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ウォール街で起きたデモは全米に拡大をはじめ、当初無視をきめこんでいたマスコミもようやく報道をはじめたようだ。アラブの春の民衆デモが、英国の「暴動」へとつながり、そして今回の米国のデモへとつながっていく。日本からみれば全くの異文化でしかない中東世界も欧米の感覚ではずっと身近なのかもしれない。米国の指導者達は、つい最近の英国の「暴動」の映像が目の前にちらつき、気が気ではないのではないか。デモが暴動に発展したらそれこそ悪夢であろうから…。こうした米国の動きに対する日本のマスコミの扱いはひかえめだ。デモで何百人拘束といったように見出しだけをみると単に百人単位の規模であるかのように誤解させるような表現も目立つ。実態は7万人ほどの参加者があり、若者以外の者も多いという。http://blog.goo.ne.jp/tarutaru22*資本主義は究極まで発展すると少数の資本家と多くのプロレタリアの階級対立が先鋭化し、やがては革命によって次のステップに移行する。100年以上前にマルクスはこう語っているが、その大筋は正しかったのではないか。ロシア革命や中国共産主義革命、東欧や北朝鮮での社会主義政権樹立。あんなものはおそらく「社会主義」や「共産主義」とは無縁である。旧政権を倒した勢力が自らを権威づける手段として社会主義思想を疑似宗教的に使っただけで、その結果できたものは党官僚が特権を享受する格差社会であり、しかもその地位は往々にして世襲もされるので、どちらかといえば中世社会に近い。今の北朝鮮がよい例だろう。しかも「社会主義」圏のほとんどは途上国やそれに近い国であったため、西側からの技術移転がとだえればしだいに立ち遅れていった。冷戦の勝敗は社会主義と資本主義の優劣と言った問題ではなかったのではないか。*もちろんマルクスは19世紀のひとであれがそのまま今に通じるとも思えない。親が地主や工場主なら資本家階級で労働力以外に売るものがないなら労働者階級という分析もいかにも古い。完全平等の千年王国たる共産主義社会も、不平等に生まれつき不平等を願う人間の性からすれば見果てぬ夢であろう。しかし、資本主義の発展が途方もない格差と貧困を生み、しかもその貧困層の数がますます増え、その状態はますます悲惨になっていくというあたりは当たっているとしか言いようがない。資本主義は機会の平等は保障できるが結果の平等は保障しない。優秀な人材の発掘は企業にとってもプラスなのだから。その結果社会は自らの能力、努力、運で富を手にできる者とそうでない者とに二極分解していき、当然ながら圧倒的多数は後者である。そうした貧困層はやがては社会に対して異議申し立てをしはじめ、革命という形をとらなくとも社会は崩壊し、国家は衰退していく。いうなれば一等船客もまきぞえにしながらの船の沈没である。*唯物論者のマルクスはもちろん霊などは信じないだろう。でも、きたるべき社会主義革命を確信し、資本主義の先端国家である英国に移住し、そこで不況がおこるたびに友人エンゲルスと祝杯をあげていたというマルクス。今度の英国暴動ももしマルクスがみていたらどう思っただろうか。やはり自分の理論は大筋では正しかったとうなずいているような気がする。資本主義の発展はやがては多くの人から希望も人間としての誇りもうばっていく。むきだしの資本主義のままだといつかはゆきづまり、国家や社会は自壊していく。
2011年10月03日
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ひとしきり雇用、雇用と騒いでいた菅政権だが、最近では消費税増税とTPPにまい進といったところのようだ。主要紙の声をそろえての翼賛社説もこれを後押しするのだからどうしようもない…。さて雇用の方だがあの就職氷河期よりもよほど実態は深刻のようである。こんな状況を反映して最近の神社には就職祈願の絵馬が目立つというが、今までなかった就職祈願なんて神頼みの領域が出てきたこと自体に雇用の問題が新たな局面に入ったことを示しているのではないか。戦前にも「大学はでたけれど」という時代はあったし、終戦まもない時期だって就職は大変だったろう。でも、そういう時代には、まだ農村共同体があったし、自営業を営んでいる親戚なんてのもけっこうあった。職がなければ農作業を手伝えばよい、親戚の会社を手伝えばよい。全部ではないがそういうセーフティネットを持っていた人もかなりいたのではないか。それを考えると今の事態は深刻である。求職者支援などの動きもいろいろとあるようだが、椅子にすわりたい人の数と椅子の数とが変わらない限り、座りにくさは同じである。卒業から三年以内を「新卒扱い」にしようが、就職活動の時期を遅らせようが、求職者に面接等の指導をしようが、なんの解決にもならない。テレビで就職に苦戦している学生の映像が流れていたが、そう思ってみるせいか、要領の悪そうな学生、不器用そうな学生、友人が少なく人付き合いが苦手そうな学生がはねられているようだ。あと特に女子の場合には容姿も大きい。よい悪いは別にしてかつての就職では大学の偏差値や成績で左右されたが、おそらく今は高度な専門知識でとる技術系は別にすれば、偏差値や成績だけではさしたる武器にはならない。なんというか、面接で受けの悪そうなタイプは徹底した性格改造にとりくむか、そうでなければ、身の丈にあった資格などで生きていくことを考えた方がよい。公務員試験というのもあるが、それも2倍、3倍の面接で最後は決まるようなので、いくら筆記試験をがんばっても、最後の結果は民間と同じことだろう。なんとも生きにくい時代になったものである。就活生に鬱になるものが多いというが、真面目に生きてきて、最後に社会からはじかれたら、そりゃそうもなるだろう。いったいなぜこんなに就職が大変になったのだろう。大卒の質低下ということがまことしやかに言われるがそれは違う。大学進学率は上がり、たしかに若年層自体は減っても大卒の数は増えている。当然、全入に近い大学もあるわけだから質も低下しているだろう。でも、そうした大卒の数が増えたことが原因であるのなら、逆に高校の方は売り手市場になっていなければおかしい。ところが実態は高校も大卒同様の就職難である。就職難の原因は「椅子」の数が減ったということに尽きる。そういう意味では1995年に経済団体が発表した「新時代の日本的経営」というのがターニングポイントになったように思う。http://www.h5.dion.ne.jp/~hpray/siryou/shakaikeizai/nikkeiren21.htmこの中で終身雇用として会社に置くのは基幹的社員だけでよく、他は外部労働力でまかなうべきであるとした。こうした経済界の意向を受け、派遣法の改正などの雇用法制の規制緩和が行われ、「椅子」は少なくなっていったわけである。この「新時代の日本的経営」での労働力を三つにわける方向は、そのまま現在の基幹的正社員、定期昇給なしで過酷な残業を強いられる名ばかり正社員(使い捨て正社員)、派遣・バイトなどの外務労働力という区分にほぼ対応している。民主党政権は自民党政権と同様、雇用の問題にまともに取り組むつもりなどはない。法人税減税が雇用の増加につながるなどというたわ言もちょっと聞こえていたようだが、法人税減税後も就職は依然として厳しい。「正社員」の椅子は限定されており、それも、外国人留学生で埋めようという動きも加速しているようなので、これからは相当数の人が名ばかり正社員や不安定雇用者、ワーキングプアや失業者、無業者といった人生を強いられるようになるのではないか。これでは将来、社会が崩壊し、国家が沈没するのもやむをえないような気がする。
2011年01月19日
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相棒の第8話「ボーダーライン」が反響をよんでいる。http://genkinagochan.blog.ocn.ne.jp/doranyanko/2010/12/season98_e211.html転落していく派遣社員の話であるが、これに多くの人が他人事ではない…という思いをもっているのだろう。実はこのドラマはみていない。ただストーリーをみる限りでは派遣の問題以外にもいくつかの現代的なテーマがうかびあがってくる。まず、就職難という時代は戦前にもあったが、そうした時代と今との差は背景となる社会構造が全く変わっていることだ。かつては農業をはじめとする自営業が社会の中で大きなウェイトを占めていた。また、そうした農業社会の中で良い悪いは別にして地代のあがりで生活のできる地主層もいた。だから「大学をでたけれど」という昭和不況の時代には、職のない学生の多くは郷里にもどって農村で暮らしたり、自営業をやっている親戚のところで勤めるという選択があったのである。第二に上記のこととも関係するのだが、親族間の扶助機能が脆弱になっているということだ。兄弟は頼れる時代ではないし、親にしても、その親世代に余裕がなくなっていれば、頼ろうにも頼れないだろう。それに加え、「家」という意識がなくなって、兄弟はいうにおよばず、親子といえども別の人生という感覚も強くなってきている。第三にこれはロスジェネ世代の派遣社員の話だが、実際の予備軍はもっと広範囲であるということ。就職難や貧困の問題を特定世代に限定して語るような人もいるが、実はロスジェネ以後もずっと就職難は続いており、今また新氷河期を迎えているともいう。そして新卒採用の絞り込みは同時に社員のリストラなどとも並行して行われているので、単純な既得権益ある正社員の中高年と非正社員の若者という対立の図式でもない。さらにいえば、途上国も含め他の国にはあまり見られないような10日以上の連続勤務、月200時間以降の残業という過酷な勤務もまん延しており、そうしたところに勤務している人もまた、失業、不安定雇用予備軍ではないのだろうか。*いったいどこでどう間違えてこんな日本になったのだろう。かつて冷戦時代、「社会主義革命の脅威」なるものが実在していた頃には、保守的な政治家にとっても財界にとっても「貧困の撲滅」が最大の懸案だった。貧困こそは社会主義、共産主義の温床になると考えられていたし、国内にも日本社会党という政党があって、不満層が一定以上に達すれば政権はそちらにいくのではないかと思われていた。社会党は万年野党と揶揄されてもいたが、自民党は福祉や雇用政策で適宜社会党の主張する施策を取り入れ、その結果として政権を維持してきたというのが実態ではないか。その意味で、戦後長く続いた体制は、自民党一党独裁というより、自民+社会党の長期政権というべきものだったのかもしれない。思うのだが、国家として成功したかどうか、社会の在り方としてうまくいっているかどうかは最も数の多い中間層がどのような生活をしているかによるのではないか。その意味で一億総中流ともいわれていた頃の日本社会というのは最大に成功した国家のモデルであった。当時のような社会に戻るのは無理であるにしても、貧困の拡散にストップをかけ、社会の崩壊をとめようとするのであれば、経済的弱者や勤労者の側にたった政治勢力が躍進するしか途はない。おろかにもかつて自民党からわかれた人々が主導権をにぎる「民主党」にそんな期待を託した人もいたようだが、今となっては苦い後悔を感じていることだろう。マスコミは今度は公務員バッシングや正社員バッシングの方に世論を誘導するかもしれないが、そんなものに騙されてもいけない。本当の問題は、「経済的弱者や勤労者の側にたった政治勢力」というものがなかなか見えてこない…相棒の「ボーダーライン」の話を他人事だと思えない多くの人の感覚に合致する政党が見えない、こんなところにあるような気がする。どうでもよいけどこうした政治家の先生方はハロワに並んでいる人達と車座になって話合い、そうした人達の思いや本音をきいてみてはどうなのだろうか。総理のはどうせパフォーマンスだろうけど、そういうのは真似した方がよいと思うよ。山が動かないと、国も社会も沈んでいくばかりだろうからさ。**就職難でもう一つ気になる点。民間企業に入れなかった学生の中には公務員試験の勉強を始める人もいるようだが、公務員試験もすっかり様変わりしているのはあまりしられていない。いまや公務員も面接重視で学科試験を通ってもその先に2倍、3倍の面接試験がある。要は学科支援は単なる足切りで面接で決まるという意味では公務員も民間も同じになってるのである。ありていにいえば、女性ならブスより美人が得、男でも石川遼の方が誰誰(自粛)より得という図式である。せめて公務員試験くらいは公平で私見の入らない学科重視で行えばよいのだが。**「政治について」や「ニュース」のテーマで同じ人が多くのエントリーをしている。同一人のエントリー回数というのは制限できないのだろうか。
2010年12月19日
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いまだにこういう議論があるとは驚きである。「いくら不景気だといっても餓死者がいるわけではなく、努力しだいでどんな職業にも就ける、自由で豊かな諸外国と比べて格差の少ない社会であることはいうまでもない。」今の日本を評した文章である。出典をいえば今月号の「諸君」に掲載されていた「宮崎駿監督、どさくさ紛れの嘘八百はやめてください」という文章で筆者は山際澄夫である。※不景気や貧困といっても餓死者や凍死者がいるわけではないという発言はこれに限らずあちこちにみられる。日本の貧困はアフリカよりマシという某有名女流作家や経済界の重鎮の発言もこれにつらなるものだろう。現実には餓死や凍死はある。餓死のニュースはちらほら報道されているし、ホームレスなどの凍死はたぶんニュースにもならないだけだろう。上記のような発言をする人はこうした事実が目に入らないのだろうか。それにたとえ餓死や凍死をしなくたって、人は「餓死や凍死」をしないために生まれてくるのではない。貧困のレベルが人としての尊厳を保持し、健康で最低限度の生活にみたないものであれば、それはそれで問題であろう。※努力しだいでどんな職業にも就ける。これは中学生でも聞いたら笑い出すのではないかというくらいの明らかな嘘である。言った本人ですらたぶんこんな言葉は信じていまい。思うに日本ではこうした建前としての努力信仰が強すぎ、それが貧しいのは努力不足のせいだといった貧困の自己責任論につながっているように思う。努力ではどうにもならない部分が多い。だからこそ皆人生には苦労しているのである。努力しだいでどんな職業にも就けるものなら、日本社会はスポーツ選手とタレントであふれていることだろう。※日本が自由な国というのも、どこと比較してということだろう。確かに公開処刑や強制収容所のあるところよりは自由だろう。しかし他の民主国家と比べた場合、集会やデモの規制、総理邸宅見学ツアーや新聞投函で逮捕などという実態をみる限り、とてもそんなに自由な国だとも思えない。不況をきっかけにヨーロッパなどではあちこちでデモが起きているようだが、日本でああいうデモがあれば、きっと逮捕者がでるだろう。格差についても、同様にどこと比較してという話である。文化や社会風土によって格差の認識は違う。もともと皆が平等であるべきであるという規範や感覚の強い社会ともともと不平等は当たり前ということを前提とした社会では、同じような格差でもその受け取り方はずいぶん違うはずだ。たしかに地球上にはとんでもない格差があって、それでもそれなりに安定している社会というものはある。たぶんそういう社会では多くの場合、宗教などが安全装置の役を果たしているのではないのだろうか。画面いっぱいの多勢の人がいっせいに祈りをささげる場面などがテレビでよく紹介される。もし人間が絶対神の被造物だというのなら、人には努力などを超えた差があるのはあたりまえであるし、来世の平安は富者にも貧者にも平等に開かれているのであれば、それは現世で苦しむものにとってはこよなく慰めになることであろう。
2009年02月03日
