全805件 (805件中 1-50件目)
「山高ければ谷深し」(やまたかければたにふかし) 以下 引用 株式相場は暴騰することもあるが、その後反転し、急落する危険をはらんでいる。「上げ幅が大きいときほど、下げ幅もきつい」ということをあらわしたもの。Could you agree with above? 以下も引用from「銀河鉄道の夜」(中略)三、家ジョバンニが勢(いきおい)よく帰って来たのは、ある裏町の小さな家でした。その三つならんだ入口の一番左側には空箱に紫(むらさき)いろのケールやアスパラガスが植えてあって小さな二つの窓には日覆(ひおお)いが下りたままになっていました。「お母(っか)さん。いま帰ったよ。工合(ぐあい)悪くなかったの。」ジョバンニは靴をぬぎながら云いました。「ああ、ジョバンニ、お仕事がひどかったろう。今日は涼(すず)しくてね。わたしはずうっと工合がいいよ。」 ジョバンニは玄関(げんかん)を上って行きますとジョバンニのお母さんがすぐ入口の室(へや)に白い巾(きれ)を被(かぶ)って寝(やす)んでいたのでした。ジョバンニは窓をあけました。「お母さん。今日は角砂糖を買ってきたよ。牛乳に入れてあげようと思って。」「ああ、お前さきにおあがり。あたしはまだほしくないんだから。」「お母さん。姉さんはいつ帰ったの。」「ああ三時ころ帰ったよ。みんなそこらをしてくれてね。」「お母さんの牛乳は来ていないんだろうか。」「来なかったろうかねえ。」「ぼく行ってとって来よう。」「あああたしはゆっくりでいいんだからお前さきにおあがり、姉さんがね、トマトで何かこしらえてそこへ置いて行ったよ。」「ではぼくたべよう。」 ジョバンニは窓のところからトマトの皿(さら)をとってパンといっしょにしばらくむしゃむしゃたべました。「ねえお母さん。ぼくお父さんはきっと間もなく帰ってくると思うよ。」「あああたしもそう思う。けれどもおまえはどうしてそう思うの。」「だって今朝の新聞に今年は北の方の漁は大へんよかったと書いてあったよ。」「ああだけどねえ、お父さんは漁へ出ていないかもしれない。」「きっと出ているよ。お父さんが監獄(かんごく)へ入るようなそんな悪いことをした筈(はず)がないんだ。この前お父さんが持ってきて学校へ寄贈(きぞう)した巨(おお)きな蟹(かに)の甲(こう)らだのとなかいの角だの今だってみんな標本室にあるんだ。六年生なんか授業のとき先生がかわるがわる教室へ持って行くよ。一昨年修学旅行で〔以下数文字分空白〕「お父さんはこの次はおまえにラッコの上着をもってくるといったねえ。」「みんながぼくにあうとそれを云うよ。ひやかすように云うんだ。」「おまえに悪口を云うの。」「うん、けれどもカムパネルラなんか決して云わない。カムパネルラはみんながそんなことを云うときは気の毒そうにしているよ。」「あの人はうちのお父さんとはちょうどおまえたちのように小さいときからのお友達だったそうだよ。」「ああだからお父さんはぼくをつれてカムパネルラのうちへもつれて行ったよ。あのころはよかったなあ。ぼくは学校から帰る途中(とちゅう)たびたびカムパネルラのうちに寄った。カムパネルラのうちにはアルコールラムプで走る汽車があったんだ。レールを七つ組み合せると円くなってそれに電柱や信号標もついていて信号標のあかりは汽車が通るときだけ青くなるようになっていたんだ。いつかアルコールがなくなったとき石油をつかったら、罐(かま)がすっかり煤(すす)けたよ。」「そうかねえ。」「いまも毎朝新聞をまわしに行くよ。けれどもいつでも家中まだしぃんとしているからな。」「早いからねえ。」「ザウエルという犬がいるよ。しっぽがまるで箒(ほうき)のようだ。ぼくが行くと鼻を鳴らしてついてくるよ。ずうっと町の角までついてくる。もっとついてくることもあるよ。今夜はみんなで烏瓜(からすうり)のあかりを川へながしに行くんだって。きっと犬もついて行くよ。」「そうだ。今晩は銀河のお祭だねえ。」「うん。ぼく牛乳をとりながら見てくるよ。」「ああ行っておいで。川へははいらないでね。」「ああぼく岸から見るだけなんだ。一時間で行ってくるよ。」「もっと遊んでおいで。カムパネルラさんと一緒(いっしょ)なら心配はないから。」「ああきっと一緒だよ。お母さん、窓をしめて置こうか。」「ああ、どうか。もう涼しいからね」 ジョバンニは立って窓をしめお皿やパンの袋を片附(かたづ)けると勢よく靴をはいて「では一時間半で帰ってくるよ。」と云いながら暗い戸口を出ました。Where is he going to?
2007年07月26日
コメント(73)
We will start my-pageabout 『ガス燈』MGMの製作で、ジョン・ヴァン・ドゥルーテンとウォルター・ライシュが脚色し、ジョージ・キューカーが監督した。主演はイングリッド・バーグマンとシャルル・ボワイエ。 あらすじ(引用)ロンドン、ソーントン街。ガス燈の点る頃、この町を後にしイタリア留学に向かうポーラ(バーグマン)。彼女の育て親である、名歌手の誉れ高き叔母は何者かに殺され、事件は未解決。傷心のまま旅立った彼女だったが、新天地で恋をし、声楽の勉強を諦め、その相手、作曲家のグレゴリー(ボワイエ)と夫婦になる。彼は彼女の育った家に関心を持ち、そんな落ち着いた環境で暮らしてみたいと言うので、ポーラも忌わしい記憶を拭い去って、ロンドンで再び生活を始めるが、叔母のピアノに男名前の差出人の手紙を見つけて以来、物忘れや盗癖が目立ち始めたと、夫は指摘する。部屋のガス燈も奇妙にちらつき暗くなる。それを感じるのは自分だけのようだ。本当に狂ってしまったのか……。彼女の不安は高まる。夫と共に出かけたロンドン塔ですれ違った男に会釈され、思わず微笑み返すポーラ。しかし、彼は知らない人だ。が、観客にはすぐ、これが彼女の叔母に可愛がられた警部キャメロン(コットン)だと分かる。以下 略-----------------Why do you interest about this film?
