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「優秀でありたい」ドライバー的なライフスタイルを使って生きている人は、おしなべて活動的です。だって、人よりも自分が優越することが人生目標になっているからです。そして、この競合的な信念が強すぎるときに、このタイプのライフスタイルを使っている人は生きていくのが苦しくなっていくのです。なぜならばすべての人に優越することは不可能だからです。ドライバー的ライフスタイルを使っている人はたくさんいるのですが、守備範囲が違うことで様々な亜種が存在します。たとえば勝負にこだわる人がいます。スポーツ選手や選挙に勝つことを目指す政治家やギャンブルに長けている人などです。あらゆることを勝負ととらえて、「勝とう!」とします。元貴乃花が土俵を降りても、自分のお兄さんにまで勝とうとしていた姿に「あ、ドライバー的な信念にこだわっているな。」と感じたものです。「自分が善人であること」にこだわる人もいます。「聖人」になりたいのです。「正義」にこだわる人もいます。警察官とか検事とか裁判官、マスコミの記者、評論家、市民運動家、NPO活動家の中には、極端に「正義」こだわる人がいるものです。正義の味方になりたいのです。「支配」にこだわる人もいます。何でも自分の思い通りに支配コントロールしていたいのです。自分が創業した会社をいつまでも支配しておきたがる創業者って、このタイプですよね。学問の正しさにこだわる人もいます。「アドラー心理学はこうでないと正しくない。」などと主張して、反対する人を潰していこうとしたりします。とにかく、こだわる範囲が違うことで様々なタイプの人がいるのです。ドライバー的ライフスタイルを使っている人の生き方の癖というか行動パターンは次のような傾向にあります。○いつでも活動的で、「俺がやってやるよ。」と能動的です。○活動できる場を失ってしまうと困ってしまう。「何にもすることがない」とか「無意味なことをしなくてはいけない」というのが一番苦手。○いつも一番になりたがる。人の上に立ち、周囲の人に勝っていないと気が済まない。中心人物になりたがる。○対人関係を競争の枠組みでとらえる。人に勝てないと感じると「せめて負けないでおこう」と汚い手を使ったり、それでも負けてしまうと負け惜しみを言ったりします。○他人に対して支配的なことが多く、相手が思い通りに動かないと攻撃的・高圧的な態度をとったります。○他人の意見を聞き入れるのをいやがり、自分のやり方を押し通す。他人にも自分のやり方をやってほしくて、強要しようとする。○人間関係を力関係だと捉えて、権力を握ろうとする。※次の行動パターンは、秘められた自己評価が実は低かったときに起こります。○心のどこかにぽっかりと空いた空虚感のようなものがあって(当然です。自己評価が低いのですから)、その不安を打ち消そうと野心家的行動を続ける。○良いところを見せることによって、みんなに「わー、すごいなあ。」と思ってもらってついてきてほしいと思っている。ライフスタイルの類型にはゲッター ベイビー ドライバー などがあります。ヒューマンギルド「アドラー心理学教科書」より………………………………………………………………………………………… ランキングを見た多くの方に来ていただいて、少しでもお役に立てたら幸せだなあと思ってます。……応援してくださるとうれしいです。(^O^) 無料メールマガジン「きっと幸せになれる!!方法」も購読していただいたらうれしいです。
2006年10月27日
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Sさん、せっかくお尋ねだったのにすいませんね。メールをいただいてからすぐに返事を出したのですよ。でも、Sさんのメールアドレスに返事を出すと返って来ちゃって、届かないのです。こんな内容の返事を出していました。S様PTSD(心的外傷後ストレス障害)についておたずねですね。相変わらず嫌な思い出そのものは四六時中思い出されているのですね。「嫌な記憶を知らず知らずのうちに思い出す」癖をやめることはできますよ。やめるコツがいくつかあるのです。大丈夫!きっと楽になりますよ。ひろなか(^O^)
2006年10月24日
