星の国から星の街へ(旧 ヴァン・ノアール)

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2024.06.24
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カテゴリ: 読書 原田マハ

妻・須美子をモデルにした「休む赤衣の女」1929年頃 個人蔵

 芸術新潮4月号にエコール・ド・パリの時代にパリで充実した制作活動をしていた2人の画家「板倉鼎・須美子」について紹介する記事がありました。

 冒頭に「モデイリアーニ、パスキン、キスリング、藤田嗣治などが華やかに活躍した1920年代のパリで短くも充実した制作を行った板倉鼎、そしてその妻・須美子のことを知る人はどれほどいるだろうか?」とあり、私もこの2人の画家の名前を初めて知りました。

 板倉鼎(1901-1929)は東京美術学校で西洋画を学び24歳で「帝展」に初入選、その年にロシア文学者「昇曙夢(のぼりしょむ)」の長女須美子(17歳)と結婚後、2人は1926年にパリを目指し横浜から船に乗ります。藤田嗣治が単身パリへ向かった13年後の事です。

 当時パリでは数百人に上る日本人美術家たちが活動していたようで、中でも藤田嗣治は1919年には既に「サロン・ドートンヌ」に初入選を果たし1922年には日本画に用いる筆も使って描いた「寝室の裸婦キキ」がパリの話題をさらい
​エコール・ド・パリの旗手として名を馳せていました。

 「休む赤衣の女」はパリでの暮らしが鼎に制作の上で大きな影響を与えモダンな画風に変遷し新境地が間近である事を物語る象徴的な1点と説明があります。私には藤田嗣治の影響も大いに受けた1点に見えます。


サロン・ドートンヌ入選作の1点「ベル・ホノルル25」1928年頃

 一方、日本では音楽を学んでいた妻の須美子は鼎の手ほどきで絵を描き始め、1927年にはサロン・ドートンヌに初入選し、その後も入選を繰り返し藤田嗣治からも称賛されるほど画家としての才能を開花させて行ったそうです。

 共に将来を嘱望された2人が渡仏から3年後の1929年に何故帰国を考えたのかは何も書かれていませんが、歯の治療から敗血症を患い鼎は28歳の若さで帰国前に亡くなってしまいます。幼い長女を連れて帰国した須美子は再出発を期し「有島生馬」の元で絵画指導を受けるものの結核を患い25歳で他界してしまいます。

 パリで華やかな活躍をした画家たちの陰で埋もれてしまっていた2人の作品や日本に送った多くの書簡が時を超えて2015年、17年に鼎の故郷の千葉県の松戸博物館の「回顧展」で展示され光が当てられたと記事の最後に書かれています。もしかしたら忘却から蘇るべき作品はもっとあるのかもと思いながら、エコール・ド・パリの作品を多く所蔵する「北海道近立代美術館」で「エコール・ド・パリの日本人画家展」を企画してくれたらなぁと思います。

 余談ですが、先週の日曜日の「北海道立近代美術館」でのミュージアムトークは「パスキン」についてでした。エコール・ド・パリの時代ロシアや東欧からパリに逃れた来た多数のユダヤ系の1人であった「パスキン」の異郷にある喜びと孤独について学芸員から解説があり「自分のルーツがユダヤ人である事に葛藤し続けた生涯だったのかなぁ」という思いを強くしました。


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最終更新日  2024.06.24 12:50:17
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