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祝日。父、出勤。娘と息子と3人で、ビデオを見たり、庭でひまわりを植え替えたり、砂場をしたり。まったりと過ごす。日祝日は保育園もないが、病院もない。以前は、そんな状況を『停滞』と感じていた。保育園に行けば発達が促される。病院に行けば、少しでも良化する。そう考えていたので、逆に家にいるときは、『何もなく、停滞している状態』なのだから、そうならないように、あれもさせなきゃ、これもさせなきゃ、と、気負っていた。今は、そう考えないようになった、というわけでもない。が、息子を授かってから考えは少し変わってきた。毎日、耳鼻科。+整形外科、リハビリ、2週間に1度の小児科の定期健診。身体が弱く、保育園に行けば何かをもらってくる。そんな彼と日祝日を迎えると、今週も無事であったことに喜びを感じる。身体が弱いのに無理に保育園に行かせてごめんね、と、抱きよせ、普段、ゆっくりできない分、目一杯抱きしめて彼を満喫したいと思う。彼もそれに応えるかのように、ぎゅっと私に寄ってくる。そう、きっと、これで良かったのだろう。娘のときも。こう、自然と気持ちがいくのだろうな、『普通』は。彼女の障碍、口唇口蓋裂にしても難聴にしても言語レッスンは母子通園である。つまり、母も学べ、週に少しのレッスンでは見につかない問題、ということである。それに加えて、口の中のケア。補聴器の管理。あぁ、摂食障害もあった。1歳半すぎまで、経管栄養のチューブも私が入れ替えして管理していたんだった。そんなこんなで『母親とは何かをするべきもの』と勝手にインプットしてしまったのだろう。自分が母親にしてもらったようにしてあげる、と、虐待になってしまうから、と必死に頑張ってきたのに、やってることは母親と一緒だったのだ。子どもの支配。管理。恐るべし虐待の連鎖。『普通』の子どもを授かっても、やってしまっていたのだろうか。それとも、こんな特殊な状況だから道を誤ってしまったのだろうか。もし、そうだとしたら、育てるのに困難な子どもを授かったことで『虐待』に悩んでいる人がどれだけいるのだろう。
2008.07.21
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日曜日。朝、7時に起床。夫は午後から仕事、娘と息子は前の日の疲れからか、まだ眠ってる。こういう朝は猛烈に家事をしたくなる。片付けても片付けても、そばから汚す子どもたちがいないと、時間が止まったようなゆとりを感じられる。ずっと、気になっていた、畑のきゅうりの支柱をやりなおして、未だ伸び放題のイチゴのプランターからイチゴを引っこぬいた。1時間ほど作業して、朝ごはんの支度。洗濯。9時近くになったので、夫に子どもを任せて、買出しへ。11時に帰宅して昼食を作り、食べたあと、子どもと一緒にウトウト。プリンとグラハムビスケットでおやつを食べて、ぼーっとしていたら、携帯がなった。「今日、ダンナさん仕事?今、仕事終わったんだけど、今から行ってもいい?」珍しく、ゆったりしつつも充実した日常を打ち破る電話は、保育園のママ友だちだった。彼女は看護師で、3人の障碍のない子どもと夫と5人で暮らしている。クラス幹事で有能で、雑用から何から自分が引受け、面倒見の良い人である。彼女の夫は、朝、全員分の洗濯をし、朝食を作ってから仕事へ行き、彼女が夜勤のときには子どもたちの面倒を自分がみる。保育園の行事にも積極的に参加し、共働きの夫の理想のような人である。その彼女が夫に子どもを預けて18時に一人で遊びに来て、1時半過ぎに帰っていった。なぜ、ママ友だちなのに子どもを預けて来るのか。1時半にもなって、ようやく帰宅したのか。どうして、そうなると分かっていて断らなかったのか。それは、また機会があったら書くことにしよう。疲れた。猛烈に眠い…。リビングに寝てしまった子ども2人を寝室に連れていかなければならないし。彼女と過ごす時間が嫌いなわけではない。でも、彼女と別れた後は、すごく疲れる。気を使って疲れる、というわけではないのだが。彼女がいま、私の悩みの一つになっている。
2008.07.20
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今日も息子を朝、キリスト教系総合病院の耳鼻科へ。娘を午後1番に、こども病院の耳鼻科へ。まずは、番とり。土曜日は平日には2診あるところ1診のみで、しかも予約ではなく先着順。今日は夫が休みのため子どもたちを預けて、8時の再診受付開始時間を狙って診察券を通しに車を走らせる。2番。一旦、戻って息子にバナナと牛乳、バームクーヘンで簡単な朝食をとらせてトンボ帰り。無事、2番で診察を終え10時前には家に戻れた。息子は毎日、日曜日で外来が休み以外、このキリスト教系総合病院の耳鼻科へ通っている。左耳から耳だれが出ているのだが、MRSAが検出された耳だれで抗生剤が効かない。効くものもあるのだが、それは脳症や髄膜炎になったときに使うような最後の砦といった抗生剤で、耳だれごときで使って、もし、その抗生剤に対して耐性ができてしまったら、命に関わる、らしい。本来、MRSAは特別変異の菌なので生命力は弱いそう。よって、洗い流し消毒して、本人の回復力がMRSAに勝つのを待っている。毎日。普段は土曜日に父は仕事で不在なので、番とりの段階で娘と息子を一緒に連れていく。そして、病院内の聖堂の近くのベンチで持参した朝ごはんを食べさせながら9時を待つ。それに比べたら今日はインチキなのだけれど…ちょっとぐらい勘弁してください、って思う。でも、きっと他人は許せないと思っているんだろな、こういうの。すぐに洗濯を干して、ブランチを作る。夫が北海道出張で送ってくれた、ほっけを焼いて、ブロッコリーとカニカマのサラダ、温泉たまごと、しじみのみそ汁、ごはん…あっという間に11時30分になって、慌てて支度して12時に出発。今度は娘のこども病院へ。道が空いていて、12時30分に到着。CT検査、聴覚検査を終えて、ようやく診察の番がきたのは15時…。毎回、毎回、分かってはいるのだが、よくもまぁ、待たせてくれる。今日は、手術も視野に入れた大きな検査なので、また格別時間がかかった。まぁ、それを見越して夫に休みをとってもらって一緒に来てもらったのだが。結果。娘の左耳が思わしくないようす。一刻も早く手術をした方がよさそう、という。いろいろな可能性は考えられるが、とにかく、メスを入れてみないと分からない、という。緊急の手術枠でも10月しか空いておらず。そこに、予約を入れることになった。帰り。田舎にあるこの病院の近くにある、産地直送販売所で安くて新鮮な野菜などをいっぱい買いこみ、17時半、そのまま、馴染みのお寿司やさんへ。生ビールを中ジョッキで一気に2杯、流しこみ、ようやく、一息ついた。見れば、テーブルの向こうで夫は、子ども用のいすに座らせた息子の口にせっせと食べられそうな寿司を運んでくれている。考えてみれば彼は、先週の金曜日休み以来、北海道出張をはさんでずっと仕事をし、今日、これが休みで、また明日から仕事で、木曜日まで休みがないんだよなぁ。貴重な休みが、子どもの病院だけで終わってしまって。疲れてただろうに。それなのに、こうやって、楽しそうに息子に話しかけながら寿司を食べさせていたりして、この人ってスゴいな、と改めて思う。感謝…ではなく、安堵…かな。あぁ、この人がパートナーなら、これからもやっていけるかな。そんな、感覚。きっと、夫も感謝なんてされたくない、と思っているに違いない、と思う。なんとなく。2人で、この尋常じゃない日常を楽しんでいけたら、悪い人生じゃない、そんな気がする。
2008.07.19
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また、やってしまった。ここ最近。そう、もう数か月は娘に手をあげてなかったのに、数発、平手打ちした後、突き飛ばしてしまった。息子が怯えたような悲鳴をあげて、私に抱きついてきて、ようやく、ハッと我に返った。この、娘と同じどころか更にゆっくりな発達をしている息子の存在が、私に、娘を虐待している、という事実を教えてくれた。息子が可愛かったのである。無条件に。無償に。最初は、2人目だから可愛いのかと思っていた。人も皆そういうし、あ、男の子だから可愛い、とも言われたかな。でも、息子の発達が遅れれば遅れるほど違和感を覚えてきた。確かに、息子の発達は心配である。将来どうなるのか、と考えもする。でも…上手く言えないのだけれど…そう、楽しいのである。息子といると。心配よりも、息子のちょっとづつの発達が楽しみで、心から、息子なりの発達を喜ぶことができるのである。そして、ふと。息子を眺めながら思うのである。『一生、車いす生活だったとしても、この子なら大丈夫。』そう思ってから、自分で驚く。何故、そう思えるんだろう、と。1歳半にして、手をついておすわりとズリ這いがやっと。言葉なんて到底でない息子の、何が大丈夫なのだろう、と。いろいろ考えてみても理由はたった2つしかない。1つは、性格。自分の欲求をしっかり持っていて、きちんと主張し、主張したことが満たされれば引きずることはなく、ニコニコと社交的な性格。きっと、車イス生活になったとしても、周囲に自分のしたいことをきっちりと頼め、周囲の助けを借りながらでも、社交的に社会に溶け込んでいけるだろう、と。もう一つは、そう、私に愛されている、ということだ。私に、信じられている、ということだ。誰が何と言っても、彼は生まれてくるべくして生まれてきた大切な命で、きっと、彼にしかできない役割がこの世にある、と、私は心から信じている。だから、彼が発達がゆっくりでも、あぁ、そうか。そういう役割なのね。ぐらいにしか思えないのだ。一方、娘はどうだ。性格もある。彼女は、じっと我慢する性格で、爆発型である。でも、社交的だし、彼女に関わる大人は、なぜか彼女の面倒をすすんでみる羽目になる、何かそういう独特な力を持っているし、彼女に癒され、涙する人はなぜかとても多い。きっと、彼女だって、周囲の力を借りて社会生活を楽しめるに違いないのだ。でも、やっぱり、決定的に違う。私に愛されていない、ということ。信じてもらってない、ということ。彼女が近づいてくると、その臭いだけで、うっとくることがある。「え~ひとりでいくの、ヤだな。だって、ママがいないとさみしいもん。ママだいすきなんだもん。」と、言われても、一瞬、「試されてる」としか思えない。彼女を傷つけないように。彼女に自信をつけてもらえるように。常に、そう努力して彼女と接してきた。そして、本当に少しづつてはあるが、私なりに彼女を愛している、と思ってきたのだ。それが、どうだ。息子は一瞬にして、そんな空言の愛情など飛び越えてしまった。手をあげた後、娘から離れたい一心で娘にシャワーを浴びさせてから、そのままリビングに置き、息子と一緒にシャワーを浴びた。シャワーだけだから、ほんの5分か…10分は経っていないと思うのだが。浴室を出たら、パジャマ姿の娘が脱衣所で待っていた。「もう着替えたの。」普段なら、夕食を食べはじめるまで着替えないでダラダラしていることもあるのに。「うん。…あのね、こっちきて。」と、おずおずと私の手を取る。これだけ怒ったあとは、空気を読んで私には近づかない子なのに。珍しいな、と思いながら、彼女に導かれるように玄関まで行くと、そこに、冷凍の宅配便が置いてあった。「れいぞうこにいれてくださいって。はやくしないと。」「…??」ごっこ遊びか、とも思ったのだが、ぎっしりと重い。「…これ、どうしたの。△△(娘の名前)が宅配便の人からもらったの。」「うん。ハンコおしたの。」いつも、玄関に、宅配便用の安いハンコを置いてある。「そう、こわかったんじゃないの。」娘は泣きそうな顔を無理やり歪めて笑った。娘は突然の音が苦手で、電話の呼び出し音やハト時計、もちろん、玄関のチャイムも苦手で、一人で部屋にいるときになれば、文字通り飛びあがって驚き、かけ寄ってくるのだ。私は、思わず娘を抱きよせた。抱きよせずにはいられなかった。「ママ、いっぱい怒っちゃってごめん…。ぶっちゃってごめん。痛かったよね…。」娘の目から涙がぶわっと溢れてきて、天井を見上げてわぁわぁと声をあげて泣きはじめた。そうか。手をあげた直後も泣いていなかった。シャワーの間も泣いていなかった。「ママね。パジャマをいつまでも着ない△△も好きだよ。玄関のチャイムが怖い△△も好きだよ。ママに捨てられないように、って頑張らなくても大丈夫だよ。ずっと一緒だよ。」そういうと、ギアチェンジをしたように泣き声が一段と大きくなって、娘は私の首にかじりついて泣き、絞り出すように、「ママわるくないよ。△△がわるかったの。」と、言った。「そんなことないよ。ぶったのはママ悪かった。じゃあ、二人とも悪かったね。」そのあと、娘は平静を取り戻したように見え、いつものように本を読んで眠っていった。こう書くと、何か、とっても素敵な母子関係のようだ。でも、違う。確かに、思わず抱き寄せたのは本当だった。手をあげたことも心から謝った。でも、その後は、いたって冷静に、頭の中に『子どもとの関係改善マニュアル』のようなものを浮かべて、その言葉を口にしただけのことだった。手をあげても涙を出さない姿。「ママわるくないよ。△△がわるかったの。」という言葉。そこに、どうしても私の気持ちがいかないのだ。こうやって、振り返って文章にすれば、いじらしく可愛くも思えるのに、どうしてもどうしても、あの一瞬、冷や水をかけられたような感じになってしまう。愛しているフリ。演技。それでも、きっと、してあげないよりはマシなのだろうけど。心から彼女を愛せたら、どんなに楽なんだろう。
2008.07.18
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娘と息子は、今日は保育園へ。息子は耳だれが止まらないので耳鼻科へ行ってからの遅刻で。娘は就学前の発達検査があるので早退で。正味4時間ほどの自由だったが、それでもありがたいな、と思う。…ありがたい、と思わなければいけないんだろうな、と思う。朝、ゴネている子どもに手間取りながら保育園に預けていた人が、再び玄関で出会ったときには、凛々しい社会人の横顔を見せて保育園を背にする姿を見ると、私の中の何かがシクっと痛む…こともある。もし…私だって…この保育園には障碍児を預けて働いている人も多いが、シングルマザーなど、よほどの理由がない限り、「なるべく定時(9時から16時)で」と、釘をさされる。働いている人は当たり前のように、仕事に行く前、好きな時間(7時から19時までの間)に預け、お迎えにくるのに対して、私は、遅れる理由をあらかじめ申告した上でも「夕方は体制が整わないので、なるべく早く来てくださいね」と、一言ついてくる。皆は平日休みでも誤魔化して仕事と同じ時間に預け、迎えにきて、のんびりと休みを過ごしたりしているのに。それでも、だ。ありがたいと思うべきなんだろうな、と分かってはいる。息子が突然、入院になったときなど、困ったときにはイヤな素振り一つせず延長保育をしてくれて、それでも間に合わなければ、保育士が家にまで連れて帰ってくれる保育園など、そうはないだろう。至れり、尽くせり。よく、やってくれている、と思う。…でも、そういうことではない…んだと思う。この疲労。疲弊。有名人が、自分のことを誰も知らないところへ行きたい、と、外国へ渡る気持ち…が、一番近いような気がするのだけれど…。さらに。娘の就学前の発達検査。IQ75から90という判定で、療育手帳の適応除外という判定が下りてしまった。知的障害児からの脱却は確かに私の目標だった。が、手帳がいらない、とか、普通学級に行かせたい、とか、そういう外観の問題ではなかったのだ。綺麗事に聞こえるかもしれないけど、あの人の縦への発達が何かで阻害されているとしても、その分、横へ横へと伸ばしてあげたい、一般の人が縦へ伸びている時間も横へ伸びつづけ、たった一つでも、あの人が生まれきて良かった、と思える何かで、可能ならば、それで身をたててほしい、そう思っていただけなのだ。手帳がなくなれば、障害者控除がなくなり税金が高くなる。手帳がなくなれば、加配の保育士がつかなくなり、ただのやっかいな園児になってしまう。そうなれば、今以上に、頭を下げ続けなければならない。周囲に。手帳がなくなったって、あの人を育てる困難さは、なんにも変らないのに…。私の疲労もなんにも変らないのに…。
2008.07.17
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今まで、気の向くままの更新だったが、この休止期間はなぜか、いつまでたっても復活する気になれず。それどころか、もう止めよう、という気持ちの方が次第に大きくなってきて、本当に止めるつもりでいた。突然、気持ちを変えたのは、もう何年も通っている精神科医からの一言だった。「その時の気持ち、というのは、その時にしか書くことができない貴重なものだ。あなた自身の気持ちを、一日30分でもいいから書き残しておいたら。」そうか、日記か。と思った。今まで、どちらかといえば、私は日記のような部類は少なかったように思う。頭の中で考えてることが爆発しそうになったとき、または爆発するようなきっかけな出来事があったとき、頭を整理するためにパソコンに向かっていた。だから、時には一晩中、考え事をしながらキーボードを叩いているときもあったし、逆に、爆発するような出来事がなければ書かないし、爆発させようにも、頭の中で渦を巻いていて、文章にならないような段階では、書くことはなかった。よって、更新もまちまちになるわけだが。そうか、日記か。面白いかもしれない。今のこの状況。娘のこと、息子のこと、自分のこと。さまざまなことが頭の中で渦を巻いていて、文章になどとてもする気持ちになれない、この現在を、日記という形でしたためてみるのも良いよな。おっ…あと10分で30分だ。結構、短いなぁ。と、思った次第で。30分なら、日常生活に支障も出ないだろうし、ちょっとやれるとこまでやってみようか。
2008.07.16
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ブログを完全リニューアルすることにした。息子を授かってからこちら、さまざまなことがあって大きく心境が変化し、何か、やりたいことや、スタンスや書き方、考える視点というのだろうか、そんなものがガラリと変わってしまって、今まで通りでは続けられない気がしたからだ。それに伴って、過去の日記を最近のものから削除した。一つ。一つ。選択し、削除をクリック。削除しますか、の問いに、またイエスのクリック。再び戻って、選択し、削除。こんなことを繰り返しているうちに、ふと、誰かが私にかけてくれた言葉を思いだした。「辛いとき、pmsさんの日記を拝見して、自分をふるいおこしています」マウスに置いた手が止まった。あぁ、そうか。この世には、悲しいかな、まだ私のように摂食障碍の子どもと闘っている母親たちが、福祉からも病院からも社会からも放置されてしまっていて、そして、こんな瑣末な日記でも、彼女たちの力に少しはなっているのか。障害児育児や、障害者の武勇伝の本は、苦労した出産直後は2、3行。『あの頃は大変でした』で、終わってしまう。最初からそうだった、もしくは、将来、そう思えるようになった、清く正しく強い障害児の親、障害者たちはともかく、それ以外の、きっと、こちらが多数の、悩み多き人たちにも光を当ててほしい。私は常にそう思いながら、涙を流して日記をしたためてきた。その軌跡を消すことは、そのポリシーに反することになる…というのは大袈裟かな。とりあえず、覆水盆に返らず。消してしまった日記は元に戻すことはできないけど、とりあえず、残った日記はそのままにしてみようと思う。ちょっと、かっこ悪いけど。
2008.07.15
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また、母親による幼児虐待死事件が明るみになった。育児放棄(ネグレクト)で、一日に与えた食事の量は茶碗1杯のご飯と麦茶1杯の水分。4歳男児が89センチ、8キロしかなかったという。世間はまた、彼女を大いに批判するのであろう。子どもを産んだこともない独身のアイドル崩れが目に涙を浮かべ怒りを露にしたりするのだ。まるで、自分だったら同じシチュエーションでも絶対そんなことはしない、と。私は笑えない。虐待した母親を。あれは私だった、と思う。「息子はしゃべろうとしないし、歩こうとしなかった。育児に疲れ食事を減らした。」未熟児として出生し、その後も発育が不良だった息子を、元夫の家族と同居しながらアルバイトで新聞配達をして育てていた彼女。その彼女が語った、『しゃべろうとしない歩こうとしない=育児に疲れた=食事を減らした』という心の方程式を、一体、世の中のどれだけの人が分かってあげられるというのか。いつまでたってもしゃべらない、歩こうとしない我が子。周囲の子どもはどんどん先に進み、当たり前のように昼間、ママ友と公園で談笑している姿。細い身体。襲われる自責の念。児童相談所に相談にいっても、のってくれるのは息子の悩みだけ。母親の心の闇には応えず、頑張れ、焦るな、と、繰り返され、徐々に自信をなくしていく毎日。崩れていった理想の日々。戻らない生活、人生。見えない未来。笑顔が消えていく彼女が手にとるように、私には分かる。「こんな子どもを育てる意義が分からない」「消えてくれたらいいのに」彼女を襲う悪魔のささやく声が、私には聞こえてくる。そして、私は笑えない。自分だったら同じシチュエーションでも絶対に虐待などしない、と、言わんばかりにカメラの前で胸を張った独身アイドル崩れを。娘を授かる前の私は、あちら側にいた。娘に障碍がなければ、今も、あちら側の人間であることに何の疑いもなく、世の中を蹴散らしていた。人の白い目に気づきもせず。気づいても、その視線を送る者を憐れとさえ思いながら。薄っぺらい空虚な、でも、思いっきり豪奢できらびやかな世界に必死にしがみつきながら、生きていたと思う。どれが幸せだったか、ではない。どれを選択しても、それが私の人生で、それもたった一度の人生である。その覚悟がいつできるか。病の床にふせって気付くか。うらぶれて薄っぺらい世界から滑落して気付くか。年老いて気付くか。障碍のある娘を授かって気付くか。犯罪に手をそめて後に気付くか。紙一重なのだろう。
2006.09.14