2007年07月18日
コメント(1)
二十三(最終章) 月が変ってから寒さがだいぶ緩(ゆる)んだ。官吏の増俸問題につれて必然起るべく、多数の噂(うわさ)に上った局員課員の淘汰(とうた)も、月末までにほぼ片づいた。その間ぽつりぽつりと首を斬(き)られる知人や未知人の名前を絶えず耳にした宗助(そうすけ)は、時々家へ帰って御米(およね)に、「今度(こんだ)はおれの番かも知れない」と云う事があった。御米はそれを冗談(じょうだん)とも聞き、また本気とも聞いた。まれには隠れた未来を故意に呼び出す不吉な言葉とも解釈した。それを口にする宗助の胸の中にも、御米と同じような雲が去来した。 月が改って、役所の動揺もこれで一段落だと沙汰(さた)せられた時、宗助は生き残った自分の運命を顧(かえ)りみて、当然のようにも思った。また偶然のようにも思った。立ちながら、御米を見下して、「まあ助かった」とむずかし気(げ)に云った。その嬉(うれ)しくも悲しくもない様子が、御米には天から落ちた滑稽(こっけい)に見えた。 また二三日して宗助の月給が五円昇った。「原則通り二割五分増さないでも仕方があるまい。休(や)められた人も、元給のままでいる人もたくさんあるんだから」と云った宗助は、この五円に自己以上の価値をもたらし帰ったごとく満足の色を見せた。御米は無論の事心のうちに不足を訴えるべき余地を見出さなかった。 翌日(あくるひ)の晩宗助はわが膳(ぜん)の上に頭(かしら)つきの魚(うお)の、尾を皿の外に躍(おど)らす態(さま)を眺めた。小豆(あずき)の色に染まった飯の香(かおり)を嗅(か)いだ。御米はわざわざ清をやって、坂井の家に引き移った小六(ころく)を招いた。小六は、「やあ御馳走(ごちそう)だなあ」と云って勝手から入って来た。 梅がちらほらと眼に入(い)るようになった。早いのはすでに色を失なって散りかけた。雨は煙るように降り始めた。それが霽(は)れて、日に蒸(む)されるとき、地面からも、屋根からも、春の記憶を新にすべき湿気がむらむらと立ち上(のぼ)った。背戸(せど)に干した雨傘(あまがさ)に、小犬がじゃれかかって、蛇(じゃ)の目の色がきらきらする所に陽炎(かげろう)が燃えるごとく長閑(のどか)に思われる日もあった。「ようやく冬が過ぎたようね。あなた今度(こんだ)の土曜に佐伯(さえき)の叔母さんのところへ回って、小六さんの事をきめていらっしゃいよ。あんまりいつまでも放っておくと、また安(やす)さんが忘れてしまうから」と御米が催促した。宗助は、「うん、思い切って行って来(き)よう」と答えた。小六は坂井の好意で、そこの書生に住み込んだ。その上に宗助と安之助が、不足のところを分担する事ができたらと小六に云って聞かしたのは、宗助自身であった。小六は兄の運動を待たずに、すぐ安之助に直談判(じきだんぱん)をした。そうして、形式的に宗助の方から依頼すればすぐ安之助が引き受けるまでに自分で埒(らち)を明けたのである。 小康はかくして事を好まない夫婦の上に落ちた。ある日曜の午(ひる)宗助は久しぶりに、四日目の垢(あか)を流すため横町の洗場に行ったら、五十ばかりの頭を剃(そ)った男と、三十代の商人(あきんど)らしい男が、ようやく春らしくなったと云って、時候の挨拶(あいさつ)を取り換わしていた。若い方が、今朝始めて鶯(うぐいす)の鳴声を聞いたと話すと、坊さんの方が、私(わたし)は二三日前にも一度聞いた事があると答えていた。「まだ鳴きはじめだから下手だね」「ええ、まだ充分に舌(した)が回りません」 宗助は家(うち)へ帰って御米にこの鶯の問答を繰り返して聞かせた。御米は障子(しょうじ)の硝子(ガラス)に映る麗(うらら)かな日影をすかして見て、「本当にありがたいわね。ようやくの事春になって」と云って、晴れ晴れしい眉(まゆ)を張った。宗助は"縁"(えん)に出て長く延びた爪を剪(き)りながら、「うん、しかしまたじき冬になるよ」と答えて、下を向いたまま鋏(はさみ)を動かしていた。----------------"縁側"(えんがは) (1)家の座敷の外側に設けた、細長い板敷きの部分。えん。(2)魚のひれの基部にある骨。その付近の肉をもいう。「ひらめの―」--------------Do you have any "縁"??
2006年09月04日
コメント(0)
中略 二十二 家の敷居を跨(また)いだ宗助(そうすけ)は、己(おの)れにさえ憫然(びんぜん)な姿を描(えが)いた。彼は過去十日間毎朝頭を冷水(れいすい)で濡(ぬ)らしたなり、いまだかつて櫛(くし)の歯を通した事がなかった。髭(ひげ)は固(もと)より剃(そ)る暇(いとま)を有(も)たなかった。三度とも宜道(ぎどう)の好意で白米の炊(かし)いだのを食べたには食べたが、副食物と云っては、菜の煮たのか、大根の煮たのぐらいなものであった。彼の顔は自(おのず)から蒼(あお)かった。出る前よりも多少面窶(おもやつ)れていた。その上彼は一窓庵で考えつづけに考えた習慣がまだ全く抜け切らなかった。どこかに卵を抱(いだ)く牝鶏(めんどり)のような心持が残って、頭が平生の通り自由に働らかなかった。その癖(くせ)一方では坂井の事が気にかかった。坂井と云うよりも、坂井のいわゆる冒険者(アドヴェンチュアラー)として宗助の耳に響いたその弟(おとと)と、その弟の友達として彼の胸を騒がした安井の消息が気にかかった。けれども彼は自身に家主の宅へ出向いて、それを聞き糺(ただ)す勇気を有たなかった。間接にそれを御米(およね)に問うことはなおできなかった。彼は山にいる間さえ、御米がこの事件について何事も耳にしてくれなければいいがと気遣(きづか)わない日はなかったくらいである。宗助は年来住み慣れた家の座敷に坐って、「汽車に乗ると短かい道中でも気のせいか疲れるね。留守中に別段変った事はなかったかい」と聞いた。実際彼は短かい汽車旅行にさえ堪(た)えかねる顔つきをしていた。 御米はいかな場合にも夫の前に忘れなかった笑顔さえ作り得なかった。と云って、せっかく保養に行った転地先から今帰って来たばかりの夫に、行かない前よりかえって健康が悪くなったらしいとは、気の毒で露骨に話し悪(にく)かった。わざと活溌(かっぱつ)に、「いくら保養でも、家(うち)へ帰ると、少しは気疲(きづかれ)が出るものよ。けれどもあなたは余(あん)まり爺々汚(じじむさ)いわ。後生(ごしょう)だから一休(ひとやすみ)したら御湯に行って頭を刈って髭(ひげ)を剃(す)って来てちょうだい」と云いながら、わざわざ机の引出から小さな鏡を出して見せた。