全73件 (73件中 1-50件目)
豪華キャストによるミステリーとして楽しむのがこの映画の味方としては正解なのかもしれないのだが、むしろ物流をとりまく現状について考えさせられた。こんなことを書くと、「ま~た格差かあ」なんていわれそうなのだが、それくらいこの映画では格差の実態がリアルに描かれている、通販会社の上層部の管理職の世界と、仕分けの契約社員、そして末端の物流配達員の世界は、とても同じ国とは思えないくらい隔たっている。映画の連続爆破事件は…ネタバレになるが京アニ事件や無敵の人の通り魔事件と地続きのようなところのある犯罪で、こんなことも実際にありうるように思えてしまう。いくら技術が進んでも物流のラスト1マイルだけは結局のところ人が運ばなければならない。そしてこの配送の賃金や労働条件は、資本主義経済の中の力関係の差で思い切り買いたたかれている。思えば昔は配送やお届けには相応の金と時間がかかるのが普通だった。それが、ここ数年、急速に普及した通販では即日お届け、配送料無料が普通になっている。その裏には、顧客サービスという名目で、実際の配送に携わるものの低賃金や過重労働がある。コロナ禍で通販の需要が急増した際も、新聞の見出しは配送現場の疲弊であった。普通、需要が伸びれば利潤が上がり、その恩恵はその業界で働く者が享受するはずなのだが、需要の伸びた結果が現場の疲弊というのは何なのだろうか。通販会社という超巨大企業と個人請負(配送員は雇用ではなく個人請負という形になっているともいう)との間には古典的な経済のメカニズムなど働かないのだろうか。
2024年09月01日
コメント(0)
ずいぶん前から話題になっていた映画である。行ってみると観客席はけっこう埋まっていて、若い人が目立つ。コロナ禍に苦しむ日本でAIで復活させた歴史上の偉人の内閣をつくったら…という映画だ。コロナは劇的に弱毒化しているわけでもないのに、いつのまにかウィズコロナが日常になっている。だから、この映画は、あのコロナが出てきた当初の社会の雰囲気を思い出させる。今から見ればコロナも騒ぎすぎだったように思う。それはともかく歴史上の偉人を現代によみがえらせるというのが面白い。こういうのは最初は笑えるがそのうちばかばかしくなり、映画館を出るころには金と時間の無駄遣いを後悔する映画かと思っていたが、評判がよさそうだし、監督が「翔んで埼玉」の監督なので期待して見た。豪華キャストで再現された歴史上の偉人達は、実際にもこんな感じだったのかも、と思わせる。ただなにしろ歴史上の偉人であるだけに現代の政治家とはけた違いのカリスマ性がある。そして国民というものはそんなカリスマに熱狂しやすい。国の進路を誤るのは、国民がそんなカリスマにまかせて思考停止をしてしまう場合なのだろう。一人一人が自分を信じて自分で考えろということなのだろう。そう考えていくと、歴史上の偉人に任せるというのも、一種の白紙委任ではないか。歴史的偉人じゃなくとも、選挙民はとかく「何かやってくれそうだから」と言って票を投じることをやってしまいがちである。まあ、この映画の最後は人々が選挙に行く場面で終わるのだが、いくら選挙に行っても、この前の都知事選のように投票したい人がいないのも困ったものだ。それこそAIジョーもいたし、大石蔵之助もいたし、織田信長??もいて、ここだけは偉人ジャーズを髣髴とさせたのだが。
2024年08月14日
コメント(34)
「九十歳。なにがめでたい」を観た。佐藤愛子かあ…この作者の「血脈」を面白く読んだのだが、登場人物はほぼ実名の家族史であり、ここまで書いてよいのだろうか。そういえば、あのサトーハチロー記念館もネットで見たら休館になっていた。これも「血脈」で、サトーハチローの私生活を書いたために、心温まる童謡を書いた詩人というイメージが崩れたせいなのではないか。…違うかもしれないが。要は「血脈」では一世を風靡した小説家の佐藤紅緑の先妻の子、新橋の芸者との間の子、後妻の子そしてその孫達が描かれているが、ともかく佐藤紅緑の才能をうけついだらしい三人を除くと、多くは放蕩や乱脈などの社会不適合者としての人生を送り、早世する。才能をうけついだサトーハチローにしても私生活は相当なものだ。この小説では遺産争いも赤裸々に描かれるが、親からもらう一番の宝は遺産ではなく、才能だろう。というわけで、佐藤愛子先生には才能がある。断筆宣言をした後で、某雑誌の編集者にくどかれてエッセイを書き、本にすると評判になる。「九十歳。なにがめでたい」である。エッセイは簡単なようでいて、人に読ませるものを書くのは難しい。ましてやそれを金を出して買ってもらうようなものとなると、なおさらである。映画の中で愛子先生は、子供の騒音、スマホなど身近な題材で。すらすらと書いているが、なかなか凡人にはできることではない。しかし、書くというのは手段であり、書くためには書く内容がなければならない。子供の騒音にしてもスマホにしても、通常なら見過ごしてしまうような点に気がつき、それを文章にして伝える。その意味でエッセイの名手と言うのは文章にまとめる力だけではなく、ものを見て考える感性にも鋭いものがあるのだろう。実年齢90歳の草笛光子演じる佐藤愛子が本物そっくりなのも面白く、他はの登場人物もやや類型的ながら、よくできている。まずますの佳作映画ではないか。ただ映画の入りはさほどよくなかったので、観るなら早い方がよいのかもしれない。
2024年06月23日
コメント(2)
映画「碁盤斬り」を観た。最初は藤沢周平の原作かと思ったが違った。しかし、凛とした武士、人情あふれる町人など、かなり藤沢作品の雰囲気に似ている。江戸時代に賭け碁がそんなにさかんに行われていたのだろうかとか、浪人が篆刻などでそう簡単に暮らせたのだろうかとか、いろいろと疑問はあるのだが、時代劇としてはなかなかの佳作だと思う。日本映画が外国で賞をとったというニュースも聞くが、こうした作品こそ外国に知られれば日本文化の理解の助けになるのではないか。ただ、難をいえば主人公は格好いいといえば恰好いいのだが、偏屈にしかみえず、いまいち心理がわかりにくい。碁盤を斬ったのは二度と碁を打たないという表現なのだが、なぜそうした決心をしたのかは様々に解釈できる。かっての仕官時代の行状についての迷いや旦那とのわだかまりなど、いろいろと考えられる。碁について全く知らなくても、映画を楽しむのには支障はない。また、映画の中にでてきた祭りの舞や吉原の狐舞などもなかなかの見もので、保存会があるのかと思い、エンドロールをみていたがそれらしいものはでてこなかった。過疎化がすすむとともに、全国のあちこちで祭りが消えているという。祭りが消えていくということは、その祭りにつきものの芸能もある。こうしたものについて、映像等で保存するという試みは必要なのかもしれない。もうすでに行われているのかもしれないけれども。
2024年05月31日
コメント(0)
昔、鬼太郎の漫画の中で鬼太郎誕生のくだりを見たことがある。鬼太郎というのは、幽霊族最後の生き残りで、墓場で生まれたところを、会社員の水木という男に発見され、その時、父親の死体から目玉だけが飛び出したという。週刊誌による漫画が全盛となる以前は貸本漫画というのが流行っていて鬼太郎は最初は貸本漫画に登場したという。貸本漫画はあまり記憶にないが、床屋などに置いてあることもあり、週刊誌漫画に比べると、おどろおどろしいタッチのものが多かったように思う。鬼太郎誕生のエピソードも絵柄が不気味で赤ん坊の鬼太郎もあまり可愛くなく、貸本屋時代の面影を残したものだったのかもしれない。貸本版はわからないが、週刊誌漫画では、鬼太郎誕生についてこれ以上詳しくは書いていない。そもそも幽霊族はどういうもので、死体になる前の鬼太郎の父はどういう姿で、そもそも会社員の水木と鬼太郎の親はどんな関係にあったかなど、不明である。この映画では、そのあたりを描いたもので、会社員水木が犬神家の一族を思わせる田舎の旧家に行き、鬼太郎の父に出あうという物語になっている。設定は昭和30年で水木には戦争体験がある。この時代の大人は普通に戦争体験があったのだが、多くは体験を語りたがらず、だから子供達は戦争というのははるか昔のことのように思っていた。当時は路といえば土道が普通で、田舎から東京ははるかに遠く、東京と聞くと、男の子は川上の試合を見たかと聞き、女の子は銀座のフルーツパーラーに行って見たいという。そんな時代の風景がアニメならではの技術で描かれ、鬼太郎父も、風呂好きであるところや後の時代を目でみてみたいというあたり、後の目玉だけで茶碗風呂に入っているのを彷彿とさせて面白い。まあ、後半は子供向けのアニメになっているのだが、結局のところ怖いのは妖怪よりも人間なんだなあ…と思う。部下に死を命じながら自分は生き延びようとする上官や、薬品を使って社員を猛烈に働かせようとする会社幹部の姿に、戦前の軍国主義や強欲資本主義批判をみるのは深読みなのかもしれないけど。
2024年05月01日
コメント(5)
父と娘、そして父の後妻との家族の物語である。娘といっても30歳をとうに過ぎ、後妻といっても20歳そこそこ。娘の方はリストラされて実家に戻って、なにもかも無気力で、後妻の方は家族の団らんに憧れている。そして父は「どうせなら楽しまなければ」という達観した人生哲学の持ち主である。物語がすすむにつれ、その人生哲学の背景が明らかになり、たしかにこうした生き方もあるのかな…という気になる。人生の不幸には絶対的不幸と思い込み不幸とがある。これは二分されるものと言うよりは割合の問題であろう。どうせなら人生楽しまな…という父親は娘を「祝リストラ」という垂れ幕で迎える。娘はたしかに受験戦争を勝ち抜いてきた秀才で、優れた企画書で社内の賞をとったりもするのだが、優秀を自負するだけに周囲に厳しく、周りにとけこめないところがある。こういうのは、職場にいれば願い下げにしたいタイプで、嫌われるのは当然だろう。当然、娘は自分よりもはるかに年下の父の後妻にも拒否感を持つのだが、その娘と後妻が次第に家族になっていくところがみどころだろう。尼崎市もあまろっくも行ったことも見たこともないのだが、それぞれの場所にそれぞれの歴史があり、そして必死に生きている人々がいる。そんなことも考えさせられる。よい映画だと思うのだが、客の入りが非常に悪いのが残念である。
2024年04月26日
コメント(0)