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厚生労働省の講堂に設けられた派遣村・・・5日の朝までに退去という方針らしいが、そう簡単にことがはこぶわけがない。昨年の秋以降、住居と職の両方を失い寒風ふきすさぶ街に放り出された人が多勢いる。頼みの給料も寮費などをひかれて逆にマイナスとなっている例もあるという。派遣村のニュースをみてもそこに行くだけの交通費のない人も大勢いることだろう。また、派遣村に来る人の中には、元派遣以外のホームレスもいるだろうが、ホームレス化の危機にたつ人に手助けしてもすでにホームレスになった人には支援しないという理屈はなりたたないわけで、ホームレスを拒む理由はない。つまりあの派遣村というのは、まだまだ膨張していく可能性がある。※かつては自己責任であり、個人の悲劇として黙殺されていたホームレスなど貧困層の問題が、大量派遣切りということを契機に一気に社会問題として噴出した感がある。新自由主義の嵐の中で、安定した雇用も、あたりまえのようにあった労働者の保護もどんどん空洞化していった。いまや雇用者の3分の1が非正規雇用。年収200万円以下は1千万人超。もちろんこの中には裕福な夫を持つ主婦もいるわけで、全員が全員困窮しているわけではないにしても、困窮している人が少なからずいることには異論はないだろう。非正規雇用は経営側からみれば景気の調整弁という意味もあるので、ひとたび不況になればこんな問題が起きるのは当然予期できたはずだ。20代や30代の元派遣の中には、親の住居に身を寄せている人もかなりいるはずなので、実際の深刻度はもっと高い。あと10年か20年もしたら彼らの親は低収入の息子や娘を支えきれなくなる。そうしたらさらに多くの人々がホームレス予備軍として街にはきだされてくるだろうから。想像をたくましくすれば現在過酷な残業に追いまくられている「正社員」もその頃には体力の限界を感じ、低収入、定職なしの隊列に加わってくるかもしれない。職も住居も失った元派遣労働者達による官庁講堂占拠といういささかショッキングな事態が日本の雇用政策の転換をうながす契機になることを望む。※こんなニュースとまるで時期をあわせるかのように新自由主義を標榜していた元政治家が他界した。彼自身にまつわる興味深く哀しい話は下記ブログで紹介されている。http://caprice.blog63.fc2.com/失敗の責任をとらせるということを主張していた彼は、自身でもそれを実践したわけである。彼のような元官僚の政治家を多数かかえていた民主党という政党もしょせんその本質は新自由主義政党ではないのだろうか。自民の新自由主義的施策に疑問をもつ層が批判票のつもりで民主に票を投じようとするのなら考え直した方がよい。
2009年01月04日
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政府は雇用対策をいろいろと打ち出しているが、そのほとんどが解雇後に寮を提供した企業にナンボ、解雇された元派遣を正社員に登用した企業にナンボ・・・というように解雇された本人ではなく、企業に対する優遇策であることに注意。もちろんその出所は税金である。現在、職と住居を同時に失う非正規雇用者の失業が大問題となっているが、あらためてこうした事態を招来した雇用の規制緩和、その背景となったコイズミらの真自由主義政策の罪深さを思わざるを得ない。この年末年始、そして冬にかけて事件続発、もしかしたら暴動発生ということだってあるだろう。※世の中には賢い人がいろいろといて、こうした不満を横にそらそうという言論が必ずでてくる。社会の不満層の憤りを公務員にぶつけさせる公務員バッシングなどはほとんど定番となっている。それを総選挙にうまく利用したのがコイズミで、次第に顕著になってきた貧困や格差の拡大に対する不満をうまく、最も身近な国家公務員である郵便局員に対する嫉妬にすりかえてしまった。皆様は明日にもリストラされるかもしれないのに、郵便局員は気楽に暮らしていますよ。皆様はサービス残業を余儀なくされているのに、郵便局員は定時で帰っていますよ。本当の問題はリストラやサービス残業なのに、「公務員は恵まれていること」に問題がすりかえられているのである。非正規雇用の問題についても、今後は「正社員が恵まれすぎているから」のような議論がでてくるかもしれないが、騙されてはいけない。※かつて渋沢栄一は論語と算盤ということを言っていたそうである。論語はいうまでもなく士大夫、つまり権力や知識やもっている階層が人民を統治するための倫理を説いた書である。士大夫は自らの支配する社会を安定させるためにも人民の幸福に気を配らなければならない。今の財界人には算盤はあっても論語の方はないようである。日本の貧困はアフリカよりはまし。低賃金労働者が足りなければ外国人を入れればよい。聞こえてくるのはこんな発言ばかりなのだから。※政府は3年後の消費税増税を明記するという。社会福祉のために財源が必要なことは異論ないのだが、いったいなぜ消費税なのだろうか。所得税の累進税率や相続税、法人税の議論が全く行われず、あたかも消費税しか選択肢がないような立論の立て方自体に、ものくごく恣意的な匂いを感じる。もちろんこれを指摘しないマスコミにも。ここわずか10年ほどをとっても富裕層に対しては非常に大きな減税が行われている。なぜこうした情報がマスコミにはあまり載らないのだろうか。http://www.news.janjan.jp/government/0812/0812143466/1.php
2008年12月21日
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雇用の問題がクローズアップされているが、労働法制を規制緩和し、非正規雇用を増やし続けた頃からこうした問題が起きることはわかっていたはずではないか。企業は低賃金で雇用できるという利点のみならず、景気の調整弁として非正規雇用者を増やし続けた。だからこそ好景気といいながらワーキングプアやフリーターが社会問題となっていたし、それが今回の景気悪化でどっと失業者として街にはき出されてきただけのことだ。雇い留めにともなう住宅確保策として企業に金を助成するなんていう案もでているようだが、こうした企業に対する助成というものは、どこまで当の非正規雇用者に恩恵が及ぶのだろうか。いつも思うことだが、結局こうした策というのは税金を使って散々労働者を搾取してきた側を肥え太らせるだけの施策ではないのだろうか。そうでなくとも一時的な策は根本的な解決策にはならない。内定取消しを法で禁止すれば内定そのものを出さなくなる。市役所では雇い留めされた労働者を臨時職員として雇うところもあるというが、今後もずっと雇い続けていられるのだろうか。やはり根本的解決策は人材派遣業に対する法規制を強化するしかないのではないか。一時論議された派遣業の規制の議論がこの期に及んであまりでてこなくなったように思うが、不思議でならない。応急措置ももちろん必要だが、根本的な解決策はやはり労働政策全体の見直しや雇用面における規制の強化しかないのではないか。ほおっておくと資本主義は必ず凶暴化する。経営者や株主の利潤を極大化するためには人件費は安ければ安いほどよいからである。もちろん社員を育成しなければ利潤にはつながらないのだが、ここまで産業が高度複雑化した時代には仕事そのものが高度な専門職や組織運営能力を必要とする仕事と比較的誰にでもできる仕事とに二極化されている。だから無策のまま放置すれば、数の多い後者の仕事に向く人々(いうなれば凡人)は必ず不幸になる。非正規雇用やワーキングプア、正規雇用であっても過剰な残業や低賃金の問題がそれである。最大多数の最大幸福を願おうとすれば資本主義の暴走にもタガをはめなければならない。それが労働法制であり雇用規制であろう。それはまた「すべての人々の健康で文化的な生活」つまり憲法25条の理念を実現するためにも不可欠なものである。
2008年12月17日
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雇用問題を問う若者の集会を報じながら某大新聞はこんなことを書いている。「票にならないと思うせいか歴代政権はこうした問題にとりくんでこなかった」と・・・。歴代政権がとりくんでこなかった、というよりも規制緩和によってかえって問題を拡大深化されてきたことは事実だけれども、その理由は「票にならない」と思ったせいではあるまい。こうした問題にとりくもうとすれば政界要人のディナーのお相手でもある財界の皆様方の利益に反するからだろう。ごくごく小さいことかもしれないが、リベラル、サヨク的(あくまでカタカナのサヨクだが)と評される某大新聞がさりげなく「票にならない」と書いているあたりがちょっと気になる。なんとなくこんな問題は「票にならない」、つまり有権者がこの問題を基に投票行動をするようなテーマではない、という刷り込み効果が危惧されるではないか。そういえばこの大新聞がしきりに煽る「二大政党制」のもう一方の雄ミンシュもこの雇用の問題はとりあげていない。これは決して「票にならない」からではなく、財界のお歴々の利益に反することはしたくない・・・という点でまさにジミンと軌を一にしているからだけである。※いうまでもないが世の中の人間は皆大新聞の記者のような人達ばかりではない。20代、30代の3人に1人が非正規雇用者。年収200万円以下も1000万人を超えている。もちろん中には経済的に安定した家のパート主婦もいるだろうけど、今の生活や将来に不安を感じている人も多いはずだ。このほか、正規雇用者でも極端な残業で悲鳴をあげている人もいるだろうし、リストラなどの雇用不安を抱えている人もいる。雇用の問題、そしてその先にある貧困や格差の問題は「票にならない」どころか、今後の政治地図を塗り替えるほどの「大政治テーマ」ではないか。※不況(今までが好況だったというのもあやしいが)の足音とともに新卒の就職も厳しくなりそうである。そんな中でこんな話をきいた。最近では派遣業界の中で新卒派遣といって、いきなり大卒の新人を派遣に登録するところもあるのだという。就職にあぶれた学生に、「スキルが身につく」だの「正社員への途がある」だのといって募集をかけるのだが、その派遣に登録すると、すぐに研修がはじまり、その研修料で何十万かをとられるそうである。研修で給料を貰うのではなく、逆に金を支払う研修なんて・・・?つまり派遣社員はピンハネだけでなく、入り口の研修からしてとことん「搾取」されるということだろうか。こんな業界を伸ばし、ろくに規制もしてこなかった歴代政権の罪は重い。※さらにまたこんなことも考える。昭和30年代、40年代の頃の貧困というのは階層性によるところがかなりあった。貧しい若者は長じても貧しいことが多く、逆にある程度豊かな家であれば貧困は遠い問題であった。でも今は大学を出て、派遣会社に払う何十万かの研修料も親に工面してもらえる若者でも貧困予備軍、ワーキングプア予備軍になりうるということだろう。そういえばアキバ通り魔も堅実な地方のサラリーマン家庭出身で両親は瀟洒な二階建ての家に住んでいたし、個室ビデオ店放火犯も何千万かの遺産を相続できる家に生まれた。そうした意味で古典的な「社会階級」というのはかなり過去のはなしになっているのではないか。もちろん貧困層の子供が貧困層にしかなれないという社会階層の固定性は今でもあるし、それが大問題であることは否定しない。しかしだからといって機会の平等だけが問題だ、貧困の世代間連鎖さえ断てばよいという議論には与しない。それにそもそも、機会の平等には、社会的階層の上位につく機会が平等であるという通常の意味の他に、貧困に堕ちる危険もまた平等であるという意味がある。実はそこそこ余裕のある家の出身で大学まで出してもらえたような人が貧困層におちる危険は今ではかなりひろがっているのではないか。いや、それどころか堅実で普通の生活をしていたサラリーマンがリストラなどであっという間に転落する例だってけっこうあるだろう。貧困は誰の隣にもある。そして多くの人にとって他人事ではないはずだ。※雇用、貧困、そして格差の問題。これこそが今後の政治を考える上で、第一に視野にいれるべき問題ではないか。「票にならない」なんて気楽に書いた記者の見識を疑う。
2008年11月03日
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最近、「格差」批判に対する再批判といった趣のコラムを読んだ。一つは週刊誌Sに載った著名評論家のコラムで、人間の能力や努力に差がある以上格差は当然だということと、格差の少ない社会というのは日本の昭和20年代や30年代にみられた「特異な現象」であるといったようなことを書いてある。※人間の能力に差があるから格差は当然なんだということをいう人は多いし、現総理も著書でたしかそんなことを言っていた。能力に差があるなどということはいまさらいうまでもないくらい当然のことだし、能力を十分に花開かせるためには相応の努力が必要なこともスポーツ選手などをみていれば明らかである。だから、能力に関係なく人間を平等に扱えなんてことを言っている人はいないし、たとえいたとしてもごく少数であろう。あのマルクスだって「能力に応じて働き必要に応じて与えられる」社会と言うのは人類究極の進歩の果てに出現する共産主義社会でしか実現しないと説いている。結果の平等は究極の理想にはなりえても、すぐに実現可能な目標にはなりえない。だから格差そのものは否定しないが、問題はその程度である。少数の富裕層の対極に大量の貧困層が出現し、しかもその貧困層が増えていくような社会でよいのか・・・今、格差批判を行っている人の多くが問題視しているのはそこである。※また、格差の少ない社会は、日本の一定時期に見られた特異な現象という説も、その真偽はさておき、そのことが日本の競争力を支え、日本を経済大国におしあげたように見えることについてはどう考えているのか。高い品質やサービスの質は、すべての社員が安定した生活を営み、会社と一体感をもって仕事をしているからこそ可能であろう。よく格差拡大は国際競争に勝つためには仕方ないという議論があるがこれも疑問である。世界に受け入れられ外貨を稼ぐような文化や商品は国内に厚い消費市場がなければでてこない。また、経済を支える内需だって、多くの中流層がいなければ拡大を望めないではないか。そしてまた、犯罪や社会福祉需要など、貧困層が拡大すれば、本人の不幸ばかりでなく、社会全体の負担もはかりしれない。※もう一つ読んだ「格差」批判の再批判のコラムは産経新聞朝刊に載った著名な女性作家のものだ。この人は最近アフリカの貧困を紹介しながら、日本人は本当の貧困を知らないなどと書いているが、人が生まれてくるのはアフリカなみの生活を享受するためではない。ネットカフェ難民やワーキングプアにむかって「あんたたちの状態はアフリカよりもマシなのよ」と言ってみたところで意味はない。ちなみにこの日本の貧困はアフリカよりもマシなんてことは、経済界の重鎮も言っているようである。評論家の言葉ならともかく、国の施策を左右するような経済界の重鎮がこんな発想でいるようではちょっと怖い。※※昨日久しぶりにタクシーに乗った。金曜日の夜なのに走っているのは空車ばかりでつかまえるのに苦労はない。小生もそうなのだが、どうしてこんなに皆タクシーに乗らなくなったのだろうか。景気が悪い、収入が伸びないということもあるだろう。でもそれだけではなく、なんかタクシーそのものに対する安心感のようなものがなくなったような気がする(偏見だったら申し訳ない)。かってはタクシー運転手は裕福ではないけど普通の職業だった。「ちびまる子」のお父さんも魔法使いサリーのよし子ちゃんのお父さんもたしかタクシーの運転手さんだったように記憶する。しかし、今ではタクシー運転手はワーキングプアの代表のように語られることが多い。30代、40代の男が家庭ももたずにその日暮らしのぎりぎりの生活をしているようなイメージなのである。夜道が怖い女性はよくタクシーを使ったものだが、今では夜道も怖いがタクシーも怖い、そして金もないという女性が多いのではないか。貧富の格差の拡大や貧困層の増加は、これまであたりまえのようにあった社会をなりたたせていた安心感や信頼を一つ一つ壊していく。(秀逸な動画。ぜひ御覧あれ。http://jp.youtube.com/watch?v=v0siyuT_0as)(ミンシュの待ち受け画像 縁起でもないと思うのだがよく・・・。http://mobile.dpj.or.jp/medias/wallpaper/docomo/d_t/334281_F_505.jpg)
