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天武・持統天皇陵古墳から歩いて5分ほどのところにあるのが、鬼の俎(まないた)、鬼の雪隠(せっちん)と呼ばれる巨石遺構です。雪隠とはトイレのことです。昔この辺りに鬼が住み、通行人に霧を降らせ迷ったところをとらえて、爼の上で料理し、雪隠で用を足したという伝説があり、このように呼ばれています。まずはこちらが雪隠です。しっかりとした巨石構造物ですね。実際は7世紀後半・飛鳥時代に作られた古墳の石室の一部(石蓋)であるとみられています。明らかに破壊され、転がっているという感じです。その墓の底石ではないかとされているのが次の鬼の俎板です。雪隠から2、30メートル離れた高い台にあります。この二つの巨石遺構が同じ墳墓のものだとしたら、意図的に壊された可能性が強いように思われます。そのため、645年の乙巳(いっし)の変で中大兄皇子(後の天智天皇)らによって滅ぼされた蘇我蝦夷と入鹿の親子の墓の残骸ではないかとの説もあるようです。(続く)
2025.04.30
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牽牛子塚古墳を後にして道の駅飛鳥に向かう途中、上から聞き覚えのあるきれいな鳴き声が聞こえてきました。声の主を探すと・・・電線の上におりました。クロツグミですね。本当にいい声をしています。さて、再び車を運転して、向かったのはこちらです。牽牛子塚古墳と同じ明日香村にある野口王墓古墳こと天武・持統天皇陵古墳です。実はこの古墳も八角墳であることがわかっています。天皇陵に比定されているため発掘はできません。このほかにわかっている八角墳は、桜井市にある段ノ塚古墳こと舒明天皇陵古墳と、京都市山科の御廟野古墳こと天智天皇陵古墳、同じ明日香村にあり文武天皇陵古墳とみられる中尾山古墳の三つです。つまり、第34代舒明天皇、第35代皇極天皇(第37代斉明天皇)、第38代天智天皇、第40代天武天皇、第41代持統天皇、第42代文武天皇と、天皇陵はこの時代(7世紀半ばから8世紀初め)、一部の例外を除き八角墳(八角形の巨石ピラミッド)が主流であったことがわかるわけです。天武・持統天皇陵古墳に車を停めたまま、少し明日香の田舎道を歩くことにしました。のどかな風景が続きます。10分ほど歩いて、次の目的地に到着しました。(続く)
2025.04.29
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丘の中腹に模型が設置されているので、それを使って説明しましょう。牽牛子塚古墳は、対辺までの長さが約22メートルある、7世紀の後半、「越智岡(おちのおか)」に建造された八角墓です。開口部は南にあり、石室内には二つの墓室が設けられています。その手前(南東側)にも同古墳に接するように墳墓が見つかっており、越塚御門古墳と呼ばれています。こうした八角墳は機内では五基確認されており、そのうち3基は飛鳥時代の天皇陵であることや地名を記した『日本書紀』の記述から、牽牛子塚古墳は斉明天皇と間人皇女が合葬された「小市岡上陵(おちのおかのえのみささぎ)」ではないかと考えられています。そうだとすると、手前の越塚御門古墳は、大田皇女の墓ということになるようです。発掘調査前は、土を被った円墳のように見えましたが・・・発掘したところ、八角形であるだけでなく、二上山の凝灰岩切石を使った化粧石で表面が飾られていたことがわかったんですね。下の写真でタイル状の石が墳丘の斜面にくっついていますが、これがピラミッドなどにも見られるいわゆる化粧石です。それをもとに復元したのが、昨日ご紹介した八角形の石の古墳だったわけです。まさに丘を加工した巨石ピラミッドという感じです。古墳のイメージが覆されますね。(続く)
2025.04.28
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箸墓古墳の次に向かったのは、道の駅「飛鳥」です。ここの駐車場に車を停めて、道の駅でお土産物を探しつつ、そこから歩いて15分くらいの場所にある牽牛子塚(けんごしづか)古墳を目指しました。この古墳には駐車場が完備されていないので、車は道の駅などの駐車場に停めるしかありません。近鉄吉野線を越えて山の方へ歩きます。踏切を越えて振り返った景色。さらに住宅街を通り越して、開けた場所に来ると、見えてきました牽牛子塚古墳が・・・丘の上に見える白っぽい建造物が牽牛子塚古墳です。階段を上って振り返ったところ。古墳に到着。何と八角形の古墳なんですね。さらに上に登って、上にある展望台から見た牽牛子塚古墳。ここから高松塚古墳や中尾山古墳、それに文武天皇陵や天武・持統天皇陵が見渡すことができると書かれていました。次回はこの古墳について説明しましょう。(続く)P.S. 昨日のブログで何の説明もせずに開化天皇(ヒヒ)と書きましたが、なぜ「ヒヒ」かというと、それが開化天皇の本名だからです。