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一見して社会に適応して生きていっている人の中にも、つらい思いをしている人がいます。そのような人は、ゲッターやベイビーとは別な傾向の信念を使うことで苦しんでいます。ゲッターもベイビーも低すぎる自己評価と不安定で低い世界観から苦しんでいるのですが、「自分はいかなる場合も誰よりも優秀でなくてはならない」のような無理のある信念(論理療法ではイラショナルビリーフ非論理的な信念と呼びます)を使っている人も、その信念の達成が無理なので苦痛を覚えます。まあ「誰よりも優秀であるべきだ」という人生目標に向かって駆り立てられ続けることで、社会適応はいいことが多いのですが。「優秀でなければならない」という傾向の信念が中心になっているライフスタイル(性格)をアドラー心理学では「ドライバー」と呼んでいます。ドライバーもライフスタイル(性格)の単なる類型なので注意してくださいね。「私はドライバーだ。」とか「あの人はドライバーだから、」などと言うレッテル貼りには使わないでください。私はゲッター的な傾向もベイビー的な傾向も持っていました。機能不全家庭に生まれ育ち、かなりひどい心理的虐待を受けましたから、自己評価も低いし、世間や他人に対する信頼感も不安定でしたから。責任を回避して、他人のせいにしたくなって、誰かを攻撃したくなって実際にしたこともあるし(ゲッター的ですよね)、自分のために誰かの哀れみを誘って操作しようとしたこと(ベイビー的ですよね)もあります。父親がかなりゲッター的でしたからね、自然にモデリングしていましたよ。しかし、何よりもこの「ドライバー」的傾向が一番強くて、いまだにたくさん残っているなあと思うのです。私は長子(兄弟の中で一番上)です。兄弟関係で長子の人はドライバーに近いライフスタイルになりやすいのです。え?なぜ長子がドライバーに成り易いっかって?それはまた今度。ドライバー的ライフスタイルを使っている人の行動パターンについて。ヒューマンギルド「アドラー心理学教科書」より………………………………………………………………………………………… ランキングを見た多くの方に来ていただいて、少しでもお役に立てたら幸せだなあと思ってます。……応援してくださるとうれしいです。(^O^) 無料メールマガジン「きっと幸せになれる!!方法」も購読していただいたらうれしいです。
2006年10月24日
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ベイビー的なライフスタイル(性格)を使って生きている人の生き方の特徴というか行動パターンは次のようなものです。(単なる類型に過ぎないので、これも、典型だと思ってくださいね。こんな人が実在しているわけではないのです。)○いつも他者の援助をあてにしている。○結局は何としても誰かに助けてもらいたいと思っている。○誰かの注目や関心や愛情や同情を得ようと行動します。無視されると、くだらないことを質問したり、援助をねだったり、それでもだめだとすねたりする。○魅力やかわいらしさを武器にする。子どもっぽい服装や言葉遣いをする。○自分は特別に恵まれた地位を与えられるべきだと思っている。○自分の弱さを強く見せつけて、誰かの保護を得ようとする。○自分は弱いからと思いこんで自分が立ち向かうべき人生の課題から逃げる。ライフスタイルの類型にはゲッター ベイビー ドライバー などがあります。ヒューマンギルド「アドラー心理学教科書」より………………………………………………………………………………………… ランキングを見た多くの方に来ていただいて、少しでもお役に立てたら幸せだなあと思ってます。……応援してくださるとうれしいです。(^O^) 無料メールマガジン「きっと幸せになれる!!方法」も購読していただいたらうれしいです。
2006年10月23日
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完全なライフスタイル(ライフスタイルというのは生きていくパターン=性格のことを表すアドラー心理学の用語です。)というものは存在しないのですが、大人になってもとても未熟で幼児的なライフスタイル(アドラー心理学ではベイビーと呼んでいます。)を使っている人が存在します。依存的な観念で一杯の人です。自分に対する自己評価は「無力」とか「弱い」とか「小さい」とか「何もできない」というかなり低いのです。この世や他者に対しても「この世の中は危険なところだ。」とか、「ひどいことをする人もいるけど、優しい人もいる。」とか、安定感を欠いた信念を持っています。そして、「だからいつも誰かに保護されていたい。守ってもらいたい。」という目標を持っているのです。これも誤解しないで頂きたいのですが、ベイビー的なライフスタイルを使っている人たち(その他の欠陥のあるライフスタイルを使っている人たちも)は、子どもの頃にそのライフスタイルを使うことを決定して、そのために苦しんでいるということです。苦しんでいる人をけなすために、これを書いているのではありません。むしろ逆です。ライフスタイルは自分やこの世や他者に対する「信念」群でできあがっていますが、その信念群にこのような特徴があると、それに伴って、特徴的な行動パターンが生まれる。と言うことを多くの人に知って欲しいのです。そして、破滅的な行動パターンも未熟な「信念」群も変えることができる。