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私は小学一年のときから、最寄り駅のスイミングスクールに通うことになる。 私のほうから通いたいと言った記憶は全く無い。おそらく親のほうで、体作りのためにいいだろうから、くらいの理由で通うことになったのだろう。当然妹も同じスイミングスクールに通うことになる。毎週水曜日、週一回の練習があった。そして月一回試験があって、それに合格すると一つ上のクラスに上がっていくというシステムだった。下のほうのクラスでは色々な泳法を習うというものだったが、上のクラスになると全てタイムによってクラスが決まっていた。水曜日、小学校から家に帰ると私はスイミングスクール指定の服に着替え、そして水着やゴーグルをカバンの中に詰め込んで近くの歯科病院の駐車場に向かう。そこがスクールバスの乗り場になっていて、それに乗り込むと方々の地域を回って生徒を回収していきながら、五十分ほどかけて駅に到着する。駅までは最短距離で行けばたかだか十分で着く距離だったので、そのスクールバスはかなり遠回りして多くの生徒をその中に詰め込んでいた。そしてスクールに着くとロッカーに荷物を詰め込んだ後に、ちょっとした広間に集まる。そこで時間が来るとトレーナが前に立ち、大勢の子供たちと準備運動をした後に、さっそくプールの中に入ることになる。 正直言って私は、そのスイミングスクールが嫌いで嫌いでたまらなかった。そのスクールはそれなりに厳しくて、上のほうのクラスに行くとかなりの量の泳ぎこみを要求された。その練習は、少なくともその当時の私には本当に苦しくて、口に入ってくる塩素臭い水に気分が悪くなりながらひたすら泳ぎ続けた。私は別に水泳のオリンピック選手を目指すわけでもないのにそんな心身に負担の多い練習をすることにひどく抵抗を感じた。そのような理由もあって、小学生の私にとってそのスイミングスクールの練習のある水曜日とは一週間の中でもっとも嫌いな曜日だった。水曜日と聞くだけでのどの奥から嫌悪感がこみ上げてきたし、歯科病院でバスに乗り込み、次第に駅に近づくにつれてどんどん憂鬱になっていった。そして練習が終わって帰りのバスに乗り込むと、真っ暗な駅前の道路を行きかう車を見ながら、あと一週間はこの苦しみを味わわずにすむことに心の底からほっとした。 ただ、今になって思えば、スイミングスクールに通ったことはそれはそれで良かったのかもしれない。スイミングスクールのおかげで、小学校の体育の時間などで私はそれなりに優秀な子供として過ごすことができたのだから。週一回泳ぎこんでいたおかげだったのか私は基礎体力はそれなりについていて、そして小学校低学年の体育の授業では基礎体力さえあれば、走ることだって球技だってクラスの中では上位の部類に位置することができたのだから。小学校というひどく閉鎖された空間では、体育の時間にそれなりのポジションに位置しているということは大切なことだったような気がする。体育の時間に活躍するということで、私という存在の存在感をそのクラスの中に印象付けることができた。
2008.11.30
高校生のときクラスメートと、自分の兄妹についての話になったとき、「妹との会話はほとんど無い」 と私は正直に言ったことがある。 するとクラスメートはひどく驚き、「それ、絶対変だよ」 と言った。だけどそのときの私には何が変なのかよく分からなかったし、別に変だとは思わなかった。私にとって知っている兄弟とは私自身の兄妹のみであって他の兄妹がどのようなものなんて知らなかった。だから心の中では、他の家の兄妹もこのようなものなんだろうと漠然と思っていた。でも今になって思えば、やっぱりお互いに全く干渉しようとしない私と妹の関係は「変」だったのだと思う。 小学生のときの私についての話に戻そう。 正直、一年生や二年生などの低学年のときの記憶はほとんど残っていない。その頃の私はどのような子供だったのだろう。