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明け方だったのか、もう朝だったのか。あるいは夢の中だったのかもしれない。夫の実家に滞在中、一人、広い客間の中央に布団を敷いて寝ていたのだが、襖を引き開ける音が聞こえた。力のない者が襖に負けないように引くような、軋んだ微かな音。 …もしかして… と、見遣ると娘が入ってきた。 「(娘の名前)?」 と呼んでも答えもせず、でも、ためらいなく真っ直ぐ私の元へ歩みより、布団へ滑り込んだ。 横向きに体を折り、コの字になった私の空間に、ピッタリと背中を向けて娘がはまった。きっと、世界中、どこを探しても、これ以上私のパズルにはまるピースは見当たらないだろう。 娘の髪が私の鼻をくすぐる。私は髪の中に顔をうずめた。シャンプーとかぎ慣れた汗の香り。 そうだ。昨晩は私が最後にお風呂に入れたんだった…記憶がよみがえる。 滞在中。おじいちゃんに水遊びを一日に何度もさせてもらっていた。 体と頭も洗っておいた。 と言うので任せていたら、3日もしないうちに生え際や背中に汗疹が吹き出し、頭も臭った。 せっかくの好意だし、自尊心を折るとすぐに気を悪くする人だから、最後の水遊びの終わりには私も入る真似をして娘をガシガシと洗った。昨日は特に痒かったらしく、自分から洗ってくれ、と珍しくせがんできたのだった。 娘がクルリとこちらを向いた。体を伸ばして私のオデコに自分のオデコをくっつけて、 「…ママ…」 と優しい声を出した。 「…ママ…すき…」 私の中で何かが音を立てた。大きな大きな歯車がグワリと回ったような音だった。 私は100%の人間じゃない。それでも娘はこうやって私を見上げて、私の隙間にピタリとはまって、好きだと言ってくれる。 滞在中、初日からおじいちゃんおばあちゃんと一緒に寝ていた彼女が、こんな風に私の所へ来た日は一日だってなかった。昨日のことを彼女は彼女なりに気にしていたのかもしれない。いや、もしかしたら、私のことを心配して見にきたのかもしれない。多分、そっちなのだろう。 娘は、つと立ち上がり、 「おじいちゃんおばあちゃんと一緒に寝てくるね」と言って、また同じように部屋を出ていった。…いや、そんな風に言ったように聞こえた。 私が100%の人間ではないのと同じように、彼らだって100%の人間ではない。 そして、恐らくは世の中に100%の人間はいないのだろう。 それでも、人は人と付き合っていく。 実両親と距離を置いたとしても、義理の両親を疎んだとしても、近所、娘の保育園、知人、友人、夫、と私の人間関係は絶えることがないのだ。それも、一生。 相手が100%になるわけでもない。自分が100%になるわけもない。 だったら、笑顔で暮らした方が人に好かれ、ひいては家族が幸せになれるのではないだろうか。 相手が悪くて自分が正しい、と思っていることを丸飲みすることは損しているような気もする。 負けているような気もする。 逃げているような気もする。 でも、損して得とれ、負けるが勝ち、とも言うではないか。 娘のためになり、生活費がかからない上に、人を許せる気持ちが育ち、忍耐力、辛抱が得られるのであれば、万々歳。 そういうことなのだろう。 無論、娘のためになれば、ではあるが。
2006.08.20
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夫の実家に滞在して10日間。そろそろ限界になってきた。 滞在初日から止まらないアレルギー性鼻炎に便秘と下痢の往復、ここ2、3日にはジンマシンまで体部に表れた。これら全てがストレスからきてるのか、と思うと、ストレスという病原体の力の強さ、恐ろしさを改めて実感してしまう。 このようなことを予見していないわけでもなかった。口が達者の河内女と典型的な一世代前の偏屈男と。もちろん、義理の両親に持つならもっともっともっと劣悪な一族がいることは、実両親のおかげで身に染みてはいるのだが、それでもしんどいものはしんどい。ツワリで思うように遊んであげられない上に夫の8月長期出張が決まり、義両親からの催促は日一日毎に波の高さを増してきた上に、娘も、新幹線に乗っておじいちゃんおばあちゃんのうちに行きたい、と、こちらの波も高まる一方。娘の発達の刺激になるだろうし、ツワリと闘いながら食事をこさえることから解放されるしな、と、下心も顔を出して来たのだった。 ここまで長期滞在したのは初めてであるが、滞在もここまで長いと徐々に遠慮がなくなってくる。最初こそ、緊張してトイレにも行けなかった娘だが、すぐに我がもの顔で家中をカッポしはじめた。そして、家の主、義理の両親も、である。私サイドも次第に物のある場所やら日常生活のしきたりやらが見えてはくるが、そう簡単にお客さんから抜け出しようがない。が、義父母は住み慣れた家で過ごし慣れた日常生活を遠慮なく送りはじめたようだった。 私が何かを作っても「うわ、これ大丈夫か?腐ってないか?」食器を洗っても「これ、大丈夫やなぁ?ちゃあんと洗ったよなぁ?」と念を押され、義父には「お母さん」と呼ばれて少しでも反応が遅いと「なんや!そんなのも聞こえへんのか!」とがなられ、ちょっと昔の嫁気分を味わっていた。 でも、だ。 これは覚悟の上だった。滞在期間が長いことの弊害まで考慮に入れてなかったのは失敗ではあったが、それでも、これまでの経験から推測しての許容範囲であるし、そもそも、この滞在は誰に強要されたのでもない、私から言い出したものなのだ。 それなのに、このストレスはどこから来るのか、と言えば、娘、だ。 娘は義父と義母に可愛がってもらい、甘え放題やりたい放題の御姫様状態で暮らしていた。普段、通院や療育で辛抱することも多いし、私が抑圧させていたから、まさに、私が望んでいたのは、こうやってノビノビと親以外の人からの愛情をいっぱいに浴びさせてあげることであった。 が、義父母の溺愛ぶりは想像以上だった。そして、滞在期間の長さから来る弊害もあった。二人は次第に、私が娘に食事をあげるあげ方にも口を出し、「そんな強迫みたいにして食べさせて可哀想やん、私はそんなんは嫌いや」行儀の悪さを叱っても「怒らんでもええやないか、ワシがええって言うてるんやから」「ママ怖いね~舌巻いて怒っとるよ~コルァ(真似して)やて。あ~コワイコワイ」 私は口を出すのがしんどくなってきた。同居しているわけではない。暫定的な期間だし、せっかくだから娘から離れて読書でもさせてもらおう、と、ずっと読みたかったけど今更読む気になれなかった、村上春樹の『海辺のカフカ』と『ねじまき鳥クロニクル』を一気に読みあげて、溜飲を下げていた。 そして今日。 娘に「ママ嫌い」と言われたのだ。 初めて、ではない。むしろ、頻繁に言われている。が、いつもと違うのは、いつものように「ママ、嫌いて言われて悲しいな。嫌いて言うならママも嫌い。」と言っても「いいもん」とソッポを向く。なんだかカチンときて、「だったらママ、もうお父さんのとこに帰る。(娘の名前)は、おじいちゃんおばあちゃんの家の方がいいんでしょ」と言ったら「うん」と頷いた。私は本当に悲しくなって、大人げなく娘に「だったらもう、ママに話しかけないでっ」と部屋を出て行ってしまった。 食事は好きな物ばかり与えて、ゴチソウサマもイタダキマスの挨拶も無しでウヨウヨと歩き食べで。 着替えも自分でせず。 人目を気にして補聴器もさせず。 その人たちは、お前を授かった最初の一言に「うちの家系にそんなのはいないのに」て言ったんだよ。 難聴を疑って検査しようとした時、「あんたの気のせいや、そんなヘンな検査やらして、今よりもっとヘンになったらどないするの」て言ったんだよ。 食事を必要摂取カロリー取れない障害でも、ただの根性と努力不足と何度も何度もなじったんだよ。 お前を未完で「可哀想」としか思ってないんだよ。 昔、お前がコミュニケーションを取ろうと手話で懸命に話しかけたのに、「あんなんせんと話せへんのか」て気味の悪い物でも見たような顔して言ったんだよ。 今回だって、近所の人が来ると、上手くは伝わらないけど精一杯の言葉で挨拶しても、相手が反応する前に「言葉がな、まだヘンやけどな、治しとんねんな」て防御壁はっただろう、あれはお前を恥ずかしいと思って自分を守ってるんだよ。お前だって「ヘン」て言われて少し悲しそうな顔してただろう? それでも、おじいちゃんおばあちゃんがいいの。 ママが嫌いなの。 だったら、おじいちゃんおばあちゃんに育ててもらったらいい。 ママも、お前のことは忘れて自分をリセットすることにするよ。そして、お前を授かる前の世界へ生まれかわって、一生、疑うことなく村上春樹の世界に埋没して何かを悟ることなく高飛車に人生を終えることにする。 誰かに卑屈になることなく。 誰かに感謝することなく。
2006.08.19
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『うさぎ』をきっかけに落ち着いた、と思ったのも束の間。6月に入ると、また、新たな噂が私の耳に届きはじめた。どうも、娘が、保育園の『障碍児めぐり』をしているらしい、というのだ。園には障碍児が娘の他に4人いる。2人は1つ下の2歳児クラスのダウン症児。1人は、0歳児からずっとこの園にいて、園生活途中に障碍児判定を受けた、年長の知的障害男児。原因は何も分からず、社会性には問題がないのだが、何故か、言葉が出ず、手先も不器用で、運動能力もゆっくりで、年長の今でも、まだ、トイレトレーニング中である。そして、最後の1人が今年から入った年中の軽度の自閉症男児。娘は、この4人を巡ぐりにめぐっているらしい。『うさぎ』以来、2人のダウン症児に対しては、姉ぶった態度をとり、面倒をみたり、それは可愛がっていた。が、2人の年中、年長の男の子2人に対しては、どうも、悪さをしているみたいなのだ。年長児には強く出ているらしくて、物を取り上げたり、1つ下のダウン症児にしていたみたいに、首根っこを締めるような抱きつきを、嫌がっても止めないらしい。が、さすがに体格差もあるし、声の大きさも年少の、それも発達のゆっくりな女の子と彼とでは差がある。また、社会性には問題がないため、こういった接触も彼にとっては、なんだか絡んでくる女の子がいるなぁ、程度の認識らしく、本人が問題にしていることはない。それどころか、私がお迎えに行くと、私の手を引っ張って、娘の場所を教えてくれるようになった。きっと、彼は彼で、困った妹の面倒をみている、そんな気分なのだろう。私が心を痛めていたのは、年中の自閉症の男の子、好太(仮名)君であった。彼には、もっと、困ることを仕掛けていた。彼の「こだわり」に手を出してしまうのだ。好太くんは、慣れない保育園生活で自分を落ち着ける遊びを見出した。レゴで家を作ることだ。設計図でもあるのではないか、と思われるような、それは見事で美しい家をレゴで作り、出来上がったそれを持って、食事の場所に移動して食事をしたりする。娘は、その、彼の安定剤を壊してしまう、というのだ。それも、家が欲しくて壊れてしまう、と言った反応ではないらしい。「その家を壊すと、どういうことになるか分かっていて、わざとやっている」っぽいのだ。それも、ただ壊すだけではない。壊したパーツからレゴを1つ抜きとり、隠してしまう、という念の入れよう。当然、彼はパニックになり、家を作りなおす。が、レゴが足りなくて完成しない。娘がレゴを返さないので、教室から保育士がレゴを持ってきて渡すのだが、同じ色にも関わらず、これではない、と言って、更にパニックになる。そんなことが何度かあった、というのだ。「きっとさ、△△(娘の名前)ちゃんは私たちと一緒なんだよ。心を許しやすいんじゃないかな。」好太くんの母と、そのお宅にお邪魔して一緒に夕食をした際、謝った答えに、こう言われて、はっとした。一年間。同じクラスの子どもともコミュニケーションが取れなかった娘が、まず最初に心を開き、ヒドイ方法ながらもコミュニケーションを取ろうとしはじめた相手は、障碍児だった。それは、まず最初に出来たママ友が障碍児のママたちだった自分と、なんら変わらないのだ。「それに、好太(仮名)だって、それも人間関係の良い刺激だからさ。」そんな話をしている私たちの横で、リビング狭しと走り回っている二人と、好太くんの妹の計3人がいる。一緒に遊んでいるようにはとても見えないが、でも、お互いの存在は許しているように見えた。そうやって、何度か交流しながら過ごしていたある日。通院のため、早めに保育園にお迎えに行くと、娘がまたちょっかい出している場面に出くわした。思わず、駆け寄って止めさせようと思ったが、別のクラスの中、担任の保育士もいるため、一瞬、躊躇したとき、好太(仮名)くんが怒って大声で言った。「んもおぉっ!△△(娘の名前)ちゃん、止めてくださいっ!」隣にいた好太くんの担任の保育士が、えっ…と声をあげた。「今、△△(娘の名前)ちゃんって言った?」今まで、ブロックが壊された事実にパニックになっていた好太君が、こんな風に相手に怒っていくのをはじめて見た、という。はじめて自閉症児の担任になった彼女の横顔が、安堵した表情に見えた。1つ下のダウン症児に手をあげていた期間もそうだったが、次の『障碍児めぐり』の段階でも、保育園から、娘を問題視するようなお話は一切なかった。いずれも自分が見たり、世間話で耳にしたり、他の子どもから教えてもらったりして、こちらから担任の保育士に聞いて知った話である。聞くたびに、方々で頭を下げ、迷惑をかけたクラスにも謝りに出向いていたのだが、その度に、「気にしないで、お母さん。△△(娘の名前)ちゃんも、どうしていいか分からないだけなのよ」「どうやったら△△(娘の名前)ちゃんが上手に気持ちを出せるか、みんなで話しているからね、大丈夫よ」と、言ってもらった。娘の摂食障害も、給食室まで職員会議に参加して、娘のための対策を考えてくれた保育園である。素直に任せようと思ったし、きっと私ではどうしようも出来なかっただろう。「子ども同士から学ぶこともあるのよ」と言われたら、私はきっと不安になっていただろう。それは、障碍のない子ども同士の話だ。ハンディのある子どもには、過保護なほど導いてあげてこそ、ようやく成果が出ることが多い、ということを、誰よりも、その母である自分が分かっていたからだ。そして、8月になった今。下のダウン症児二人に対して、特別な行動は何もなくなった。乱暴もそうだが、特別に可愛がったりすることもなくなった。年長の男の子の方は、あちらの方が気になるようで、娘がいると飛んできて握手をしたりするが、娘の方は「あぁ」みたいな対応で、特別な関心を寄せてはいないようだ。そして、その後、好太くんへの仕打ちも耳に入らなくなっていった。こんな『障碍児めぐり』の間にも、一年間、ほとんど交流していなかった同じクラスの子どもとの関係にも、少しづつだが兆しが見えはじめた、と、感じる出来事が、また幾つもあった。次は、これも書き残しておきたいと思う。
2006.08.08
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最近、娘の顔を、朝、拭いてあげることが私の楽しみになっている。朝食と一緒に、冷たく濡らしたガーゼも用意して、食事が終わると、顔と、手をクルリと拭う。娘は気持ちの良さそうな顔をして、たまに、「プハー」なんて声をあげたりする。手を拭くときは、ガーゼで手を包んで、と要求することもある。『大きなかぶ』というお話をご存知だろうか?あれを真似して、何やらフシをつけて歌って、よいしょーっと引き抜く。娘は笑顔で椅子から転げ落ちるフリをして、私も同じように身体を反らして、それに応える。それはそれは可愛い。そして、拭いた後の娘の匂いをかいで、綺麗になったことを確認する、これがまた、幸せなのである。お気づきだろうか。私が娘の顔や手を拭いてあげたことがなかった、ということを。4年間。入院中、蒸らしタオルを看護師が持ってきてくれたときは別だが、自分で用意して拭いてあげたことなどなかった。こんなこと、みんな生まれてすぐからやっている。育児書や育児雑誌などをちょっとでも読んでいれば顔の拭き方など書いてあることだし、そもそも、そんなこと、育児書なんか読んでなくたって、本能で分かるだろう。事実、私もそうだった。暑くなってきて、娘の額にあせもが浮かびだした。パジャマも汗がびっしょりで、目やにもついている。あぁ、気持ち悪そうだな…そう思って、冷たいタオルで、額やら首筋やらを拭いたのだ。経管栄養の頃など、娘を入浴させることさえも嫌いだった。チューブはお湯に落ちるし、邪魔だし、チューブを固定するテープも、汗や湯気で剥がれてきて、張りなおすならまだしも、それがきっかけで、うっかり、チューブが抜けてしまうこともあった。そうなると、イライラはピークに達し、もう、何が悪くて、何がどうで、どうなってこうなって、今どうなっていて何が大事で、という理屈自体が分からなくなってしまい、その矛先は全て娘に向いてしまった。冬場なら、一日おきが、二日おき。入院生活みたいに身体を拭けばいいか、と、低きに低きに流れていっていた。娘は汚くて臭い生き物だった。鼻の矯正具には常に流動食がこびりつき、オムツは常に汚れていて、今よりも、もっともっと、汚くて臭い生き物だった。ただ私に、汚くて気持ち悪いね、このままだと痒くなっちゃうね、と、思いやってあげる優しさと愛がなかったのだ。今日も朝、娘は『大きなかぶ』のように手を引き抜いて、笑顔を見せた。私も、娘に合わせて、笑顔でそれに応えた。過去を泣いて子どもに詫びるより、そういった瞬間を積み重ねることが子どもと自分のためになる。そう言ってくれた、ここで出会った先輩母の言葉を信じて、明日もきっと、私は娘の顔を拭くだろう。
2006.08.06
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1つ年下のダウン症児にケリを入れ、髪を引きずり回す保育園生活には、突如、終わりが訪れた。それは、ある出来事がきっかけだった。そのきっかけは、結論から言えば、あぁ、こういうのってどこかで聞いたことあるよね、という程度の、ありふれたものでしかない。今、振り返っても、その可能性はおおいにありえるから、狙ってやってみることも可能だったかな、とまで思う。が、当時の私は必死だった。必死に娘と向き合い、娘から送られるシグナルに忠実に応えていった結果が、この結末であり、それ以上でもそれ以下でもない。案外、世の中で使い古されているエピソードは、こうやって、それぞれの家庭が、それぞれ必死で歩んできた結果が積み重なったものであって、ある事例を実験的にやったことによっての成功例を集めた集計ではないのかもしれないな、と考えさせられた、そんな貴重な出来事であった。それは5月下旬のことだった。1ヶ月近くが経とうとしても、娘は、ゆめ(仮名)ちゃんの首に抱きつくことを止めようとはしなかった。それどころか、1つ下の、もう一人のダウン症の男の子にまで、同じことをやりはじめた。当初、抱いた発達への喜びも、この時期になると影をひそめ、ただただ、申し訳なさと恥ずかしさでいっぱいになった。1つ年下の、それもダウン症の子どもばかり。弱い個体への攻撃は、まるで、私が家で娘に対してやっていることをそのまま、ストレス発散としてやっているように思われたら、と、自分の身までいやらしく考えるようになった。いや、もう少し正確にいえば、ストレス発散としてやっているようで、見ていて辛くなってきた。逃げまどうダウン症児の表情は、まるっきり去年までの娘の怯えた表情と同じで、どちらが娘で、今、自分が押さえている子どもが去年まで娘を追っかけ回していた子どもたちのように思えたりして、なんだか分からなくなった時もあった。そんな5月下旬の土曜日。障碍児関係の集まり、さくら(仮名)会で、動物園に行った。食事も終えて、動物園の一番奥にある、小動物を触れるコーナー「わんぱく園(仮名)」に向かって歩きだしたのだが、どの子どもともなく、大きな遊具があるコーナーで、それぞれ遊び出した。親も話がしたかったため傍らに腰を下ろし、話しはじめた。時間はあっという間に過ぎ、「わんぱく園」へと向かう、大きな橋の手前まで来た時点で、何人かの子どもが昼寝をしてしまったり、おやつを食べたがったりした。オープンカフェのようになっている所で腰をかけ、かき氷など食べているうちに、もう「わんぱく園」へ行くのは止めよう、ということになった。娘にそれを伝えると、娘は敢然と拒んだ。家を出る前に、動物園のイメージを膨らませてから来たのだが、その際、「うさぎを抱っこしようね」と言ってあったのだ。「うさぎは?うさぎ抱っこは?」娘は怒ったような表情で私を見上げ、絶対に行くと、首を横にふる。私は面食らった。正直、家でその話をした際は、そんなに乗り気とも思えなかったのだ。それどころか、話も聞いているのか、よく分からないような表情だった。何より、娘が、こんなに何かにこだわって、主張することなど、本当に数えるぐらいしかなかったのだ。なんとなく、娘に導かれるように私はその場で皆に別れを告げて、娘と二人、「わんぱく園」に向かう橋を渡っていった。「わんぱく園」は、あと30分で閉園のせいか、人がほとんどいなかった。労なく座り、娘を待たせて、私はカゴの中にいっぱい戻されているモルモットを覗き込んだ。モルモット、ということは予め分かっていたのだが、語彙が少ない娘のために、あえて『うさぎ』と説明していた。私は、1匹だけいた、白い毛で赤い目の、ウサギのようなモルモットを抱き上げると、娘の元へ連れていった。娘の横へ座り、自分の膝に乗せると、娘は、自分の膝に乗せて、と、身体を伸ばし、足もきちんと揃えて場をこさえた。私は、半信半疑で、そーっと娘の小さなスペースにモルモットを置いた。すぐに娘は、半泣きの、声にならない声を挙げ、モルモットをどかさせたが、また、すぐに自分の膝を用意した。それを何回か繰り返した後、モルモットを膝に乗せてじーっと動かなくなった。どれくらいそのままでいたのだろう。娘は意を決したように左手を動かすと、モルモットの背中にそっと置いた。モルモットがピクリとすると、娘の肩も小動物のようにピクリと動いた。何度かそれを繰り返すと、今度は右手で優しく包みこむように支え、左手で、毛並みをなではじめた。私は、全く自分でも考えもつかなかったことを思わず口走った。「『うさぎ』あたたかい?」娘はモルモットから視線を外さないまま、コクリと首を下げて返事をした。「『うさぎ』小さいね。」娘は同じように、またうなずいた。「ぎゅーってしたら、きっとつぶれちゃうね。」またうなずく。「ゆめ(仮名)ちゃんも小さいから、きっとつぶれちゃうね。」娘は少しだけ顔を上げて、私の存在の方に顔を傾けた。が、視線はやはりモルモットから外さないまま、今までよりも大きくうなずいた。そんな気がした。夕暮れの柔らかなオレンジの日差しが伸びて娘を照らし暑くなってきても、係員の人に声をかけられるまで、娘はずっと、じーっと、『うさぎ』を抱き続けた。その日以来。私は、娘がダウン症の二人の子どもに手を挙げている姿を見ることはなくなった。保育士からも、そんな連絡を受けなくなり、そして、今では全く、そんな話は聞かない。代わりに、また、問題が出てくるのだが、何か、この話につながっているような、この件を乗り越えた次のステップのような、そんな問題が発生してきた。でも、この日。この瞬間の娘の姿を、私は一生、忘れないと思う。
2006.07.12