2008年10月25日
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昨日もNHKで日雇い派遣の特集を行っていた。この問題について世上の関心が高まっていくのはけっこうなことだと思うが、番組中で気になった点がある。それは焦点をあてて報道された派遣労働者の一人についてである。よれよれのTシャツスタイルでの求職活動。書きなぐりの乱雑な字の履歴書。職業安定所で職員の話をききながら頬づえをついている態度…。仕事の基本は「人の立場にたって考える」ということだと思うのだが、番組で紹介されていた人は、相手についての気配りがすごく希薄なような気がする。番組の主張とは裏腹に、あれでは貧困の自己責任論をいう人が元気づいてしまうのはないのだろうか。そういえば政府の教育改革にも関与した高名な小説家で「非才、無才は誠実さだけを身に着ければよい」などと差別的な言辞を弄した人がいた。まあ、世の多くの人は小生も含め、非才、無才グループに属するわけだが、それでも誠実と努力だけは忘れないように生きている(つもりだ)。誠実であり努力をしてもなおかつ貧困から抜け出せない人が多勢いる。いや、我々だっていつその貧困の側においやられるかもしれないということこそが今日の問題である。テレビにでていた一人の派遣労働者だけで、世の中の派遣の問題のすべてが論じられても間違うような気がする。※人によっていろいろ意見はあるだろうけど、やはり派遣は貧困の温床のように思われる。通訳のような労働単価の高い専門職はともかくとして、たいして技能を必要としない労働にピンハネを認めたら食うに食えない人達がでるのはあたりまえである。しかもそのピンハネ率にはなんの法的規制もない。サラ金の金利ですら上限があるのに、口入屋のピンハネはやりほうだい。グッドウィルの元社員が「こんなに取られていたなんて悔しい」といってたけど、そりゃそうだろうなあ。かっては割のいいバイトといわれていた引越し手伝いも今やほとんど派遣で業者にとっては重宝しているようだけれど、いいことばかりではないだろう。この間の近所の引越しでも、屈強なお兄ちゃんではなく、細っこいあんちゃんや時には女の子が重い家具などを運んでいるのを見たけど、数字にでてこない労災や事故も案外増えているのではないか。いつ手がすべって家具が倒れてくるかと思うと怖くてちょっと近寄れなかった。※民主党をわってでた人達がつくる新党の名前は改革クラブというらしい。改革、改革なんていっても、市場原理主義的な方向の改革は多くの人が辟易しているのではないか。そんな手垢のついた名称でブレークするとはとても思えない。
2008年08月28日
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ネットカフェ難民に生活費、職業訓練費支給などという記事をみて、ようやく国も若年貧困問題に重い腰をあげたか・・・なんて思ったが、よくよく見るとこの予算では対象となる人数は150人ほど。参照http://blog.goo.ne.jp/rebellion_2006どうみても焼け石に水。国だってこれだけの施策を行っているのだから、貧乏なのは自己責任だよといわんばかりのアリバイ作りではないか。それともこうした事業を行うこととなる組織の予算獲得か関連法人の延命が目的か。ついつい疑り深くなってしまう。※そもそも憲法上の権利である生存権を守るのは生活保護だけではない。そこに至る前に、まともに働いてまともに生活できるように様々な労働上の法規制があるはずだ。ネットカフェ難民の何十人かのうちの一人に金を支給するのもよいけど、派遣業のばなし、ピンハネの上限なし、欧米に比べても低い最低賃金をなんとかするのも重要ではないか。こんな格差社会や貧困を背景に蟹工船がブームとなっているが、今度は某漫画雑誌にこれを原作とした新作の漫画が連載されるという。漫画の訴求力をなめてはいけない。世の中の潮目は確実に変わっている。
2008年08月24日
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こんな話を聞いたことがある。求人案内でただ「女性求む」と書くよりも「女性(美人に限る)求む」と書いたほうが応募者が殺到するのだという。真偽のほどはともかくとしても、客観的な美人の比率よりも、自分は美人だと主観的に思っている自称美人の方が多いということなのだろうか。よく差別語や問題発言が話題になるが、不思議にこの女性の容姿の優劣をギャグにした発言は問題視されない。ある数学教師が生徒に集合論を説明する際、「デブはみなブスだが、ブスはデブとは限らない」という表現を使ったという。集合と補集合の関連を説明したわけだが、これを聞いた肥満気味の女生徒が母親に泣いて訴え、それを母親が教育委員会やマスコミに訴えて物議をかもしたという話もきかない。つまり、多くの、というかほとんどの女性にとっては、「ブス」という言葉はあくまでも他人事なのであろう。※この「美人」というのと「実力」、「能力」というのはどこか似ている。「能力に応じて処遇する」とか「実力主義」とか言えば、多くの人が無条件でよいものと思ってしまう。生まれや環境による差なら問題だが、実力や能力による差はあって当然だし、それはまったく問題にならないと、多くの人が思っている。でもいったいこの「実力」とか「能力」とは何なのだろう。潜在能力は神のみぞ知るものであり、人が認知する「実力」や「能力」というのは結局のところ目にみえる「成果」であり「実績」ということである。となると「実力主義」とか「能力主義」というのは、「成果主義」とか「実績主義」というのとほぼ同じ意味になる。もちろん、こうした成果や実績によって報酬や貧富に差がでることは否定しない。しかし、その差が無限定に拡大し、多くの貧困層が量産されるような社会でよいのだろうか。たしかに起業で成功する人間は、採用試験を落ち続ける人間よりも能力があるかもしれない。同じ会社でも実績をあげる社員の方がそうでない社員よりも能力はあるだろう。だからといって、不安定な就労でいくら働いても生存すれすれの報酬しか得ない人間が多勢いたり、賞与や昇給も無い社員が多勢いるような世の中がよいわけはない。※普通、女性で自分で正面から「ブス」と自認している人は少ない。同じように人間は自分で正面から「能力が無い」とは自認しない。そして無意識のうちに非「ブス」からの視点、「能力がある者」からの視点に自分を同調させて物事を考えがちだ。美人かブスかはともかくとしても、本当は能力のない人間でも真面目に生きていれば人間らしく暮らせる社会が理想だと思うのだが、なかなかそうした発想はでてこない。貧困者は能力が無い、スキルが無い、だからオマエが悪いだって…ふざけるな。能力が無い、スキルが無い人間でも、健康で文化的な最低限度の暮らしをおくれるような社会こそが目指すべきものではないのだろうか。※こう書いたからって実力や能力による格差を否定するつもりはないし、能力やスキルをみがく努力を否定するつもりはさらさらない。格差といっても、要はその程度の問題である。それを考えると、昨今の格差拡大というよりも貧困層の増大は、民主的な先進社会を維持するという観点からは危険水域に近づいているように思われる。ちなみに、以下のHPはこの問題についての、大変面白い論考で参考になる。http://blog.goo.ne.jp/rebellion_2006/e/329a39a4a9180d0cb7d5affef182e6ac
2008年07月22日
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ときどき思うことがある。新聞や雑誌では高尚な言説がよく語られるのだが、世の中を現実に動かしているものは、きっとそんなレベルの高いものではない。上部構造に対する下部構造、建前に対する本音といってもよいのだが、実際に世の中を動かしているのは、もっと別の感情であり欲求であると思う。たぶんそれは経済にあっては欲望。そして政治にあっては嫉妬ではないか。※中産階級が多く、満ち足りている人が多い社会では、この嫉妬という感情はそれほど政治の表面にはでてこない。なぜなら有権者にとって「今の状態」が続くことこそが何よりも重要であり、面白半分にタレント候補が人気を集めることはあっても、現政権がみかぎられるということはまずない。ただ、階層分化がすすみ、少数の富裕層と多数の貧困層に社会が分裂していくとそうもいってられなくなる。現在、20代の半数は非正規雇用、本来は自分で生計を立てなければならないはずの30代前半男性でも3割くらいは非正規雇用者だという。そして年収200万円以下の雇用者もついに1000万人を超えた。その周辺には失業者や就労をあきらめ家にひきこもっている無業者もいる。貧困層やその周辺、家族も入れたら、貧困や格差を他人事ではなく自己の問題と考える人は相当数に上るのではないか。こういう人達が今後も政権党やその亜流のような政党に投票をしつづけるとは思えない。※それではいったいどんな政治勢力がこうした不満層の受け皿になっていくのだろうか。それはなんともいえない。一部にブームが取り沙汰されている政党だって、貧しい人のご飯には何の関係も無いお花畑的平和念仏ばかりを唱えていたり、新興宗教やねずみ講まがいの党員拡大ばかりに血道をあげていたら、案外流れに取り残されるかもしれない。それよりもミンシュとシャミンが合体して再分配や労働者保護政策を前面にだして風を起こすなんていう方がよほどありそうなのかもしれない。ただどちらにしても、そうなれば、こうした勢力にはものすごいネガティブキャンペーンが行われることだろう。おそらくその効果は薄い。○○党が政権をとればカンボジアみたいになっちゃうよ。それよりは安アパートでコンビニ弁当を食べていた方がよいのじゃない・・・といわれたって、さっそうとスーツを着てよい生活をしてそうな同世代に対する嫉妬の炎は消えない。怠惰と嫉妬は低レベルのものだといっても、それもまぎれもなく人間性の一面であるのだから。
2008年07月21日
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よいとか悪いとかではなく…人はその人それぞれの立場で価値観や政治信条を形成する。だからこそ一億総中流などといわれた時代には多くの人が政権党を支持し、政治の方も極めて安定していたのではないか。逆に少数の富者と多数の貧困層を擁するような国では民主主義とは無縁の強圧政治が行われている例が多い。そうしないと体制がもたないからである。※現在の日本で貧困層が増えているということがいわれる。福祉とか治安の関連で論議されることが多いのだが、この問題は政治にも少なからぬ影響を及ぼすはずである。日本は民主主義国で、これは後戻りできない。となればセレブも一票、プカレタリアート(住所があれば)も一票である。貧困者、弱者の最後の武器は投票権。となれば格差拡大や貧困層の増大が、近い将来大きな政治変動をもたらす可能性だってあるのではないか。デモや政治的テロで世の中が変わることはあまりない。実際に政治、そして世の流れを変える最大の要因は民主国家では選挙である。たしかに「貧困者の自己責任」や「能力差ゆえの格差の正当性」を唱える人は多い。そうした人の多くは能力もあり、裕福な生活をおくっている人々のようにみうけられる。問題は、そうした人々が考えることと、貧困者自身が考えることとはあくまでも別であるということ、貧困者自身がそうした人々と同じように考えるとはかぎらないということである。マルクスが再評価され、蟹工船がブームになっている昨今の状況をみると、こうした自己責任論に異議を唱える流れが形成されてきているのではないか。※年収200万円以下の雇用者は1000万人を超えている。これにその親族や失業者、無業者なども加えると、身近な問題として貧困や格差をとらえている人はかなりの数になるのではないか。こういう人々がこれからも市場原理主義をおしすすめる現政権に投票しつづけるとも思えない。また、多くの社会でみられるような貧困者の悩みや不満を吸収する社会安定装置としての宗教も日本にはない。たぶん近い将来に大きな政治変動が起きることだろう。それを考えると将来が楽しみのようなおそろしいような。
2008年07月18日
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当世では出産をするのも大変らしい。なにしろ妊娠がわかった時点で産院を予約しておかないと入院できないというのだから。それを怠っていると救急車を呼んだところで病院たらいまわし、あげくのはてには妊婦や生まれてくる子供に異変がおきるなんてことにもなりかねない。※それにそんな病院の問題をぬきにしても子供を持つのって大変だ。若夫婦が子供を持とうとすれば二つの点について確信がないとまず無理である。一つは10年後、20年後に必ず継続して収入があること。二つはその収入が10年後、20年後には上がっていること。20代や30代で増えている非正規雇用では、明日の収入すらままならず、子供どころか結婚だって難しい。また、正規雇用だって年功序列の慣行が薄れている今日、入社当時の給与のままずっと働くはめになる可能性だってある。リストラされたり職場いじめで鬱になったりしなければ、まだましなのかもしれないけど、初任給の収入では子供を育てるのは不可能ではないか。それに「正社員」ということでサービス残業なども目いっぱいさせられれば赤ん坊の世話などとても無理で、ことによると出産を機に仕事をやめた妻も養わなければならない。※そんなわけで何かにつけ「格差」がいわれる今日、出産自体も二極化しているような気がする。収入が安定していて、その収入が増加していく見通しのもてるカップルでの出産と、いわゆるできちゃった婚的出産。母親が就労しているほど出生率が高いというデータがあるが、これは三世代同居の農村型ライフスタイルばかりでなく、都会の均等法カップル、つまり安定した大企業正社員同士のカップルの間での出生率の高さもあるのではないか。政府の少子化対策の恩恵をうけるのも、ほとんどがこの層なのだから。こんな高収入カップルの出産の一方で、収入の不安定のままに子供が生まれるできちゃった婚的出産は、どうも児童虐待や育児放棄などの温床になりやすいようだ。出産の格差は、そのまま養育環境の格差につながっていく。生まれたときから二極化した社会というのは、あまり健全ではない。※今度、消費者庁というのができるらしいけど、なぜ今、消費者保護なのか、さっぱりわからない。数年前の家庭内のシュレッダーの事故や誰も腹をこわしたわけでもない賞味期限の偽装が大報道されたけど、これもこの役所をつくるための布石だったのだろうか。でも、今、一番保護してほしいのは消費者ではなくて、雇用者だろう。偽装派遣や過労死を起こした会社のトップが政府の政策を左右している現状では無理かもしれないけど、21世紀によみがえった蟹工船のような状況だけはなんとかしなければならない。雇用者庁の創設。幹部は名ばかり管理職や二重派遣の問題で活躍した弁護士や運動団体から登用する。他の職員は再チャレンジ枠を広げて採用したらどうなのだろう。そして厚生労働省の中の旧労働省系の部局は縮小の上、経済産業省に吸収すればよいではないか。いい考えだと思うけど…。
2008年07月06日
