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二月になって、クラスでぽつりぽつりと学校を休む人が出てきた。その人たちは皆、中学受験をする子供たちだった。私も当然、受験日は学校を休んだ。受験という理由で学校を休むということがそのときの私には格好良く感じられ、そしてそのことがまた私の他のクラスメートに対する優越感につながっていた。小学校にいる間は懸命にその集団の中に溶け込もうと「普通の小学生」の振りをしていたのだけど、やっぱり私はどこか浮いた存在だった。自分でも自分が普通とは違うと感じていたし、私の周りの子供たちも私のことを「付き合いにくい奴」とどこか見なしていた部分もあったのだと思う。私は「普通の小学生」の役を演じていた役者のような毎日を送っており、そして悲しいことに私は大根役者でしかなかったのだと思う。だから、現実的な部分で他の多くの子供たちと別の道に進むということが素直に嬉しかった。 私立中学の受験日の前の夜から、私の住む街には珍しく雪が降り積もった。バスで行こうとしてもバスが来ない。幸い、家から歩いていける距離にあったので、私は両親と一緒にその中学校に向かって歩いた。その途中、雪で滑って転んで、「受験の日に滑るのは縁起が悪い」 などと両親と話しては少し笑ったような記憶がある。 テストは結局一時間ほど遅れて開始された。雪の影響で電車が遅れていて、受験生たちの多くも時間に間に合わなかったのだ。私は暖房がついていてもどことなく寒々とした教室で、カイロを両手で握りながらテストが始まるのを待っていた。 特に緊張はしていなかった。心のどこかでは「受かって当たり前」と軽く見ているような気持ちがあった。
2008.12.31
小学生の私の心の中に巣食っていたその虚無感は、それからの私をいつも苦しめた。この虚無感の怖いところは実際に苦痛を私自身に与えるわけではないというところにあった。気付かないうちに私の心の奥底から腐らせていくかのように、私を人生に対して無気力な人間に作り上げていた。 そしてその問題は、今の私が抱えている問題と本質的には何も変わらなかったのだと思う。今の私も、日々の生活の先に目指したいという未来なんて全く見えていなかったし、実現したいと思える夢も存在しなかった。何かを頑張りたいと願っていても、何を頑張ればいいのか分からなかった。きっとそこには甘えがあったのだと思う。責任転嫁があったのだと思う。だって本来、未来も夢も誰かに与えられるものではなくて、自分で見つけ出すものはずなのだから。私は、それが目の前に無いことがいつも不満で、そしてそのことをいつだって家族や社会など私の周りのもののせいにして生きてきた。そんな生き方をしていれば、いつの間にか、真っ暗闇の中を生きるような日々が訪れるのも当たり前だった。 小学六年生になって、結局私は二つの中学校を受験した。 一つは家の近所にある偏差値が低かった私立中学で、もう一つは難関高と言われていた国立大学附属中学だった。私は前者の中学に入れればいいかな、という思いがどこかにあって、そしてその難関高に合格するための勉強はしなかった。その難関高を受けたのは、それが難関高であったというだけの理由だった。つまり見栄を張るために受けただけだった。塾の周りの子供たちもその難関高を受けた。彼らがその中学に本気で行きたかったのかどうかは分からない。ただ、ほとんどの子供たちが受けたのだ。だからそのときの私にとってその難関高を受けさえすれば良くて、合格するかどうかなんてどうでも良かった。ただのポーズだった。どうせ、その中学を受ける子供たちのほとんどが落ちることになるのだから、私がもし落ちたとしても私のプライドが傷つけられることは無かった。 結局、中学受験をしたのも見栄だったし、塾へ通ったのも見栄だったのかもしれない。 小学校のクラスで確かに中学受験をする子供は何人かはいた。だけど多くの子供たちは近くの公立中学校へ進学した。そんな中、私立中学へ行くということが私にとって、そのクラスメートに対する見栄だったのかもしれない。今になって思えば、そんな気もする。
