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埼玉県幸手市の権現堂堤に行ってきた。桜の名所としても有名なのだが、今は彼岸花である。堤一面に咲く彼岸花は赤の絨毯のようで、これに匹敵するのは、巾着田くらいしか思い浮かばない。この堤を歩いていくと最後に巡礼碑というものがある。昔からこのあたりには巡礼が来ていたのだろうかと思ったのだが、実はこれには哀話がある。享和2年(1802年)のこと、この堤が長雨により切れたため、堤奉行の指図で村人達は必死の改修工事をしていた。そこに、母娘の順礼が通りかかり、人身御供を立てなければなるまいと言った。そして、母順礼は念仏を唱えて渦巻く泥水の中に身をおどらせ、娘順礼も後をおったという。これには実際には村人が母子巡礼を水に投げ込んで殺害したという話があって、こちらの方が史実のような感じがする。もちろんいまさら確認しようもないのだが。母子巡礼というと今のお遍路さんのようなものを想像するが、実際には映画砂の器にあるような物乞いをしながらの母子放浪だったのではないのだろうか。災害で疲弊の極にある村人とそこにやっていた貧しいよそ者。なんかこの構図は関東大震災の際に旅の行商一家が殺害された福田村事件を想起させる。砂の器のように社会に居場所を無くした母子が死に場所を求めていたのかもしれないし、村人たちが貧しいよそ者に不満のはけ口をもとめたのかもしれない。人身御供であり、村全体のためであるという大義名分は罪悪感を薄れさせただろうし、世代が変わり、巡礼が自ら水に飛び込んだというような話になったことも同様である。巡礼碑は昭和11年に建てられたものだという。なんか暗い話をしてしまったが、権現堂堤の彼岸花は今が見ごろであり、駐車場等も巾着田ほど混んでいないのでぜひお薦めである。彼岸花は曼殊沙華の他にも死人花、幽霊花という気味の悪い別名もあり、野仏や墓地の傍に多く咲いていることもあって、なにかこうした哀話が似合うように思ったりする。 曼殊沙華母子巡礼の血の涙
2024年10月06日
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最近東海七福神を歩く機会があった。出発は京急大森海岸駅で第一京浜を横浜方向にしばらく歩くと磐井神社がある。磐井といえば磐井の乱を連想するが、その磐井とは関係ない。ここが弁財天にあたる。七五三ののぼりが立ち、全体に明るい雰囲気である。その後、向きを変えて品川方面にしばらく歩くと旧東海道に入る。旧東海道は思ったよりも狭い。昔もこの道幅ならかなり狭いのだが、大軍勢がやってこないようにあえて道幅を狭くしたのかもしれない。この道をええじゃないかの群衆が、そして新政府軍が…と思うと興味深い。さて、旧東海道に入ってすぐのところに鈴ヶ森刑場遺跡がある。200年の間に10万人から20万人もの人が処刑されたというのだが、実際の処刑場はもっとひろかったのかもしれない。三日に二人ほどの感覚で処刑があったわけなのだが、冤罪も結構あったのだろう。今だってあるのだから。この遺跡の一角は手入れをする人もいないようで雑草が生い茂っているのだが、その中でも彼岸花はたくましく咲いている。そしてなぜか柘榴の木があり、ちょうど実をつけていた。さらに歩いていくと天祖・諏訪神社に着く。七福神めぐりでは福禄寿にあたるのだが、境内に池がまずあり、こちらが弁財天でもよいように思う。弁財天が技芸の神で、それは水の流れる音が楽器のように聞こえるのに由来するというのだが、たしかに水の流れる音は心地よい。しっとりと落ち着いたよい雰囲気である。立会川を超えると坂本龍馬像があるが、これはけっこうあたらしいものらしい。全国に龍馬像っていくつあるのだろうか。毘沙門天の品川寺も街道沿いにあり、さらに行くと目黒川に出る。かつてはどぶ川、今は桜の名所であるが、ここまで下流に来ると川幅も広く、きらきらと陽を反射して貫禄たっぷりの姿になっている。擬宝珠のついた赤い橋を渡ると荏原神社の森になる。ここが七福神の恵比寿にあたる。さほど大きくない神社なのだが、荏原という地名は大変古く、万葉集にもみられ、荏原の範囲は今よりもずっと広かったわけである。そしてその先に、寿老人の一心寺と布袋尊の養願寺があり、向きを変えて第一京浜沿いには大黒天の品川神社がある。近くには関東黒湯の銭湯もあり、これも歩いた後にはちょうどよい。
2024年10月02日
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巾着田の彼岸花を見に行った。埼玉県日高市にある彼岸花の名所で毎年彼岸の頃には一面真っ赤に染まるのだが、今年は開花が遅れているということで、一面真っ赤とまではいかなかった。それでも、場所によっては見事な群落もあり、十分に見ごたえもある。それにまだ見ごろではないということで入場料も無料だったし…。だいたい毎年、ここに彼岸花を見に来るが、以前の猛暑の年は暑くて彼岸花が早くに見ごろをすぎてしまったというときはあったように記憶するが、猛暑で彼岸に咲き進んでいないというのは初めてのように思う。それだけ、ことしの猛暑、いやいや炎暑が記録的だったということだろう。巾着田を見た後は、日和田山に登った。標高305メートルなのだが、低山らしい登山道に一か所だけ設置されてある鉄の手すりにしがみつかなければ登れそうもない旧坂もあり、苦労して上ると、頂上に絶景が広がるというわけで、山歩きの楽しさを堪能できる。ただ去年は彼岸花のちょうど見ごろのときに登ったせいか、巾着田からこぼれてやってきた普段着の登山客もずいぶんいたのだが、今回は人通りも少なく、見かけた人もほぼ皆登山モードであった。低山とはいえ、急な坂もあるので、特に下りは横歩きくらいで下りないと不安である。でも今年も来られた日和田山。高山はバス以外では登ったことはないのだが、昔はよく秩父や丹沢の低山歩きをした。苦労して上って絶景をみるときの達成感は昔も今もかわらない。日高の街が一望にみえ、遠くには大山の特徴ある山容もみえる。天気さえよければスカイツリーも見えるという。
2024年09月25日
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春に函館に行ったとき、映画「名探偵コナン」の影響もあり空前の観光ブームであった。有名な夜景も、花火でもあるまいしこれはないだろう…というくらいの混雑であったが、今朝のテレビをみると、この観光ブームはまだ続いているらしい。いくらなんでも夜景は人込みをかき分けてみるものなのだろうか。それに、函館の夜景はたしかによいが、夜景がよいのは他にもあるだろう。そう思うので、この間行った東京近郊の夜景について書いてみる。大山の登山口で有名なヤビツ峠近くの菜の花台展望台である。秦野盆地を一望に見下ろすことができ、目の前には権現山弘法山がみえる。これらの山は誰でも登れる低山で桜の名所にもなっている。そして目を転ずると真鶴岬、さらにその先に伊豆半島も見える。城ケ崎の上にある大室山の特異な山容はすぐに目につくだろう。そしてしばらく待っていると景色は徐々に夜景に変わる。秦野市の向こうには伊勢原市なども街も見え、夜景の豪華という意味では函館にも引けをとらないように思う。ちなみに函館市は人口24万人、秦野市人口16万人である。いつも国道246号で秦野市から伊勢原市に抜ける時、全波峠のトンネルを通るがその手前にすごく目につく真っ赤にライトアップした建物がある(ラブホテルらしい)。この赤い建物は菜の花台からの夜景でもすぐにわかる。
2024年09月18日
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函館旅行に行ってきた。五稜郭も夜景も大変な人出で驚いたのだが、それもそのはず、「名探偵コナン」の映画が大人気でその舞台が函館となっているため、アニメの聖地として観光客がおしかけているのだという。コナンはあまり興味なかったし、どうみても子供向けアニメという印象しかなかったので、オタクのやるような聖地巡礼とは関係ないと思っていた。ただよく考えれば、大河ドラマの地元に観光客が増えるのも一種の聖地巡礼だし、聖地巡礼イコールオタクと思う方が不勉強なのだろう。函館の夜景展望台などは花火大会かと思うほどの混みようだったので、時期を外した方がよかったのかもしれない。アニメファンと思しき人以外に、もう一つ非常に目立ったのは中国人観光客だ。最初は周りの言葉が聞き取れないので、ちょっと耳が変になったのではないかと不安になったくらい…。京都のように最初の日本旅行で誰もがいく観光地と違い、二回目、三回目の日本旅行で来るところは国によってかなり違うのだろう。台湾か香港か、それとも大陸かはよくわからないが、もしかしたらコナン人気は台湾にも及んでいるのかもしれない。なにしろ台湾で地下鉄内の暴漢を取り押さえた若者が「ヒンメルならこうしただろう」と言ったというほど、日本のアニメは海外でも人気だというのだから。ただ、観光客が押し寄せている函館でも、人気観光エリアを少し離れると空き家やシャッター商店が目立つ。無理もないだろう。最近は東京でも空き地や空き家が目立っているのだから。
2024年06月18日
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秩父牧場の天空のポピー園に行ってきた。草原一面に星を撒いたようにポピーが咲いている光景が人気なのだが、今年はポピーの生育状況が悪いということで特に入場料はとらなかった。たしかにぎっしりと咲いているのは一角だけで、あとは草原が広がっているばかり。花の密度が薄くなっているところでは、首をたれたままの蕾がめにつく。元気よくまっすぐに咲きかけている蕾もあるので、こうして首をたれてしまった蕾はそのままでは咲かないのだろう。猛暑が原因だとも、暖冬が原因だともいわれているらしいが、原因はよくわからないという。今年は桜の開花も遅かったし、温暖化は植物にも様々な影響を及ぼすのだろう。ポピーは本来は赤い色でピンクなどのそれ以外の色の花はさらに咲きにくいというので、赤い花が目立った。例年ほどではないにしても、草原一面に咲くポピーは見ごたえがあり、風は心地よかった。それにしても、同じケシ属でも、大切にされ観光資源になっているポピーと、どこにでも群生を作って生態系を乱すために駆除対象になっているナガミヒナゲシとはなんという違いだろうか。ナガミヒナゲシも淡い珊瑚色の花は十分に美しくはかなげである。ナガミヒナゲシといい、アツミゲシといい、花には罪はないものを…。
2024年06月02日
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小田急線の下北沢から一駅のところに世田谷代田の駅がある。繁華街下北沢の隣の小さな駅と言う印象しかなかったのだが、所用があって行って見ると、このあたりの線路は地下化され、立派な地下駅となっていたので驚いた。さらに、駅前に出てみると、ここはちょうど西に開けた高台になっていて見晴らしがよいのに驚く。東京で富士山というと、今では高層ビルの展望室でしか見られないとおもっていたが、ここからなら普通に富士山を望むことができる。そのせいだろうけど、環状七号線をまたぐ陸橋は冨士見橋といい、北沢八幡には富士塚がある。もっともこの富士塚は登ることはできないのだが、富士山の溶岩をもってきており、傍には富士山が見えるというスポットもある。このあたりには戦前から多くの文士が移り住んでおり、北沢川を暗渠とした後の緑道は文学の小路という名称がついている。文士を引き寄せたのは小田急の開業だったのだろうけど、武蔵野の面影と富士山や丹沢の山々を望む高台の眺望も魅力的だったのだろう。世田谷代田は、今でも、かなりの高級住宅街のようであるが、やはりところどころ空き地となっているところもある。たぶん今の金持ちは閑静な住宅街で一戸建ての豪邸に住むよりは、何かと便利なタワマンの方を好むのではないか。なお、世田谷代田の代田という地名はダイダラボッチの伝説に由来するという説もあるらしい。今の建物に覆われた光景からは想像しにくいが、かつてはこのあたりは武蔵野の野で地形の凹凸はいまよりもはるかに意識されていた。目立つ形の窪地があればそれを巨人の足跡と考えるのは自然な発想なのだろう。
2024年05月23日