宗助は御米の言葉を聞いて、始めて一窓庵の空気を風で払ったような心持がした。一たび山を出て家へ帰ればやはり元の宗助であった。「坂井さんからはその後何とも云って来ないかい」「いいえ何とも」「小六(ころく)の事も」「いいえ」 その小六は図書館へ行って留守だった。宗助は手拭(てぬぐい)と石鹸(シャボン)を持って外へ出た。 明る日役所へ出ると、みんなから病気はどうだと聞かれた。中には少し瘠(や)せたようですねと云うものもあった。宗助にはそれが無意識の冷評の意味に聞えた。"菜根譚"(さいこんたん)を読む男はただどうです旨(うま)く行きましたかと尋ねた。宗助はこの問にもだいぶ痛い思をした。---------About"菜根譚"(さいこんたん)中国、明代の処世哲学書。二巻。洪応明(こうおうめい)著。万暦年間(1573-1619)成立。儒教思想を中心にし、仏教・道教思想も加味した約三六〇条の処世訓。江戸時代に伝来し、日本で広く愛読された。菜根談。--------- その晩はまた御米と小六から代る代る鎌倉の事を根掘り葉掘り問われた。「気楽でしょうね。留守居(るすい)も何もおかないで出られたら」と御米が云った。「それで一日(いちんち)いくら出すと置いてくれるんです」と小六が聞いた。「鉄砲でも担(かつ)いで行って、猟(りょう)でもしたら面白かろう」とも云った。「しかし退屈ね。そんなに淋(さむ)しくっちゃ。朝から晩まで寝ていらっしゃる訳にも行かないでしょう」と御米がまた云った。「もう少し滋養物が食える所でなくっちゃあ、やっぱり身体(からだ)によくないでしょう」と小六がまた云った。 宗助はその夜床の中へ入って、明日(あした)こそ思い切って、坂井へ行って安井の消息をそれとなく聞き糺(ただ)して、もし彼がまだ東京にいて、なおしばしば坂井と往復があるようなら、遠くの方へ引越してしまおうと考えた。 次の日は平凡に宗助の頭を照らして、事なき光を西に落した。夜(よ)に入(い)って彼は、「ちょっと坂井さんまで行って来る」と云い捨てて門を出た。月のない坂を上って、瓦斯灯(ガスとう)に照らされた砂利を鳴らしながら潜戸(くぐりど)を開けた時、彼は今夜ここで安井に落ち合うような万一はまず起らないだろうと度胸を据(す)えた。それでもわざと勝手口へ回って、御客来ですかと聞くことは忘れなかった。「よくおいでです。どうも相変らず寒いじゃありませんか」と云う常の通り元気の好い主人を見ると、子供を大勢自分の前へ並べて、その中(うち)の一人と掛声をかけながら、じゃん拳(けん)をやっていた。相手の女の子の年は、六つばかりに見えた。赤い幅のあるリボンを蝶々(ちょうちょう)のように頭の上にくっつけて、主人に負けないほどの勢で、小さな手を握り固めてさっと前へ出した。その断然たる様子と、その握(にぎ)り拳(こぶし)の小ささと、これに反して主人の仰山(ぎょうさん)らしく大きな拳骨(げんこつ)が、対照になって皆(みんな)の笑を惹(ひ)いた。火鉢(ひばち)の傍(はた)に見ていた細君は、「そら今度(こんだ)こそ雪子の勝だ」と云って愉快そうに綺麗(きれい)な歯を露(あら)わした。子供の膝(ひざ)の傍(そば)には白だの赤だの藍(あい)だのの硝子玉(ガラスだま)がたくさんあった。主人は、「とうとう雪子に負けた」と席を外(はず)して、宗助の方を向いたが、「どうですまた洞窟(とうくつ)へでも引き込みますかな」と云って立ち上がった。 書斎の柱には、例のごとく錦の袋に入れた蒙古刀(もうことう)が振(ぶ)ら下(さ)がっていた。花活(はないけ)にはどこで咲いたか、もう黄色い菜の花が挿(さ)してあった。宗助は床柱の中途を華(はな)やかに彩(いろ)どる袋に眼を着けて、「相変らず掛かっておりますな」と云った。そうして主人の気色(けしき)を頭の奥から窺(うかが)った。主人は、「ええちと物数奇(ものずき)過ぎますね、蒙古刀は」と答えた。「ところが弟(おとと)の野郎そんな玩具(おもちゃ)を持って来ては、兄貴を籠絡(ろうらく)するつもりだから困りものじゃありませんか」「御舎弟(ごしゃてい)はその後どうなさいました」と宗助は何気ない風を示した。「ええようやく四五日前帰りました。ありゃ全く蒙古向ですね。御前のような夷狄(いてき)は東京にゃ調和しないから早く帰れったら、私(わたし)もそう思うって帰って行きました。どうしても、ありゃ万里の長城の向側(むこうがわ)にいるべき人物ですよ。そうしてゴビの沙漠(さばく)の中で金剛石(ダイヤモンド)でも捜していればいいんです」「もう一人の御伴侶(おつれ)は」「安井ですか、あれも無論いっしょです。ああなると落ちついちゃいられないと見えますね。何でも元は京都大学にいたこともあるんだとか云う話ですが。どうして、ああ変化したものですかね」 宗助は腋(わき)の下から汗が出た。安井がどう変って、どう落ちつかないのか、全く聞く気にはならなかった。ただ自分が主人に安井と同じ大学にいた事を、まだ洩(も)らさなかったのを天祐(てんゆう)のようにありがたく思った。けれども主人はその弟と安井とを晩餐(ばんさん)に呼ぶとき、自分をこの二人に紹介しようと申し出た男である。辞退をしてその席へ顔を出す不面目だけはやっと免(まぬ)かれたようなものの、その晩主人が何かの機会(はずみ)につい自分の名を二人に洩(も)らさないとは限らなかった。宗助は後暗(うしろぐら)い人の、変名(へんみょう)を用いて世を渡る便利を切に感じた。彼は主人に向って、「あなたはもしや私の名を安井の前で口にしやしませんか」と聞いて見たくて堪(たま)らなかった。けれども、それだけはどうしても聞けなかった。 下女が平たい大きな菓子皿に妙な菓子を盛って出た。一丁の豆腐ぐらいな大きさの金玉糖(きんぎょくとう)の中に、金魚が二疋透(す)いて見えるのを、そのまま庖丁(ほうちょう)の刃を入れて、元の形を崩(くず)さずに、皿に移したものであった。宗助は一目見て、ただ珍らしいと感じた。けれども彼の頭はむしろ他の方面に気を奪われていた。すると主人が、「どうです一つ」と例(いつも)の通りまず自分から手を出した。「これはね、昨日(きのう)ある人の銀婚式に呼ばれて、貰(もら)って来たのだから、すこぶるおめでたいのです。あなたも一切ぐらい肖(あやか)ってもいいでしょう」 主人は肖りたい名の下(もと)に、甘垂(あまた)るい金玉糖(きんぎょくとう)を幾切か頬張(ほおば)った。これは酒も呑み、茶も呑み、飯も菓子も食えるようにできた、重宝で健康な男であった。