終戦直後の日本をゴジラが襲う。実際にはそんな事実はなかったわけなので、一種の架空世界の物語である。ゴジラにより空襲による破壊を免れた銀座の街は壊滅し、海軍の生き残り達がそれに立ち向かっていく。ゴジラは一種の破壊神で、災害の暗喩という見方もできる。それは、原爆のようでもあり、震災のようでもあり、いつかやってくるであろう首都直下地震のようでもある。なお、日本では人災である空襲も災害のようにとらえられている。それに対する元海軍軍人の中心は技術士官であり、ゴジラ撃退のために作戦を練っていく様子は、プロジェクトXを連想させる。戦争はまず高等教育を受けていない若者から動員され、そして学徒出陣も法文系の学生から行われた。軍隊でも技術系の人間は比較的安全なところにいた。そうして生き残った技術系の人材はどっかで戦場で死んだ同世代の者に対する負い目のようなものがあったかもしれないし、無謀な戦争を行った国家というものに対する不信感もあったであろう。戦後の復興はこうした技術系の人材なしではありえなかった。航空機や武器を作る技術は自動車や他の製品開発にも生かすことができたし、そうした優れた製品が日本に繁栄をもたらした。ゴジラが海に沈んでいく最後の場面は、終戦直後の荒廃や飢餓を克服していったことに重なる…こんな見方は考え過ぎだろうか。なお、俳優の吉岡秀隆氏は昔「半落ち」という映画をみたときには下手な俳優(もちろん主観)という印象をもっていたのだが、この映画では非常に上手いという印象しかない。そういえば映画「Winny」でも脇役ながらよい演技をしていたのを思い出した。
2024年03月22日
コメント(2)
前作の続編ということで、最初から前作の世界観を前提としている。そのせいで、前作の時は現実と映画の世界との二重写しに笑えたが、今回は初めから映画世界ができていたので、異世界もののSFを見ているような感じであった。前作が関東の小ネタであったが、今回は関西ということもあったのかもしれない。異世界もののSFという眼でみれば、それはそれで面白いのだが、やはり前作の現実世界と地続きになっている「そんなバカな」的な面白さの方に軍配をあげる。関西になじみがないせいか、小ネタもそういえばそうだねと思い当れば面白いのだが、全くの初見ではそういうこともない。「飛び太くん」も「うみの子」もみたことがあるのとないのとでは全く違う。それにしても、滋賀はそんなに特徴のない県なのだろうか。なにしろ昔は都があったところで、かって都であったという歴史はむしろ京都よりも長い。まあ、京都の方はいまでもまだ都だと思っているという説もあるのだが。そして日本史で都のあったところは、奈良、滋賀、大阪、京都、兵庫、東京しかない。東京については、正式に都と決めた法令等は存在しない。となると続編ででてきた府県は和歌山を除けば皆かつての都である。そんなわけで、元都同士がディスったところでしょうがないとしかいいようがない。そんなことよりも、今回の映画で悪役を引き受けた某自治体が某政党に重なって見えるのは自分だけ?やはり、関西ワールドの壮大なSFよりも、埼玉付近の小ネタが面白かった。行田の田圃アートのタワーとかも、この映画がきっかけで人気が出るのではないか。
2023年12月12日
コメント(0)
映画「生きる」の英国リメイク版を見た。こうしたリメイク版というものは原作から大きな改変が加えられているのが普通であるが、驚くほど原作通りであった。妻の葬儀や息子の子供時代の回想場面、小説家との出会いや生命力にあふれた若い女子職員との交流、そして最後のブランコの場面まで。たしかに、舞台を日本から、ほぼ同時代の英国に移したというだけで大きな変化なのだから、これ以上変える必要はないのかもしれない。ただ、オリジナル版では医師は明確な宣告をせず、主人公が察するという形になっているが、こちらでは医師ははっきりと余命宣告を行う。これは当時の国情の違いなのだが、いつのまにか、日本でもこういう方式が普通になっている。脚本はカズオイシグロだが、彼の小説同様に、映画でも古き良き時代の英国が描かれ、場面や音楽の一つ一つが美しく郷愁をさそう。そしてブランコに乗って主人公が歌う「ナナカマドの歌」(Rowan tree)であるが、子供時代の想い出を詠う歌詞がそのまま多くの人々の想い出となっていく児童公園のイメージにも重なる。人生は有限だから「生きる」ことができる。たとえ余命宣告がなかったとしても、有限であることには変わりない。THE BOOMの「いつもと違う場所に」(宮沢和史作詞)にこんな一節があり、これは「生きる」にも通じるように思う。もしあと1年の命だと言われたら がむしゃらに生きるだろう?そんな気持ちで生きてみるべきだと手塚は言う無駄な日なんて1日も無い よぉ ボウズ!
2023年04月26日
コメント(4)
映画「妖怪の孫」をみた。妖怪と言われた岸信介の孫の安倍晋三を扱ったドキュメンタリーで安倍政権とは何だったのかを改めて問いかける映画である。最初に出てくるのは元総理の国葬の日の場面である。献花をする大勢の人々と列と国葬反対のデモとが描かれる。両方ともニュースではそれほど扱われていなかったと思うが、一人の政治家の評価をめぐってこれほど国民が分断されていることに驚く。それはちょうど海の向こうでも元大統領のトランプが起訴されたが、トランプ支持者はますます支持を強固にしているという状況と似ている。トランプほどマスコミが総批判している元大統領は珍しいのだが、少なくないトランプ支持者にとっては、マスコミもしょせんは「あっち側」なのだろう。この映画では、安倍政権も日本における分断を強めたという見立てだ。炊き出しに並ぶ困窮者の映像の後、生活保護受給者を「恥」だの「なまぽ」だのと嘲笑する自民党政治家の画像が入り、また、別のアニメ風の場面ではとぼとぼと歩く男を罵倒する裕福な人々の様子が描かれる。能力主義、実力主義の新自由主義の下では敗者の無能や自己責任が強調され、とことん救いようもないところに追い詰められていく。男は実はロスジェネ負け組というわけで、そういえば、元総理を暗殺した男もそうした中の一人であった。また、映画の中では、もともと偉大な祖父に劣等感をもっていた安倍晋三は祖父を超えるために憲法改正に固執したという、よくある見立てが語られている。本当のところはわからない。また、戦前の政治下の孫、曾孫である現代の政治家が戦前の大日本帝国憲法下の体制に郷愁をもっているという指摘もあるがこれもどうなのだろうか。それよりも、二世、三世となると、それほどの資質のない人が国のかじ取りをするようになることの方が問題なのではないか。妖怪岸信介は単に元戦犯容疑者で稀代の秀才、改憲論者というだけではなかった。「貧困追放」を政治のテーマに掲げ、その在任中に社会福祉や労働者保護のための政策も緒についた。もう一人の祖父安倍寛は今松陰ともいわれた政治家で太平洋戦争に最後まで反対し、貧富の格差についても社会を不安定にするものとして警鐘をならしていた。妖怪の孫はもちろん妖怪ではない。じゃあ、いったい何だったのだろうか。上映回数が少ないせいか客席はほぼ満員であった。
2023年04月05日
コメント(4)
友人に誘われて一緒に見たのだが、見るまでは正直見たい映画だとは思わなかった。ファイル共有ソフトウィニーを開発した技術者が罪に問われた事件を扱った社会派映画だ。社会派というと暗い印象もあるし、あまりそうした映画を見る心境ではなかったということと、そしてソフトウィニーと言えばすぐに警察の捜査情報漏洩事件を思い出して嫌な気分になるからだ。この捜査情報漏洩…記憶している人がどれほどいるだろうか。某警察の捜査情報がネット上に流れたもので、中には性犯罪被害者の個人情報まであった。私物パソコンで業務をさせている警察のずさんさもさることながら、こんな事件が起きたら警察に犯罪の申告などをする人がいなくなるし、警察に対する信頼も地に落ちる。嫌な事件であり、元凶がいるのなら逮捕も当然だろう…と当時は思ったものである。しかし、映画を見てみると印象が変わる。俳優が非常に巧く、映画としての出来がよいこともさることながら、メッセージも強烈で、こうしたものは多くの人が見るべき映画なのではないかと思う。映画ではソフト開発者の逮捕は警察の裏金作りと関連づけられていたが、真偽のほどはわからない。しかし、警察の捜査情報流出も大問題であり、あのままいけば警察は猛烈な非難にさらされたに違いないが、ソフト開発者の逮捕で風向きが変わったように思う。警察の都合によるソフト開発者の逮捕というのは十分にありうることなのかもしれない。思うに冤罪には二種類ある。ある犯罪に対して犯人ではない人間を逮捕する冤罪と、そもそも犯罪とはいえない行為について逮捕する冤罪とである。この映画の冤罪は後者である。罪名の著作権法違反のほう助。こうしたものがたとえ犯罪としてなりたつとしても、この罪名で、過去に逮捕され身柄を拘束された例というのはあるのだろうか。警察権は国家が個人に対して持つ最も強い権力である。だからこそ、警察に対する信頼は国家に対する信頼の根幹をなす。そしてその信頼というものは、悪いことをした人間は逮捕され処罰される、それ相応の悪いことをしない限り逮捕され処罰されることはないというものでなりたつ。ソフト開発者の逮捕起訴は後者の信頼を著しく毀損し、国の宝ともいうべき技術者を委縮させたという点で罪が重い。このウィニーというソフトの開発者の逮捕に限らず、刑事事件の中には警察に対する信頼、国家に対する信頼を毀損するようなものがある。いわゆる国策捜査といわれるものである。マスコミも、こうしたものに対しても監視の目をむけるべきではないか。映画では、おそらくこれも実話なのだろうけど、起訴されたソフト開発者に対して支援のカンパを行ったのはネット民であった。マスコミよりもむしろネット民の方が国策捜査に厳しい目を向けていたわけである。
2023年03月18日
コメント(6)
映画「シャイロックの子供たち」を見た。一昔前だと思うのだが、開店前の銀行の様子など面白く、パワハラ上司や支店同士行員同士の競争、女子行員内の反目など、けっこうどこの職場でもありそうな人間関係が描かれるが、そんな中で現金紛失事件が起きる。その背景にはさらに別の事件があり、さらにその事件の真相は…というように入れ子のように物語が展開して最後まであきさせない。おすすめの映画である。まあ、つっこみどころとしては、競馬の当たりをこういうふうに物語で使うのはご都合主義ではないかとか、あることはあるのだけれど、登場する俳優が皆巧く、多少無理臭い展開でも説得力がある。ついついの出来心が弱みになり、弱みが転落の一穴になっていく。堅実な人生の代表のような銀行員でも、こんな落とし穴があるなんて人生は恐ろしい。題名にも使われているヴェニスの商人はこの物語のテーマとどう関係するのか不明なのだが、冒頭の劇中劇は物語の雰囲気づくりには効果的だ。ヴェニスの商人のテーマは別に金か魂か…ということではなく、「理屈と鳥餅はなんにでもつく」ということ、そして「長いものには巻かれろ」ということで、いつの世も変わらない人間の悲喜劇を描いたものだろう。
2023年02月23日
コメント(0)