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4月。年少になって、まず問題になったのは、娘が『年少の教室』に居たがらないことであった。今までは、1つ上のお兄さんお姉さんの教室。今日からは自分の教室。何かあっても、すぐに脳までの回路がつながらず、反応の鈍い娘にとって、こういう切り替えは苦手であった。少しでも間があれば教室を脱走し、以前の、『2歳児の教室』に走りこんだ。が。そこには、新しい2歳児が当然いる。娘の発達年齢からすれば、娘が彼らと共鳴するのは無理からぬことだった。お迎えに行けば、常にいるのは2歳児教室。園庭で遊べば、2歳児クラスの集団と共に行動する。そのうち、担任よりも、2歳児クラスの担任から、今日の報告を受けるようになってきても、娘が楽しければそれで良い、と、思っていた。園の方も全く問題視していることなく、もともと異年齢交流の多い園であるため、「△△(娘の名前)ちゃんのおかげで、今年の年少と2歳児さんは仲が良くて、一緒に遊ぶことが多いんですよ~」といった風だった。が、5月。事態は一変する。何か、大きな出来事があったわけでもないし、園や保育士や保護者からクレームがきたわけでもない。が、方々からの話を総合していくうちに、新たな局面が見えてきた。娘が、2歳児クラスにいるダウン症児の首を羽交い絞めにしている、というのだ。何故、問題として私の耳に入ってこなかったか、と言えば、娘の行動が意地悪を基にしたものではなく、愛情から逸脱した行動であったから、と思われた。2歳児クラスに出入りしているうちに、自分よりも明らかに幼く見える、1つ下のダウン症児に対して、姉き分としての慈愛の情が芽生えたらしく、ぬいぐるみを抱きしめるごとくに、抱き潰す。で、それを阻止されると、その阻止が、「ゆめ(仮名)ちゃん、痛いって泣いてるけど、いいのかなぁ」というような婉曲なものでも、がーっとキレて、ゆめ(仮名)ちゃんに対して、髪を引っ張る、蹴りを入れる、胸ぐらを掴む、といった暴挙に出る、という。私は当初、その話が信じられなかった。何故ならば、娘は『人生オール負け』の人で、イキが良ければ0歳児相手でさえビクビクと相手の突然の行動に怯えて謝ってしまう、そんな子どもだったからだ。2歳児クラスに通った去年1年間。私は何度も、そんな場面に出くわし、その度に、療育所ではなく、通常の保育園に入れた自分の判断を、何度も何度も疑い心を痛めてきた。そんな娘が、だ。現場を見た瞬間は、本当に本当に驚いた。見たこともないキレた表情を浮かべて、ガンガン蹴っていたのだ。私は現場を押さえ、すかさず、娘を強く言い聞かせてみた。ぎゅっはダメでしょ、△△(娘の名前)もやられたら嫌でしょ。娘を羽交い絞めにして、その痛みを教えた。これで、今まではオッケーなハズであった。が、全く効果がない。私の前では「うん」と一応、言うが、園に行けばやっぱり同じ。私は、総毛立つのを感じた。娘は明らかに成長している。自己主張が強くなり、また、昨年1年間、全くといっていいほど手応えがなかった、人間関係、というものを、今、築こうとしている。反応は鈍いがプライドの高い娘にとって、1つ年下のダウン症のゆめ(仮名)ちゃんが、きっと、最も人間関係を築きやすい相手だったのだろう。そして、まず、1歳児の子どもの発達段階にあるような、自己主張の手段としての噛みつき、を相手にしているのではないか。私は、まず、ダウン症児ゆめ(仮名)ちゃんの母に謝った。地域の障碍児社会は狭い。同じ保育園に通う前から、お互いのことは、知人の知人の知人位には大体当てはまる。常日頃の交流もあり、問題はなかった。また、園や保育士にも謝った。こちらは逆にやりがいを覚えている風で、「ぎゅっとする代わりに、一本橋こちょこちょ~をしてあげたら~と言ったら、やってくれたんですよ~」「今日は、他の子どももやってほしい~と△△(娘の名前)ちゃんの前に並んだものだから、すごくお姉ちゃんの顔になって輝いてましたよ~」と、こちらが恐縮するほど、気長に手厚く対処してくれた。そんな恵まれた環境の中だからか。私は、表面上は常に頭を下げていたが、心の奥では、期待感で満ち満ちていた。娘が変わろうとしている。一つ、天井を突き破ろうともがいている。私はどんな手助けをしてあげたらいいのだろう。転職と引越しとで慌しかった5月。娘の成長の兆しが何よりも励みであった。
2006.07.10
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七転八倒の葛藤と並大抵ではない苦労をへて、障碍のある娘を『発達支援』のために入園させてから、早1年。娘も今年、年少になった。入園した2歳児の1年間は、知的面運動面の成長よりも、むしろ、身辺自立の発達が主で、友達との関係を築くよりも、保育士や、保育園生活自体との関係を確立し、安定した生活を送ることで精一杯だった気がする。それは何も、娘に限ったことではない。私も、精一杯だった。居心地の良い福祉というぬるま湯を出て、入った保育園という世界。仕事をしながら『普通』の子どもを育てている母親たちに交じって、仕事をせずに、園と並行して、2ヶ所の言語レッスン、3ヶ所の定期通院のスケジュール管理しながらも、入園したばかりで病気ばかりする娘の体調管理、入院の付き添い、と、さながら、娘のマネージャーを生業とする毎日。活き活きと仕事をする彼女たちを妬ましく思ったり、共通の会話をひねり出すしんどさも味わったり、明らかに他の子どもより遅れている娘を目の当たりにして、本当にこの選択で良かったのか、と、悩んだり、保育園の娘への対応に疑心暗鬼になったり、季節ごとにやってくるイベントなどの保育園の行事、密度の濃い父母会の集まり、と、目まぐるしい1年を過ごしてきた。そして、2年目の年少の年。娘の成長と共に、また、私の余裕と共に、今までとは明らかに違う面や、成長や、問題が娘に表出してきた。それらを記録として、少し、書き残していけたら、と思う。何のためかは分からないけれど。
2006.07.08
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赤ちゃんが出来たからであろうか。娘が赤ちゃんの真似をするようになった。自分のことを指差しながら、「この子は赤ちゃんなの。」と言い、抱っこをせがむ。娘を抱き寄せようとすると、違うの、といい、横抱きにして欲しい、と乗り込んでくる。食事中もパタっと自分で食べるのを止めて、「あーん」と食べさせてもらおうとする。従弟が置いて帰ったおしゃぶりをしゃぶり、「あーん、あーん」と泣き真似をしたりする。私は、そんな娘を自分の膝に導く。重たい頭を腕に乗せ、額に額をくっつける。長い足を二つに折って、小さくして自分の身体にすり寄せる。娘は、私にそっくりの眉毛の、左の方をきゅっと上げて薄目を作って私をこっそり覗きこむ。そして、満足したように口元を緩ませて微笑んで、わざときつく目をつむって、抱かれるがままになっている。『育て直し』という言葉が確かあった。今、私は自分の子どもを自分で『育て直し』ているのだろうか。あの頃。娘のことよりも自分の身の安泰だけを考えていた分、手っ取り早く言うことを聞かせるために恫喝していた分、手を挙げていた分、存在自体を愛してあげていなかった分、の『育て直し』の機会を娘からもらっているのだろうか。それとも、転職し、引越しした不安や、妊娠したことによって生まれた新たな悩みや、悪阻や、今、抱えている夫の実家とのトラブルのことや、娘の就学問題のことや、腹の立つ、あんな問題や、怒り治まらぬ、こんな事件や、悲しみ止まらぬ事たちや、悩み尽きぬ事たち、から、私を解放してくれているのだろうか。娘と鼻を擦り合わせている時間だけが、全てから解放させてくれて、今の私を救ってくれている気がする。おかしなものだ。怒りも悩みも悲しみも不安も、娘絡みのものばかりだというのに。
2006.07.07
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夫が姑(夫の実父)と喧嘩をした。どうも、何かの話から貯蓄やらの話になって、貯蓄が少ないことに姑が腹をたてたらしい。人生計画が出来ていない。転職なんかして、親戚縁者はじめ周囲に恥をさらして生きている。話は以前からもめていた話やら、かつて決着した話にまで及び、よくも男同士の電話でここまで、と思うほど、長い時間、もめていた。が、結果だけ言えば、夫は全ての言葉を飲みこんで電話を切った。もし、子どもがいなかったら。ブチ切れて、30代の自分たちの価値観だけをまくしたてて電話を切り、老夫婦が寂しくなってきて折れてくるまで存在を忘れ、好き放題に暮らすことだって可能だろう。事実、夫の兄夫婦は、瑣末なことで喧嘩して2年、音信不通、嫁は電話にも出ない、という抗議行動に出て、結局、大人側が折れて、今もハレ物に触るように気を使っている。が、子どもがいれば、自分の親は、子どもにとってはおじいちゃん、おばあちゃんだ。『大好きなおじいちゃん、おばあちゃん』がいるということが、どれだけ大切なことかは、子どもの反応や成長で一目で分かる。そして、私はまた妊娠している。実家が終わっている以上、夫の実家の助けなしに出産、育児をすることは、なるべくなら避けたいと考えてしまうのだろう。そして、事は2段階構えになる。もし、娘が障碍児でなかったら。自分たちだって、夫の実家と同じように、人生計画を綿密にたてれば、イレギュラーなことにも対応できる、つまり、予測の範囲を超えない程度の出来事しか人生には起こらない、と信じて生きていたと思うし、転職、それも、ステップダウンと思えるような転職など考えも及ばなかったと思う。そもそも、こんなに出費がかかるようなこともなかったかもしれないのだ。「わしも人間や。人生思ったようにいかんこともある、それは分かる。だからこその計画やろ。備えやろ。」人生を60年以上。それも真剣に、真面目に生きてきて、困難にもいくつもぶつかった、そんな彼の人生経験をもってしても、測りしれない人生がある、それが今の私たちなんだ。電話を切ってからも怒り冷めやらぬ夫を見ながら、私はぼんやりと、その重みみたいなものを感じていた。「障碍児の父も大変だね…」自分自身につぶやくように言った夫に、「そのしんどさを、ご両親に分かってもらいたいんだね。」と、私は口をはさんだ。障碍児の親の気持ちは、実の親でも分かってもらうのは難しいんだよ、彼らは障碍児を育てた経験はないんだから、ね。腹立ちを紛らわしようもなくイラだっている彼を見ながらも、私は自分が一人ぼっちではなく、彼とがっちり肩を組んで歩いているような気持ちになって、こっそり、幸せを感じていた。
2006.06.30
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「いよいよ、ぼくたちの第3章がはじまるね」と、夫が言った。そうか、第3章か。良いことを言う。序章、二人は出会い。1章で結婚、二人だけの生活。2章で障碍児を授かり、人生観を修正し。そして、舞台は第3章へ。この第3章は、どのような内容になるのだろう。またまた人生勉強をさせてもらうような、流産や早産という形になるのか。授かった子どもに、またもや障碍があるのか。障碍がなくても、とんでもない子どもを授かるのか。驚くほど非個性的な親バカ幸せ育児ライフを経験させてもらえるのか。今は、まだ分からない。ただ、祈るだけだ。どうか、何があっても私の心が潰れてしまいませんように。モニターの中の小さな影の、そのまた小さな早鐘のように打ち続ける心臓と一緒に、私の心拍も高まり続けている。順調なら予定日は2月上旬だ。
2006.06.22
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夫が転職した。この5月から新しい会社で働いている。と、同時に、前の会社の借り上げマンションを出て、新しいマンションでブログを復活させた。新しい会社でも職種は変わらない。給料や福利厚生などは今までよりも良い。が、会社の規模は変わる。全国規模の会社から、主にこの地方と東京だけの会社へ。娘のことを告げてからの転職。おそらく、転勤の可能性は、建前だけのものとなろう。娘は大きな病院に2つ通っている。そして、その両方で、まだ何回かの手術が残っており、当然、そのための通院は数えきれないほどあろう。転勤のたびに病院が変わるより、人間関係を築きづらい娘が安定した集団をこさえられるように、この地に腰を据えた方がいいのではないか。都会に行けば行くほど、街の規模は広がる。通勤時間や、通院時間も増えるだろう。また、便の良い土地や、環境の良い土地に居を構えるにも、都会であればコストが高くなる。十分な医療が受けられ、規模の適当なこの街が私たちには住みやすいのではないか。こんな話がではじめたのは、もう2年も前からだった。それが急激に、転職希望先の都合で、去年の秋深まった頃から具体化しはじめ、あれよあれよという間に、今に至った。これでよかったのだろうか。転職から1ヶ月。引越しの荷物を片付けながら、ふと手が止まり考える。助けてくれる親戚、縁者のいないこの土地でよかったのだろうか。娘のためには、いっぱい甘えさせてくれる、おじいちゃん、おばあちゃん、親類の側で暮らしたほうが良かったのではないか。まだ10代の頃。出会った彼は、その頃から、今の職種に就きたい、と語っていた。就職に失敗すると、親に頭を下げて就職浪人し、予備校に通ってまで、前の会社に入った。そんな彼の夢を奪ってしまったことにはならないのだろうか。三人でスローに生きよう。そういってくれた彼の笑顔の、そんな真心の、そんな優しさの、その裏の裏の裏の裏が気になってしまう。
2006.06.08
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書き込んでくださった方々の書き込みを拝見し、感じたことをお返事しているうちに考えたことがある。実は、例のクラス懇談会の夜。私は久しぶりに夫の前で号泣してしまった。こんなに大号泣したのは、保育園入園のゴタゴタで壁にぶつかっていたとき以来かもしれない。が、この涙の原因はクラス懇談会で発言した彼女ではない。娘の障碍でもない。その話を何気なく聞いていた夫の発言がきっかけだった。「だからって、どうしようもないでしょう。一体どうして欲しかったの。」そう。どうしようもない。その場で叫べば自体は変わっただろうが、その後の始末や責任は自分に降りかかってくる。叫ばなければ、自分の中で、その湧き出る感情を処理することになる。それは、何も障碍の有無に関係ない。個人と個人が寄り集まっている社会においては、避けられない話なのだ。一体どうして欲しかったのか。そう。娘とその母である自分を特別扱いにされれば、他の人と同じでいいのに、と憤慨し、娘を他の子どもと同じ扱いにされる場面に出くわせば、そんなに乱暴に扱わないで、うちの子はハンディがあるんだから、と、不安に思う。そして、他の子どもの母と同じような場=クラス懇談会に出席すれば、自分をないがしろにするな、と、すねてみる。一体どうして欲しかったのか、自分でも分からないのだ。が、一つだけ思う。私は、『配慮』してほしかったのだ。クラス懇談会では、私という存在を『配慮』して欲しかった。病院の話になったら、「△△(娘の名前)ちゃんはいっぱい入院しているから、母は何かノウハウがある?」妊娠中の話になったら、「△△(娘の名前)ちゃんの母は妊娠中に障碍が分かったんでしょ?そのときどうだった?」娘に障碍があること、私がその障碍児を孕み、産んだこと。その事実を臭いものとして触れないのではなく、当たり前のように接して欲しかった。その当たり前というのは、『障碍がない普通の子どもとして接する』のではない。『障碍がある娘とその母である私』を当たり前のものとして接して欲しかったのだ。『配慮してもらう』ということは『認めてもらう』ことにつながるのではないか。そして、夫にも『配慮して欲しかった』『認めて欲しかった』答えが欲しかったんじゃない。答えなど、出るわけのないイバラの路を、私が歩いているんだ、ということを。知って欲しかったのだ。そういえば、クラス懇談会で涙した妊娠中の彼女が夫と喧嘩した、と言っていた。「パパが言った言葉に傷ついて、その発言を一生後悔させてやるために、自殺しようとさえ思った」と。もしかしたら、それも『配慮』の無さだったのかもしれない。
2006.06.02
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時の流れは、それまで重ねてきた年数を分母にして出来上がった分数の大きさによって、その感じ方が違う、と言う。3歳の娘にとっての1年と、私にとっての1年、とでは、ざっと10倍以上違うことになる。ここを休止していた時間を上の計算で換算すると、娘軸で考えれば、私にとってそれは1週間ほどにしか感じていないことになる。なるほど。それほどにしか感じていないかもしれない。が、時の流れは正直で、3ヶ月分の出来事は、しっかりきっちり詰まっている。大人になる、とは、時間のやりくりを上手くやっていくことなのかもしれない。休止した理由。それまでに考えたこと。その間に考えたこと。そんなことを来月あたりから、ゆっくり書いていきたい、と思っていた矢先。どうしても吐き捨てたい出来事があった。そんな吐瀉物が喉元までせりあがり、どうにも息苦しくて仕方がないので、少し、ここに置いていきたいと思う。娘の保育園のクラス懇談会。担任の保育士から全体の説明があった後、一人一人の家庭の抱える『今、悩んでいること、困っていること』を話すことになった。今までの経験から、こういう場で、私が本当に悩んでいること、困っていること、を熱く語ったところで、マイナスにこそなれプラスに転じることはない、と悟っている。が、全く、障碍に触れないのも痛々しく思われ、これまた得策ではない。ここは、適度な障碍ネタを出しつつ、でも、みなさんと同じような悩みもありますよ、というための最適な悩みは何だろうな。私がそんなことを考えていると、ある母親の番になった途端、彼女は泣きだした。ここ1週間、悩みが重なって夜も眠れない、という。嗚咽でとびとびになりながら彼女が語った、その悩みを聞いた瞬間、私はこの場から帰りたくなった。…お腹の子供が男の子だと判明したんです……上の子は女の子だし、私自身も女兄弟で、妹の子供も女の子だし……絶対、女の子だと思って、もう名前も決めていたんです……男の子なんて、どうやって育てていいか分からない……女の子はお嫁にいけるようにすればいいけど、男の子は勉強もさせなきゃいけないし…この件で夫とも喧嘩し、『だからって、腹の中から消す訳にはいかないだろ』と、言われた彼女は、…自殺して、彼に一生、この発言を後悔させてやるって本気で…と、更に泣く。それを聞いていた、男の子2人を育てている母親が、彼女を慰める。男の子の可愛さ。良さ。自分も女の子が欲しかったこと。語りかけながら、彼女も涙ぐんできた。そして、下の男の子が肺炎で1週間入院したエピソードを語った。…もう絶対、入院なんてさせないって思ったの。健康なら男でも女でも我が子なら可愛くなるよ。周囲が続々と各々の男の子女の子観を語りだす中、私は自分が今どこにいて、何をしているのか分からなくなってきた。以前、日記に書いたこともあるが、私は歴史の本流から切り離されているんだな、と、そのときにまた痛感した。もし、その場に、最近流産した人がいたならば、きっと、場は、その方を気遣って、こんな話題を早々と終わらせていたに違いない。それは、流産というイベントは歴史の本流から外れていないからだ。が、障碍児は違う。私が、妊娠中に、お腹の子供には障碍がある、と宣告されたことや、娘にはこれから何度も手術や入院が待っていることや、健康でなくても可愛い我が子であることなど、自分たちとは遠くかけ離れた、というよりも、次元の違う世界に漂っていると認識しているから、当然、気遣うことはない。悪気はない。悪い人たちでは決して断じてない。自分が歴史の本流にいないことを自覚して、転ばないように、傷がつかないように、気をつけて歩いていけばいいだけなのかもしれない。追記不在にしている間にも訪問してくださった方に感謝します。コメントして下さった方々には、少しづつレスさせていただきたいと思います。こんな不安定な私ですが、これからもよろしくお願いしますね。pms
2006.05.26
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今、私は一つの転換期を迎えています。が、私の気持ちが現状についていくことが出来ないでいます。人生の転換期がいくつかあるとしたら、その中の一つを今、迎えている、そんな実感に押しつぶされそうな日々を送っています。この気持ちを整理して、早く、ここに戻ってこられるような『日常』を、取り戻せたら、と思っています。いつもご迷惑をおかけしていますが、それまでお返事を待っていただけたら嬉しく思います。ずっと気がかりだった、『子供は発達の主体者』で書かせていただいた本の名前を書かせていただきます。竹沢清『子どもの真実に出会うとき』(全障研出版部)他にも何冊か書かれていて、上は、障碍児の保護者が読むのなら、と、氏に直接薦められた1冊です。保育者には、その実践のための本、もあるようです。ちょっとクセのある文章ですが、どのようなタイプの障碍児を育てておられる方でも、どこか、何か、得られることがあるかもしれません。以下、抜粋…『わが子が動きまわるとき、他人に迷惑をかけまいとだけ気を使っていて、どうやっておだやかな顔つきをすることができようか。わが子はたしかに変わってきている、そしてこれからも変わっていくだろう、と見通しがもてるとき、親は表情が明るくなるのだ。』娘の担任として、こんな教師に出会えたなら、どんなに娘の人生も私の人生も豊かなものになるだろう、と、思います。遅くなって申し訳ありませんでした。読まれた方がおられましたら、是非、感想を教えてくださいね。一緒に気持ちを共有しましょう。では。pms
2006.03.17
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なんだかバタバタとしている間に、夫の実家へ5日ほど行く展開になってしまいました。今、娘を連れて新幹線の中です。 書き込んで下さった方へのお返事、もう少しお待ち下さいね。 また、発達のお話をしてくれた先生のことと彼の著書も、帰ってから書かせていただきたいと思っています。 では、また皆さまとお会いできる日を楽しみに… pms
2006.02.17