「何実を云うと、二十年も三十年も夫婦が皺(しわ)だらけになって生きていたって、別におめでたくもありませんが、そこが物は比較的なところでね。私はいつか清水谷の公園の前を通って驚ろいた事がある」と変な方面へ話を持って行った。こういう風に、それからそれへと客を飽(あ)かせないように引張って行くのが、社交になれた主人の平生の調子であった。 彼の云うところによると、清水谷から弁慶橋へ通じる泥溝(どぶ)のような細い流の中に、春先になると無数の蛙(かえる)が生れるのだそうである。その蛙が押し合い鳴き合って生長するうちに、幾百組か幾千組の恋が泥渠(どぶ)の中で成立する。そうしてそれらの愛に生きるものが重ならないばかりに隙間(すきま)なく清水谷から弁慶橋へ続いて、互に睦(むつ)まじく浮いていると、通り掛りの小僧だの閑人(ひまじん)が、石を打ちつけて、無残にも蛙の夫婦を殺して行くものだから、その数がほとんど勘定(かんじょう)し切れないほど多くなるのだそうである。「死屍累々(ししるいるい)とはあの事ですね。それが皆(みんな)夫婦なんだから実際気の毒ですよ。つまりあすこを二三丁通るうちに、我々は悲劇にいくつ出逢うか分らないんです。それを考えると御互は実に幸福でさあ。夫婦になってるのが悪(にく)らしいって、石で頭を破(わ)られる恐れは、まあ無いですからね。しかも双方ともに二十年も三十年も安全なら、全くおめでたいに違ありませんよ。だから一切ぐらい肖っておく必要もあるでしょう」と云って、主人はわざと箸(はし)で金玉糖を挟(はさ)んで、宗助の前に出した。宗助は苦笑しながら、それを受けた。 こんな冗談交(じょうだんまじ)りの話を、主人はいくらでも続けるので、宗助はやむを得ず或る辺までは釣られて行った。けれども腹の中はけっして主人のように太平楽(たいへいらく)には行かなかった。辞して表へ出て、また月のない空を眺(なが)めた時は、その深く黒い色の下に、何とも知れない一種の悲哀と物凄(ものすご)さを感じた。 彼は坂井の家に、ただいやしくも免(まぬ)かれんとする料簡(りょうけん)で行った。そうして、その目的を達するために、恥と不愉快を忍んで、好意と真率(しんそつ)の気に充(み)ちた主人に対して、政略的に談話を駆(か)った。しかも知ろうと思う事はことごとく知る事ができなかった。己(おの)れの弱点に付いては、一言(ひとこと)も彼の前に自白するの勇気も必要も認めなかった。 彼の頭を掠(かす)めんとした雨雲(あまぐも)は、辛(かろ)うじて、頭に触れずに過ぎたらしかった。けれども、これに似た不安はこれから先何度でも、いろいろな程度において、繰り返さなければすまないような虫の知らせがどこかにあった。それを繰り返させるのは天の事であった。それを逃げて回るのは宗助の事であった。 最終章へ
2006年09月04日
コメント(0)
zzkiそこへ奥の方から足音がして、主人がこっちへ出て来たらしかったが、次の間へ入るや否や、「さあ、御前達はここで騒ぐんじゃない。あっちへ行っておいで。御客さまだから」と制した。その時、誰だかすぐに、「厭(いや)だよ。御父(おと)っちゃんべい。大きい御馬買ってくれなくっちゃ、あっちへ行かないよ」と答えた。声は小さい男の子の声であった。年が行かないためか、舌がよく回らないので、抗弁のしようがいかにも億劫(おっくう)で手間がかかった。宗助はそこを特に面白く思った。 主人が席に着いて、長い間待たした失礼を詫(わ)びている間に、子供は遠くへ行ってしまった。「大変御賑(おにぎ)やかで結構です」と宗助が今自分の感じた通を述べると、主人はそれを愛嬌(あいきょう)と受取ったものと見えて、「いや御覧のごとく乱雑な有様で」と言訳らしい返事をしたが、それを緒(いとくち)に、子供の世話の焼けて、夥(おびた)だしく手のかかる事などをいろいろ宗助に話して聞かした。その中(うち)で綺麗(きれい)な支那製の花籃(はなかご)のなかへ炭団(たどん)を一杯盛(も)って床の間に飾ったと云う滑稽(こっけい)と、主人の編上の靴のなかへ水を汲み込んで、金魚を放したと云う悪戯(いたずら)が、宗助には大変耳新しかった。しかし、女の子が多いので服装に物が要(い)るとか、二週間も旅行して帰ってくると、急にみんなの背が一寸(いっすん)ずつも伸びているので、何だか後(うしろ)から追いつかれるような心持がするとか、もう少しすると、嫁入の支度で忙殺(ぼうさつ)されるのみならず、きっと貧殺(ひんさつ)されるだろうとか云う話になると、子供のない宗助の耳にはそれほどの同情も起し得なかった。かえって主人が口で子供を煩冗(うるさ)がる割に、少しもそれを苦にする様子の、顔にも態度にも見えないのを羨(うらや)ましく思った。 好い加減な頃を見計(みはから)って宗助は、せんだって話のあった屏風(びょうぶ)をちょっと見せて貰えまいかと、主人に申し出た。主人はさっそく引き受けて、ぱちぱちと手を鳴らして、召使を呼んだが、蔵(くら)の中にしまってあるのを取り出して来るように命じた。そうして宗助の方を向いて、「つい二三日前までそこへ立てておいたのですが、例の子供が面白半分にわざと屏風の影へ集まって、いろいろな悪戯をするものですから、傷でもつけられちゃ大変だと思ってしまい込んでしまいました」と云った。 宗助は主人のこの言葉を聞いた時、今更手数(てかず)をかけて、屏風を見せて貰うのが、気の毒にもなり、また面倒にもなった。実を云うと彼の好奇心は、それほど強くなかったのである。なるほどいったん他(ひと)の所有に帰したものは、たとい元が自分のであったにしろ、無かったにしろ、そこを突き留めたところで、実際上には何の効果もない話に違なかった。 けれども、屏風は宗助の申し出た通り、間もなく奥から縁伝いに運び出されて、彼の眼の前に現れた。そうしてそれが予想通りついこの間まで自分の座敷に立ててあった物であった。この事実を発見した時、宗助の頭には、これと云って大した感動も起らなかった。ただ自分が今坐っている畳の色や、天井の柾目(まさめ)や、床の置物や、襖(ふすま)の模様などの中に、この屏風を立てて見て、それに、召使が二人がかりで、蔵の中から大事そうに取り出して来たと云う所作(しょさ)を付け加えて考えると、自分が持っていた時よりは、たしかに十倍以上貴(たっ)とい品のように眺(なが)められただけであった。彼は即座に云うべき言葉を見出し得なかったので、いたずらに、見慣れたものの上に、さらに新らしくもない眼を据(す)えていた。 主人は宗助をもってある程度の鑑賞家と誤解した。