詳しくはこう書きます。日本書紀→稚日本根子彦大日日天皇(わかやまとねこひこおおひひのすめらみこと)。古事記→若倭根子日子大毘毘命(わかやまとねこひこおおびびのみこと)。「大」は「偉大」という意味ですから、「偉大なるヒヒ」、あるいは「偉大なるビビ」というわけですね。開化天皇(ヒヒ)、倭迹迹姫命(トト)とも孝元天皇の子供で、「偉大なるタタ(大田田)」とみられる異母兄弟の彦太忍信命と合わせてヒヒ、トト、タタの、団子3兄弟ならぬ「孝元3兄弟」となります。「魏志倭人伝」で彦太忍信命の実弟(異父弟)である崇神天皇が「卑弥呼の男弟」で、崇神天皇の娘である「トヨ」こと「豊鍬入姫」が「卑弥呼の宗女」とされたのは、開化天皇が父孝元天皇の妾(イカシコメ)を皇后として迎えたことにより発生した複雑な血縁関係があるわけです。詳しくは拙著『卑弥呼は二人いた』のP185の系図をご覧ください。
2025.04.27
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大神神社のそばで三輪そうめんを食べた後、卑弥呼の墓とされる箸墓古墳を見に行きました。こちらがその古墳の全容です。「卑弥呼の庭 古墳」と書かれていますね。ところが・・・案内板を読むと、「孝霊天皇皇女・倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)大市墓」としか書かれていませんね。実は『日本書紀』に、その不思議ないわれが次のように書かれています。百襲姫は大物主神の妻となったが、大物主神は夜にしかやって来ず昼に姿は見せなかった。百襲姫が姿を見たいと願うと、翌朝大物主神は櫛笥の中に小蛇の姿で現れた。それを見た百襲姫が驚き叫んだため大物主神は恥じて御諸山(三輪山)に登ってしまった。姫はこれを後悔して腰を落とした際、箸が陰部を突いたため死んでしまい、大市に葬られた。時の人はこの墓を「箸墓」と呼び、昼は人が墓を作り、夜は神が作ったと伝え、また墓には大坂山(現・奈良県香芝市西部の丘陵)の石が築造のため運ばれた。大物主神の妻(おそらく巫女のこと)になったというのに、ひどい書かれようですね。それには理由があります。幻の『帝王日嗣(帝紀)』によると、百襲姫は第百代日巫女を襲名したというのですが、どうやら血筋に問題があったらしいんですね。推測するに、スサノオと神大市姫の間に生まれた大物主神(大年・ニギハヤヒノミコト)がナガスネヒコの妹ミカシキヤヒメと政略結婚して生まれた血統ではなかったことが背景にあるようです。つまり三輪山に象徴される3部族合意に必ずしも叶った襲名・人事ではなかったことになります。そこで崇神天皇は一種の宗教改革を断行し、三輪山の神を祭る祭司として「タタ」こと大田田根子(おおたたねこ)を抜擢するわけです。これが裏(影)の祭祀王。そして表の祭祀王には伊勢神宮初代祭司として「トト」こと倭迹迹姫(孝元天皇皇女)を就任させて、裏と表に分けたのではないかと私はみるわけです。ヤマトトトヒモモソヒメとヤマトトトヒメ――。この二人が『魏志倭人伝』に描かれた「卑弥呼」の正体です。後者のトトは、孝元天皇とウツシコメとの間に生まれた皇女ですから、当然ミカシキヤヒメ系です。では、裏の祭祀王は実際にだれかというと、祭祀王とも呼べる武内宿禰のご先祖である彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)の可能性が高いと思われます。孝元天皇とイカシコメとの間に生まれたのでこちらも同様にミカシキヤヒメ系です。名前からしてそうでしょう。「太」は「タ」と読みますし、信(まこと)を忍ばせる、すなわち真実をじっとこらえて隠していることに他ならないからです。あくまでも第73世武内宿禰こと竹内睦隊氏が口伝継承したとする『帝紀』を参考にした私見ですけどね。孝元天皇はあえてミカシキヤヒメ系の二人の妃(ウツシコメとイカシコメ)と結婚することで、開化天皇(ヒヒ)、倭迹迹姫(トト)、彦太忍信(タタ)という子を儲け、崇神天皇の時代に、結果的に三人が祭祀王や統治王に就くことによって三部族和合の原点(三輪山)に立ち返る道筋を作ったとみることができるわけです。箸墓古墳から見た三輪山です。言い忘れそうになりましたが、わざわざ西の山から石を運ばせたというからには、箸墓古墳も今回のテーマである巨石遺構・巨石建造物であるわけです。(続く)
2025.04.26