織田信長を主人公にしているが史実に忠実なドラマを期待すると失望するかもしれない。信長と正室濃姫のラブストーリーであり、ファンタジーとみた方がよいだろう。それでも、本格的な歴史ものの枠をはみだしていないのは、主演二人の演技力による。キムタクはキムタクにしか見えないという言葉があるらしいが、この映画ではちゃんと織田信長にみえた。そしてまた、濃姫もこういう女性だったかもしれないと思わせる。山岡荘八の「徳川家康」にも家康の側室の中には武芸のできる人がいたというし、前田利家の正室松も才女であるだけでなく武芸もできたという話がある。こうしたものの真偽は不明だが、当時の武家女性の心得として多少の武芸は修めていたとしても不思議はない。それにしても映画の濃姫は強すぎる。しかしその濃姫の女傑ぶりがこの映画のなんといっても見どころである。日本史上の最大の謎の一つ本能寺の変についても、これも一つの解釈なのかもしれないけど、どうなのだろうか。まあ、主軸はラブストーリーだからどうでもよいといえばどうでもよいのだが。戦国時代は何度もドラマや映画になっているが、この時代はどう扱ってもおもしろい。そういえば、米国では信長に仕えた黒人を主人公にした映画が企画されていたというが、主演を予定していた俳優の急死で中止になったという。こっちの映画も見てみたかった。
2023年02月06日
コメント(2)
とりだめをしておいた映画の中で「容疑者Xの献身」を見た。原作小説は読んだことがあるのだが、映画は初見である。こうした推理小説は筋書きを知ると興味が半減するのと、映画が原作を超えることはあまりないという思い込みのせいである。ところが、この映画については、原作以上といってもよいのではないか。原作では暗い印象しかなかった数学者石神が怪演ともいってよい俳優によって完璧な真理を求めるように完璧な献身をする人物として強い印象を与える。もちろんガリレオ役の福山のカッコよさもあり、それも客をよぶ大きな要素になっているのだろう。この映画「容疑者Xの献身」についてネットで検索していたら日本版とあるので、外国版があるのかとさらに検索してみると、韓国でもリメイクされているということであった。その韓国版はアマプラでも配信されているので、さっそくこちらも見てみた。ヒーローのガリレオは出てこず、容疑者の数学教師に対峙するのは、カンと足でかせぐ刑事なので、原作とはだいぶ趣が違う。しかし、それだけに、究極の愛の献身というテーマが際立ち、これはこれでよいのではないかと思う。そしてまた、原作や日本版では、数学者のこだわるテーマが四色問題であるのに対し、韓国版ではゴールドバッハの予想というのも面白い。数学のテーマの中には問題自体では素人でも理解できるものがあり、ゴールドバッハの予想というのも、2以外の偶数は二つの素数の和で表されるという単純なものだ。「おまえはそれが真であると思うか」「思うよ」「じゃあ、それでよいじゃないか。」「いや、証明しないと本当に真なのかどうかわからない」論理的で完璧な数学の世界と愛という非論理的な世界との対比。そしてその愛にも数学と同様の完璧な美を見出したので、完璧な献身を行ったのではないか。
2022年11月27日
コメント(0)
人気映画「天気の子」を見た。アニメと言えば実写ではとてもできない映像というイメージだったのだが、「耳をすませば」あたりから実写でもできる映像をアニメならではの美しい映像にしたてるという流れができたように思う。これが聖地の特定や聖地巡りという付随文化を生んでいるのだから、あなどれない。「天気の子」もこうしたタイプのアニメで雨の東京の街並みの光景も美しく、こうした場面の一つ一つが絵葉書になりそうだ。物語中ではいやなものとされる雨天だが、むしろ、このアニメでは雨の場面にその魅力があるように思う。そしてアニメにはもう一つ効用がある。実写と違いアニメは現実から離れたところに物語世界を作る。「天気の子」は実写にすれば、万引き家族のような貧しく悲惨な話になるのだが、それを救っているのはアニメという表現手段だろう。物語については、想像なのだが、作者は何とおりもの結末を考えただろう。(以下ネタバレ)もし、これが神によって特殊能力を得た主人公、その主人公が最後は自分を犠牲にして世界を救う…こうした結末だったら、それは多くの人にとって予想どおりのものだろう。そうした物語は世界中に掃いて捨てるほどあるし、予想通りだったとしても、民話仕立ての物語のようで後味は決して悪くない。ところが、映画では主人公は世界を犠牲にしても、恋人の少女とともに生きることを選択する。そこになんともいえない皮肉な目を感じる。多くの道徳では、集団のために自分を犠牲にすることは美徳とされ、しばしばそれが強要されたりもする。しかし、現実には、多くの場合、犠牲を強いられるのは弱者であり、その犠牲はあっという間に忘れ去られていく。犠牲になるはずの少女は、シングルマザーの母親が病死し、弟と一緒に暮らしたいために、中学にも行かずに年齢を偽ってバイト生活をしている。たとえ犠牲になって世界を救ったとしても誰も感謝しないことも暗示されている。かくて主人公二人は生きて再会するのだが、東京の天気は狂ったままで、下町は次第に水没していくというエンディング…。「狂っている?どうせ最初から世の中は狂っているんだ」という兄貴役の台詞が説得力を持つ。好き嫌いはあるだろうけど、自分としてはこのエンディングは好きだなあ。
2022年11月08日
コメント(10)
映画「アプローズ、アプローズ、囚人たちの大舞台」を見た。刑務所の囚人たちに演技を教えることとなった俳優が奮闘の末、囚人たちの舞台を成功させるという話であり、最後の場面にはたしかに感動がある。その一方でなにかもやもやがあり、素直に感動できない自分もいる。なんだろうと考えてみると、映画の中の世界には大変な階級の分断があるということに気づく。あらかじめいっておくのだが、これは自分の主観であり、もしかしたら違っているのかもしれないが。そもそも矯正プログラムにしても囚人を舞台に立たせるという発想は、日本では考えられない。元受刑者であるということは最高度のプライバシーで他人には知られたくないものなのだが、映画では囚人の一人は自分の子供を皆に紹介までしている。そしてそれはよいとしても、囚人たちの世界と主人公である俳優、刑務所長、判事といった人々、そして観劇に来ている人々との間には越えがたい階級差があり、物語は階級のこちら側だけで完結しているようにみえる。ラストの感動も、もしこれが囚人たちでなければ、全く別のものになっていたのではないか。ここでの囚人たち(えりすぐりの名優による名演だとしても)は、英国の文豪モームが描くところの植民地の原住民のように主人公達とは別の階級の壁の向こうの人間として描かれている。映画が社会を写す鏡だとすれば、現実の階級分断はそこまですすんでいるのだろうか。要するに一定以上の知的レベルのある人々が同レベル同士で結婚をし、同じような子供を授かり、一方で、一定以下の層はまた同レベル同士で結び付いてやはり同じようなレベルの子供を授かり、それが生まれながらの階級として固定していく。そんな社会が形成されつつあるのかもしれず、高度の能力主義社会はそんな新たな階級分断を生んでいるのかもしれない。そういえば、フランス全土を席巻していたジレジョーヌの運動は、いまはどうなっているのだろうか。
2022年08月11日
コメント(5)
朝鮮王朝時代に朝鮮全土の精巧な地図「大東輿地図」を作成した実在の地理学者金正浩を扱った映画であり、古山子とは正浩の号である。地図を作製するくらいなので文字を読み学問もできる階層の出身ではあったのだろうが、それでも官吏などに比べると身分は微賤であり、生涯はほとんど知られていない。映画の内容で地図作成以外のところは、ほぼ想像といってもよいだろう。そもそも、副題にあるように古山子の地図作成が王朝に背いたというのは本当なのだろうか。地図作成のために全国を踏破するには金がかかるし、各所に関所のようなものもあっただろう。自身の路銀のみならず、残る家族の生活もある。やはり実際には国家の要請があったのだが、その後、地図は民衆の手に渡らず国家によって保管されたというのが実際ではないのだろうか。もちろん古山子は民衆のための地図作りを国家に背いて行った…というのは映画的には面白いのだが。山を越えたと思うとさらに大きな山があり、河の源流に行くとさらに大きな河がある。古山子は全国を回り、ゆく先々で見たものを書き留める。これが映画の中で一番美しい場面で、こうした場面がもっと多くあってもよかったように思う。四季折々の風景と一人黙々と歩く古山子の姿は東洋画の世界のようである。ただこれも意地悪く見れば、実際の地図作りとは違うだろう。小説「天地明察」では歩数を三人で数えて数を照合しながら距離を測ったし、緯度を知り傾斜を測るためなら磁石の他に、角度を測る道具も必要だろう。普通に歩いて絵を描くだけで正確な地図ができたとは思わないし、やはりそれなりの器具、それなりのチームが必要だったのではないか。さらに、映画にあるように、古山子が竹島に行き、日本の海賊に襲われたとか、その奪われた地図が日本の役人に渡り、地図作製技術の教示を乞うというと、いくらなんでもそれはないだろう。伊能忠敬の日本全図はその頃には完成していたのだから。
2022年07月13日
コメント(2)
映画「峠」を見た。司馬遼太郎の原作の方も読んだのだが、この時代の物語としては地味で正直あまり印象に残っていない。河合継之助という開明的な長岡藩の家老が戦を望まないにもかかわらず、政府軍の岩村高俊の硬直的な対応もあって戦を余儀なくされるのだが、最後の自分の死に向き合う継之助の鬼気迫る描写しか、というよりもそこの描写だけが記憶に残っている。そうした物語なので、映画も丁寧にその時代を描いているが、時代の雰囲気やその時代を生きた人々の思いが画面から伝わってくる感じではあったが、派手なアクションやドラマがあるわけではない。思えば主人公の河合継之助はダイナミックな活躍をした英雄というよりも、生きていれば新政府にも貢献できたはずの人材という人物である。長岡藩では佐幕と勤王で藩論が分かれ、最後までまとまらず、佐幕の立場をとる殿は会津に避難していく。しかし、あの時代、はたして勤王か佐幕かというのはそれほど思想的な対立があったのだろうか。そもそも徳川慶喜がすでに恭順の意を表して謹慎を決めている。単に、どちらにつくのが有利か、時流の風はどちらに吹いているかという事実認識の問題だけではなかったのだろうか。親藩最大の尾張藩や譜代藩筆頭の彦根藩はさっさと新政府側についている。東北の佐幕藩は時流を読むのが遅かったのではないか。そういえば、東北の小藩の三春藩は新政府軍についたが、後に政治家となった河野広中の回想によれば、新政府側につくことを自身が藩主に説得したという。戊辰戦争は体制を一新させた戦争にしては期間も短く損害も少なかった。思想や宗教、民族の対立があったわけではないので、時流が動けば皆そちらに靡き、決着は早い。そして多くの人材が残り、旧朝敵藩の出身者でも新政府に入って活躍した人もいた。人材消耗と言えばむしろ気の毒なのは水戸藩で、大藩であったにもかっかわらず、天狗党の乱とその後の粛清、桜田門外の変などでめぼしい人材は維新前に消えてしまい、新政府下で官僚や軍人として活躍できた人はほとんどといっていいくらいいなかったという。
2022年07月10日
コメント(8)