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ちょっと気が早いかもしれない。でも書くことにしよう。次の選挙のことである。マスコミは勝手に争点を決めるかもしれないが、本当の争点を決めるのは私達有権者だ。そして、たぶん次の選挙の争点は格差と貧困・・・。※貧困の問題は多くの人にとって他人事ではない。あの秋葉原の殺傷事件になぜ多くの人が関心をもったのか。実際の犯人像がどうであれ、あの一見、普通の家庭で普通に育った普通の若者の犯行に現代社会の病理をみたのではないか。学校を卒業しても就職ができない。真面目なサラリーマンがある日突然辞職を強要される。なにかのきっかけで職場で辞めてくれといわんばかりの凄まじいパワハラやモラハラがはじまる。こんなのは多くの人にとって決して他人事ではない。そしてこの社会はひとたび落ちると蟻地獄のようにけっしてはいあがることができない構造になっていることも知られている。ワーキングプアや非正規雇用。昼夜も土日も関係なく働いても自分ひとりの口も養えないような世界だ。昔からたしかに貧困はあったが、健康な人間が真面目に働いて自分の口も養えないような貧困なんて、平成の今日が初めてではないか。「蟹工船の労働者には結婚して赤ん坊もいる。まだ、恵まれているのではないか。」というのも今の読者からのいつわらざる実感である。蟹工船ブームについて、元総理の中曽根氏は「反政府活動をする力はないが、本をよんで癒されている」と語っていた。現状への不満イコール反政府活動という認識はいかにも古い。古すぎる。蟹工船の読者、いやこうしたブームに共感している一人ひとりが選挙で一票をもっていることを、この長老はお忘れなのだろうか。※実は前回の自民圧勝の選挙も、隠れた本当の争点は格差と貧困だったのではとにらんでいる。しかし、既成政党の中でこの格差や貧困の問題に正面から応えようとしたところはなかった。イラクの子供の写真をかかげてイラク派兵に反対したり、平和憲法維持を訴えたり・・・。それも重要かもしれないが、これでは絶好のホームランチャンスにバントのかまえをしているようなものである。ここで利口だったのはやはり天才的な扇動政治家のコイズミだ。彼は大衆の間に巣くう格差への不満、貧困への恐怖を、身近な国家公務員である郵便局員に対する嫉妬にすりかえることに成功した。アンタ方はリストラや就職難で苦しんでいるのに郵便局員は税金でのうのうと暮らしているよ…というように。いったん民営化法案が流れたときに、大喜びしている郵便局員の映像がニュースで放映されたが、コイズミにしてみれば、あれも計算のうちだったろう。あの選挙直前、郵便局員の話をしながら「人間だから人の庭に蔵がたつと面白くないんだよね。ましてやその出所が税金となるとね。」と言っていたタクシーの運転手の言葉が忘れられない。※蛇足だが、今度の選挙でも夢よもう一度とばかりに「公務員たたき」を選挙の争点としたがる政党がでてくるかもしれない。でもそんな手に何度も乗るほど国民はバカなのだろうか。公務出張マイレージの一括管理。それをやれば民間会社でも同じことをやるようになる。公務員のレクリエーションの撤廃。趣旨はわかるけど、これからは民間でも福利厚生費をけずっていくようになるのだろう。無能な公務員はクビ。そうなると民間でもリストラの嵐はますます強まることになる。いずれも自分の首をしめるようになるだけの話である。※※最近ちょっと怖いもの。青少年に有害情報を提供するなという名目で「ネット規制」がされていくこと。ネット機能のない携帯が推奨されるという話があるが、そのうち携帯ではネットはできないというのが一般的になるかもしれない。フィルタリングも青少年だけではなく、「青少年も使うことができる」という名目で普通のネットカフェなどでも一般化していくかもしれない。そもそもいったい「有害情報」てなんだろう。偏った政治的意見も有害情報だなどと言い出したら、それこそ日本も中国なみの情報統制社会になってしまうかもしれない。有害情報かいなかの判断を政府ではなく、民間団体にやらせるという方向のようだが、これだって政府の看板ではできない「偏った」有害判断がなされそうで怖いことである。ネットで床屋政談を書いても誰も読まないなんて時代になると本当にいやなんだけど。
2008年06月22日
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格差や貧困の問題になると必ずでてくる議論がある。それは自己責任論である。スキルがないのが悪いという某政治家の発言などその典型なのだが、そうでなくても貧困や格差の問題については、「重要なのは機会の平等」だとか「格差は乗り越えられる」といった式の議論は多い。たしかに高校の卒業証明と少々の金があれば、誰でも東大理3は受験できるわけで、そういう意味では「機会の平等」はあり、試験に受かれば「格差は乗り越えられる」のかもしれないけど、ちょっとそれは違うだろう。某評論家が監督した映画「受験のシンデレラ」が格差社会の処方箋だなんて、悪い冗談にしか思えない。それはともかくとして、そんな自己責任論の跳梁の中で自分を責め、自己嫌悪を募らせ、あげくは自己や他人に向けて暴発してしまう若者は多い。本当のところ、彼らに必要なのは自己責任論でもなければ、「負け組」という烙印でもない。連帯し、ともに社会を変えていこうとよびかける勢力である。今、若者の半分は非正規雇用だという。もちろん非正規雇用といっても高収入の人もいるし、全部が全部悲惨な境遇と言うわけではない。しかし、一方では現代のタコ部屋を髣髴とさせる話もあるし、低収入や過酷な労働や労災などの実態もある。そろそろこうした人々の声がもっともっと大きくなってもよいように思う。貧困についての自己責任論という呪縛はそろそろとりはらうべきときである。
2008年06月12日
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アキハバラでいやな事件が起きたけど、これについては銀塊うさぎさんの書いていることに同感…。貧困の連鎖、そして暴発はこれからも社会のあちこちで起こるだろう。新聞の社説や政党のポスターには、子育て支援や減税の文字が躍る。でも、本当の貧困層にとっては子育てなんて夢のまた夢。明日の生活をなんとかしてくれというのが本音ではないか。ましてや地球環境なんて雲の上のテーマ。アフリカなんとか会議ではアフリカの貧困解決を訴える市民のパフォーマンスがあったけど、日本人のホームレスはどうするのさ。男女共同参画なんていったって、今や男女差よりも、男内、女内の格差の方がずっと深刻だ。ワークアンドライフのバランスなんていったって結局それで恩恵をうけそうなのは公務員か大企業の社員くらいじゃない?消費者庁といったって、なぜこの経費節減の時代に新しい庁などつくるのだろう?庁ができれば、そこには会計課、総務課、人事課は必ずいる。役人のポスト対策にはいいだろうけど、消費者保護って新しくそんな組織を作らなならんほど緊急かつ重要な問題なのかしら。※今の日本の最大の懸案は格差と貧困の問題ではないかと思うのだけれど違うのかな。「格差は活力」だとか「日本の貧困はアフリカよりもまし」なんて言っている人もいるようだから、政財界の認識は違うのかもしれないけど。今や貧困は多くの人にとっては他人事ではない。よくネットカフェ難民の問題などで、親の支援を受ければよいという意見があるが、逆にここにこそ問題の深刻さがある。なぜなら、今日、子供と同居する高齢者といっても子や孫と同居する高齢者ばかりではない。高齢者が成人した未婚の子供と暮らすという世帯が大幅に増えている。そしてその未婚の子供の多くは一人で独立するだけの十分な収入のないケースが多い。つまりネットカフェ難民というけど、その予備軍はもっと沢山いるわけである。※こうした格差の問題、貧困の問題を中心にすえて戦う政治勢力がでないと社会は直らない。日本列島のあちこちから悲鳴があがっているのが聞こえないだろうか。年収200万以下1000万人超、30代の半数が非正規雇用で明日の生活設計もたてられない。いったいこんな国に誰がしたのだろうか。
2008年06月09日
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冷戦が崩壊したとき、多くの人は共産主義は過去のものになったと思った。当時様々な人が共産主義理論の欠陥をあげつらったが、最も多くいわれたのは次のような点ではないか。人には能力の差がある。それなのに結果の平等を唱える理論はおかしい。能力に差があれば結果に差があってあたりまえではないか・・・と。また、平等には機会の平等と結果の平等とがあって、機会の平等は崇高な理念だが、結果の平等は「悪平等」だという人もいた。この結果の平等イコール悪平等、機会の平等は保障するが結果の平等が補償すべきでないという理屈が、今日でもよく言われる貧困の自己責任論と地続きになっているように思う。機会の平等はあったにもかかわらず、貧困に落ち込んだ。それは自己責任じゃないのというわけである。※本当にそうなのだろうか。そもそも機会の平等と結果の平等とは、それほど別のものなのだろうか。だいたい人は生まれを選べない。古典的な身分社会が過去のものであったとしても、家庭の経済力や環境で人生が左右されることは否定しない。そしてたぶんそれ以上に生まれ持った身体条件や能力、そして運によってでも人生は変わってくる。そうした意味で厳密な機会の平等なんてありえないということになる。機会の平等さえ確保すれば、結果の平等はどうでもよいという考え方はやはり間違っているのではないのだろうか。現代、貧困にあえいでいる多くの人は自分を責めているという。そうではない。自己責任論からは進歩は生まれない。貧困を生み出す社会のしくみに異議をいうときではないのだろうか。
2008年06月08日
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昨日の毎日新聞夕刊に蟹工船ブームについての中曽根総理の発言が掲載されていた。以下のような発言である。「ブームらしいね。フリーターなんかの境涯におる青年たちだろうね。全共闘みたいに反政府運動を起こす力はないが、心に時代や世の中に対する不満がうずまいておる。『蟹工船』を読むことで、仲間意識を持ち、癒やされるかもしれないな。これは自民党も民主党もない、政治家は考えないといかんよ」 http://mainichi.jp/select/wadai/news/20080606dde012040017000c.html政治家は考えないといかんよの部分はそのとおりなのだが、「反政府運動をする力がないが読むことで仲間意識を持ち癒される」という部分にはちょっとひっかかる。「蟹工船の惨状に比べれば今の貧困層はマシ」なんていうすっとぼけたことをぬかしている評論家よりはずっとまともなのだが、すぐに全共闘だの反政府運動だのを持ち出す感覚はいかにも古い。今の時代、反政府運動などしなくても世の中は動く。民主国家だし、こればかりは後戻りできない。投票で政権だって変わる。何度も書いたけど、ネパールでだって選挙で王制が廃止され共産主義政権ができたことは中曽根氏も知らないわけではあるまい。それに今の時代、政治活動はデモや集会だけではない。ネットが登場して、一人ひとりの自発的な思いが発信できるようになったこと。これも後戻りできない現実である。そして、一人ひとりが思いを発信し、それが大きな流れになれば社会は変わる。きっと変わっていく。※思えばオバマブームもネットで始まったものであり、当初はヒラリーこそが不動の有力候補とみられていた。広がる格差や貧困に多くの人が他人事ではない危機感を感じている。それなのに政治家や御用学者はあいも変わらず、貧困は自己責任だといわんばかりの発言を繰り返している。財界人にいたっては「日本の貧困はアフリカよりマシ」なんていう人もいるくらいだ。それをいうならネパールだって今世紀初頭のロシアだって、アフリカよりもましだっただろう。蟹工船ブームは、貧困や格差の問題が、自己責任などではなく、人間らしく暮らせない社会のあり方自体の方に問題があるのではないかと問いかけるきっかけになったのではないか。※今後、おそらくこうした思いを受け止める政治勢力が大ブレークする。それは多喜二の党とは限らないが、とにかく、ワーキングプアやフリーターとの連帯を実感させ、ネットをうまく使い、貧困や労働環境の問題に焦点をしぼって訴えかける政治勢力であることは間違いない。
2008年06月07日
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今の日本の最大の懸案・・・それは格差と貧困の問題ではないのだろうか。格差といったって上の方が高収入を得ているのは別に問題ではない。問題なのは下の方、つまり貧困層がどんどんと増加していることである。21世紀の平成の貧困はかっての貧困とは違う。※かっては貧困層といえども家族がいた。貧乏者の子沢山というように貧しくとも子供の扶養はできたのである。ところが今の貧困者は結婚もできない。それどころか親に扶養をしてもらっている人だっている。健康な人間が真面目に働いて自分の口も養えないような貧困なんてかってあっただろうか。独身という生き方を否定はしないが、多くの人が結婚したくてもできないような社会は確実に不安定になる。急激な社会の変革変動など子供を持っていれば望まないのだが、独身者はそうでもないだろうからである。※そしてもう一つは前述のことにも関係するが貧困層と貧困階級は別ということである。古来人間の貧困はほとんどの場合「生まれ」とセットになっていた。賤民の子は賤民、貧乏人の子は貧乏人というように・・・。もちろん貧困の再生産ということは今の時代にもあるだろうし、それはそれで問題である。ただ平成の今は、貧困層に落ちるかどうかについて、「生まれ」が必ずしも決定的要素ではないように思う。ごくごく普通に生きてきた人間が、ある日、失職したりすればそのまま社会の底に沈んでいくような、そんな怖さが現代の貧困にはあるのではないか。要するに多くの人にとって貧困は他人事ではない。※たぶんこうした貧困層の声を救いあげ、貧困層と連帯する政治勢力がでてきたら大躍進するであろう。どうしたらこうした層に訴え、支持を得ることができるか。簡単なことである。同じ目線にたって様々なスローガンや施策を検証してみればよいのである。少子化問題といったって、今後うまれてくる赤ん坊よりも今生活に苦しんでいる人をなんとかしてほしいと思うだろう。それに20代や30代の感覚では結婚もでき、子供もいる人なんてのはある種の勝ち組だろう。子育て世帯優遇なんてのはありていにいえば勝ち組優遇、高いところに土を盛る施策にしかみえない。男女共同参画だって同様。男性の中に、そして女性の中に凄まじい格差が生じているのに、いまさら女性を参画させろでもないだろう。それに育児休業や保育所などの施策も結局は恩恵を受けるのは大企業で安定的に働いている女性だけだろう。ましてや途上国の貧困や国際貢献などといわれたら、オレの貧困をなんとかしてくれといいたくなるだろうし、宗教のような9条賛美や平和念仏などは遠い木霊としか聞こえないのではないか。※蟹工船がベストセラーになり、貧困問題を扱った本が売れるなど、ゆきすぎた市場原理主義にストップをかけ、真面目に生きている人が人間らしい生活をおくれるような施策を唱える政治勢力に対する期待はすごく高まっている。そうした意味で次の選挙は蟹・工・選挙。有権者の期待を担い大躍進するのはどんな政治勢力なのだろうか。
2008年06月03日
