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1・2・3ときて次が6だったのにカラコからも誰からもつっこまれないということについて考えてみた。孤独についてである。一人でいることが多いのは誰にも頼ったりまかせたりしたくないからだけれども、一人で全てのことができると思っているほど傲慢ではない。人にはそれぞれ生まれ持った性質を活かした役割が必ず備わっていて、自然にしているだけで役割を果たしていくことで誰かをたすけたり幸せにできたりすることがある。自分にないものを誰かが補ってくれてたすかり、誰かができないことを自分がやってあげることで喜ばれる。2人でできないことをもう一人の誰かがやってくれたりしてだんだん効率がよくなることを知り、そういうことが連鎖していって仲間が集まり集団になってゆく。悪くない。「集団的自衛権」というタイトルを掲げた理由はすっかり忘れてしまった。たぶん当初は、集団の中にいないと嫌われてしまうし孤独は寂しいけど、そとから見たら集団なんて汚物にしかみえないしとるに足りないものだというようなことを思っていて、たとえばクラスメートがよってたかって一人の人格を踏みにじる「いじめ」のような行為を正当化させていることと、日本がイラクだかどこかの他の国に行使している集団的自衛権が国連憲章で認められていることとを対比して、集団意識とはかくも醜くうすっぺらいか、ということを表現したかったのだと思う。軍隊がよその国へ出張しているのに「攻撃権」ではなく「自衛権」なのは、自国の安全ではなくプライドを守る外交手段であり、中身は自衛とは一切関係ないし、正当化のために権利と主張しているところとかが姑息で卑怯だ。量的緩和のときもそうだった。当座預金の上限を引き上げるのだから緩和ではなく本当は締め付けなはずが、表現がねじまげられてなんとなくいい印象を与える言葉にかわっていた。「キモい」もそうだ。誰かをいじめるのは、いじめる対象が「キモい」すなわち周囲を不快にする信号を放っていて存在自体が迷惑だから制裁を加えたり攻撃したりしてもよい、という正義があるからにほかならない。たしかに正義かもしれない。キモい国民を擁した国家はいくらでもあるし、制裁や攻撃を加えられてたり、集団的自衛権を行使されてたり、いつもキモい国は標的になっている。とすればいじめが絶対的に悪だとはいいきれない。自分が正当であるから不当なものを排除しようとしている国家が、キモいやつをいじめるな、とは胸をはっていえないからだ。でもオレを「キモい」とかゆったらコロス。
2006.11.22
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「竜馬がゆく」は今6巻目の途中。お互いの利害のために結びつきたい薩摩藩と長州藩が軍事同盟を結ぶために京都へ集まった。しかしその段になっても長州桂小五郎は恨みつらみをこねているだけで相手からの誘いを待っているだけ。一方プライドの高い薩摩藩を背負いたつ西郷どんらは、追い詰められた相手が泣きついてくるのを待っているという立場を貫き通そうとしているだけだった。そこに登場するのは我らが竜馬くん。煮え切らない両者の手をとり「日本のため」といって条約を締結させた竜馬くんは大仕事をして大喜び。その夜伏見の寺田屋へ戻り、槍の三吉慎蔵と夜半過ぎまで祝杯を酌み交わしておりました。寺田屋の階下では、不穏な動きを嗅ぎつけた幕府の捕吏らが数百名、息をひそめて彼らが寝静まるのを、今や遅しと待っているではありませんか。果たしてどうなりますことやら。俗に言う「薩長同盟」と「寺田屋騒動」の真っ最中だ。坂本竜馬にあこがれて言うわけではないが、オレも子どものころは泣き虫の洟垂れだった。ポッケにハンカチと思って靴下が入っていたし、履いていった靴下はどこかに脱いでそのまま忘れて帰ってきたりもしていた。親によく怒られて友だちにはばかにされたが、竜馬もそんな子どもだったらしい。しかし知恵遅れのような子どもでも、最終的には日本をひっくり返すような大仕事ができるかもしれないし、平凡以下に見られ蔑まれながら生きてきたとしても大逆転できるかもしれない、という勇気をこの小説は与えてくれる。サラリーマンの愛読書としても有名だ。