2008.12.30
当然、午後八時に授業が終わって教室を出るときには外は真っ暗になっていた。私はビルの外に出たときに、朝の光景とのギャップに戸惑うような視線をその外の世界に向ける。何だかこのビルの空間の中でタイムスリップして、朝から夜に飛んできたような感覚がどこかした。そのような気持ちを内に抱きながら、闇の中を駅に向かって早足で歩いた。 結局その塾通いは小学五年生と六年生の二年間続くことになる。「その頃の私は努力をしていたのだろうか?」 最近、そのような質問を自分に投げかけることがあった。あの頃の私は、必死に努力をしていたのだろうか。目の前の受験勉強の向こう側に、自分が目指したい未来が見えていたのだろうか。 それまでの人生(十年くらいのことだったけど)におけるよりも努力したことは確かだった。それまでの私は、あんなにも勉強をしたことは無かったのだから。だけど私は、塾における周りの子供たちよりは全然努力なんてしていなかった。テストなんてその前日に三十分ほど授業のノートを見るくらいだった。授業の前の予習なんてするわけもなく、ただその日の授業を大過なく過ごすことだけを考えていた。それに対して他の子供たちはもっと必死になって勉強していたのだと思う。そこにどのような動機があったのかは分からない。だけど毎日必死に勉強していたのだと思う。「私と他の子供たちの違いは何だったのだろう。あの頃の私はどうして努力をしなかったのだろう」 私は自分にそんな質問を投げかける。 きっとその当時の私には、その受験勉強の先にどんな未来も見えていなかった。目指したいと思える未来も見えなかったし、実現したいという夢も持てなかった。ただ眼の前の課題だけがあった。だからこそ努力ができなかったのではないだろうか。確かに課題として大量の問題は与えられるのだけど、それの先にある未来が見えなかったからその課題を解く意義が自分の中に見いだせなかったのではないだろうか。
2008.12.29
小学五年生の夏休みには夏期講習というものがあった。 それはいくつかコースが設定されていて、選べるコースは日頃のテストの点数で決められていた。私は一番上のコースに行くことになった。そのコースは午前十時から午後八時までの長時間にわたるもので、私はそれを夏休みの一ヶ月間ずっと続けた。それまでの人生においてそんなに長時間勉強した経験なんて無かったから、その夏期講習ははっきり言って辛かった。小学四年生までの私にとって夏休みとは、学校にも行かず、学校での人間関係に気を使う必要も無く、自由気ままに生きることのできる楽園のような期間だった。私は、それまでの楽園のような夏休みと、眼の前にある、毎日夏期講習に行って長時間勉強し続ける夏休みの間の大きなギャップに始めはひどく戸惑った。 午前十時に生徒たちは塾の教室に集まる。駅から塾までの道のり、まだ午前中で日差しはそれほど強くは無いのだけど、ただ夏の日差し特有のぎらぎらした輝きを放っていてその日差しに照らされた街自体が生命の躍動感を持っているかのように鮮やかに見える。そして塾が入っていた小さいビルに入ると、その明るい世界から急に暗い世界に入ったような感覚を憶えた。照明が暗いというわけではなかったのだけど、ただ、外は明るい光に溢れていて、そのコントラストのせいか建物の中が妙に暗く感じられたのだ。 狭い階段を登って三階が私が授業を受ける教室だった。その教室の窓には遮光シートが張られていて、外からは教室の中が見られなくなっている。外から見ると鏡のように反射して教室の中が見えなくて、そして内側から見ると外の世界が薄暗く見えるような、そんなよくある遮光シートの一つだった。その遮光シートは教室の内側の世界と外側の世界を視覚的に区切っていて、今まで歩いてきた外の世界が、今自分がいる教室の内側の世界とはまるで別世界のように見えた。その現実世界からは切り取られた異空間のような教室の中で私は、授業を受け続けていた。
2008.12.28