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先日、書かせていただいた、とある、ろう学校教師の講演会。定年間際とはいえ、現役の教師を続けながら、あちらの講演会、こちらの学校へ、と、彼が東奔西走しているのには訳がある。それは、特別支援教育に対する危機感だ。今日は、それを少し、書かせていただきたいと思う。子供の発達に重要なものは3つある。『その子の発達段階や精神状態に合った集団』『その子が、今、まさに興味をもとうとしているような、適切な文化』『その子の主体性』これらが出会ったとき、子供は一つ、成長する。子供の脳は柔らかいので、教えこもうと思えば、なんでも覚える。が、そこに概念が伴っていなければ、それは猿真似に過ぎない。だから、子供の発達を支援する側の仕事と言うのは、言葉を繰り返して、それを言わせること、ではない。その子に合った集団を用意し、適切な文化を見極め、そして与え、主体性のない子供には、まず、それを与えるように自信をつけさせること、である。それら仕事は、前者よりも大変であるし、親にとっても、目に見える成果がなく、辛い時間である。まだ、猿真似でもいい「こんにちは」と言ってくれた方が、気持ちが落ち着くかもしれない。しかし、その3つが備わったとき、子供は急激な伸びを見せはじめる。その瞬間が、教師にとっても、親にとっても、何よりのご褒美になる。特別支援教育とは、障碍児も全てクラスに編成し、体育や音楽、給食など、クラスで参加できることは参加し、学習で参加できないときに、別クラスで指導を受ける。そこに、軽度発達障碍の子供など、特定の科目に支援が必要な子供などが参加する。それでは、クラスのメンバーが常に変わってしまう。主体性の乏しいタイプの障碍児は、更に自分が出せなくなってしまい、変化が苦手な子供にとっては落ち着く場所がなくなってしまう。したがって、発達に重要な3つのうちの集団を整えることが難しくなる。どんなに適切な文化を出そうと教師が苦労しても、主体性と集団の力なくしては、その効果は出なくなってしまう…特別支援教育について、私は詳しくは分からない。言い訳をするつもりで言えば、就学までに時間があって、まだピンとこないのが現状だ。が、彼が最後に話してくれた、運動会の一場面を聞かせてもらって、こういった空間がなくなってしまうことは、障碍を持った子供にとって残念なことかもしれない、と思った。そして、涙が止まらなかった。気付けば、隣に座っていた一緒に行った保育園の主事も泣いていたし、会場全体が涙の熱気に覆われていた。ろう学校の運動会の最後は、毎年、紅白リレーでしめられる。今年の白組のアンカーは、重複学級の海(仮名)くんであった。海くんは難聴と自閉症を合わせもつ男の子で5年生。重複学級ではダントツに足が速い子であった。ただ、真っ直ぐ走れたためしはなく、気になることがあるのか、いつもコースの外へと走っていってしまうのだった。本番ではコーナーごとや向こうストレートに教師を配して、のぞむことになった。今年の運動会は、異例なぐらい白熱した。紅白の点数は抜きつ抜かれつ。決着は最後の紅白リレーの結果に持ち込まれた。スタート。が、リレーまでもが大接戦。混沌とした状態でアンカー勝負へ。白組が少しリードを保ったまま、バトンは自閉症の海くんに手渡された。赤組のアンカーは通常学級(難聴児だけの学級)6年生の大地(仮名)くん。身体も大きく、足もズバ抜けて速い。抜かれるのは時間の問題だし、何より、海くんはコース通りに走れたことさえない。場の空気は盛り上がりながらも、教師や保護者にも、暗黙の空気が流れていた。ところが、どうだろう。最初のコーナー、向こう直線に入っても、リードが全く縮まらない。場の空気がどっと変わる。拍手が鳴り響き、海くんの応援をする声が湧き上がる。最後のコーナーに入って、海くんと大地くんの距離が、少し縮まったかのように見えた。その時。教師や海くんの保護者が目を疑うことが起きた。ゴール直前。海くんがスピードを落とさないまま、後ろをチラリと振り返ったのだ。練習では1回もコース通りに走れなかった。そんな海くんが、教師の力を借りずにコース通りに走り、かつ、勝利を意識して、自分以外の人、大地くんが駆けてくることを意識して後ろを振り返った。これが集団の力、と、言わずして、なんと言うだろう。そして、そのまま海くんが1着でゴール。その瞬間、母親からとも教師からともなく手を取り合い、思いっきり笑い、そして泣いた、という。『子供は発達の主体者』という言葉は、衝動にかられて、その場で氏の著書を買い、サインしてもらった際、(こんなミーハーなことは生まれてはじめてでした)氏がサインと共に、したためてくれた言葉だ。あまりにも深くて、私などには、とても解釈を垂れられない。何かにつまづいたとき、悲しいとき、辛いとき、怒りに震えたとき。氏の著書の表紙をあけ、書いてくれたサインを見る。そして、また、その言葉の意味を考える。もしかしたら、その言葉の真の意味が分かるのは、娘が私の手元から遠く離れていってしまってからかもしれない。
2006.02.05
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「子育てに育児書がないのは、皆、一緒よ」と、どこかの、子育て相談のおばちゃんに言われてしまいそうだが、『娘の育児書が欲しい』と、ずっと思っていた。確かに、子供それぞれに個性はある。だから、育児書と全く同じに育つ子供はいない、と、そういう意味であろう。が、そうは言っても、指標にはなる。ハイハイしたら、次は歩く。1語文を話したら、次は2語文。なんだかいきなり泣きだしたが、もしかしたら、これが人見知りかなぁ、など。確かに、娘にも当てはまることもあって、そういうところは指標にしてきたが、最も知りたいような部分については、その指標は載っていない。玩具を取られたら取られっぱなしなのは、個性か、発達遅滞か。なんだかグチュグチュといっぱい話すのは、きちんと話していることが不明瞭なのか、それとも、意味のないことが口から出ているのか。友達と関わっていけないのは、個性か、発達遅滞か、自信の無さか。今後、手術はどのように推移していくのか。保育園の保育士さん。言語治療の先生、数名。小児科の医師。耳鼻科の医師。口腔外科の歯科医師。発達検査の児童相談員。誰に、どれを相談していいのか。次第に、何をどのように聞いていいのか、聞き方まで分からなくなってくる。そんな中。とうとう『育児書』の1ページに出会えたかのような経験があった。とある、ろう学校の教師の講演会を聞きにいった時であった。本を数冊出していて、お話も感慨深くて、とても良い先生なんだけど、と、娘の保育園の主事に誘われて出席した。もう昨年になる、11月のことだった。講演会と言っても、そんな大規模なものではなくて、30人ほどが出席していた。椅子に座ることなく、大きな身振りと、大きな声と、温かい笑顔と、真剣な眼差しと。1時間があっという間に感じた、私史上、3本の指に入る、心に残り、且つ、得ることの大きい講演だった。ここで、その内容を一つ一つ書いていては枚挙に暇が無いので、私が、「これぞ娘の育児書の1ページ」と思った内容にだけ、ほんの少し触れたいと思う。言葉の発達やコミュニケーションの発達(*注)に大切なのは、まず、そうしたい、と思う、『主体性』を育てることだ。そして、その『主体性』をのびのびと発揮することができる『集団』を整えること。そして、今のその子に合った段階の『文化』を与えてあげること。この3つが整えば、子供は無理なく、自然に伸びてゆく。例えば、娘の場合。「1,2,3」と数が言えるようになっても、そこに、数の概念が無ければ何の意味もなさない。そうではなく、例えば、娘がノビノビと自分を出せるクラスという『集団』で、おやつの時間に、クッキーを3つづつね、と言われて、自分で取ることになった。その、「3つ取る」という『文化』がたまたま、娘の興味と合致し、「私も3つ取りたい」という『主体性』が生まれた、そのとき。娘は自然と、数の概念を3まで習得することが出来る、と、そんな話である。もちろん、こんなことは、障碍のない子供であったら、自然とバランスよく習得していく話である。が、バランスの悪い娘のような障碍児には、こういった発達段階を分析して、スモールステップを作ってあげる。まさに、私が、なんとなく頭で考えていたことだったので、飛びついてしまった。講演会が終わっての質問で、私はどうしても聞きたいことがあった。親が『集団』を間違えないで選定してあげれば、自然と『文化』はついてくる。が、『主体性』をどうやって育てたらいいのか。娘は、まさに、以前、知的障害児を指した表現、『精神薄弱児』という言葉がそのままで、主体性に欠けるんです…。なんだか、最後は涙声になってしまった。理論的に話せなかったと思う。が、先生は、ゆったりと笑いながら、こう答えた。障碍のある子供と言うのは、自分では何も出来ない、と、思っている子供が多いんですね。だから、自信がない。外遊びがいいですよ。たとえ、石段一つ飛び降りるだけでも、達成感が味わえる。自分一人でやったんだ、と自信になる。そういった小さなことを積み重ねていくうちに、主体性が育っていきますよ。「焦らないで。」「△△ちゃんのペースで確実に成長していってますよ。」そんな言葉以外の具体的な指標をもらえたのは久しぶりだった。彼の発達理論も、そのためにやるといい、と言った指示も、私の心にどーんとストレートに入ってきた。そして、それ以後、そのことにだけ努めて気をつけてきた。他のことは手を抜いても、例えば、保育園の帰りに、娘が何かによじ登ることに夢中になって繰り返しはじめたら、そこだけは気長に付き合うようにしてきた。その成果があったのか。最近の娘は、主体性著しく、うるさいくらいになった。玩具は取られても取られっぱなしだが、あっちに行く、これがしたい、ここで食べたい、などという事には、本当に驚くほど、こだわるようになってきた。そう。どうして、暦も前のものの11月のことなどを思い出したかと言えば、だ。今日、些細なことで娘を怒ってしまったからだった。本当につまらないことで、書きたくないくらいつまらないことで、手に持っていた、今から封を切ろうとしていた箱ティッシュで頭をはたいてしまった。火がついたように泣き出す前に、「ママぁ~」と、一瞬、不思議そうな顔をして私を見上げた。ママ、どうして。ママがやったなんて嘘だよね。ママ、大好きなママだよね。そんな風に物語っているように感じたのだ。今まで、そんな物が分かったような表情や、言葉を発することはなかったのに。こんな風な娘になって欲しくて、今まで、二人でやってきたのに。ようやく、最近、芽がではじめて、自信にみなぎった行動が多くなったのに。手に持っていた箱ティッシュは、裏面にあるミシン目から真っ二つに割れて、中のティッシュが見えていた。なんだか、それが私と娘の気持ちに見えてしまって、涙が溢れでた。娘が私を気遣って、褒めてもらおう、と、自ら歯磨きをしたり、愛想笑いをしたり、気をひこうと歌を歌ったり、顔色をうかがっているのが痛いほど分かって、いつまでも涙が止まらなかった。*注彼は、重複学級といって、難聴のほかに、発達遅滞やコミュニケーション障碍など、他にも障碍がある子供と長年かかわってきた
2006.02.02
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子供が出来ない。子供が出来ない、という状態が、こんなにも自分にストレスになるとは思わなかった。思えば、私はそんなに乗り気ではなかった。娘を連れて、あちらこちらの病院へ通院、あちらこちらの療育に通園、と、右を向いても左を向いても障碍児ばかりを見てきた生活をしていたからか、どうしても次の子供も障碍があるような気がしてならなかった。そして、また、あんなに辛い毎日を送って子供を受け入れていく自信が全くなかった。が、夫の、「次の子供に障碍がなければ△△(娘の名前)を守ってくれるだろうし、障碍があれば、△△が成長すると思うよ。」という言葉に動かされて、しぶしぶ、授かることに賛同したのだった。妊娠しているかもしれない時期は飲酒を控えたり、薬が服用出来なかったり。もし、妊娠していたら、と思うと、その時期のヨガ(実は通っています、苦笑)は、なんとなく身が入らなかったり、と、確かに、そんな実質的なうっとうしさがあって、『あぁ、もう出来るなら出来てしまえば諦めるのに』みたいな感覚も確かにある。が、娘を授かったことで、『人生ってのは、ままならない』と学んだばかり。もう、手の平を返したように、障碍のない子供を育てるママ友で、同じように2人目を授かろうとしている方と、なんのわだかまりもなく二人目話が出来る、という自分が、自分で不思議である。授かろうとしている子供に対しても、障碍があるかもしれない、あったらどうしよう、という当初の気持ちは消えつつある。『障碍があっても、なくても、大切な我が子だから』という至高の極みには達することは出来ないが、それを恐怖として日々生きることはなくなった。それどころか、最近、赤ちゃんが好きな娘に、早くフワフワとした柔らかな赤ちゃんを抱かせてあげたいという気持ちの方が強い。大好きなアンパンマンのキャラクター『あかちゃんマン』の人形をを抱いて子守唄を歌ってあげていたり、友達の弟妹の赤ちゃんに、遠慮しながらも、かじりついているのを見ると、その想いは日に日に高まってくる。もしかしたら、私の中からすっかり恐怖が消えうせて、生まれてくる子供に対して無垢で純粋な気持ちがもっともっと多くなったときを、神様は待っているのかな、などと思ったりもしている。いささか、乙女ちっくな発想で恥ずかしいのだが…。
2006.02.01
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本を捨ててきた。娘のオムツが3パック入っていた段ボールに、ぎっしりと2箱分。ほとんど、学生時代に使用していた書籍である。今では役に立たない改正前の法律書やら、面白そうだから読んでみよう、と思った部落問題の本やら思想本。これを本気で研究してみようかと、かじりかけた、メディアと政治に関連する本、本、本。こんな年数の古い物は大手古本屋では、たとえ値がついても10円だろうし、値がつきませんでした、と、私の学生時代のことを言われているみたいで気分が悪いし、うず高く詰まれた本の向こうからそう言われてしまったら、正直、ちょっと恥ずかしい。ネットで社会科学系の本を専門に扱っている古本屋を見つけて、そこに問い合わせてみたが、特に法律書は値段がつかなく、古い物であれば戦前まで遡らないと価値が出ないそうだ。オークションで売ったり、チマチマ譲り手を捜す手間を時給換算したら、もういいや、という気になった。何冊か、めぼしいものを抜いて、残りは月に一度の廃品回収の日に、本気で出すつもりだった。が、ひょんなきっかけで話すことになった方が、近くの大手古本屋チェーンの横で古本屋を営む方で、そこも社会科学系を専門に取り扱っている古本屋であることが分かった。確かに、ここは学生街。そういった古本屋が地元にあってもおかしくない。私だって、大学の近くの古本屋で、よく、授業で指定された本を探したものだ。彼の古本屋は、一日のうちで午後だけ開いていたり、突然、休んだりしたので、なんとなく、候補に挙げていなかった。聞けば、子供たちが独立し、奥さんが亡くなってからこっちは一人ぼっちで、細々と商売を続けている、とのこと。そういえば、通りから古本屋の2階を見ると、枯れた鉢植えがずっとそのまま出窓に置いてある。そんな身の上話も束の間、早速、本の話をすると、彼は、今までの、孫の話をする細い肩のおじいちゃん、から変貌した。私の持っている本の中に、「丸山眞男はあるかい?」「憲法だったら、吾妻のは?」と、次から次へと矢継ぎ早に聞いてくる。正直、彼が列挙した名前のうち、ほとんどが知らない名前だった。私は彼に本を『託そう』と思った。『売る』のではなくて、『託す』私の本が、誰か一人でも頬を紅潮させた若き研究者や、野望をもった若者の役に立てば、それでいい。「お金はいりませんので、是非、引き取ってください。」と頼み、後日、また来ることを約束して後にした。どうして、そうまでして本を処分したかったのか。それは、もちろん、手狭になったからである。が、こういった本以外の本で手狭になる、ということは、私が今、こういった本とは無縁になっている、ということだ。それをどうして捨てられなかったか、といえば、いつか、この学問に戻りたかったからだ。いや、そうではない。この学問をしていた頃の自分の価値観やらに戻りたかったのだ。戻れると思いたかったのだ。逆に言えば、この本の山がある限り、私は現実から逃れ、いつまでも、現実と乖離した状態でいなければならないのだ。私は障碍児を授かった。そのことは私にとって、交通事故で片足を失ってしまったかのように、一生捨てることの出来ない現実だ。そして、そのことは、今までの価値観を180度変えてしまう出来事だった。それでいい。そのことに忠実に生きていこうと思う。娘の補聴器は全く国からの補助が出ない。そして、医療費控除も受けられない。(厳密に言えば、受けることも可能)そんな、法律の落とし穴にハマってしまった娘を抱きかかえながら、どうして、アメリカの選挙活動とメディアの役割、などが勉強できるだろう。今の私だからこそ、できる研究や生かせる学問があるかもしれず、それこそが、現在や未来の誰かを、たった一人でも救うことが出来ることに、つながるかもしれない。もちろん、そんな時間も余裕もないのだが…。段ボール箱、2箱分。それを解体して、小分けにしたり、同じ大きさの本を長細く積んだりして、最近では使用していない娘のベビーカーに詰め込んだ。古本屋のおじさんは、「こんなにあるなら、私がお宅に出向きましたのに」と、笑った。いいです、というのに、彼は私に皺の寄った千円札を4枚手渡し、「丸山眞男のと、シュムペーターの、あれは良い本だったね。良い勉強されてきたんだね。」また、そういった本があったら、よろしくね、とまた笑った。彼のその一言のおかげで、私は、上手に、何かのページを書き終えたような清々しい気持ちになった。
2006.01.31
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私を憂鬱にさせていたクラス懇談会。結論から言うと、行かなかった。保育園に迎えに行った娘の体調が思わしくなかったのだ。担任の保育士と相談した結果、インフルエンザも流行っていることだし、夜、出歩くことは得策ではないだろう、という有り難い流れと相成った次第。はじめから、こうやって行かなければ良かったのだ。何も戦うだけが兵法ではない。打って出るときには出て、守るときには守る。出席しなければ負けたような気持ちに陥っていたとは…まだまだ、娘のことで涙を流している最中なんだなぁ…。金曜日に持って帰り損ねたお昼寝布団を、土曜日に取りに訪れた際、クラス懇談会の結果が、プリントされて入っていた。「来年のクラス幹事が誰に決まったか」「保育園での子供たちはストレスを感じて生活していることを忘れないで下さい」と、話し合った内容の最後に、「どんな子供に育ってほしいか、また、そのためにどんなことを心がけているか」についての、皆の意見がまとめられていた。それを読んでいたら、心から行かなくて良かったと安堵してしまった。『当たり前のことを当たり前に出来る子供に育ってほしい』『あいさつの出来る子供に』『最近、「嫌い」と言うようになったので、それだけは直して欲しい、うちのものは誰も言わないのに…』そう、テーマは『どんな子供に育ってほしいか』それなのに私は、どんな大人に育ってほしいか、を考えてしまった。だって、そうだろう。『お迎えに行く時間まで、一人、教室の端でおやつをまだ食べている娘にとって、当たり前のことがどんなに大きな壁なのだろう』『あいさつしても、大半は相手に伝わらない発音』『「好き」「嫌い」という手話を覚え、それを可能な限り使って、相手に100%意志表示できるようになっただけで、どれだけ、娘の世界が広がったことか』もちろん、本音と建前はあるだろう。クラスの中の代々続いている医者の家系の一人息子の親は、以前ランチをした際に「中学から夫と同じ私立に入れないと」と言っていた。それぞれの家庭に、もっと複雑な想いが存在することも、あるのかもしれない。だが、建前として出してくるネタが、あまりにも『和やか』ではないか。私は障碍のある子供しか育てたことがないので分からないが、こうまでして、障碍のある子供を育てたことがない親との違いが歴然とあるのか。彼女たちと、そう、『時間の流れ』の違いを感じて、悲しくなってしまった。子供時代には子供時代の楽しみや、想いがある彼女たち。一方、いつまでも手がかかる子供にあくせくしながらも、常に「生活できる大人へ」という目標のために今を生きる、私。これでも、『障碍があってもなくても、子育ての悩みや苦労は同じ』と、言うのか。似非人道者よ。おかげで、また眠れない。
2006.01.29
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今日のクラス懇談会が憂鬱で仕方がない。保育園のため、開始が夜19時から。仕事をしている人は、その時間に合わせて帰り、園が注文を受けてくれるお弁当を親子で食べればいいが、うちはそうはいかない。16時半にお迎えに行って、真っ直ぐに帰ろうとしない娘と格闘しつつ、帰宅時間は早くても17時過ぎ。そこから、入浴して、食事をして、また、18時半には家を出なければならない。いや、そんなことは全て割愛したっていいのだ。食事だって、外食すればいい。風呂に入らなくたって死ぬわけではない。気がすすまないのは、クラス懇談会での本日の議題。『どんな子供に育って欲しいか』『また、そのために何を心がけて育てているか』どんなことを、どこまで本音で話せばいいのだろう。クラスのメンバーは働くために子供を預けている。『障碍』について1秒でも考えたことのある人は少数派だろう。4月から入ってきた新しいクラスメートを厄介者、と思っている人だっているかもしれない。多くの友人から、あえて私と娘をチョイスして付き合ってくれる、障碍の関係ないママ友だちとは訳が違うのだ。疲れて帰ってきて、甘える子供に弁当を与えながら、自分も空腹をようやく満たした後、「私が死んでも一人で生きていける生活力をつけてほしい」では、「はぁ??」と思いつつも、非道な人間に思われたくもないし、仕方なく手を叩くしかないではないか、笑顔を作って。逆の立場だったら、私はこんな反応をしただろうな。そうか、逆の立場。娘に障碍がなかったら、私は、どんなことを書いただろう。先日。人生も半ばに近づいてきて、ようやく、服、というものに目覚めた。娘の服を購入しに、冬物セールなどを回るうち、売っているもの、どれもこれも、私好みの店を見つけてしまった。とある、アメリカ製の服ブランドの店、なのだが、生地の光沢がない感じといい、色合いといい、柄といい、なんともいい。家にある服をほとんど処分して、入れ替えてしまいたい、と、思うほど入れこみ、アウトレットモールのセールにまで行ってしまった。こんなことは生まれて初めてだった。アウトレットモールどころか、郊外にあるショッピングモールに入っているブランドであるし、そんなに、珍しいものではない。今まで何度も見ていただろう。それでも、どうして、今まで自分のストライクゾーンを外していたか、と言えば、もしかしたら、幼少時代の経験ではないか、と思った。実母は自分の好み以外は拒絶する人だった。それは服も例外ではなかった。その拒絶のやり方は凄絶で、徹底的にバカにし、出かけようという背中に、「そんなみっともない格好で恥ずかしくないのか。」「ヘンだ、ヘン、ヘン。」「バカにされればいい。ざまぁみろだ。」と、更に投げつけた。いつからか自分の好みは封印され、だからといって、親の好みも受け入れられず、家にある物や、安い物で、サイズのある物を、なんとなく着るようになった。もしも、だ。幼少時代に自分の好みを確立することができ、このブランドに出会っていたならば、この服のメーカーに就職しよう、という気持ちになったかもしれない。この服に似合う自分になろう、と、外見を磨いていたかもしれない。外国のブランドだから、英語も楽しく勉強したかもしれない。もちろん、全てが良い影響ではないだろうし、後悔しているわけでは全くない。ようは、親の影響力の話を考えていたのだ。長くなってしまった。絶対的な事実をとして残るのは、実母が私の人生の選択肢を一つ、つぶしてしまっていた、ということだ。もし、娘に障碍がなかったら、私は、こんなことを話しただろう。「娘が自分の力で人生を回し、歴史を動かせたと自負できるような何かに出会える人生を送って欲しい。そのために、経験や知識や情報を出来うる限り与えて、彼女の選択肢を多くしてあげようと思っている。」では、障碍があったら、どんなことを話せばいいのだろう。…同じことでいいのかもしれない。「娘が、これに出会えたから生きてきて良かった、と思えるような何かに出会える人生であってほしい。そのために、経験や知識や情報を出来うる限り与えて、彼女の選択肢を多くしてあげようと思っている。」あぁ、これでは、「私が死んでも一人で生きていけるように」と変わらないかなぁ…。うーん…。憂鬱だな…。