昭和四十何年の刊行かわからないけれども、どれだけ多くのサラリーマンに読まれ親しまれてきたかはわからない。平凡なサラリーマンでも、一度は竜馬のようにかくありたいと思ったに違いない。とはいえ、みんながみんな日本を何度もひっくり返していたら迷惑なので、目先の仕事と重ね合わせたり、局地的な集団内に国家をあてはめてみたりして、小規模な竜馬を演じることで、彼の志の疑似体験をするだけに実際はとどまっている。ちかごろ「カイカク」のような言葉がよく各所でうたわれている。しかし仕事でもなんでも「組織」のきわめて官僚的な既存の体質を本当に根本から変えようと思ったら、並の努力やアイディアだけでは絶対に無理で、そういうことを古い人たちは体感的にわかっているし、そういう大人たちを見て育った若者は遺伝子的に理解していて、「カイカク」というような言葉のうら寒さやうそ臭さは結構実感としてほとんど全員が捉えているように思われる。幕末。幕府の古い体質がもうどうしようもなくなっていたことや、浪士によるテロあるいは倒幕派による軍事クーデターが成功したことなどが、なんとなくよい結果をもたらしたという歴史はなんとなく認識できる。でもテロがほとんど禁止され、武器を取り上げられてしまっている今、もし古い体制がどうにもこうにもいかなくなってもそれを覆すことは不可能に近い。幕末のあの人たちだって、テロを許されていたわけではなかった。それでも古い基盤のもとで溜まった膨大なストレスが、それと等価なエネルギーに変わるまでそれほど時間を必要としなかったのは、武器があり、暴力が手段として有効だったからだった。気持ちだけ竜馬を真似ようとしたところで、現状をどうにかしたいとアタマで思ってみたところで、結局南極どうすることもできないことも知っているし考えてみればもっと大切なこともあるような気がするから、そういう煩雑な日常に心の中の竜馬くんは埋没していってしまうのである。「サラリーマン」が、嫌いになったのはいつからだろう。かくいうオレ自身もサラリーマンのはしくれだから、厳密な意味でいうと上の一文は自分のことが嫌いということになる。でもそこは、幕臣でありながら広い視野を持ち、海軍学校を設立し竜馬らを育成するなど所属組織の利害を超越し、世界の中の日本という新しい概念を最初に持ったかの勝海舟が幕府を内部批判したことになぞらえて、見方によっては、サラリーマンがサラリーマンを批判することこそに意義がある。といえなくもない。ちょっと規模は「ちっちゃい」けれども、いつものことながらそれはさておくとして。さて、サラリーマンには2種類いる。スーツの似合うサラリーマンと、そうでないサラリーマンだ。スーツの似合うサラリーマンとは、なにも生地も仕立てもよく体型にフィットしているとかそういうことではない。どちらかというと、スーツの似合う体型に生まれついた人、ということに近い。スーツの似合う顔でもいい。男の顔は生き方で決まるというし、もしかしたら着慣れてくる、ということもあるかもしれないが、基本的に似合う似合わないは、遺伝子レベルで決定付けられるといっていい。オレが嫌っているのはこの2種類のうち、スーツが「似合わない」ほうのサラリーマンだ。スーツは何かをを象徴している。それは信用かもしれないし誠実さかもしれないし、階級やプライドといったものかもしれない。少なくともサラリーマンが身に着けるスーツは、そういう前向きな要素を象徴している。とするならば、すべからく着る人の内面にも同じ姿勢や意志が宿っていてしかるべきと考える。ところがスーツの似合わないサラリーマンは、スーツが持つ象徴的な意味合いだけを身にまとっているだけで、内面はまったくともなっていないことが多い。もちろん全員の内面をつぶさに調べたわけではないからこれは偏見に違いないだろうけれども、反証も不能である以上、この仮説を間違いとはいいきれない。あるいは内面がともなっていないからスーツが似合わなく見えるのかもしれないし、内と外とのギャップが空間のねじれやひずみを生じさせていて、狂った波長の振動がオレや周囲に、漠然とした違和感や、あきらかに不快感として伝わっているのかもしれない。プロの詐欺師をオレは見たことはないが、内面と外見がそろっていないという点で、案外容易く見抜けるかもしれない。信用も誠実さもないのに、スーツを着てごまかしているサラリーマンは不愉快だし、逆に偽の信用を身に着けているからむしろよっぽどたちが悪い。
