書いたのだが、この世代こそ最も日の丸に敬意を表した世代であり、職務以前に、心から敬礼していたのかもしれない。いずれ聞き取り調査をしたいところである。
Apr 22, 2005
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この画像は鹿児島県が保有している、琉球王国の朝貢船図絵である。実物は監視する薩摩の船なども描かれているのだが、画像の大きさに限度があるため、部分図である。注目していただきたいのは、中央の旗印である。どこかの国の国旗に似ていませんか? この図では旗は三角形だが、四角形のものもある。琉球王国において「太陽(ティダ)」は特別な意味を持つ象徴であり、国王は太陽の子(ティダヌファ)と呼ばれることもあった。 日本の国旗を日の丸に定める推進者は、薩摩藩藩主島津斉彬であった。薩摩!何かにおいませんか?現在一般的には、島津斉彬が桜島に上る旭日を見て、新しい国家の門出を祝福した、という逸話が伝えられているが、本当だろうか?琉球と清の貿易を統括するのは薩摩藩主であった。琉球がどのような旗印を用いているか、知らないはず無いのである。さらに島津斉彬は非常に賢明な人物であったとされている。新国家建設において、既に東アジアの海運において一定の認知と、実績を持った琉球船の旗印を利用しようとした、と推測することは、それほど無理が無いように思われる。
Apr 21, 2005
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前回の「国旗・国歌」の論評は、純粋に形式論であり、そこそこ筋は通っていると思うが、血は通っていない。今日は全く私的な感情を書く。 まず、教員というのはおいしい仕事である。普通お客様には「ありがとうございました」というものであるが、教員はお金をもらって、「ありがとうございました」といわれるのである。こんな仕事は、他には医者とか、弁護士とか、限られた職業であろう。 しかも業務内容が楽しい。おそらく小学校教員は小さい子供がすきなのだろうと思う。しっかりした授業、指導を行えば、純粋な子供たちが尊敬してくれる。中には生涯に渡って親しく付き合うこともあるだろう。 私の場合、一度教員から逃げた。学生時代、千葉大学の国文学科の卒業生の大半は中学教員か、高校教員になっていた。当時は教員採用試験に落ちるということは極めてまれで、まあ運転免許の試験と同じような難易度であった。しかし私が4年生のころ、千葉県の高校は非常に荒れていた。私はそういったあれた学校で、十分な指導を行える自信は無かった。たまたま卒論が上手に書けて、指導の先生が大学院を薦めてくれたので、当時千葉大は修士課程までしかなったため、都立大学に入った。 就職して十年になる。学生たちは素直であり、さえない容貌の中年男の私を慕ってくれる。最近ゼミ生以外の学生の名前と顔が一致しない場合が多く、反省している。 さて、入学式卒業式についてである。教員にとっては、毎年一回ずつある入学式、卒業式であるが、児童、生徒、学生にとっては、それぞれ一生に一度しかない大切な儀式である。入学生の一部は緊張でドキドキだし、卒業生の中には感極まって涙ぐむものもいる。このような晴れの儀式で、対立を起こすような教師は、教師ではないと私は思う。個人的には様々な思想信条があるだろう。しかし教え子にとってはたった一度の大切な日に、どうして混乱を生じさせることが出来るだろうか? 仮に共産主義が政権をとり、国旗は赤旗になり、国歌が「インターナショナル」になったとしよう。個人的には苦痛であるが、私はその場合には、赤旗に敬礼し、精一杯の声で「インターナショナル」を歌いたいと思う。
Apr 20, 2005
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以下の文章はいさをさんの疑問に対する回答という色合いが強いため、何となく敬体(です・ます調)で書きたい気もしますが、文体がゆるむ感じがするので、常体でいきます。(原則) 小中高校の入学式、卒業式における国旗掲揚、国歌斉唱については学習指導要領で定められている。学習指導要領の根拠は学校教育法施行規則である。 「入学式や卒業式などにおいては、その意義を踏まえ、国旗を掲揚するとともに、国歌を斉唱するよう指導するものとする(第3の3)」 また公立学校の教員は、公務員であるため、地方公務員法に服さなければならない。「第32条(法令等及び上司の職務上の命令に従う義務)職員は、その職務を遂行するに当つて、法令、条例、地方公共団体の規則及び地方公共団体の機関の定める規程に従い、且つ、上司の職務上の命令に忠実に従わなければならない」 従って、学校長の指示に逆らい、起立を拒むような行為は、明らかに違法であり、すなわち教え子達の面前で、教員が違法行為を行っているのである。