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2017年03月23日
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カテゴリ: オペラ
新国立劇場 14:00〜
 3階右手 / 4階右手

 ガエターノ・ドニゼッティ:歌劇「ランメルムーアのルチア」

 ルチア:オルガ・ペレチャッコ=マイオッティ
 エドガルド:イスマエル・ジョルディ
 エンリーコ:アルトゥール・ルチンスキー
 ライモンド:妻屋秀和
 アルトゥーロ:小原啓楼
 アリーサ:小林由佳

 新国立劇場合唱団
 東京フィルハーモニー交響楽団
 指揮:ジャンパオロ・ビザンティ
 演出:ジャン=ルイ・グリンダ


 最初に。ネタバレ上等なので御注意を。

 なんとまぁ年内初まともなエントリーがこれという.....もうLFJもとっくに前売り始まってるというに。

 なんか下馬評というか世評では非常にいいんだそうです。ほんまかいなと言ってる私は正直言って大していいとは思ってないわけですが、最初に言っておくと、ルチアに関しては、もう四半世紀前にバイエルン国立でグルベローヴァのルチアを聞いたのがスタンダードになってます。指揮は確かプレートルだったか。テノールはアライサ。で、国内では、その年だか翌年だかに、確か林康子か誰かの代役で、留学帰りの高橋薫子が藤原の舞台で歌ったのがこれまたスタンダード。新宿文化センターでしたっけ。はっきり言って相当レベルが高かった。まぁグルベローヴァはそれどころじゃないわけですが。

 で、ペレチャッコ。ふーん?と思って後で調べたら、ペーザロの常連だったんですね。マティルデ・ディ・シャブランとか、確かに観てますよ。確かに良かったと思う。でも、「こりゃすげーなー」というほどでもなかったような......ネトレプコの再来なの?ふーん?ネトレプコ自体そんなすごい訳じゃないような....その再来って、いや、まだネトレプコ現役だし...........つか、この手の歌うんだったら、せめて「サザランドの再来」くらい言ってみろと。
 いや、確かに悪くはないです。公平に言ってむしろ素晴らしいに近い。でも、こっちの標準はグルベローヴァ。しかも、ルチアの狂乱の場は去年の秋に歌ってますからね。それでなくてもこれまでもいろんな人が歌うのを聞いてるし。
 で、言ってしまえば、確かにいいのだけれど、格別ではないし、完璧というわけでもないんですよね。例えば月曜日の方は、狂乱の場の前半最後は息切れして伸ばし切れない。生の舞台だし、それでダメというわけじゃない。でも、こっちは、それを完璧にコントロールして歌いきった人(人っつーか神)を知っている。それと、この人はコロラトゥーラ・ソプラノというタイプではないし、声が素晴らしく綺麗といった人でもない。いいソプラノだけど、いいソプラノでしかない。言ってみれば、ペレチャッコが歌う「から」観に行く、というほどではない。
 後の歌手は、それほどじゃないです。というか、エンリーコもエドガルドも、いまいち。ダメってほどではないけれども。ただ、もう一歩なんですよね。


 雑?どこが?と言われるかも知れませんが、とにかく、雑。合唱も雑だけど、それ以上にオケが雑。演出も雑。
 音は大きいんですよね。でも、決して集中してるという類の充実度ではない。ここで何を表現しようと演奏しているか、ということが伝わってこない。それは合唱も同じで、何故そこで歌うのか、何を歌うのか、といったことがきちんと押さえられてるという風ではない。だから、勢いだけの演奏になっている。
 結局、このオペラがどういう話か、というのが全然見えてこないんですね。演奏から。それを象徴しているものの一つが、グラスハーモニカ。今回の公演では、「本来ドニゼッティが書いた楽器」ということで、狂乱の場で通常フルートで伴奏されるところをグラスハーモニカで演奏している。
 この、「本来....」というのが曲者でしてね。実は、これについて言えば、もう随分前、震災前だったから6年以上前だと思うのだけれど、ナタリー・デッセーが来日リサイタルでやはりグラスハーモニカを使ってルチアを歌っています。で、その時は、もうちょっと構造的にメカニカルな感じの造りの楽器で、もっと音も安定して、それなりだったのだけど、今回のは、正直言って不安定。音程も安定しないけれど、演奏そのものがやはり不安定。かっちりとリズムを守り、フレーズを維持し、というのが危なっかしい。
 で、そもそも、狂乱の場というのは、歌自体そういう意味で不安定なものなのだけれど、それ以上に伴奏が不安定でどうすると。