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今年の桜は開花が遅かった分、なんとなく葉の出るのが早いような気がする。樹によっては散る前から葉がでているものもあった。そしてこれも開花が遅かったせいなのだろうが、桜前線のスピードが速い。例年なら東京の桜が終わった後、群馬や栃木の桜を見に行くのだが、今年はほぼ同時のようである。さて、花見であるが、隅田川に行ってきた。押上から桜橋をわたって吾妻橋まで歩き、その吾妻橋を今度は墨田区側を歩いて戻るというコースである。今回はちょっと寄り道をみて待乳山聖天にも行ってきた。伝承によると推古天皇の時代に地中から湧き出た山が待乳山であるとされるが、たしかに下町低地にここだけ山があるのは不思議である。武蔵野台地の浸食の跡だというが、昔から入港する船の目印であり、また景勝地としても知られていたという。本堂には山のように大根が供えてあるが、大根を供えることで、心の毒を清めるという信仰があり、御供え用の大根はお寺の入り口近くで売っている。他では大根を供えるというところはあまり聞かないので不思議な感じがする。隅田川に戻って浅草辺りに行くと、外国人観光客が非常に目につき、もしかしたら日本人よりも多いのではないかと思うほどだ。円安もあって、年々外国人が増えているように思う。桜は日本人の美意識にかなう花とよく言われるが、桜を愛でることについては国境はないということだろう。このあたりでは、観光客向けに着物をレンタルするサービスもあり、着物を着て傘をさした姿で桜を背景に写真をとっている女性を何人も見かけた。こんなふうにして撮ると大抵は美人に見えるものだが、言葉を聞いてみると外国人が多い。白人や黒人もいたが、着物はやはり東洋人の方がずっと似合う。
2024年04月10日
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千葉県の亀山温泉に行ってきた。温泉施設はときどき行くのだが、やはり気に入るのは一見して温泉とわかる特色のあるところだ。この点、亀山温泉は塩分を含んだ黒湯で、温泉気分を満喫できる。東京初め首都圏にはこうした黒湯温泉が多いが、これは関東平野のなりたちとも関係がある。関東平野の海底にある太古の植物の腐食成分が混入するために、黒色を呈しているのだという。こうした温泉は火山性の温泉でないために、もともとの温度は低く、そのため加熱してあるのだが、だいたいにおいて熱すぎないところが多く、これもよい。訪れたのはホテルで日帰り入浴もできるところであったが、そこで食事をすると入浴料は500円となる。食事で注文したのは、そこの名物らしい親子丼だが、サラダとみそ汁、香の物がついて800円だったので、全体では1300円といったところか。ここには、亀山湖を一望できるテラスもあり、ちょっとした旅行気分を楽しむことができた。帰りは東京湾アクアラインを使ったが、海ほたるには、海底トンネル工事のシールド工法につかったカッターがそのままモニュメントとして展示されている。これがちょうど青色にライトアップされていて、このモニュメントのある一角だけ、青い光の中にカッターが光っている不思議な光景になっていた。
2024年03月31日
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最近、福田村事件という映画が話題になっている。関東大震災の直後の混乱の中で、香川県からやってきた行商団15人のうち幼児や妊婦を含む9人が、千葉県福田村と隣の田中村の自警団により殺害されたという実話に基づいた映画である。この事件そのものはながらく忘れられていたが、人権団体により事件の調査が行われ、2003年に慰霊碑が建立されたという。映画そのものは見ていないのだが、福田村事件というのは印象に残っていたため、千葉方面に車を走らせていた時、スマホの地図に福田村事件慰霊碑とあるのを見つけ、まよわず訪れることにした。ところが地図の指定する場所にいってもそれらしいものはみあたらない。すぐそばに空き地はあるのだが、公園という感じでもないし、慰霊碑らしいものもない。イメージとしては公園や道路わきに碑が立っている光景を想像していたのだが…。もう一度、辺りを見回してみると、塀の上に観音像が立っているのがみえる。塀に沿って道を上ってみると、そこは寺になっていて、観音像は墓地の一角にあるようだ。観音像は慰霊碑とは関係なかったのだが、寺に入ってみると、慰霊碑はその隣の霊園にあった。表には福田村事件追悼慰霊碑とあり、裏には犠牲者の名が刻まれている。ただ、慰霊碑の前には撮影禁止の注意書きがあり、誰にどう配慮したものかと不思議に思ったのだが、被害者の行商団が差別されていた人々だったということとも関係があるのだろう。行商団が殺害されたのは、朝鮮人に間違われたのだと言われる。しかし、当時の行商団というのは、村人からすればよそ者であり、震災後の不安な心理の中では得体のしれない人々とうつったということも考えられる。誰かが興奮して敵意を向けると、付和雷同するという集団心理もあったのかもしれない。慰霊碑にはただ名が刻まれているだけで、この人々が殺害されたという事実には一切ふれていない。慰霊碑表面の「福田村事件」という記載から、単なる事故や災害ではない、なにかがあったということが推測できるにすぎない。考えてみれば、福田村事件は、地域にとっては負の歴史である。時間が経過したとはいえ、できれば忘れられていた方がよいと思う人もいるだろう。殺害の背景についても、本当に朝鮮人と間違えたのか、行商団という人々に対する別の意識があったのかも検証のしようもない。従って書き方も難しい。さらに推測してみれば、慰霊碑の場所が殺害現場となった場所や道路わきなどの公共の場所ではなく、霊園の一角となったのも、行政の側が慰霊碑建立に積極的でなかったことが背景にあるのかもしれない。歴史的事実には後世に語り伝えたい誇らしいものもあれば、その逆のものもある。その逆のものである負の歴史というものは、ほっておくと埋もれがちとなるのであるが、むしろこうしたものこそ後世への教訓として残していくべきものであろう。
2024年03月17日
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久能山東照宮に行ってきた。浜松は徳川家康出世の町、そして静岡は徳川家康が最も愛した町と、静岡県のあちこちで昨年の大河ドラマの家康人気に乗っかっている感もある。実際に家康は浜松城を本拠にしていた期間が長く、静岡も子供時代を過ごすとともに、浜松の後は駿府を拠点とし、晩年もそこに住むなど、非常にこの地に愛着があったことがうかがえる。子供時代は人質としての苦労はあったにしても、教育を受ける機会もあり、案外と恵まれたものであったという説も強い。江戸幕府成立後には今川も大名なみの高家旗本として優遇しており、駿府の子供時代にはそれなりの幸福な想い出もあったのだろう。静岡には一富士二鷹三なすびをモチーフにしたマークもあちこちで見かけた。これは初夢の縁起のよいものとされているが、マークの解説によれば徳川家康の好きなものを並べたものらしい。富士山を愛したために富士の良く見える駿府の町を愛したというし、鷹狩を好んだということも有名である。茄子が好きだったというのは初耳なのだが、たしかに家康のイメージだと贅沢なものよりも、健康に良さそうな食物の方があっている。遺言によって家康の遺体は久能山に葬られたというが、これも、江戸の方は盤石になりつつあったことと、やはり駿府にそれだけの愛着があったのだろう。東照宮は日光よりもこぶりだが、彩色や彫刻は日光と変わらないし、さらに奥の霊廟は森閑として霊気がただよっているように感じる。駅の土産物売り場も徳川家康関係のものが目立つ。ただ、もともと駿府を東海一の文化都市にしたのは今川氏の功績ではないかと思っていると、ちゃんと「今川の逆襲」と書いた手ぬぐいなども売っていて面白い。静岡といえばやはり家康と富士山、そして駿河湾だし、静岡県のマークも富士山と駿河湾をモチーフにしているようだ。それにしてもあのマークをみるだびに思うのだが、浜名湖はどこに行ったのだろうか。
2024年01月28日
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その昔、温泉や大浴場を核にした施設は健康ランドとかヘルスセンターとかよばれて高齢者が主な客層だったように思う。かの〇〇ヘルスセンターの「長生きチョンパ」のCMソングなど、一定年齢以上の人の多くが記憶していることだろう。首都圏だけでなく、夏休みなどで母方の実家に行ったとき、祖母といっしょにヘルスセンターに行ったこともある。温泉の大浴場だけでなく、畳の大部屋では、漫才などもやっていて、そこそこ一日中楽しめるようになっていた。今のスーパー銭湯とか日帰り入浴施設というのは、昔と違い、必ずしも高齢者向きというわけでもないし、旬の人気漫画を揃えていることもあり、むしろ若い人の方が多い。特に、コロナ以降は年配者は感染を警戒しているせいか、ますます若い人が多くなっているように見える。雨模様で天気が悪かったせいもあり、前々から行こうと思っていた横浜の温泉施設で、若い人々に交じって一日ゆっくりと過ごした。入浴施設そのものは他のところとそれほど異なっていないのだが、岩盤浴エリアが個性的だ。いくつかのゾーンに分かれており、その一つにけっこう本格的なプラネタリウムがある。そこに寝転がると星空が見える仕組みになっており、その星空にはときどき花火があがったりオーロラがでたりするのだが、さすがに星空そのものは回転していないようだ。もしかして、もっと長くいればゆっくりゆっくり動いていたのかもしれないが。また、上下左右すべて壁面が鏡となっているミラールームがあり、そこにある灯りは時間とともに色がかわる仕組みになっている。そうすると、様々な色に囲まれた異世界に浮かんでいるような映像になり、まさに幻想的な空間の演出になる。プラネタリウムやミラールームは普通の温度設定なのだが、高温の岩盤浴もあり、これには岩塩の部屋、木紋石の部屋、蝋燭の部屋、紫水晶の部屋がある。寝転ぶことにできるのは岩塩の部屋、木紋石の部屋、蝋燭の部屋だが、気に入ったのは木紋石の部屋だ。木紋石とは太古の樹木が石化したものだというので、化石なのだろうが、パワーストーンとしては心と体をリラックスさせ健康運を高める効果があるそうである。寝転ぶところには木紋石?の小さな砂利が敷き詰められており、そこに岩盤浴用のタオルを敷いて寝転ぶようになっている。小さな砂利がこんなに心地よいものだなんて知らなかった。岩盤浴の合間には、展望スペースで椅子に座って景色をみることもできる。目の前には鶴見川が流れ、ちょうど雨雲の晴れ間にあたっているせいか傾きかけた陽が川面に反射している。昔はここも酷いどぶ川だったと思うが最近は都市河川も浄化され、住民の憩いの場となっている。風呂を楽しみ、岩盤浴を楽しみ、景色を楽しみ、そして最後に再び風呂を楽しんで、減った体重を確認する。時が過ぎるのを惜しいと思うくらいに、楽しく心地よい時間を過ごした。
2024年01月22日
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お正月が終わった残りの一月と言うのは特異な閑散期だという。それを期待して普段はなかなか混雑で行けない江の島にいくこととした。江の島は神奈川にある景勝地でもともとは完全な島だったのが、関東大震災の隆起で陸繋島になったという。ただ行くのはやはり橋で行き、橋の向こうの駐車場はいつも混んでいるので、橋の上には帰るに帰れぬ大渋滞が発生する。ところが行ってみるとさすがは閑散期。駐車場には空きがあった。普段であればこうしたことはめったにない。江の島の入り口から続く土産物街は江の島弁財天の参道のような趣も呈しており、多くの人でにぎわっていた。以前はこのあたり、猫が沢山いたので有名だったのだが、寒いせいか猫の姿はみかけない。海鮮や洒落たカフェの店が多く、どこの店もにぎわっている。そういえば昔はよく名所の名を冠したこけしとか置物の類があり、家には各所の土産を入れるガラスケースがあったものだが、そうした昔ながらの名所こけしや置物はなくなっているようだ。江の島は島全体が山になっており、上に登るには階段もあるし、エスカという有料のエスカレーターもある。最初から景色を楽しみたいので、階段を上ることにした。時々展望の開けるところがあり、相模湾を一望できる。大島や初島も目を引くが、鎌倉当たりの断崖の海岸も目立つ。頂上につくとサムエルコッキング苑が無料開放していた。花のない季節なのだが、その代わり、イルミが点灯しており、昼間見るイルミも幻想的だ。多くの場合、イルミは冬だけ、夜だけというのは、ちょっと残念な気がする。江の島で目につくのは三つ鱗の模様だ。階段の柱、表示の下とあちこちにこの模様がある。言わずと知れた北条氏の家紋なのだが、江の島と北条氏には深いつながりがあり、北条時政が江の島弁財天をお参りした時、夢に弁財天が現れ、一族の繁栄を約束したところ、目が覚めると証拠のように鱗が三枚あったのだという。これが家紋の由来とされる。