今でもそのシステムをとっているのかどうかは分からない。最近は小学校で徒競走の順位もつけなくなったというくらいだから、その塾でもそのような点数順の席順はやめてしまったかもしれない。 その場所では協調性も求められなかったし団体行動も求められなかった。毎週実施されるテストの点数だけが全てだった。私たちの周りはその点数を上げるためだけに努力をしていた。点数で席順が決まり、前列に座った子供、つまり点数が良かった子供は少し誇らしげに授業を受けた。後ろの席に座った子供は少し卑屈そうに授業を受けた。そのような世界は人間らしくないと、今の世の中では否定的な人が多いのかもしれない。だけど私にとっては、居心地のいい空間だった。周りに愛想笑いを尽くして友達の振りをし続ける必要も無かったし、休み時間にどのグループに入ればいいのか気をもむ必要も無かった。きっと、そのような世界は私のような寂しい人間には合っていたのだと思う。 ただ、私はその塾に通う周りの子供たちよりも努力をしたかと言われれば、きっとそれほどの努力はしていなかったような気もする。そのときの私には、少しでも偏差値の高い中学に行きたいという欲は無かった。それに受験勉強は私にとって、小学校の共同生活よりは向いていたのかもしれないけど、かといって私は勉強が好きというわけでもなかった。基本的は私は面倒くさがりやだった。つまりその場所は私には向いていたのかもしれないだけど、ただ、私を前に突き進ませてくれるようなものには欠けていた。
2008.12.27
私は異常だったのだろうか。 異常だったのだと思う。今まで生きてきて、そしていくつかの集団に属してきたのだけど、私のような人間に出会ったことが無かった。私はきっと、人間として大切なある部分がごっそり欠けていたのだと思う。私はその欠落にいつも苦しんできた。その欠落は、私という人間を「生きることに向いていない人間」に押し込めてきた。この世界をうまく生きていくことができなくて、私はいつも世界の外側から、その世界で自然に生きている人たちに羨望と絶望のまなざしを向けていたのだと思う。 私は子供の頃からずっとそのような人間だった。 小学五年生のとき、私は初めて塾というものに通った。 その塾は最寄り駅から歩いて十分ほどのところにある、中学受験を目的とした大手の塾の一校だった。私が中学受験をしたいと言い出したのか、それとも親の方針で中学受験をすることになったのか、はっきりとは憶えていない。ただ、私の口から、「中学受験したい」と言った記憶は全く無いから、おそらく親の方針だったのだと思う。私はその方針に従った。私にとってその方針は、忌むべきものではなくて、多くの子供が近くの公立中学へ行くなか、自分の力を使って別の道に進む大きなチャンスでもあったのだ。私は小学校という空間に馴染むことはなくて、そしてその延長線上にあると思った公立中学へ行くのだけは嫌だった。 小学校が午後三時前に終わると、私は塾の準備をしてからバス停に向かう。私の学校でも同じ塾に通う子供が何人かいたので、バス停でときどきその子供たちと一緒になった。同じ塾に通う子供はなぜか仲間意識がそこにはあって、私はその子供たちと一緒にバスに乗り込んだ。バス自体は十分もすれば最寄駅につく。そしてバスを降りて、駅を越えててくてく歩いていくと、和菓子屋の隣りにその塾は建っていた。 授業は午後五時十分に始まり、午後八時過ぎまであった。それが週三日あって、そして日曜日には毎週テストを受けるのだ。テストの点で教室における席が決まって、点数の良かった人から前に座っていく。だから週の初めの授業に行って席表を見て、初めてその前の日曜日のテストの出来を知ることになった。 そのようなシステムは当然小学校には無くて、私にはとても新鮮だった。
2008.12.23