(経緯) 学習指導要領における国旗国歌の条項は、最近採用されたものではない。にもかかわらず、しばらく前まで大目に見られていたのには理由がある。それは「国旗国歌には法的根拠はなく、自分たちは日の丸、君が代を認めない」という主張に一理あったからである。それゆえ「国旗国歌法」の制定過程は、反対派にとっての天王山であった。(感想) いさをさんに引用されて「バカども」という表現は、ちょっと本名名義としては穏当を欠くな、とも思ったが、全ての法整備が終わったあとで、正式な業務の一部である式典で「立ちたくない」などまるでだだっ子である。うちの長男はもう少ししっかりしているので、次男(4歳児)並みである。「僕は思想信条の自由から、次の授業は帰ります」と児童生徒が言い出したら、どう指導するつもりなのだろうか? 思想信条の自由は尊重されなければならない。従って業務以外の時間、自由な論評を行うのは全く問題ない。公務員の政治活動については、一定の制限があるが、現状では言論を通じて処分される事はほとんどない。当時の世論情勢、および商船規則によって広く国際的に認知されているため、「日の丸」を覆すのは非常に困難だったと思うが、「君が代」のほうは全くチャンスがなかったわけではないようにも思う。既に述べた通り、多くの国民を引きつける対案を出せば良かったのである。また現在でも、国旗国歌を学校教育からはずした方が、平和に繋がる、という信念があるなら、合法的かつ戦略的に努力すればいいのである。それまでは規則に従うのが民主主義である。「いやいや」はやっぱりバカだと思う。(問題点) 周知の通り、学習指導要領の力は、私立学校にはあまり及んでいない。今のところ、私立の場合、たとえ国旗を掲揚しなくともおとがめなしだと思う。私の知り合いの知り合いぐらいの人は、「君が代を歌わせたくないから、私立にやる」と主張している人がいるらしい。ちょっと選民思想っぽくて嫌みだが、公立に入れて「いやいや」をいうよりは、少なくとも戦略的だと思う。 もちろん公立と全く同じ事をやっていては、誰も高い金を払ってこなくなってしまうから、それこそ戦略的にいろいろやるわけだし、現在の学校教育法では、私立小学校において「道徳」を「宗教」に代える事も認められている。だが、いさをさんの書き込みによれば、東京都では私立にも圧力が及んでいるという事である。まずこの件については、事実関係が解らないし、いい事なのか悪い事なのかも、現時点ではこれといって判断しかねる。
Apr 19, 2005
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で、入学式本体であるが、6年生が一年生一人ひとりの手をつないで入場し、席に着かせるなど、なかなかコジャレた演出である。が、国歌斉唱はまだちょっと硬かった感じ。6年生で歌っている児童はいなかった。無理も無い話で、国旗国家法の成立が99年だから、彼らの入学式では国歌斉唱は無かったと思われる。しかし校歌斉唱の時には、音楽の先生が指揮したりして気合が入っていた感じだから、どうせ歌うんなら、国歌の練習もしといた方が、6年生のためには健全だったかもしれない。 壇上に上がるときの国旗に対する礼も、ちょっと緊張しすぎで恭しすぎ。沖縄県民が多様な選択肢の中から日本復帰を選び、それが実現した。国民により正当な選挙によって選ばれた国会において「国旗・国歌」が定まったのだから、自分の国の旗だ、と気楽な帰属心で頭を下げればいいと思う。隣の家のおじいに頭を下げる感じで。まあ、これも過渡期なのでやむをえないだろう。 東京都の一部ではまだバカがもめているようだが、沖縄は全て100%。ノープロブレムである。どうしてもいやなら国旗国歌法が成立する以前に、もっと国民をひきつけるような国旗国歌を提案すればよかったのである。伝統的にはGod Save the Queenだったのだが、新しい国歌を制定したオーストラリアのように。 社民党かなんかが「さくら」(「ぼーくらは」の方じゃなくて「さくらさくら」の方、念のため)を対案として出していたが、「弥生の空は」って何よ。沖縄では桜は一月に咲くんですが・・・。北海道では(以下省略)。正に中央集権思想、地方蔑視の権化である。 実は私は純粋に楽曲としては「君が代」はそんなに好きではない。しかし私自身何の対案も思い浮かばないし、民主的な手続きで決まったのだから、敬意を表する。決まるまでは対立しても、決まった後はみんなが協力するというのが民主主義の鉄則である。 沖縄の教育の立ち遅れは、明治以来の言語的困難、地上戦で青年・壮年層が大量に失われた事、占領下の政策および極端な物資不足、など多くの要因があるが、その中に復帰後のへんてこなイデオロギーがあったのも否定できないと思う。最近沖教組が求心力を失っているそうだが、慶賀にたえない。今や教職員の多くは下らないイデオロギーより、児童生徒の学力向上に関心を移しているようである。一父兄としてありがたい限りである。入学式、卒業式で教員同士がもめて、教育上いいはず無いのである。