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どっかの国の諺に「這っていく人の上を飛んでいく人がいる」という表現があるという。人の能力差の大きいことを表した諺である。スポーツや音楽の才の差については子供の頃から誰でも実感するのだが、学業だって実は同じようなものではないか。さらにいえば人の上にたち人を動かしていく能力や組織を運営していく能力。こうしたものだってかなり天賦のものである。もちろん努力や研鑽は重要だし、自分には能力がないといってみたところでよいことなど何一つない。ましてやあいつには能力がないというように人の能力云々を決め付けるのも傲慢というものだろう。ただ、そうしたものを踏まえても人の能力には天地ほどの差がある。これはどうも否定しようがない。※だから教育の問題にしても格差の問題にしても、この能力の差を前提にしない議論はどこかむなしくうそ臭い。また、この能力の差を最初から前提にしておかないと、逆にそれを結論にしてしまうことにもなりかねない。能力に差があるのだから格差はあってあたりまえだというように。また、能力の差をいうと、それをすぐに人間としての「価値の差」のようにとらえ、反発する人も多い。運動能力や容姿の差を指摘しても、それで人の価値の優劣(女性の価値はともかくとして)が決まるなんて思う人は多くないのに、なぜ知的能力となるとすぐに人間の価値の差にむすびつけるのだろう。それこそ不思議だ。たしかに今の社会では知的能力が社会での成功の鍵を握る場合が多い。もちろんこの知的能力というのは、組織運営能力、指導力、専門知識などで、学力などはそのごく一部にしかすぎないのだが。でも、社会的成功というのなら、運動能力や容姿、音楽的才能などで成功する人もいるのだから、知的能力だけが特別というわけでもあるまい。※アフリカ開発会議のイベントで、「人間○」という人文字を作った写真があったが、格差や貧困の問題を考える上での発想もこれにつきるように思う。能力などの様々な差にもかかわらず人間というものはそれだけで価値ある存在なのだという考え方である。そしてまたそうした価値を認めない社会は結局はうまくいかないのではないか。能力に差があるから格差は当然というのではなく、能力云々にかぎらず人間は価値あるもので、だからこそ誠実に真面目に生きている人が人間として生きるにたる人生を送ることができるようにすることこそ政治の役割なのではないか。格差社会といって、多くの人が貧困や希望のない状態に追いやられているような社会は、結局は病んでいる。憲法25条の精神もそこにあるのではないかと思う。今、話題の蟹工船。ようやく書店で平積みになっているところから購入した。感想はいずれ日記に書くこととする。※なお能力と社会的成功を結びつけるのは一般論であって、個別には運不運も含め様々な要素があるだろう。そういう意味で別に今の貧困者の一人ひとりが能力がないといっているわけではないし、そうした人々が再チャレンジの機会を持つことは重要だと思っている。※※アフリカ開発会議の関連でアサヒは何ページもさいてアフリカの貧困問題の記事を掲載していた。バブル時代ならともかく今の日本の現状を考えると違和感を感じてならない。日本は、もはやゆたかな国ではなく、貧困や格差が急速に広がり、強盗殺人などの事件も毎日のように起きている。アフリカ開発会議に使ったあの膨大な税金は、日本国内の貧困者のために使った方がよかったのではないか。
2008年06月01日
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能力差を勘定に入れない議論というのはどうも嘘っぽい。努力すれば何でもできるという努力信仰や親の経済力で学力は決まるという経済力信仰。それも全く違うとはいわないけど、一番大事なのは能力ではないか。なぜそんな自明なことを誰もいわない…。同様に格差の議論だって、なぜか能力の差を避けたものが多い。機会の平等さえ確保すればよい、結果の平等は自己責任なんていうのはその最たるものだ。いくら再チャレンジをしたところで勝つ人と負ける人はだいたい決まっている。再チャレンジの機会さえ与えれば格差が解決するなんて、人を騙すのもいいかげんにしろ。格差の議論だって究極には能力差を認めたうえで格差をどうしましょうかという価値観の問題ではないか。たぶん能力差にかかわらず結果がすべて平等、つまり「能力に応じて働き(機会の平等)、必要に応じて与えられる(結果の平等)」が絵空事だなんてのは皆が知っている。じゃあ、能力差がある以上、それに基づく格差はいくらあってもよいのだろうか。時々、人間の感情の中で、経済を動かすのは欲望という感情、そして政治を動かすのは嫉妬という感情ではないかと思うときがある。嫉妬はしばしば自分を高めるよりも、相手を引き摺り下ろす方に向かう。貧しく希望がもてない人が一定数に達するような社会では、そんな嫉妬の勘定が爆発することがあるのではないか。クメールルージュの恐怖政治をよびよせた民衆だって、おそらくあれで国がよくなるなんて思ったわけではない。ただ、今まで豊かに暮らしていたインテリが公開処刑されるところをみたかっただけではないか。明日はわが身だとも考えずに・・・。人間とはそれくらいおろかしい生き物だし、だからこそ、例えそれが能力によるものでも度をこした格差社会は危険だと思う。ところで、最近何かと話題のマルクスも人間の能力差についてはあまりいっていない。生産手段を所有する資本家と労働力以外に売るものがない労働者に人間を分けたが、現在ではその労働力の価値が能力やその結果としての技術によって天地ほどの差がついているのである。そう考えるとマルクスの理論自体、科学技術が未発達で多くの人が単純労働についていた時代のものとしか思えない。格差に克つ理論を構築するのなら、マルクスの焼き直しだけではたぶん無理だろう。
2008年05月30日
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最近、格差にからんで「階級」という言葉をよく聞く。しかしながら格差と階級は違う。階級といえば、親の社会的地位が子に受け継がれた結果としての同質の社会的地位を有する集団をさす。いわば機会の不平等の所産としての階級なるものがあるわけである。しかしながら、今おきていることは、市場原理主義の下でのとてつもない結果の不平等であって、それとはちょっと別だ。それに、どうも階級とか階級社会というと、ついつい地主の子は地主、労働者の子供は労働者といった社会が安定的で単純だった時代の匂いを感じてしまう。「ダボハゼの子はダボハゼ、職工の子は職工」という台詞がなんかの映画にあったが、戦後の日本はそんな社会ではなかった。職工の子で成績優秀なら県立第一高校から大学に行き、社会的地位を手に入れる機会はあったのである。ちょうど日雇いの子が堂々たるエンジニアになったあのヨイトマケの唄のように…。だいたい、「階級」という言葉を使うと、議論はつい機会の平等の確保だけに流れがちである。機会の平等はもちろん重要だが、でも、機会の平等さえあればよいというものでもあるまい。低所得の人の中にも、今のところは親の扶養を受けていたり、親の家に住んでいるという人は多い。しかし、彼らもやがては親の高齢化や死別とともに街にでてくる。そうなったとき、本当に深刻な社会対立が起きるであろう。ただそれは、古典的な階級闘争というのとは違うような気がする。
2008年05月28日
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気になる言葉のひとつに「ロストジェネレーション」という言葉がある。しばしばこの言葉は非正規雇用や若年者貧困の問題と同視され、この言葉を冠した雑誌まででている。しかし格差や貧困の問題は決して特定の世代だけの問題ではないはずだ。それを「ロストジェネレーション」という言葉を使うとあたかもそれが特定世代だけの問題と錯覚されてしまうかもしれない。現実には、ロスジェネの上のバブル世代にだって、就職後、烈しいリストラ攻勢にさらされ、今ではアルバイトでようやく生活しているという人もいることだろう。※格差や貧困の問題は決して特定世代の問題ではなく、経営側が最大の利潤を生み出すために人件費を抑制しはじめたこと、いいかえれば資本主義の暴走がその背景にあるとしか思えない。思えば、日本の企業は長らくムラ社会がそのまま企業に移ったような人事管理を行っていた。終身雇用制と年功序列賃金がその代表的なものである。ところがある時期をさかいに、経営者達は、そんな家族的経営で社員を遇するよりも、人間だって機械や原材料と同じような発想で扱ったほうがはるかに利潤があがるということに気づいてしまった。そんな中からでてきたのが格差や新しいタイプの貧困の問題である。たぶん中高年のリストラが話題になった頃からこの傾向は始まり、その後、就職難、非正規雇用の激増、ワーキングプア、ネットカフェ難民と拡大していった。最近では名ばかり管理職、職場いじめ、過労死など正社員の問題もでてきている。成果主義や実績主義についても、今ではそれがあたかもよいものであるかのように言われているが、そのうち40代、50代で初任給並みの賃金のままで働く社員が激増し、これも問題になってくることだろう。※小林多喜二がブームであるが、多喜二は宮沢賢治とほぼ同時代人であり、死んだ年(昭和8年)は奇しくも同じである。二人とも多感な時期にロシア革命のニュースに接している。それが文学や思想に影響を与えたことは想像に難くないし、そう思ってみると宮沢賢治の作品にもプロレタリア文学的なものもある。オッベルと象やカイロ団長などは搾取と被搾取の物語ともみえるし、他の童話にも社会主義の影響を指摘する研究者もいるという。宮沢賢治は理想の農村共同体を作ろうとして羅須地人協会を創設したが、この羅須という言葉についてもロシアのもじりではないかという指摘もあるようだ。岩手といえば賢治、賢治といえば岩手というよに岩手と賢治はつながりが深いが、岩手にはもう一人有力な政治家もいる。彼も最近では生活重視とかいっているらしいが、彼の顔をみるといつもあの「なめとこ山の熊」にでてくる旦那を思い出す。彼もまた善良な猟師から金を搾り取る搾取者であった。
2008年05月25日
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ついに週刊新潮もとりあげた多喜二ブーム。でもそのタイトルが「多喜二はエリート銀行員だった」だなんて。これって文学史に詳しい人なら誰でも知っている話でなんでこれが週刊誌の見出しになるの?それに週刊新潮だから揶揄して書いてあるのかななんて思ったら、中味は絶賛と読書のすすめだ。最後は何度も読まれるのは本物だから・・・という評論家の言葉でしめくくっている。大見出しと3ページの紙面で自社の文庫本の宣伝をするなんて。※しかしついに多喜二ブームは週刊新潮にまでとりあげられるようになったか。そういえば、時空はとぶけど、ヨーロッパでもキリスト教が普及する過程で民衆に訴えたのは異国の聖人よりも自国の殉教者の物語だった。殉教者多喜二のブームは共産主義再評価につながるのだろうか。昔と違って今は共産主義に対する抵抗感はない。かっての「アカは怖い」式の感覚は、小学校から行われた国家神道の洗脳教育の成果だけではなく、人々が村社会や血縁共同体にどっぷりとくみこまれていたことにもよるのではないか。ムラ共同体が日本を覆っていて、どこでも地主の総本家があって、日本全体の総本家が天皇家という構造である。そんな中では共産主義思想などは共同体を破壊する異端思想として忌み嫌われたのも無理もない。それに貧しい小作民だってムラの一員ではあったし(長塚節の「土」など)、都市の労働者も家族共同体はもっていた。今のように貧困者が家族ももたず、定着した職場ももたずに浮遊している状態というのは歴史上初めてではないか。そうした人々を中心に、やがては共産主義がカッコよい思想としてブームになっていくような気がする。非合法時代と流血闘争の歴史をかかえた危険な匂い。血をシンボルカラーとする赤旗。自己責任や負け組などと弱者に対する嘲笑ばかりが聞こえてくる日本社会で「人間は平等だ。立ち上がれ。君たちには鉄鎖以外に失うものはなにもないのだから」というマルクスの声は新鮮で福音のように響くだろう。大公園が赤旗で埋まり、インターナショナルやワルシャワ労働歌がこだまするなんていうときが案外近いうちにくるかもしれない。※労働者は分断され労組による地位向上も望むべくもない。そして労働者の地位を守るはずの厚労省の役人が大企業に天下りする時代。このままでは資本主義の暴走はとまらない。
2008年05月23日
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最近、気になっているのは資本主義の暴走。規制緩和、官より民、小さな政府・・・とそんな掛け声に踊っているうちに、いつのまにか日本は国内に膨大な貧困層やその予備軍をかかえる国になってしまった。自分で自分の生計すらたてられず親に寄生したりネットカフェを泊まり歩く人が多勢いるなんていうのは普通じゃないだろう。日本にはそこはかとない共同体の伝統があって戦後は企業がこの共同体の役割を引き継いできたのだが、企業がその役割を放棄し、株主や経営者のための企業となってから、世の中は変わってきたようだ。30年代くらい前だったら多くの人に帰るべき故郷があった。会社がだめなら親の畑を手伝えばよいという農村社会のセーフティネットである。また国によっては信仰共同体のようなものがセーフティネットの役割を果たしているところもある。でも、今の日本にはそんなセーフティネットはないし、最後のセーフティネットである市町村の福祉窓口すらも水際作戦などをやっている時代だ。もう最近ではマルクスの亡霊にでも、もう一度でてきてもらわないと、この暴走、貧困者の量産という流れはとまらないのでは・・・と思ってしまう。(同趣旨のHPがここにあるので参照 http://www33.ocn.ne.jp/~massan/bourei.htm)※法律というものは社会を適正に維持し人の幸福に寄与するためにあるもので、そうならないとしたらそんな法律は早急に見直す必要があるだろう。300日規定(婚姻解消後300日以内に生まれた子は前夫の子と推定する)などはまさにそれではないか。女性は家にじっとしているもので、婚姻解消があるとしたら死別か夫の家から追い出される場合かのいずれしかない。そして貞女は二夫にまみえず・・・。もちろん医学も未発達で、誰が誰の子かなんてことも容貌の類似などで見当をつけるしかない。とまあ、こんな時代なら300日規定もそれなりに意味があったかもしれない。しかし、今の時代は女性も積極的に動き、医学で正確な親子鑑定もできる時代だ。前夫の子と推定するか否かが問題になるのは通常は後夫がいる場合だろう。前夫と離別し、300日以内に再婚し子供が生まれたら常識的にはそれは後夫の子ではないか。結婚生活が破綻した状態で離婚の直前で「子作り」をするなど普通はありえないことだからである。こうした法律の条項が今も残っているのってすごく不思議だ。
2008年05月21日
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格差には機会の格差と結果の格差とがある。いいかえれば機会の平等と結果の平等ということになる。どうも世の中をみてみると機会の平等を云々する議論の方が多い。中には機会の平等は保障すべきだが結果の平等は問題でないかのような極論もある。本当にそうなのだろうか。※今、起きていることはとてつもない結果の不平等の進行である。もちろん今の貧困者の中には最初から機会も平等ではなかった人も多い。しかしそうでない人も相当数いるのではないか。そしてそんな中には、今のところは余裕のある親の扶養や庇護を受けているが、やがては貧困者として街に放り出されてくる人もいる。機会の平等というと、普通は下から上にいく「機会」が平等にあることを想像するが、本当の意味の機会の平等とは上から下にいく「可能性」もまた平等であるという社会である。そうした意味でまさに今の日本は機会の平等はかなり達成した社会であるといえる。さて、そんな中で、貧しく育って今も貧しいという人と豊かに育って今は貧しいという人とでは、不満や不幸の程度はどちらが大きいのだろうか。おそらくは後者の方だろう。今のところ、彼らは蔓延する自己責任論の中で自分を責めているばかりなのかもしれないけど、やがては社会に目を向け、社会の変革を求めるようになるのではないか。そして市場原理主義的な競争一辺倒の方向に異議をとなえるようになるのではないか。いや、もうそうした動きは起こり始めているのかもしれない。※それにしても機会の格差と結果の格差の議論で、ともすれば機会の格差に目が向きがちなのはなぜだろうか。たぶんそれは親の経済力で学歴や社会的地位が決まると思いたい人が多いからではないか。親がもっと豊かであれば自分にはもっと高い学力や学歴が身についたはずだと。本当は自分はもっと優秀で能力もあったはずだと。自己評価というものは得てして客観的真実よりも高くなりがちだし、それもまた人間の性だろう。でも人間には能力の差が厳然と存在する。スポーツ選手の親にはスポーツマンが多いし、学力の優れた子供の親はやはり学力の優れた人が多い。スポーツマンは高収入とはかぎらないが、学力の高い人は往々にして高収入の職についているので、東大生の親の年収が高いなんてあたりまえのことで機会の不平等の証明でもなんでもない。そうではなく、人間はいくらスタートをおなじにしたところで能力や運による格差は必ずでるものだし、そうした結果の不平等をどう考えるかと言う議論こそが必要なのではないのだろうか。機会の平等は重要だが、機会の平等を保障すれば後は自己責任という議論もまた粗雑だと思うのである。