2006.01.27
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過日。掲示板での書き込みの最後を、『強くなりたいです』と結んでおられる方がいらっしゃった。『強くなりたい』私も常にそう思っている。が、私は一体、誰に対して、何に対して、『強くなりたい』と思っているのだろう。時に、掲示板や日記にコメントを残してくださった方に、お返事を書かせていただいているうちに、自分に対して書いているような感覚にとらわれることがある。このときも、そんな感覚に陥り、なんだか深く考えこんでしまった。社会だろうか。制度だろうか。行政だろうか。自分たちに好意以外の感情を向ける人たちに対してだろうか。そんな風にしか周囲を見ることの出来ない、弱くて脆い自分に対してだろうか。その全て、なのだろうか。答えは分からない。が、ただ、一つ言えることは、この腕の中の、かよわい娘に対して、ではない、ということだ。『強くなる』ことに疲れたとき。私は娘をぎゅっと抱きしめて、その匂いの中に埋没する。この世の中を私と娘の二人きりにトリミングして、時の流れも止めてしまう。そうして頭の中のスイッチを『娘のために強くなる』ことから『娘に寄り添う』ことに切り替える。すると、不思議と力が湧いてきて、強くなることを止めたのに、何故かまた強くなれる。そう、確かに私は強くなった。それは、『強くなる』ことに躍起になっていたからではない。娘に寄り添うことができるようになって得た強さなのだ。いや、ぶっちゃけて言おう。少しづつ娘を好きになってこれたから、それに伴って少しづつ手に入れることのできた強さ、なのだ。過日、掲示板にお返事をさせていただいた時には、そんな気持ちを返事に託した。が、あれから数日も経っていないのに、どうだ。娘の意志をねじまげ、自信をなくさせ、恫喝で行動を制御して、力を誇示したりする。より神経を使い、手をかけ、保護しなければならぬ相手に対して、これみよがしに『強さ』を見せつけ、お前は無力なのだから言うことを聞け、と、強要する。私は、誰に対して、何に対して、『強くなりたい』と思っているのだろう。私は、誰のために、何のために、『強くなりたい』と思っているのだろう。
2006.01.25
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東京在住の学生時代の友人が、京都土産として我が家に置いていってくれた七味が気に入っいている。座りの悪い木の筒に入っていて、胴に『黒七味』と書かれた和紙を巻いた風情ある代物だ。今までも、七味やらワサビやらには、財政の許す限りだが、それなりにこだわってはいた。が、今までが何だったのか、と思うほど、それは辛味も、薫りも、どこまでも深い。鍋物が美味しい、この時期。多用に多用を重ねて、あぁ、これがなくなったらどうやって生きていけばいいの、と、思うほど目減りしてきた頃。地元テレビの情報番組で、『各百貨店で今年、流行ると思われる一品』という企画を眺めていて驚いた。ワールドカップをあてこんだドイツ製品などに交じって、この『黒七味』が紹介されたのだ。置いていってくれた友人の様子だと、そんなに最近流行っていて、という感じではなかった。確かに、公私共に京都に馴染みある友人であるし、グルメな人だが、彼女の愛用している七味が、『今年、流行るであろう一品』と目新しい物として、この地方都市で紹介されたことに、ついつい「へぇ」と声が出てしまった。今更だが、確かに、情報の発信源であり、話題の中心は、ここ日本では東京なのだなぁ。その東京も、あちらの文化、こちらの流行を取り入れたりして、源流を辿ったら、案外、名前も知らない小さな国の貧しい村の伝統だったりするのかもしれない。そういえば、年末、実妹に会ったときも、こんなことがあった。お菓子を作ることも食べることも好きな実妹に、「カカオ80%のチョコレートはやめたほうがいいよ」と、言った。原料名の羅列に、まず『砂糖』と書かれたようなチョコレートではなく、カカオ純度の高いチョコレートを最近よく見かけるようになった。いきなり80%から食べたら、とんでもなく、私のような素人受けの悪い代物であったため、話のついでに言ってみたことだった。すると、実妹は、「何、それ」食べたことがないだけではなく、知らない、と言う。実妹が住む街は、実家から車で1時間ほど。住所が『市』ではなく『郡』からはじまる山間だ。情報は、東京から各地方都市、そして更に方々へ。水が高きから低きへ流れるがごとく、これも一つの自然なのだろう。そんな情報発信源で暮らしたい、と都会へ出るのも良し。ゆったりと時間が流れる田舎で暮らすことも良し。私のような小心者は、情報のシャワーは浴びていたいが、でも、デパートはここ周辺の5件を回って、電化製品を買うならこの街で、と、取捨選択少なく小回りでチョイス出来る、そんな、ここ地方都市が暮らしやすい。
2006.01.24
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障碍児を育てていて困ることは多々ある。その中の1つが、ポジショニングをどうするか、を考えることだ。最近、たて続けに、そんなことが多い。先日は、こうだ。保育園で、障碍児を育てる親の会が催された。歴代の障碍児と、その親が、出席できる限り集まった。下は、うちの子供。上は、20を過ぎたダウン症のお子さん。それはそれは壮大な会であった。最初は卒業した子供さんの近況を報告。次に在園児の大きな子供から。最後がうちの発言であった。が、何を言えばいいのだろう。本当に聞きたいことは、聞けるハズもない。例えば、「保育園が子供を放ったらかしにしている、と思ったことはありませんか。」娘の担任をはじめ、5人もの保育士が出席しているのに。が、明らかに場は、現役の母親が悩んでいることに対して、「大丈夫だよ、うちもこんなに大きくなったし」と、言いたい雰囲気をかもし出している…(と、感じる…)しかし、難聴児ゼロ、手術を要する障碍児ゼロ…。どんな発言をしたら場が盛り上がるんだろう…。辛い時間を過ごしてしまった。また、こんなこともあった。同じマンションの人から、相談を受けた。「△△(娘の名前)ちゃんの通っている言語教室を紹介してほしいんだけど…」これに関しては、ややこしい伏線やら裏やらがいっぱいあって、面倒だから割愛する。想像して欲しい。結果として、同じマンションの3人で会うことになった。一人は私。一人は私が以前、ひょんなきっかけから大学病院の言語教室を紹介することになった、娘より一学年年上の女の子の母親Aさん。もう一人が、今回、Aさんに相談して、私に回ってきた、娘と同じ学年の男の子を持つBさん。以上の3人である。Aさんの子供は、手帳を持っていないとはいえ、言語面や運動面の発達の遅れは顕著に目立つ。発達検査でも、かなりの遅れが見えている。Aさんは療育に積極的で、原因究明にも必死で、あちらこちらの病院に行き、療育にも熱心。だが、それは、自分が公園デビューを失敗したせいだ、とか、良くない友達と遊んでいたせいだ、と、言っている。Bさんの子供は、3歳になっても単語も出ていない。が、遅れていることも、個性、と言って欲しいと思って、1回、児童相談所に行ったっきり、どこにも行っていない。今回、幼稚園入園(Aさんの子供と同じ幼稚園)を前にして、子供がどうやってコミュニケーションを取るのか心配になって相談してきた次第。Aさんは、自分の子供に異常があることは認めているけど、それは後天的なことで、『治る』と思っている。ゆえに、少しでも私が、『同じ立場』という発言をすると、怒ったような焦ったような表情やコメントをする。一方、Bさんは、Aさんの子供の異常は気付いているし、もちろん、うちの娘が障碍児だと知っているが、そのどちらとも違う立場で、発達面でも『問題の無い遅れ』だと言って欲しい。そんな二人と話すために、「うちは問題がはっきりしているけど、Bさんは違うんだから、メキメキと伸びると思うよ」「うちは障碍児だけど、Aさんは違うから、塾みたいに通わせてるんでしょ?」と、繰り返しているたびに、なんだか、ウンザリしてきてしまった。そういった発言をしたり、場を取り繕っている度に、娘を裏切っているような気分になるのは何故だろう。来週は保育園のクラス懇談会。テーマは、『どういった子供に育てたいと思っているか、また、そのためにどんなことをしているか』さぁ、次はどういったポジショニングを意識するべきか…。
2006.01.21
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商売。景気回復も庶民レベルでは実感できないような、このご時勢。様々な人が、様々な感覚で、自分の店のドアのカギを開けているんだな、ということを実感できた出来事があった。私の住んでいる地域には、『こどもまつり』なるものがある。地域の保育園や学童などが合同で大きな公園を貸し切り、新聞に折り込みチラシを入れて、それはそれは大々的に行う。各園には、この『こどもまつり』遂行のための人員が割かれ、桜もとうに散った初夏に行われるというのに、本格的な冬将軍の前から準備をしはじめる。去年のチラシを手に取ったら、そのタイトルの上に30回に近い数字がナンバリングしてあった。年に1回なのだから、単純に、30年近く、こうやって催していることになる。その歴史の重さに圧倒され、ついつい、折込チラシのための広告の新規開拓を自ら買って出てしまった。一日経って冷静になり、熱に浮かされた自分を恨んでもすでに時遅し。私の手元には、広告を取るための資料や手紙などが山とあった。広告、と言ったって、B4の大きさに『こどもまつり』の記載が表面にされている裏面を幾つにも区切って、そこに名前やら営業時間やらが記載してあるような代物。自分自身を振り返っても、こういったチラシの裏を、しげしげと眺め見た記憶はない。こんなところを1コマ3000円で、果たして、買ってくれる店はあるのだろうか。店に入る前からドキドキと足取りも重く。頭の中でまとめていたハズなのに、いざ、話しはじめたら自分でも、『え!いきなりその話からか?!』と脳みそが収集つかない。質問されようものなら大パニック…こんな状態で、普段から気にいって通っている店や、子供関係の店などなどを回っているうちに、人間って成長するもので、なんとなくコツが分かってくる。何より助かったのは、相手の方が、この件に関してはプロ、ということだった。子供関係だけではなく、商店街の祭りやらのお願いや、この辺りは大学が多いので、大学祭のお願い、などなどなど。ド素人の私に比して、相手は何度もこういった話を受けていた、ということだ。そうやって、3000円の枠を3件。5000円の枠を1件。新規に開拓することができた。ノルマがあるわけではないのだが、私も『こどもまつり』の長い歴史の1ページに協力できたか、と思うと嬉しいし、下世話な話、顔が立ってホっともした。が、何よりも、そのお店の人の想い、みたいなものに触れられたことが面白かった。3000円の枠3件のうち1件は、豆を焙煎して販売している珈琲屋だった。よく通っているし店長をはじめ顔馴染みではあるが、子供関係とは言えないので、コーヒーを買ったついでに世間話程度に話したら、すぐにオッケーしてくれた。原稿を用意する店長と従業員の話を盗み聞くと、「適当でいいよ、どうせ誰も見ないって」と笑っているではないか。なるほど。ここは、この3000円で、私の口コミを買ったのだ。保育園へ帰って新規開拓できた旨を話せば皆の話題にのぼり、そこから、ちょっと行ってみよう、という人が出るだろう。近所で話題になれば、私はこの話を周囲にきっとするだろう。そこからも、話はつながっていくハズだ。何より、私という顧客は深く感謝し、ここにまた足を運ぶだろう。店長は、子供を二人、すでに成人させた年配の女性。店は3年前からと歴史は浅いが、贅沢品にも関わらず月に一度のセールには並ぶこともある。その成功の裏を垣間見られた気がした。3000円の枠のもう1件は、子供用のリサイクルショップである。話をはじめると心得たように、枠の大きさを確認し、それが絶対に変わらないことを確認し、何部をどの地域に、どんな新聞に折り込まれるかを確認した。私がしどろもどろになっていると、「こういったことには相場があって、相場以上のものだったらお願いするよ」と、言って、相場や実際どうだったかの話をしはじめた。私はここで、ポイントカードが1周し、2枚目のポイントカードも半分ほど貯まった位の買い物をしてきたが、なんだか今まで買った物が色褪せていくような気がした。全て相場を吟味し自分に有利なもの、ということが、商売をしていく上で重要だ、ということは分かる。が、リサイクルショップに対して、物を大切にすることは地球にも家計にも優しいし、何か宝探しのような気持ちで、常に「得した、得した」と勝者の気持ちで袋を手に提げて帰ってきた私にとって、「実はお前は常に敗者だったんだ、わっはっは」と笑われた気持ちになってしまった。断られる、と思っていなかった店に断られたこともあった。娘が好きなパン屋さんで、日記にも以前書いたおばちゃんの店だった。娘の保育園がたまに大量発注していることもあって、おそらくはもらえるだろう、と、思っていた。が、話しはじめた瞬間、見たこともない険しい表情になり、話し終わることもなく断られた。こういう話は発注をもらっている学校関係からいっぱいあって、一人に出したらキリがないし、こんな広告は誰も見ないし、効果があるわけがない。「力になれなくてゴメンなさいね。」と、言ったおばちゃんは、その言葉とはかけ離れた、気分を害された被害者の顔を見せていた。私は何度も謝って店を出た。確かに美味しいお店だが、当たり外れも大きい店だった。人工着色してゼラチンで固めただけの昔ながらのゼリーやバタークリームのケーキ。明らかに前日売れ残ったと思われる固いパンを買わされたことも何度かあった。たった、一度。こういった出来事があっただけで、今まで封印してきた嫌な思い出がどんどん出てきてしまう。こうなってしまうのは、きっと、私だけではないだろう。流行から遅れた、母息子二人で営んでいる町の片隅の小さなパン屋さん。そこに留まっているには、それだけの理由がある、それが分かった。悲しいのは、何よりもおばちゃんが自分の店を守ろうと思って、良かれと思って、そう発言したのであるし、今までもそうしてきたことである。お店のお客さんと仲良く世間話をすることも。昔のレシピを頑なに守ることも。売れ残ったパンを、固くなっても売ることも。店に飾り気がないことも。そして、目先の3000円という現金を守ることも。誰も悪くはない。だからこそ悲しいのかもしれない。一方で、こんな店もある。5000円の1件は自然食品の店で、一人でも多くの人の目につくことが出来たら、と、大きい枠を契約してくれた。3000円の1件は無農薬野菜と玄米のレストラン。チラシが折り込まれる地域からは少し外れた場所にあるにも関わらず、快諾してくれた。この2箇所は、違うオーナー、違う場所にあるのに、同じことを私に語ってくれた。広告の効果でたくさんの客が入ることを期待してはいない。今、子供の食が壊れてしまっていることが悲しい。アレルギーやアトピーの子供たちが、一人でも、これをきっかけに私の店を知ってくれて、おなかいっぱい食べることができて、その姿を見て親御さんが安心してくれたら、と。その一人のために払うお金である。私は頭の下がる思いがしたし、実際に何度も頭を下げた。こういった店に並んでいる品物は、きっと店長が吟味に吟味を重ねて選んだ安全なものだ、と、安心して買うことができる。こういった店で出される食事は、高くても、きっと本物の調味料と、本物の無農薬野菜を使って、心をこめて作ってくれたものだと安心して高いお金を払うことができる。色々な店の、色々な想い。こんなことでもなければ、きっと分からなかっただろう。これからはこんな視点も合わせて店を見ることが出来たら、良質な店が見つけられるかな、と、思ったりもした。が、とりあえず強く心に誓ったこと。それは、もう2度と安請け合いすることは止めよう、だ。
2006.01.19
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『あけましておめでとうございます』のご挨拶も遅すぎるこの時期。みなさま、お元気で過ごされておいででしょうか。我が家では、また11月に娘が入院しました。彼女が生まれてから、これで皆勤…と表現するのは適当なのかしら、3年連続の11月入院。ここまできたら、我が家の年中行事として今年のカレンダーに前もって書き込んでおこうか、と半ば本気でカレンダーを睨みつけ、過ぎ去る時間の早さを思いやっています。この2ヶ月。色々なことを考えました。その中には、このブログのことについても入っていました。ここで、気の向くまま匿名で書き散らすことは、とても私を楽にしてくれます。が、同時に、膨らもうとしているパンに切れ目を入れてしまうような、そんな感覚を持ちはじめていました。切れ目を入れることは、本に書いてあるレシピ通りであるし、とても綺麗に仕上がります。切れ目を入れなければ、きっとパンはパンクしてしまうことでしょう。でも、もしかしたら、それはそれで味のある見た目になるかもしれないし、味も私の好みに仕上がるかもしれません。売るつもりで焼いているパンではありませんし、レシピ通りに作る必要や法律があるわけではありません。私好みの私だけのパンを焼くためには、どうやって何をやって生きていったらいいのでしょう。そんなことを考えて、この2ヶ月を、娘の入院の付き添いでヒドい風邪を何度かもらって点滴片手に生きてきました(笑)勝手をしている間にも、顔を見せて下さったり、書き込みまでしてくださって、ありがとうございました。また、少しづつですが、お返事させていただけたら嬉しいです。インフルエンザが流行ってきたようですね。お身体を大切にしてください。新年の挨拶がわりに…pms
2006.01.17