その頃の私は、まだ普通の子、という役割をそれなりにこなしていたのだと思う。小学校低学年の頃は、それでも私は自分の人間的な変質に気付いていなかった。周りの子供たちとそんなに変わらない存在だとまだ自分のことをまだ思っていたのだと思う。確かに自分から他の子供を遊びに誘うことはなかったけど、誘われたら遊びに行くようにしていたし、クラスの中にできる仲良しグループの派閥争いにもそれなりにうまく対処していた。後になってもたげてくる様々な壁にまだ悩まされることのない、私の人生の中ではそれなりに幸せに過ごせていた時期だった。親に自転車を買ってもらってクラスメートと町の中を走り抜けたりもしたし、近くの公園で色々な遊びをしたりもした。 また、小学生の頃は、誕生日にその子供の家でお誕生日会なるものが時々開催された。それは、誕生日を迎えた子供が、その子供が日頃仲良くしている子供たちを自宅に呼んでちょっとしたパーティをするというものだった。私もそれなりには呼ばれて、そして呼ばれるごとに、何をプレゼントとして贈ればいいかをとても悩んでいたのを微かに憶えている。誕生日会に呼ばれた子供は、一つプレゼントを買ってもっていくことになっていた。プレゼントを選ぶということがその当時の私にはなかなか大変なことで、何を選ぶかでいつも悩んだ。相手が欲しがるもので、かつ他の子供が贈るプレゼントと中身が被らないようにしなければならない。私は文房具屋でちょっとした文房具をいつも買っていたのだけど、その店で様々な商品を見ながらプレゼントを決めるという行為が私とって苦痛ですらあった。 その誕生日会だけど、結局私自身としては一度も開催したことはなかった。なぜだったのだろう。私自身が開催しないでくれと親に頼んだのだろうか。いや、私自身が親にそのようなことを頼んだ記憶は一度もない。きっと、私の方から、「誕生日会を開きたい」と絶対に言わなかったので、親のほうでも敢えてその誕生日会を開こうとは思わなかったのだと思う。多くの子供たちが家に来てその子供たちの相手をするというのは、親にとってもストレスを伴うことだったのだろうから。それと、私の誕生日自体が春休みにかかっていたことも理由としてはあったのかもしれない。ただ、たとえ春休みにかかっていなかったとしても、私が自分の誕生日会を開いていたとはとても思えない。
2008.11.29
双子の妹とは小さい頃は人並みの兄妹のように一緒に遊んだことはもちろんある。何をして遊んだだろうか。鬼ごっこだったような気もするし、かくれんぼだったような気もする。ただ、私たちが中学に進み高校に進むにつれて、私と妹はあまり会話をしなくなった。通常の兄妹でも、年長になるにつれて興味の範囲も変わってくるし、会話が少なくなるのはそれほど不思議なことではないのだろう。だけど、私と妹とはその「普通」という範疇を簡単に越えていた。私はだんだん、彼女と会話を持つということが無くなっていった。そして無くなるにつれて、私はますます彼女との間に壁を感じた。私の方から壁を作って、そしてその壁をどんどん高く建て増ししていくようになった。気付けば、もう私一人の力ではその壁を乗り越えることができないくらい、その壁は高く、強固なものとなっていった。もう最近ではほとんど会話もないし、お互いに干渉しないようにしていた。少なくとも私のほうは、彼女に干渉することは一切なかった。私の方に干渉さえしてこなければ、私はまるで彼女が存在しないかのように振舞った。 どうしてこうなったのだろう。 それは今の私にとっても一つの謎だった。きっと何らかのきっかけがあったのだろうけど、それが思い出せない。小さな小さなきっかけだとしても、それを修復することなくそのままに放置していたらいつの間にか二人の間の壁は非常に高いものになっていたのだと思う。出来事のきっかけなんていつだって些細なものだ。そして私には、その小さな綻びを修復するだけの能力が無かった。できることはその現実から眼をそらして、その現実が存在しないかのように振舞うことだけだった。そしてその対処法は、最も悪い対処法であった。だけど私はそのことを考えもせずに、その対処法に縋りつくようにして兄妹として過ごしていた。いつの間にか私にとって兄妹とは、まるで同じ家に住んでいる他人のように、近くて、それでいて非常に遠い存在になっていた。