こまごまとした雑用をしていると居室にチャイムが鳴った。時計を見ると午後十二時半を示している。昼休みだった。 会社には社員食堂が設置されており、ほとんどの社員は昼休みになるとその食堂に向かう。私もその人の群れに入って食堂に向かった。私はいつも一人で昼食を食べていた。設計に携わっていた機種の設計で忙しかったときには、同じ機種を担当していた先輩に誘われるようにして十人くらいの集団の中の一人として食堂で食事を取っていたが、いつの間にかそのようなことも無くなった。私自身がそのような集団行動を避けるようになっていた。 多くの人たちの中にいて、そしてその人たちに合わせていると、いつも私は窮屈な思いを感じた。自分が醜く捻じ曲げられていくような、そんな感覚に襲われて、私はそのような状況からは逃げるようになった。大げさかもしれないけど、集団の中の一人として食堂で食事を取ることも私にとっては窮屈であり、精神的な負担であり、私はそのような状況にいると自分が本当の自分でなくなってしまうような錯覚すら覚えたのだ。 ただ、集団から抜けて独りになるということは始めはとても怖かった。そのような行動に出てしまうと職場に居場所がなくなってしまうような気がしたから。私はその先輩から誘われることがないように昼休みの時間が近くなると、多くの設計者たちがいたCADルームから離れて、実験室や居室に向かった。そして昼休みの時間を告げるチャイムが鳴るのを一人待った。そんな行動をしている自分が馬鹿馬鹿しくもあったけど、昼休みのチャイムが鳴ったときにいつも誘っていくれた先輩と同じ場所にいて、先輩から、「飯、行くか」 と誘われてしまったら、もう断ることができなかった。そのような誘いに対して直接断るような勇気は私には無かったから、だから先輩から誘われないような状況を自分で作って、そして少しずつその集団から離れていこうと思った。そのような努力を続けていた私はおかしかったのだろうか。きっと、おかしかったのだと思う。 昼休みになって一人で食堂で食事を取るということは、最初は抵抗があった。皆、職場の同僚と食事を食べているなか一人黙々と食べているのは、その姿自体が、会社という集団への不適合を身をもって表しているような気がしてひどく居心地が悪かった。だけど二、三ヶ月もすれば、そのようなことにも慣れてしまった。そして、慣れてしまえばどうということは無かった。私は自分に対して、「私は団体行動が苦手で、協調性が無い人間なんだ」 そう呟いては、よく寂しい苦笑いを浮かべていた。
2008.12.22
確かに、高校を卒業してからの十年間、もし必死に何かを求めて生きていれば、今の私は全く違った場所に立っていたのだと思う。だけど、そのような想像をすることは私にとって無意味だった。現実として私は、そのような生き方をしてこなかったのだから。私はただ時間の波に流されるように生きていて、そして一年一年、年をとっていくだけだったのだから。 心のどこかでは、私は、そんな偽りの人生を生きるのにうんざりとしていたのだと思う。たとえ今の二十九歳の自分が、「もし十九歳の私が何かを必死に求めて十年間を生きることができたなら、もっと違った自分になれたのだろうか」 と後悔することがあっても、今から十年後の三十九歳になった私が、「もし二十九歳の私が何かを必死に求めて十年間を生きることができたなら、もっと違った自分になれただろうか」 と後悔するのは絶対に嫌だった。そのような未来は絶対に嫌だった。そしてそのことを防げるのは今の二十九歳の私だけだった。私しか、私のこれからの十年間を変えることができる人間はこの世の中に存在しなかった。私は、自分の人生を変えたいと心から願った。だけど、その人生をどのように変えていけばいいのかがどうしても分からなかった。 朝の居室は、まだ来ていない社員もいてまだ閑散としていた。 会社から支給されているパソコンを立ち上げて、メールを見る。最近はそれほど多くのメールは来なくなった。ずっと設計担当として関わっていた新機種がつい先日量産されて、設計者としての仕事はそれほど多くはなくなっていた。その日も特にすぐに対応が必要なメールは来ていなくて私はメールを閉じた。一年前や二年前が嘘のように、最近ははっきり言って暇だった。特にすぐにしなければならないことがあるわけでもない。ただ、せっかく時間があるのだからと、今まで知識が足りなかった部分の勉強を一人で行ったりした。確かに仕事がそれほど無くて楽ではあったけど、何だか人生における大切な時間を無駄にしているような感じがした。
2008.12.21