Apr 14, 2005
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書評「干刈あがたの文学世界」をアップ。実は干刈にはあまり詳しくないのだが(爆)、お金をもらう時はそつなくきちんと書いてるな(笑)。
Apr 13, 2005
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写真を貼るような内容の文章ではないのだが、まあ親ばかというか、そういうことで。 本土出身者が結構悩むのが子供の教育である。同僚先輩などかなりが小学校から私立に入れている。ひとつは大学の近所に、県内では定評のあるミッション系の私立があって、親父が通勤時に送ればいいという利便性もあるが、同時に沖縄の公教育に対する不信感がある、というのも事実である。これは単に進学率や、センター試験の平均点といったデータ的なものだけではなく、学生と接していて感じる部分がある。本学の学生の一部には、「頭の良さ」と「学力」に大きな乖離が見られる場合が多いのである。 実は、就職するとき、私は教育面に何ら期待を抱いていなかった。ずばり辺境の私立大学である。採用面接のときに「最低4年間は異動しないこと」といわれ、ああ4年の間に次を考えればいいのか、と言うスケベ心もあった。実際に一部売り手市場の専門の場合、短期間で割愛を受ける教員もいる。 しかし最初のゼミを持ったときに、考えが変わった。実はその年のゼミ生のうち、その子一人が突出していたのだが、「中島敦の悟浄歎異をやりたい」というのである。何でそんな作品読んでるんだ、と私は少し驚いた。今もそう思うが、多分あの子は私よりも頭はよかった。その後は私より頭のいい学生には出会っていないが(えへん)、きわどいやつは何人かいる(汗)。ここにもたまに書き込んでくれる、筑波大で博論を書いている(はずの)GOYA嬢などもその一人である。ほぼ毎日このページをチラッとのぞいている、君もその一人だ。しかしまたそういった学生が、きわめて基礎的なことを知らないことに驚いたのも一度や二度じゃない。 話が回りくどくなったが、これほどの潜在能力をもった学生達にこの程度の学力しか与えられない沖縄の公教育というのはいかがなものだろう?確かに平和は大事である。平等も大切であるが、この世には勉強が好きなやつと、そうでないやつがいるのである。これは現在沖縄のみならず、公立一般の問題になっているが、あらゆる分野で、最弱を基準にしてどうするのだろうか? この沖縄の潜在能力に目をつけたのがアクターズスクールのマキノ氏であった。スピード全盛のころ、マキノ氏は「沖縄の子はたたけばどんどん伸びるのに誰もたたかない。だから自分がたたいている」といった趣旨のことを発言している。いまなお多分、あまりたたかないのである。というよりも能力のあるものは自分を押さえ、周囲になじむことを強制される。そのうちに勝負根性が落ちてくる。あと一歩がんばりさえすれば、次のステージに進めるところで「先生、もーいいさあ」(涙)。 あ、おれ自身の子供の話だった。親というものはその立場に立ったときには、これ以上なく利己主義であるから、今回は相当に迷った。裕福というわけではないが、息子二人を何とか私立にやるぐらいの余力はある。が、長男はむやみに沖縄になじんでしまって、近所に友達がたくさんいる。この地域から車で連れ出して、私立小学校に通わせることが、いいのか悪いのか。 結局私は近所の公立を選んだ。チバリヨ。
Apr 12, 2005
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などと書くと大げさなのだが、ここ数日ゼミ生を選抜する中で感じたことがあったので書く。沖縄人は戦略的発想に欠ける、などというよく言われるテーマである。まあ、日本人は戦略性に欠けるとか、この言い方が陳腐であることは重々承知なのだが、今回読み手として特に意識しているのは、採用者も含めたゼミ希望者達である。 今年のゼミ第一希望者は33人であった。このうち10人前後が採用される。3,4年次合同なので、20人ちょい。私大としてはまずまずの規模だと思う。別にうちの学科の場合、私が特にいい教育をしているということはなく、全員絶対どこかには入れるのだから、あまりリスクが大きいということはないレースである。従って何も死に物狂いになるほどのことはない。しかし私が憂慮するのは、今回の失敗から何も学ばないと、再び約三倍程度というよくある選抜で、また負けてしまう、ということである。 私はまず実態を説明し、辞退者を募った後、次のような課題を出した。*大野ゼミでやってみたいこと(なるべく明確なものが有利)*ゼミに対する意気込み(勉強以外の側面でも、ゼミの会にはバイトを休んでいく、副ゼミ長をやってもいいなど)。 