2008.11.27
すでに冬の気配が濃厚に漂っていてひどく空気が冷たくなっている。私は自分の中に少しでも体温を閉じ込めようと腕を組んで歩き出した。駅までは歩いて三十分ほどの距離になる。以前はバスを使っていたのだけど、健康のためと、その三十分の徒歩で色々と考え事をしたいことと、そしてちょこっとだけバス代を浮かすために歩くようにしていた。 家の近所の通路では、近くの小学校に通う子供たちがグループになって歩いていた。それは私が通っていた小学校に同じく通っている近所の子供たちだった。ひどく楽しそうに歩いている。私はその無邪気に笑いながら歩く子供たちを見遣りながら、私にもこんな時期があったのだろうか、と思った。「無かったんだろうな…」 私は心の中で呟いた。 一年生の担任の教師はSという女性の先生だった。今思えば、その当時のSはとても年が若く、おそらく私のクラスを持ったのが初めてか、あるいは二度目くらいの担任経験だったのだと思う。実はそのSは、その後の六年間で、四年間も私の担任を務めることになる。 一年生は一学年に三クラスあり、私は三組だった。そして私の双子の妹も当然同じ市立小学校に通うことになり、クラスは二組だった。おそらく、学校のほうで気を回して双子で同じクラスにしないように配慮していたのだろう。当然といえば当然だったけど、それでも今になってみればその配慮もありがたかった。同じクラスに兄妹ががいるという状況はきっと、我慢できないものだっただろうから。結局私と妹は、小学校では一度も同じクラスになることは無かった。 その私の双子の妹についてなのだが、会社などで自分の兄妹のことを聞かれたときに私は正直に、「双子の妹がいる」 と答えることにしている。だけど、そう答えるといつだって驚きの眼で見られる。そのような反応を目の前にするたびに、双子という存在はきっとその言葉の浸透度以上にはそれほどありふれた存在ではないのだな、と思う。やはりどこか珍しい存在なのだな、と思う。以前の会社の飲み会で同じように私が双子であることをしゃべったら、眼の前に座っていた二つ下の後輩であるEが、「私の知り合いにも男女の双子がいるけど、二人は仲が良くて、二人だけで映画に行くこともあるらしい」 と言った。Eの言葉を耳にしても、私はそんな双子を想像することもできなかった。二卵性双生児であったので私にとって双子とは普通の兄妹と変わらないと感じていた。ただ同じ年に兄妹が生まれただけなのだと捉えていた。 でも今になって思えば、Eが言った双子はどこか異常であるような気がした。だって、たとえ双子でないとしても、いい年した兄と妹、あるいは姉と弟が二人だけで映画を見にいくのはあまり普通のことだとは思えない。
2008.11.26
私はふっと考えがとまった。そして頭の中を探ってみる。一つ思い出したことがあった。私は後先考えずに室長にその記憶を話していた。「変な話なんですけど、昔NHKで、「プロジェクトX」という番組があって、それが僕はとても好きだったんです。だから私も、色々な壁を乗り越えて世の中に全く新しい製品を送り出すという仕事をしたかったのだと思います」 確かに私は「プロジェクトX」という番組が好きだった。色々な障壁を乗り越えて、そしてチーム一丸となって一つのプロジェクトを成功に導くという単純なストーリーに、比喩とかではなくて本当に涙がこぼれそうになった。私は、その単純なストーリーに確かに心を動かされていたし、私もこのような生き方をしたいと思った。 就職活動をしているときに、そのときに感じた思いがどこかにあり、メーカの設計開発職に就けば、そして設計職として世の中にまだ無い製品を作り出していくことができればそのようなことができると思った。