2008年05月19日
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ときならぬ「蟹工船」ブームだという。文庫本が増刷しても追いつかないほど売れているという。それもカラマーゾフと違って若い人が買っていくという。ひろがる一方の格差、そして貧困があの多喜二の世界とシンクロするのだろうか。今の貧困は昔の貧困と違う。昔の貧困はたいてい子沢山、老人、病気の妻など扶養負担とセットになっていた。でも今は健康な男が家族も持たない、酒やギャンブルもやらないのに、自分の生計もたてられないでいる。こんなタイプの貧困はかってはなかったのではないか。もう一つ昔と今とで違うところがある。よいとか悪いとかではなく昔は貧困に階級のようなものがあった。貧困な家庭に生まれた人が貧困層に落ちる可能性が高いというような・・・。でも今は違う。中流家庭で大学をでた若者がワーキングプアになっていく。機会の平等とはいうけれども、どうやらそれは貧困の可能性の平等という意味でもあるらしい。そんな貧困者に対して自己責任をいう人は多い。スキルをみがかないせいだとか、努力をしないせいだとかと。そしてまた格差は乗り越えられる、乗り越えられないのならあんたが悪いと。貧困者の側も自分を責めて自信や誇りを失っていっているようにも見える。本当にそうなのだろうか。貧困といったって明日のわが身。格差の烈しい社会は多くの人にとって生きにくい社会なのではないか。自分ばかり責め、自信を失っていた若者が、あの蟹工船のように誇りある労働者として立ち上がってくれれば、そうなったら社会も変わっていくのではないか。changeというのは米国大統領選挙だけの話ではない。
2008年05月14日
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非正規化の流れの中で医療保険に入れない人が急増している。所得格差、生活格差は、やがては医療格差、生命格差という形に変わっていくだろう。20代や30代のうちはまだよい。40代を超えると様々な健康障害がでてくる。そうしたものが重大な事態に至らないのは、健康診断や医療を受ける機会が普及したせいではないか。血圧が高ければ医師の指導を受け降圧剤を服用する。血糖値が高い場合も同様の処方を受ける。しかし、健康診断すらも受ける機会のない人が急増していったらどうなるのだろうか。高血圧も高血糖も最初は自覚症状などはない。いまや30代男性の2割が臨時雇用者。臨時雇用というのは契約期間が1年以下ということなどで、非正規就労一般となればこの比率はさらに高まるであろう。健康診断の機会もなく、あっても医療を受ける金がないという人が相当数いるわけである。10年、20年後の近未来の日本。高齢化も深刻だけれども、それと同時に40代で倒れて半身不随、糖尿病による失明、足切断・・・こうした中途障害者が続出しそうである。※格差、これは貧困者の増大といいかえた方がむしろよいのではと思うのだが、まず社会モラルの低下や犯罪の頻発という形ででてくる。そしてまた犯罪の近縁でもあるが社会との無理心中ともいうべき周囲巻き込み型自殺の増加。図書館の本の毀損や授業料、給食費の滞納、通り魔殺人、硫化水素自殺、「人身事故」による電車の乱れ、商品への針や殺虫剤混入、花壇の花の摘み取りなど、今起きているのがその段階である。次には人材の質低下や健康低下がそれに続くだろう。職業人として成長する機会もなく、健康へのケアもない人々が中高年となってくるからである。※さらに、社会に対する不満や富裕層への反発をいだく人々が相当数に達すれば、それを受け止める政治勢力がこの国を支配するようになるかもしれない。なんか楽しみのようなそうでないような…。ふと共産革命を夢見て、ロンドンで不況のたびに祝杯をあげていたマルクスの気持ちを想像してみたりもする。
2008年05月13日
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今朝の産経新聞の「日曜日に書く」に格差についてこんな記述があった。「格差が乗り越えられる」として、今日の格差社会といわれるものは身分社会とは違うのだから「喫緊、最重要の政治課題」だと単純にはいえないというような趣旨である。格差の議論となると、必ずこの種の議論がでてくる。要するに格差は乗り越えられるもので、それはできないのは本人の自己責任という論法である。これってなにやら格差はスキルのない本人のせいという議論にも共通する。※たしかに今日の格差は源氏物語の時代のように身分や血統によるものでもないし、19世紀や20世紀初頭のように親の資産や経済状況だけで決まっているわけでもない。様々な要因があろうが、今日の格差は能力、運、努力等による部分が非常に大きいのである。「格差は乗り越えられる」というのは「スキルがあれば這い上がれる」というのと同様、一面の真理はふくんでいるが、その実なんの解決にもならないのではないか。いや、こういうことをいえばいうほど格差を乗り越えられないいわゆる「負け組」の絶望感は深くなるばかりなのに・・・。※まあ、格差を乗り越える人はいるだろうし、そのための努力をすべきであるという議論は否定しない。しかし、「格差は乗り越えられる」と言ったところで、乗り越えられない人はやはりいるわけで、格差の問題は問題として残るわけである。かのマルクスはイギリスに移住し、不況のたびに友人エンゲルスと祝杯をあげたという。究極に資本主義が発達したら革命がおきるのは歴史の必然だ。彼はそう信じていた。だから不況で労働者の不満が高まれば必ずや革命が起きるに違いないと。そんなマルクスが今の日本をみたらどう思うだろうか。発達した資本主義の中で持てる者持たざる者の格差が広がるばかり。細るセーフティネットの中でおびやかされる生存。都市を浮遊する住居のない若者達。モラルの低下や続発する犯罪。いつか彼らの不満、絶望、そして嫉妬や怒りが沸点に達したらどうなるのだろう。やはりマルクスは自分の理論にも真実があったと心密かに祝杯をあげるのではないかという気がする。
2008年05月11日
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今、小林多喜二の「蟹工船」がブームだという。今年は多喜二死後75年ということもあるのだろうが、死後50年である25年前はほとんど話題にならなかったと思うので、やはり今の時代と多喜二が描いた労働者の悲惨とにシンクロするところがあるのだろう。※蟹工船を読んだのは中学3年の今頃の季節。学校の図書館で借りていっきに読んだのを覚えている。最後に団結して目覚めるとはいえ、それまでの虐待や重労働の描写が凄惨で、正直ちょっと読み返す気にはならない。現代ではああいう多勢の人間が酷使されるような現場はあまりない。そのかわり一人ひとりの人間が浮遊する労働力として使い棄てられる現場がすごく増えてきているように思う。電車の中で隣に座った若い子が携帯をとると、いきなり敬語で「はい○時までにまいります」なんていう受け答えをしている光景・・・こんなのを最近よくみかける。今や3人に1人が非正規雇用者。そして年収200万以下が1000万人余。生活保護世帯は100万突破。誰でも、ほんのちょっとしたきっかけでいつこうした困窮状態に落ち込むかもしれない時代なである。大卒後就職したが二度の転職、失業、零細企業就職を経て、今は派遣で働いているが生活できない事例、30代後半でアルバイト生活をしているが周囲から正業につかないことを責められ生き地獄の日々を送っている事例…こんなのが最近よく新聞の投書や人生相談に載っている。蟹工船の労働者は最後に目覚め、団結した。今のフリーター、使い捨て正社員は、個々に分断され、代わりはいくらでもいるだけに、団結することすらも難しい。
2008年05月08日
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数日前のアサヒにこんな趣旨の投書が載っていた。バブル期に大学を卒業し、数社の内定をもらって就職した息子。その後、5年内に二度の転職を経て、やがて失業、零細企業就職。そして今では派遣社員をしているが、一人では生計をたてられず、親の年金から息子の社会保険料などをだしているのだという。こういう話がどの程度一般的かはわからないが、ただ周囲をみまわしても親が30歳代、40歳代の息子の生計費を支援している例はけっこうあるように思う。※機会の平等はたしかにかなり実現した。ただその機会の平等は、下から上にあがる機会と同時に、上から下に転落する可能性ともセットになっている。よいとか悪いとかではなく、以前は貧困は生まれながらの「階級」とは密接に関連していた。極端な貧困はやはり貧困家庭に生まれた者の問題であって、中産階級で私大まで出してくれるくらいの経済力ある親の下に生まれれば貧困など関係ない・・・なんとなくそんな雰囲気があったように思う。でも、今やネットカフェ難民やホームレスに大卒がいたってたぶん誰も驚かない。いや、それどころか少々経済力ある親に扶養されているが、親が老齢になったり死亡したりすれば、あっという間に転落しそうな膨大な数の貧困予備軍もいそうである。かっての貧困というのは、子沢山や老親の扶養、妻の病気などの扶養負担とセットになっていた。そうでなくとも、ギャンブルや飲酒など本人に責任のある面もあった。30代、40代の健康な男性が家族ももたず、普通に働いて、飲む打つ買うに溺れてもいないのに、自分の生計費すらも稼げない。こんなタイプの貧困は、もしかしたら平成の今の時代になって初めてあらわれたものかもしれない。しかも、その貧困の淵には、誰がいつ転落してもおかしくない。どうしてこんな社会になったのだろうか。膨大な非正規雇用者を生み出した労働法制の規制緩和や低すぎる最低賃金、形骸化した社会保障などがその原因だとしか思えない。市場原理主義路線から舵をきりかえて格差是正の方向にすすまないと、本当に大変なことになりそうである。※冷戦が崩壊し、共産主義革命の脅威がなくなってから、市場原理主義のゆきすぎがめだってきたように思う。市場原理主義の毒を中和するには共産主義の脅威もやはり必要だったのではないか。ちょうど強酸の毒を中和するには強アルカリの毒が必要であるように。言ってしまえば、今の時代こそ共産主義をかかげる政党の躍進が必要だし、共産主義思想自体も再評価されるべきである。貧困者やその予備軍に対し、負け組、自己責任、スキルがないと嘲笑するのではなく、そうした人々に誇りを与え、社会変革を説く政治勢力が現れたら、きっと大躍進する。もちろんその場合は地主や工場主だけが強者だったようなふるい階級観とは決別する必要があるし、犯罪被害者よりも加害者の人権が大事のようなうす甘サヨクとも一線を画す必要があるのだが。
2008年05月06日
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格差や貧困は昔からあったという人がいる。たしかに数値的にはそうなのだが、昔と今とでは決定的に違うことがある。それは比較の対象である。まず他者との比較。戦前も貧しい小作農などは多かったが、マスコミも交通も発達していない時代とて比較の対象も同じ村の同じように貧しい農民にかぎられていた。また、同じ村の地主も飛びぬけた贅沢はしておらず、皆と同じに泥まみれに働き、村の祭りなどでは同じ席で同じものを食べていたことが多かったのではないか。そして過去との比較。昔の貧困は、江戸、明治、大正という時代の移り変わりの中での貧しさであり、苦しい生活であっても、ランプがともった、電灯がついたということに喜びを感じたことも多かったのではないか。でも、今の貧困は違う。バブルの中で育ち大学も出ながら、就職に恵まれずその日暮らしという人も多い。マスコミを通じて勝ち組の優雅な生活の情報も伝わってくるし、それでなくても中学や高校で机を並べた同級生がいい思いをしているという話もきくだろう。今の社会、様々な不満がうずまいているのではないか。近未来、この日本で共産主義などの貧困と社会変革を結びつけるイデオロギーが大ブレイクしそうな予感である。※もちろん貧困層の不満を吸収するものとしてはイデオロギー以外にもある。一つは宗教、そしてもうひとつは民族主義という擬似宗教である。オバマが貧困層が宗教にすがりついているというオバカな発言をしたが、貧困層が宗教にすがっていたほうが為政者にとっては都合がよいはずだ。ただし日本にはイデオロギーに対抗するほどの強い宗教はない。民族主義の方は戦前の日本で多用されていた。曰く。日本は神国。万邦無比。日本人でいるだけでありがたいと思え。そんな民族主義に洗脳され、貧しい庶民は我慢を強いられた挙句に戦場に連れて行かれた。戦前派なら誰知らぬもののない爆弾三勇士も木挽などの最下層の若者達であった。一部の政治家の考えは別かもしれないが、こんな手が二度と通用するとも思えない。ネットで日本の技術力を誇りながら他のアジア諸国を蔑視した書き込みをする人もいるが、いくら日本の技術を誇っても自分のやっている仕事はティッシュ配り程度という空しさにいずれきづくことだろう。※ネパールでは選挙で王制廃止と共産政権樹立がなしとげられた。ネパールにも王制をよき伝統という人はいただろう。しかし、貧困に苦しむ人にとっては、王制などは伝統というよりも単なる因習でしかなかったということである。ネパールの王制の歴史は数百年だったようだが、たとえその王制が5000年、1万年と続いたものであったとしても同様であろう。
2008年05月04日
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最近スキルという言葉をよくきく。格差とか貧困とかという前にスキルをみがくべきではないかという論法である。ニートやフリーターを本人の勤労意識や親の甘やかしのせいにするように、このスキルという議論も結局はそんな自己責任論の延長にある。ワーキングプアも貧困も「スキル」をみがかなかった本人の責任といいたいのであろう。古い概念もカタカナにすると目新しく聞こえるというのはよくあるのだが、いったいこのスキルというのは何を意味しているのだろうか。転職があたりまえという労働流動性の高い社会なら、どこの会社で何を担当していたというのが次の職探しで評価される。しかし日本の場合には、会社を辞めたことやフリーターの経歴自体がマイナスの評価を受ける社会である。その意味で日本はやっぱり強固な「終身雇用社会」であるともいえよう。※「休みたければ会社を辞めればよい」といった財界人がいたが、大変なのは非正規雇用者ばかりでない。正規雇用者だって、正規雇用であるために、有給休暇も使えず、サービス残業にも応じざるをえない実態がある。そうした意味で、貧困の温床になっている非正規雇用と過労死に至るような過酷な勤務が課せられている正規雇用の問題は、まさに車の両輪であろう。※もしこのスキルというのが、傑出した組織運営能力や営業力、高度な技術者の専門知識をいうのなら、多くの人にとってそんなスキルは無縁だし、努力しても得られるものでもあるまい。なんか本当に少数の「勝ち組」とか「セレブ」とかいう人以外が幸福になれない社会って、やはり間違っているのではないのだろうか。ところで朝生で「スキル」を連呼していたという某議員。経歴をみると二世議員みたいだけど、御本人にはいったいどれほどの「スキル」があるのだろうか。