2024年01月14日
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街歩きのガイド本をみて高幡不動から多摩丘陵を歩いてみた。高幡不動にお参りをした後、丘陵部に登る道があるはずなのだが、どうしてもみつからない。登ったところに参拝者用の駐車場があり、その一角が工事中でシートがかかっている。おそらくここに階段とかがあったのかもしれない。仕方ないので、通常の道路を通って七生公園にいってみる。さて、多摩モノレールに沿う道をかなり歩いてたどりつくと、せっかくの好天の紅葉シーズンなのに人がほとんどいない。こういうところはあまり人通りがないのも陰気な感じがする。早々と退散して、次の目的地である平山城址公園に向かう。上り坂になっていて、ときどきはっとするような眺望が開ける。このあたりが多摩丘陵の尾根なのだろう。眺望だけだと山歩き気分なのだが、違うのはこのあたりは一戸建て住宅が連なっているということである。山道を無理無理に造成して一戸建てにしたという感じで、どの家の土台も盛り土であり、急坂も多い。東京にどんどん人が集まって来た時代、まず不足したものは住宅だった。結婚し、子供も生まれ、給料が上がっていくと、ほしくなるのは一戸建てだっただろう。団地も最先端の住宅スタイルとして人気があったが、やはり田舎の広い家で育った人は庭付きに憧れるし、当時は子や孫に囲まれて暮らすのが幸福な老後とされていたので、ゆくゆくの三世代同居を考えると広い家を持ちたいという人は多かった。ただこれほどの住宅街なのに森閑としている。子供たちどころか、道行く人自体がほとんどいない。空き家という感じでもないのだが、かなり高齢化がすすんでいるのだろう。なお、住宅街の道にはところどころに凍結注意と不法投棄禁止の立て看板があった。落ち着いた住宅街の中に、こんな山道のような看板があるのも違和感がある。平山城址公園はみごとな眺望で奥武蔵や秩父の山が見え、さらに、眼を転ずると遠くかすんで八溝山地や筑波山が見える。この周辺は山歩きのための散策路になっているのだが、ほとんど人が通っておらず、公園脇の平山季重神社も落ち葉に覆われていた。そういえば、もうかなり昔になるが、八王子から通ってきていた上司が、毎日山歩きをして昨日は何歩歩いたという話をしていたことを思い出す。その頃には、このあたりの山道も歩いている人も多かったのだろう。細い散策路には平山城址公園までの道標のあるものもあったが、まったく手入れのされていなさそうな道なので、用心をして、普通の道で駅に向かうこととした。
2023年12月10日
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機会があって山口県に旅行に行ってきた。山口といえば、維新の英傑を生んだ地というだけでなく、戦国時代には毛利氏が覇を唱えていたし、源平合戦では最後の古戦場もある。また、宮本武蔵の巌流島も有名だ。こう考えると、大河ドラマの半分くらいは山口県を舞台にしているのではないのだろうか。そういえば全国のあちこちにある〇〇を大河ドラマに…というのぼりも山口県ではみかけなかった。いろいろと見た中で一番印象的だったのは壇ノ浦の合戦の行われた古戦場である。壇ノ浦のあたりには、満珠島・干珠島の二つの無人島があり、原生林が天然記念物になっている。神功皇后が龍神から授けられた二つの玉、潮干珠・潮満珠から生まれたという伝説があり、昔の人は潮の干満にも神秘的なものを感じていたのだろう。このあたりは潮流の変化の激しい所で、壇ノ浦の合戦も潮流の変化が勝敗を分けたという説もある。しかし、この時点では平家は凋落の趨勢にあり、時流をみた勢力がどんどんと寝返っていったのだろう。源平合戦に限らず、日本国内の争いはそういうところがある。関ヶ原しかり、戊辰戦争しかり。もともと、宗教の対立や人種民族の対立があるわけではない。ならば時流に乗り勝馬につけばよい。節操がないようでも、こういう歴史だからこそ、国土が廃虚になることも、人材が蕩尽されることもなかったのだろう。それはともあれ、1185年、平家一門は女性も含め、このあたりの海に沈んでいった。平家物語は、奢る奴らが滅んだというよりも、あんなに栄華を極めていた人々の滅亡をえがいたもので諸行無常が基調である。安徳天皇を祀る赤間神宮もすぐそばにあり、横には壇ノ浦でなくなった平家方武将を祀る七盛塚もある。平家物語は合戦を描いた場面が人気があるのだが、最後の章は壇ノ浦で生き残った建礼門院の余生を描く場面になっている。彼女は後年生きたまま、六道をみたと述懐する。そうした物語の舞台になった壇ノ浦をようやくにみることができた。
2023年12月02日
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東京の地形は武蔵野台地と下町低地に分けられ、かつては武士は高台に住み、町人は下町に住むというような住み分けが行われていた。そして高台の中でも、大名や高級武士の屋敷のあったところは今でも高級住宅地としてのブランドイメージをもっている。これは電鉄会社が意図的に高級住宅地として開発した成城や田園都市構想の基で設計された田園調布とは、また別の高級イメージがある。目黒から品川にかけての城南五山とよばれる地域もそのひとつで、北から花房山、池田山、島津山、御殿山、八ツ山である。山というのは、こうした高台は武蔵野台地の先端部分にあたり、下から見ると山のようにみえるので、このようによばれ、今でも住居表示とは別に○○山という呼称は生きている。この城南五山を実際に歩いてみると、この五山の中でも池田山、島津山のあたりが特に広壮な住宅が多いように見える。もちろん一戸建てばかりでなく、豪奢な低層マンションもあるのだが、それもたいてい池田山とか島津山とかの名称がついている。住居表示上の名称よりも圧倒的にイメージがよいのだろう。こうした地域は明治以降も要人の屋敷になったところが多く、その上流イメージがいまも引き継がれているわけである。この地域のように台地が尽き、急に低くなるところには湧き水が出る場合がある。このあたりにもそうした湧き水による池の景観を利用した庭園から公園になったところがある。池田山公園と御殿山庭園である。御殿山庭園は周辺に大きなホテルがあり、それらのホテルと一体化しているようにもみえるが、池田山公園の方は高級住宅地の一角にこんなところもあったのかと驚くほどの樹木豊かな公園になっている。高台から急に低くなっているせいで池に行く階段は急なのだが、その池には橋も灯篭もあり、鯉が泳いでいる。あまり知られてないのが残念なくらいだが、なにしろ場所が場所だけに付近の住民は有象無象が押し掛けるのは決して望んでいなさそうである。門は二か所あり、高台の方の入り口から入ると、そのあたりは池田山の頂上近くのせいか、展望もなかなかよい。この池田山公園から、少し歩くと、これも区立公園になっているねむの木の庭がある。上皇后陛下の生家であったところを公園にしたもので、四季の草花とともに、それにちなんだ上皇后陛下のお歌が掲示されている。こちらの方も花にあふれた愛らしい風情の公園で、一度行くと、また、別の花の咲いている季節にも来たくなる。
2023年11月24日
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この週末に東北に行く機会があった。印象に残ったのは白虎隊終焉の地の飯森山。付近には大型バスの停まるスペースはないので、今回のような自動車の旅でないとなかなか行けないところだ。狭い階段がはるか頂上まで続き、両側には土産物屋が並ぶ。白虎隊の話は有名だし、古くからの観光地という雰囲気がある。この階段を上るのはかなり大変…と思うのだが、脇にはスロープの動く歩道?があり、「上まで階段で行くのは本当に大変です。どうかこちらを利用ください」とさかんに勧めている。みるとほとんどの人はこのスロープで上まで行っているので、大勢に従うことにする。こうしてあっという間に楽々頂上につくと、会津若松の街が眼下に見える。白虎隊の少年戦士達は、ここから火災の炎をみて城が落ちたと思い自刃したという。そうした白虎隊の墓と大河ドラマで有名になった婦女子隊の墓があり、彼らの忠烈を称える碑もいくつかある。なぜこれほどの激戦が行われたのだろうか。江戸時代は平和が続いた時代だが、それ以前の戦乱の物語は、当時の人々は今の人以上によく知っていたことだろう。源平合戦では平家方は徹底的に滅ぼされ、鎌倉幕府滅亡では北条氏が同様の憂き目にあった。会津藩は徳川秀忠の御手付きで生まれた庶子を藩祖としており、幕府への忠誠心や一体感はことのほか強かった。戊辰戦争は当時の感覚では徳川対反徳川の戦いで、負けたらどんな酷いことになるかわからない…そうした恐怖心が少年までも巻き込んでの総力戦になったのだろうか。戊辰戦争の記憶が新しいうちは白虎隊も朝敵方の無謀な戦法としてみられていただけだが、維新の記憶が薄れ、日本が軍国主義に進むにつれ、忠義の模範として美化されていったように思う。飯森山山頂にいくつもある碑はそうした時代のものなのだろう。そしてその中に一つ、洋風のものがあり、解説をみると、昭和初期にイタリア政府が白虎隊の忠義に感動して贈って来たものであり、石柱の材料もイタリアの大理石だという。三国同盟の前であるが、当時のイタリアはファシスト政権である。こうした話は日本人のだれかが美談として海外にまで喧伝しなければ、知るところにはならなかっただろう。朝敵から忠義の鑑へと…白虎隊をめぐる日本人の意識の変遷も興味深い。戊辰戦争は会津も含めた東北では激烈な戦闘があり、会津市内には戦死者の遺体が放置されていたというが、大変革の割には全体で見れば死者の数は少なく、生き残った敗者も新政府を担う人材として登用された。白虎隊の中で生き残ったという人物も、官庁の技官となり、近代日本の建設に貢献した。
2023年11月21日
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最近、まだ行ったことのない東京を探すための一日トリップを行なっている。この間は、成城学園から野川緑道を歩いた。成城学園前の北口を降りると高級住宅地らしい瀟洒な並木が続く。そこをしばらくあるくと、緑地が見えてくるのだが、このあたりは都内でも有名な高級住宅地で住宅を眺めるだけでも興味深い。同じ高級住宅地でも田園調布のように、要塞のような生垣に囲まれて一戸建てがぼつんぼつんと点在するのとは違って、瀟洒な洋風の屋敷が連なっている様子は明るく開放的な感じだ。昔は、このあたりにはスターが住んでいて、ファンが目当ての屋敷を見に来るような光景があったというが、今はどうなのだろうか。明らかに一戸の住宅だった土地を二戸に分割した家や、もとはお屋敷だったものが店やマンションになっているところもあり、高級住宅地も世代交代とともに様変わりしているように見える。その一方で、ほとんど改修していないのではないかと思われる昔ながらの板葺きの家もあったりする。大きな緑地公園を回る形で住宅街を歩いたのだが、緑地公園から様々な鳥の鳴き声が聞こえてくる上、道にも樹木が豊富に残され、東京都区内にこんなに緑豊かなところがあったとは驚くほどだ。そんな豪邸の中に、車庫のシャッターにロシアの風景を描いている家があって驚いた。もしかして、著名な画家の家かと思って検索してみたが、どうもそうではないようだ。ちょうどこのあたりは、武蔵野が野川の周りの平地におちてくるあたりで、見晴らしもよいが、急な坂もある。駅ちかくならよいが、この坂を上り下りするとなると少し不便なのかも。高級住宅地を抜け、橋を渡ると、野川遊歩道にでる。成城の丘を眺めながら、砧をめざして歩くと、次大夫掘公園に着く。
2023年11月10日