それは、絶対に設計職に就きたいというほどの強い思いではなかったけれど、設計職という仕事も悪くはないかもしれないという思いは、就職活動をしていたときの私の中に確かにあった。 ただ、設計職として何を作るのか、については深くは考えていなかったのだと思う。富士山のふもとでNさんに答えたように、「学校に推薦枠があったので、ちょうどいいやって感じで応募しました」というのが正直なところだった。とりあえず設計職に就けば私の望みは叶えられるものだとどこかでは信じていた。 だけど、私は間違っていた。その会社で、私はそのことを思い知らされることになる。 次の日、私はいつもと同じように六時に起きた。 最近仕事としては忙しくはなくて早く帰れるので、早寝早起きを心がけていた。一昨日車の中でNさんに「何時に起きているの?」と訊かれて、「六時です」と答えたらひどく驚かれたのを思い出す。 居間に降りていくとすでに両親は起きていた。母に、「おはよう」 と声をかけられたので、「うん」 と答える。 私は顔を洗ってまた自分の部屋に戻った。自分の部屋では朝の日課であるちょっとした運動をする。それは昔読んだヨガの本に書かれていたもので、三分ほどの簡単な運動だった。そして眼鏡をかけて日記を取り出した。二ヶ月前から日記を書くようにしていた。日記として前日の出来事を思い出しながら反省を書き出していくことを自分に課している。そして改善すべきことがあればそれをはっきりと書き、そしてそのことに注意しながらその日一日を過ごすことにしていた。 午前八時になったところで私は家を出た。
2008.11.24
私は家から一時間半ほどにある会社に勤務している。正確に言うと、その会社の一つの事業所に勤務していた。その会社は電子機器の製造販売をするメーカであって、私の設計開発という職にあった。 どうして設計という職業に就いたのか。 本当にどうしてだったのだろう。 一昨日、開発途中の製品のについて試験をするために山梨の試験所まで行った。その試験所は富士山のふもとに設置された試験所で、機械から発する電波を測定するために周りの電波の影響が無い山の中に立てられていた。自分の部屋のすっかり暗くなった窓の外を見ながら、そのときのことを思い出す。 私は、別の部署の先輩が車に乗せてくれるということだったので、彼に同乗してその試験所まで行くことになった。 富士山のふもとの山々はすでに紅葉で満ちていて、ひどくのどかな風景だった。車の中で彼と色々な話をしていたのだけど、その途中、「どうして今の会社に入ったの?」 と訊かれた。 この質問は新入社員として部署に配属になったときも、その部署の人たちから飲み会の席などで何度となく質問された。そして質問されるたびに答えに困ってしまった。私の中に明確な答えがどこにも無かったのだから。 だからそのときも私は、紅葉で一杯の山を見遣りながら、「きっと、就職について深くは考えていなかったんだと思います。学校に推薦枠があったので、ちょうどいいやって感じで応募しました」 と言った。彼は、私のその答えに納得いかないような顔をした。当然だったと思う。だって普通の人にとって就職は人生の大きなイベントであり、そんな曖昧な理由で会社を選ぶということそのものが理解できないのも当然だった。だけど私は、その質問に対してはそのように答えるより他に無かった。結局、そのときの私は、自分が何をやりたいのか全く分かっていなかった。 ただ、その会社を選ぶのには大して理由は無かったのだけど、メーカの設計職を選んだのにはちょっとした理由があった。 もう二年くらい前になるのだろうか、私の所属する部署の室長が異動で変わったことがあった。その新しい室長は部署の私たち若手に対して一通のメールを送付してきた。「一度、面談をしたい」 そのような内容だった。そしてそのメールには添付ファイルが付けられていて、それは一種のアンケートで色々と記入するようになった。 その面談は、室長の席の横で一対一で行われた。その中でどのような話をしたのかははっきりと覚えていない。ただ、その面談の最後に室長から次のような質問をされたのだけはよく憶えている。「どうして研究ではなく、設計の仕事を選んだの?」