2006.11.20
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「オレ脱藩しちゃおうかな?」とはオレではなく隣の席の同僚が言った言葉で名言だった。間違った方針を次々と打ち出してことごとく失敗していったり、勘がにぶくて小心者の上司をいつまでも重要なポストに配置させ続けていたり、結果我々がいつも尻拭いをさせられている羽目になっても、なんの改善策も打ち出そうともしないどころか、そんな状況にすら気づかないような体制を宿した腐った組織に、従業員である我々が見切りをつけたいという意思表示として、会社を辞めるということを、幕末になぞらえて「脱藩」と表現した同僚くんのセンスのよさをオレは讃えた。「竜馬がゆく」によるところの幕末では、サムライが所属する藩から無断でその外に出るということだけで「国抜け」の大罪を着せられていた。罰としてもれなく切腹である。当時は「無礼討」といって、百姓がサムライに無礼を働いたら斬ってもいいことになっていたらしく、つまり殺人が法律によって許されていた時代だったとしても、それなりの社会的制裁はあっただろうが、切腹までにはいたらなかった。とすると、国抜けすなわち「脱藩」は、殺人より重い罪として設定されるほど、当時の藩という組織からすれば深刻で許しがたい行為だったことが伺えるのである。いまでこそ従業員が会社を辞めるということには何の罪もないどころか、うしろめたさのこれっぽっちも感じられず、むしろ自分のためにはいいことだという価値観さえあり、そんな価値観で考えると当時の脱藩の罪の重さは想像もできない。こと自分自身のみをかえりみて語るならば、オレはどこの組織にも属しているという実感はないし、属していたいという欲求もなければ、属す必要もそれほど感じられないと思っているから、今にあっても昔のことでも、組織に縛られて生きるのは非常に息苦しく感じてしまう。オレが例外とは思わないけれども、それでも日本は昔から、組織のためには己を捨てて、組織の利益と安定のために身を奉じたてまつるのは、絶対的な価値観として信仰され続けてきた。黒船がやってきてやがて戦争に負けて、そんな絶対的な価値観をいともあっさりと捨て去ってしまって今に至るわけだけれども、果たして本当に捨てきれたかどうかは疑わしい。大きな会社では今でも、依願退職したい社員を何人もの重役がひきとめようとするときく。育ててきた人材をむやみに放出させたくない実利もこめられてはいようが、そこに「見切りをつけられてしまった」というような、組織のプライドにかかわる問題が全く無いとはいいきれないように思われる。サムライの制度が廃止されるのが明治何年。やがて日本に竜馬が思い描いた自由で平等な社会が訪れるまでそれほど時間はかからなかった。余談だがサムライ制度廃止に反対した士族の反乱が西南戦争。人斬り半次郎に担がれて大将になったのは、幕末の権力闘争において暗躍した西郷どん。竜馬暗殺の黒幕は実は西郷どんだったというまことしやかな説もこのごろにわかに脚光を浴びてきている西郷どんの戦死とほぼ同時に、日本からサムライが消失した。ラストサムライである。かくしてサムライはこの世にいなくなってしまったが、「はいやめた」といって大小を捨てたところで、直ぐに人格が切り替わるはずもない。元サムライ、略して元サムの手で造られていった新体制で、あえて「組織への忠誠も捨てろ」という条項が掲げられない限り、いくらルールが変わっても、プライドの持ちようはかわらないんじゃなかろうか。今も昔も、プライドを傷つけられたら頭にくるのは当然だ。トサカニクルといってもいい。日本史はほとんどトサカニクルクロニクルといってもいい。オレは言葉でプライドを傷つけられることは、ナイフで太ももの辺りを傷つけられることと同じぐらい理不尽なことだから、お返しに殴ったり蹴ったりすることぐらいむしろ法律で許されてもいいんじゃないと思っている。たとえばいじめられて不愉快な思いをしているこどもが、もし暴力を振るって大将に立ち向かったら、暴力を振るったほうが悪いことになってしまう。だからいじめられっこは、いつまでもいじめられるか自殺してそれを断ち切るしかない。いじめたもん勝ちだ。いくらプライドを傷つけても法律では罰せられず、「いじめられた」という大義名分があるにもかかわらず暴力を振るったら投獄される。どう考えてもフェアじゃない。子どもにナイフを持たせるべきだ。子どもよプライドは与えられるものじゃない獲得するものだ。いじめを完全になくすには武装するしか手段はない。プライドを保つために、捨てていいもんなんかいくらでもある。