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山歩きもいいよね…と思うのだが、やはり転倒が怖いので、平地をあるくことにした。平地でも樹々が多く、できるだけ自然を感じられるコースがよい。食べ歩きや買い物には興味がないし。というわけで横十軒川親水公園を歩くことにした。住吉駅から猿江恩賜公園を抜けたところを曲がり、しばらく歩くと親水公園に入る。高度成長時代、都市部を流れる小河川の多くは、どぶ川と化し、やがて暗渠化されていった。あの千と千尋にでてくるコハク川もそういう経緯を辿っていたかと思う。それがある時期から、暗渠にするのではなく、清流に戻すというように方向が変わっていったようだ。目黒川もかつては酷い悪臭を発する川で、一部は暗渠になっていたのだが、清流化計画により、次第に水が綺麗になり、そうなると、両岸の桜並木が見事だということで都内有数の桜の名所になった。横十軒川も川の流れに沿った緑地遊歩道で、途中にある野鳥の島では様々な野鳥の声も聞こえ、東京にもこんな場所があったのかと驚くほどである。やはり清流の方が暗渠よりもずっとよい。この横十軒川親水公園は仙台堀川公園に続いており、これも遊歩道になっている。みると桜の並木もあり、花見の頃には相当の賑わいだろう。東京の地形は武蔵野台地と下町低地にわけられ、このあたりは低地で平坦な地形のため自転車が多い。横十軒川親水公園は非常に気持ちの良い遊歩道なのだが、難をいえば、舗装された道は自転車と共用なので、高スピードの自転車には歩く方も注意しなければならない。その点、仙台堀川公園になると、自転車道と歩道が分離されているので安心である。ただ、仙台堀川公園は、かなりの部分が工事中であり、本来なら水が流れているはずの水路も水が枯れていたのが残念であった。最後は歩道橋で小名木川を渡り、大島稲荷神社の角を曲がると、まもなく地下鉄の大島駅に着く。
2023年11月04日
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どうしても山歩きをしたい場合に高尾山はお薦めである。まず駅からのアクセスが良い。次にいつ行っても適度に混んでいる。これによって迷う心配はまずないし、万一であるが、山道で怪我をして動けなくなったりした場合に助けを呼ぶことができる。最近の山の遭難は低山でもけっこうあり、中身をみると、街中では転倒事故になるようなものが、山では遭難となっている。何年か前に関節変形症で人工関節を入れたので、休めばよいスタミナ切れよりも、転倒の方がはるかに怖い。ケーブルカーを降りて薬王院に行くまでは、道も舗装されており、名刹観光とかわらない。そこから高尾山頂までは、やや山道らしくなり、しばらく歩くと期待通りの絶景が見えてくる。ここから一丁平を目的にして歩くことにした。高尾山の山頂を越え、城山方面に向かうと急にひっそりとしてハイキングという感じになる。ここからは下り上りが続くが、階段状になっていて足元の危険なところはほとんどない。ただ雨の後などは、急坂は滑るのかもしれない。長い下りが続いた後、少し上ると紅葉台という見晴らしのよい箇所に来る。低山の故、全く紅葉はしていなかったが、紅葉の頃には素晴らしいだろう。その頃には、空ももっと澄んでいるに違いない。そしてそこから、一丁平まではけっこうある。昔も来たことがあるのだが、こんなに長かったかと思うくらいだ。ときどきハイカーとすれ違うのだが、もしそうでなかったら、道を間違えたかと思うかもしれない。まだかまだか…と思っているうちにようやく一丁平についた。一丁平は紅葉台と城山の間の比較的広い平地になっている箇所である。ここからさらに登ると城山であるのだが、そこから千木良までの下りはかなり急であり、千木良から相模湖までのバスの本数は少なかったのを覚えている。今はもっと少なくなっているかもしれない。城山まで行けば達成感はあるかもしれないが、景色は特によいわけではなく、結局戻るだけとなるので、ここで引き返すことにした。富士山は見えなかったが、大山や塔が岳、丹沢三峰が見えた。むかし、あのあたりを歩いたことを懐かしく思い出す。たぶんもう行くことはないと思うが。
2023年10月22日
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近いこともあり三浦半島にはよく行く。そしてこの三連休も三浦半島に行ってきた。ところで三浦半島には湘南国際村というところがある。場所は川崎と葉山にまたがる地域でホテルや研修施設が立ち並んでいる。ホテル横の公園からの眺望がすばらしいので、よく訪れる。稲村ケ崎が見え、半分隠れた江の島がみえ、反対側には荒崎が見え、そして向こうには富士山。こうした眺望は変わらないのに、湘南国際村は行くたびに変わっている。そもそも湘南国際村はなぜ「湘南国際村」なのかであるが、これは、1985年に策定された「湘南国際村基本構想」により、「緑陰滞在型の国際交流拠点」を理念とし、国際的視野に立脚した「学術研究」「人材育成」「技術交流」「文化交流」の四つを基本的目的とし、これらを基本的機能として集積する多目的区画地域として建設されたものだそうである。1985年といえばバブルの時期であり、ジャパンアズNO1なんて言葉もあった頃だ。本格的な国際化時代を迎えるから、東京からほど近い風光明媚な場所に国際交流の拠点を作る必要があるなんていう作文は、当時ならいくらでも書けたことだろう。国際会議などで、海外から購買力のある層がやってくれば地域のイメージアップにもなるし経済効果もあるなんて考える人もいただろう。初めて行ったときには留学生の交流事業や建築士による住宅設計の展示会があった。留学生の交流事業はたしかに国際的と言えば国際的だ。そして和洋それぞれのお高めのレストランがあり、両方とも営業していた。ところが二度目に行った時には、ホテルは閑散としている上、洋食のレストランは閉まっていた。コロナの第一波の時は感染者の宿泊施設として利用されていた。そしてこの間行った時には、洋食のレストランは予約時のみ開くこととなっており、和食レストランも閉まっていた。そしてなによりも変わったのは展望を楽しみにしている公園だ。芝生の上に雑草が繁茂しており、一部立ち入れないところもできている。歩道の踏み石も草で覆われ初め、自然に帰りつつあるようだ。ホテルだけでなく、政策研究院大学や企業の研修施設もあるのだが、付近にはコンビニがあるくらいでさしたる店などもなく、いったい学生や研修生は食事などどうやっているのだろうか。湘南国際村はおそらくは当初は鳴り物入りでスタートしたのかもしれないが、国際交流の拠点という当初期待した方向とは別に向かっているように見える。
2023年10月10日
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この間上った日和田山が感動的だったので、他の低山にも上ってみたくなった。そこで登ってみたのは神奈川県の権現山。最寄駅は秦野なのだが、登り口までは遠い遠い。もちろん駅からのバスはあるのだが、一時間に一本とかそのくらいで、公共交通機関だけで来ようとすると大変である。考えてみれば秦野は都内通勤もぎりぎり圏内、横浜通勤なら十分と言った街なので、山観光にさほど力を入れる理由もないのだろう。たしかに駅近くには丹沢なんとかという名のついた店はあるのだが、駅に案内地図やパンフレットがおいてあるわけでもない。そしてまた、けっこう山の斜面のようなところに広壮な一戸建てがあったりする。たしかにある時期まで、夢のマイホーム一戸建てという時代があり、住宅は郊外へ郊外へと広がっていった。都市近郊ではそうした一戸建てが空き家となっている場合が多いと聞いたことがあるが、見る限りでは、空き家はさほどめだたず、住居の多くは維持されている。ただ、県営住宅の方は活気がなく、高齢者がよろよろと歩いているのをみかけるばかりで正直限界集落化しているような印象を受けた。駅周辺の状況を観察したのは登り始めるまでに散々迷ったせいである。登り口から山頂までの行き方はいろいろあるのだが、結局は車でも通れる道を歩いた。たしかに登山道はあるのだが、細く整備もされていない。山をやっている人ならなんてこともないのだが、自分などが転んでけがをしたらつまらない。この年齢になると、山はスタミナ切れよりも転倒による怪我が怖い。自動車道にはやたらに「不法投棄禁止」の看板があり、そうしたごみを捨てる人が多いのだろう。木陰は気持ちよいというよりも陰気で、展望はなく、あまり歩いて楽しいという道でもない。ほぼ登り切ったところに、駐車場があり、多くの人はどうやら自動車で来ているようだ。そこから頂上まで険しい道があるわけではなく、この見晴らしの良い広い尾根道と緩やかな階段が続く。山の支度は全く必要ないくらいなのだが、歩いている人々はそれなりに山装備をしている人が多い。東京から誰でも行ける低山としてお薦めなのだが、自動車で来るか、公共交通機関を使う場合にはバスの時間をよく調べてから来る方がよい。
2023年10月09日
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彼岸花の名所の巾着田に行ってきた。自然にできたヒガンバナの群生地で、ひっそりした高麗駅もこの季節だけは大層なにぎわいとなる。川沿いからすでにヒガンバナの帯なのだが、しばらく歩くと巾着田公園の入り口となる。何年か前に行ったときには入場料はなかったのだが、入場料500円を払って公園を歩くとそこはヒガンバナの絨毯のようだ。ベンチはほとんどないので、ゆっくり散策するスタイルだが、中央にはイベント広場があり、そこでは売店や大道芸をやっている。そこで休んだ後にまた散策するという人も多い。大道芸はちょうど猿回しをやっていて、まるで人語を解しているような(本当に分かっているのかもしれないが)猿が最後には高馬の芸までもやってみせた。「投げ銭を回すと急に帰っちゃう人もいるのですが…」という最後の口上に皆々爆笑。でもやはりこれだけの芸をただというのは、人にも猿にも申し訳ないと思う人が多いせいか、退散する人はあまりいなかった。それにしても、他の花に比べると彼岸花は毎年同じような時期に咲く。今年は猛暑で遅れたとも言われるが、それでも桜などが非常に早く咲いたのに比べるとずれかたが少ない。ちょうど日の長い季節から日の短い季節に移る頃に決まって咲くのが、不思議である。巾着田だけでなく、高麗全域にわたってヒガンバナの花が目立つ。群生のヒガンバナも見事だが、道端や畑の隅に咲いているヒガンバナもよい。巾着田を見た後は聖天院や高麗神社を参拝するつもりだったが、途中で日和田山登山口と言うのをみつけ、急遽登ってみることにした。特に山歩き用の準備もしていなかったので、歩けそうもなければ引き返すつもりだったのだが、急な個所が二か所あるくらいで、なんとか頂上まで行けた。もっとも頂上は大きな岩になっており、そこだけはさすがにパスしたのだが。低山とは思えない見晴らしで、左手には丹沢の大山の三角の山容が目を引くし、その隣の低山は湘南平だろうか(自信はないが)。そして目を凝らすと、地平線の上に櫛の歯のような高層ビル群が見える。ところでネットで見てみると、この日和田山でも遭難事故があったという。最近は山の高低と無関係に遭難する場合があるのだが、背景にはやはり高齢化があるように思う。街では単なる転倒ですむものが、山では重大事態になるし、もちろん山道では転倒もしやすい。急な個所では必死に手すりをつかんで登ったり下りたりしたのだが、帰りの電車を降りたあたりから、手首が急に痛くなった。昔はこんなことってまずなかったのに。かつて、東京近郊の山を歩くのが最高の楽しみだったのだが、やはり同じような山歩きは無理のようなのが悲しい。さしてお金もかけずに非日常と達成感を感じることができる近郊山歩きは最高なのだけれどね。
2023年10月02日
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山にも特異な山容の山というものがある。頂上が広く平らな平面になっている荒船山などその最たるものだが、こういうものは地学用語でメサといい、浸食によって固い部分が残ったものだという。もともとは新生代第三紀にできた本宿カルデラの一部だそうである。この間、出かけた群馬県昭和村の展望台からも、この荒船山ほどではないが、やはり頂上が平らなテーブル状になっている山が見える。三峰山である。これは三峰というくらいなので、実際には三つの峰があるわけなのだが、この方向からはちょうどテーブルのようにみえる。この三峰山の左には大きな山が見え、中腹にある突起のような岩が目につく。これが子持山で岩は獅子岩という。獅子岩という名の奇岩は全国あちこちにあるのだが、これもライオンが咆哮しているように見えるのだろうか。角度によってはそう見えるのかもしれないし、昔はそう見えたのだが、風化によってその面影はなくなったのかもしれない。何度も行ったことのある三浦半島にも特徴のある山容の山がある。岩堂山でちょうど一つの山を中央で切ったような形をしており、城ヶ島公園などからはすごく目につく。調べてみると、三浦市最高峰で神奈川県で最も低い山だという。岩堂山 | 畑に囲まれた三浦市最高峰で神奈川県で最も低い山 (miurahantou.jp)その岩堂山に行ってみた。最高地点のある方の山は道路の脇が切通しのようになっているが、もう一つの峰はその横の丘と言う感じである。想像していたのは一つの山の真ん中に道路が貫通しているようなものだったがさすがにそうではない。山頂日は立ち入り禁止であり、すこし登っていった先も畑ではたして踏んでよいものかどうか悩ましい(結局踏まなかった)のだが、そこからの展望は素晴らしく、さすが最高峰である。