ライフスタイルつまり性格は変えることができるということを知って欲しいのです。さて元に戻ります。「ベイビー」的なライフスタイルが、先に述べた「ゲッター」的なライフスタイルと違うのは、他者への信頼感が多少あることです。他者への信頼感がほとんどないゲッターが「奪おう」とするのに対して、信頼感がある分「守ってもらおう」とするわけです。「ゲッター」と「ベイビー」の信念の差はごくわずかですが、行動パターンは劇的に違ってきます。次のような行動パターンです。○弱さやかわいらしさを見せることで、相手が「守ってあげたい」とか「保護してあげたい」と思うようにコントロールしようとする。○保護してもらえなかったときには、相手の哀れみを誘うような面を見せつけたり、助けない相手の罪悪感に訴えようとする。「他人は自分に奉仕して当然」と信じていて、助けようとしない相手を怒りを使って攻撃する「ゲッター」とはかなり違います。「ゲッター」と「ベイビー」の間には様々な亜種が存在します。ただし、人間のライフスタイルというものには一つとして同じものは存在しません。ですから、ここに書いている違いは単なる類型に過ぎなくて、「あの人はゲッターだ。」とか「私はベイビーだ」とかレッテル貼りに使うのは感心しません。それに、実際の人間の場合には、どんな問題のあるライフスタイルを使っていても、長所はあるので、その長所を根気強く勇気づけていけば、問題は克服されていくものです。仮に「ゲッター」的な人や「ベイビー」的な人がいたとしても、その人たちを徹底的に勇気づけて、自分を好きになって、世の中や他者を信頼して、自分の力で自立・自律して行動できるように援助できるのです。また、他者や世の中に貢献することで、自分の中にあるゲッター的な傾向やベイビー的な傾向を、より適切なライフスタイルに変えていく、つまり自己成長していけるのです。ベイビー的なライフスタイルを使っている人の詳しい生き方・行動パターンライフスタイルの類型には ゲッター や ベイビー の他にドライバー などがあります。ヒューマンギルド「アドラー心理学教科書」より………………………………………………………………………………………… ランキングを見た多くの方に来ていただいて、少しでもお役に立てたら幸せだなあと思ってます。……応援してくださるとうれしいです。(^O^) 無料メールマガジン「きっと幸せになれる!!方法」も購読していただいたらうれしいです。
2006年10月22日
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「他人は自分に奉仕して当然」と考えている人たちがいます。レッテル貼りはいけないのですが、そのような考え方の人たちがこの世に存在することは事実です。アドラー心理学では、そのような人たちのことをゲッターと呼んでいます。ギブ アンド テイクのギブをしないでテイクばかりゲットしようするのでこう呼びます。何度も言いますが、あくまでも類型に過ぎないので「あの人はゲッターだ。」という使い方はしないのですが……このような典型的な人は実は存在しないと言うことで読んでください。ゲッター的なライフスタイル(アドラー心理学の用語 ライフパターン=性格のこと)は「自分には目の前の課題を解決していくことが困難なので、他人はそれを助けたり奉仕したりするのは当然だ。この世は危ないところで人々も不公平だ。」というような基本的な信念でできあがっています。このような信念を持っているので、人生の中でいろんな人と交流したり、課題をクリアしていくときに、次のような行動上の特徴が出てきます。 自分の利害にはとても敏感だけども、他人の利害なんかどうでもいいと思っている。 いつも他人を当てにしていて、自分一人の力でやっていこうとは思っていない。 いつも、「このことはいったい自分の得になるのか?」というものの見方で見ている、考えている。 他人を評価するときに、「この人は自分のためにどれだけ得になることをしてくれるのか?」という観点から見ている。 友だちを作るのは作るのだけど、友だちを利用して自分に奉仕させることにのみ関心があり、友だちのために何かしようとはしないので長続きしない。 人が自分の期待に応えてくれないと「あんたは私を助けるべきなのに、何で助けてくれないの?」と怒って攻撃をする。 腹を立てたり、魅力を振りまいたり、恥ずかしがったり、脅したり、落ち込んで見せたり、と、他人を操作するために感情を使う。 必要以上に自分の弱点を隠して、「俺って天才!」とか「俺ってついてるから大丈夫!」とかいって、劣等コンプレックスを他人から隠して実物以上に大きく見せようとする。 このような人をアドラー心理学ではゲッター的な人と呼んでいます。ライフスタイルの類型にはゲッター ベイビー ドライバー などがあります。ヒューマンギルド「アドラー心理学教科書」より………………………………………………………………………………………… ランキングを見た多くの方に来ていただいて、少しでもお役に立てたら幸せだなあと思ってます。……応援してくださるとうれしいです。(^O^) 無料メールマガジン「きっと幸せになれる!!方法」も購読していただいたらうれしいです。