 結局、「どうしてそうであるべきなのか?」ということが十分考え抜かれた結果だと見えないんですね。

 で。演出もやっぱり、雑というか、なんだかなーという気はするのですが、実はもっと厄介なのかなと。

 実はこれ、「君の名は。」のレビューと称する諸々を見ていて気がついたんですが。ええ、あの映画ですけどね。アニメの。去年の夏に始まって、未だにそこそこの数の映画館で限定上映みたいに上映しているという。その話はまた別途書こうと思いますが、あの映画(っていっても観てない人には分からないでしょうが)について批判する際に、「分からない」「難しい」というのが結構あるようなんですね。で、それに気付いたのと時を同じくしてこの公演観たのだけれど、実は共通点があるような気がして。つまり、「観る側が分からないことに耐えられなくなってる」、もっと言えば、「そもそも目の前に見えていることしかわからないのではないか」という気がするのですよ。
 この演出の狂乱の場、ルチアが出てくる時、彼女は、アルトゥーロの生首を槍に刺して出てくるんですね。で、これを振り回す。で、何やってんだろうなぁ、悪趣味だよなぁ、何でこんなことさせるんだろう、と思ったのだけれど、ある可能性に気付いたのです。つまり、この演出家は、「こうしないとお客は"ルチアがアルトゥーロを殺した"と理解出来ない」と考えたのではないか、と。見たまんま、明らかにこの人狂ってますよね、と分かるように見せないといけない、と考えたんじゃなかろうか、と。

 私も何度か「ランメルムーアのルチア」の公演は観ていますし、映像で観たこともあるけれど、大抵の場合、アルトゥーロが死んだことを目で見て分かるようにするということはしていないと思います。それは、この場面で本当に大事なのは、実のところ、「ソプラノが難曲を歌う」ということであり、その前提、お膳立てとして、「ルチアは狂っている」という設定があり、その設定の凄惨さが「狂乱してアルトゥーロを殺した」という設定によって強調される。そのことを、実のところ観客は知っていて、だから直接的に死んだところを見せることはしないけれど、ルチアの衣装を血に染めたりすることでその状況を示す訳です。
 大事なのは、それで観客は「いまどういう状況設定だ」ということを諒解して観ている訳です。というか聞いている。で、こう書くと、それはまた随分な話に聞こえるけれど、こういうのはごく普通に舞台上演に於いては行われる諒解事項なのですね。お約束、というとマンネリ化したもののように思えるけれど、これを「物語に於いて予め想定されている世界観」とでもいうように言い換えれば、今でも別に珍しい話じゃない。というより、舞台上演というのは現実世界で現物でもって構築される虚構なので、ある種の見立てとか諒解事項みたいなものを受容することは避け難い。
 どうも、そういう、舞台という現実世界で現物で構築される虚構、というものを受け容れるのが難しくなってるんじゃないかという気がするのです。
 この演出が難儀だなぁ、と思うのは、そういう、舞台としては不必要なまでの写実性を求める一方で、舞台としての整合性というものがちゃんと考えられていないのですね。例えば、この舞台では、海岸に突き出した崖のような装置が繰り返し出てくる。これはルチアとエドガルドが愛を誓った場所であり、同じ場所が狂乱するルチアの世界として立ち現れる。ところが、この場所は、同時に、エドガルドがエンリーコと決闘を約束した、レイヴンズウッド家の墓所、つまりエドガルドの一族の墓所でもあり、確かに墓が並んでいる。そしてご丁寧に墓穴が掘ってある。そして、最後、ルチアは遺体としてここに運ばれてきて、埋葬されようとする。もうね、ツッコミどころ満載なのですよ。最初に愛を誓う時、墓はない。後で墓が出てくる。で、決闘する前に、自分ちの墓所で墓穴を用意するバカが何処にいると。そこに、他家の者の遺体を持ってきて埋葬しようとするとか、おかしいだろうと。
 舞台上でのリアリティというものは、まず何よりも、舞台上での物語に引っかかりを感じさせないようにすることで、物語が流れるようにすることなんですね。それを阻害してはいけない。舞台の上にリアルなものを載せるとか、見た目辻褄が合うような思いつきを展開することではない。その物語は全てが舞台上で説明されるべき、でもないんですよきっと。だから、舞台としてのリアリティがなくなってしまう。物語に乗れない。そうすると、音楽の力も減殺される。
 どうも、そういうのに耐えられない、という人が増えてるような気がするんですよね。それが、ある意味即物的な舞台を誘発してるんじゃないかなと。





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最終更新日  2017年03月23日 00時36分35秒
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