2023年09月04日
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小湊花火大会を見に行った。わずか10分間の打ち上げ花火なのだが、対岸の漁港から上げる花火は海に反射し、ドーンという音の響きも心地よい。混雑というほどには人は集まっていなかったので、見物をしたこの場所自体、あまりしられていない穴場なのかもしれない。特等席の有料化は仕方ないにしても、こうして無料で見られる花火も夏の風物詩としていつまでも残ってほしいものだ。ただ、こうした花火大会の費用は商工会議所や企業からの協賛金や自治体の補助金で賄われているところが多く、費用の工面がむずかしくなっているところもあるという。これからは規模の小さな花火大会は消えるところが相次ぎ、人気のあるところは有料席設置で生き残っていくのかもしれない。そして後者の多くは、人の集まりやすい場所にあるので、「混雑を避けるため」有料席以外は目隠しとなり、どうしても無料で花火をみたい場合には展望できる高層ビルや高台からの遠見の花火となる…わいわいと人々が集まっていっせいに空をみあげた花火大会と言うのは過去の話になっていく。ただ、目隠しフェンスは本当に混雑による事故を避けるために必要最小限のものであるべきだろう。昔から花火大会は人が集まるものと決まっていたが、目隠しなどが聞いたこともない。有料席の価値を高めるための目隠しを「混雑による事故を防ぐため」という名目で設置するのはやめてほしいものだ。昨日は神宮外苑の花火大会があり、こちらの方も有料席が設置されたが、幸い目隠しはなかったようである。もっとも、人ごみと熱波をさけるために、こちらの方は、高層ビルから遠見の花火を見物した。
2023年08月13日
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子供の頃は30度をこえただけでも暑いと思い、40度の気温など外国にしかないと思っていたのだが、最近の猛暑はすさまじい。そしてこれが日本だけではなく、ヨーロッパも同様だというのだから驚くばかりである。温暖化がある閾値を超えて急速に進行しているのかもしれない。いずれは北の方への人口移動が起きていくのかもしれない。そういえばヨーロッパでも夏のバカンスは南欧をさけ、北欧や英国が人気だという。この間は、そんな東京の猛暑を避けて、山間部に行ってきた。行き先は大弛峠近くの夢の庭園。山の中にそこだけ花崗岩が露出したところがあり絶景を楽しめるとあって、木の階段や歩道設置により誰でも行けるようになっている。眼下は山ばかりなのだが、向かいの山の稜線かと思ったところが実は真っ白い厚い雲が上にかかっていただけだったりする。それもそのはずで大弛峠で既に2365メートルもあるのだから雲が目の高さにあっても不思議ではない。(山の中腹にこんな大きな岩が)ここでは猛暑など別世界…だが、いつまでもいるわけにはいかない。その後に立ち寄った乙女高原では、いろとりどりの花が咲いていたが、最近では鹿による食害が酷いということで、花畑のある一角は柵で囲まれていた。人間はもちろん柵の留め金をはずして散策することができる。ホタルブクロのように比較的あちこちで見ることのできる花もあるし、フウロソウも可憐な花だが特に高山植物というわけでもないようだ。それでもこれだけの花があるのは見事だ。一番目立つのはピンク色のシモツケ草でこれは高原による見られる花だという。それにしてもなんでこれがバラ科なのだろう。
2023年07月31日
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今は昔、清里ブームというのがあった。1980年代ごろにアンアンやノンノといった女性雑誌にとりあげられたこともあり、軽井沢同様におしゃれな避暑地として人気があり、タレントの店が評判になったりもしていた。それがこの頃では清里の名を聞くこともなくなったし、アンアンやノンノという雑誌も今でもあるのかどうかもよくわからない。この間、清里に行く機会があったが、さほど老朽化しているとも思えないお城のようなファンシーショップやレストランが軒並み廃墟となっており、不思議な光景であった。当時は大人気だったというアイククリームの店に行ってようやくブームの頃に若者だったと思われる年代中心に観光客がぱらぱらといたというくらいだろうか。こうしたものは人気が人気を呼び、さびれ始めると坂道をころがるように寂れていく。もともと歴史やそれに裏付けられたブランド力があるわけでもなく、温泉や周辺の名所があるわけでもない。清里という地名のイメージと雑誌などによる売込み戦略が功を奏した一時的なブームだったのかもしれない。ただ自然景観の豊かさは変わらないし、高原らしい夏の過ごしやすさもある。この近くの清里テラスはあまり歩かず1900メートルからの絶景を楽しめるのでお薦めである。廃墟となると異様な感じのする派手なショップやレストランがなくても、おちついた避暑地として、もっと人気がでてもよいのかもしれない。
2023年07月25日
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三浦半島は近い観光地として気楽に行けるのがありがたい。午後に出かけても十分に楽しめるし、東海岸、西海岸どちらを行っても海の景色が楽しめるし、しゃれた店も多いのでデートコースとしてもよいのではないか。そしてまた、行く旅にこんなところもあったのか…というスポットがある。この間、出かけた時に訪れたのは、湘南国際村の公園、ペリー来航記念館、立石公園であるが、いずれも無料である。湘南国際村はその名の示す通り、国際会議やイベントなどを念頭において建設された施設だという。東京から近い風光明媚な場所は、国際会議にはうってつけのようだが、実際には学生の合宿や企業の研修などにつかわれているようだ。コロナ禍の最初の頃には感染者の療養施設としても使用されていた。そのせいか、施設前の公園はちょっと雑草が目立ったが、それでも、高台からの展望はよく、散策するのにはちょうどよい。あいにく天気があまりよくなく、江の島がかすかに見えた程度だが、天気が良ければ富士山も見えることだろう。ペリー来航記念館はさほど広くもないが展示が充実している。建物はともかくとして、記念館のある公園自体は古くからあったもののようで、伊藤博文の揮毫のある日米友好の大きな碑が目を引く。年代を見ると、日英同盟の前で、当時の政治家は米国との関係の重要性を認識していたということだろう。この認識が続いていたら、その後の歴史も違っていただろう。立石公園は巨岩立石を眺める公園で、この立石は古くからの絶景として安藤広重の絵にも描かれているという。駐車場を降りると遊歩道があり、夕陽の絶景スポットとして、時刻によってはカメラをかまえた人たちが並ぶという。立石は高さ12メートル、周囲役30メートルの凝灰岩の巨岩であり、たしかに駐車場からはすっくと立っているように見えるのだが、遊歩道から眺めるとうずくまった後ろ姿のようにも見える。水面の辺りは波の浸食されており、こうした岩も長い年月の間には少しづつ姿を変えているのだろう。
2023年07月04日
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西伊豆に行ってきた。堂ヶ島から浮島海岸、そして沼津というコースであったが、コロナの五類変更の影響がツアー観光が復活しているという印象であった。ただコロナ以前はこうしたツアー観光の中心は免許を返納する年齢に達した高齢者が中心であったが、今ではずいぶん年齢が若返っているように思う。また、あるグループは韓国人ツアーのようで、こうした外国人のインバウンド需要も増えるのだろう。昼食に入ったところは、ちょうどそうしたツアー客にぶつかって大賑わいであったが、これも、コロナ厳戒態勢の下では閑古鳥が鳴いていたに違いなく、あらためてコロナの猛威が経済面でも多くの人々で影響をあたえていたことを思う。コロナは収束していないが、それでも、コロナは「あるもの」として、生活はもどりつつある。堂ヶ島は浸食によってできた海岸地形の美しいところで、何度も訪れているが、そこにあった加山雄三ミュージアムはいつの間にかトリックアート博物館になっている。中学生の頃は大人気で、それまで難しい学問をするところというイメージのあった大学を彼の映画の人気が変えたように思う。その後、逆境の時期があり、晩年は再び安定した人気を得ていたのだが…。浮島海岸は、細い道をは行った先で、地味な海岸なのだが、火山頸という火山のなごりの岩があり、その岩が見事な柱状節理をみせている。太古はこの岩が一つ一つの火山として噴火をしていたわけである。遠くには波勝先の特徴のある三角形がみえる。沼津に向かう海外沿いの道には碧の丘とか出会いの丘とか様々な名称のついた見晴らし台があり、夕陽を眺めることができるようになっている。残念ながら西の方には厚い雲が広がり夕陽が期待できなかったら、天気のよい日にはいくつも三脚カメラをもった人が並ぶのではないか。
2023年05月21日
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隅田川に花見に行った。コロナで海外旅行が制限されていた時期はそうでもなかったのだが、ここの特色は国際性ではないか。とにかく外国人が多い。そして最近では中韓以外のアジア人が増えているように思う。日本人とは微妙に違う顔立ちで聞きなれない言語をしゃべる人たちなのだが、東南アジアの国も近年では経済発展が著しく海外観光をするような人々も増えているのだろう。一頃多く見かけたレンタルの浴衣は減り、あまりみかけなくなったかわりに、そのかわり人力車は増えたように思う。クルマを引いているのは若く元気そうな人たちで女性もけっこういる。外国人観光客と英語で交渉している人もいるので、英会話力を身につけるのにはよいかもしれない。明治時代の英語には書生英語と車夫英語があったというが、そのうち車夫英語なんていう言葉も復活するのかも…。満開になったのはちょうど一週間前。その後は雨が続いたのだが、寒い日が多かったせいか、まだまだ花吹雪とはならず、見ごろが続いているのはうれしい。隅田川の花見の良いところは遠見のさくらと近くの桜と両方が楽しめるところだ。そして歩いてみると隅田川の歌碑があり、下町低地唯一の山である待乳山ありと見どころも多く、浅草寺という一大名刹やその参道もあるので、まる一日いてもあきることがない。押上で降り、スカイツリーをみながら桜橋通りを行き、桜橋を散策しながら台東区側に渡り、花をみながら浅草方面に行って最後は浅草寺…というのがなかなかよかった。
2023年03月30日
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今年の桜は開花が早いだけではなく、桜前線のスピードも速いように思う。例年なら東京で桜が終わった後で、郊外にいけばまだまだ見ごろということがよくあったのであるが、東京の桜が散り始めた頃、熊谷や太田に行ったらやはりそこでも満開から散り始めという状況であった。木曜からの雨模様…せっかくの桜なのにふきとばした経済効果はどのくらいなのだろう。郊外に花を探しにでかけてみたが、雨の中の桜もまた良い。柴山沼、熊谷桜堤とでかけたが、いずれもみごとな桜なのに人は少ない。花散らしとも花くたしともいう雨であるが、同時に葉おこしの雨でもあり、まもなくどっと葉がでてくることだろう。見事な桜の咲いているところで車を止めながら、さらに群馬県方面まで行き、前から気になっていた世良田東照宮に行ってきた。寺社には見事な桜のあることが多いがここにも桜の樹があり、それなりに賑わっていた。なぜ、ここに東照宮があるのかとも思うのだが、このあたりは新田荘のあったところで、徳川家康が新田義貞の子孫を称していたことに由来する。家光の時代に創建された寺社で歴史が古く、東照宮に幣帛を奉納する勅使もきっとここに立ち寄ったことだろう。さほど大きな神社でもないが、徳川町という地名が残っており、徳川氏が新田氏の子孫であるということは江戸時代には当然のように信じられていたのだろう。もっとも、この新田氏の子孫の徳阿弥という僧侶が三河に行き、還俗して松平の養子になったといわれており、三河の松平氏が新田氏の子孫というわけではない。帰路、次第に夕闇が濃くなる中にも、あちこちに見事な桜が雨の中、ぼおっと白く咲いているのが見え、あまり人に見られることもなく散っていく花が非常に惜しいように思えてならなかった。
