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神武天皇は後漢の光武帝から57年に「漢委奴国王印(かんのわのなのこくおういん)」をもらった「倭奴国王(わのなのこくおう)」の可能性があります。
「な」は「ぬ」とも「の」とも読みますから、神武の別名である狭野命(さののみこと)の「の」ではないかと竹内氏は言います。
そうかもしれませんね。
でも本当に偉かったのは、イスケヨリヒメのほうであったと竹内氏は言います。
どういうことかというと、当時は統治王と祭祀王がおり、祭祀王のほうが上席にあったからだそうです。
つまり神武天皇が統治王で、イスケヨリヒメが祭祀王だったわけですね。
タギシミミの乱の後、統治王になったのは、綏靖天皇。祭祀王は神八井耳(カムヤイミミ)です。天下を安んじて治めることができたので、奈良時代の漢学者で、『帝皇日嗣』を知る淡海三船が「綏靖」という諡(おくりな)を付けたそうです。
次の安寧天皇は兄弟がおらず、兄弟間の揉め事もなく安らかに統治王になったので「安寧」になったとか。この時代に祭祀王を務めたのは、タギシミミの息子のキスミミです。
謀反を起こしたタギシミミの息子が祭祀王になれるわけですから、何か深い事情がありそうですね。
その辺の事情はわかりませんが、タギシミミも実は殺されておらず、逃げたか流刑になった口伝もあるようなことを竹内氏は話しておりました。
安寧の本名である師木津彦玉手看(しきつひこたまてみ)の「師」が、倭の国王「帥升(すいしょう)」と名付けられた理由ではないかと竹内氏はみているようです。
安寧の次の統治王は懿徳天皇。祭祀王は息石耳(オキソミミ)です。
耳という字がやたら目につきますが、ミミとは神の声を聞くことだそうです。
つまり、まさに「祭主」「祭祀王」ということになりますね。
そうなると、ミゾクイミミの別名を持つタケツノミも祭主だったのでしょうか。
(続く)
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