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サッカーのワールドカップが終わった。終わったことをとりたてて騒ぐには、あのイベントはあまりにも浮世離れしすぎていた感があって、自分のものとして喜んだり哀しんだり騒々しくしたりすることがなんとなく白々しい気もしていたから、それほどの感慨はない。会社ではローカルルールによるtotoが行われ周囲の熱狂はだいぶ伝わってきたし、自分自身もだいぶ熱い気持ちでサッカー中継を観たりした。双方が真剣に戦っている姿を観るのはサッカーに限らず楽しい。野球やK-1やオリンピックでも同じように楽しい。とすれば、大相撲はどうだろう。横綱・朝青龍の活躍がめざましい。しかしそれ以外の力士のことはほとんど知らない。千代大海は、千代の富士の弟子として活躍し大関まで駆け上がった。少し前には高見盛が注目された。去年はブルガリア出身の琴欧州が大活躍した。あとは誰がいる。横綱は圧倒的な強さを誇り、大関はぎらぎらと勝ちに執着していて、平幕も虎視眈々と上位の座を狙っている。私が子どもだったころの大人は、そんな力関係の構造に熱狂していた。平幕が横綱を破ると国技館で座布団が舞ったし、茶の間でテレビを見ていた大人も大声を上げて喜んだ。子どもだった私が調子に乗って座布団を投げても、そのときばかりは許されていたような気がする。許されていたわけではないかもしれないけれども、女衆は苦々しく思っていても、男どもの熱狂に水をさすまいと無視を決め込み、それをいいことに子どもは大騒ぎし放題だったというだけのことだったろう。とりわけ日曜の夕方に大相撲中継を観ていた大人たちは、立合いのやたらに冗長なの時間に耐え、ともすれば2秒で決まってしまう取組みに集中し、勝ち負けに興奮していた。大人たちのそんな姿を見て育った私は、やがて大人になった今でも、今だからこそなのかもしれないが、なぜあのときの大人たちがそんなに熱狂していたのかよくわからなかった。少し前に突然古いテレビが壊れて、新しい薄型テレビを買ったということがあった。テレビがやってきた当初は特に、ハイビジョン映像の映し出し方が優秀だった。隅々まで鮮明で、奥のほうまでくっきりとピントが合っていた。客席に映る観客の表情一つ一つが伝わってくるほどだった。ハイビジョン映像の番組だけを意味もなく見て喜んでいた。その対象となった映像ソフトの中の一つが大相撲だった。そうして、大相撲を真剣に観戦する機会が私に与えられた。ともに1敗同士で並んだ横綱朝青龍と、同じモンゴル出身でのぼり調子の白鵬。白鵬が先の取組みで1敗を喫し、万事休すかと思われたところで結びの一番。朝青龍は大相撲の末大関栃東に敗れた。2敗同士の優勝決定戦で白鵬に勝ち賜杯を手にしたものの、横綱の牙城がゆらいだように見えたことも否定できない場所だった。横綱や大関には勝たなければならない宿命が与えられて、平幕には上を狙うチャンスが与えられる。観客は横綱相撲に感嘆し、平幕の快進撃に熱狂する。ひいきの力士が勝った負けたよりも、ほぼ日本中が同じことで盛り上がる一体感とか、身近な周囲と感情を共有する連帯感が、そのとき私にも与えられたような気がした。それは結構、悪くない感覚だった。それは私が子どもだったころの大人の気持ちが、少し理解できた瞬間だったかもしれなかった。日本の国技とはいえ、日本人の横綱がいなくなって久しい。番付表を見ると幕内力士の半数は外国人だった。ふーん。会社では大相撲totoが始まった。というより私が胴元になり始めてみた。ポルトガル人になったばっかりだというのに、今回強くベットしているのは、やれやれ、いずれも日本人力士だけである。
2006.07.18
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恋をしてるかどうかについて考えることになったのは、「今恋してる?」とある女性に尋ねられたからだった。私とその女性とは酒を飲んでいたから、2人きりではなかったが、気持ちの持ちようによっては2人きりで話しているような状況を意識的に作り出すことが可能だった。たぶんそのときは、周囲からの干渉や接触を無意識的に絶ち、2人が対話できる空間が作りあげられていた。「今恋してる?」という質問にはいささか慎重になる必要があった。たとえば「してない」と答えた場合、相手の女性が万が一私に恋心を抱いていたとすると、両想いではない事実をつきつきけてその淡い気持ちを打ち砕いてしまうことになる。「してるかもしれない」といって態度を保留するのが一番選びやすかったが、できればうそやごまかしやはったりを言いたくない相手だったからそれもためらわれた。欺瞞や虚勢はいつか確実にばれてしまう。そうなったときに彼女はわたしを嘲るでも蔑むでもなくただ哀しむだろう。直感的にそう思うと私の気持ちも重くなってくる。だから嘘はそのときつきたくなかった。「今恋してる?」という問いに、自信たっぷりに「うんしてる」と答えるためには、かなり前まで記憶をさかのぼらなければならなかったし、いくつか思い浮かんだ「恋」と呼べるかもしれない事例を並べて、そこからチョイスしなければならなかった。