2023年03月26日
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昨日の開花状況はまだまだという様子であったのだが、今日の暖かさでいっきに開花がすすみ、今日は満開宣言である。東京の名所はいろいろ迷ったのだが、神田川に行ってきた。川にかかる桜は華やかでやはりよい。ただ、満開を迎えたばかりのはずなのに、風が吹くたびにわずかではあるか花びらが散り、せっかく咲いたのにもう散り急ぐのかと惜しい気がする。明日からは雨とのことだが、なんとか持ちこたえてほしいものだ。それにしても、咲く前はいつ開花するのかと気になり、開花宣言があれば満開はいつになるかと気になり、満開になれば雨や風の予報に心配になる…というように、桜は古歌にいうように春の心をのどかにしない花だ。それでもやはり世の中に桜があった方がよいのだが、いったい桜は何がそんなに特別なのだろうか。桜は、もともと枝を広げた樹形なのだが、それが大木となると、満開になったとき、花が視界を覆うようになる。その下に立つとなにか異界にいるような気になるし、花吹雪になるとさらに幻想的だ。梅や桃の花もよいが、桜ほどの大木にならないため、こうはならない。また、その花全体は非常に華やかなのだが、淡い色は非常に清らかで上品だ。これがもっと濃く派手な色合いの花だったらこれほどの人気はでなかったのではないか。さらに花吹雪、花筏と散る様子が美しいのは桜だけのように思う。紫陽花や薔薇も人気があるのだが、萎れた後も茎についているのは興ざめだし、椿のようにぼとりと落ちるのもゴミみたいで風情がない。そんなわけで神田川の桜を、やっぱり桜はよいなどと思って楽しんだのであるが、同じような感じで紅葉も楽しめたらどんなによいかと考えた。最近のバイオ技術の発達は著しいのだが、花は桜で葉は楓というものは不可能なのだろうか。
2023年03月23日
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ちょっと前であるが「不思議な岬の物語」という映画があり、話題になったことがあった。その岬のモデルになったと言われる鋸南町明鐘岬に行ってきた。釣り人には穴場人気があるようであるが、そのほかには観光化もされておらず、こうした場所によくある映画について言及した掲示等もない。それも不思議?な気がする。上総と安房を分ける鋸山だが、その麓の岩山が海にせりだしたところにある岬が明鐘岬だ。小さな岬で、想像したように岬を見下ろすようにカフェがあるわけではない。あるのは駐車場だけであるが、足元がすぐに海になっており、夕陽の景色が素晴らしい。後ろを振り返ると、すぐそこまでせまっている岩山が夕陽を浴びている。遠くに伊豆半島や富士山が見え、近くの三浦半島で緑色の点滅を始めた光は劒崎の灯台だろうか。陽が沈んだ後、わずかばかり空に浮かんでいた雲が最初は金色、次には茜色に染まり、そして夕闇に溶けていく。※※ニュースを見ていたら連続強盗の関連の容疑者が逮捕されたという報道があった。しかし…19歳少年ってなんだそれ?成人年齢が18歳になったと騒いでいたのに、なんで19歳の少年なんてのがいるのだろうか。
2023年02月24日
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真鶴半島に初めて行ったのは小学校4年の遠足の時である。それ以来何度も真鶴を訪れており、立春の昨日も真鶴半島に行ってきた。岬先端の駐車場は有料となったのでその手前の無料のところに車を止め、歩くことにした。しばらく歩くと、番場浦と書いた表示があり、緩い下り坂が続いている。初めて行く道には発見があり…ということで、岬ではなく、こちらに向かうことにした。広い坂道の後には海へと続く階段があるが、よく整備されている。そして海に出ると、細いが歩きやすいコンクリートの遊歩道が続いている。後でネットで見てみると潮騒の遊歩道というらしい。石がごろごろと転がっているいかにも歩きにくそうな浜なので、この遊歩道はありがたい。今だったら自然破壊とか言われそうであるが…。それにしても転がっている石はけっこう多様だ。比較的赤っぽい色が目立つようだが、白っぽいものや黒っぽいものもある。真鶴半島は箱根火山の噴火によって形成された安山岩質の岩でできているというが、ごろ石の多様さは噴火が何度も何度もくりかえされ、その都度性質の違う溶岩が噴出したのだろうか。また、ところどころにある大きな岩の中には節理のような縞があるものもあり、この半島が火山噴火によるもの故であるのだろう(誰か詳しい人はいないかなあ)。厳冬のような寒さはなく、光を散らしたような遠くの海面は、これから春に向かう季節を実感させる。何度も真鶴にきているのに、こんなところがあるのは知らなかった。そしてその遊歩道を歩いて行くと名勝三ツ石が見えてくる。この方向からは岩は二つにしか見えないが、海に突き出した岩は神秘的で、人々はこうしたものにも、なにか人間を超えた自然の力を感じたのだろう。岩にはしめ縄があり、夫婦岩同様に初日の出の名所にもなっている。三ツ石も干潮のときには行けるというが、それはあきらめて遊歩道のつきるところまで進み、ごろ石をしばらく歩くとケープ真鶴に上る階段があり、そこを上りきると何度も行ったこともある広場に出る。ところで、この途中には展望を売りにしている喫茶店があるのだが、ここの店主もいつのまにか高齢化しているのだろうか。入り口に貼りだしてある自作と思しき自虐的な高齢ネタ川柳が笑える。日帰りの旅だが、旅にはいつも発見があり、驚きがある。だから楽しいし、こうした楽しみがあるだけでも、普通に歩けることに感謝する。
2023年02月05日
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なにもないところはない…という言葉がある。そこの住民にとっては見慣れたものでも、旅行者から見れば珍しい光景だったりもする。ただそれに気づいていないだけだ。埼玉県の芦ヶ久保にある氷柱を見に行ったが、これなども少し前だったら観光資源になるなんてあまり思わなかったのではないか。それがいまでは噴水をかけて氷柱を育て、夜にはライトアップまでしている。こうした光景がいやになるほどみられる北国では珍しくないが、大都市圏から日帰りで来ることができるところにあるので、多くの人がやってくる。この氷柱ゾーンは駅から直結している上、電車からも見ることができる。車窓から見て、心惹かれてやってくる人もいることだろう。
2023年01月31日
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小学校の林間学校で日光にいったときのことだった。景勝地を見学したのだが、竜頭の滝に案内されたとき、「はて、滝なんてどこにあるの」とひどく疑問に思った。華厳の滝はこれぞ滝という感じで印象深かっただけになおさら竜頭の滝が見えなかったのが不思議であった。竜頭の滝は垂直に落ちるものではなく、急傾斜を流れるものであり、だから当時はそれを「滝」だとわからなかったのである。滝と急流というのはどのくらいの角度を境としているのだろうか…まあ、そのあたりは古くから人々が滝と呼んでいれば滝であろうし、そうでなければ違うというだけのことなのかもしれない。紅葉のみごろを迎えた房総半島の粟又の滝に行ってきた。これも、急流のようにもみえるが、勢いよく水の落ちるさまはまぎれもなく滝と言ってよいだろう。養老渓谷は堆積岩の地形で、奇岩などはないのだが、柔らかい砂岩や凝灰岩が浸食され、硬い泥岩が残った地形(ケスタ地形)が観測できる。そして粟又の滝自体も砂岩の浸食でできたものだという。奇岩の渓谷もよいが、こうした柔らかい雰囲気の渓谷に、赤、黄色、それに緑と様々な色の混じった紅葉も良い。そしてよくみると楓の樹にも個性があり、すでに色鮮やかな紅になっているものもあれば、緑のものや、緑に黄色や赤が混じった錦のようなものもある。銀杏にくらべると楓の紅葉のメカニズムは不明な点が多いというが、楓は紅葉だけでなく、葉の形の美しさ自体も称賛され、青紅葉といって春や夏の姿を愛でることもある。錦秋ともいわれる紅葉は地球のどこにもあるわけではなく、常緑樹や針葉樹ばかりのところではみられない。こうした秋の風情は春の桜と並んで自然の大きな恵みのように思う。
2022年12月04日
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河口湖畔のホテルに泊まる機会があった。連休の二日目ということで、どこのホテルにも多くの車が駐車してあり、国内観光はかなり復活しているようだ。このあたりは富士山観光であり、コロナ禍で外国人が来ないときには、かなり苦しかったと思うのだが、休業しているホテルはみるかぎりではない。宿泊客がなんとなく若返っており、老人の団体客がないことと、大型観光バスがないことがコロナ前と違うと言えば違うところか。ホテルの食事は朝夕ともにバイキングであったので、夕の方は遠慮して、スーパーで弁当類を買う。なにしろ高血糖で食事制限中なので、バイキングなど恐怖すら感じる。野菜の煮物も砂糖がきになるので、葉物と寿司を半分ほどで、残りは相棒に引き受けてもらう。大浴場は大というほど広くもない浴槽があるだけなのだが、河口湖温泉ということで圧迫骨折にも効果がありそうで、ありがたく入る。窓の外に河口湖が見えるのがうれしい。結局、温泉には夜に二回、朝に二回と計四回入った。河口湖にはボートもあるのだが、このあたりでは釣りをする人が多いようだ。そういえば、コロナ禍で密を避けた娯楽として釣りが人気なのだという。行ったことがないということで富士急ハイランドに行ってみる。イベントは高めなのだが入場だけは無料だ。乗り物には見るだけでも心臓に悪いようなスリルと絶叫を売り物にしたものがいくつかあり、それがまた大人気のようである。それが苦手な人は乗り物券のつづりを買っても乗るものがなくて困るかもしれない。一方で、幼児向けの豆電車は休止しているところもいくつかあり、主力は絶叫スリル系のようである。入場無料で入っても、やはり一つくらいは…ということで観覧車に乗ったが、こういうくらいがちょうどよい。中学生の時、友人数人と遊園地に行き、ジェットコースターに乗ったことがあったが、もう二度と乗りたいとは思わない。友人同士、あるいはカップルできて、やむなく絶叫スリル系に乗る羽目になった人もいるのかもしれない。
2022年09月26日
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北海道の真ん中に瘤のように突き出している半島が積丹半島だ。この積丹半島にバスツアーで行ってきた。千歳空港を降りるとそのままバスに乗り、最初の目的地である小樽海岸海中公園に向かう。船に乗って奇岩を眺め、青の洞窟といわれる天然の海中洞窟を眺めるわけである。この青の洞窟という場所は本家のイタリア以外にも日本のあちこちにあるようで、海中洞窟に入ると光の加減で海や壁面が青く見えるというものである。幸い海は穏やかそうなので安心したのもつかの間、乗ってみると小さなモーターボートは揺れること揺れること。ちょっとした遊園地の乗り物のようで必死に座席の手すりにつかまる。こういうときは揺れに逆らわないのが船酔いを防ぐコツだと聞いている。海中の洞窟というのでなんとなく海食洞のようなものを想像していたのだが、実際に見るとまるで違う。海食洞は岩が波に浸食されてできたものなのだが、これは海岸の岩が断層で動き、それによりできたもので、はるかに荒々しい大地の動きを示す地形だ。岩肌をぶち抜くいくつもの断層だけでなく、塔のような奇岩を目につく。おそらくこれは火山頸というもので、溶岩を噴き上げていた火山が真ん中の固いマグマ部分だけを残して山体だったところが風化したもので、いわば火山のなれの果てである。断層や火山頸、そしてその断層が作った奇岩に圧倒されてようやく洞窟についたときにはお腹一杯なのだが、そろそろと洞窟の中に入ると、海の色を反射して壁が青に見えないこともない。こうした断層でぶつ切りにされたような岩の光景は地質学者が見ると非常に感動するのだというが、さもありなんである。また、海岸から洞窟に向かう途中には往年の名画「喜びも悲しみも幾年月」のロケに使われたという灯台がある。今では使われていないというのだが、あれがおいら岬の灯台守は~の歌で有名な「オイラ岬」?というわけである。途中にはこんな写真のような奇岩もあり、つりかけ岩といわれている。