立ちながら屏風の縁(ふち)へ手を掛けて、宗助の面(おもて)と屏風の面とを比較していたが、宗助が容易に批評を下さないので、「これは素性(すじょう)のたしかなものです。出が出ですからね」と云った。宗助は、ただ「なるほど」と云った。 主人はやがて宗助の後へ回って来て、指でそこここを指(さ)しながら、品評やら説明やらした。その中(うち)には、さすが御大名だけあって、好い絵の具を惜気(おしげ)もなく使うのがこの画家の特色だから、色がいかにもみごとであると云うような、宗助には耳新らしいけれども、普通一般に知れ渡った事もだいぶ交っていた。 宗助は好い加減な頃を見計らって、丁寧(ていねい)に礼を述べて元の席に復した。主人も蒲団(ふとん)の上に直った。そうして、今度は野路(のじ)や空云々という題句やら書体やらについて語り出した。宗助から見ると、主人は書にも俳句にも多くの興味を有(も)っていた。いつの間にこれほどの知識を頭の中へ貯(たくわ)え得らるるかと思うくらい、すべてに心得のある男らしく思われた。宗助は己(おの)れを恥じて、なるべく物数(ものかず)を云わないようにして、ただ向うの話だけに耳を借す事を力(つと)めた。 主人は客がこの方面の興味に乏しい様子を見て、再び話を画(え)の方へ戻した。碌(ろく)なものはないけれども、望ならば所蔵の画帖(がじょう)や幅物を見せてもいいと親切に申し出した。宗助はせっかくの好意を辞退しない訳に行かなかった。その代りに、失礼ですがと前置をして、主人がこの屏風を手に入れるについて、どれほどの金額を払ったかを尋ねた。「まあ掘出し物ですね。八十円で買いました」と主人はすぐ答えた。 宗助は主人の前に坐って、この屏風に関するいっさいの事を自白しようか、しまいかと思案したが、ふと打ち明けるのも一興だろうと心づいて、とうとう実はこれこれだと、今までの顛末(てんまつ)を詳しく話し出した。主人は時々へえ、へえと驚ろいたような言葉を挟(はさ)んで聞いていたが、しまいに、「じゃあなたは別に書画が好きで、見にいらしった訳でもないんですね」と自分の誤解を、さも面白い経験でもしたように笑い出した。同時に、そう云う訳なら、自分が直(じか)に宗助から相当の値で譲って貰えばよかったに、惜しい事をしたと云った。最後に横町の道具屋をひどく罵(のの)しって、怪(け)しからん奴(やつ)だと云った。 宗助と坂井とはこれからだいぶ親しくなった。----------編集手帳(9月4日付)世界をリードする日本のアニメや漫画は中国でも人気だ。漢字を駆使した中国版タイトルが楽しい。クレヨンしんちゃんは「蝋筆小新」、ちびまる子ちゃんが「桜桃小丸子」、ドラゴンボールは「七竜珠」となる意訳に向かないドラえもんは、日本語の発音にあわせて「●●A夢」。人気度はトップだ。中国紙の調査では青少年の68%が「日本のアニメが好き」と答え、「国産」の19%を上回った日本のアニメは中国のテレビ局にとっても視聴率の稼ぎ頭で、ゴールデンタイムの放映が多い。中国政府が先月、唐突に発表した一片の通知が波紋を広げている。「9月からゴールデンタイムの海外アニメ放映を禁止する」。海外との合作アニメも対象となる国内アニメ産業を保護し、日本文化の影響も排除したい―そんな思惑が透けて見える。「上に政策あれば、下に対策あり」のお国柄だけに通知がどこまで守られるのか疑問とは言え、中国の対応は短慮に過ぎるのではないのか日本漫画界の巨星、手塚治虫の「アトムと孫悟空展」が、今春の中国展示に続き、都内で開催中だ。生前に収録したビデオで手塚は熱く語っている。14歳の時に見た中国の長編アニメ「西遊記」の感動が自身の原点だとこの文化交流がなければ鉄腕アトムなどの名作の誕生はなかったかもしれない。(●は「口へんに多」と「口へんに拉」)(2006年9月4日 読売新聞)----------
2006年09月04日
コメント(0)
zzkiそのうち二人は坂の上へ出た。坂井はそこを右へ曲る、宗助はそこを下へ下りなければならなかった。宗助はもう少しいっしょに歩いて、屏風(びょうぶ)の事を聞きたかったが、わざわざ回(まわ)り路(みち)をするのも変だと心づいて、それなり分れた。分れる時、「近い中(うち)御邪魔に出てもようございますか」と聞くと、坂井は、「どうぞ」と快よく答えた。 その日は風もなくひとしきり日も照ったが、家(うち)にいると底冷(そこびえ)のする寒さに襲(おそ)われるとか云って、御米はわざわざ置炬燵(おきごたつ)に宗助の着物を掛けて、それを座敷の真中に据(す)えて、夫の帰りを待ち受けていた。 この冬になって、昼のうち炬燵(こたつ)を拵(こし)らえたのは、その日が始めてであった。夜は疾(と)うから用いていたが、いつも六畳に置くだけであった。「座敷の真中にそんなものを据えて、今日はどうしたんだい」「でも、御客も何もないからいいでしょう。だって六畳の方は小六(ころく)さんがいて、塞(ふさ)がっているんですもの」 宗助は始めて自分の家に小六のいる事に気がついた。襯衣(シャツ)の上から暖かい紡績織(ぼうせきおり)を掛けて貰って、帯をぐるぐる巻きつけたが、「ここは寒帯だから炬燵でも置かなくっちゃ凌(しの)げない」と云った。小六の部屋になった六畳は、畳こそ奇麗(きれい)でないが、南と東が開(あ)いていて、家中(うちじゅう)で一番暖かい部屋なのである。 宗助は御米の汲(く)んで来た熱い茶を湯呑(ゆのみ)から二口ほど飲んで、「小六はいるのかい」と聞いた。小六は固(もと)よりいたはずである。けれども六畳はひっそりして人のいるようにも思われなかった。御米が呼びに立とうとするのを、用はないからいいと留めたまま、宗助は炬燵蒲団(ぶとん)の中へ潜(もぐ)り込んで、すぐ横になった。一方口(いっぽうぐち)に崖を控えている座敷には、もう暮方の色が萌(きざ)していた。宗助は手枕をして、何を考えるともなく、ただこの暗く狭い景色(けしき)を眺(なが)めていた。すると御米と清が台所で働く音が、自分に関係のない隣の人の活動のごとくに聞えた。そのうち、障子だけがただ薄白く宗助の眼に映るように、部屋の中が暮れて来た。彼はそれでもじっとして動かずにいた。声を出して洋灯(ランプ)の催促もしなかった。 彼が暗い所から出て、晩食(ばんめし)の膳(ぜん)に着いた時は、小六も六畳から出て来て、兄の向うに坐(すわ)った。御米は忙しいので、つい忘れたと云って、座敷の戸を締(し)めに立った。