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18日は奈良に入ります。四日市から奈良市内までは1時間ほどで着きます。途中、奈良県都祁(つげ)地区の道の駅で休憩。「針テラス(T・R・S)」という大きな道の駅で、観光バスが何台も止まっておりました。「針」とはかなり変わった地名です。開墾地のことを「はり」と呼び、針はその当て字であるという説や、その昔、坂上田村麻呂の一族がこの地を訪れた時、弓の腕がたつ者がおるかと、一族の者が問うたところ、一人の達人があらわれみごと針の穴に矢を通してみせたので、”針”という名を、この地に与えたという説があるようです。ここで奈良の地元のものを買ったり、給油したりしました。そして程なく着いたのがこちら。三輪山ですね。三輪山の麓にある大神(おおみわ)神社。御祭神の大物主神は、スサノオの四男である大年神のことであることが『古事記』を読むとわかります。大物主神が少彦名を失って途方に暮れていた大国主を救ったという話のすぐ後に、大年の神裔が出てくるからですね。『古事記』では活躍した神(人物)の逸話のすぐ後にその子孫について書かれた「神裔」(神の子孫)が挿入されます。そしてこの大年こそ、饒速日尊(ニギハヤヒノミコト)であると、失われた『帝王日嗣(帝紀)』に記されていると口伝継承者の竹内睦隊氏が語っておりました。この大神神社のすぐそばで、三輪ソーメンをいただきます。大神神社の大鳥居と三輪山。三輪という三つの和は、三部族(ナガスネヒコ、大年、大国主)の和睦の象徴となったと解釈できるわけです。(続く)
2025.04.25
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ちょうど一週間、奈良と熊野を回って主に巨石・奇岩を取材して、昨日帰ってまいりました。出発は4月17日のお昼ごろ。のんびり運転して、この日の宿泊先は三重県四日市に決めてありました。目指す奈良の飛鳥までは東京からだと車で6時間くらいかかりますからね。4時間くらいの四日市で一泊して奈良に入ることにしたわけです。昔は四日市ぜんそくなど公害で知られる都市でしたが、今は産業都市としてイメージを変えつつあるようです。四日市を訪れるのは初めてです。これが近鉄四日市駅のあたり。結構大きな駅ビルがあって、丸善があるなど、面白かったです。四日市の夕日。夜景。駅ビルのそばで夕食を済ませました。生ビールのおいしいお店でした。そして翌朝の太陽。今回は時間がなかったので、四日市見学はほとんどしませんでしたが、知的好奇心を満たしてくれそうな場所でした。「ブラタモリ」でもやっていましたが、伊勢路と京都・大坂への道の分岐点でもありますね。午後から出ても、夕方には着くーーこのぐらいだったら比較的楽に運転できるので、旅の中継点としてまた訪れることがあるかもしれないなと思いました。(続く)
2025.04.24
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今年の「桜と夕日と富士山」の最終回です。夕陽は、もうずいぶん北西のほうに沈むようになりました。富士山の斜面を転がっていくようでもありますね。日没。しばらくお休みです。
2025.04.17
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今日は富士山がきれいです。春というよりも初夏という感じになってきました。そこで近くで見つけた草花の「今」をご紹介しましょう。先日ご紹介した路傍のオオムラサキツツジもどんどん花を咲かせています。次は、オオシマザクラ系だと思いますが、山桜もまだ咲いているものもあります。そしてこちらは・・・ブルーベリーです。もう実が付き始めていますね。こちらはイベリス。我が家の庭に咲いています。そしてカリン。ずいぶん花がついています。昨年は二個実がなりましたが、今年はもっと実がなるかもしれません。カリン酒にする人もいますね。最後はナニワイバラ。通常4月下旬ごろ咲きますが、もう何輪か花が咲き始めておりました。春はエネルギーが満ちていますね。
2025.04.16
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夕日と富士山。・・・といっても、富士山は心眼で見ないとわかりません。太陽の左下に富士山が見える人はすごい眼力を持った人です。その2分後、もうちょっと日が傾くと、富士山の輪郭が現れます。さらにその5分後。ここまで日が傾くと、富士山が影絵のように見えてきますね。手前は桜です。ほとんど葉桜ですが、まだ部分的には咲いております。桜と夕日と富士山。夕陽が霞のために土星のような環がついているように見えます。やがて富士山の斜面に夕日がかかると・・・葉桜と夕日と富士山のスリーショットがはっきりと撮影できるわけです。
2025.04.15
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山々を白髪のように白く染めていた桜もまばらになってきましたが、桜に代わって台頭してくるのがこちらです。ツツジですね。オオムラサツツジ。大きな紅紫色の花を咲かせるのが特徴です。4月12日に撮影しました。
2025.04.14
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コーヒーカップとティーカップ。50年以上前に使っていたものです。いったいどこに行くことになるのでしょうか。
2025.04.13