2008年04月27日
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格差を本気で戦えば共産党が大躍進する。以前、日記でこんなことを書いたが、本当にそんなことになるかもしれない。最近ネット上でCGJというのが人気だそうだ。志位委員長が派遣労働について鋭い質問をした映像がyoutubeなどで何度も閲覧されており、CGJというのは志位GoodJobの略である。映像はこちらhttp://jp.youtube.com/watch?v=6I_NTfz3RNs※今、30代前半男性で臨時雇用者は2割にも上る。臨時雇用だけが非正規雇用のすべてではないので、3割~4割の者が不安定で条件の悪い雇用に追いやられているわけである。そしてその周辺の失業者や無職者も加えると相当数の者が貧困者やその予備軍だといえる。彼らの多くは家族ももたず、所属すべき集団もない。その深刻さを考えたことがあるのだろうか。そんな彼らが自らの利益を代弁する政党として共産党を選んだとしても不思議ではない。自民党は論外としても、民主党だって「政権にありつきたい」という以上の政策がみえてこないし、小沢氏の過去の言動やキャラだと、弱者の見方ははっきりいって無理であろう。※また、最近になって蟹工船や小林多喜二がブームだという。なにやら怖い顔をしたマルクスやレーニンといった外国人よりも、夭折の文学者が共産主義のシンボルとして脚光をあびているのだろうか。一時は死んだはずの共産主義という妖怪…。どうやらこの21世紀の日本で復活しそうである。農村共同体で培われた強い平等意識や宗教の不在など、日本の社会風土はけっこう共産主義と相性がよいのではないかと思う。その先にあるのがユートピアなのか、キリングフィールドなのかは、そりゃわからないけど。蟹工船(漫画版も)はここで公開されている。http://www.takiji-library.jp/announce/2007/20070927.html
2008年04月26日
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終戦直後にはやった歌に「緑のそよ風」というのがある。つきぬけたように明るい歌なのだが、歌詞をよくみるとなかなか興味深いものがある。初夏の幸福な気分を歌っているのだが、蝶々が飛んでいるのは豆の花、妹がつんでいるのは摘み菜、そして庭には七色畑である。七色畑というのは、どうやらここにしかでてこない言葉みたいであるが、狭い場所にいろいろな作物を植えているということなのだろうか。つまり戦後の食糧難の時代には皆そうやって農作業をして食物を補給していたわけである。※日本でも昨今急速に貧困層が増えている。ワーキングプア、ネットカフェ難民、生活保護水際作戦、ホームレスなど。いつも不思議に思うのだが、そうした人々が菜園を作って食料を補給しているという話はあまりきかない。もちろん庭や住居もないという例も多く、やりたくてもできないということもあるだろう。しかし自宅をもっている人が庭の野草を摘んで食料を補給しているという話を聞くとおもわず首をかしげてしまう。野草を摘むくらいなら、なぜ菜園を作らないのだろうか。思うに農業と言うのは自分の手で食料を作るという根源的な営みである。生活保護も、水際作戦などで金を出す出さないを争うのではなく、棄農地などを提供して菜園指導するなどの援助もあるのかもしれない。もちろんある程度の健康と体力が条件ではあるのだが。それとももう既に食料確保のための菜園というのはかなり行われているのだろうか。
2008年04月25日
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緑茶飲料から相次いで除草剤の成分がみつかった事件をうけ、政府では省庁をあげて対応を協議しているという。ふとこの間の中国産餃子騒ぎを思い出す。あのときは農薬成分は中国側で混入されたというのが当然の前提の報道がなされていたが、実態はどうだったのだろうか。「中国の工場はいいかげんだから」という感じで報道に接していたが、この日本の社会だっていつ毒物混入事件があったとしても不思議ではない社会に変質してしまったのではないのだろうか。※ここ数年の世相の変化で目に付くのは「下流社会」の拡大である。ネットカフェ難民、ワーキングプア、ニート、フリーターなど。健康な若者がなんらかの原因で下流に落ち込むと、そこから抜け出すのは至難の業である。そしてそんな彼らを支える地縁や血縁といったサポートは、昔と違ってほとんどなく、最後の絆である親だけが負担を全面的にかぶっていく。最近目に付く無差別殺人の増加もこんな下流社会の拡大と決して無関係ではないだろう。無差別殺人というのは決して刃をふりまわすだけではない。そろそろ格差拡大路線にストップをかけ、再分配機能のはたらく社会にしていかないと、本当にとりかえしのつかないことになっていくように思う。※「受験のシンデレラ」(見ていないのだが)という映画は格差社会の中で人生は変えられるということをメッセージにした映画なのだという。母子家庭の貧しい少女が東大受験をめざすという筋らしいが、まさかこの映画を監督した評論家の医師も、誰でも努力すれば東大医学部に合格できるなどと思っているわけではあるまい。自分は努力したから成功したと思っている人間と自分は能力があるから成功したと思っている人間がいた場合に、前者のタイプを人は謙虚だと評するが本当にそうだろうか。努力したから成功したと思っている人間は下流に沈んでいる人間をみても単に怠けていたからとしか思わないのではないか。生まれ持った能力など自分には様々な僥倖が与えられたと思えばこそ、その幸運の果実のいくばくかを社会に還元していこうという発想もでてくる。まあ、病気ですら「生活習慣病」などと読んで病気になった本人の責任にしてしまうような社会だから、ニートやフリーターも「多様な働き方を望んでいる」なんていう理屈で片付けてしまうのだろうけど。
2008年04月09日
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昨日の日記で中央公論の特集「いま隣にある貧困」について書いたがその中にこんな言葉が出てくる。作家の雨宮氏が対談の中で言っているのだが「フリーターを使い捨てていく中で、うっすらとした憎しみがものすごい勢いでひろがっている。」という言葉である。まさにこの「うっすらとした憎しみ」が大小様々な犯罪や迷惑行為の温床になっているのではないか。電車の座席や図書館の本に対するいたずら。ときには暴発して通り魔殺人。同じ対談で佐藤氏はこう言っている。「第一に、分配機能を強化し、貧困をなくさないと、アナーキーでめちゃくちゃな社会になるぞと。第二に、でないと国力が弱くなるぞと。第三に人間としての感覚は大丈夫かと。」小生も常々思っていることである。※格差というのは昔からあったという人はいる。ただ松下やホンダの創業者は人を幸福にする商品を開発して富者となった。今の富者は規制緩和のなみにのって事業を起こし金満生活をする。多くの非正規雇用者を使っていた折口氏などはその典型だろう。格差は決して一部で強調されているような親の経済力によるものではない。折口氏は貧困の中から身を起こして起業した人物だが、ピンハネされていた側には裕福な親に私大を出させてもらった人が多勢いたことだろう。今後の高齢社会にとって最も大切な介護の現場を悲惨なワーキングプアの現場にしてしまった責任はあまりにも重い。今後、介護保険の値上がり等の議論がでても事業者を肥え太らせるだけという不信感はどうにもぬぐいがたい。話題を格差の方にもどすけど、規制緩和のはてに生まれた派遣業界のあり方については早急に見直すべきではないか。
2008年03月30日
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なぜ社会主義体制は崩壊し、冷戦は終結したのだろうか。それは社会主義思想の前提となっている「搾取される労働者」という概念が過去のものとなったからではないか。たしかにマルクスが生きていた頃のイギリス労働者の実態はひどいものだった。長時間の重労働や食うや食わずの貧困。そんな社会の実態をみれば、社会主義革命が歴史の必然だと思うのも無理なかったのではないか。それが社会経済の発展でそんな悲惨なプロレタリアートは過去の幻影になった。庶民大衆のほとんどは豊かではなくてもそれなりの幸せを享受し、夢や希望をもって生きている。だからこそ社会主義思想は過去の思想とみなされたのではなかったのか。※昨今の貧困をみると、その社会主義思想が復活しても不思議ではないように思う。中央公論最新号で「今そこにある貧困」の特集を行っているが読み応えがある。派遣社員に対する搾取やネットカフェの半ホームレスの実態はマルクスの時代のイギリス工場労働者とさして違わない。特集の中での対談で佐藤優氏がこんなことを言っている。「為政者は気をつけないと。社会構造の生み出した「ひずみ」は過激な方向に絡めとられやすいですから。…」と。日本の貧困者の多くは家族をもたず、共同体などの背負っているものもない。しかも情報だけは豊富だ。マルクス主義のような急進的な思想が燎原の火のようにひろがっても不思議ではない。そのうちあの共産党宣言を読みやすく漫画化して街頭で配るなんていう政治団体がでてくるかもしれない。※※奈良のマスコットキャラクターについては、とうとう仏教界からも批判の声がでてきた。仏を冒涜するからけしからんなんてまるでムスリムみたいな言い方だが、あのマスコットをみたときに多くの人が感じる気持ち悪さも案外淵源はそこにあるのではないか。仏像には手が複数あったり顔がいくつもあったりと人間ばなれしたものも多いが、動物の角をそのまま生やしたようなものはない。仏像という崇拝の対象に無造作に鹿の角をつけた姿への違和感はどうにもぬぐいがたい。冒涜といえばオランダの右派政治家が預言者をファシストとみなした映像を公開してムスリムの反発を買っているという。映像で探そうとしても一苦労だ。日本の新聞では外国人の名前を出すとき英語表記をつけない。もし外国の地名や人名に英語表記をつけるようにすればインターネットで簡単に関連資料を探すことができるのだが。※※児童ポルノ所持を禁止している米国ではこんな事態も起きているという。この怖さは痴漢冤罪の非ではない。紙媒体だけの時代ならともかく、ネット時代の今日、情報の所持そのものを禁止しようとしたら必ずこうした事態が起きる。必見 http://news.livedoor.com/article/detail/3565165/
2008年03月29日
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1933年2月20日は小林多喜二が拷問死した日だという。あれから75年。悲惨なプロレタリアの実態を描いた蟹工船の時代から我々はどのくらい進歩したのだろうか。規制緩和の名の下での格差拡大…。労働市場の自由化は折口のような小才ある者にのしあがるチャンスを与えた反面、多くの人々をプロレタリア文学が描いたような悲惨な境遇においやっただけではないか。小説「OUT」の冒頭の弁当工場の実態などは、平成のプロレタリア文学という感があるし、当人がどこでどのように働くかわからないという二重派遣や労災隠しとなると、もうこれは小林多喜二の世界とはまた違った悲惨さがある。※思えばプロレタリア文学が人気を博した時代、海の向こうには労働者の祖国「ソ連」という国があった。そして蟹工船の労働者が目覚めるきっかけとなったのも、そんなソ連の漁船員を通じてだったかと記憶する。社会主義の理想は多くの労働者に希望を与えたし、支配者階層には脅威も与えた。そうした中で、福祉政策、労働政策も徐々にすすめられ、労働者階級の惨状というのは過去の実態となっていったのではないか。そう考えると、社会主義体制の崩壊と格差拡大というのは無関係ではない。※企業は団塊世代の大量退職にもかかわらず、新卒採用には抑制的だという。個々の企業の利益を考えれば、手間をかけて育成し、解雇もままならない正社員よりも、派遣などを利用した方が合理的だろう。しかし、これからの社会を考えたとき、派遣やフリーターのような大量の貧困予備軍をかかえる社会というのはどうなのだろうか。社会が安定して幸福な人が多いほど、その中に存在する企業もまた栄えていくのだと思うのだが。
2008年02月24日
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ニュースというものには、だいたい3種類あるのではないか。本来の意味でのニュース。もともとあったことだけど今の時点でニュースにしているもの。ニュースではないもの。※中国からの輸入食品の殺虫剤混入や力士暴行事件などはどうも、もともとあったものを今あらためてニュースにしているだけという気がしてならない。3年ほど前、食品に虫が混入していた、金属片が混入していたといって何千という製品が廃棄されたことがあったが、あれと同じような構図である。殺虫剤は一時重態になった子供までいてたしかに問題だが、一方ではこんなに騒いでいるとそのうち食べるものがなくなってしまうのではないかという危機感も感じる。※昨今の食品偽装告発騒ぎをみるまでもなく、会社にいても帰属意識をもてない就業者は増えている。非正規労働者を使い捨て、正社員には残業を押し付け、成果主義だのリストラだのとむきだしの弱肉強食の競争を押し付ける。そんな中で反抗を試みる労働者がでてきたっておかしくない。何がいいたいかというと、中国の工場で起きているようなことは、日本の工場で起きたってなんの不思議がない。※世界には様々な文明、いろいろな文化があるのだが、日本の文化の特徴を一言でいえば、共同体重視の文化ということにつきるのではないか。よい意味での競争はあったかもしれないが、基本的には勝者も敗者もなく、支配者のとてつもない贅沢や暴政もないし、被支配者の奴隷化もない。どうも争いを好まず、格差を嫌うDNAのようなものが日本人の中にはあるのかもしれない。だから昨今の格差拡大や弱肉競争賛美は共同体としての日本のよさを壊してしまうのではないかと危惧する。そしてそんな格差拡大や競争賛美が大人だけではなく、子供の世界にまで入ってきているようでなんともやな感じだ。某自治体で行っている公立中学での「できる子限定」の課外授業や給食費を未納している家庭の子供への給食拒否などは、非常に問題だと思う。
2008年02月11日