宗助は弟に夕方になったら、ちと洋灯(ランプ)を点(つ)けるとか、戸を閉(た)てるとかして、忙(せわ)しい姉の手伝でもしたら好かろうと注意したかったが、昨今引き移ったばかりのものに、気まずい事を云うのも悪かろうと思ってやめた。 御米が座敷から帰って来るのを待って、兄弟は始めて茶碗に手を着けた。その時宗助はようやく今日役所の帰りがけに、道具屋の前で坂井に逢った事と、坂井があの大きな眼鏡(めがね)を掛けている道具屋から、抱一(ほういつ)の屏風(びょうぶ)を買ったと云う話をした。御米は、「まあ」と云ったなり、しばらく宗助の顔を見ていた。「じゃきっとあれよ。きっとあれに違ないわね」 小六は始めのうち何にも口を出さなかったが、だんだん兄夫婦の話を聞いているうちに、ほぼ関係が明暸(めいりょう)になったので、「全体いくらで売ったのです」と聞いた。御米は返事をする前にちょっと夫の顔を見た。 食事が終ると、小六はじきに六畳へ這入(はい)った。宗助はまた炬燵(こたつ)へ帰った。しばらくして御米も足を温(ぬく)めに来た。そうして次の土曜か日曜には坂井へ行って、一つ屏風を見て来たらいいだろうと云うような事を話し合った。 次の日曜になると、宗助は例の通り一週に一返(いっぺん)の楽寝(らくね)を貪ぼったため、午前(ひるまえ)半日をとうとう空(くう)に潰(つぶ)してしまった。御米はまた頭が重いとか云って、火鉢(ひばち)の縁(ふち)に倚(よ)りかかって、何をするのも懶(ものう)そうに見えた。こんな時に六畳が空(あ)いていれば、朝からでも引込む場所があるのにと思うと、宗助は小六に六畳をあてがった事が、間接に御米の避難場を取り上げたと同じ結果に陥(おちい)るので、ことに済まないような気がした。 心持が悪ければ、座敷へ床を敷いて寝たら好かろうと注意しても、御米は遠慮して容易に応じなかった。それではまた炬燵でも拵(こしら)えたらどうだ、自分も当るからと云って、とうとう櫓(やぐら)と掛蒲団(かけぶとん)を"清"(きよ)に云いつけて、座敷へ運ばした。 小六は宗助が起きる少し前に、どこかへ出て行って、今朝(けさ)は顔さえ見せなかった。宗助は御米に向って別段その行先を聞き糺(ただ)しもしなかった。この頃では小六に関係した事を云い出して、御米にその返事をさせるのが、気の毒になって来た。御米の方から、進んで弟の讒訴(ざんそ)でもするようだと、叱るにしろ、慰さめるにしろ、かえって始末が好いと考える時もあった。 午(ひる)になっても御米は炬燵から出なかった。宗助はいっそ静かに寝かしておく方が身体(からだ)のためによかろうと思ったので、そっと台所へ出て、清にちょっと上の坂井まで行ってくるからと告げて、不断着の上へ、袂(たもと)の出る短いインヴァネスを纏(まと)って表へ出た。=======What's a インヴァネス"インバネス"(inverness)〔スコットランド北西部の地名から〕ケープをつけた袖のない男子用コート。明治中期から、着物用のコートとして用いられた。とんび。二重回し。======= 今まで陰気な室(へや)にいた所為(せい)か、通(とおり)へ来ると急にからりと気が晴れた。肌の筋肉が寒い風に抵抗して、一時に緊縮するような冬の心持の鋭どく出るうちに、ある快感を覚えたので、宗助は御米もああ家(うち)にばかり置いては善(よ)くない、気候が好くなったら、ちと戸外の空気を呼吸させるようにしてやらなくては毒だと思いながら歩いた。 坂井の家の門を入ったら、玄関と勝手口の仕切になっている生垣(いけがき)の目に、冬に似合わないぱっとした赤いものが見えた。傍(そば)へ寄ってわざわざ検(しら)べると、それは人形に掛ける小さい夜具であった。細い竹を袖(そで)に通して、落ちないように、扇骨木(かなめ)の枝に寄せ掛けた手際(てぎわ)が、いかにも女の子の所作(しょさ)らしく殊勝(しゅしょう)に思われた。こう云う悪戯(いたずら)をする年頃の娘は固(もと)よりの事、子供と云う子供を育て上げた経験のない宗助は、この小さい赤い夜具の尋常に日に干してある有様をしばらく立って眺(なが)めていた。そうして二十年も昔に父母が、死んだ妹(いもと)のために飾った、赤い雛段(ひなだん)と五人囃(ごにんばやし)と、模様の美くしい干菓子と、それから甘いようで辛(から)い白酒を思い出した。 坂井の主人は在宅ではあったけれども、食事中だと云うので、しばらく待たせられた。宗助は座に着くや否や、隣の室(へや)で小さい夜具を干した人達の騒ぐ声を耳にした。下女が茶を運ぶために襖(ふすま)を開けると、襖の影から大きな眼が四つほどすでに宗助を覗(のぞ)いていた。火鉢を持って出ると、その後(あと)からまた違った顔が見えた。始めてのせいか、襖の開閉(あけたて)のたびに出る顔がことごとく違っていて、子供の数が何人あるか分らないように思われた。ようやく下女が退(さ)がりきりに退がると、今度は誰だか唐紙(からかみ)を一寸ほど細目に開けて、黒い光る眼だけをその間から出した。宗助も面白くなって、黙って手招ぎをして見た。すると唐紙をぴたりと閉(た)てて、向う側で三四人が声を合して笑い出した。 やがて一人の女の子が、「よう、御姉様またいつものように叔母さんごっこしましょうよ」と云い出した。すると姉らしいのが、「ええ、今日は西洋の叔母さんごっこよ。東作さんは御父さまだからパパで、雪子さんは御母さまだからママって云うのよ。よくって」と説明した。その時また別の声で、「おかしいわね。ママだって」と云って嬉(うれ)しそうに笑ったものがあった。「私(わたし)それでもいつも御祖母(おばば)さまなのよ。御祖母さまの西洋の名がなくっちゃいけないわねえ。御祖母さまは何て云うの」と聞いたものもあった。「御祖母さまはやっぱりババでいいでしょう」と姉がまた説明した。 それから当分の間は、御免下さいましだの、どちらからいらっしゃいましたのと盛(さかん)に挨拶(あいさつ)の言葉が交換されていた。その間にはちりんちりんと云う電話の仮色(こわいろ)も交った。すべてが宗助には陽気で珍らしく聞えた。============== まだまだ
2006年09月04日
コメント(0)