ただし、それはきっとこの五年間だけの話ではなかった。 高校を卒業してもう十年が経つというのに、私はその当時の私からも成長できていないような、そんな寂しい実感が私の中にあったのだ。大学を目指していたあの頃、私は必死になって前に進んでいた。自分を最大限に律して生きていたし、明確な目標を持って日々努力して生きていた。それはとても大変な日々ではあったけど、それでも今振り返れば充実した日々であったような気がした。少なくとも、「私は今、生きている」という実感がそこにはあったような気がする。 だけど、それ以降の私の中にはそのような実感がいつの間にか消えていた。どこへ向かえばいいのか分からなくて、立ち止まるだけだった。何を目指して生きていけばいいのか分からなくて、その場所にうずくまるだけだった。その闇があまりに深い夜は、今この瞬間に人生が終わってしまったとしても、きっと私は後悔しない、などと寂しいことを考えたりもした。そして気付けば十年が経っていた。 私はときどき、「もし、この十年間、何かを求めて必死に生きることができたのなら、私は今の自分とは違う自分になることができたのだろうか。その世界では、今の私とは全く違う私が、「今自分は生きている」という事実に日々感謝しながら生きているのだろうか」 そのような想像をした。そんな想像はきっと無意味なことだったのだろうけど、私はその想像をしては自分を安心させた。その空想の世界に逃げ込んでいた。だって、その想像の中の私は、現実の私とは違って明確な目標をもって生きていて、そして日々充実した人生を生きていたのだから。うまく生きることができさえすれば、私はその空想の私と同じ私になることができる。そのように自分に言い聞かせれば、私は何とか今日という一日をやり過ごすことができたのだから。だけどその安心感は偽りの安心感でしかなかった。その安心感はすぐに自己嫌悪と焦燥感に変わって、私をもっと苦しめた。
2008.12.18
だけど、その事実の重みを本当の意味で受け入れることができるのは、例えば余命わずかと告知された末期ガン患者くらいなのかもしれない、と心のどこかでは思っていた。人は現実に自分の死というものが眼の前に迫ってみないと「人生は一度きり」という事実の重みなんて気付けることなんてないのかもしれない。だから普段からいくらその事実の重みを受け入れて生きようとしても、自分の死というものを想像して生きようとしても、やはりそれは空想の中の死でしかなくてそれはどこか軽い重みでしかなりえないのではないのだろうか。私の中にはそのような考えもどこかに巣食っていたのだと思う。 職場には午前九時半に到着した。 社員カードで入り口のゲートを通って、目の前にある建物に向かう。五階建ての建物だった。以前にここに入っていた会社では工場として使われていたようで、平たい建物だった。その建物に入って二階に私の居室があった。裏口から入って階段で二階に向かい、そして実験室の片隅に備え付けられた汚らしい着替え場所で会社指定の上着を羽織る。「おはようございます」 席に座ると私の隣のHさんが挨拶をしてきたので、私も、「おはようございます」と小さく会釈する。私はどうも挨拶をするということが苦手だった。私が新人社員だった頃はもちろん挨拶はしていた。だけど社員の中で挨拶を返してこない人も結構いたのだ。私は誰に挨拶をすればいいのか、そしてどんなときに挨拶をすればいいのか、そのことを考えて気にすることが非常に面倒なことだと思った。私はその面倒から逃れるためだけに、職場では自分から挨拶をすることがめっきり少なくなった。心のどこかでは、「これでは社会人失格だね」という思いもあったけど、私は無理やりその思いを押しつぶした。 私がこの会社に入社してからもうすぐ五年になる。そしてその五年という言葉を眼の前にするといつもうろたえてしまう。大学に四年間も在籍していたけど、それ以上の年月をすでにこの場所で過ごしているということに驚くのだ。きっと、この五年があまりにあっと言う間に感じられたことと、そしてその五年間に私が成長できていないということの二つの事実にうろたえたのだと思う。
2008.12.11
