どうでしょ
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ちょっと日にちは経ちましたが、HTBという北海道のローカル放送局のディレクターさんが雪国と文化について日記を書いていました。こういう話の展開が独特で興味深いです。私はこうは考えないよなーと。(ここは独白。駄文なので読み飛ばしてください。:あまり脳を使っていないから・・・。思考力がない人間なのだなーと反省しきりです。何でしょうね、話の流れの方向がとても単純で、あまり広がりがないんだろう。それに、途中で考えるのを止めてしまって、最後まで考えないってところがあるんだな、そーゆーパターンなんだろうと思うわけです。そして、こんな事を書きながらも話も適当な所でお終いにしてしまうわけです。すいません)さて、ここからが嬉野さんの日記。★☆★☆★☆2006年2月2日木曜日。みなさん、こんにちは、嬉野です。そして、本日も健康です!とはいえ、どうも気分がふさぎがちだ。この雪がいけない。雪はもういい。とくに今朝は札幌地方、吹雪いておりまして、視界わずかに100メートル程度でした。だから、春よ来い。早く来い。お願い、雪よ融けてなくなっておくれ。なーんつってね。当然のことだけど、そう哀願したところで雪は融けないさ。そんなことは知っている。立派なものだ。自然とは立派なものだ。人間だったらこうはいかないだろう。「きみ、もういいから」「は?」「明日から来なくていいから」「いや、だってまだ2月になったばかりですから、あと2ヶ月は居させてください」「いいよ。だいいち、きみがいると寒いんだよ。道も凍るし、気持ちが暗くなるんだよ!」「でも、スキーとか、スノーボードって、楽しいじゃないですか。ソリだって子供は大好きですよ」「じゃ、山だけでいいよ。山だけで降ってろ。ここはいいから」「そんな…」人間だったら、だいたいこんなことを言われた時点でいやになる。世間が嫌になる。まぁ、こんな酷いことを言われたら悲しくなるから当然だ。言葉は他人を傷つけるもんね。あぁ、オレは嫌われてるんだ、邪魔者なんだ。そう思って、あっさり融けて流れてしまうんだと思う。ところが、自然は屈強だ。どれだけ罵倒しようと呪いの言葉をかけようと居座っている。「いいよおまえ!雪!こら!帰れよ!いらないんだよ!」「…」言葉くらいでは、びくともしない。だいいち聞く耳を持たない。だからと言って実力行使に出て、どんだけ除雪して排雪したところで、また降ってくる。そして前にもまして積もる。怒りに任せて火炎でも放射したら、その辺りだけは融けるだろうが、少々融けたところで、またすぐ降ってきて積もる。「それじゃぁ」ということで、巨費を投じて地べたという地べたをひっぺがして全部ヒーティングにしてしまう。こうなると、さしもの雪も融け果てて、降っても降っても積もる端から融け行くばかり。人間万歳!こうして、北海道は冬になっても雪が積もらなくなりました、目出度し目出度し。だが、それから30年後。「昔はさぁ。冬になると雪が積もってさぁ」「へぇ、そうなんですか」「そうなの」「あの頃は、あれでなかなか良かったよねぇ、雪景色も綺麗でさぁ」「そうそう、大通りのイルミネェーションが雪に映えてね」「そうそう、凍った道ですべって転んでさぁ」「公園の築山でソリに乗って楽しかったよねぇ」「春になるのが待ち遠しくてさぁ」「嬉しかったよねぇ雪が融けた春の開放感」「泣けてきたよねぇ爽やかな初夏の訪れにさぁ」「あぁ、昔は、良かったよねぇ」たぶんこんな会話が中年オヤジの口からでるようになるだろう。オレなんかは言いそうだ。30年前、おめぇはなんて言ってた!と怒られそうなことを平然と言う。のどもと過ぎれば熱さは忘れる。人間は勝手だ。そこまで考えたところで、ふと思ったんですが。だいたい雪国に雪が積もるというのはあたりまえのことでね。だから、雪国なのであって、その雪との毎年の格闘の歴史がその土地に雪国の文化を生むわけでね。それが雪国ならではの情緒も生むわけだから、それを科学の力で排除したところで、暮らしが便利になるだけで、肝心の雪国の情緒も文化もいつしか共に消え果てしまうわけだよね。「雪、無くなれ」なーんていうのは乱暴な意見だな。そう思いました。雪国でそんなこと言うのは、ぼくが九州生まれで、九州育ちだからだということだよね。九州は雪なんか積もらないから。ついつい、そこを基本に考えてしまう。よそ者が雪国に来てその国の文化をダメにしていく切っ掛けになることって、案外あるのかも知れないなぁと、ちょっと思いついたので反省しました。雪国の皆さん、すんません。幕末に江戸幕府が倒されて、その江戸の街に徳川家に代わって主人として入ってきたのが薩摩と長州。江戸は、そうしたよそ者の手によって東京という別の街に作りかえられたのかも知れないね。(別に鹿児島県と山口県の人を悪く言ってるわけじゃないですよ。念のためね)彼らは徳川300年の間に培われた情緒や文化を肌で知ることもなかったろうから、かえってなんの躊躇もなく便利さだけを追い求めて変えていけたのかも知れないものね。60年前にアメリカとの戦争に負けてね。日本は、アメリカ軍というよそ者の手によってそれまでの文化を失ったのかもしれない。(別にアメリカの人を悪く言ってるわけじゃないですよ)そういうこともあったかもなぁ、と、思ったわけさ。その土地の文化は、その土地で生まれて育った人たちにしか分からない。そんなことは、あると思いました。今日ね。お茶の間でね、テレビって箱から、ぼくや皆さんらの頭の中に入ってくる、いろんな「情報(番組をふくめたね)」ってのもね、ひょっとしたら「よそ者」になる可能性があるのかもしれないね。見る人たちに自分らが住む土地に目を向けさせないようにする可能性があるのであればね。すぐ隣に同じ人間がいるのに、その人との交流は考えないで、パソコンの向こうにいる顔も見えない人とばかり交信するのであれば、インターネットもよそ者としてぼくらの頭の中に入り込んで何かをダメにしていく可能性があるのかも知れないね。ひょっとしたら。みんな。もっと素朴に、自分の足元に目を向けたいと思い始めているってことはありませんか。そうして、もっと、ほっとしたいなぁって思うことってありませんか。でも、そのためにどうしたらいいのか、ぼくにもわからないから、やっぱり漠然としたもやもやを抱えたまま、今日もテレビやパソコンと向き合うんだろうか。すいませんね、出口の無い話をしてしまいましたようで。ごめんなさい。でもまぁ、私なんてなぁ、こういうもんです。思いついたことを書かせてもうばかりです。申しわけないです。ですので、今後とも宜しくお付き合いのほどを。ねぇ、奥さん!長い付き合いじゃないのよ。ということでね、情に訴えながら、本日はしめますよ!
2006年02月04日