2008.11.23
小学校一年のとき、もう一人Kというクラスメートがいた。彼とも時々放課後に遊んだ記憶がある。ただ何をして遊んでいたのかは憶えていない。Iのときと同じようにファミコンをしていたような気もするし、自転車に乗って近くの公園に行っていたような気もする。これほど記憶に残っていないのであれば、その記憶は私にとってそれほど印象的でもなかったし、好ましい記憶でも無かったということなのだろうか。あの頃の小さな私にとって放課後にクラスメートと遊ぶことということは、楽しむべきものではなくて、クラスの中でやっていくための一つの義務でしかなくて必死に「楽しんでいる振り」をしていただけなのだろうか。もしかしたら、そうだったのかもしれない。その「楽しんでいる振り」は、それ以降の私にとって、クラスの中に溶け込んでいくためのとても大切な一つの技能となっていくのだから。 IもKも私の家のすぐ近くに住んでいた。もっと言ってしまえば、小さな学区のその市立小学校に通う子供たちはみんな、歩いて五分もかからないような近所に住んでいた。 その頃の私たちは本当に小さな世界に生きていた。家と小学校の中だけが私たちに与えられた世界だった。その世界で挫折してしまうともう他に行く世界は無かった。だからこそ、あの頃の私は必死になってその世界の住人になろうとしていたのだと思う。必死になって、「楽しんでいる振り」をやり続けていたのだと思う。ただ、確かにその世界は息が詰まるような世界でしかなかったのだけど、だからと言ってその世界の外に早く出てみたいと思っていたのだろうか。思ってはいなかったような気がする。その世界は息が詰まる世界だったのだけど、そうかと言って、他に行ってみたい世界なんてありはしなかった。「小学生の頃の私…」 私はそこで記憶をたどるのを止めた。 私の中の記憶はひどく朧なものに変質してしまっていて、それを復元していくことは中々難しかった。ただ、今の私の問題の根源は私の過去にあるという思いは変わらなかった。いや、問題の根源が過去にあるというよりも、問題の根源を明確にし、その問題を解決していくためのヒントは自分の過去にしかないと言ったほうが正確だろう。私という人間は、私の過去の生き方、そのものなのだから。小学生の頃の私にも、今の私の中の人間的な性質が少しずつ顔を見せていたのだと思う。私はそれをはっきりさせたかった。
2008.11.22
小学校に入ったあたりからそれなりに記憶が頭の中に残っている。と言っても時系列で事細かに記憶として残っている訳ではない。幼稚園の頃の記憶よりは密度は高いとしても、それでも依然として浮島のようにぽつり、ぽつりと記憶の海の中に小学校でのエピソードの記憶が浮かんでいるだけだった。 小学校一年の頃の私は、放課後はIというクラスメートと良く遊んでいた記憶がある。Iは幼稚園も同じ幼稚園だったけど一度も同じ「組」になることもなく、それほど仲良くも無かった。小学校で同じクラスになったのがきっかけだった。 実はそこの部分もあまりはっきりした記憶は無い。ただ、Iの家にときどき行って、その時ちょうど流行り始めていた「ファミコン」こと、ファミリーコンピュータをして遊んだのをかろうじて憶えている。 私からIに近づいたのだろうか。いや、それは無いだろう。小学校六年間の記憶をたどったとき、私の方からクラスメートに対して、「放課後、一緒に遊ぼう」 と誘ったことはただの一度も無かったような気がする。すべて、他の誰かの誘いがきっかけだった。私はいつだって誰かの手が差しのべられるのをじっと待っていた。それは、私が自分に自信が無かったことが大きかったのだろうか。自信が無かったから私からの申し出なんて誰も受けてはくれないという思いがどこかにあって、そして誰も誘うことができなかったのだろうか。それとも、私はそもそもとして誰か他の人と放課後に遊ぶことが好きではなかったのだろうか。誰かといて気を使うくらいなら、一人でいたほうがましだと思っていたのだろうか。きっと、その二つの理由がそれぞれ同じだけ混ざり合って、そして私は六年間誰一人として「放課後、一緒に遊ぼう」と誘うことが無かったのだと思う。そんな寂しい子供だった。 だからきっとIのときも、Iのほうから私に近づいてきて私は彼と遊ぶようになったのだと思う。