tuzuki九裏の坂井と宗助(そうすけ)とは文庫が縁になって思わぬ関係がついた。それまでは月に一度こちらから清(きよ)に家賃を持たしてやると、向(むこう)からその受取を寄こすだけの交渉に過ぎなかったのだから、崖(がけ)の上に西洋人が住んでいると同様で、隣人としての親みは、まるで存在していなかったのである。 宗助が文庫を届けた日の午後に、坂井の云った通り、刑事が宗助の家の裏手から崖下を検(しら)べに来たが、その時坂井もいっしょだったので、御米(およね)は始めて噂(うわさ)に聞いた家主の顔を見た。髭(ひげ)のないと思ったのに、髭を生やしているのと、自分なぞに対しても、存外丁寧(ていねい)な言葉を使うのが、御米には少し案外であった。「あなた、坂井さんはやっぱり髭を生やしていてよ」と宗助が帰ったとき、御米はわざわざ注意した。 それから二日ばかりして、坂井の名刺を添えた立派な菓子折を持って、下女が礼に来たが、せんだってはいろいろ御世話になりまして、ありがとう存じます、いずれ主人が自身に伺うはずでございますがと云いおいて、帰って行った。 その晩宗助は到来の菓子折の葢(ふた)を開けて、唐饅頭(とうまんじゅう)を頬張(ほおば)りながら、「こんなものをくれるところをもって見ると、それほど吝(けち)でもないようだね。他(ひと)の家(うち)の子をブランコへ乗せてやらないって云うのは嘘だろう」と云った。御米も、「きっと嘘よ」と坂井を弁護した。 夫婦と坂井とは泥棒の這入(はい)らない前より、これだけ親しみの度が増したようなものの、それ以上に接近しようと云う念は、宗助の頭にも、御米の胸にも宿らなかった。利害の打算から云えば無論の事、単に隣人の交際とか情誼(じょうぎ)とか云う点から見ても、夫婦はこれよりも前進する勇気を有(も)たなかったのである。もし自然がこのままに無為(むい)の月日を駆(か)ったなら、久しからぬうちに、坂井は昔の坂井になり、宗助は元の宗助になって、崖の上と崖の下に互の家が懸(か)け隔(へだた)るごとく、互の心も離れ離れになったに違なかった。 ところがそれからまた二日置いて、三日目の暮れ方に、獺(かわうそ)の襟(えり)の着いた暖かそうな外套(マント)を着て、突然坂井が宗助の所へやって来た。夜間客に襲(おそ)われつけない夫婦は、軽微の狼狽(ろうばい)を感じたくらい驚ろかされたが、座敷へ上げて話して見ると、坂井は丁寧に先日の礼を述べた後(のち)、「御蔭で取られた品物がまた戻りましたよ」と云いながら、白縮緬(しろちりめん)の兵児帯(へこおび)に巻き付けた金鎖を外(はず)して、両葢(りょうぶた)の金時計を出して見せた。 規則だから警察へ届ける事は届けたが、実はだいぶ古い時計なので、取られてもそれほど惜しくもないぐらいに諦(あき)らめていたら、昨日(きのう)になって、突然差出人の不明な小包が着いて、その中にちゃんと自分の失(な)くしたのが包(くる)んであったんだと云う。「泥棒も持ち扱かったんでしょう。それとも余り金にならないんで、やむを得ず返してくれる気になったんですかね。何しろ珍らしい事で」と坂井は笑っていた。それから、「何私から云うと、実はあの文庫の方がむしろ大切な品でしてね。祖母(ばば)が昔し御殿へ勤めていた時分、戴(いただ)いたんだとか云って、まあ記念(かたみ)のようなものですから」と云うような事も説明して聞かした。 その晩坂井はそんな話を約二時間もして帰って行ったが、相手になった宗助も、茶の間で聞いていた御米も、大変談話の材料に富んだ人だと思わぬ訳に行かなかった。後(あと)で、「世間の広い方(かた)ね」と御米が評した。「閑(ひま)だからさ」と宗助が解釈した。 次の日宗助が役所の帰りがけに、電車を降りて横町の道具屋の前まで来ると、例の獺(かわうそ)の襟(えり)を着けた坂井の外套(マント)がちょっと眼に着いた。横顔を往来の方へ向けて、主人を相手に何か云っている。主人は大きな眼鏡を掛けたまま、下から坂井の顔を見上げている。宗助は挨拶(あいさつ)をすべき折でもないと思ったから、そのまま行き過ぎようとして、店の正面まで来ると、坂井の眼が往来へ向いた。「やあ昨夜は。今御帰りですか」と気軽に声をかけられたので、宗助も愛想(あいそ)なく通り過ぎる訳にも行かなくなって、ちょっと歩調を緩(ゆる)めながら、帽子を取った。すると坂井は、用はもう済んだと云う風をして、店から出て来た。「何か御求めですか」と宗助が聞くと、「いえ、何」と答えたまま、宗助と並んで家(うち)の方へ歩き出した。六七間来たとき、「あの爺(じじ)い、なかなか猾(ずる)い奴ですよ。崋山(かざん)の偽物(にせもの)を持って来て押付(おっつけ)ようとしやがるから、今叱りつけてやったんです」と云い出した。宗助は始めて、この坂井も余裕(よゆう)ある人に共通な好事(こうず)を道楽にしているのだと心づいた。そうしてこの間売り払った抱一(ほういつ)の屏風(びょうぶ)も、最初からこう云う人に見せたら、好かったろうにと、腹の中で考えた。「あれは書画には明るい男なんですか」「なに書画どころか、まるで何も分らない奴です。あの店の様子を見ても分るじゃありませんか。骨董(こっとう)らしいものは一つも並んでいやしない。もとが紙屑屋(かみくずや)から出世してあれだけになったんですからね」 坂井は道具屋の素性(すじょう)をよく知っていた。出入(でいり)の八百屋の阿爺(おやじ)の話によると、坂井の家は旧幕の頃何とかの守(かみ)と名乗ったもので、この界隈(かいわい)では一番古い門閥家(もんばつか)なのだそうである。瓦解(がかい)の際、駿府(すんぷ)へ引き上げなかったんだとか、あるいは引き上げてまた出て来たんだとか云う事も耳にしたようであるが、それは判然(はっきり)宗助の頭に残っていなかった。「小さい内から悪戯(いたずら)ものでね。あいつが餓鬼大将(がきだいしょう)になってよく喧嘩(けんか)をしに行った事がありますよ」と坂井は御互の子供の時の事まで一口洩(も)らした。それがまたどうして崋山の贋物(にせもの)を売り込もうと巧(たく)んだのかと聞くと、坂井は笑って、こう説明した。――「なに親父(おやじ)の代から贔屓(ひいき)にしてやってるものですから、時々何(なん)だ蚊(か)だって持って来るんです。ところが眼も利(き)かない癖に、ただ慾ばりたがってね、まことに取扱い悪(にく)い代物(しろもの)です。それについこの間抱一の屏風を買って貰って、味を占めたんでね」 宗助は驚ろいた。けれども話の途中を遮(さえ)ぎる訳に行かなかったので、黙っていた。坂井は道具屋がそれ以来乗気になって、自身に分りもしない書画類をしきりに持ち込んで来る事やら、大坂出来の高麗焼(こうらいやき)を本物だと思って、大事に飾っておいた事やら話した末、「まあ台所(だいどこ)で使う食卓(ちゃぶだい)か、たかだか新(あら)の鉄瓶(てつびん)ぐらいしか、あんな所じゃ買えたもんじゃありません」と云った。 zzku