2022年06月19日
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北海道旅行については思い出すままにいろいろと書いてみる。積丹半島を中心にしてまわったのだが、一番印象に残ったのはなんといっても神威岬だ。この岬の先端に続く道はチャレンカの小道と呼ばれており、これは、その昔、チャレンカというアイヌ娘が義経を慕って歩いた道だというのだが、いくらなんでも嘘っぽい。おそらく観光よせのために造った話だろう。平家物語では義経は特に美化されておらず、悲運の英雄となったのは義経記ができてからであり、さらにその義経が北海道に渡りチンギスハンになったという話ができたのは明治以降だ。それはともかくとして、この道は小道というものの岩の背に沿って歩く道で、はるか先に見える神威岬の灯台をめざしてひたすら歩く。ただ、今の季節、暑くも寒くもなく、風が気持ちよい。両側は海で見晴らしがよく、ちょうど見ごろを迎えた百合の一種の蝦夷カンゾウが緑の草原にオレンジの星を散らしたように咲いている。そして蝦夷カンゾウのように群生はしていないが、ハマナスもまた見ごろでこちらは小道の傍らに赤紫の花を咲かせている。歩いて歩いてようやく灯台についた時にはなんともいえない満足感があるのだが、さらにその先、海の中にはチャレンカの化身と言われる岩が眼前に見える。海面から蝋燭のように屹立する岩の中には、噴出したマグマが周囲の山体が風化した後に残った火山頸があるのだが、このチャレンカの岩はそうした火山のなれの果てとも違うようにみえる。なんでこんな岩がぽつんとあるのか不思議な気もする。こんなふうに、ただ一つだけ波の中に立っている岩の姿は、たしかに乙女の悲恋伝説がよく似合う。
2022年06月13日
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NHKの朝のテレビ小説の影響があり「イヨマンテの夜」という曲が脚光をあびている。この曲は歌うのには大変な難曲であり、そのせいか「のど自慢」でこれを歌うと鐘が鳴る確率が非常に高いようである。熊祭りをテーマにした異国的で勇壮な曲調の歌で名曲であることには違いない。ただ実際の熊祭りは熊の魂を冥界に送るための厳粛な行事であり、昼に行われるものでかがり火はたかず、ましてやそこで男女の出会いなどはあるわけもない。そのあたり、葬儀の場で逢引きをしないのと同様である。この歌詞は熊祭りを題にしながら、男女の重要な交歓の場であったという古代の歌垣を歌ったもののようにみえる。ついでに異国的な曲調も実際のアイヌに伝わる音楽とはなんの関係もなさそうである。「イヨマンテの夜」が発表されたのは昭和24年。大昔ではもちろんないのだが、同じ日本に住む異民族の文化にこれほど関心がなかったのは不思議な気もする。なんとなくエキゾチック…というイメージで満足して、実際の熊祭りがどのようなものかはどうでもよかったのだろう。同じようにアイヌといえば、木彫りというイメージがあり、実際にある時期までの北海道土産は鮭をくわえた熊の木彫りが定番であった。ただこれも検索すると、木彫りの熊の土産は開拓民が始めたものだという。国立博物館「ウポポイ」に行く機会があったが、文化としての展示の少なさに正直驚いた。漆や鉄器も展示されていたのだが、これも和人との交易によって入手した漆器や鉄器なので厳密な意味での文化とはいえないだろう。展示物についてはおそらく様々な議論がでたのだろうが、厳密な意味でのアイヌ文化に絞っていくと展示物がほとんどなかったというのが実際だったのではないか。もちろん木彫りの熊の展示もない。アイヌ語は死語になり、両親ともにアイヌという人もいまではほとんどいないという。もし、こうした博物館の建設があと数十年早ければもっと豊かな展示ができたと思うと残念である。民族舞踊の実演もあり、「鶴の踊り」など見事なものであったが、一方で創作芸術舞踊という趣もあり、こうしたものが本当に相当期間伝承されてきたものかというとどうもよくわからない。別棟で紹介されていた遊びや楽器などと同様に、こういうものっていったいどのくらい古いものなのだろうか。遊びなどすぐに思いつきそうなものであるだけになおさらである。文字も統一国家ももたなかったアイヌ文化では、いつの時代からというのも難しいのかもしれないが、江戸時代以前の文献で確認できないのだろうか。また、アイヌは北海道だけではなく、千島や樺太にもおり、ロシアにはまだ生きているアイヌ文化があるのかもしれないが、そのあたりにも展示ではふれていない。
2022年06月12日
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スカイツリーは今年で10年目ということなのだが、実は今まで一度もスカイツリーに上ったことはなかった。下から見たことは建設中の時も含めてなんどもあるのだが。そんなわけでこの間、思い切ってスカイツリーに行ってきた。展望券はとにかく高いのだが、最初の数年は開業当初の騒ぎが収まれた値下がりするのかもと思っていたし、その後はそのうちネット上で安い券が売りに出されるかもしれないと期待していたのだが、そろそろ諦め時と思うことにした。晴れてはいたものの、冬場のように空気が澄んでいるというわけにはいかず、富士山は雲の中、筑波山もうっすらとしか見えなかった。ただ、東京を眼下にみる景色はさすがですぐ下を様々な形状の橋を擁した隅田川が見え、その向こうに、後楽園球場、はるか遠くに新宿副都心の高層ビル群が見える。東京の地形は武蔵野台地と下町低地に分かれるというが、上から見る限りでは土地の起伏はよくわからない。葛西臨海公園の観覧車、代々木のNTTビル、東京タワーなどの目立つ建造物を探して位置関係の検討を付けてみるのだが、これだけ高いところから見下ろすと、川をたどるのが一番わかりやすい。隅田川は荒川から別れ、その隅田川からは小名木川という小さな運河がでていることが地図ではなく、自分の目でわかるのがすごい。都市の形という意味で大きな境となっているのは荒川で、荒川の西にはこれほど高層の建物があるのに、荒川を超えると戸建て住宅がびっしりと連なっている。あのあたりに行くといつも「空がやけに広い」と実感するのだが、たしかにむべなるかなという感じだ。それにしても、これほど高い建物の多い東京で展望を楽しめるところは限られている。スカイツリーはもちろん、東京タワーや六本木ヒルズも展望階に行くにはよい値段をとる。無料のところというと文教区役所シビックタワー、住友三角ビル、恵比寿ガーデンプレイス、カレッタ汐留といったところだろうか。そのほか、明治大学のリバティタワーも無料で東京都心の景色を展望できたのだが、あそこは今でも開放しているのだろうか。子供の頃、高層ビルからの展望は今よりもずっと珍しく、親戚が上京してくるとよく住友三角ビルに行き、皆であの展望を楽しんだのが懐かしい想い出である。
2022年06月04日
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この間はちょっと遠出をして那須まで日帰りドライブ旅行に行ってきた。これがお目当てというわけでもなかったのだが、殺生石が割れたというニュースも気になる。これは九尾の狐が石に変じたというもので、割れる前には園地の奥の方にしめ縄をしめてあった。特に変わった形の石ではないので、なぜ、その石が殺生石となったのか、本当のところはよくわからない。園地の入り口近くには盲目の蛇が変じたという盲蛇石というのもあり、こちらも解説では蛇の頭のような形をしているとあるのだが、いくらみても蛇の頭には見えない。もっとも石も長い時間をかければ風化するし形も変わる。伝説が生まれた頃には、やはりなんらかの特徴があったのかもしれない。硫黄の噴出する場であるため、荒涼とした石のつらなる地形で賽の河原を思わせる上、時には強い硫化水素が噴出して人や動物に被害を与えることもあったので、殺生という語もうまれたのだろう。ここらの石は火山性のものだというが、それにしては急速に冷えて空気が抜けた時の孔もみられず、想像するような溶岩というのともちょっと違う。問題の殺生石であるが、真っ二つに割れていて、大きな口を思わせる断面がこちらを向いているのですぐにわかる。ちぎれたしめ縄はそのままになっていて、かなり風化しているようにもみえる。割れているのが発見されたのは3月の初旬だというのだが、その後25日には、九尾の狐那須殺生石慰霊祭並びに平和祈願祭りも行われたという。孫悟空が石から生まれたというのは有名なのだが、あの割れた殺生石をみていると、ちょうど、割れた面が滑らかに窪んでいて、何かが生まれたという想像もしてみたくなる。最初は石を修復するという話もあったらしいのだが、なんとなく人間が手を加えるのも恐れ多いし、それで何か起きたら、やはり祟りとかいうことになるのだろう。石が割れるのも大きな自然の流れだし、このままの方がよい。ことさら迷信深い方ではないのだが、これが悪い前兆でなく、できればよいことの前兆であってほしい。(なお、コロナ禍が始まってからだと思うのだが、那須では観光案内所などに「おもて那須手形」という冊子(千円)を販売しており、観光案内とクーポンや無料入浴券もかねている。無料入浴券だけでも一年の期間内に二回いけば十分得するのでおすすめである。)
2022年05月25日
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この間、わたらせ渓谷鉄道の間藤駅に行ってきた。鉄道マニアの間では教祖的存在であったという宮脇俊三氏が国鉄前線完乗の最後に選んだ駅ということで、この駅を完乗の最終駅にするマニアは多いという。完乗…というのは鉄道マニア(特に乗り鉄)にとっては目標だというが、完乗したといってなにか記念品がでるわけでもないし、証拠が残るわけでもない。もちろん、マニアの中には駅名と自分が写った写真を撮っていたり、切符を保存している人もいて、全線完全乗車の証明と言えば証明になるのだろうけど、そうしたものは本人以外が興味を持つとも思えない。それにそもそもであるが、他の趣味に比べると、完乗というのは、傍から見ているとただ電車に乗っているというだけで、なんの技量も能力も必要だとも思えない。そのあたり、撮り鉄の写真や模型鉄の模型とはちょっと違う。まあ、ただ電車に乗っているだけじゃん…というのは鉄道マニア以外がそう思うだけで、完乗が鉄にとっての目標で、それは誰にも迷惑をかけない目標であることには間違いない。訪れたのは東京の桜が終わり、桜前線が北関東に移った頃で、間藤駅の前の桜もちょうど見ごろであった。第三セクターのわたらせ渓谷鉄道はになってからは、駅舎も童話を思わせるようなものに変わり、桜もその頃に植えたものなのかもしれないが、駅前の見晴らし台から桜と駅舎をみていたら、髪の真っ白い紳士がでてきて、駅舎の中や駅前の説明表示板を熱心にみている。この人ももしかして鉄道マニアで、国鉄、場合によっては私鉄も含めた全線の完乗の最終駅としてここにやってきたのかもしれない。定年を迎えて、若い頃の鉄道趣味が復活し、まだ乗っていない区間の完乗をめざしていたのだろうか。鉄にもいろいろあるのだが、定年を機に鉄道趣味が再燃したという鉄は「戻り鉄」とでもいうのだろうか。鉄にかぎらず、定年などを迎えて若い頃の趣味が再燃する場合は多い。高齢化社会を迎えて、こうしたリバイバル趣味市場というのもけっこう大きいように思う。
2022年04月24日
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桜も名残惜しいのだが、甲府盆地では桃の花がさかりとなっている。笛吹市に行ってきたのだが、展望台から眺めると、それこど、目の前のあちこちにある桃畑がピンク色一色に染まっているのが見渡せる。春の一日、目の前に広がる桃花原…明治期の文人ならこんな光景をみて漢詩を吟ずるかもしれない。お目当ては釈迦堂遺跡博物館の前に無料開放されている花桃畑で敷地は比較的狭いのだが、その中に色とりどりの花桃がぎっしりと植えてあり、桃源郷を目の当たりにする光景になっている。最近では観賞用に同じ木の中に白桃赤と様々な色の花が咲く品種もでてきており、桃一色とは別の華やかさがある。春の野を行く青年の感傷を歌った八校寮歌「伊吹おろし」の中にソロモンの栄耀も野の白百合に如かずという聖書の文言をひいた箇所があったが、これほどの美しいものを作る自然の造形には感嘆せざるをえない。桃畑を後にして、なお、しばらくいくと今度は葡萄畑が続いている。葡萄の木はまだ葉がでていなかったのだが、畑のあちこちに水を噴出する機械がおいてあり、勢いよく木に水を吹きかけていた。昔はこうした水やりの作業も一仕事であったのだろう。桃も葡萄も野の白百合ではなく、世話する人の手があるからこそ、花も実も生まれてくる。