2006.11.16
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「佐幕派?それとも倒幕派?」なんてことを聞いてまわる遊びがオレの周りで一時期流行った。周りというよりもオレ一人が聞いてまわっていただけかもしれないが、佐幕派か倒幕派かいずれかに与しなればならないことを強いるナンセンスな遊びは、思っているより楽しい。と思っているのはそれこそオレひとりだけかもしれないことはおいておくとして。幕末は、徳川三百年の幕府体制を、倒すか佐(たす)けるかの議論や闘争に明け暮れた一局面を指していることが多い。結果幕府は崩壊し倒幕派が政権を握りやがて新しい政治体制が生まれたことは改めていうまでもない。日本史という記録の一部分が「幕末」という名称でくくられていて、その時代の何を語るにしても佐幕派と倒幕派の権力闘争を抜きにしては語れなくなってしまうほどその印象は濃い。どう考えても、その時代に権力闘争に明け暮れていた人は日本の全人口のほんの1パーセントにも満たなかったとしか思えないけれども、仮に1パーセント同士が争って勝って、闘争に参加したわずかな人のみが特権を獲得し、日本の意思を決定する機関を構築していった。当時の体制はほとんど現代に受け継がれているような気がする。ごくわずかな1パーセントが体制を布き意思決定し代謝を繰り返し、未来永劫回転し続ける永久機関を運営している。このことそのものにはなんら異論はないしシステムとして効率的だし当然のことだろう。どこの世界においても1パーセントはピラミッドの頂点に位置しと揶揄されながらも、懸命に働き、ときにはおねいちゃんと豪遊せしめたとしても、永久機関に永遠の生命を見出しながら日々、回転を止めないよう人知れず働いているに違いない。それはそれでよい。しかしながら、1パーセントというからには、残りは99パーセントある。少なくとも「幕末」という名称が表す記録上の1局面では、残りの99パーセントについては全く語られていない。語る必要がないからだ。記録でも小説でも、仕様書でも報告書でも、全てを書き入れると、煩雑になって逆に伝えたいことが伝わりにくくなったり、重要なことがそれほど重要ではない情報の中にうずもれて取り出せなくなってしまうことがよくある。だから文書を書くときの教訓として「要点をわかりやすく簡潔に」とうたわれるのも、文書の目的を、早く正確に達成させるためのものとしてある。辞書やら通帳やら、正確性と網羅性を兼ね備えているべき文書でない限り、「だいたい」のことが伝われば、文書はその目的のほとんどを達成したとみてよく、だいたいのことを伝えるためには、全てのことを書く必要がない。だから1パーセントを書けば「幕末」のことは伝えられるし、現に「幕末」という言葉一語が表す情報量をとってみても、限りなく膨大だ。一方、永遠に語られることのない99パーセントはというと、ターミナル駅の人の群れと同じく「記号」でしかなくて、それがいくら大きくなろうが小さかろうが、池袋だろうが笹塚だろうがかわらない。記号はいくら集まってもたった一つの意味のみを表す働きしかしない。「人の群れ」というだけの意味だ。無作為に集まってしまっただけの、単なる量的要素としての群集は、まとまった一つの意思を持たない。集団としての人格がないのだ。集団としても個別にみても、99パーセントの確率で人の群れには人格がない。
2006.11.15