コロナが猛威を振るうようになってから、気のせいか、大規模な戦闘場面などを売りにする大作がすたれ、低予算で作れそうな映画が増えたように思う。「はい、泳げません」もそうした映画なのだが、別にそれでつまらないというわけではない。主人公が泳げるようになるというプロセスを描いただけで、特にすごいドラマがあるわけではない(…ネタばれをいったとしたら申し訳ない)のだが、こうして今までできなかったことができるようになること、それが人生の喜びではないのだろうか…と思わせるところが良い。今までできなかったことができるようになる。昨日知らなかったことを今日知るようになる。そうしたところに生きる意味もあるのかもしれない。すごくお薦めというほどでもないし、こういうのはDVDやネットで自宅でみてもよいのかもしれないけど、出演者のファンにはおすすめである。個人的には、主人公と一緒に水泳を習っているおばさん達がすごく面白くて笑えたのだが。そして映画を見た後、またプールに行きたくなった。
2022年06月16日
コメント(0)
観光地にはよく「〇〇を大河ドラマ」にというのぼりがたっているのをみかける。千葉県だけでも本多正勝(大多喜町)、里見義実(館山市)、伊能忠敬(香取市)があるし、神奈川の小田原市でも北条四代の大河ドラマ化を誘致しているようだ。それほどに大河ドラマの地元への経済効果は大きく、誘致合戦も相当にあるのだろう。映画「大河への道」は伊能忠敬の大河ドラマ化をめざす香取市職員の奮闘を、江戸時代における忠敬の日本地図作成の苦労とともに描いたものである。そしてもちろん主要な配役は同じ俳優が現代と文政時代をともに演じている。現代の誘致合戦は新作落語が原作らしくコミカルだし、文政時代の日本地図作りの苦労は江戸時代版プロジェクトXの趣がある。ただ…ネタバレにならない程度に書くのだが、見終わってみるとやはり伊能忠敬の大河は無理かもしれないと思うし、こうした映画に協力した香取市も誘致をあきらめたのかなと思うほどだ。そして今までの大河ドラマの多くが人名をタイトルにしているように、特定の人物に脚光を当て、その人物を英雄として描くのは曲がり角にきているのかもしれない。むしろ群像劇として時代を描いた方が面白いのかもしれない。また、いつも思うのだが、大河ドラマの主役は政治家や戦国武将ばかりなのだが、もっと文化英雄のような人物が描かれても良いのではないか。韓流ドラマでは王朝時代の医学者の許浚が二度もドラマ化されているし、世宗時代の科学者蒋英実のドラマもよかった。その意味では伊能忠敬や関孝和、花岡青洲のような人物も江戸時代の文化の担い手として大河ドラマで扱っても良い。次の次くらいの大河ドラマでは紫式部を扱うそうだが、これなんか文化に貢献した人物としては初めてではないのだろうか。才女絵巻だけでなく、大鏡、栄花物語などに描かれている王朝を舞台にした政争を描くと面白くなるのかもしれない。※あの緑のシャツを着て「ゼレンスキーです」というギャグは絶対どっかの政治家がやると思っていた。山本太郎あたり(失礼?)と思っていたのに、沖縄県知事とは意外も意外。冷戦終結後ポーランドに米軍基地がおかれた時住民は大歓迎したというし、ウクライナの事態を受けバルト三国でも基地誘致の動きがあるという。沖縄とは真逆なのに…。
2022年05月26日
コメント(11)
金の問題であくせくする主婦を主人公にした映画である。義父の葬儀、義母との同居、娘の結婚式と金の題が次から次へと襲い掛かる。その都度、主人公は頭の中で金額を計算して、悩んだりするのだが…そこに追い打ちをかけるように自分の失業、そして夫の会社の倒産。こう書くと深刻な映画のようだが、喜劇仕立てで随所に笑いどころがある。まあ、これは書くとネタバレになるので、見てのお楽しみなのだが。そして今の時代からみると、こんなのは過去のことではないかという描写も随所にある。盛大な葬儀や結婚式といっても、いまや直葬や地味婚が普通だ。義母に9万円も送金していて、その義母はセレブ生活というのもちょっとありえない。最後の解決策には賛否両論あるだろうし、「そんなのうまくいくわけない」という見方ももちろんある。けれども老後の生き方は人それぞれだし、そもそも自分がどういう風に生きたいのかを最優先に考えた方がよい。映画の中では、家を処分してサーフィンボードの店を経営しているという主人公の父母が印象に残った。齢を取ってもサーフィンを楽しむなんていう人がいたら本当に素晴らしくうらやましい。実年齢は80歳を超えているはずなのに見事なヨガのポーズをとる草笛光子にも圧倒されたのだが。そういえば昔は老後は「子や孫に囲まれて暮らす」のが一番幸せで、老人の一人暮らしはそれだけで不幸と考えられていた。そして親を施設にやるのは親不孝のきわみだとも…。けれども今はそんな風に考える人はいないし、老人だってそもそも他人である婿や嫁と同居したいとは思わないだろう。幸福な老後の暮らし方といっても、世間の物差しはかくも移ろいやすいものである。
2021年11月13日
コメント(11)
映画「8番目の男」を見た。原題は「陪審員達」で韓国最初の陪審員裁判という設定の群像劇である。「十二人の怒れる男」も面白かったし、そのパロディ「12人の優しい日本人」はコメディタッチでさらに面白かった。そしてこの「陪審員達」も、範疇としては同じジャンルに属するのだろう。けれどもこれは、軽妙なコメディを期待するとあてがはずれるし、被告人や被害者の悲惨な境遇が暗すぎて、苦手という人もいるだろう。次第に他の陪審員の考えに影響を与えていく8番目の男も決してヒーロータイプではなく、探求心にあふれたオタク的青年で、彼の疑問がじわじわと他に影響していくというつくりとなっている。問題の事件は息子の母親殺し。息子は幼い頃、仕事に行く母親に、家に閉じ込められていたため、火事の時に逃げられず、そのため顔には火傷痕があり、片手は欠損している。仕事にも行かずに、暴力をふるい、あげくに母親を殺したとされるのだが、はたして…。素人の陪審員の評決などは単なる参考とわりきり、初の陪審員裁判を栄達の機会ととらえる裁判官。さっさと終わらせて自分の生活に戻りたい陪審員達。審理はスムースにかつおざなりに進むと見えたのだが、8番目の男が、次々と疑問を提示していく。この映画を見終わって思う。ニュースに出ては消えていく平凡な事件。こうしたものの中にも、8番目の男のような探求心をもってみれば、別の真相が見えてくるものもあるのかもしれない。いや、そんな特別な探求心などなくとも、おかしな事件だと思うものはある。最終的には冤罪となったが、甲山事件なんかはリアルタイムで報道されていたときから変だった。動機皆無の保母による児童殺人。被告人に有利な証言をしたものが次々と偽証罪で逮捕される無茶ぶり。証拠は知恵遅れの児童の証言なのだが、後にも先にもこの裁判でしか出てこない「知恵遅れの児童は作話能力がないので嘘をつけない」という専門家による珍鑑定。日本司法の恥部として永遠に記憶すべき冤罪事件だと思う。
2021年10月19日
コメント(9)
金子文子の名前は以前から知っていた。朝鮮の独立運動家朴烈と同棲し大逆罪に問われた女性だ。そして彼女の短歌も記憶している。もしかしたら違っているかもしれないけど…友と二人 職を求めてさまよいし 銀座の夏の 石畳かなだからこの映画「金子文子と朴烈」もいつか見たいと思っていた。ただ暗い映画であることは間違いない。関東大震災後の虐殺場面や獄中での拷問場面など。その重苦しい題材の映画に色彩を与えているのは、やはり金子文子だろう。映画の原題は「朴烈」なので、金子文子はあまり出てこないと思っていたが、実際には彼女が主役といってもよいかもしれない。学校にも通えない不遇な生い立ちなのだが、独学で字を学び、本を読み、目の当たりに見た三一独立運動の光景から朝鮮民衆への共感を深めていく。かといって彼女はおとなしい女性ではなく、実に闊達で機知に富む女性として描かれている。現在も残っている朴烈との怪写真といわれるものをみると、実際にもそういう女性だったのではないかと思う。本を手にして朴烈によりかかっている写真である。皇太子暗殺のために爆弾入手に腐心していた朴烈の口から語られる植民地支配批判、天皇制批判は、この映画をしておそらく「反日映画」に分類させるだろう。しかし、大震災の後に虐殺があったことも、それ以前の三一独立運動でも暴力的な弾圧があったことも事実だろう。そしてもう一つ忘れてはならないのは弾圧の対象は朝鮮人だけではなかったことだ。この当時「鮮人主義者」と言う言葉があり、社会主義もまた弾圧の対象になっていた。映画には文子の他に朝鮮独立運動に共感を寄せる日本人も出てくるし、良心的な弁護士もでてくる。その意味で、決して、単純に日本を貶めるという反日映画ではない。戦前の日本は民衆の権利が守られず、国民の生命も尊重されない体制であった。その結果が先の大戦であり、国体護持のために終戦を遅らせた政府の姿勢であった。撮影も韓国、キャストのほとんどが韓国人俳優なのだが、戦前の大日本帝国の陰鬱な雰囲気がよく出ていた。文子を演じた俳優は、子供時代に日本に住んでいたことがあり、日本語も、そして日本語なまりの韓国語も完璧なように思える。「何か私をこうさせたか」という彼女の獄中手記は、今も岩波文庫等で出版されている。読んでみたいと思う。
2021年09月26日
コメント(10)
コロナ禍ですっかり足が遠のいていたのだが、久しぶりの映画館で見た映画だ。「パンケーキを毒見」するという現総理を風刺した映画で、たぶんトランプ大統領を扱ったマイケルムーアの「華氏911」にも想を得たのかもしれない。しかし、「華氏911」に比べても低予算という感じである。雑なアニメーションとおそらくはさほど報酬を払っているとも思えないインタビュー映像。ただそれでつまらないかというとそんなことはない。できるだけ多くの人が見るべき映画のように思う。そもそも非常に重要なことなのに、こうした政治を風刺したものが映画に限らず少なすぎる。あんなに面白い政治コント「ニュースペーパー」もすっかりテレビには出なくなっているし…。いろいろなテーマがオムニバスのように扱われているので、人によって「ささる」箇所は違うのかもしれない。正直言って、学術会議の任命問題や菅総理の生い立ちはどうでもよい。審議会における学識経験者の人選で政府に批判的な人文系の学者が排除されるのは今までもあったのに、いわばGHQの置き土産のような忘れられた機関の「学術会議」の人選にかぎってあれだけ騒ぐのも変だ。菅総理の生い立ちについても、別に雪深い田舎に生まれ育ち上京して段ボール工場に一時勤めたことは嘘ではないだろう。そしてそれは政治家としての力量や識見とは別のことである。見た後で、一番印象的だった部分は小説「動物農場」をもじったようなアニメの箇所だ。牧場主やその仲間は暖かい建物の中で御馳走を食べ、外では大勢の羊たちが飢えと寒さで一頭、また一頭と倒れていく。無表情な羊の群れは、なにか飢えも寒さも「自己責任」と諦めている人々に重なる。そして、国民が羊であれば政治はオオカミとなる…という字幕。その後、何人かの評論家のインタビューがあるが政権交代がどうせないと思う緊張感のなさが政治の堕落を生むという趣旨の発言があった。どうせ政権を失うわけがないから、何をやってもよいという感覚だろう。政権を失うわけがないと安心しきった政権はオオカミになる?