2022年04月10日
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今年の東京の桜は寒い日が続いているせいか少し長持ちしているようにみえる。隅田川に花見に行ってきたが、露店や宴会はなかったものの、結構にぎわっていた。コロナの収束はみえないのだが、花は咲くのは一年に一度で人生は有限だ。次第に人はコロナと折り合いをつけて生活する術を身に着けてきたのかもしれない。感染状況は数字だけ見れば去年やおととしよりも深刻なのだが、ステイホームだの我慢だのという言葉もあまり聞かなくなっている。押上駅で降りてその名も桜橋通りという道にでて、しばらく歩くと桜橋につく。この橋は隅田川にかかる橋のうちで歩行者散策用に設けられた唯一の橋で中ほどには休憩用のベンチもあり、川の景色をゆっくりと楽しめるようになっている。遠景として両岸の桜を眺めた後は対岸の台東区側に分かって花の下を歩いてみる。桜越しに河に目をやればスカイツリーが見える。そして伊勢物語ゆかりの言問橋をすぎると、着物を着て記念写真を撮っている人もちらほらと見えてくる。そういえば少し歩くと浅草だ。主に外国人向けに着物を貸し出す店があって、そうした店がインバウンド減少で打撃をうけているという記事を読んだことがあるのだが、花見の時期にはやはり桜の下で着物写真を撮りたい人もいるのだろう。中国語の人もいれば、金髪女性もいたのだが、けっこう日本人でもこの機会に着物写真を撮っている人もいた。基本、人間はそう違うものではないので、外国人観光客がやりたいことは日本人にだってやりたい人がいるということだろう。浅草橋のあたりまでくると、花見の時期という特殊性もあるのだが、浅草もずいぶんと賑わいをとりもどしてきている。おととしの連休の頃のシャッターを閉めた通りの様子とは大変な変わりようだ。感染予防は必要だが、閉門蟄居では人生も時間ももったいない。桜が咲けば桜を楽しみ、青葉の頃には青葉を楽しみ…そうやってウィズコロナの時期を生きていきたいものである。
2022年04月03日
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東京のソメイヨシノは今日満開となったようだが、満開の時期は桜の品種によって違う。この間、ちょっと郊外の、ちょっと有名な桜をみるために出かけて行った。まず桶川市の普門寺。解説によれば、慈覚大師が当地巡錫の際に飢餓に苦しむ人々を助けたことを後世に残すため、食物を給した小屋の跡に一寺を建立したというのが普門寺の由来であるという。ただし、現在では、堂宇はなく、墓地と小さな建物があるだけであった。堂宇はなくなったが、そのかわり、今ではここのしだれ桜が有名になっている。かなり咲きすすんでいたようにみえたが、満開はまだのようで、そのせいで人出はほとんどなく、竹林を背景にした姿には風情があった。慈覚大師は9世紀初めに活躍した高僧であるが、東北まで布教の旅を続けたとあるので、このあたりに来たこともあったのかもしれない。しだれ桜は樹齢180年とあるので、慈覚大師よりはずっと後であるが大師の徳を偲ぶために誰かが植えたのかもしれない。その後、さらに北に行き、鉢形城址のエドヒガン桜を見に行った。鉢形城は後北条氏の城で戦国の山城であり、寄居の街を一望できる。戦国のドラマや小説では脇役のように描かれることの多い後北条氏であるが、関東平野のこれだけの部分を勢力下においていたのであれば、十分に天下を狙えた立場であったのかもしれない。栃木県の大平山には謙信平という場所があり、ここは北条氏康が上杉謙信と和議を結んだ際、ここから一望できる関東平野は自分の勢力範囲であることを述べると上杉謙信はその広さに驚嘆したという話が残っている。鉢形城址も残っているのは石垣と井戸や建物跡だけなのであるが、あちこちにエドヒガン桜の名木があり、中でも城主の名にちなんだ氏邦桜というのが有名なのだという。城跡の中に姿の良い桜の大木があり、写生をしている人もいたので、これが氏邦桜だと思ったのだが、後で確認するとどうも違うようでもある。東京のソメイヨシノが終わったら、再び関東平野を北上して名残りの桜を探してみたい。
2022年03月27日
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日本三景といえば松島、宮島、天橋立をいうのだそうだ。いずれも交通便利なところにあり、昔から旅人の生きやすいところが選ばれているのだろう。今では山間にまで道路ができ、交通手段も発達しているので日本三景をしのぐ絶景はいくらでもあるのだろう。その日本三景であるが松島と宮島は行ったことがあるが天橋立はまだ行ったことがない。どうも日本海側のあのあたりというのは関東からだと、なかなか行く機会のない場所なのかもしれない。その代わりといってはなんだが、天橋立のような砂州の地形は東京の近くにもある。千葉県の富津岬である。東京湾に細長く伸びる岬で、その先端には明治百年記念で建てられたという展望団がある。五葉の松を象った形ということで、いくつもの円形の展望台が松の木のような形に連なっているので、すこし階段を上がると展望、さらにもう少し上がると次の展望となっているので、苦行のように階段を上らなくてもすむ。ちょうど海が西に開けているので、夕方になると夕陽をみるために多くの人が集まってくる。天気が良ければ、富士山もよくみえる。そして日が沈むころには、向かいの観音崎の灯台が点滅をはじめる。この富津岬と観音崎を結ぶ線が狭義の東京湾で、世界でも有数の過密航路である。
2022年01月12日
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1月も2日になれば帰省ラッシュの渋滞が始まる。そこで近い景勝地である三浦半島に行ってきた。まず横須賀の平和中央公園に行く。ここは横須賀の街と海をみおろすことのできる風光明媚な場所で2021年4月にリニューアルされたばかりで、散策するに楽しい。そしてコンセプトは平和…ということで、中央には平和のモニュメントがある。各国語で平和を意味する語が刻まれた柱があり、その上の屋根には無数の穴があって、そこを通った陽光が自然と光の粒を地面に散りばめるようになっていて幻想的だ。この公園は夜景でも有名だというのだが、昼間に行くのもお薦めである。次に行ってきたのは黒崎の鼻。これは三浦半島南部の小さな岬なのだが、全く観光化されておらず、畑の中の道から入り、藪をこぐようにして歩くと忽然と目の前に海が現れる。人工物が見当たらないので龍馬伝などのロケ地にもよく使われるという。以前行ったときは人が全くいなかったのだが、昨日言った時には最近のキャンプブーム、釣りブームを反映してか、釣り人やテントもみかけた。それでも人工物がないことにはかわらず、草の向こうがいきなり絶壁になっているので、歩く際には注意が必要だ。ただ東京からそれほど遠くない場所にこんな光景のところがあるなんて不思議な気がする。それて最後は城ヶ島公園。小学校の遠足に始まり、何度となく来ているのだが、何度来てもよい。ずっと昔、友人と城ヶ島を一周したことがあり、この公園にももちろん言ったのだが、はて、その友人は今はどうしているのだろうか。年賀状でもあたりさわりのないことしか互いに書かなくなったのだが、幸せにしているといいな…。この公園は昔も今も変わらないように思うが、最近、安房埼灯台が公園の中に移り、そのデザインも公募による斬新なものになった。最初見た時にはちょっと違和感があったが、見慣れてくると、これはこれでよい。今年がこの新春の海のように穏やかで光にみちたものだとよいのだが。このころには、すっかり陽も傾いて、海の上には柱のように光の粉がまき散らされて揺れている。夕陽は、廃業したホテルの傍の海岸で見ることにした。ここからは富士山もよくみえる。五月の連休の頃にはダイヤモンド富士がみられるのだが、この時期の夕陽は天城山のあたりに沈んでいく。夕陽が隠れた後、今まで気づかなかったような小さな雲が金色に輝きだし、シルエットでしかなかった富士山の山肌の雪の白が見え始めた。
2022年01月03日
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西伊豆町に黄金崎という岬があり、行ってきた。伊豆半島は火山性の地形が非常に多いのだが、この黄金崎の黄褐色の岩も火山の熱変成作用を経てできたものだという。そしてこの岩に夕陽があたると黄金のように輝いて見えるので黄金崎というのだろう。このあたり一帯が公園になっていて、遊歩道もあるのだが、ひときわ有名なのが馬ロックという岩である。下に海蝕洞窟があり、それがちょうど馬の首と顔の境になって、岩全体が海水に顔をつっこんで水を飲んでいる馬のように見える。馬ロックという名称はいかにも新しい。そして三島由紀夫の文学碑があるのだが、そこにも黄金崎について一枚一枚の岩が黄金の板のようにみえる情景についての描写があるのだが、馬ロックの記述はない。どうも昔(昭和初期くらい)は馬の形には見えていなかったのだが、いつの頃からか、馬そっくりだと言われるようになり、今ではパワースポットとして展望台に競馬的中祈願の絵馬までがかかっている。こうして姿を変えつつある岩というのは、これからもその姿を変えていく。波の浸食は24時間、365日休むことなく続く。永遠に水を飲み続けているようにみえる馬も、そんなに遠くない将来(地質の時間では一瞬)に浸食により首に部分だけが独立した岩として水面に立ち、やがてそれも海中に没していくのだろう。この黄金崎からは富士山もよく見え、特に冬型の晴天となった昨日は、雪をかぶった赤石山脈の山も見えた。遠く御前崎の沖に夕陽が沈んでいった後には、大きな積雲がみるみる茜色と灰色に染まり、やがて濃い灰色一色となって、夕暮れの空に溶けていった。
2021年11月28日
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大平山を出た後、さらに蓬莱山に立ち寄った。ここも紅葉の名所であり、大平山よりもむしろ最盛期にみえた。そして次に高津戸峡。ここは遊歩道があり、渓谷と紅葉のコラボをみることができる。錦を流したような、山を染めたような…古来様々な表現で伝えられてきた光景なのだが、これもつかの間の光景なのだろう。一瞬の夕焼けの後に夜があるように、紅葉が終われば、山は長い冬を迎える。歩いて行くと、ゴリラ岩という立札があり、矢印もある。その方向にはたしかに大きな岩があるのだが、あまりゴリラには見えない。後で調べるとスケルトン岩というのもあるらしいのだが、こちらの立札は気づかなかった。スケルトンとカタカナにしても骸骨は骸骨。印象がよくないので撤去したのだろうか。そういえば観光地にはたいてい○○岩というのがあるが、古い伝説と結びついているようなものはあまりない。ゴジラ岩、ライオン岩など、どうみても新しそうだ。思うにこうした渓流や海の岩というものは、日々浸食にさらされているので、10年、20年で形が変わっていくのかもしれない。このゴリラ岩もそういう命名をしたころには本当にゴリラに似ていたのが、風雨や水にさらされているうちに、次第に形を変えていったということか。西伊豆黄金崎にも馬ロックという馬が水を飲んでいる姿にしか見えない岩があるのだが、これも、何十年も前にはこうした形には見えず、それが波に浸食されて、ちょうど馬の形に見えるようになったのだという。自然の形も日々変化する。遊歩道を歩いていると、旅行者のワッペンをつけた団体とすれ違った。大型観光バスはみかけないが、電車を利用し、バスに乗る区間を短くしたような形での観光ツアーは復活しつつあるのかもしれない。なお、この高津戸峡には、遊歩道入り口近くに、「ながめ公園」というのがあり、菊が展示してあった。みどり市は菊が有名ということらしいのだが、菊と紅葉と渓谷で、今年の秋は十分満喫したという気がする。
2021年11月22日
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