2006年10月16日
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今日は月にいちどの 勇気づけの会 例会です。みんな集まりましょう。勇気づけの会 初めてのアロマセラピーの学習をします。講師は甲斐利華さんです。みんなで香りの癒しと、脳の活性化を体験しましょう!私も楽しみです。あ、誰でも参加できますよ。
2006年10月12日
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人間には生きていく目標があるのですが、それぞれ優先しているものがあります。「人から好かれること」を優先している人もあれば、「優秀であること」を優先している人も「人をリードすること」を優先する人も「楽をすること」を優先する人もいるのです。どれがいいというわけではありません、自分が優先しているものを知ることでより人生が有意義になるでしょう。分析の仕方を学ぶことで周囲の人の最優先目標が分かります。今日の勇気づけの会の基礎コースでは みんなと最優先目標の分析について学びます。参加する方は勇気づけの会の事務局 大河原さんに連絡を取ってから来てくださいね。
2006年10月10日
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人は目標に向かって生きています。どんな人でも、例外なくです。これを目的論といいます。英語で言うと teleorogy 指向性とか言ったがいいかもしれません。人間は、自分自身で作った究極の目標に向かって行動していきます。究極の目標英語で言うとgoalですね。そして、その究極目標を達成するために、小さな目的purposeを作って、その目的に対する行動を計画して行うわけです。究極の目標は幸せになるために計画していますので、そういう幸せになるという意図自体は適切です。つまり、究極目標の裏っかわには適切さがあるわけです。ところが、幸せに至る途中で、不適切な目的に向かって行動しちゃうと当然行動自体も不適切になっちゃうわけです。過度の注目・関心を得ようとする「ほめられよう」「騒ぎ立て」作戦権力闘争のための「勝とう」「勝てないまでも絶対まけるもんか」作戦復讐のための「何が何でも傷つけてやろう」作戦などです。もちろん、目的は適切なのに、それにそった適切な行動を知らない場合もあります。例えば、ただ隣の女の子と仲良くなりたいという目的なのに、やり方を知らなくて、突っついて泣かしちゃう男の子なんかそうです。その人の究極目標がなんなのかと言うことを探るのがライフスタイル分析です。熟練したアドレリアンカウンセラー(私のような 笑 )が行うと その人の究極目標が手に取るように分かります。究極目標自体が不適切な場合(例えば、他人と競争して勝つことが幸せにつながると勘違いしてらっしゃったり、他人に依存することが幸せにつながると勘違いしてらっしゃる場合など)、たいてい苦しんでいらっしゃいますので、その方に改善していこうという意志があればお手伝いして変えていきます。 ………………………………………………………………………………………… ランキングを見た多くの方に来ていただいて、少しでもお役に立てたら幸せだなあと思ってます。……応援してくださるとうれしいです。(^O^) 無料メールマガジン「きっと幸せになれる!!方法」も購読していただいたらうれしいです。
2006年10月07日
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自分を責めてしまう思考は何の役に立たない思考です。だって、考えても見て下さい。自分のことを、「無責任だ!」とか「卑怯者だ!」とか「親不孝者だ!」とか、「いつも失敗してる。」とか責めてしまって、それがいったい何の役に立つというのでしょう?何の役にも立ちません。だから、私たちアドレリアンは、失敗したり、結果として他人に迷惑をかけても、いっさい反省をしません。反省して、自分を責めたりしません。もちろん、結果として迷惑をかけたり、誰かに嫌な思いをさせたら、謝罪はします。「ごめんなさい。嫌な思いをさせましたね。次からは気をつけますよ。」とそれに、「よし、次はこのように改善するぞ!」と対策を立てます。しかし、謝罪と自分を責めることはまったく何の関係もありません。対策を立てるのと、自分を責めることは何の関係もありません。苦しんでいる人やうつ状態の人は、この自分を責めてしまう「自動思考」から抜け出すのが苦手です。