2008.11.21
自分の部屋に入ると、私は肩から提げていた小さなカバンをカーペットの上に放り出す。そして上着を脱ぐとそのまま椅子に座った。しばらく何も考えずに呆然と椅子の上に座っていた。何かをしようとは思うのだけど、何をすればいいのか分からない。いや、そもそも何かをしようとすら思えてはいないのかもしれない。「どうすればいいんだろう…」 呟いてみてもその言葉に対する返事はどこからも戻っては来なかった。ただそのことに絶望はしない。もうすでにそのような生き方に慣れてしまっている。「どうしてこのようになってしまったんだろう?」 駅から家まで、このことについて歩きながら考えていた。私の責任だったのか、それとも私以外の何かの責任だったのか。きっと私の責任だったんだろうな。人生のどこでだって、その私の生き方を変える機会は何度だってあったはず。だけどその機会を活かしてはこなかったし、活かそうとすらしてこなかった。そのような生き方をしていれば、自分自身を変えることなんてできるはずがなかった。 私は立ち上がって、窓の傍に歩み寄る。窓を開けると、もうすっかり暗くなった外の雰囲気が部屋の中に流れ込んできた。家の前の小さなアスファルトの道は、弱い街灯を受けて薄暗く佇んでいる。「私は自分を変えたかったのだろうか。自分の生き方を変えたかったんだろうか」 それすらも分からなくなりそうだった。 もし自分を変えたいと思うのであるのなら、その変えたいと思う自分はそもそもどのような存在だったのだろうか。どのような人間だったのだろう。 私は自分の過去に答えがある気がして、過去に意識を戻した。 私は、引越し先の家のすぐ近くの小学校に進学した。 どのくらい近くかというと、歩いて一、二分で着くくらい近くだった。その小学校は住宅街の真ん中に建てられた、開校してそれほど年月が経っていない公立の学校だった。新しいと言っても、確か十年くらいは経っていたのだけど。 基本的に一学年にクラスは三つあり、一クラス三十人くらいが在籍していた。生徒は皆、学校の近くに住む普通の家の子供たちだった。
2008.11.19
引越しに関して憶えていることといえば、引越し先で通う幼稚園が決まるまでの空いた時間、近くの公園で妹とブランコに乗って遊んだことくらいだった。そんなどうでもいい些末な記憶しか私の頭には残っていなかった。 私は少し離れた幼稚園にバスで通うことになった。 その引越し先の通う幼稚園が決まってそこに通うようになってから、私は自分が他の子供たちとは違うということに気付いた。他の子供たちは無邪気に外に出て遊んでいたのだけど、私はその輪の中に中々入ることができなかった。いつだって部屋の中で、そこに置かれていたブロックのような玩具で遊んでいた気がする。いや、遊んでいたのではなくて、遊んでいる振りをしていた。時間をやりすごすためにそのような演技を必死になってやっていたのだと思う。 きっと、その頃の私はあまりに幼かったから、その当時の私は自分という人間の異形な変質にはっきりとは気付くことはなかったのだろう。だけど心のどこかでは生き難さをもうすでに感じていたのだと思う。私は、そんな子供だった。 その当時のことに関して私はずっと忘れていた。 それを思い出したのは、以前押入れの中を整理していたら幼稚園の頃の通園手帳が奥から出てきたときだった。それは幼稚園に通うごとにシールを一枚貼っていくもので、月の終わりには保母から簡単なコメントが書かれていた。 その一つの月のコメントには次のように書かれていた。