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通っていた、市が催している初心者用の手話教室、最終日の今日。娘の熱が下がらなくて、私は行くことが出来なかった。最終日は、一人、一人、手話でスピーチをすることになっていた。人前で話すことは苦手だし、手話も下手なので、最初は乗り気ではなかった。が、期日も近づき、必要に迫られてスピーチを考えていくうちに、悪くないな、と思ってきた。話したいことをまず考えて草稿し、それを、習った手話だけで表現できるように推敲して、手話をつける。この作業が、意外なほど楽しい。人前で話す場、と思わず、これを披露する場と考えて、最終日のスピーチが楽しみになってきたところだった。手話教室は、初心者向けとはいえ、結構、充実した内容も盛りだくさんの授業で、1回2時間、終わった頃には、脳内の糖分がすっからかんになってしまうほどだった。おかげで、大体の基礎を身につけることが出来た。得たことも大きく、授業に参加していた、地域の聾者や、手話通訳者と知り合いになることが出来たし、そうそう、以前、突然、町で声をかけられた、女性にも再会できた。私が娘を連れて歩いているとき、行き交った、小学生らしい女の子を連れた女性に声をかけられた。「あの、もしかして、口唇裂ではないかしら?」まだ、娘が2才になったか、ならないかの頃で、髪をふり乱して、必死に毎日を生きていた。そんな私に、ご自分の可愛い娘さんを会わせて、「この子もなんですよ。大丈夫よ、大丈夫。」と、気持ちのいい笑顔で、ご自身の経験を話してくれた。正直、その頃、私を悩ませていたのは、口唇口蓋裂ではなかったのだが、それでも、その温かさが嬉しかった。その彼女が、市がやっている手話教室の手伝いをしている手話サークルで、手話を学んでいたのだった。が、一番、得たことは、『ろう者の世界』を垣間見られたこと、かもしれない。手話教室には、3人のろう者がいつも講師として来ていた。彼らは明るくて、冗談も言うし、私とそんなに違う世界にいる人たちとは思えなかった。特に、その中の一人は、口話も上手く、読唇もスムーズで、彼女と、教室が終わった後、拙い手話で会話をすることも、通うことの楽しみだった。彼女は、わざと、口話をつけないで手話だけで会話をし、私を困らせてから、口話をつけて教えてくれた。それほど、私の言うことは彼女にスムーズに伝わっていた。ある日。ちょっとした出来事があった。授業中。単語を教えてくれていた年配の男性講師が、ついでに、テキストに載っていない関連した単語も教えてくれた。『文章』『漢字』『英語』『ふりがな』『カタカナ』『英語』に関連して、アルファベットの表記なども教えてくれていたのだが、座は、ザワザワとしていた。その理由は、私にも分かった。『ひらがな』が抜けていたのだ。講師は、ろう者なので、もちろん、そのざわめきは聞こえない。講師の言葉を専門に通訳するための手話通訳者の側に座っていた誰かが、そのことを質問して、手話通訳者がそれを訳した。男性講師は、『私たちには、ひらがな、は、馴染みないのだが、ふりがなも最近になって使いはじめた』というような、答えをした、ように私には見えた。手話通訳者は、もう少し、違う通訳をしたのだが、いずれにしても、質問者が得心をするような回答ではなかった。座のざわめきは一回り大きくなった。「つまり、『ひらがな』という手話はないの?」「『ふりがな』と『ひらがな』は同じなの?」「『ひらがな』と『ふりがな』を間違えているのかな?」私は、はっとした。思い出したことがあった。以前、話す機会のあったろう者が、『ごめんください(他人の家を訪問した際に使う表現)』が分からなかったことがあった。『どうして、謝るの?』と言われたとき、それは冗談だと思っていた。また、こんなこともあった。『うさぎ小屋で』と手話で表現したときに、『うさぎじゃないのに、やだぁ』と笑った。これも、冗談だと思って、私も笑い過ごした。もしかしたら、『ふりがな』と『ひらがな』の違いを知らないのかもしれない。1歳を過ぎたら言葉を自然と習得していく、我々、健聴者の語彙数は5万語ほど。それに比して、言語を習得する時期も遅く、その後も、努力して習得していく、ろう者の語彙数は1万語ほど。その中に、『ふりがな』と『ひらがな』の違いなどよりも、社会に出ていく上で、必要で、重要な、習得せねばならぬ言語はいくらでもあるのだ。私は、耳を塞ぎたくなってきた。それは、何も、教室の前に立っている、ろう者たちだけの問題ではない。私の娘も、3才半になろうとしているのに、まだ3語文ほどしか習得できていない、私の娘にだって、言えることなのだ。そして、何よりも、そのことは、私達よりも劣っていることを意味しているわけではない。聞こえないことで、我々よりも、研ぎ澄まされた何かが、きっと彼らにはあるのだ。もちろん、娘にも…。そう思って、泣きそうな気持ちになっていると、今まで、大人しく通訳だけしていた手話通訳者が、勢いよく立ち上がった。そして、今まで聞いたこともないような大きな声で、皆に向かって言った。いや、叫んだ、といった方が表現としては妥当かもしれない。「ろう者は私たちとは違う感覚で生きています。『ふりがな』であろうが、『ひらがな』であろうが、彼らにはどうでもいいんです。私達の価値観に彼らを押し込めないでください。彼らの価値観をあなたがたが理解できないように、彼らだって、私達の価値観は分かりません!」場はしーんとした。その後、ぽつりぽつり、と、誰かが話しはじめて、講座は終わる頃までには、普段の雰囲気に戻ったようだった。が、きっと、その場の何人かは、手話通訳者の言葉を、差別と受け取ったり、もしかしたら、ろう者は私達とは別の世界の人間、と曲解してしまったかもしれない。我々と違う部分を、まず、違うとしっかり認識した上で、彼らが社会で過ごしやすいように、我々がその部分を補っていき、向こうからも、彼らでしか得られなかった何かを我々が頂戴して、そうやって、共に歩いてきた手話通訳者だからこそ、このような発言につながったのではないか。年配のろう者が、最初の講座で、「ろう者にはろう者それぞれの手話表現があるので、間違えた、違う、と責めないで下さい。」と、言ったことを思いだした。確かに、ろう者にはそれぞれ、自分が良いと思っている手話表現があって、手話通訳者にも、自分に合わせるように求める姿勢があるが、そのことだけではなかったかもしれない。彼は、こういった差異についても言いたかったのかもしれない。手話教室の最終日。彼らと、きちんと挨拶しないまま、お別れになってしまったことは悲しいが、きっと、どこかですぐに出会えるだろう。娘が彼らとの間をつないでくれる。その時は、もう少し、彼らの価値観に寄り添える自分になれていたらな、と思う。
2005.11.15
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1日3ヶ所病院めぐり、という、我ながら呆れるような強硬スケジュールの帰りみち。安くて美味しいけど、お洒落とは言えない店がまえのラーメン屋に入った。私と娘。二人きりで頑張った日に、こっそり自分で自分にご褒美をあげる、そんな時、最近、わりと利用する店だった。多少、娘が騒いでも、テレビがガンガンに流れ、皆が大声でしゃべりあう、この店では、気にはならなかったし、こぼしても、ここに座った先人たちの武勇伝が、不潔というわけではないが、あちらこちらに残っていて気がねもない。何より、店の注文や品出しを一人で切り盛りする、ここのおばちゃんの人柄が寛大で、よく気が付いて、そして温かかった。娘と行動すると、よくある話なのだが、補聴器をはじめ、絶えず顔に部品が多いので、相手にすぐに覚えてもらえる(覚えられてしまう)。が、その店は、最近、しかも、病院帰りにしか寄らないので、娘はいつも、病院の診察で全て外したままの、何もつけない状態だった。ちょっと、顔に手術痕が分からなくもないが、そこまで立派な照明がある店でもない。あまり、障害児と思わず、小さい子、ぐらいに思っていただろう。店に入ると、私は、娘の好きなラーメンを頼み、自分のために餃子とビールを注文する。なんにも言わなくても持ってきてくれる、子供用うつわ代わりのスープ用のお椀に娘のラーメンを取分けて冷まし、どうせ一人で食べられないのだが、娘の首に持参したタオルをグルグルに巻き、しばし気が済むまで、そのまま好き放題させる。餃子を一つ剥がし、ラー油多めのタレにつけて口に放り込み、その一口が溶けてなくなる前に、慌ててビールを注ぎ入れる。一口、二口、三口と続けて流しこみ、ほんの束の間の一人の時間を惜しむかのように、細く深く息をはきながらジョッキを机に戻す。顔を強張らせていた糸がぷつりぷつりと切れ、緊張が解けていく。首のタオルも両手も机も、顔にまでメンを貼りつかせた娘が、私を呼び、食べさせろ、と訴える。少し冷めたラーメンから、本格的にメンを取分け、海苔やチャーシューを小さくちぎって、娘の器に盛り付ける。娘にチャーシューを切り分けても、ラーメンのどんぶりには、まだ1枚、手付かずのチャーシューが残っている。最初は確か、1枚だったような気がする。でも、いつだったか、あれ、間違えたのかな、2枚ある、と思った記憶もある。が、最初から2枚だった、と言われたら2枚だったような気もする。いずれにしても、ある日、気付いたときから、チャーシューは2枚、いつもラーメンには入れられていた。隣のテーブルを観察すれば、2枚かどうか分からないでもないし、ここのラーメンのチャーシューは2枚なんですか?と、聞けば、話は済む。でも、なんとなく、そのままにしている。いつも疲れた顔をして娘と2人で来て、子供連れにも関わらず、ビールを頼む私を、ここの店の人はどう思っているのだろう。頑張っているシングルマザーに見えるかな。いつも汚い格好をしているし、仕事には恵まれているようには見えないよね。娘は小さいながら、保育園で頑張っているように見えるんだろうな。障碍のない娘を連れた、実像ではない自分。そんな妄想を楽しんでいる。
2005.10.11
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他の子供が言語を発したり、二足歩行をはじめたり、と、人間へと向かって着々とその片鱗を見せはじめ、親も、その劇的な変化に戸惑いながらも喜びと育児の楽しさを感じはじめる頃。私の娘は全くと言っていいほど成長しなかった。写真の整理をしながら夫と想い出話をしていた時、1年弱の期間をあけて訪れた同じ競馬場でのエピソードが混乱し、苦笑しあった程である。こんなことを書くと、人権論者から、他の子供と比べるからそう見えるだけで、あなたのお子さんもあなたのお子さんなりに、着実に一歩づつ成長されてきたのよ、と、お叱りを受けるであろう。それは、正論である。が、ここで他の子供と比べなかったら、子育てとは、なんと変化のない、出口の見えない、苦しいだけの戦いなのだろう、と、かえって迷路にまよいこんでしまったかもしれない。それほど、全くといっていいほど変化がなかった。言葉らしい言葉は話さず。ヨタヨタと歩き。意思の疎通も出来ず。食事さえ、まともに摂れない。せめて、普通の子供と比べて、いつか、こんな一面を見せてくれる日もくるかもしれない、と、出口から差し込む明かりを探す。それぐらいしなければ、今日が何日で、何曜日かも忘れてしまいそうな、忙しいことだけが真実で、後は変化がなく怒涛に過ぎ去る毎日が押し寄せる海で、溺れていたと思う。あの頃の娘の成長速度を、客観的に論理的に証明する手立てはないのだが、思いっきり主観的に、2倍以上違っていたような気がする。今。娘は成長期に入ったのではないか。保育園に入園した効果なのか、たまたまそういう時期に良質な刺激が受けられる所へ潜りこめたのか、はたまた両方なのか、それは分からない。が、娘が今までの娘の成長グラフの角度を変え、一日、一日、と別の娘に変化する。それが、目の前の真実だ。皮切りは「ママ」だった。娘は私のことも夫のことも「おあぁあん」と呼んでいた。当時は、私を呼ぶ時と、夫を呼ぶ時、微妙に違うよね~、などと夫とと話していた。よく考えなくても、友達のお母さんや、呼びとめたい他人なども、全て「おあぁあん」だったというのに、自分たちだけは違う呼び名で呼んでる気がする、ということは、幻想だったのだろう。だが、その幻想が、あの頃の私を、もう一歩と明日へ運んでくれたのだから、感謝すべき妄想と言えよう。保育園に通いはじめ、私のことを、勝手に、「ママ」と呼びはじめた。クラスのお友達が私のことを「○○(娘の名前)ちゃんママ」と呼ぶからだと思われ、実際、夫のことは「おとーあん」と呼んだ。その後、クラスのお友達や、先生のことを、名前で呼びはじめた。食事も、幼児食、といってもいいような物まで食べられるようになってきた。何より、食欲が出てきた。2語文、3語文が出てきた。ただ、しゃべりまくるのではなく、コミュニケーションが取れるようになってきた。「これは?」と聞いてくるようになった。間違えたことを私が言うと「ちがう」と言うようになった。何を書いている、と意識して、お絵かきできるようになった。いちいちあげていてはキリがない。ようは、自意識がはっきりしてきた、ということだ。通常の子供の発達段階にある、自己主張がはっきりしてきた、というのとは、少し違う。その昔。といっても、平成に入ってから。今で言う、知的障害児は、精神薄弱児、と呼ばれていたそうだが、精神薄弱児という言葉を創った人の気持ちが分かる気がする。娘は、まず、食欲がなかった。排泄物でオムツが汚れても無関心だった。暑い寒いを主張しなかった。お友達と玩具を取り合うほどの執着もなかったし、何がしたい、という主張もなかった。ただ、無理矢理食べさせられ、栄養剤を注入され、寝て、起きて、笑顔で、足をバタバタさせて、ヨロヨロと動きまわって、物をガンガン叩いて、寝る。こんな繰り返し、だった。ママ、こっち。ママ、いや。お父さん、いい。○○、出来ない、ママやって。ダメ。イヤだよ。イヤなのー!これが、世に言う魔の2歳児(らしきもの)なのかは分からない。でも、もし、そうだとしたら、こんなに平和で幸せな気持ちで魔の2歳児(らしきもの)と接している母親は、おそらく、少数派だろうな、と思う。
2005.10.09
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娘の靴を大量にいただいた。障害児ママ友から、である。二人姉妹の、年長の姉が履けなくなった靴だそうで、妹の方は肢体不自由で、まだ当分、歩けなそうだから、と、「お古で悪いけど、遊び靴として履きつぶしてあげて」と言う。この申し出は正直ありがたかった。保育園には、保育園で遊ぶ用の靴を1足、置き靴してある。が、この置き靴がクセ者。とにかく、痛むのが早い。そして、自分で履ける必要、があるのだ。もちろん、担任の保育士はそんなことは言わない。が、送迎時に出会ったときや、個人面談で、自分で履けない、と、靴を投げ捨てて怒っています、やら、あんまり皆と遊びに行きたくって、裸足で追いかけてきたんですよ~、などと言う話を耳にしてしまうと、加配の保育士と二人、居残って靴を履いている姿やら、遊ぶ時間が惜しくて、羨ましげに皆を眺めている姿やら、勝手に想像がふくらんでしまって、不憫だな…などと、涙腺がゆるんできてしまう。保育士は、そんなつもりで話した訳ではなく、自分で靴が履きたい、遊びたい、という負けん気や強い意思が出てきたんですよ~、というつもりで言った、そのことは重々分かっているのだが、そんな卑屈な見方をしてしまうのに、こちらも理由がある。娘はクラスの子供たちよりも運動面の発達が遅れていて、走るときはもとより、歩くときでさえ、まだ不安定である。そんな娘が少しでも困らないように、と、ブランド物の、お高いスポーツシューズで、ベルトが2本ついて足をがっちりと固めて履けるような、そんな履きづらい靴を持たせたのは、他でもない、この私だった。そんな汚名返上。1足目を替えるために、意気込んで靴屋に赴き、幾つか候補を履かせ、自分で履きやすくて、でも良い靴を購入してきた。が、慣らしで何度も履かせているのに、固いのか、馴染まないのか、喜んで履きはするのだが、ひょこひょこヘンな歩き方をする。走るに至っては、足を引きずってしまって、すぐに歩いてしまう。これは、困ったな……と思っている、まさに、その時の有り難いお話だったのである。すぐに飛びついて、ありがとう、のメールを送ったのだが、ちょっと考えて、でも、他にもお友達がいるのに…いいの?と、送った。それでもいい、と思ったからこそ声をかけてくださったのだから、野暮な質問ではあるのだが、一声かけずにはいられなかった。すると、彼女はこんなメールをくれた。「私、絶対に姉妹が欲しいと思っていて、上の子が女の子で産まれたとき、まだ見ぬ下の女の子のためにも、と、思いっきり良い靴を買ったの。だから、○○(娘の名前)ちゃんに履いてほしいの」なんとなく言いたいことが分かった気がして、私は有り難くいただくことにして、わずかばかりのクッキーをお礼に渡した。靴は10足近く入っていて、どれも、有名メーカー、有名スポーツシューズのものばかりで、ちょうど良い、お古さ加減が娘には心地良かったようで、あれも履いては部屋を回り、これを履いては飛びはねて、とても嬉そうにしていた。中でも、気にいって、自分でも履きやすそうだった、NIKEのマラソンシューズのような軽くて丈夫なそれを、保育園用に決めた。靴の内側には、その年長のお姉ちゃんの名前が、しっかり、きちんと書いてあった。障害児ママ友の気持ちが、そこにこめられていような気がした。私は、その名前と苗字にも横線を引き、娘の名と姓も書き入れた。
2005.10.08
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保育園というのは、ママ友達が出来にくいだろうな、と思う。登園時間も退園時間も、親の仕事の時間によってマチマチだから、必ず会う、ということもないだろうし、会ったとしても、朝は仕事に追われているし、夜は家事に追われているし、そう、話す余裕もないだろう。ただでさえ、障害児という未知な生物を育てている私とは、そう思いつきで話しこむのも大変だろうし、それが出来ると思っている人は結構、ロクでもない人が多かったりする。そんな中。例外的に仲良くさせてもらえたのが、年少クラスに通うしのぶ(仮名)ちゃんのママだった。彼女は今、育児休暇中で、0歳の妹を育てている。よって、保育時間が娘と同じで、朝夕、顔を合わせることが多い。が、彼女と親しくなった理由はそれだけではない。彼女が、あっさりと娘の障碍について聞いてきたのだ。それも自然に。聞けば、下の子が未熟児で3ヶ月間NICUに入っていたり、よく遊びに行った友達のお姉さんが重度の知的障害で、身近に感じ、また、その友達の母親から様々な話を聞いていたり、ご自身も辛い病気で思春期に辛い時期を過ごしたり、と、ヘンな表現だが、下地があった、ようだった。面倒見の良く料理上手な彼女に、多めに作ったお惣菜を分けてもらったり、お宅にお邪魔して遊んでもらったり。だからといって、ママ友達。そこまで心を許せないで過ごしてきた。ところが、今日。ほんの少しだが、心が溶けるようなことがあった。明日。通院が3箇所、重なってしまっていた。午前中、徒歩で1つ。午後、車で1つ。夕方、そのまま病院から病院移動で1つ。計、3つ。我ながら、なんとか分散できなかったのか、と思うような鬱陶しさだが、どうにも出来なかったのだから仕方がない。保育園の行事を休ませたくなかった、というころもある。が、病院などの予約は病院側次第で、一つ、提案を断ると、次の提案が1週間先の日程で提案されたりして、大学病院などは、もともとが数ヶ月後の日程で提案されているのに、更に半月後の日付を指定されたりして、ついつい不安になって、無理に了承してしまう。スケジュール調整などの秘書的作業が苦手な私にとっては、ストレスの一つになっていた。だからといって、これを誰に言うわけでもなく。保育園側にも、『通院で休む』程度の報告だけして。いつものように過ごしていたのだが、お迎え時。しのぶ(仮名)ちゃんのママに出会った。言うつもりもなかったのだが、なんとなく、明日、3箇所病院めぐりで休む、旨を話した。すると、彼女は、そっかぁ…と眉をしかめた後、私を真っ直ぐ見て、「晴れたら、いいね」と、言った。私は、「あ…そうだよね。晴れたら、いいよね」と返した。そして、少し、心が温かくなった。『大変だね』『頑張ってね』『そう…(二の句が継げない)』別に、こういった反応が嫌なわけではない。こちらも慣れたもので、こう答えるかな、と思って言っている節もある。また、気持ちがこもっていて温かな『大変だね』『頑張ってね』『そう…』だって、ある。でも、「晴れたら、いいね」は、未経験だった。そう。明日は大移動。雨が降ったら、荷物が増える。ベビーカーだって使いづらい。寒ければ着る物も増える。子供の機嫌も悪くなる。晴れたら、いい。私よりも先に、彼女が憂慮してくれた、雨。雨が降っても、彼女が私の大変さを、ほんのちょっとでも思ってくれるかもしれない。そう思ったら、もう少しだけ頑張れるような気がした。
2005.10.06
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悪い人ではないが、困った人がいる。障害児を育てている人の周囲には、一人や二人はいるタイプで、主に、子育てし終えた、中年女性に多い。その発言内容は、障害児を産み、育てる身としては、胸ぐらつかんで抗議したくなるほど無理解で、無遠慮なことも多いのに、傍から聞いていると、おそらく、悪気があるようには全く聞こえなくて、むしろ、こちらがお礼を言わなかったら冷たい目で見られるような代物で、ちょっと、始末に終えない。私の周囲の困った人、とは、自分が一番、その障害児に良いことをしていたり、その障害児のために良いことを知っている、と、思いこんでいるタイプである。実は、義母もこの手のタイプなのであるが、まぁ、これは一応、娘の祖母、という立場であるのだし、事実、本当に心配したり、可愛がったり、という面が見え過ぎるほど見えるので、今回は除外してあげたいと思う。今回、クローズアップしたいのは、娘の保育園の掃除のおばさん、である。この人。娘が保育園に入ったばかりの頃、娘を本当に可愛がってくれて、良い人だな、と思っていて、日記にも書いた人なのだが、こういう人が、付き合いが深くなるにつれてクセ者だった、ということを、若気の至り(笑)で知らなかった。お迎えに行く度に、今日はこういうことをしてあげた、今日は、こんなことを嫌がっていたから(私には分かるの、と言いたい)、こうしてあげた、と、報告され、その度にお礼を申し上げ、過剰に頭を下げていた。それが、更なる不幸を呼ぶことを知らないくらい、あの頃の私は若かった…(笑)今では、何故か、自分は娘番だ、と思いこんでいるみたいに、掃除機そっちのけで、娘をトイレに行かせたり、ズボンを履かせたりしている。私の言うことなら、なんでも聞くのよと彼女は言うが、入園当時と違い、もうすっかり保育士に慣れている娘は、慣れていない掃除のおばさんにいきなり抱かれて、頬を合わされて、固まっているから、言うことをきくんだよな……あぁ、言ってやりたい…。もちろん、私が嫌だ、と波風たてれば、過剰に関与してくることを止めてはもらえるであろうが、傍から見ている分には悪いことをしているわけではないし、過剰に関与してくることは止まっても、掃除のおばさんとしては日々、顔をつきあわせるだろうし、あんまり、自分には利点がない気がする。だから、いつも、北(仮名)公園の遊具が新しくなったから、連れていきな、きっと○○(娘の名前)ちゃんの良い刺激になるから。行った?北(仮名)公園。まだ?この子にいいんだって。毎日、大豆を食べせると、脳の発達にいいんだよ。大豆、食べさせてる?この子もね、好きみたい、食べてた。(もう玄関を出かけている背中に)大豆だよ、大豆がいいんだよぉぉぉ。と、彼女がせっせとアドバイスしてくることに、耳を傾け、スットクから笑顔を出して挨拶をしている。が、今日。ちょっと…いや…大分、笑えないことがおきた。保育園からの帰り。雨が激しくなってきたので、補聴器を外して帰ろうと、外した。玄関で靴を履いているときに彼女が現れた。娘が補聴器をつけていないのを見つけて、「補聴器つけなくても聞こえるでしょう」と言ってきた。「ええ、最低限のことは」すると、彼女は、とんでもないことを言いはじめた。「補聴器しない方がいいんだよ」…は???一瞬、凍って、笑顔をストックから出すのも忘れて、考えてしまった。で、焦って、素で、「いえいえ!つけなければ、耳に入ってくる言葉が減って、言葉が遅れてしまいますから!」すると、思いがけなく相手がすばやく、「あ!言葉が…なるほどね…」とつぶやくように言って、彼女が身をひいた。いつも、ちょっとでも言いかえそうなら、輪をかけてくるから、こちらが引いていたのだが……珍しいこともあるものだな…とは思ったが、雨も激しくなってきたので、ささっと、その場を去った。…で、今になって、落ち着いて考えてみると、待てよ…?と、思うことがある。ここ数回。お迎えに行ったとき、娘が補聴器を外していることがあった。以前から娘は、耳が痒いと補聴器を嫌がることがあって、担任の保育士が、外しちゃうの…、と、教えてくれた。その時は大抵、中耳炎になっていたりしたので、緊張して、その時々でチェックしてみるのだが、何もない。本人に耳、痒い?と聞いても、「かゆい」と言わない。その場にいる保育士に、(何故だか、いつも、そんな時は、パートの保育士が一人、別行動している数人についている時だった)聞こうとすると、掃除のおばさんが、どこからか飛んできて、「嫌だって言うの」と、教えてくれていた。…が、待てよ??もしかして、彼女が勝手に良かれと思って外していた…とか……まさか…そこまで…ねぇ??でも、こういったタイプの人が、障害児の事の軽重をあやまって、「かわいそう、その管があるからミルク飲めないのよ、外してあげたら」などと、ほざくのだ。…まさか…ねぇ…???