かなり出題者の意図を理解するが容易な出題である。要するに戦略的発想というのは、どのようなものを書けば、10位以内には入れるか、と考える、その程度の意味である。 うちの大学は9割がウチナーンチュであるという特殊事情から、毎年一人か二人、私の出た千葉大とか都立大(もう国文はない・涙)とかでも十分通用するやつが混じっている。今年で言えば「中上作品と土着的な沖縄における文学作品との比較は可能か?」だとか、「ウラジミール・プロップの昔話の形態学の可能性を現代日本文学の中で検討したい」とか書いてくる者がいる。実際学部段階でそんなとこまでいけるのか、とか、私にそんな指導ができるのか、という問題があるのだが、こんなことを書かれれば落とすことはできないのである。だが、こういうのはごくわずかであり、席はまだまだ残っている。そしてその他の学力は大体横一線なのである。 もう一度課題を確認すると、いろいろなことがわかる。先ず字数制限がないという点である。みんなはどれくらい書くのだろうか、どのくらい書けば突出できるのか、なぜこの程度のことを考慮しないのだろうか?さらに私は「携帯の機能上2通以上になる人は「課題山田1」のように番号を入れてください」と書いている。つまり低機能の携帯メールでは一回では送信出来ないほどのレポートを想定していると気付くべきなのである。もちろん長く書けばいいというものではないが、長い文章はそれ自体で、少なくとも意気ごみの自己アピールにはなる。それぞれ2,3行程度しか書いていないレポートを見て私は愕然とした。突出した学力を採用した後実質3倍以上になっているこのレースに勝てると本気で思っているのか。 次に、()の中というのは、本文以上に重要な場合がある。(なるべく明確なものが有利)と種明かしをしているのである。「まだはっきりしていません」というのは「私を落としてください」と同義である。むやみにたくさんやりたいことを書いた学生も逆の意味で、何も決まっていないと告白しているのと同じことになる。ここで沖縄文化と葛藤が生じるのだが、これは第一義的に、レースであり、ゲームである。予定を聞いているのであって、契約しているわけではない。採用された後は、何度変更してもいいのである。たった一人の作家を上げた学生は全員(といっても3名だが)採用した。 なぜ課題が二つあるのか。これは学力オンリーで採用すると、ゼミ運営に支障をきたす場合があるからである。これまで十分には勉強してこなかった、という自覚がある場合、課題1は捨てて、課題2に全力をあげるというのもひとつの戦略であった。「たいしたことは出来ないと思いますが・・・」だとか「私にゼミ長がつとまるとは思いませんが」などとは絶対書いてはいけないのである。採用後「ゼミ長をやれ」といわれたら、断ればいいのである。 今回感心したのは「新入生歓迎バレー大会に向け、体育館シューズを買いに行くつもりです」というものであった。これは非常に効果的な自己アピールだと思う。こんなもの嘘でもいいのである(本当に買いに行くのかも・・・)。しかしこの学生は先に取り上げた中上健次と同じ人物の上、本土出身者である。同世代でこれほど差がついてしまうのか、というショックがこの文章を書いた動機のひとつである。 以前沖縄タイムスの人事担当の人と話した機会があり、「県内大学出身者はUターン組みに負けちゃうんですよ」と言われたことがある。あまりに素直、正直すぎて、決定的に自己アピールにかけてしまうのである。 これはウチナーンチュであるが、優秀な卒業生の中に「沖縄は楽だ。だれも努力しないので、少しの努力で上にいける」といったものがいた。彼は今琉球新報の記者をやっている。 今回不採用になった諸君には、場合によっては、これが最後の指導になる。非常に親しく付き合ってきた学生を、何人も落としてしまった。本当に断腸の思いである。今回の経験を参考に、次は勝ち組に入ってほしい。
Apr 11, 2005
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今年は春休みの沖縄訪問の当たり年で、3月下旬から昨日まで、誰かが沖縄にいる、という状態が続いた。おまけに次男から始まった水疱瘡が、長男に感染し、既往歴のない私は冷や冷や。昨日長男の入学式に参列してくれた義父を送って、ようやく一段落。 ここ数日苦労したゼミ生の選抜もようやく終了(この件については、別項)。「創作組踊りの可能性」の校正も終わった。ひどい出来だと思ったが、まあ良くはないが、それほど悪くないような気もしてきた。本が出たら、公表します。あ、共著で、30枚くらいの内容です。 やっと2005年度が始まった感じ。
Apr 11, 2005
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