「もっと先生とお話しましょう」 私は、その言葉を読んだとき、ちょっとしたショックと、やっぱりそうなんだという腑に落ちたような気持ちがした。私は保母に全く馴染まなかった。きっと私の方から言葉をかけるようなことは全く無かったのだと思う。 通園手帳を久しぶりに見てそのことを突きつけられたそのときの私は、やりきれないような気持ちに襲われた。幼稚園の頃の小さな私はすでに、この世界は私が存在するべき世界では無いのかも知れないという思いを抱きながら、必死になって生きていた。その様子が眼の前に浮かんできて、私は自分が自分で寂しくなって、そして静かにその通園手帳を押入れの中に戻した。
2008.11.18
もう一軒の本屋にも行こうかと思ったが、やめた。本屋を出た私は、家に帰るために、先ほど歩いてきた道をまた戻っていく。 私が幼稚園の頃に住んでいた東京の家は、父の会社の社宅だった。 団地のように、いくつかの建物が建っておりその中でその会社員の家族が肩を寄せ合うようにして生きていた。その社宅に囲まれるようにして小さな公園のようなスペースが設けられており、社宅に住む家の子供たちが遊べるようになっていた。 私の記憶は、この社宅から始まっている。始まっていると言っても、そこに住んでいた三、四年の月日を憶えているというわけではなく、ただ浮島がぽつりぽつりと浮かんでいるように、記憶の海の中にいくつかのエピソードがゆらゆらと浮かんでいた。その記憶は、ストーブに尻をぶつけて火傷した記憶や、納豆を食べてひどく吐いた記憶など他愛もないものだった。 その頃の私は、自分のことを他の子供とは違うとは思ってはいなかった。通っていた幼稚園の子供と同じような、平凡な子供だと自分のことを捉えていたのだと思う。その頃の私にとって特にこの世界は生きづらい世界でもなかった。 ただ、その頃の私はあまりに物を知っていなかったから、何一つその世界の事が見えていなかったのかもしれない。偽りの世界の中でぬくぬくと幸せに生きていたのかもしれない。まだ四、五歳の小さな子供であった私にとっては、当り前のことだった。 家族連れや学生などの若者たちが歩いていた駅前の道は、もうすっかり暗くなっていた。その暗くなった道を一人歩く。 私の家は、駅から歩いて二十分くらいのところにあった。通勤するときは当然その道を往復する必要があって、以前はバスを使っていたけど最近は歩いて通うことも多くなった。夏場の暑いときだけはさすがに歩くのはつらいのでバスを使って、それ以外の季節ではほとんど歩いていた。 私は、その歩いている時間が好きだった。 色々と考え事ができるからでもあったし、体を動かすこと自体が少し心地良かったのだ。バス代として会社から交通費を貰っていたので、その交通費を浮かすという意味も少しだけあった。 私はもう二十年以上、その家に住んでいる。東京の社宅からその家に引っ越してきて、それ以来ずっとそこに住んでいた。住宅街に埋もれた、何の変哲も無い小さな家だった。だけど、私の生活の基盤をなしている家でもあった。 ドアを開け、無言で家に入る。 私の様子をドアの向こうから見た母が、「おかえり」 と声をかけてきたので、私は小さな声で「うん」とだけ答えた。 玄関を入ってすぐのところに階段があって、私は居間に入らずに階段をてくてくと上がる。二階の一番奥の部屋が私の部屋だった。 東京の社宅から横浜の家に引っ越してきたのは、私が六歳のころだっただろうか。いや、五歳のころだっただろうか。はっきりとは憶えていない。
2008.11.17