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高校生の頃、社会主義についての話をしているとよくこんなことをいう人がいた。「マルクスなんて時代遅れだよ、だってもうそんな労働者はいないのだから」と。当時増えつつあったホワイトカラー層はたしかにサヨク本の描くプロレタリアのイメージとは異なっていた。悲惨な長時間労働は過去の話だし、飲み会やレジャーのような娯楽も一般化して生活水準も向上していた。中には社内持ち株制度などで、労働者どころか資本家の一員になっている気でいるものもいたくらいだ。※奴隷同様の境遇におかれた悲惨なプロレタリア。そして鉄鎖以外は何一つ失うものも無い労働者。そんなのは昔のことと思っていたが、どうやらこの21世紀の日本で増殖しているようだ。名目だけ管理職として長時間労働を強いられていた外食産業の店長のニュースを聞くとそうとしか思えない。非正規雇用者が増えていることはつとに指摘されているが、その非正規雇用の増大が正規雇用にどのような影響を及ぼしているかはあまり議論されていない。業務の多くを非正規にまかせた故に正規雇用者に残業等のしわよせがいっている…ということは件の外食業界だけでなく、様々な場にみられるのではないか。企業の論理からすれば人件費を減らすためには極力非正規でできる部分は非正規にまかせ、正規雇用者については残業も含めてそれを肩代わりする働きをしてもらった方がよいに決まっているのだから。ホワイトカラーエグゼンプションなどというのもまさにそうした資本の論理からでてきたもので、それを残業が少なくなって一家団欒の時間が増えるなどとは詭弁もいいところである。※必要なことは弱いもののみが痛みを感じる「さらなる規制緩和」などではない。「格差といっても日本の貧困はアフリカよりもまし」なんていっている連中が国の舵をとっていけば、そのうち本当に日本の貧困はアフリカなみになるだろう。かっては資本主義の論理に対抗するものとして社会主義の論理や理想があった。その現実の社会主義が崩壊してから、資本主義もまた変質していったのではないか。むきだしの弱肉強食や自由競争では多くの人は幸福になれない。明日の希望のない非正規就業や正規就業といったって残業奴隷のような生活を強いられる社会はもうごめんだ。いまこそ思う。社会主義の理想や理念というものは、もう一度見直されてもよいのではないか。カムバック!レーニン。
2008年01月29日
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週刊新潮にでていたこの言葉…なんと財界の某偉い人の言葉である。アフリカでは多くの人が生存ぎりぎりの生活をしており、だからこそ万単位の餓死者がでている。それを持ち出して、「格差」といってもアフリカよりはマシなんていわれてもねえ。こういう人にかかれば、生活保護を受けられずに餓死する人がでても、それが万単位でないからアフリカよりはマシだなんていうのだろうか。記事を読むと、この人は「改革のスピードが減速している」と憂え、消費税の値上げなども主張している。豆腐や納豆、ちくわなどの食料品や灯油が値上がりしている中で、消費税も上がったら、生活できない人が続出するだろう。それでも「アフリカよりもマシだから我慢しろ」となるのだろうか。こうした感覚の人が国家の中枢にいてそれなりの発言力をもっているのってなにやら怖い気もする。※この人に限らない。アフリカのような地球上の最貧地域を持ち出してこれと比較し、格差だの貧困だのといっても「日本人は本当の貧困を知らない」みたいな主張は某有名作家も行っている。この田園調布在住の美人作家は世界のあちこちにでかけ、その流麗な筆で描かれる貧しい国々の描写には胸うたれるものが多い。たしかに地球上には水、食料といった生活に必要な最低限のものすら確保できていないところも多いし、それどころか戦火が止まず明日の生命すら保証されないような地域もある。それに比べれば日本のホームレスは安全だし、コンビニから賞味期限切れの弁当をもらうこともできる。ましてやネットカフェなどは快適そのものではないかということだっていえそうだ。じゃあ、だからといって日本の貧困をそのままにしていいかといえばそれはまた別の問題である。先進国の中で比べれば、日本の最低賃金は低い。そしてOECD諸国の中でも、日本は米国と並んで貧困層の比率の高い国に分類されている。最近とみにいわれるようになったアフリカまで持ち出しての「日本の貧困などはたいしたことはない」式の主張。なんかこれって地球規模での「上見て暮らすな下見て暮らせ」に思えてならない。
2008年01月11日
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昨日の朝日新聞に対談記事があったが、その中で妙に印象に残った箇所がある。日本では規範の源泉になっているのは共同体なのだがそれが崩れている。その中で規範を維持できたら、それが一つの社会モデルになる…といった趣旨のくだりである。※規範の源泉が共同体意識にあるということは「恥の文化」としてつとに指摘されているところであるが、その共同体の消滅によって大小さまざまの犯罪や逸脱行為がでてきていることは、多くの人が感じているのではないか。農村の衰退によって村という共同体が消滅し、それを基盤とした親族という共同体も消滅した。カイシャという共同体も終身雇用制の崩壊や非正規化の中で崩れてきている。今の時代、最後に残っている共同体といったら夫婦や親子くらいしかないのではないか。かくして親が重荷になれば子に、子が重荷になれば親にもろに負担がかかっていく。2007年は大事件こそなかったが、貧困を背景とした犯罪、特に親族間の犯罪がめだった年だったように思う。経済力のない子供が親と同居し、介護負担がかかってきた結果としての介護殺人。定職がなく暴力をふるう息子や病気の娘を思い余った親が殺した殺人事件。社会の底に澱のように貧困がひろがり、その負担がごく近い親族におおいかぶさっていく。根無し草のような貧困者が増えれば犯罪はいやおうなく増えていくだろう。親族間の惨劇だけではない。刑務所しかセーフティネットがなければ刑罰だって怖くない。自暴自棄で自殺するつもりなら人をまきこむのもなんともない。※恥の文化の国で共同体が崩れていけば規範なんて維持できるわけはない。朝日の討論記事にあったような社会モデルの創設なんてできるわけないのである。そしてそれより、このまま貧困者が増えていったら、もしかしたら犯罪の頻発以上のことが起きるかもしれない。共産主義のような思想が復活して燎原の火のようにひろがっていくか、それともカルト宗教のようなものがはやっていくのか…。いったい社会はどういう方向に向かっていくのか、今年あたりが分水嶺なのかもしれない。
2008年01月07日
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今の日本の政治状況についての最大の問題は経済的弱者の声を代表する政党がないということではないか。格差拡大、福祉切捨て…という流れの中で、増加しつづける貧困層こそが、今後日本の最大の政治課題ではないかと思う。それなのに貧困の問題は、「格差の問題」といいかえられ、そしてその「格差」という言葉も最近では都市と地方との税収格差に使われているように、どんどん問題の矮小化やすり替えが行われているように思う。普通の住宅地でも、ホームレスを見かけることは珍しくなくなったし、結婚どころか自分の口を養うこともできない若者も街にあふれている。それなのに政府は相変わらず財界よりの政策を続け、野党第一党の政党も弱者の側にたつどころか与党と権力をわけあうことを考える始末…。そして経済的弱者の声を代表する政党としてもっとがんばってほしいところは、どうもいまいちやる気がない。だいたいこのHPのつまらなさ、センスのなさはなんなのだろうか。http://www.jcp.or.jp/これじゃあネットカフェのお兄ちゃんが自分からすすんで読もうという気にはならないではないか。荒らされてもよいから掲示板くらいつくればよいのに。今の世の中、貧困は決して特定の人たちだけの問題ではない。多くの人々がすぐ隣にある問題として考えているのではないのだろうか。このままいくと日本は本当に少数の富者と大多数の貧困者の途上国型社会になってしまうが、そうなってはならないと思う。※最近このような貧困問題にかかわる議論で気になるところがある。困窮者が問題になれば、それに対する対策としては、こうした人の経済状態を改善する方策を探るのが常道であろう。ところが昨今では、それとは全く逆の困窮者の側に合わせれば問題が解決するかのようなおかしな議論が幅をきかせている。皆が貧しくなれば貧しさも気にならないとでもいうのだろうか。生活保護基準を「それ以下の層」にあわせるなんていう議論もそうだが、非正規雇用の問題を正規雇用が「恵まれすぎて既得権化している」なんていう議論もそうだろう。そして結論は非正規雇用の処遇改善よりも、正規雇用者の「痛み」だとか「労働市場のさらなる規制緩和」だとかにながれていく。まさに労働市場の規制緩和こそが今の深刻な貧困を生み出したことを忘れているのだろうか。こうした議論は貧困問題を解決するどころか、正規雇用者の下層部分を非正規雇用者に近づけ、貧困者を増やすだけの愚策としか思えない。
2007年12月22日
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格差についてこんなことを言っている人がいるという。真の格差とは「能力も努力も同じなのにそれでも差のつく場合をいう」のだと。能力や努力によって差のつくのは当然で、そういう差ならいくらあってよい…この人の意見はそう聞こえる。本当にそうなのだろうか。今起きている格差というのは、決して身分とか親の経済力によるものではない。まさに能力によって格差が広がっているのではないか。※能力による格差というと顔をしかめる人も多いかと思うが、そういう人は能力イコール人間の価値と思っているのだろうか。でも能力なんてものは絶対的なものではなく、しょせん時代によってその内容も異なってくるのではないか。大鏡には古今和歌集の和歌すべてを暗記した女御が大変な才女として描かれているが、今、そういう人がいても誰も才女とはよばないだろう。江戸時代だったら習字と算盤ができるのが寺子屋秀才の条件だったし、農村社会での最も重要な能力は健康とか協調性とかといったものだったろう。そして現代ではその能力自体が二極化している。一方には高級技術者や起業家などの余人をもって変えがたい資質を要する職業があり、他の一方には誰にでもできる代替可能な仕事がある。そしてこの能力、仕事の格差がそのまま経済力や収入の格差になっている。※能力の高い人を優遇するのは当然だろうし、それは否定しない。しかし一方で能力の低い人を最低水準以下の生活に放置してよいかとなると別の問題である。社会は能力の高い人だけでなりたっているわけではない。格差という言葉がさかんに言われるが、その正体というのは貧困問題ではないか。今でも年収200万円以下の層やワーキングプアとよばれる人々が相当数いる。こうした貧困層は今後も増えていくことだろう。なぜなら今でも30代、40代の非正規雇用やニートの者で親に扶養されていたり、親の家に住んでいる人が相当数いるのだが、やがては親の死や自身の健康悪化をきっかけにこうした層も貧困層に参入してくるはずだからである。※このままでは、やぶれかぶれの貧困層の反乱だって将来は起きるのではないか。持たざるものによる貧者の革命は資本主義の究極に発達した社会で起きると、かのマルクスもそう言っている。
2007年12月14日
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昭和30年代、40年代のサラリーマンものの映画をみていると妙な懐かしさを感じる。別にその時代にサラリーマンをやっていた経験はないのだが、全体の雰囲気が会社というよりも家族やムラのような感じなのである。サラリーマンは気楽な稼業というのが流行語になり、スチャラカ社員もダメオヤジも会社の中でとりあえずは明日の心配なく妻子を養っていた。たぶんこうした共同体的雰囲気は会社だけではなく、商店街や地域社会にもあったのではないか。よくある会社の社訓に「人生の幸福は会社の繁栄とともに」というのがあったというが、同様に「我が家の繁栄は商店街の発展とともに」という感覚だってあったに違いない。映画「3丁目の夕日」に代表されるような昭和30年代が人気を得ているのもそうした共同体に対する郷愁がきっとあるのだろう。おとといの産経の1面にこうした共同体の崩壊についてのコラムがあり興味深く読んだ。終身雇用制の崩壊はゆっくりと進んできたのだが、決定的になったのは90年代に非正規雇用化の流れが強まってからだという。そして成果主義や競争原理の導入でそうした流れはいっそう強まってきている。たぶん日本にはアメリカのようなむき出しの競争社会は似合わない。競争社会になったとしてもアメリカのように世界中から人材があつまる移民国家とはわけが違う。明治以降の急速な近代化はムラやイエという共同体あってのものだっただろうし、戦後の急激な復興もカイシャという共同体が原動力になった。共同体を壊していけば、日本はただ衰退するのみではないのだろうか。
2007年12月11日
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生活保護基準を切り下げるという方針をいよいよ政府は明言しだした。その基準以下で働いている人が沢山いるというのがその理由だが、なんとも納得しがたい。日本の最低賃金は諸外国に比べても低いのは周知のことで、なぜそんな低い最低賃金で問題にならなかったかといえば親族間の相互扶助が働いていたからだ。つまり最低賃金で働く人の多くは夫に扶養されている主婦であったり、親に扶養されている子であったり、逆に子に扶養されている老親であったりしたからだ。だからこそ、親族間扶助がほころびかけている昨今、低すぎる最低賃金が問題となっている。だったら議論すべきは最低賃金の引き上げで、それにあわせて生活保護基準を引き下げるというのは本末転倒の議論ではないか。生活保護基準は保護基準として「健康で文化的な最低限度の生活」という視点から見直すべきであろう。※生活保護基準が切り下げられれば最低賃金も低く抑えられる。保護基準切下げは今の生活保護受給者だけではなく、実は多くの国民に関連した問題である。保護基準ばかりではない。不安定な身分の非正規雇用が問題になれば、逆に正規雇用者の身分を保護しすぎてけしからんと金で解雇できる仕組みの導入が議論される。民間でリストラの風が吹いているのに身分の安定した公務員はけしからん、特に郵便局の内勤職員はけしからんといって郵政民営化を多くの国民が支持する。そしてもう一つの身近な公務員である小中学校の教員についても給料が高すぎるだの、M教師がいすわっているだのという議論がまっさかりだ。小中学校の教員は尊敬すべき職業だがいわゆるエリートというほどでもない。庶民同士がたがいに足をひっぱりあい、そしてそんなことがどこからか巧みに誘導されているうちにどんどんと住みにくい世の中になっていく。※石油値上げや温暖化問題のあおりでバイオ燃料に熱い視線があつまっている。米国では大豆に替えてトウモロコシ栽培がさかんになっているという。風が吹けば桶屋が儲かるじゃないけど、大豆製品が値上げしている。豆腐とか納豆とか安価な庶民の食材が上がっているわけである。そんな中で生活保護基準引き下げなどするのは、瀕死の鳥の羽をむしるような所業ではないのだろうか。
2007年11月30日
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あの労働者派遣法の改正が行われたとき、それは決して大ニュース扱いにはならなかった。たぶんその年の10大ニュースにだって入っていないだろう。しかしその影響は強烈だった。企業は待ってましたとばかり正社員採用を控え、派遣社員やアルバイトがとってかわるようになった。そしてそれとともにワーキングプアやネットカフェ難民なども出現していく。今までは学生や主婦、高齢者が主に担っていた非正規就労を、自分で生計をたてなければならない人達が担うようになってきたのだ。「多様な働き方」といえば聞こえは良いが、実態は「企業に都合の良い働かせ方」であろう。普通、人は学校で学んだ後も、社会人として成長をつづける。その成長の場が企業であり、組織である。だから雇用の非正規化は多くの人から成長の機会を奪い、国民全体のレベル低下をもたらすこととなる。犯罪の頻発、社会モラルの低下、労災や事故の増加…皆、根は同じである。そして労働契約法の成立。これもやはり結局は正規雇用の地位を非正規雇用に近づけるだけで、今、日本で進行中の問題をさらに加速させるのではないか。そんな危惧をいだいている。
2007年11月24日
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