「自分を責める癖」がまったく何の役に立たないこと、百害あって一利なしであることも知りません。そして、自分で考え続けて、この自分を責めてしまう自動的な思考で、自分を痛めつけて、「次に改善しよう」という意欲さえも失っていくのです。「次は改善するぞ!」「次は失敗しないようにするぞ!」という意欲(私たちは勇気と呼んでいます。)は、責められても湧き上がらないものです。そうではないですか?誰かから失敗を責められて、力がわいてきますか?力、意欲、勇気は勇気づけられたとき、励まされたときにわいてくるものです。「たまたま、失敗したけど、あんなにまじめにがんばったじゃない。私はあなたのことすごいと思うよ。次、気をつければきっと今度はうまくいくよ。」と誰かが言ってくれたとしたら、あなたはよしがんばろうという気持ちになるのではないですか?自分から自分への内言も同じです。自分自身を勇気づけましょう。励ましましょう。「おまえ(自分自身に向かって)はちっとも悪くないよ。がんばったじゃないか。失敗したっていいじゃないか。人間なんか何度でも失敗するさ。次の機会次の機会で少しずつ高めていけばいいのさ。おまえならきっとできるよ。」それに対して、反省とは、自分自身をけなしてがんばる意欲を奪う行為です。反省したり、悪いレッテルを貼って、自分を責める行為はやめて、自分のこれまでのがんばりのプロセスやよい意図や存在そのものを誉めて、勇気づけて、自分の意欲を自分で引き出しましょう。アドラー心理学の一派である論理療法では、この自分を責める思考を「非論理的な思考」と呼んで矯正の対象にします。論理療法から生まれた認知行動療法でも、「歪んだ認知」として直していきます。クライエントを責めるカウンセラーがいるということを、たまに耳にします。私たちアドレリアンからすると信じられないことです。クライエントを責めるカウンセラーはカウンセラー失格です。………………………………………………………………………………………… ランキングを見た多くの方に来ていただいて、少しでもお役に立てたら幸せだなあと思ってます。……応援してくださるとうれしいです。(^O^) 無料メールマガジン「きっと幸せになれる!!方法」も購読していただいたらうれしいです。
2006年10月05日
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機能不全家庭でよく使われる作戦として、感情的な爆発をともなう一連の交流があります。やってしまった後で、双方とも「イヤーな後味」で終わる一連の交流です。 爆発的爆発を伴う交流…TA(交流分析)では「ゲーム」と言います。 人間関係における交流には、 1 引きこもり(交流をしないで、一人で考えたりボーとしている状態) 2 儀式(「おはよう。」「こんにちわ。」「良い天気ですね。」などの日常の挨拶など)、 3 暇つぶし(あまり目的もない世間話、遊びなど) 4 活動(何かの目的を持った活動) 5 ゲーム(どちらかの行動が引き金となっていさかいに発展して、感情爆発に至り、驚きや混乱の瞬間を経験し、最後には双方ともに「イヤーな後味」を深く感じて終了する「あっ、またやってしまった。」と思ってしまう同じパターンの行動形式) 6 親密さ(双方の本音と本物の感情をお互いに分かち合い、深い信頼関係を感じる思いやりと理性に裏付けられた交流) の六種類があります。(TA心理学による「時間の構造化」) 引きこもり、儀式、暇つぶし、活動、ゲーム、親密さの六種類です。 ゲーム以外の交流は必要な交流です。特に親密さは重要です。一番濃厚な交流だからです。本当に親密さの濃厚さと暖かさと居心地良さを知っている人はゲームをしようとはしません。 ところが、私もそうでしたが、機能不全家庭で育った人は「親密さ」を見たことも体験したこともないので、親密さを実現することが怖くてたまりません。 一番濃厚だということは一番危険だということでもあるからです。相手への絶対的信頼感がなければできませんし、やり方自体も知っていなくてはいけません。 (親密さのやり方を具体的に学べるのがスマイルです。私は、怖さを克服して、親密さのやり方を学び、親密な本音と感情のシェアリングを練習して、少しずつできるようになりました。) でも、親密さをできない機能不全家庭で育った人も濃厚な交流はしたい。だったら同じくらい濃厚な感情を感じさせてもらえるものがあればいい。 そう。親密さの代わりに繰り広げられるのが「ゲーム」なのです。ゲームがもたらしてくれる濃厚さは「イヤーな後味」ですが。薄っぺらな交流しかないより、濃厚なゲームがあった方がましなのです。 ゲームの基本は、「キックミー(私を蹴って!)」と「さあ、捕まえたぞ!このやろう。」の二つの組み合わせです。変化型としていろんな名称のゲームがありますが、どれもこの二つのゲームの変化型にすぎません。 