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最近読む本がなくなり、最近といってもずいぶん前からだけど、読む本がなくなったといっても世の中にある本全て読みつくしたような言い方だけど、つまり本屋へ行っても新しい本を買いたくなくなってきて、家の中の本棚に飾ってあるだけの古い本をひっぱりだして読み始めてみたりしている。それで「竜馬がゆく」。最近オレのまわりでちょっとした新選組ブームが沸き起こって、その流れで「燃えよ剣」を読み返して、幕末つながりということでたどりついた「竜馬がゆく」。読み返すのはこれが2回目、ということは全部で3回読むことになるわけだけれども、細かいところとか忘れたりすっぽり抜け落ちていたり、一文字一文字を深く追っていくことで新しい解釈に気づいたりして3回目でも結構楽しめている。最初に読んだときはあそこに書かれていることが全て事実だと信じていたものが、他の視点からみた小説とか記事とか資料とかから情報を仕入れたり、その果てに何度も読んだりすることで「ここはウソだろ」といった判断ができるようになってきていたりもする。歴史をテーマにしていても小説なわけだからもちろんウソでも全く読み手としてはかまわなくて、どの解釈をとるのもひとそれぞれだからこだわりを持つのも持たないのも自由。ただ、これは事実だろうとして推測できるのは、今こんにちに生きる我々の中に描かれている坂本竜馬というヒーロー像は、この小説のチカラによるところが少なくないと思える「竜馬がゆく」。竜馬がゆくを読む。「筆者は少し余談を書く。」とか「話を先にすすめる。」とかいって随筆と物語をいったりきたりするのもこの本の有名な特徴の一つでありおもしろいところなのだけれども、読み手としても、本の字面を目で追って頭の中にリアルな映像を展開することと並行して、幕末の人として描かれている日本人というか人物というかそういう古い人たちの精神世界が、例えば今現代にいる我々に当てはめてみて想像してみて、記録上の記号でしかなかった人ひとりひとりに、あくまでも想像で人格をひとつひとつ当てはめてゆくような作業も同時にしてみたりしている。具体的には、「池田屋事件」でもいいけれども、時代劇で敵と味方に分かれてちゃんばらのような闘争を繰り広げているだけのサムライの姿をひとつの「記号」とする。一方現代では、テロリストのアジトに機動隊が突入するシーンに象徴されるようなニュース映像もこれまた「記号」である。記号を集める。ターミナル駅に行き交う人の群れ。人の群れはあくまでも人の群れでしかなく、そこには自我は一切存在しない。存在しないように見えているだけで、個別に見れば、群れを形成する要素の一人一人に対して、個別の人格が個別に存在する、ともいえるかもしれないけれどもそれは幻想であって、「人の群れ」という「記号」を擬人化したにすぎない。木に生命が宿っていると信じることは勝手だし、実際生命のようなものが木にはあるのかもしれないけれども、木に生命はない。「木」自体に生命という概念がないからだ。木には言葉がないのだから概念が生まれるはずがない。木は生きているということを自覚していないといったほうがわかりいいかもしれない。自然を大切にしようというが、自然は大切にされたがっていないし、神を信じるのは勝手だが、神は信じてもらいたがっているかどうか疑わしい。疑わしいものが神であるはずがないという屁理屈を述べるまでもなく、信じるものの心の中にだけ神はいるのだアーメン。森羅万象あまねく全てを擬人化し、自分の気持ちと同じ気持ちを人でもモノでも何でも押し付けては、森が泣いている、猫がかわいそう、神は我を見捨てたもうたか。我々にんげんは自分以外の何者かに代弁させて同意をとりつけるべく画策し、あくまでも自分が正当であろうとする姑息で狡猾な生き物なのだ。こうして自らを貶めてオレが誰かに何を期待しているかということ一つをとってもその証明となりうるであろう。森は泣かないし、猫はまあかわいいが、神はいてもいなくてもどちらでもいい。己が身のみかわいい。自分の都合がよければそれでいい。それでいいのだ。話がそれた。無理やりこじつけると、ターミナルに行きかう「人の群れ」の個々に人格を設定してみること。それが、サムライに仮の人格をあてはめること、に似ている。「サムライが人を斬る姿」は我々にとって時代劇等で馴染み深く、映像としては不自然なところは一つも無いように思える。しかし「斬られ役」に人格があると想像すると時代劇は限りなく不自然極まりなくなってくる。家族は泣いているであろう。志半ばで斃れさぞ無念であろう。斬られ役がかわいそうで仕方がないのである。
2006.11.14
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