2021年08月08日
コメント(12)
コロナ第三波到来のさなかだが、映画「罪の声」を見に行った。自粛疲れ、コロナ疲れのせいか街のにぎわいは以前とあまりかわりなかったが、映画はさほど混んでおらず、安心して鑑賞できた。それにしてもいい映画だった。なんで世間は鬼滅一色なんだ…と思ったほど。昭和末期の日本を騒がせた劇場型犯罪「グリコ森永事件」をテーマにしているが、脅迫テープに声を使われた子供と新聞記者の二人を主人公にして、真相を追うという話である。(以下ネタバレ)この犯罪をテーマにした別の映画「レディジョーカー」を見た時も、犯人グループの中に現職の警官がいて要人警護の警察巡回を知っていたので社長を誘拐できたという内容に非常に説得力があると思ったが、この映画のように、反権力的性向を持つ頭脳派と粗暴なヤクザとが共に犯人グループにいて、途中で仲間割れを起こしていたという話も真相はそうではないかという気がしてくる。また、「レディジョーカー」では、子供の声の謎には触れていなかったが、「罪の声」では、子供の声からたどって事件を掘り起こすという構成になっている。「罪の声」では、当時の声紋鑑定の技術だと子供の声では足がつきにくいということが子供を使った動機とされていた。しかし、その一方では子供の声を使えば子供から情報が洩れるという可能性もある。主人公には録音の記憶はなかったということになっていたが、普通、あの年齢では記憶に残ることも十分に考えられるし、それを友人なり周囲の大人に話す可能性もある。現実の事件を考えると、やはり子供の声は大きな謎だ。事件の真相云々を別にして、映画としてみた場合、非常に面白い。もちろん俳優の好演もあるのだが、物語として非常によくできており、映像もよい。昭和、平成、令和と時代は変わっても、社会や権力に怨念を抱く者は常におり、そうした怨念が爆発したようなタイプの犯罪は、これからも起こりうるだろう。実在のグリコ森永事件からも、もう36年。あの声の主だった子供たちやキツネ目の男は今どこでどうしているのだろうか。
2020年11月16日
コメント(0)
ひさしぶりに映画館で映画をみた。手帳を見ると2月11日以来なので、やはりコロナの感染拡大以来自粛していたわけである。ただ、映画館は時間が限られているうえに、対面して声を出すわけでもなく、感染の危険はそれほど高くないように思う。実際、映画館のクラスターというのは例がないようだ。そう考える人が多いせいか、ひさしぶりの映画館はほぼ満席という状況であった。当初は席の半分しか入れないというようなことをやっていたようだが、今ではそんなこともなく、入り口にあのアルコール消毒の容器があるだけで、検温や体調チェックシートもなかった。見たのは「スパイの妻」であった。この映画は、国際的にも高く評価されているということで、神戸の貿易商が満州で日本軍の人体実験を目撃し、正義感からその蛮行を世界中に公開しようとすることが物語の骨子になっている。当初は妻にも秘密にしていたのだが、夫の計画を知った妻は夫に協力するようになる。日本軍の蛮行という、国際的にもよく知られている事実を扱った映画であることが、海外での高評価の一因なのだろうけど、蛮行の場面そのものは映画にはでてこない。夫の写したフィルムにぼんやりと白黒映像としてでてくるほかは、意図的に細菌を撒いた話が夫の口から語られるだけだ。それよりも、憲兵の拷問の場面の方が生々しい。戦前という時代は美化して語られることもあるが、日本国民に対しても拷問、虐殺があった時代だということは覚えておく必要がある。時代の雰囲気もよく出ているし、主人公の妻のひたすら夫を愛する姿がよい。夫の使命感などとは関係なく妻はただ夫の傍にいたいだけなのだ。ただ、難をいえば、最初のあたりがやや冗長なことと、貿易商として成功しているらしい夫がなぜそこまでの行動をしたのかというあたりがどうもよくわからない。そもそも夫は妻を愛していたのだろうか。妻の足をひっぱった通報者は誰だったのだろうか。夫は結局生きていたのか死んでいたのか。様々な点が観た人の想像にまかされている映画であった。実話だったら、そういうこともあったということになるのだが、フィクションであれば、読者の想像に任せる部分、いいかえれば作者は投げ出した部分が多すぎるように思う。最後にちょっとだけでてくる笹野堯の演技がいい。
2020年11月02日
コメント(2)
名前からわかるように「12人の怒れる男」のパロディである。御存じのように「12人の怒れる男」は陪審員の議論の場面だけで、最後まで見せてしまう名作であるが、「12人の優しい日本人」も本家に劣らず面白い。殺人事件があった。犯人の有罪か無罪かをめぐって12人の陪審員が議論する。本家では陪審員の一人だけが無罪を主張し、その主張が次第に他の陪審員を動かしていく様子が描かれ、いわば最初に無罪を主張した陪審員が主役となっているのだが、「12人の優しい日本人」では一人だけが有罪を主張し、他は全員無罪。本家は息子の父親殺しだが、こちらは若くて美人のシングルマザーがよりを戻そうとする元愛人を殺害したとする事件。そしてその有罪を主張する若いサラリーマンもどこにでもいそうな生真面目で不器用そうな青年で主役というイメージとはほど遠い。本家のように彼の孤軍奮闘は他の陪審員の意見を動かすか…が映画の興趣になっているのだが、さて、どうなるか。この映画の面白いところは、12人の一人一人がどこにでもいそうな市井の人々になっており、それでいてその一人一人が個性たっぷりに描かれているところだ。有罪を最初に主張する若いサラリーマンには有罪を主張したい彼なりの背景があるし、逆に30代の職人は彼なりの事情で無罪説を主張する。ネタばれを書いてしまうとサラリーマンは妻に去られているので、その恨みを被告人に投影するし、独身の職人は「女にたかってもてている」被害者に反感をもつ。インテリ気取りの自称銀行員や生真面目な中年OL、こころやさしいおばちゃんやふわふわと頼りない若い主婦。こうした人物らが「あるある感」たっぷりに描かれる。もし日本に陪審制があって、世の中の縮図のような多様な庶民が議論を始めたらこんな感じなのかなあ…と思うのだが、実際に今ある制度の裁判員というのはどうなのだろうか。これは最初から裁判官の議論に立ち会うだけで、裁判員としての意見を求められることはあるのだろうけど、映画のような議論はまず起きないだろう。陪審員制度がよい悪いは別にして、ただ議論の場に立ち会うだけという裁判員制度はますます無意味なものに思えてくる。
2020年09月14日
コメント(2)
最近は外にでないのでかつて撮りだめていたDVDを見ている。そんな中で観たのは小松左京原作の「復活の日」。最近のコロナ騒ぎでカミュの「ペスト」が売れているというが、「復活の日」ももっと話題になってもよいように思う。東西冷戦下で開発された生物兵器が事故で漏出し、それが人類滅亡を引き起こすという物語であるが、コロナもまた人工的に開発された生物兵器であるというトンデモ説をいう人もいる。そして症状がインフルエンザに酷似していること、イタリアでまず猖獗を極めたためイタリア風邪と呼ばれたことも妙に現実と符合する。小説版では、未知の感染症が社会を、国家を、そして文明を崩壊させていく様子が描かれていて、そのあたり今読むともっと怖いかもしれない。映画版はその点、怖いのは苦手な人にもおすすめだ。当時はイケメンだった人気俳優草刈正雄と有名女優オリヴィアハッセイとのロマンスもからめ、人類絶滅から生き残った南極観測隊員達の物語が主になっているからだ。それに音楽も美しく、特に最後の方の草刈が南米の遺跡や雪山の中を歩く場面は有名な「砂の器」の放浪場面を思わせる。当時は相当に話題になった映画で、カドカワも世界初公開とさかんに大作であることを宣伝していた。しかし、その後、海外で評判になったという話もきかないし、日本でも今では忘れられたようになっている。※他に撮りだめておいた映画で見たものとしては次のようなものがある。「お受験」見せたいのはマラソンなのかお受験なのか、どうもよくわからない。まだ豊かだった社会の雰囲気を感じることと、矢沢永吉が走る場面を見る以外には特になんてこともない映画。「レッドクリフ」三国志を再現した一見の価値のある映画。米中合作なのだが、三国志になじみのない米国人にはどの程度うけたのだろうか。
2020年03月14日
コメント(11)
韓国映画「パラサイト」がアカデミー賞の四冠に輝いたことが話題になっている。たしかに奇想天外で面白い映画なのだが、アカデミー賞四冠となると、他に傑作がなかったのだろうかと不思議に思う。そしてまた、「パラサイト」が韓国社会の格差を描いた映画だというように喧伝されているのだが、正直言ってそれほどそうしたものは感じなかった。身分とか生まれとかが昔のように重要でなくなっている現代では格差は「能力、努力、運」によるものだろう。貧乏な一家の方が小賢しく機転がきき、金持ちの一家の方がおまぬけに見えるのは気のせいなのだろうか。そしてまた、格差の主因が能力であり、まさにそのことが格差に苦しむ側の絶望につながってゆく。ところが映画「パラサイト」では貧乏な家の息子は金持ち娘の英語の家庭教師を行い、まったくバレる様子もない。そしてその息子は学歴詐称こそしているが、なかなか優秀で、一流大学を受験している様子である。だから最後の「金持ちになるぞ」という息子の決意は荒唐無稽でなく、十分に可能性がある。なんだ、格差はあっても、そこには希望格差はないではないか。こうした能力を主因とする格差は、この少し後に観た映画「リチャード・ジュエル」の方でより強く感じた。ちょっと知恵遅れぎみのジュエルと彼に唯一対等に接してくれた弁護士との会話の中で、「オレはあんたのようになれやしない。オレはオレだ」と叫ぶ場面があるが、それこそがまさに格差社会の下にいる者の絶望感ではないか。それでは映画「パラサイト」で生活の格差は描かれているかというと、それもそれほど強烈には描かれていない。瀟洒な豪邸と半地下の狭い家という住居の格差は象徴的なのだが、それ以外では、食べるもの、着るものの差は描かれていない。普通に街を歩いていると貧乏だか金持ちだかわからない。映画の中で貧乏人の共通の「臭い」が言及される個所があるが、逆にいえば臭いでしかわからないということではないか。半地下という住居の貧困はあっても、腹をすかして、ぼろを着て…という衣食の貧困はあまり描かれない。韓国では、韓国映画の快挙に国中がわきたっているという。けれども「パラサイト」には韓国の風景の美しさや伝統の素晴らしさが描かれているわけではない。誇るべき歴史や細やかな人情がでてくるわけでもない。そしてあの映画をみて、韓国に行ってみようと思う人もあまりいないのではないか。映画という芸術の一部門で自国の作品が認められたというのは喜ばしいことなのだろうけど、大統領をはじめ、国中であれほど大喜びするようなことなのかというと、どうもよくわからない。
2020年02月15日
コメント(8)