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一昨日や昨日は、ダイヤモンド富士になるはずだったのですが、あいにくの小雨や曇り空。富士山はおろか、太陽さえどこにあるのかわかりません。空にはむなしく、飛行機雲の十字が現れておりました。それでも山の桜だけは元気に花を咲かせておりました。
2025.04.12
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昨日はまたまた東京でお花見。かなり散っていましたが、それでもまだ満開直後の桜もちらほら。桜吹雪を眺めながら、皆さん春の宴に興じているようでした。結構、たくさんの人でにぎわっておりました。しかしながら、もう宴も終わりに近づいたようで。椿の花も散っておりました。散った桜の後は、ちょっと寂しげ。春の宴も終わりに近づいてきたようですね。
2025.04.11
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桜と夕日と富士山です。どこに富士山があるかわからないかもしれませんが、中央下の桜の上にかすかに写っています。この時期は春霞やら花粉やらで富士山の姿を見つけるのに苦労します。太陽がさらに傾くと、その姿がはっきりとしてきます。向かって左側の斜面が浮き出てきましたね。やがて、富士山に夕日がタッチダウン。山頂のすぐそばに沈んでいきます。そして最後は富士山に日没。この日もきれいな富士山のシルエットと夕焼けでした。
2025.04.10
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このような写真も撮りました。桜と夕日と富士山。昨日の写真に比べて、三つが接近していますね。
2025.04.09
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山の桜も満開ですね。町中の桜並木はそろそろ散り始めております。今日はその中で、富士山と桜を夕日をご紹介しましょう。最近春霞で富士山が見えないことが多いですが、この日はよく見えておりました。晴れれば、もうすぐダイヤモンド富士となります。
2025.04.08
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桜以外の春の植物の様子をご紹介しましょう。まずは欅。もうこんなに茂っています。こちらは西洋シャクナゲ。季節はこれからですが、もう満開に近く咲いているものもありました。鉢植えですが、菫。きれいに飾り付けていますね。最後はユリ科のサクサティリス。原種系のチューリップです。百花繚乱の季節になりました。
2025.04.07
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4月4日に撮影した桜です。ソメイヨシノが満開でした。こちらはソメイヨシノの森。遠くから見ると、見事な枝ぶりがよくわかります。ソメイヨシノではありませんが、こちらの桜も素敵です。ちょっと濃いピンクが混ざっていますね。ソメイヨシノの白くて淡い感じが好きです。
2025.04.06
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昨日は、混んでいるのを覚悟して東京へ何度目かのお花見に。どこもかしこも満開でした。で、ふと桜の上を見上げると・・・上弦の一日前の月が空に浮かんでいることに気が付きます。上の写真ではまずわからないでしょうから、そこだけ拡大。もっとわかりやすいように桜の枝先に月を写し込んでみました。これだったら、わかりますよね。念のために拡大してみましょう。素晴らしい月見と花見の宴でした。
2025.04.05
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なかなかスキっと晴れませんが、今日は少しだけ晴れ間がのぞきましたね。イメージ的にはこのような感じでしょうか。植物にとっては恵みの雨ですが、もうちょっと晴れてくれるとありがたいです。山の桜がきれいに咲いています。いずれも3月28日に撮影しました。本日ようやく私のところにも新著『気の正体』(きずな出版刊)が届きました。表紙の赤い色が鮮やかです。改訂版(鼎談シリーズの4冊)を含めると、39冊目の本となります。
2025.04.02
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昨日は小雨がちらつく天気でしたが、今シーズン何度目かのお花見に。お気に入りの桜並木。別の場所の桜。寒々としていましたが、桜は元気に花を咲かせておりました。これから咲く桜もあり、しばらくは桜の花を見て過ごすことができそうです。
2025.04.01
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