それほど私の「恋」に関する記憶は新鮮さを失っていたし、そこにかかっていたはずの匂いや体温ややわらかさ、のような感触までは記録されていなかった。私の記憶の中の「恋」はあくまでも事象としての映像的な記録に過ぎず、それこそ甘いとかすっぱいとか熱いと切ないとか、「恋」を表す代表的な感覚については一切の記述はなかった。もし仮に、そういった感覚を鮮明に覚えていて、ありありとみずみずしく思い起こすことができたとすれば、私はその記憶の中の女の子に、今すぐにでも電話をかけてしまいたくなることだろう。できることなら会って食事して、時間が許す限り話をして、やがてたまらなく抱きたくなってしまうだろう。「恋」が、衝動をつき動かし、血の流れに影響し、皮膚や内臓や脳に作用して、意味がわからずのたうちまわりたくなったり、体内のたとえば内臓のようなもの触手を翻し、内側から皮膚を突き破ってくるような幻覚をもたらし、時には決定的な痛みや本質的な苦しみをともなうような、そんな現象であることはなんとなくわかっている。局所的には痛みや苦しさがあったとしても、全体的には非常に気持ちのいいことだということも知っている。しかし私の記憶には、甘いも辛いも、痛いのとかやわらかいのとか、そういうことは残っていなかった。「今恋してる?」どう考えても今まさに恋をしているとはいえなかったが、どういうわけか「していない」とは答えたくなかった。彼女の圧倒的な視線は、私が恋をしているということを期待しているように感じたし、恋に関する話を聞きたがっているようでも、話したがっているようでもあった。恋をしていない、ということでなんとなく彼女が失望してしまう予感がした。でも恋をしているとも言えなかった。「今恋してる?」といわれてから、そういうことを考えた時間は2秒か3秒か。「キミの瞳には恋してる」それは誠実そうではなく、かといってウソでもなく、テーマに沿っているようで逸れているようでもあって、どうとでもとれるような言い方だったと思う。態度を保留することしかできなかったのだ。「恋」にもっともふさわしくない選択だった。
2006.07.10
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ポルトガルはもとよりテポドンですらもう過去の話題として忘れ去られている感じがする。確かにポルトガルの敗戦を悔やんでいたのは日本国中どこを探しても私一人だったろうし、北朝鮮から発射されたミサイルにたいしての怒りやら不安やらを解消する手立てを日本人一人一人は持っていないから、だいたいのニュースは他人事として処理される。情報は与えられるものではなく獲得するものだ。とかの映画監督サムペキンパーはいったかどうかはわからない。でも私がそんな真理を思いつくわけがないから誰かのありがたい言葉なのだろう。確かに、与えられてるだけの情報には何一つ価値がない。新聞や雑誌やテレビやラジオやネットなどでたれながされているのはまぎれもなく「情報」であるかもしれないけれども、それらには何一つ価値がないということだ。ということを今日あたり散々歩き回ってみてわかった。というよりうすうす感づいていたのだろうけれども、それを自分の中で認める決断をしたというのが今日だったということだったのかもしれない。夜ではなく昼に釣りたいし、醜い餌ではなく美しいルアーで釣りたいし、釣れないようなところでガンガン釣りたい。でもそんなのは無理なんだということがわかったということだ。武士道とは死ぬことと見つけたり。とはたぶんサムライの中の誰かがいった。人をザクザク斬イメージとしての「サムライ」は、短命とかはかなさとかあるいは先鋭とか猛々しいとかを象徴したイメージかもしれないけれども、もう一方では、礼節や忠信や覚悟や潔さといった、哲学的な意味での日本人のあり方としての「サムライ」があって、「死ぬことと見つけたり」は、そのどちらからでも成り立つ、ほとんど真理に近いことをいいあててるような言葉であるに違いない。「死ぬことと見つける」。直訳すると「命を投げ出してもいいことがわかった」。ひねくれば「己を滅してもいいのかもしんない。。」。応用すると、夜だろうが餌だろうがなんだろうが、「釣るためには釣ることだけを考えよ」。もう少し経ってから考える。
2006.07.07
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北朝鮮から日本海にミサイルが発射された。海に落下しただけだったが、中には長距離弾道ミサイルテポドン2号も含まれていて、日本の国土に着弾する可能性はゼロとはいえなかったし、その弾頭に核が搭載されていたかもしれない危機もあったわけだ。それなのに日本の対応はといえば、国連に助けを求めて経済制裁を発動させるぐらいの弱気なもので、目前にナイフを突きつけられた子どもがお母ちゃんに助けを求め、もうあのことは遊んじゃいけません、と言われてその通りにしているようなものだ。海上自衛隊の「みょうこう」ではなく、米国海軍空母「キティーホーク」が出撃した。子どものケンカに親が出てきてけん制しようとしている。まだ子どもなのは日本は。