この映画を見ながらある有名評論家の言った言葉を考えていた。現代の格差というものは知能の格差による…と。もちろん知能だけがすべてではなく、知能以外の能力で成功している人もいるし、また、優れた知能があっても、他の要件に恵まれずにうまくいかない人もいる。ただ総じて背景にあるものは知能や能力の格差であるというのは、いいにくいのだが、事実ではないのだろうか。この映画を見て、これも格差と差別を描いた映画だと思った。主人公リチャードと母親、そしてその友人を一方の側だとしたら、もう一方には警察エリートやマスコミがいる。警察やマスコミから見たら、リチャードは「母親と暮らすデブ」であり「貧しく孤独な白人男性」で、爆破事件の犯人にぴったりということになる。そして爆発物の第一発見者であるにもかかわらず、彼は警察とマスコミから犯人扱いされて、生活を破壊されていく。その背景にあるのは、エリート達の差別と偏見なのだが、こうした差別は声にだしにくい。黒人だから疑われたとか、女性だから差別されたとかいった類の話の方がずっと感動的に作りやすいし、その主張も差別はけしからんですむのだからずっと簡単だ。リチャードが頼る弁護士が「なぜいくらでもいる弁護士の中から自分を選んだのか」と聞くと「あなただけが対等に扱ってくれた」と言うのだが、もちろん実際にはリチャードと弁護士とは対等ではない。映画の中でリチャードが爆発するように、弁護士に向かって「おれはあんたのようにはなれはしない。おれはおれだ」と叫ぶ場面があるが、個人的にはこの台詞が一番印象に残った。最終的にリチャードの疑いははれるのだが、警察やマスコミが謝罪をしたり、内部で処分が行われたりとかそうしたことは、どうもなかったようだ。そのあたりは、日本も同じようなものだろう。誤認逮捕や犯人扱いの報道など、ときどき起こるのだが、三人並んでぺこりと頭を下げてみせ、誰に謝罪しているのかさっぱりわからないパフォーマンスをやって終わり…というのがほとんどなのだから。最後にこれはアトランタ五輪中の爆破事件に関連しての実話をもとにした映画なのだというが、東京五輪を控え、テロへの警戒の高まる日本でも他人事とはいえない話ではないか。
2020年01月29日
コメント(4)
家に撮りだめておいたDVDで「鎌倉物語」を見た。昔、漫画でいくつか読んだことがあるのだが、有名な作家と若い新妻との生活を描いたもので、ギャグのようなファンタジーのような不思議な感じの物語だった。映画でもこの雰囲気はかわらず、それに映画ならではのCG特撮も見事で面白い。あの黄泉の国に向かう汽車の場面など「千と千尋の神かくし」の一場面を思わせるし、そのもっと前には銀河鉄道のイメージもある。死者は鉄道に乗ってあの世に行く…という発想はいつ頃から始まったのだろうか。そしてまた、死神が黒装束の正装というのは、韓国ドラマの「トッケビ」とよく似ていてこうした死神のイメージもいったいどこからはじまったのか興味深い。映画を見ている間ずっとこの死神はジャニーズ系のタレントがやっているとばかりおもってみていたのだが、キャストをみて「安藤さくら」とあったので、その化け方にびっくりした。いつか映画「コンスタンティン」を観たとき、ティルダスウェントンが天使の役をやっているのを見てすごく印象的だったが、名優というのは人間以外のものの役をやっても、見事にやるものらしい。まあ、全体としては、お暇ならどうぞ…という映画なのだが、この映画が公開されていた頃、総理が鑑賞したと新聞に書いてあって驚いたことがある。決してつまらない映画ではないのだが、責任のある地位についている人が人前で「観た」というような映画とはちょっと違うのではないか。子供や若者ならよいのだが、同年配で、こうした映画について熱心に感動したとかよかったとか言っているとしたら、正直ちょっとあまり知的な人ではないと思うだろう。そういう映画である。
2020年01月26日
コメント(2)
格差社会の中を生きる貧しい家族を描いた韓国映画である。とはいえ、そこで描かれる貧困は「絶対貧困」ではないので、二人の子供はそれぞれスマホを持ち、飢餓ともさしあたっては無縁のようである。そうなると自然、日本映画「万引き家族」と比べたくなるのだが、ストーリーはずっと強烈でどんでん返しも多い。どっちが好きかは好みの問題であろう。ただ興味深いのは格差社会を描きながら、この格差が必ずしも搾取によるものではないということだ。映画の原題は「寄生虫」であり、寄生しているのは無職で半地下に住んでいる一家であり、寄生されるのは、若くして企業を経営してバリバリ稼いでいそうな一家である。マルクス主義的階級史観では、寄生地主なんていう言葉で代表されるように、プロレタリア階級は必死に労働をし、生産手段を所有している地主や工場主は遊んで暮らすということになっている。格差を問題視し、平等の理想社会を語りながらも、マルクス主義が説得力を失ってきているのは、格差の性格が違ってきていることもあるのかもしれない。そしてちょっぴりネタバレになるのだが、途中の暴力場面での行動動機…あれは最近の通り魔事件と全く同じではないのだろうか。自分の境遇に対する不満ややりきれなさと幸福なものに対する嫉妬である。だから格差の拡大した社会の人間にとってはあの場面には妙な既視感がある。そしてラスト…主人公の一人は自分が金持ちになる夢に問題解決の途をたくす。彼のような若者が社会の階梯を上るということにどれほどの現実味があるのだろうか。そしてまた思う。映画では凄まじい格差は描かれていても知的格差は描かれていない。主人公たちは富豪の子供たちの家庭教師になり、子供たちの母はちょっとぬけた騙されやすい人物として描かれている。現実にはまさに知的格差、情報格差こどが格差の根底にあるのだが。
2020年01月11日
コメント(4)
原作に忠実に映画化すると冗長になりかねないが、映画はそうした部分をうまく取捨選択し、しかも音楽映画にはよくある演奏家が遅れそうになる場面も設けて、よくできている。そのため、原作とはまた別の面白さをもつものに仕上がった。人間関係は大幅に整理され、天才の若者三人と生活者代表の音楽家、そして彼を取材する女性に集約されている。若者らが海岸を散歩する場面も、その近くに音楽家と記者もいるという構図にしてまとめている。それに女性記者の配役もよい。大学時代からの友人という設定だが、記者の方は淡い恋心を抱いているようにもみえるが、音楽家の方は全く異性としては意識していない。これが美人女優だったら不倫のような関係にみえたかもしれない。それにしても音楽の世界でドラマを描くのは難しい。才能が明確に分かる世界なので、スポーツのような一発逆転のドラマは起こりにくい。そしてまた、その才能の差というのはけっこう明らかなので、嫉妬や確執もドラマにしにくい。そういえば原作でも人間同士の葛藤は、あまり描かれていなかったようだ。となると、残りは純粋な音楽の素晴らしさで、それが「世界は音楽で満ちている」という若き天才たちの持つ世界観につながっていく。そういう感覚というのは、凡俗には分かりようもないのだが。ただ、この映画を見た後、作中で使われた楽曲を聞きたくなったという人は多いのではないか。プロコフィエフのCDが急に売れ出したというのなら、間違いなくこの映画の影響だろう。
2019年10月18日
コメント(4)
総理が鑑賞した映画と言うので実はあまり期待していなかった。まあ、記憶喪失になった総理が、昔の社会科の教師から三権分立などの公民のイロハを教わる辺りは風刺がきいているといえばいえるし、全体としては総理の愛妻物語のようなつくりになっており、これで支持率が上がる云々となると、ちょっとレベル低すぎではないかとか思ってしまう。おそらくこの映画は風刺を期待するよりも、記憶喪失でも総理が務まる世界を舞台にしたギャグファンタジーとして楽しむものなのだろう。ただ、総理夫人と不倫関係になる切れ者らしい総理秘書官がよい。「最初は劣った奴らに使えるのは嫌だったが、その後はそれを利用しようと思うようになった」という趣旨の台詞があるのだが、これなんか妙にリアルだ。バカな奴を担いで真に利口な切れ者が背後で利益を得るという構造は、様々なところでみられるのかもしれない。
2019年09月15日
コメント(2)
なんとなくこのタイトルをみたとき「万引き家族」を想い出した。実際に見ても映画の雰囲気は似ている…と思う。リストラ、認知症、チャラいだめ男、ユーチューバー志望のフリーター、振り込め詐欺などの今日の世相をおりこみながら、夏の一家族の物語が展開される。親の失踪宣告を機に遺産を分けるために集まった兄妹達。それぞれが理屈を振りかざして相続争いをする場面が、「あるある感」満載で面白い。物語としてのスケールは小さくなるけど、これはいっそ相続争いの物語を台風を背景に描くだけでよかったのではないか。というのは、ちょっと物語がぶっとびすぎていて、つっこみどころが多すぎるように見えるから。以下ねたばれも含むつっこみどころ役者の夢をあきらめて裕福ではなかったはずの父親がなぜ娘にピアノを習わせていたのか。娘のウィーン留学の設定は家族の生活からするとありえない。すでに老人となった父親が振込詐欺をきっかけに銀行強盗をするのは無理がありすぎ。せいぜい勤務先の金の使いこみくらいの方が現実感がある。台風の場面を描きたかったのだろうけど、台風の中をなぜ昔の想い出のあるキャンプ場に行こうとしたのかも不明である。振り込め詐欺に関与した女性の行動が不可解である。といろいろとつっこみどころが多い映画だが、全体としては、よい映画だと思う。子供たちそれぞれに親に対しては怨みをもっていたのだが、実は親は子供のことを子供が思っている以上に思っていた。親とはそういうものなのだろう。ビデオ化したらもう一度見てみたい映画である。出演者の1人が逮捕されたということで公開があやぶまれていたが、1人の不祥事で映画全体を公開しないというのはおかしい。なぜなら、犯罪を起こした出演者は今後それなりの制裁を受けていくであろうから。逮捕されたという出演者も含め、皆、芸達者なのだが、逆にいえば「あの程度の演技」をする人はたくさんいる。そして出たい人やなりたい人は山ほどいる。そうした意味で、競争の激しい世界であり、いったんの不祥事があると再浮上は難しいように思う。
2019年09月14日
コメント(0)
歴史というのは特定の人間によってではなく無名の多くの人々によって作られていくのではないか。歴史上の人物は川に浮かぶ木の葉のようなもので、その川の流れはその時代の多くの人々の作る歴史の潮流といったものである。どんな時代にもその時代を生きた普通の人々がいて、そうした普通の人々の暮らしや想いに想像力を働かせることも歴史の見方として重要であろう。「この世界の片隅に」は戦中から戦後にかけての、ちょっとぼおっとした女性の目で歴史の流れを描いたものである。時代の雰囲気などがよく描けていて、この時代を生きた人々はこうだったのかなあ…と思わせる。実写ならこれだけの映像はCGでも難しいし、人気俳優や女優の風貌などはどうしてもこぎれいな現代風になってしまうだろう。ただ、それでも、アニメには描けないものがある。それはその時代の空気である。子供の頃にはハエや蚊がそこらを飛んでいるのは普通だったし、ごみの匂いやトイレの匂いなど様々な匂いが生活の中に普通にあった。主人公が被曝してしばらくたった広島の街を歩く場面があるが、真夏に万単位の死者がでたからには、まだまだ死者の匂いは強烈にあったのではないか。主人公もそうなのだが、周囲の人々も時代の流れとともに淡々と生きてゆく。空襲や核爆弾の惨禍の後でも、進駐軍に対する反感のようなものは一切ない。進駐軍の残飯をごちそうとしていただき、チョコレートを貰って喜んでいたくらいなのだから。大切なものは日々の暮らし。そんなものなのかもしれない。そういえば戦争中でも戦争の終結を求める民衆のデモや暴動が起きたという話はきかないし、進駐軍(占領軍)がやって来た時も、進駐軍に対する反抗行為があったという話もきかない。そして占領期に日本独立を求めるデモというのもなかったようだし、平和条約発効で主権が回復したときもそれで喜んだという話もきかない。歴史は大勢の無名の人々によってつくられるとはいっても、その人々は受け身でいることの方が多かったようである。だからだろうか。変にものがわかって戦争や軍隊に批判的な主人公をすえるよりも、ぼおっとした平凡な女性を主人公にした方がリアリティがある。
2019年08月19日
コメント(16)