付け加えると、A、Bという二人の人物がいて、Aが「キックミー」をしてBが「さあ捕まえたぞ」をしたら、同じ図式を繰り返すこともあるが、役割交換して今度はBが「キックミー」をしてAが「さあ捕まえたぞ」をすることも多いです。 「キックミー(私を蹴って!)」というゲームは、繰り返し繰り返し相手がやめてほしいと思う行動を続けることです。最終的には相手から手ひどいしっぺ返し(キック)を食らって、驚きと混乱を感じて終了します。 「さあ、捕まえたぞ!このやろう。」は相手の理不尽な行動を何度も我慢しているが、最後には感情的に爆発して、その瞬間になにやら勝ち誇ったような感情を覚え、しかし、その後に混乱を感じて「あ、またやってしまった。」と終了します。 わかっていただいたと思いますが、ゲームは「キックミー」のプレイヤーと「さあ捕まえたぞ」のプレイヤーが対になって起こるのです。ゲームをしない人は「キックミー」の罠にはまって「さあ、捕まえたぞ」をしたりはしません。「さあ、捕まえたぞ」の役を演ずる人の前に出ても「キックミー」を演じたりしません。 ほかに、「はい、でも(イエスバット)」というゲームもあります。相談する側と相談される側があって、相談される側がどんな解決策を提案しても、相談している側は「はいそうですね。でもできそうにありません。」とか、「なるほど良い方法ですね。でも、」と最初に「はい。」と言って必ず「でも、」「しかし、」と否定するやりとりを繰り返すゲームです。 カウンセリングの場面でよく起こるゲームです。カウンセラーが最後に怒ってしまったら「はい、でも」のゲームの罠に引っかかったのです。この「はい、でも」をする人も「キックミー」のプレイヤーですね。ちょっと変形ですけど。怒ったカウンセラーは「さあ捕まえたぞ」をやってしまったのです。 ゲームを演じるのは、機能不全家庭でゲームが日常的に繰り広げられてきたのを体験してきた人です。つい反応してしまうのです。癖のようなものです。 ですから、カウンセリングで他人への信頼感を回復させたり、カウンセリングやSMILE(人間関係学習プログラム)で適切な人間関係の取り方を学ぶと、少しずつゲームをすることが少なくなっていきます。とにかく、ゲームに代わる「親密さ」を実現しないことには、ゲームはやめられません。 ゲームに代わる具体的な代替案を学んで練習するということです。 ただ、機能不全があまりにもひどくて、SMILEや親業などの代替案を学ぶのさえ困難な人は、最初にセラピーなどで、代替案の学びや練習が出来る段階まで回復させておく必要があります。………………………………………………………………………………………… ランキングを見た多くの方に来ていただいて、少しでもお役に立てたら幸せだなあと思ってます。……応援してくださるとうれしいです。(^O^) 無料メールマガジン「きっと幸せになれる!!方法」も購読していただいたらうれしいです。
2006年10月04日
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爆発的喧嘩…TA(交流分析)では「ゲーム」と言います。 人間関係における交流は、引きこもり(交流をしないで、一人で考えたりボーとしている状態)、儀式(日常の挨拶など)、暇つぶし(あまり目的もない世間話、遊びなど)、活動(何かの目的を持った活動)、ゲーム(どちらかの行動が引き金となっていさかいに発展して、感情爆発に至り、驚きや混乱の瞬間を経験し、最後には双方ともに「イヤーな後味」を深く感じて終了する「あっ、またやってしまった。」と思ってしまう同じパターンの行動形式)、親密さ(双方の本音と本物の感情をお互いに分かち合い、深い信頼関係を感じる思いやりと理性に裏付けられた交流)の六種類があります。引きこもり、儀式、暇つぶし、活動、ゲーム、親密さの六種類です。 ゲーム以外の交流は必要な交流です。特に親密さは重要です。一番濃厚な交流だからです。本当に親密さの濃厚さと暖かさと居心地良さを知っている人はゲームをしようとはしません。 ところが、私もそうでしたが、機能不全家庭で育った人は「親密さ」を見たことも体験したこともないので、親密さを実現することが怖くてたまりません。一番濃厚だということは一番危険だということでもあるからです。相手への絶対的信頼感がなければできませんし、やり方自体も知っていなくてはいけません。(親密さのやり方を具体的に学べるのがスマイルです。私は、怖さを克服して、親密さのやり方を学び、親密な本音と感情のシェアリングを練習して、少しずつできるようになりました。) でも、親密さをできない機能不全家庭で育った人も濃厚な交流はしたい。だったら同じくらい濃厚な感情を感じさせてもらえるものがあればいい。そう。親密さの代わりに繰り広げられるのが「ゲーム」なのです。ゲームがもたらしてくれる濃厚さは「イヤーな後味」ですが。薄っぺらな交流しかないより、濃厚なゲームがあった方がましなのです。 