私には双子の妹が一人いた。私が男なので、当然二卵性双生児ということになる。ずっと以前、妹と「一番古い記憶は何?」という話をしていたとき、彼女が私の持っていない古い記憶を持っていて驚いた。私の頭の中にはすでに一つも存在しない、大阪での記憶もいくつか持っていた。 私は他人に馴染まない子供だった。馴染まない、というよりも馴染めないと言った方が正確かもしれない。簡単に言ってしまえば、極度の人見知りだった。それに、極度の怖がりだった。私は新しい世界に入っていくことに大きな不安をいつも感じていて、そしていつだって自分の馴染んだ世界のみで生きるようになっていた。 小さい頃はそれでも良かったのかもしれない。そのような生き方でも何とか生きてこれた。だけど人生は、立ち止まったままではどこへもたどり着けない。最近、そのことを強く思うようになった。 週末の最寄り駅は、まるで蟻の巣の中の蟻のように多くの人が行きかっていた。 私はもともとの目的であった本屋へと向かう。その本屋は、郊外の駅にある本屋としてはそれなりに大きな規模のもので、それなりに本がそろっている。私は会社の帰りによくその本屋に立ち寄っては色々と物色した。 おすすめのコーナーの前で立ち止まる。いくつかのビジネス本を手に取ってはぱらぱらとめくる。 その時、自分が新入社員だった頃のことを思い出した。もう四年も前になる。 その頃は、私の性格的な問題で会社に馴染むことができなかった。会社に行って、そして帰る頃には精神的な疲労でぐったりとした。だけどたとえ疲労に押しつぶされそうであっても私は毎日のようにその本屋に寄った。その本屋は午後十時までやっていて、駅に着いたのが午後九時四十五分で、たとえ十五分しかいられないとしてもその本屋に寄った。そしてよく、おすすめコーナーの前に立ち止まっては新刊ビジネス本をパラパラとめくった。 きっと、そこに希望を見ていたのだと思う。 自分の中に知識を蓄え、その知識を武器に生きていけるようになれば、たとえ社会に馴染めないとしてもこの世界を生きていくことができる。そう自分に言い聞かせては、新刊本を読んだ。 その頃の私と、今の私。本質的には何も変わってはいない。 私の顔に苦笑いが浮かぶ。 だけど、もう私はそこに希望を見ることはできなかった。そこには何の希望も無かった。私は希望ではなくて、現実を見なければならないということに気付いていた。それは四年前の私との唯一の違いであって、その四年間で少しは私も成長したということだったのだろうか。 結局その本屋では何も買わずに外に出た。
2008.11.16
「どこに希望があったのだろう…。どこに未来があったのだろう…」 私は小さな声で呟いてみる。 声に出すことで何かが見えてくるのを期待したのだけど、結局何も見えては来なかった。私の目の前には、何の変哲も無い駅前の道と、そして平凡な人生がずっと続いていて、それが見えるような気がした。 私の住む最寄駅はそこそこ栄えている場所で、週末になると人も多く店もそれなりに多い。いわゆる郊外の住宅街のための駅だった。今日も週末で、道には家族連れや若者たちが多く歩いている。 途中、小さい子の手をつないで歩いている母親の横を通り過ぎた。小さい子は顔をくしゃくしゃにして大きな声で泣いている。母親が何やらきつい声で叱りつけていた。 私はその子供の顔を一瞥して通り過ぎる。そして心の中で、「今のうちに思う存分泣いておけよ…。大人になったら泣きたくても泣けなくなるんだから…」 と言葉をかける。 私は苦笑した。私は泣きたかったのだろうか。 そんなつもりは無かった。ただ、前に進みたかった。前に進んで、今いる世界とは別の世界に行ってみたかった。「それなのに、どうして行けないんだろう。何が邪魔をしているんだろう」 私は歩きながら考え続ける。 きっと私にはまだ見えてないものがあった。まだ分かっていないものがあった。もう三十年も生きてきたのに、きっと私には大切な何かが分かっていなかった。 人間として生きていくために大切な何かが…。 私は大阪で生まれた、らしい。 生まれたといっても二歳くらいまでしかいなかったから全く記憶は無い。本当に微かな記憶すら無かった。その後、父の仕事の関係で東京に出てくるのだけど、ようやくその頃になって私の頭の中に微かな記憶が生まれる。
2008.11.15
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