テポドン2号を含むミサイル7発はいずれも日本海のロシア海域沿岸で落下した。これはここだけの話だが、落下したミサイルは、米軍のイージス艦によって補足・レーダー追尾され、キティーホークから出撃した攻撃機により迎撃されたに違いない。一切の報道がされないのは、安全保障条約の遂行を条件に、ミサイル迎撃の作戦シミュレーションの機会を獲得した米国の要求があったからだ。日本もアメリカも、北朝鮮とは本気で事を構える気はない。地理的にも中国と韓国に挟まれているし、政治的にもその両国から守られている北朝鮮だが、韓国とは同じ民族だし、中国とは固い友好関係を築いている。その三国に共通していることは「日本を憎んでいる」ということだ。やがて朝鮮が統一されたあかつきには、中国を後ろ盾にして日本に侵攻してくるに違いない。そんなのは嫌に決まっている。だから私は今日から、日本人をやめることにした。そして何人になるかというと、ポルトガル人である。(7).フィーゴ、(17).C.ロナウド、(20).デコを擁するポルトガルは、優勝候補の実力を備えながらも下馬評では「大穴」の印象を拭いきれずにいた。しかし強豪オランダを破り、本命ブラジルが戦線を離脱した今、ファンタジックな選手をもっとも多く配するポルトガルの布陣こそ磐石、といわざるを得ない状況が到来した。会社の中で行われているTOTOで私は、ポルトガルの優勝に強くベットしていた。イングランドをPKで破り、4強となったところでこの大穴狙いの標的がようやく像を結んできた。そして本日7月5日の明け午前4時、運命の準決勝ポルトガル対フランス、世紀の一線が行われる。今や愚者の象徴となった感のあるあの「サムライブルー」のユニフォームは、ちっとも魅力的じゃないし、強そうにも見えなかったから買おうという気もおこらなかったが、今日、ポルトガルのユニフォームを買ってきてしまった。臙脂に緑のラインが入ったホームカラーである。そして今まさにそれを着て、これを書いている。かなりポルトガル人に近づいている。これから少し仮眠をとって、4時の試合開始に備えるのでおやすみなさい。明日のニュースで万が一、ポルトガルが負けていたら「ざまあみろ」と思ってくれてかまわない。そのかわり勝ったら、「どうだみたか」と思うことにする。ポルトガルに栄光あれ。
2006.07.05
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何か新しいことを始めようとするときや始めてからしばらくは、体内にものすごくチカラが溜まってしまいあふれ出させるしかなくなるのだがそれをうまくいなすことができない。そのチカラを視覚的なものとして例えば溶岩とかに置き換えるとすると、火口から噴き出す溶岩が爆発の衝撃でもってある程度の方向性を獲得しつつ地表へと流れ出るに連れて、一方では岩や土や木々や自分自身を炭化させながら土台を固めていって、その上を流れる新しい溶岩のスピードを速めてゆくというような現象に似ているのかもしれない。ある局面では燃え尽きるためだけに生まれたチカラAが、次世代のチカラBのためのアクセルの役割を果たしているとして、役目を終えたBは次のCのための礎となり、やがて何代にもわたってそういったサイクルは繰り返される。ここで「チカラ」と呼んでる視覚的には溶岩みたいなものが、仮に「欲求」だとすると、それを食い止めようとするもう一方の勢力が「理性」ということになるのだけれども、対抗するにはそれはあまりにも弱い。火山のフモトに住む人間は噴き出す溶岩を根本から止めたいとは思っているがそれは無理なので、溶岩が迫ってきたら逃げ出すか、土嚢を積んで溶岩の道筋を変えてやって財産を守ろうとするぐらいしか手がないわけだけれども、全体的な被害の総量としては、結果あまりかわらない。人間が火山に勝てないのとほぼ同じ確率で、理性も欲求にほとんど勝てない。欲求が肉体を混乱に陥れた挙句、火が消えるのと同じ速度で自然に消滅した後に、あのときちゃんと理性を働かせて行動したかどうかという点だけが、人としての尊厳や存在理由を裏付けるための橋頭堡になり得るのだ。当初の予定とはものすごく話が逸れているかもしれないけれども、橋頭堡という言葉を始めて使った。始めての言葉を使うときにも結構なチカラは必要で、うまくコントロールできないことが多い。コントロールできないチカラを理性はどういなしていくかというと、チカラ任せにしておくか、方向をある程度分散して1箇所にかかる負荷を軽減するかしかない。そして負荷を軽減させる手段の一つとして、こうして作文として発表して、誰かにストレスを肩代わりしてもらうことは非常に有効だ。株をはじめたときもミニカー収集のときも、かつては自転車をはじめたときや、今まさに釣りに取り組んでいるときも、決まってこうして作文にして発表し、情熱を分散しようとしている。かきっぱなしでいいという点ではこれはマスターベーションには違いない。でも同じような気持ちをいつか、抱いたこともあるようなないような。恋とか。
2006.07.03
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