そしてそのようなときはいつだって、あるアメリカの経営者が講演で言ったという次の言葉を思い出すのだ。その経営者とは大きなパソコンメーカの経営者であり、そしてその講演の様子を、私の所属する設計室の室長が何を思ったのか期末の成果報告会で紹介したのだ。そのときはそれほど真面目にその講演を聞いてはいなかった。だけど、後になってその講演の日本語訳を読んで、私はその言葉の重みに気付かされたような気がした。 彼は、次のように言っていた。「私が高校生のとき、次のような言葉を眼にしました。それは、「今日が人生の最後の日だと思って過ごしていれば、いつか必ずそれが本当になる日が来る」というもので、その言葉はまだ高校生だった私に非常に強い印象を残したのです。 その日以来、私は毎朝自分に次のように問うようにしました。「もし今日が人生で最後の一日だったら、今日これからすることをそれでもしたいと思うだろうか」 自分の死というものを意識して生きることは、自分の人生にとって何が本当に大切なのかを判断するときに非常に役に立つのだと思います。自分の死というものを考えれば、つまらない意地やプライドなどに振り回されること無く、自分の人生にとって大切なものを軸に生きることができるようになるのだと思います。 他人に指図された人生を生きる時間なんて、そんな無駄な時間は人間には与えられていないのです。自分の心のままに生きるべきなのです」 毎日が無味で無意味で、そしてそんな時間の中に押しつぶされそうになったとき、私は、このような言葉をよく自分に言い聞かせた。そのようにして何とか今日まで生き延びてきた。生まれたからには、生まれたなりの意味がどこかにあるのだと思いたかったし、たとえば神のようなものから使命を与えられているんだと思いたかった。使命を果たさずにこの人生を終えてしまうのは、あまりにも寂しいような気がした。 人生は一度きりで、人はいつか死ぬのだということ。 その事実はとても当たり前のことで人間だったら誰でも知っている。だけど私は次のように思った。「その事実を知っているということと、その事実の重みを知っていることとの間には大きな違いがあるのではないだろうか」 私はきっと、その事実は知っていたとしてもその事実の重みはまだ分かっていなかったのだと思う。私はその事実の重みを受け入れることができるようになりたい、とよく思った。
2008.12.10
私は、少しうつむきながら黙々と歩いている人たちを後ろから眺めながら、「この人たちは、このような人生を虚しいものと思わないのだろうか?」 とよく思った。 以前、私の二つ先輩であるMさんと同じ電車で帰る機会があった。それは、私たちが通う事業所とは別の事業所に用事があって、そして帰るときのことだった。 私とMさんはドアの前に立ち、とりとめのない話をしていた。電車の中は仕事帰りのサラリーマンでごった返している。その中で、Mさんは冗談っぽい口調で、「将来的には株だけで生きていくこととか考えている?」 と私に質問した。 私は二年ほど前から株式投資というものを始めていて、その話をときどき会社の同僚で仲のいい人に話していた。「それは全く考えていないですね」 私は正直に答えた。「私にとって株とは、手段であって目的では無いんですよ。私が目指しているものは、私がやりたいことだけをやって生きる生活です」「でも、サラリーマンだと難しいよね」「そうですけど、サラリーマンだけが選択肢ではないですから」「うん、それはそうだけど」 私はMさんの言葉を聞きながら、きっと、多くの人にとって自分の行動を制限しているものは、「サラリーマンだと難しいよね」という考えだったのかもしれないと思った。サラリーマンだから難しい。サラリーマンだから仕方ない。そのような考え方はおかしいものではないし、そのような考え方をすることのほうが現実世界を生きていく上では正しい生き方だったのかもしれない。むしろ私のような考え方のほうこそが、世間を知らない甘い考え方だったのかもしれない。単なる理想でしかなかったのかもしれない。 だけど、私は「サラリーマンだと難しいよね」という言葉に強い違和感を感じた。 確かに理想と現実は違っていて、現実に沿って生きることは重要なことなのかもしれない。だけど、どうして理想を追求してはいけないんだろう。私はいつもこのように思った。人生はたった一回で、その一回きりの人生のどこかでいつか死を迎える日が必ず訪れる。そのような人生を生きているのに、どうして理想を追求してはいけないんだろう。この人生の有限性を考えたとき、この一回きりの人生の中で理想を追求するだけの価値はあるのではないだろうか。 私はそのような考えに囚われていたのだと思う。