2005.10.05
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そして、運動会がつつがなく行われた。恵まれすぎた天候の下。風だけは涼しく秋の装いで、手作りの万国旗を揺らし。砂ぼこり。保育園の名前入りのテント。いっぱいの運動会の大道具、小道具。各家庭、せいいっぱいの手作りの衣装。司会進行のマイクの声。聞きなれた運動会音楽。父、母、祖父、祖母の応援。子供たちの笑顔、泣き顔。進行は押しに押してしまっていたし。幕間の出し物の、父母が扮装した天狗は、その緊張からか酔っ払い状態で、子供の出し物に乱入してしまったり。かけっこで道から逸れて家族席に入ってしまったり。進行のマイクの音はリハーサルよりも小さかったし。娘のかけっこは、相変わらず、ヨチヨチの赤ちゃん走りだったし。出し物では、自分の番を待ちきれず、最初の子供が行った後に、見切り発車してしまったし。夫が午後から仕事で、家族連れの中、ぽつんと娘と二人きりだったし。でも、幸せだった。それは、娘がそれなりにみんなと同じように頑張れたことや、何をするにも、とびっきりの笑顔だったことや、夫が午後から仕事だったにも関わらず、朝の8時から設営の手伝いにも出てくれたことや。そんなことは、付属の幸せだった、ように思う。私が幸せだったことは、ただ、一つ。ここにいられる、幸せ、だった。ここは、間違いなく私の、私たちの居場所で、娘の食事や発達について、私一人で思い悩むことがなく、誰かが一緒に悩み、考えてくれる、そういった場所を得た、そんな類の幸せだった。それは、何かの宗教活動に邁進したり、収集に没頭したり、韓国スターを追いかけたり、休みを返上して仕事をしたり、そんな感覚に近いのかもしれない。これさえやっておけば大丈夫。これがあるから日々の生活が楽。思考を停止することができる。こんな風に、誰かに何かに、価値観や生甲斐決めてもらって、頼っていく人生も悪くないな。少しでも、こんな時間が長くあることを祈りながら、運動会を眺めていた。もちろん、それは障害児を授かった私には与えてはもらえていない安寧なのだけれども。
2005.10.02
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先日、何気なく書いた『中国製品不買運動』に反応してくださった方がいて嬉しくなった。今のご時世。食や衣などは中国製品を除いたら不便を生じるほどである。例えば、にんにく、など、3個で100円のところ、青森産などは1個が300円位する。メイン料理で食べるならともかく、パスタの前にオリーブオイルと一緒に炒めるくらいなのだから…、と、ついつい中国産に、ほだされてしまいそうになる。(そして、時には、ほだされる…)しかし、まぁ。『障害』と『障碍』の違いについて知ったときもそうだったが、厳密に考えず、とにかく、やってみる、ことが大切で、その完成度は二の次だ、と、『自然食品』『添加物、保存料、不使用製品』などなどについても、『継続は力なり』と思って、なるべく、やれる限りで行っている。『中国製品不買運動』をはじめる背景については、居酒屋で談義する程度の知識しかないし、こういったことを熱く議論する場もネット上ではあるので、そちらに譲りたいと思う。(きっかけは、やられたらやり返せ、という、非常に感情的なものだった…)ここで書きたいのは、だから、そこまで大それたことではなくて、エビについて、である。それも、ブラックタイガーである。学生時代、出会った友人は、インドネシア通であった。旅行マニア、とか、そういうのではなくて、なんというのか、体の半分がインドネシア人、といった感じで、ルックスもどこか東南アジア系だった。だから、インドネシアが好き、とか、インドネシアに住みたい、とか、そういった発言ではなくて、インドネシアをどうにかしたい、インドネシアのために出来ることをしてあげたい、と言ったような発言が多かったし、事実、そういった行動で示してきた。語学で有名な大学のインドネシア語科から、私と同じ大学に学士編入してきた彼は、その堪能な語学を生かして、日本で就労しているインドネシア人のために、日本の企業とかけあったり、様々な場面で通訳をしたり、デモに加わったり、モスクで祈ったり(実際にはたぶん、モスクに行く人に付き添っているのだろう)、と、どこの国の人か分からない人だった。お金がなくなると、企業の通訳の仕事を、どこからともなくもらってきて、英語の通訳のときなどは、適当に通訳して、食いつなぎ(インドネシア語の方が堪能らしい)、後はひたすら、ボランティアに勤しんでいた。(もっとも、企業通訳には、この『適当さ』も重要だ、というのが彼の持論だった)そんな彼の目標は、インドネシアでのエビ(ブラックタイガー)の養殖だ、という。もう何度もアジアをはじめ、インドネシアに行っている彼だが、そのエビの養殖場の劣悪さに閉口し、エビを気持ちが悪くて食べられなくなったぐらいだった、という。衛生面の話ではなく、薬、である。エビの養殖場は、池で大量のエビを育てるのだが、エビが早く育つように、水質が悪くなって死なないように、大量の薬を投入するそうだ。それも、まさにヤク漬けといった感じで、水が多いか、薬が多いか、というところで、それを食するのは地元民ではなく、日本人だということもあって、行政もそこまで口を挟むことはなく、むしろ、産めよ増やせよで経済が潤う、ということで、ノータッチなのだそうだ。彼は、こんなやりかたでは必ず破綻する、と言っている。いつか誰かが気がつく。そうなったとき、インドネシアをはじめとして、ベトナムや、その周辺のブラックタイガーの養殖業は暗礁に乗り上げることになる。それを見越して、自分がインドネシアに、安全で、環境をも考えた、正しい養殖場を作っておきたい、と言う。いや、こんな風に書くと、なんだか崇高な精神の持ち主のように見えてしまうが、日本人とエビはなくてはならない関係で、そこにビジネスチャンスがある、といったことも話していたような気がする。。…なにせ、もう何年も前の話なので、話し半分にして、いずれにしても、ブラックタイガーの養殖が薬漬けという話を聞いてしまってから、私も怖くて食べられなくなってしまった、という話をしたかった。こんな話は、知らないだけで、もっともっと色んなところに転がっているのだろうな、と思う。特に、自分たちが口にしない、輸出用の食物では。そんなことを考えてしまうと、日本人以上に几帳面な民族はいない上に、自分たち生産者の口にも入る食べ物を作っている、そんな自国製品を買おう、と、思ってしまうようになった。特に、子供を授かってからは。そうやって口に入るものを気をつけながらも、授かった子供には障碍があって、自分の足元からガラガラと崩れるようなショックを受けたんだったな。ただの『食』の話として終えられないのが、辛いような。。人間味があるような。。
2005.10.01
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娘のよだれについて、思いっきり悩んでいる。口のしまりが悪く半開き、舌も飛び出し、でも、唇から出ない程度にその空間をふさぎ、そこからよだれがダラーリだらり…。発達遅滞の子供にはよく見かける口元だし、そもそも口に(も)障害があるんだし、更に、経管栄養だったこともあって口は未発達なのだから、仕方がないのは分かる。でも、「よだれはない方が困るし、多すぎて悩むものではないのよ。」といわれても、それはおそらく、1歳程度の子供の段階の話。どんな可愛い服を着せても、なんだかカッコ悪く見えるし、保育園の準備も一手間増えるし、そもそも、大きい子供用のよだれかけなんて、見つからない。事実、先日。安いのに撥水加工をほどこされていたために、ついつい、(勝手に)中国製品不買運動の禁を破って買ってしまった、大量のよだれかけ群は、娘が一瞬、「ぐえ…」と声をあげたほどパッツンパッツンで、思わずこちらも、「ぐえ…」と声をあげてしまう始末だった…。作る…と言ったって腕がないし、ネットで作ってもらえるところもあり、洒落ているが、お高めだし、よだれ吸収率は実用性に乏しい。義母なら電話すれば、無料で好みの物を作ってくれるだろうが……まずは、普段から忙しい身の上であることを聞き、具体的にどれだけ忙しくて、誰々に着物を作ることを頼まれている旨を聞き、近所の人に頼まれている内容を聞き、市の活動、ボランティアの日程を伺い、「あそこの誰々さんみたいに、孫一辺倒の生活はみっともないから嫌や~実際、そんなんする暇がないくらい、忙しぃて忙しぃて」そんな義母に、皆に放っておかれない、人徳の持ち主である旨を褒めた上で、「隣のなんやらさんは、娘が子供連れて来てな、全然帰らへんねん、離婚するのんと違うか~あんたんとこは大丈夫やなぁ~□□(夫の名前)はそんな無責任なことするタイプじゃあないわ~浮気とかするなら、あんたの方やろ?」と、息子の自慢話を聞き、「あそこんとこの角の何何さん、娘が出産やら、孫の世話やらで、まーったく集まりに来なくなって、感じ悪いわぁ」「最近、集まるのは、男の子の親ばぁっかり。」「産むなら女の子やわぁ…姑に自分の子供触られるのーって、普通、お嫁さんは嫌がるやん?」「ほら、義理の家やと帰りにくいーって、言うやん??」…やっぱ、止めておこう…通っている言語聴覚士などは、「少し、口もとを意識させてあげたら」というが、結構、とんでもなく、時には泣かせてまで、意識させようと詰めよっているのだが、その場限り。もう、性格なんだか、発達遅滞なんだか、あんまり、気にさせると神経を病んでチックになる、とかいうが、彼女はお構いなし。もう、こっちがチックになりそうだ。ようは、まだ、よだれ終結の時期になく、彼女のペースを待ってあげればいい、それだけのことなのだ。分かってはいるのだが、保育園での手つなぎ。よだれのついた手の娘と手をつないだ子供が、ぱっと手を離して地面で拭いていたり、娘にぶつかった子供が、「びちゃびちゃ…」と嫌な顔をしたり、そんな場面を見ると切なくなるし、そのことに気付かない娘を見ると、切なさを通り過ぎて怒りさえ覚える。…まぁ、他の子供にきたながられても気付かなかったり、恥ずかしがったりしないこと自体が、まさに、よだれ終結の時期ではない、何よりの証明であるし、だからこそ、嫌がられるわけで、切なくても、待つしかないわけで…。ほんと、切ないなぁ。。
2005.09.30
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7月30日、31日、8月1日の3日間。広島で行われた『第37回全国保育団体合同研究集会』に出席した内容を書きたい、書きたい、と思って、今になってしまった。保育園の方には既に、無駄なほど分厚い、まさに冗長といった報告書を作成し、私見と共に提出済で、それをそのまま、こちらにも掲載しようと思ったら、それはダメらしい。合研の内容を許可なくホームページに掲載してはいけないそうで、自分としては、ここで知り合った友達にも情報をお分けしたい、程度の心意気でしかないのだが、仕方が無い。3日間で得たことの一部を抜粋して、私見も加えてみたいと思う。3日の間に、様々な人、園、研究者の発表を耳にしたが、やはり、人は、今、自分が置かれている状況テリトリーを越えることまでは耳に入ってこないらしい。日本国憲法。世界の保育事情。就学問題。など、必要で、興味深いものは多く存在したのだが、今、ここで資料無しに思い出せるほど心に残っているもの、といえば、障害児保育のことについてばかりだった。そういう立場で見てみると、中東諸国で、政権交代の選挙の投票に命がけで行く人の魂を尊く感じられる。今、食べる物も不足し、行けば命さえも失ってしまうかもしれない状況で、確かに、国が変わらなければ生活も変わらない、という理屈は正論だが、それでも、行けるか、と言われたら私は自信がない。それよりも、子供のミルク代を稼ぎに戦車の部品をくすねに行ったりと、自分の生活に手一杯で大局を見ることは出来ないだろう、と思う。…と、閑話休題。以下に、合研で考えたことを、ほんの少しだが、ここにも残して置きたいと思う。【気管切開の子供の就学問題】『医療的ケアを必要とする子供は集団保育に適さない』と、嘆願むなしく市から保育園入園を拒否された気管切開の子供を、看護士の常駐する保育園が園長判断で入園させて、問題なくやってきた。が、就学の時、通常学級に進学したいと市に申し出ると、「親も一緒に登園するなら可、それ以外なら、障害児学級の訪問形態での就学が妥当」と言われ、そこから当該園児のための運動が保育園を中心にはじまる。当該園児が、家を進学予定の小学校の隣に引越しても許可はおりず。市長にメールを送ったり、保育所を中心に地道な活動を重ねていった過程で、次第に、知人から話が届いた市議会議員が市長に訴えてくれたり、時間に余裕のある老人会などが自主的に市に電話をして抗議をしてくれたり、市長を訪問してくれたりして、いつからか、市全体に運動が広まっていった。その結果、3週間で13万人規模の都市で2万人もの署名が集まった。しかし、それでも行政は動かず落胆していた頃、栃木県に自治体判断で学校に看護士を常駐させて医療的ケアが必要な子供を受け入れている事実を知り、運動が再燃。ようやく、『個人で看護士を雇って学校に常駐させる、という形態ならば可能。但し、看護師雇用のための費用の半額を市が補助する』『責任はあくまでも保護者』という、最悪な条件ではあるが、認めてもらうことが出来た。現在は、『誰にでも平等に就学の権利があるのだから、この条件は撤廃せよ』と形を変えて運動を続けている。この運動を通して、保育園は活性化し、他の子供の保護者からも良い反応が多々みられている。≪私見≫どうしても、この園児の母親の気持ちになってしまった。この園を探し当てるまでだって、孤軍奮闘、戦ってきたに違いない。でも、今は、こんなに多くの人が、自分のことを知っていてくれて、一緒に戦ってくれている。これは、常に、『特別』『少数派』を強いられる自分にとって、ヘンな表現だが、自信を持たせてくれるような、安心した気持ちになれると思う。が、一方で、この報告の最後に、「他の子供の保護者からも良い反応が多くて、『この運動を通して、生甲斐を見つけました』と張り切っている若い母親もいます」というような発言を受けて、少しブルーになった。娘も1歳半まで経管栄養だった。確かに、特別なことではあるが、あえて言えば、ただの『食事』だ。気管切開だって、導尿だって、ただの日常生活だ。『就学』だって、憲法に定められている権利で、誰もが当たり前に受けられるものだ。それが、誰かの生甲斐になって、目を輝かせて「頑張りましょう」「頑張ってます」と、その方に出会う度に語られるのは難儀だなぁ、と自分なら思う。「ありがとうございます」という笑顔のストックが切れてしまうのではないかな、って思う。そんなに頑張らなくても、当たり前のように生活できる、そんな社会にならないものかな、と、思った。【障害児のためだけの時間】人が二人行き交えないような狭い廊下、園庭は屋上、という、小さな敷地の小さな保育園で、工夫しながらの障害児保育実戦。障害児2名、発達が気になる子供(母親と相談済)の計3名を含む、年長18名クラスに担任2名(うち1名は障害児2名分の加配)。その3名のために加配の保育士が設けた、『たんぽぽタイム(障害児のためだけの時間)』についての実態、効果について。給食後から昼寝までの30分ほどを『たんぽぽタイム』とし、3人を他の部屋や空間など刺激がなく落ち着ける場所へ移動。彼らが今、興味を持っていそうな内容で、他の子供たちとは出来ないようなことを行う。例えば、手遊びや、優しい絵本、歌と遊戯など。『たんぽぽタイム』は刺激に弱い彼らを落ち着かせる効果が生まれ、彼らが今、興味のあることを行うことで発達支援にもなり、自分が興味のあることを行ってくれる保育園との信頼関係も生まれたように思える。また、食事に人一倍時間と手間がかかり、少食であったり、落ち着きがなかった子供たちが、『たんぽぽタイム』に行きたいがために、手早く、いっぱい食事を摂れるようになった。クラスの他の園児との関係であるが、当初、『たんぽぽタイム』に行くことを隠していたときには、こっそり跡をつけたり、うらやんだりなじったりする子供もいたが、オープンにして、逆に、どんなことを『たんぽぽタイム』でやったのか、披露の場を設けたことで、子供たちの心が落ち着いたばかりではなく、『たんぽぽタイム』が障害児と他園児との架け橋になり、また、その披露内容を褒められることで、彼らの自信にもつながった。≪私見≫これはいい、という意見が、場の大半だったように思える。また、狭い園で実践されていることも、評価が高い原因の一つだったと思う。こういったことは、いかに、その保育園が子供のことを考えているか、といったことに直結すると思うので、(いかに、良い保育士の良い意見だったとしても、許可が出なければ実践できないので)良い保育園を見分ける、一つの指標ではないかな、と思う。【発達の気になる園児と保護者の関係】これについては、どの園も悩んでいるようで、それでいて、これといった解決策もないので、皆が、現状を話し合うにとどまっていた。父母の立場として参加している私は、ある保育園と懇意にさせていただいて、昼食時間などにも色々な話をさせていただくことが出来た。関東にある、その保育園からは、広島で開催されているにも関わらず、園長先生をはじめ4人も参加していた。皆さん、真剣に保育に携わっておいでで、熱さを笑うような人は誰もいなくて、こんな園に通っている子供たちは幸せだろうな、と素直に思える園であったにも関わらず、障害児の保護者との関係が上手く行っていないようであった。多動の激しいコミュニケーション障碍を持つ子供のために園をあげて取り組み、卒園旅行も参加できるように、と、別働隊を組んで、当該園児も無理をせず、でも、皆と行動を同じにできるように取り組み、やれる限りのことをしてきた、と思っていた。が、卒園式の日。「もっと、園には(子供のために)やってほしかった」と、言われ、担任がしばらく立ち直れなかったり。何かがあると、「うちの子(障害児)の補助金が保育園に入ってるんでしょ!」と、過剰に子供を特別扱いすることを要求されたり。上の子が重度の自閉症で施設に通っていて、下の子は保育園に通っているが、多動をはじめ、発達の面で気になることが多いのだが、少しでもそのような話になりそうだと、(全く、保育園側はそういったつもりではなく、一日にあったことを報告しようとしただけなのだが)、「うちの子わがままで」と話を切り、最初から心を閉ざしてしまっているらしい。私は、その母親たちの気持ちも分からなくはなかった。娘の保育園は素敵な園で、娘のことに真剣に対応してくれていて、可愛がって、というよりは、愛してくださっているのは分かるのに、それでも、どこか。少しづつ。「もう少し…」「…あれ…」と思うことがある。それは、取り立てて、『何』というものではなく、日々、少しづつ生まれる、ほころび、みたいなもので、「どうして、そのとき、言ってくれなかったの」と言われても、自分さえもその場では気付かないような、些細なこと、なのだ。それが講じれば、「補助金が出ているのに…」と思うこともあるだろうし、卒園式の日に、次の障害児のために、一言だけでも言っておきたい、という気分にもなるのだろう。また、娘の難聴が後から判明する前。自分では思いっきり「難聴っぽいな」と疑っていて、検査も自ら申し出たというにも関わらず、他人から言われると、傷ついたり、否定したくなったり、そんな時期があった。そんなことを、出会った保育園の方々に話しながらも、保育園側からの意見を客観的に聞くことができたたことで、娘の保育園側ともっと理解しあえる関係になれる気がして、合研に参加してよかったな、と考えていた。また、何も、保育園と障害児の関係は、保育園側が劣悪である、という場面だけではなく、お互い子供を愛しているのに、上手く理解しあえない、こんな例も少なくないんだな、と、思った。我々、障害児の親側は、ついつい、病院や行政とやりあうことが多くて、過剰に反応しやすかったり、逆に、少数派ということもあって、過剰に遠慮しすぎたりするきらいがあるので、そこを改善する必要もあるのかな、と思ったりもした。結局、自分が何かを考えるきっかけになっただけで、その出会った保育園の方々の、なんの役にもたてなかったのだけれど、最後に、その保育園から「うちも保護者と一緒に参加すれば、関係が変わるかしら」と言っていただけたとき、自分が障害児の父母の立場で、こうやってここに、役にもたたずにいることも、少しは誰かのきっかけになるのかな、と思って、嬉しくなった。以上。そんな、3日間を過ごしてきた。これは、ほんのほんの一部で、障害児以外の部分もたくさんあって、もっともっと、密度の濃い、素晴らしい経験であった。ここに参加している保育士さんたちは、保育に真剣で、親がリストラされて、車中で生活している子供の保育についての報告では、あちらこちらからすすり泣きが聞こえてきた。保育園の問題は色々あるけど、少なくても、ここに参加している保育園の一覧名は、どんな豪華な保育園紹介パンフレットやHPよりも真実が見えるんじゃないかな、って思った。
2005.09.29