ゲームの基本は、「キックミー(私を蹴って!)」と「さあ、捕まえたぞ!このやろう。」の二つの組み合わせです。変化型としていろんな名称のゲームがありますが、どれもこの二つのゲームの変化型にすぎません。 「キックミー(私を蹴って!)」というゲームは、繰り返し繰り返し相手がやめてほしいと思う行動を続けることです。最終的には相手から手ひどいしっぺ返し(キック)を食らって、驚きと混乱を感じて終了します。 「さあ、捕まえたぞ!このやろう。」は相手の理不尽な行動を何度も我慢しているが、最後には感情的に爆発して、その瞬間になにやら勝ち誇ったような感情を覚え、しかし、その後に混乱を感じて「あ、またやってしまった。」と終了します。 わかっていただいたと思いますが、ゲームは「キックミー」のプレイヤーと「さあ捕まえたぞ」のプレイヤーが対になって起こるのです。ゲームをしない人は「キックミー」の罠にはまって「さあ、捕まえたぞ」をしたりはしません。「さあ、捕まえたぞ」の役を演ずる人の前に出ても「キックミー」を演じたりしません。 ほかに、「はい、でも(イエスバット)」というゲームもあります。相談する側と相談される側があって、相談される側がどんな解決策を提案しても、相談している側は「はいそうですね。でもできそうにありません。」とか、「なるほど良い方法ですね。でも、」と最初に「はい。」と言って必ず「でも、」「しかし、」と否定するやりとりを繰り返すゲームです。カウンセリングの場面でよく起こるゲームです。カウンセラーが最後に怒ってしまったら「はい、でも」のゲームの罠に引っかかったのです。これも「キックミー」の変形ですね。怒ったカウンセラーは「さあ捕まえたぞ」をやってしまったのです。 ゲームを演じるのは、機能不全家庭でゲームが日常的に繰り広げられてきたのを体験してきた人です。つい反応してしまうのです。癖のようなものです。 ですから、カウンセリングで他人への信頼感を回復させたり、カウンセリングやSMILE(人間関係学習プログラム)で適切な人間関係の取り方を学ぶと、少しずつゲームをすることが少なくなっていきます。とにかく、ゲームに代わる「親密さ」を実現しないことには、ゲームはやめられません。………………………………………………………………………………………… ランキングを見た多くの方に来ていただいて、少しでもお役に立てたら幸せだなあと思ってます。……応援してくださるとうれしいです。(^O^) 無料メールマガジン「きっと幸せになれる!!方法」も購読していただいたらうれしいです。
2006年10月03日
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平成18年10月2日昨日は下の娘の運動会だった。親に似ず、足が速い。100m走では、競りながらも最後に胸一つで一着。柄にもなく大声援を送った。うろうろしていると、下の娘に会った。「パパー。マイちゃんに勝ったよー。」今まで練習などでは負けていたらしい。「そうか。良かったね。パパも見ていたよ。最後にぐってがんばったものね。今までいっぱい練習してきたもんね。良かったね。がんばった甲斐があって。」と言ったら、目をくりくりさせながら、「ウン。」とうなずいて、選手席へ戻っていった。朝からリレーの練習などで早めに学校に行って練習してきたのだ。アドレリアンらしく、プロセスに注目したつもり。昼はみんなで楽しい会席。親ばかの父は喜んで缶ビールを二本も空けてしまった。(学校まで歩いてきてます。)おにぎりや唐揚げもたくさん食べて。体重大丈夫かなー。まあ、いいや。その後、閉会式前の代表リレーでは、娘も出場。娘のチームは娘の前の3年生までは引き離されて2位だったけど、娘が詰めて、5年生が抜いて、6年生がそのままゴールで優勝。声をからして応援しましたよ。はい。弁当や椅子やクーラーは歩いて何度も往復して家まで届けました。あー楽しかった。運動会。………………………………………………………………………………………… ランキングを見た多くの方に来ていただいて、少しでもお役に立てたら幸せだなあと思ってます。……応援してくださるとうれしいです。(^O^) 無料メールマガジン「きっと幸せになれる!!方法」も購読していただいたらうれしいです。
2006年10月02日