2008.12.07
私が通勤に使っている路線は、横浜の住宅街と東京都心とをつなぐ路線だった。最寄り駅であるA駅は改札を抜けて右側に下り方向のホームへの階段があり、左側には上り方向の階段がある。改札を抜けた多くの人たちは当然、東京都心に行くために左側に向かって歩き出す。だけど私が乗るべき電車は下り方向のものだった。私の通勤する事業所は東京都心方向ではなくて、郊外ののんびりとした田舎の空気の中に建てられていた。 私はホームへ上がるためのエスカレータに乗る。エスカレータの隣りには階段も設けられているのだが、電車から降りてきたばかりの乗客が降りてきて私の横をすり抜けていった。彼らは、ここでもその多くは某大学のキャンパスに向かう学生たちだった。 エスカレータの出口は、電車の先頭車両の近くに位置していて、私はそのせいもあっていつも先頭車両に乗るようにしていた。ホームに立つと、線路を挟んだ反対方向のホームではいつも人が溢れかえるようにして並んでいる。一方、下り方向のホームはぽつぽつとしか人はいなかった。ホームに立つと大勢の人たちの前に一人相対するような形になって、それが少し恥ずかしかった。私はいつもじっと下の線路を見て、あたかも線路に興味がある人のような装いをしていた。ただ、電車ではたいてい座ることができた。そのことは単純に嬉しかった。 乗換えを二回して、私の通う事業所がある駅に到着する。そこから歩いて十分ほどのところにその事業所はあった。 駅を出て、歩いていく。事業所の前は田圃がいくつかあり、その間を細い道が通っている。そしてその細い道を歩く人たちは皆、その事業所に向かう人たちのみであった。細長い列になってその事業所に向かって淡々と歩いている人たちを見遣ると、私はいつだって寂しいような虚しいような気持ちに襲われた。そして何よりも、その列の中の一人が自分であるという事実が何よりも寂しかったのだと思う。毎日決まった場所に決まった時間に通う。そしてそのことを四十年近く続けるのだ。そのことは会社員にとっては普通に考えたら不思議なことでもないし当たり前のことだったのかも知れない。だけど私はそのことを想像するだけでぞっとした。そのことがとても異常なことであるような気がした。 きっとその姿が、自分の人生のはずなのに、それなにに余りにも多くのものに縛られて不自由に生きている姿に見えていたのだと思う。そのような生き方をしたいとはとても思えないのに、それなのにそのような生き方をしてしまっている自分がいる。そのことが何よりも寂しかったのだと思う。
2008.12.06
始業式の前夜などは不安に押しつぶされそうで、文字通り眠れない夜を過ごした。そして始業式の日がやってきて、私は何気ない様子を装いながら小学校に向かった。小学校に入ると校舎の前に子供たちが大勢たむろしていておしゃべりをしている。私がその集団に近づくと、校舎の前の掲示板に新しいクラス分けが発表されているのに気付いた。私はその集団をかきわけ貪るようにその紙を見る。そして私と同じクラスになった子供たちを全てチェックしていく。心臓はどきどきと大きく脈を打っていた。結局、前のクラスでそれなりに仲良くしていた子供たちと同じクラスになることができたのを知って、私は心の底からほっとした。そして校舎に入り、新しいクラスの教室に入る。すると今までと見慣れない光景がそこにはあって少し戸惑った。今まで違うクラスの子供たちと同じ教室にいるということがとても不自然なことに感じられた。 その新しいクラスでも私は、楽しい振りをやり続けた。 いや、本当に楽しいのか、それとも楽しい振りをしているだけなのか分からなくなりそうだった。