先の大戦に想をえたフィクションであり、もし、数学の天才が巨大戦艦の建造を阻止できたら…という物語である。戦争はいわゆる武人タイプの軍人に脚光が当たりがちであるが、実際には近代戦になるほど、戦争をささえる技術の水準がものをいう。飛躍的に科学技術が発展するのは戦時であり、主人公のような高度な頭脳もずいぶんと戦争に投入されていたことであろう。ただ、聞くところによると、そうした人々はあまり戦場にはゆかなかったし、学徒出陣の際にも温存されていたという。日本の戦後復興が急速だったことも、そうした技術系人材が残っていたことと無関係ではないだろう。そしてまた、一定水準以上の知識をもっている人は米国との戦争で勝てるなどということは思わなかった。それなのに戦争に進んでいった背景には軍隊の予算獲得競争の中で高度な武器、映画では巨大戦艦を持つ要求が強まり、そしてそうした武器を作れば使いたくなる。国民生活は苦しいにも関わらず、高価な武器を建造する当時の政府は、高価な武器を外国から購入する今の政府と同じではないか…。(以下ネタバレ)巨大戦艦建造の案は二転三転し、最後は巨大戦艦は「日本の依り代」として作るべきだということになるのだが、その趣旨が戦争に負ける前に沈むのがこの戦艦の使命であるという解釈は、映画としては面白いがいくらなんでも後講釈にすぎるだろう。なぜ戦争に進んでいったのかという検証の答えはまだ出ていないように思う。主人公が言うように嘘をつかない数字で考えていれば、決して判断を誤ることはなかったのに。
2019年08月16日
コメント(30)
出演者は皆芸達者、映像もよい、ストーリー展開もスリリング…と映画の出来はとてもよい。主役以外はよく見る俳優というのはいないのだが、舞台等でそれなりに実績を積んでいる人々らしい。ただ見終わった後は重苦しい。官邸の意向で捜査が握りつぶされ、役人のスキャンダルがねつ造され、一般人も監視の対象になっていく。そして不確かな情報がネット世論を通じて拡散していく。手足となるのは雇われて書き込みを行うネット民だ。こうしたことがどこまで本当でどこまで嘘かはわからない。ただ映画では終始「官邸」は出てこずに、内閣情報室長の威圧的な姿が映るだけだ。そこがかえって気味が悪い。この国の民主主義は形だけでよい…という言葉が最後にでてくるが、それが為政者の本音なのだろうか。映画のタイトルは新聞記者であり、主人公もまた新聞記者なのだが、新聞記者もまた「権力と戦う英雄」というわけではない。やはり上からの指示によって記事がにぎりつぶされたり、誤報にされたりということがある。映画には、官庁の元局長と野党女性議員との犯罪でもない交友が、スキャンダルとして新聞に報道され、しかもその記事が全国のすべての版で同一の位置に掲載されているというエピソードもでてくる。新聞とて、つねに「権力と戦う」のではなく、ときには権力の手先にもなるということだ。小さな映画館での上映だったが観客は7割か8割方埋まっていた。「華氏119」に比べると政権批判はずっとひかえめなのだが、それでも主演を引き受ける俳優を探すのは難しく、大きな映画館では上映をしていないのだという。
2019年07月20日
コメント(17)
映画「ザ・ファブル」をみた。人気漫画を豪華キャストで実写化したということで、最初からある程度のヒットは約束されていたような映画だ。凄腕の殺し屋が一年間誰も殺さずに普通に生活する…そこで起きる普通とのギャップが笑いのツボになる。そして映画を見た後は、「普通に生活すること」はなんてよいのだろう…とまあ、そんな気になる。特に屋上で七輪で秋刀魚を焼いているところなどいいなあ。血が飛び散るような場面もあって、そういうのが苦手な人にはお勧めしないのだが、それが平気ならどうぞ…といったところだろうか。DVD視聴中の韓国ドラマ「モンスター」ものこすところ3話となった。こうした勧善懲悪ドラマは悪役と主人公の力量をどの程度に設定するかで印象がかわる。他の方の感想などをよむと別の感想を持つ人もいるようなのだが、主人公の無敵ぶり(米国のトップクラス大学を首席で卒業、知力体力抜群、高所恐怖症の設定も序盤以外はでてこないなど)に比べ、悪役の方が、むしろ人間的弱さを感じさせ、こちらの方に感情移入をしてしまう。こちらの感想も全話視聴後に書くことにする。
2019年06月28日
コメント(0)
映画「翔んで埼玉」は埼玉をディスっているとされているが、実は埼玉よりももっとディスっているところがある。それはへき地である「秘境グンマ―」と「納豆しかとれない茨城」である。埼玉のさらに奥にある「茨城」という話は原作の漫画にもでてくるのだが、「秘境グンマ―」って?実は2年ほど前にコミケに行ったとき、この「秘境グンマ―」の漫画が置いてあったのだが、今この秘境グンマ―で画像検索すると、なんだこりゃ…という画像が次々とでてくる。映画の中に秘境グンマ―の空にプテラノドンが飛んでいる場面があったが、元ネタはネット上にあったのかもしれない。さらに検索していくと、北関東三県については裏関東なんていう言い方もでてくる。表に対しての裏…なのだが、この響きはなにやら差別的だ。そういえば、かつて普通に言われていた裏日本と言う言葉も最近では聞かない。グンマ―の空のプテラノドンだけではない。映画「翔んで埼玉」には様々な見る人が見ればわかる小ネタがちりばめられている。東京でも住む場所で格付けをする映画の最初の場面で、警備だから狛江か町田というのも、なるほどである。小田急線は路線を宅地化しながら西方に伸びていったので、成城学園をすぎるととたんに畑が目につくようになる。すぐに玉川を渡ると、延々と神奈川県が続き、町田になるとなぜか東京。つまり狛江とか町田は言われてみると「なんちゃって東京」で、そこが面白い。浦和と大宮の喧嘩を与野が仲裁というのも三地域の位置を知っていると笑えるし、埼玉はせんべい、饅頭、ネギとでてくるのに、千葉は海とピーナツ(実際に食べるのは千葉でも中国産)、神奈川はシュウマイだけというのもなんだかなあ、でもおかしい。さすがに映画館にもう一度行く気はしないが、DVDになったら小ネタもチェックしてみたいと思う。
2019年03月27日
コメント(2)
前から見たいと思っていた映画「翔んで埼玉」をようやく見た。大ヒット中の映画で、会場にはこの手の映画には興味なさそうな高齢者も多いのだが、ヒットする映画というのは得てしてこういうもので、最初は若い層で人気になっても次第に他の年齢層にも波及していくのだろう。それとも、この原作漫画が掲載されたのは何十年も前なので、その頃のファンも足を運んでいるのかもしれない。予想どおりに面白い映画だった。原作は短期間で未完に終わった漫画なので原作にしばられないのが、かえって実写映画として成功した理由なのかもしれない。埼玉ディスリとかいうが、むしろ映画全体の流れは埼玉礼賛ではないか…。見どころがないとか、名所がないとかいうが、埼玉は観光に行くところではない。住むところだ。そして持ち家率でみると、東京45.8%に比べ、埼玉は66.1%、ライバル千葉は66.3%である。また、高齢化率でみると、東京22.7%に比べ埼玉24.82%、千葉は25.86%である。まあ、想像をたくましくすれば、差別語っぽくて嫌な言葉なのだが「パラサイトシングル」は東京や古くから宅地開発が進んだ神奈川に多く、同世代でも自立している人は埼玉に家を持つのではないか。また、一方、こんなことも思う。差別され、通行手形を要求される人々。これは日本ではギャグなのだが、中国などでは現実ではないか。農村から都市への流入は制限されているという。そうだとすると、埼玉と千葉の人々が東京都庁におしよせるクライマックスシーンは、なにやらジレジョーヌのような階級闘争にもみえてくる。東京都とそれと手をむすんだハイソな神奈川対埼玉・千葉等。でもまあ、このあたりは深く考えずにギャグとして笑っていればよいのだろう。映画の最後にでてくる埼玉の歌もよいが、劇中にでてくる「なぜか埼玉」の歌がよい。耳についてすっかり「耳が埼玉」になってはまってしまった。ひらがな四文字の件名ならどこでもよいようなのだが、やはり平野が多く、先祖代々というのではなく勤務と住宅の都合で「なぜか住んでいる」人の多い埼玉でないとこの歌は似合わない。
2019年03月22日
コメント(6)
公開しているときから気になっていた映画である。それがビデオになったと知り、さっそく見てみた。なるほど、産業革命後、19世紀のヨーロッパの雰囲気がよくでている。そこで若きマルクスは終生の友エンゲルスと出会い、共産党宣言を書き上げてゆく…というストーリー。マルクスを美化しているわけではなく、戦闘的で、偏屈で、ちょっと金に汚い学者として描き、エンゲルスは、そのマルクスの才能を誰よりも評価する友人として描かれている。そしてラストの何分かはその後の世界史の様々な映像がでてきて、二人の思想が後世にあたえた影響の大きさを実感させる。でも、結論からいえば、映画館でみるほどの映画ではなかったように思う。それほどドラマがあるわけでもないし、マルクスの思想の背景やその中身がさして描かれているというわけでもない。もちろんこの映画がマルクス主義の宣伝になっているというわけでもない。まあ、宣伝だったらさぞかしつまらない映画になったのだろうけど。感想その1偉大な思想の生まれる背景には必ず多くの競争者がいる。マルクスの同時代人で、今でも名前の残っている思想家が何人もおり、社会の転換期にはそうした多くの思想家がでるものなのだろう。感想その2マルクスもそうなのだが、そうした思想家が生活できたのが不思議である。一生貧窮に苦しんだというが、かといってマルクスは労働者というわけではない。共産党宣言にしても、資本論にしても、今もしこういう本がでたら「飯のタネ」になっただろうか。ましてや出版市場のせまかった時代である。まさか貴族の妻の実家や工場主のエンゲルスの父親の援助を受けていたとは思えないし。感想その3産業革命後の労働者の悲惨と今の貧困とどこが違うのだろうか?持たざる者の意味が親の土地や工場ではなく、本人の能力に変わっただけのようにも思う。
2019年03月15日
コメント(8)
中堅メーカーを舞台に起きたリコール隠しをテーマにした映画であるが、テンポがよく、面白い映画である。そしてなによりも俳優がうまい。ただこれは設定としていつ頃を想定しているのだろうか。まず会社の主要部分に女性が全くと言いほど見当たらない。重要な役どころの女性社員も役職はなさそうだし、名目上は「寿退社」という設定になっているが、いまどき女性の正社員で寿退社という人がどのくらいいるのだろうか。なにか会社そのものが一時代前の会社という感じがする。そして物語の終盤で監督官庁の調査が入るのだが、官庁が「正義の味方」のように描かれているのも違和感がある。今日では民間企業はともかくとして、官庁の信頼も大きく揺らいでいるように見える。ありていにいえば、組織のために不都合な情報を隠すのには民間も官庁も変わりないのではないか。企業を中心とした群像劇であるが、しいて主人公をあげれば内部告発をした社員かもしれない。映画の最後の彼の独白が聴かせどころである。組織のために不正を行うということは日本人のDNAに組み込まれていて、だから不正は絶対になくならないという。社会的動物としての人間には、多かれ少なかれそれはあるのだろうけど、稲作共同体で生きてきた日本人には特にそれが強いのかもしれない。日本では昔から、集団からの離脱は多くの場合、「死」にも等しい苦難を意味してきた。農民にとっては村八分、武士にとっては脱藩がそれである。今でも「蚊帳の外になる」、「とりのこされる」、「バスに乗り遅れる」といった善悪や利害得失の不確かな判断基準で物事を決めようとするのもその名残かもしれない。とにかく「皆と一緒なら安心」で「出る杭」にはなりたくないのだ。お暇ならどうぞ…という以上のお薦めの映画である。
2019年02月28日
コメント(2)