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障害児を授かってから、こっち。今までの人生と変わったことはありすぎて、語りきれないほどではあるのだが、一つ。『障害児耳』になってしまった、ことも、その大きな一つだ。意識しているわけでもないのに、耳に入ってくる言葉の羅列の中から、勝手に障害児関係の話を聞きとってしまう。ただ、ぼやーっとニュースを聞いているだけなのに、虐待された子供の様子を聞いて、「障害児だったのでは…」と、勝手に思ってしまう。先日など、こうだ。24時間テレビを見ていたときのこと。某人気アニメのキャラクターの声優だった人が、自分の昔話をしはじめた。彼女は、その特徴ある声で、「この声のせいで人前でしゃべることが出来なくて内向的でした。ほんと、自閉症気味だったと思う」と言った。自閉症気味って、なんだ??ただ、単に、つけっぱなしだっただけのテレビから、この台詞だけが浮かびあがって聞こえてきた。今日なども、こうだ。通っている手話教室で、講師をしている、ろうあ者がこう言った。「最近では、自閉症、という、自らの殻に閉じこもった精神的に弱い人もいる、皆さんも病気にならないように気をつけましょう」正確に言うと、ろうあ者、が言ったのではなくて、それを翻訳している通訳者が声にして言ったので、本当に、その、ろうあ者がどう表現したのかは分からない。が、何もないところから、そんな言葉が生まれるわけはなくて、そのように表現した、ろうあ者の心の中に、または、そのように通訳した通訳者の心の中に、こういった考えがあったからではないか、と、そんな風に思いながら聞いていた。学生時代、とある地方で行われた政治学会に出席した際、ジェンダー研究者が、ことごとく、どんな研究、発言にも、「この資料に男女比がないが、どういったわけか」「この本自体、ジェンダーの視点が全く入っていないが、世の中の半分が女性であるのに、これで正確な統計といえるのか」など、とにかく、なんにでも挙手する女性軍団がいて、同じ女性の自分から見ても閉口してしまうようなものだった。そうやって、ジェンダーの視点を持つことが恥ずかしい、と思うことこそに、ジェンダー問題の根底がある、という、ジェンダー論はここでは置いておいて、私が言いたいのは、それほど、彼女たちは『ジェンダー耳』になっていたのだな、ということである。もちろん、そこで、ことごとくジェンダー論を絡めていって、市民権を得させたい、という野望もあるのだとは思うが、それにしても、気付かなければ発言できないのであるから、やはり、『ジェンダー耳』を、持っていたのだろう。自分の子供が障害児だった、という重さと同じ位の熱さでもってして、ジェンダーという研究に打ち込んでいる。それだけで、賞賛に値するし、そういったことに気付かなかった私は、あの場にいる資格さえないような未熟な人間だったのだな、と、思う。そう思うとき。少しだけれど、娘を授かって良かったな、と思ったりもする。ほんの少しなのだけれど。
2005.09.27
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保育園の運動会の全体リハーサルがあり、仕事をしていない私は、こっそり覗きに行った。近くの公園に併設された、フェンスに囲まれただけの小さな小さな運動場。マイクを通した司会進行役の主事の声が、我が家まで聞こえてきそうなほど辺りに響きわたっている。『かけっこ』と『出し物』。この二つが娘のクラスの出場種目である。娘に見つからないようにするのは簡単だ。そんなに、いや、全く目ざといタイプではない。が、クラスの一人にでも見つかれば、「△△(娘の名前)ちゃんのママがいるよ」と言われ、娘にバレてしまう。いや、小さな保育園。クラスが違う、年少、年中、年長クラスでも、私を見かけて話しかけてくれる子供が何人もいる。彼らに見つからないように、でも、よく見えるように。そんな場所を探して、あやしいほどウロウロと、人の敷地にまで入って、ようやくベターなポジションを探し当てたときには、娘の出場する『かけっこ』が、今まさに、はじまろうとしている時だった。運動会の練習を、少しづつ、日々の活動に取り入れはじめた頃。その様子を連絡ノートなどで確認しながらも、どうしても聞けずにきた。『娘はどれぐらい練習についてこれていますか』でも、この全体リハーサルを目前にした、ある日。胸の中の風船がはじけたかのように、自分でも驚くほど唐突に担任の保育士に聞いていた。答はある程度、想像した通りだった。『出し物も、かけっこも、上手にみんなと出来ていますよ~』娘のクラスの『かけっこ』は、魔女に扮装した担任の周りを、二人で走って回ってくる。手をつないで、ではなく、2人同時に走りだすが、別々に走って回ってくる。月齢の高い子供と低い子供と組ませ、低い子供が高い子供を追いかけて回ってこれるようになっているようだ。娘のパートナーは、女の子では2番目に生まれが早い女の子だった。心の準備が出来ないまま、娘と彼女の名前が呼ばれ、前へ。司会進行役のマイクの合図で、走りはじめた。あっという間に私の前を走り去り、見えない位置にある折り返し地点を回って、再び私の前へ彼女が現れた頃。ようやく娘の姿が私の目に入ってきた。両手をあげて、体のバランスを取り、一足一足、転びそうになりながら、走る。まるで1歳の、歩きはじめの子供がやる、それのように、危なっかしい足取りで、靴をすりながら、それでも走る。とっくにパートナーがいなくなった『かけっこ』に、「△△(娘の名前)ちゃん、はじめての運動会です」「△△(娘の名前)ちゃん、頑張れ、はやい、はやい」と、司会進行役のマイクを通した高い声が実況をつける。折り返して、再び私の前に娘があらわれる。ゆっくり、でも、スピードを落とさず、ご機嫌のときに見せる満面の笑顔で走り、ゴールで待っていた担任の胸に倒れるように、クラスの女の子で1番早く生まれた娘は飛び込んでいった。私は何故だか涙が止まらなくて、突然、降ってきた雨を厭うフリをして、走って、その場を去った。夕方、迎えに行くと、いつもと変わらない娘がそこにいた。連絡ノートを開いてみると、『今日、最後まで走れました。感動しましたよ~』という一文が目に飛びこんできて、また、涙があふれてきた。
2005.09.22
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午後、広島へ到着。すぐに市電に飛び乗った。限られた午後の時間。可能な限り、ヒロシマを感じたかった。原爆ドーム前で大量に降りる人や、平和記念公園に群がる人を横目に次の駅、本山で降車。原爆ドームが見える川から一本、通りを隔てると、そこにはどこにでもある工場やガソリンスタンドがある町並みが現れ、当たり前のような規模の当たり前の見た目の小学校が現れる。【本山小学校】だった。そこの門をくぐって、事務局らしき場所を訪れると、当たり前の小学校にはない、記帳をする帳面の横に、訪問者用の名札が多数置かれていた。一声かけ、記帳をし、名札をつけ、案内の通り、体育館の裏の資料館へ。その資料館は、原爆投下当時、まだ珍しい鉄骨造りで辛うじて建物の枠組みが残った小学校の建物の一部を、父母会の想いもあって資料館として残している物だった。夏休み中の小学校の片隅。セミの声だけが激しく鳴り響く中。ひっそりと、その建物が顔をのぞかせた。辺りには誰もなく、私一人。私はそっと足を進めた。どこかで見た拡大した写真や、やはりどこかで見た説明、原爆資料館でも見られるような遺品などがあり、順路を淡々とこなしていた私の足が、どうしても動かなくなった。それは地下へと続く階段だった。階段の側面も、その奥も、明らかに原爆投下当時の建物に少し手を加えただけの代物で、足元を照らすための明かりだけが赤く、現代の色を放っていた。目を閉ざしても、私には見えた。そこを走りまわっていた子供の姿が。耳を塞いでも私には聞こえた。戦時中、次第に減っていく授業らしき授業の中、それでも絶えなかった笑い声の数々が。ベトナム、沖縄。これまでもこういった資料館は数々見てきたが、こんな経験は初めてだった。それはもしかしたら、小学校の原爆投下痕を、小学校に保管しているからなのかもしれない。体中、ガタガタ震える中、『私は物見遊山じゃないんだ』と心に繰り返し、必死な思いで歩を進めた。明かりをくぐり、地下が広がって、そこには原爆投下時のヒロシマの街を再現したミニチュアなど、現代を匂わす物が数多くあるにも関わらず、そこが現代だと思えず、原爆投下直後の本山小学校に迷いこんでしまったような錯覚に襲われた。私はそれを振り切るように、カメラのシャッターを切った。フラッシュが当たりを照らす。その光が、死者の原爆投下当時の『ピカ』を思い出させてしまったのだろうか。もう一回、シャッターを押したのだが、シャッターは全く動かなかった。『死者を惑わせ驚かせる女』と拒否された気配を感じ、私は必死で、その場から走り逃れた。その後も辛うじて順路通りには走ったが、何が展示してあったのか、どうなっていたのか、全く覚えていない。気がつくと私は建物の外にいて、しゃがみこみ、頭を両膝の間に入れて、手だけ高く合わせていた。猛烈に気持ちが悪くなっていた。繰り返して言うが、私がこんな状況になったのは初めてだし、こんなことを期待して戦地を廻っている訳ではない。それだけに、子供たちに訪れた突然の、かつ壮絶な死を、夥しい死の群団を思いやらずにはいられなかった。そのまま、原爆投下時には川面が見えない程、死体で埋めつくされた、という川を渡り、【原爆ドーム】に向かった。様々な人に注目され、写真に残してもらっているこの建物は、どこかで見たよりも現物はもっともっともっともっと荒れて、やせ細っていた。横をたゆとう川と、こちらをさえぎる柵は、何故かものすごく低くて、娘がもし、ここにいたら、容易く越えて向こうに渡ってしまえる程、低くて。橋の柵も小学生の腰ほどに低くて。その意図の真意は私などには分からないのだけれど、もしかしたらそれは、広島の人と川の距離感みたいなもので、ずっと古から、広島の『人』と『川』は、こうやってお互いの危険を分かち合いながら暮らしてきたのかもしれない、と思った。だとしたら、この川を埋めつくし、潮の満ち干きの度にギシギシと川面を動いていた死体に対する、広島の人の怒り、やるせなさ、悲しさというのは、私が考えているよりも、もっと重いのではないのかな、と勝手に推察していた。そのまま記念公園を横切って、【平和記念資料館(原爆資料館)】へ。そこには、主なき声をあげる遺品、原爆のすさまじさを証言する物品たちが、声を限りに叫んでいた。私は、その声に耳を傾け、時に涙を流しながらも悔しくてたまらなかった。何故、誰かがその惨状を写真に残しておかなかったんだろう、と。広島に原爆が投下された直後の写真は、実はほとんど残されていない。たまに我々が目にする写真も、現地の新聞社のカメラマンが、当日、たった5枚だけシャッターを押したものであった。彼は、あまりにもすさまじい惨状で、シャッターを押せなかった、と証言するが、私はそれが悔しくて悲しい。プロならば、シャッターを切るべきであった。証言は、その立場、それぞれの気持ちで行き交ってしまう。でも、写真は、少なくても切り取られた一場面だけであっても、そこで語ってくれるものは、言った言わないの水掛け論とは一味も二味も違うものになるはずだ。戦時下、学徒動員されて街の解体作業にかりだされていた、恥らう年頃のうら若き乙女たちが、服も裂け、髪は怒髪天を抜き、哀れな、露なほとんど全裸の格好で逃げまどい、死にたえ曝されていた姿を。黒こげで炭化した木工から、それがかつて人間であったことを主張するかのように、穴という穴からピンク色の内臓が飛び出していった姿を。眼球が飛び出し、下が天を打ち抜くように伸びきった、かつて人間であった我々の同士の姿を。写真に残すべきであった、と。平和記念資料館には、想像以上に多くの外国人でひしめきあっていた。それは、日本人の半分近くに、私には見えた。笑いあったり、団体行動の中、トコロテンのように押し出されている日本人の中、神妙な顔つきで足を止めている人は、外国人に多かった。それはそうだ。原爆投下当事国、アメリカでさえも、原爆で戦争が早期に終結された、という自国の武勇伝以外、原爆に対しての勉強はなされておらず、原爆資料館では、日本の資料館にあるような原爆の被害を伝える写真などは鍵付きの部屋に閉じ込めておき、人目に触れないようにされている現状。こういった展示は、唯一、被爆国たる日本にしかない、展示なのである。外国人が、目を白黒させて見入るのは道理なのである。原爆資料館の中、とある展示のとある片隅に、こんな一展示があった。『外国の教科書に学ぶ』多くの外国の教科書も展示されていたが、その説明に、『日本は原子爆弾で多くの被害を出したが、周辺諸国でも日本から多くの被害をこうむっている国がいて、その痛みを伝える教科書がある。日本はその国々のことを学んで、相互に正しい歴史認識の元、国際化にはお互いの痛みを分かちあうことが重要である』と。私はそれを読んで、冷や水をぶっかけられたように涙が引っ込んでしまった。何が相互に歴史認識だ。確かにそれは道理だ。正論だ。でも、その前に我々は、自分たちの痛みを知っているか。少なくても、このヒロシマの痛みを知っているか。非戦闘員を、つまり、母親だったり、子供だったり、年寄りだったり、を、自分たちの手を汚したり、葛藤することもないまま、十何万人の人生を一瞬で終わらせてしまえる狂気の凶器を浴びた、ヒロシマの人たちの怒りを、無念を知っているか。それは我々が、戦争をはじめなかったら。それは、もし当時の鈴木首相が黙殺などという表現を使用しなかったら。我々だって多くのアジアの民を殺してきたのだし。この原爆投下で戦争終結を早めることが出来たのだし。それはそうだ。でも、そのことと、唯一の被爆国であることと、どうして同じ計りで測れよう。自分たちの痛みも認識し、怒ることも出来ないで、どうして他の国の人々の痛みを分かり、忘れないでいることができよう。自分たちが謝って欲しいと思っていないことを、どうして他の人に謝ることが出来ようか。日本がこんなことをした、あんなことをした、と、授業のほとんどを対日本戦争史に割いている、中国、南北朝鮮国程とは言わないまでも、どうして、戦争に対する情報を、偏っていてもいいから、教えてくれないのだろう。これを読んで、嫌なことを書いているな、と読まなくなった人は多かろう。私だって書いているのが嫌だ。何故か、すごく抵抗がある。『唯一の被爆国であることを主張し、つまり被害者である自分たちの一面を押しだし、アメリカに謝罪を要求し、非核を主張し、平和を訴える。』唯一の被爆国として、こんなに当たり前のことが、どうしてこんなに恥ずかしいと思ってしまうのだろう。これが流行りの自虐史感というのか、アメリカの戦後民主主義の洗脳効果なのか、などと思ってみたりもする、が、そんな大袈裟なことではなく、ただ単に、奥ゆかしく恥じらい深い日本人気質なのではないかしら、などと思ったりもする。とまれ。将来。娘をはじめ、誰か子供とここを訪れたとき、その子が「怖い、気持ち悪い」と言ったとき、「そうだね、怖いね、気持ち悪いね、だから平和がいいよね。」では、なんの説得力もない、ただ恐怖心をあおる、お化けのような存在でしかない。そこで、どうして怖くも気持ち悪くもない人たちが、こうなったのか。どうやったらこうならないのか。という基本を、胸を張って外国人と討論出来るだけの知識を教えてあげたいと思う。最後、【袋町小学校の資料館】へ。ここも小学校だが、資料館は人通りが多い一般通りに面していて、本山小学校とは違う雰囲気だった。建物は、被爆当時、救護所として使われていた小学校の建物を残していたもので、家族の安否を知りたい人々の書き込みで当時、壁が埋められていて、その一部が今も現存して残っていて、それを見ることが出来る。改築して使っていた小学校を解体するとき、その書き込みを発掘するドキュメンタリーが残っていて、ビデオをその場で見ることが出来た。原爆で肉親を亡くした人たちは、遺骨が残っていないことが多く、行方不明、とされている人も多い。発掘された肉親の名前を手でなぞり、「確かに姉は生きていたんですね…」とつぶやく姿に、原爆という、一瞬で大量の命を吹き消す殺戮兵器の罪の深さを見たような気がした。私が経験できたヒロシマはここまで、で、後は、地元の人に人気があるという店で広島焼を食べた後(この時は『鉄板』と言わなければいけないことを知らなかった…悔しい)、広島市民球場で横浜戦を見て(あまりの小ささに、入場ゲートをくぐってすぐに、グランドに出てしまうかと思った程だった。)、私なりに今の広島を満喫できた。
2005.07.29
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戦後60年。今年の全国保育団体合同保育研究集会が、その象徴の地、広島で開催され、私も父母の身ながら参加させてもらってきた。7月30日、31日、8月1日の2泊3日。全国の保育士たちが集まって、お互いの技術向上のために、討論し、学習しあう。その営みも今年で37回を数え、全都道府県から8000人に近い保育士の参加があった。娘の保育園では、父母会から1名、参加費から宿泊費、交通費まで支給される。今年は、そこで発表(提案)することになっている娘の保育園の保育士2名と私、合わせて3名で参加してきた。娘を関西の義理の両親に預けてから参加する私は別行動で、早めの7月28日に関西入りして義理の両親の所で娘と一緒に1泊。もう1泊する予定だったが、娘がすぐに環境に馴染んでくれたので、前日の7月29日(金)に広島入りし、原爆資料館など、ヒロシマの街を廻ることにした。広島は高校の修学旅行以来、2度目である。第37回全国保育団体合同研究集会で学んだことと、ヒロシマの街から感じとったこと。自分なりにまとめていけたら、と思う。
2005.07.28
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今朝、5本目の排卵日チェッカーが陽性の赤いラインを点けた。いよいよ今宵、である。男の子を欲している彼のために、リンカルやゼリーを処方してもらいに産婦人科の門を叩こうか、とも考えた。が、止めた。私は娘に期待しすぎた。彼と私の子供なら、きっと優秀に違いない、とうぬぼれていた。その割に、顔や性格は彼一辺倒に似ている子供ばかりを夢想していた。そもそも、子供、という存在自体に期待しすぎていた。なんでも言うことを聞き、癒すだけ癒してくれ、飽きた頃に成長して、また違う顔を見せてくれる、万能ペット。そんな風に思っていたように、今となっては思える。そもそも、自然に授かったわけではなく、意図的に作ろうと思うこと自体が傲慢なのかもしれないのだ。授かった命を忠実に育てよう。そこまでの決意が出来たわけではない。今でも、もたらされる、ままにならない運命におののき、うち震えている。きっと、この日を一生忘れないだろう。どんな運命になっていったとしても。先日、さくら(仮名)教室の集まりがあった。平均年齢が高い障害児のママ友たちに、次の子供の予定はなく、ポロッと明かした私の志を、意外なほど皆が喜んでくれた。「赤ちゃんも、この会に連れてきてね。皆で抱っこしてるからね。」「服は心配しないでね。これだけのメンバーがいるから。」「うちなんて未だにハイハイしかしないから、痛んでない服、いっぱいあるわよ~」まだ授かってもいない赤ん坊の話で、これだけ盛り上がるとは思わなかった。「大丈夫。きっと元気な赤ちゃんだから。」この言葉も、ここにいるメンバーに言われると、無責任な冷たい言葉に聞こえない。温かな気持ちになってくる。「女の子がいいわよ。男は障害児率、高いから。」アスペルガーとダウン症の兄弟を育てる母親が言うと、「そうそう、男は染色体が弱いのよ。うちの子も、女だったら、こうはならなかったかも、って言われたし。」と、脳性マヒで肢体不自由の男の子の母親が請合う。空想話で花が咲いている中、3人の男の子の母親が、「こんなことまで話してたら、○○(仮名)ちゃんママのプレッシャーになっちゃうんじゃない。」と、たしなめてくれた。その言葉を聞くやいなや、私はこう言っていた。「大丈夫だよ。人生が思い通りにならないことを、この子に教えてもらったから。」自分でも意外なほど、自然と出てきた言葉だった。場の皆も、うなずいたような気がした。今宵。とにもかくにも、私は一歩を踏み出す。
2005.07.18
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障害児を保育園に入れる ~入園するためのポイント 【面接へ行く】~入所申込書提出期限締め切り直後、1月下旬。第一希望の保育園から「子供連れで来るように」と呼び出された。到着後、事務室に呼ばれ、園長はじめ2、3人の保育士と、娘の最近について、例えば食事状況や排泄状況、好きな遊び等を聞かれ、その後、娘がもし入園できたら入る予定の2歳児クラスに連れていかれ、しばらく一緒に(私も)過ごした。指定された時間が11時だったので、もしかしたら食事をさせられるのではないか、と、緊張し、そのための支度もしていったのだが、それはなかった。30分程度で終わり、帰宅の途についた。これを周囲に聞いてみると、「集団保育が可能かどうかの面接じゃないか」と地域の保健師は言っていたし、「ほぼ決まっているけど、確認のために呼んでいるんじゃないか」と言っていた療育所の保健師もいたし、「希望の欄に書いた保育園の中で、受け入れてもいい、と判断した保育園が続々と呼んでいるのではないか」という療育スタッフもいたし、真相は結局分からなかった。「3月上旬に通知が行きますよ」ということだけで、特別な内示はなかったが、他の区の他の保育園で呼ばれた人は、「入園を前提に」と言われたそうだ。娘は、「うちの保育園に何度も遊びに来てくれて馴染んでくれてる、こういう子供さんをこそ入れてあげたい」「○○(娘の名前)ちゃんのことは、前向きに考えているから」と、言われた。面接に呼ばれなくても、入園通知がきた障害児も実在する。が、面接に呼ばれたのに入園出来なかった障害児、というのは聞いたことはない。この事実をどう判断するか、だ。
2005.07.05
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