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ある国に王女様が住んでいました。その国には、王様が一人おり、王女様は王様の言いなりに暮らしてきました。その国には王様と王女様の他には全く人間がいなくて、住んでいるのは全く話の出来ない化け物たちばかりでした。それに、湖や森も全くなくて、草原と砂漠と岩山ばかりでした。 王女様が尋ねました。「どうして私たちの他に人間はいないの?どうして湖や森がないの?」王様は答えました。「この世には私たち二人の他には人間はいないのだよ。そして、この世には湖や森も存在しないんだ。他の国に行ってもね。」 ある日、王女様は王様と二人で言いなりになって暮らしているのが嫌になって、行ってはいけないといわれていた隣の国へ逃げ出しました。 隣の国の草原を歩いていると今まで見たことのないような光景が目に入りました。とても美しくジーンと心が揺さぶられるような光景でした。そして、その光景の奥の方からは「ちちちち」という美しい歌声のようなものまで聞こえてくるのです。 あまりの美しさに王女が呆然としていると、草原の向こう側からタキシードを着た二本足で歩く人間らしき人物がやってきました。王女が「あなたは人間ですか?」と尋ねると、その人物は「ええ。私はこの国の王です。」と答えるではないですか。王女は驚いて「え、私の国の王様はこの世には、私たち二人以外の人間はいないと言っていました。」と言うと、 タキシードを着た隣国の王は「そんなことはない、人間はたくさんいる。ほらあの森の奥から今から出てくるよ。」 そうすると、森の奥から、一匹、一匹が全く異なる奇妙な生き物がたくさん出てきたのです。 「え、あれが森なのですか?私は森も湖もこの世には存在しないと教えられてきました。それに、あんなに奇妙な生き物が人間なのですか?あなたとも全く違いますよ。」 すると隣国の王は少しもあわてず、「そんなことはない。森もあのように存在するし、森の横にある青い水をたたえた美しい鏡のようなものが湖さ。そして、森の奥から聞こえてくるのが森に住む小鳥たちの歌声さ。それに、人間というものは一人一人が全く違って、奇妙に感じるものだよ。」 美しい森と光り輝くようなすばらしい湖、そして森の奥から聞こえてくる心を揺さぶるような小鳥たちの声。体中が感動に包まれます。そして、一人一人が違う人間たち。王女は夢を見ているようでした。 隣国の王は言葉を継ぎます。「あなたの国にも美しい湖も森もあるし、人間もたくさんいるのですよ。」 「え、森や湖はありませんし、人間もいませんでしたよ。」 「あなたの国の王様は実は魔法使いで、森や湖や人間たちをそうでないように見えて感じるように魔法をかけているのですよ。」 驚いた王女は急いで自分の国へ戻って、王様に言いました。 「あなたは私に嘘をついていましたね。私は隣の国で森も湖も人間たちも見ました。あなたは魔法使いなのでしょう。そして、魔法でこの国にもある湖や森を見えなくしているのでしょう。人間も見えなくしているのでしょう。隣の国の王様に教えてもらいました。」 すると王様は「はははは」と笑って、「そうだよ。私は魔法使いだ。魔法で他の人間を話せない化け物に見えて感じるようにしていたのさ。でも、隣の国の王様とやらはタキシードを着てなかったかい?」 「着ていました。」 「それじゃあ、それは王様ではなくて魔法使いさ。タキシードを着ているのが証拠だ。おまえは隣の国の魔法使いに魔法で森や湖を見せられたのさ。」 王女はまた驚いて、隣国へ行って、また森と湖のそばでタキシードを着た人物を捜し出しました。そして言いました。 「あなたも魔法使いなのでしょう?そして、この森と湖は魔法であるように見せかけているだけなのでしょう?」 するとタキシードを着た人物は「はははは」と笑い、「そうさ。私もあなたの国の王様と同様魔法使いさ。私の魔法で好きなように見えて感じるようにしているんだよ。」 ショックを受けた王女は自分の国へ戻って、王様だった魔法使いに言いました。 「全てが魔法だなんて。私はもう死にます。」 王様だった魔法使いは「そうか。」と言って、「じゃあ、私の魔法で死に神を呼び出そう。」と言って死に神を呼び出しました。 死に神の鎌の下に進もうとした王女に王様が声をかけました。 「ただ、おまえも魔法使いなのだがね。今はまだ分からないだろうが、おまえも魔法で自由自在にすることが出来るのだよ。魔法で美しい森や光り輝く湖などを作り出すことも出来るし、人間を見えるようにして交流して楽しむことも出来る。それとも、死に神のもとへ行くかね?」 王女は考えました。全てが魔法のこの世界から死に神のもとへ行くか。それとも、自分の魔法であの美しい森や光り輝く湖を作り出し、人間を見えるように話せるようにして生きていくか? 王女は言いました。 「私は生きるわ。そして、魔法を覚えて、全てが魔法に過ぎないこの世で美しい光景を作り出しながら、一人一人が違う奇妙な人間たちと生きていくわ。」………………………………………………………………………………………… ランキングを見た多くの方に来ていただいて、少しでもお役に立てたら幸せだなあと思ってます。……応援してくださるとうれしいです。(^O^) 無料メールマガジン「きっと幸せになれる!!方法」も購読していただいたらうれしいです。
2006年10月01日
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