少年の一夏の体験と彼には想像もできない人生の難問。真夏の方程式とはなんてうまいタイトルだと思う。殺人事件が起きて探偵役が登場する。そこまでは普通の推理ドラマと同じだ。そして探偵、ご存知のガリレオであるが、彼が究明していく真実は一つだけ。ただその真実を究明してその後どうするのが正解なのか…これは人によって答えが違うだろう。そして思う。現実の世の中にも、冤罪とは別に、真実と違う形で処理されている事件というものがいくつもあるのではないかと。まあ、ネタバレにならないように、映画からは離れるとして、昔見た弁護士を主人公にした漫画をふと思い出した。父親の家庭内暴力に苦しむ母子がいた。ある日、酷い暴力に耐えかねて中学生の息子は父を窓から突き落として殺害してしまう。母は息子の罪をかぶって自首し、裁判が進んでいくのだが、家にやってきた弁護士に息子は真実を告白する。すると弁護士は言う。この畳の上であなたの裁判はすんでいる、あなたが今やるべきことは勉強をしてきちんと高校に進むことであり、それこそが母親が望んでいることだと。舞台になっているのは陽光が水晶の破片のようにきらめくので「玻璃が浦」と名付けられたという架空の海辺なのだが、撮影はほとんどが西伊豆で行われたという。海岸洞窟の向こうに海を臨む竜宮窟をはじめ、海辺の光景も印象的な映画である。
2019年02月06日
コメント(4)
我が家のテレビでとりだめていたDVDのうちから「間宮兄弟」を見た。どんな映画だったかと記憶も定かでなく、間宮兄弟…玉川兄弟なら有名だけど、もしかして間宮林蔵?とかってに想像したがさにあらず。今日の日本を生きる兄弟の日常を淡々と描いた映画であった。なぜ間宮…なのだが、これもどうやら「マニア」にかけているようだ。観た後、ふと「万引き家族」を連想した。家族の日常を淡々とえがいているということだけではない。背景の空気感が何か似ている。それは一言でいえばダウンサイジングである。間宮兄弟は万引き家族のように犯罪を生計のたしにしているわけではない。兄はビール工場に勤務し、弟は小学校の用務員をやり、なぜか書棚には本がぎっしりある高級そうなマンションに二人で仲良くテレビをみたり、ゲームをやったりして楽しそうに暮らしている。次第に二人の背景も明らかになっていくが、祖父母は裕福なお茶農家、兄弟が中学生の頃に早世した父は弁護士、母は祖父母と共に暮らしているので、兄弟のマンションは父が残したものなのであろう。農家として裕福な生活を築いた祖父母、その農家に生まれ刻苦勉励してきた父、そしてその子供である兄弟。気ままに生きているような二人もまた今日の世相を象徴しているのかもしれない。若者の車離れ、海外旅行離れ、結婚離れ、パソコン離れが言われる。間宮兄弟も車も持たず、結婚もしそうになく、将来に向けての夢とか野心とかもあるわけではないのだが、これはこれで充足した生き方なのではないか。
2019年01月15日
コメント(4)
人気女優が鉄道運転士に扮すると言うので話題になっているが、むしろ主演は国村隼のような映画である。父の死後残された小学4年生の息子と後妻が祖父を頼って九州にやってくる。その三人が「家族」になっていくということが物語の本流で、鉄道運転士という職業自体はそれほど重要な位置を占めているようにはみえず、ついでにいえばヒロインは最後まで鉄道運転士にはあまり見えなかった。それに鉄道運転士は、映画で語られるようにそんなになり手不足なのだろうか。こんな時代である。映画の最後に出てきた電鉄会社には求職の問い合わせがけっこうあったのではないか。それにしても息子は10歳、祖父は60歳くらい。若い後妻は25歳の美人で、息子からも祖父からも血縁はない。なんか家族としてはちょっと不安定のような気もするが、生き方の多様化している時代。こんな家族もあるだろう。息子は死んだ実の両親だけが家族と考えていたが、最後は死んだ両親だけではなく、後妻、祖父、みな家族だと考えるようになる。多様化といえば、あえて結婚せずにシングルマザーの人生を選ぶ小学校教師もでてくる。これも大昔であれば、大騒ぎする人もいたが、今ではそれを騒ぐ人がいれば、逆に騒ぐこと自体が非難されるのではないか。家族の形はいろいろであるし、幸せの形もいろいろである。港区青山では児童福祉施設の建設に住民が大反対しており、その主張の中に「ここは裕福な家庭で習い事をしている子供も多い。あまりにも幸せな級友をみると施設の子が不幸になるのではないか」というのがあったが、両親そろった裕福な家庭であることだけを、子供の幸福の尺度と考えるのであれば、それも偏狭というものであろう。
2018年12月19日
コメント(9)
「終わった人」が大銀行の役員寸前までいったエリートの定年後を描いたものなら、こちらはそれよりも身近なサラリーマンの定年後を描いたものである。「終わった人」の主人公が、何かやることを見つけようと、スポーツジム、大学院入試とじたばたするのに比べると、「体操しようよ」の方は何をするでもない。ただ気になる喫茶店の女主人に惹かれて体操の会に参加する…というそれだけの話である。でも、考えてみれば、多くの人の人生なんて「ただそれだけのこと」の積み重ねではないのだろうか。若くして亡くなった妻の後、家事をやってくれた娘の結婚が決まり、喫茶店の女主人の人生にもちょっぴきかかわってゆくが、彼女との仲は別にそれ以上にどうこうということもない。でも、彼は、これからも、朝の体操会を生活のアクセントにしながらもゆったりと生きていくだろう。それでよいではないか。そしてまた、ネタばれになるが、主人公が体操会の活動に熱心になるあまり、会員の不和をひきおこす場面がある。サラリーマンで管理職だった人が、趣味の集まりにまで規則や規律を持ち込んで、不興を買うという話があるが、これを戯画化しているのだろう。そして会の分裂と和解という展開は児童文学にある「喧嘩と仲直り」のパターンで、このあたりをみていると、人間と言うものは子供でも老人でもあまり変わらないのかもしれない。年齢とともに、人間は丸くなる部分もあれば、意固地になる部分もある。映画の舞台は房総半島の野島崎で、低予算映画の典型なのだが、定年後の生き方を考える上で「終わった人」と合わせて観たら面白い。
2018年11月22日
コメント(9)
トランプの当選とナチの台頭を重ね合わせたマイケルムーアの映画である。予告編等を見て政治批判のギャグ映画だと思っていたのだが、銃乱射事件と銃規制を求める高校生の活動、水道水の汚染と健康被害をかなり重点を置いてとりあげるなど、思ったよりも重い。独裁者は危機をあおり、民主主義を形骸化していくというメッセージに、日本の現政権の国難選挙やJアラート訓練、憲法改正と緊急事態条項などをつい連想する。銃についての規制こそ日本は米国よりもはるかに厳しく、乱射事件は対岸の火事なのだが、それ以外では対岸の火事とは思えない。いつの日か日本が米国並みかそれ以上の格差社会になっていけば、映画の世界は明日の日本なのかもしれない。基調としてはこの映画はトランプ政権を批判した映画である。しかし、批判の矛先はトランプ政権にとどまらない。大統領選挙の過程における民主党の動きをみると、党員票では多くを獲得したサンダース候補が指名を逸し、特別代議員の票の上乗せがあってヒラリーが指名された。そしてそれ以前から、オバマ民主党政権は共和党政権と似たような政策を打ち出し、汚染水の問題でも、健康被害に苦しむ人々(地域の貧しい住民)を見捨てた。つまりアメリカでは、貧困層にとって選択する政党はすでになく、そうした人々の動向がトランプ政権の誕生の背景にあったという見立てでこれはおそらく正しいであろう。日本でも、立憲民主党の枝野氏が渡米してサンダース氏に会ったというニュースに瞠目したが、その後の氏の動向をみていると、どうも単に選挙に勝ちたいだけの議員を集めているようだ。有権者にとって政権交代は手段であって目的ではない。結局のところ、似たような政策を提示するだけの政党が議員の多数を占める状況と言うのは民主主義の機能不全だとしか思えない。なお、米国の中間選挙の直前、やたらにホンジュラス難民の映像が流れた。日本のニュースでもそうであったくらいなのだから、米国ではもっとあの映像は溢れたのであろう。映画を見た後だからそう思うのかもしれないが、あの映像もトランプ陣営が意図的に大報道させたのではないか。国境に向かってやってくる多くの難民の群れ。高級住宅に住み暖衣飽食の人々にとっては同情心をさそうだけだが、庶民にとっては職を奪い賃金を低下させ治安を脅かす脅威と映る。難民や移民に厳しい政策をとる政党に票を投じたくなるというものである。
2018年11月07日
コメント(32)
タイトルだけ見ると、美しい全国各地の風景と可愛い猫の映像に癒される映画を想像する。けれども実際は、余命いくばくもない男が飼い猫の引き取り手をさがすために全国を旅するという話で。ちょっと悲しい。ただ難を言えば…余命いくばくもない男が猫の引き取り手を探すために全国を旅するというシチュエーションとするには、なぜ全国に友人がいるのか、主人公が若いのなら実の親はどうなったのか、友人の引き取れない事情はどういうものなのかと話を作っていかなくてはならない。これが実話なら、へえそういうことがあったのかですむのだが、フィクションならそこに説得力がなければならない。その意味で、ちょっと物語として、あまりないような設定を盛りすぎではないか。もっとストーリーに「世間によくある話」もしくは「世間にありそうな話」でもよかったのではないかと思う。特に、主人公が両親の実の子ではなかったという設定はいらなかったような気がする。猫好きな人でお暇ならどうぞ…といったところか。
2018年10月31日
コメント(3)
どの世界でもトップ層は一握りで大多数は当落ぎりぎりの紙一重組だろう。プロ棋士の世界も同様で、天才棋士、スター棋士ばかりに脚光があたるが、実際の数からしたら苦心惨憺の末にようやくプロになったという人の方が多いはずだ。この映画の主人公しょったん(現プロ瀬川昌司氏)は小学校時代から将棋大好きで、中学校で奨励会に入り、夢はプロ棋士と将棋一筋の人生を送ってきた。ただ、奨励会はそうした人々の集うところで、そこで勝ち抜かなければプロになることはできない。それができずに、やむなく退会してゆく奨励会員も多く、しょったんもその一人となった。ふと以前見たアメリカのアニメのシンプソンズのこんなセリフを思いだした。「自分がこれが得意だなんて思っていても世の中にはそれがあんたよりも上手い人が3万人はいるものよ」と。たしかにそうだ。人が周囲を見渡せる人数は50人、せいぜい100人。100人の中で一番であっても1万人いればそうした人間は100人いる。100万人なら1万人、300万人なら3万人だ。上には上がいる。野球でも将棋でも、「得意なこと」で生活するのはかくも難しい。普通なら退会した時点で将棋とは縁をきるし、もっと普通なら将棋が多少強いくらいでプロをめざすような冒険はしない。普通に勤めて将棋は趣味でやった方がずっとよい。でもしょったんは違った。アマ棋界でも活躍し、それが将棋界の眼にとまり、特例としての試験を受けて晴れてプロ棋士となった。映画を見ている人はしょったんがプロ棋士になったことを知っているので、ストーリーを追う緊張感はないが、対局の場面など将棋に無知でも緊張感が伝わってきて、素直に「かっこよい」と思う。将棋も能力や才能の世界であり、いくら努力しても限界はある。奨励会を普通に通過できないようなら、プロ棋士のトップで活躍するのは難しいだろう。さらにいえば将棋界でも肩身が狭いかもしれない…余計な憶測かもしれないけど。けれどもそれを承知の上で、あえて「好きな道」を選び、それに成功したしょったんには素直に拍手を送りたい。それに、自分も凡人で、挫折もいろいろとあったから、天才棋士を主人公にした映画よりも、こういうのが、正直言って好きである。
2018年09月17日
コメント(5)
全73件 (73件中 1-50件目)