それくらいその仮面は私にとって自然なものであり、そして大切なものになっていた。その仮面をかぶり続けることによって何とかそのクラスの中で浮くことを避けることができたし、何の変哲もない普通の子供というレッテルを自分に貼ることができた。私の周りには何人かの子供たちも集まってくるようになり、小学校三年、四年の頃の私はそれなりに平和な日々を過ごしていた。 ただ、今までと同じように、他の子供を遊びに誘うことなんて一度もなかったし、そして他の子供からの誘いは何か特別な用事でもない限り絶対に断らなかった。そういう意味ではやはり、私は周りの子供たちと本質的な部分で違っていたのかもしれない。 その頃になってさすがに私は、自分が他の子供たちとどこか違うということに気付き始めたのだと思う。必死に普通の子供の振りを続けていたけど、それでも心のどこかではそのような演技をすることにひどく疲労していた。そしてなぜこのようなことをする必要があるんだろう、このようなことをしなければ私はこのクラスでうまく生きていくことができないのだろうか、そのようなことを漠然と小さい子供なりに考え始めていたのだと思う。 朝の駅前はいつものように混んでいた。 近くに某大学のキャンパスがあって、そのキャンパス行きのバスを待っている学生たちが駅前のバスロータリーに溢れかえっている。いつもの光景だった。そしていつものように彼らの間をすり抜けるように駅へと歩いていく。 私の勤める会社は最寄り駅から電車で四十分くらいの距離にあった。
2008.12.04
しかし、その体力面が小学校の中での私の特徴だったかというとそうでもない。私より体が大きい子供はたくさんいたし、スポーツに関しても私よりうまくやる子供もたくさんいた。あくまでも私は、「上位グループの中にいる子供の一人」でしかなかったし、そもそも運動自体もそれほど好きではなかった。小学校の中で私を特徴付けていた性質は、もっと別のところにあったのだと思う。それは何かと言うと、勉強、だった。 小学校の低学年の頃、少なくともあの小さな市立小学校の範囲の中では私は勉強ができる子供になることができた。算数や理科などはカリキュラムの節目節目でテストを受けさせられたのだけど、私は簡単にその問題を解くことができた。周りでその問題が分からないという子供を見ては、どうしてこんな簡単な問題が分からないのかと、軽蔑とは全く別にただ単純に不思議だった。小学校の頃の通知表は三段階評価なのだけど、国語、算数、理科、社会の主要な四科目はいつも上位の評価を貰っていた。音楽や体育などで時々中位の評価をもらうくらいだった。 だから私にとって小学校とは、勉強をうまくやっていく空間ではなかった。それよりも本当に難しかったのは、その閉鎖された空間でどのように振舞って時間を何とかやりすごすか、だった。私にはその人間関係の方が何百倍も難しかった。人と関係を結ぶことがひどく困難なことに思えた。それでいて、私は周りの子供たちと何も変わらないんだという振りをし続ける必要があった。その振りをし続けないと、本当にそのクラスの中で私は孤立してしまいそうだった。毎日が気が気でない思いで、小学校にいる時はまるで、崖の間に架けられた細い平均台の上を歩いているような気持ちだった。少しでも気を抜いてしまうと私はその崖の底に転落してしまい、そしてもう永遠に上には戻れないのだと思っていた。私は必死に、面白くもないのに笑っていたし、私の友人の要求には、どんな要求であっても断らないようにした。 小学三年になったとき、私たちはクラス替えというものを経験した。 多くの子供たちにとってもそれは不安な行事の一つだったのかもしれないけど、私にとってはその不安は比ではなかったと思う。誰と同じクラスになるのか。前のクラスで友人として過ごしていた子供と同じクラスになれるだろうか。もし、まったく私が馴染みの無い子供たちとだけ同じクラスになってしまったらどうしよう。始業式の日が近づくにつれて、私は不安で不安でしかたなく、そのことだけを考えて過ごしていた。
2008.12.01
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