2006年09月04日
コメント(0)
cont...八「小六(ころく)さん、茶の間から始めて。それとも座敷の方を先にして」と御米(およね)が聞いた。 小六は四五日前とうとう兄の所へ引き移った結果として、今日の障子(しょうじ)の張替(はりかえ)を手伝わなければならない事となった。彼は昔(むか)し叔父の家にいた時、安之助(やすのすけ)といっしょになって、自分の部屋の唐紙(からかみ)を張り替えた経験がある。その時は糊(のり)を盆に溶(と)いたり、箆(へら)を使って見たり、だいぶ本式にやり出したが、首尾好く乾かして、いざ元の所へ建てるという段になると、二枚とも反(そ)っ繰(く)り返って敷居の溝(みぞ)へ嵌(は)まらなかった。それからこれも安之助と共同して失敗した仕事であるが、叔母の云いつけで、障子を張らせられたときには、水道でざぶざぶ枠(わく)を洗ったため、やっぱり乾いた後で、惣体(そうたい)に歪(ゆがみ)ができて非常に困難した。「姉さん、障子を張るときは、よほど慎重にしないと失策(しくじ)るです。洗っちゃ駄目ですぜ」と云いながら、小六は茶の間の縁側(えんがわ)からびりびり破き始めた。 縁先は右の方に小六のいる六畳が折れ曲って、左には玄関が突き出している。その向うを塀(へい)が縁と平行に塞(ふさ)いでいるから、まあ四角な囲内(かこいうち)と云っていい。夏になるとコスモスを一面に茂らして、夫婦とも毎朝露の深い景色(けしき)を喜んだ事もあるし、また塀の下へ細い竹を立てて、それへ朝顔を絡(から)ませた事もある。その時は起き抜けに、今朝咲いた花の数を勘定(かんじょう)し合って二人が楽(たのしみ)にした。けれども秋から冬へかけては、花も草もまるで枯れてしまうので、小さな砂漠(さばく)みたように、眺(なが)めるのも気の毒なくらい淋(さび)しくなる。小六はこの霜(しも)ばかり降りた四角な地面を背にして、しきりに障子の紙を剥(は)がしていた。 時々寒い風が来て、後(うしろ)から小六の坊主頭と襟(えり)の辺(あたり)を襲(おそ)った。そのたびに彼は吹(ふ)き曝(さら)しの縁から六畳の中へ引っ込みたくなった。彼は赤い手を無言のまま働らかしながら、馬尻(バケツ)の中で雑巾(ぞうきん)を絞(しぼ)って障子の桟(さん)を拭き出した。「寒いでしょう、御気の毒さまね。あいにく御天気が時雨(しぐ)れたもんだから」と御米が愛想(あいそ)を云って、鉄瓶(てつびん)の湯を注(つ)ぎ注(つ)ぎ、昨日(きのう)煮た糊(のり)を溶いた。 小六は実際こんな用をするのを、内心では大いに軽蔑(けいべつ)していた。ことに昨今自分がやむなく置かれた境遇からして、この際多少自己を侮辱しているかの観を抱(いだ)いて雑巾を手にしていた。昔し叔父の家で、これと同じ事をやらせられた時は、暇潰(ひまつぶ)しの慰みとして、不愉快どころかかえって面白かった記憶さえあるのに、今じゃこのくらいな仕事よりほかにする能力のないものと、強いて周囲から諦(あきら)めさせられたような気がして、縁側の寒いのがなおのこと癪(しゃく)に触った。 それで嫂(あによめ)には快よい返事さえ碌(ろく)にしなかった。そうして頭の中で、自分の下宿にいた法科大学生が、ちょっと散歩に出るついでに、資生堂へ寄って、三つ入りの石鹸(シャボン)と歯磨を買うのにさえ、五円近くの金を払う華奢(かしゃ)を思い浮べた。するとどうしても自分一人が、こんな窮境に陥(おちい)るべき理由がないように感ぜられた。それから、こんな生活状態に甘んじて一生を送る兄夫婦がいかにも憫然(ふびん)に見えた。彼らは障子を張る美濃紙(みのがみ)を買うのにさえ気兼(きがね)をしやしまいかと思われるほど、小六から見ると、消極的な暮し方をしていた。「こんな紙じゃ、またすぐ破けますね」と云いながら、小六は巻いた小口を一尺ほど日に透(す)かして、二三度力任せに鳴らした。「そう? でも宅(うち)じゃ小供がないから、それほどでもなくってよ」と答えた御米は糊を含ました刷毛(はけ)を取ってとんとんとんと桟の上を渡した。 二人は長く継(つ)いだ紙を双方から引き合って、なるべく垂(た)るみのできないように力(つと)めたが、小六が時々面倒臭そうな顔をすると、御米はつい遠慮が出て、好加減(いいかげん)に髪剃(かみそり)で小口を切り落してしまう事もあった。したがってでき上ったものには、所々のぶくぶくがだいぶ目についた。御米は情(なさけ)なさそうに、戸袋に立て懸(か)けた張り立ての障子を眺(なが)めた。そうして心の中(うち)で、相手が小六でなくって、夫であったならと思った。「皺(しわ)が少しできたのね」「どうせ僕の御手際(おてぎわ)じゃ旨(うま)く行かない」「なに兄さんだって、そう御上手じゃなくってよ。それに兄さんはあなたよりよっぽど無精(ぶしょう)ね」 小六は何にも答えなかった。台所から清(きよ)が持って来た含嗽茶碗(うがいぢゃわん)を受け取って、戸袋の前へ立って、紙が一面に濡(ぬ)れるほど霧を吹いた。二枚目を張ったときは、先に霧を吹いた分がほぼ乾いて皺(しわ)がおおかた平らになっていた。三枚目を張ったとき、小六は腰が痛くなったと云い出した。実を云うと御米の方は今朝(けさ)から頭が痛かったのである。「もう一枚張って、茶の間だけ済ましてから休みましょう」と云った。 茶の間を済ましているうちに午(ひる)になったので、二人は食事を始めた。小六が引き移ってからこの四五日(しごんち)、御米は宗助(そうすけ)のいない午飯(ひるはん)を、いつも小六と差向(さしむかい)で食べる事になった。宗助といっしょになって以来、御米の毎日膳(ぜん)を共にしたものは、夫よりほかになかった。夫の留守の時は、ただ独(ひと)り箸(はし)を執(と)るのが多年の習慣(ならわし)であった。だから突然この小舅(こじゅうと)と自分の間に御櫃(おはち)を置いて、互に顔を見合せながら、口を動かすのが、御米に取っては一種異(い)な経験であった。それも下女が台所で働らいているときは、まだしもだが、清の影も音もしないとなると、なおのこと変に窮屈な感じが起った。無論小六よりも御米の方が年上であるし、また従来の関係から云っても、両性を絡(から)みつける艶(つや)っぽい空気は、箝束的(けんそくてき)な初期においてすら、二人の間に起り得べきはずのものではなかった。御米は小六と差向(さしむかい)に膳に着くときのこの気ぶっせいな心持が、いつになったら消えるだろうと、心の中(うち)で私(ひそか)に疑ぐった。小六が引き移るまでは、こんな結果が出ようとは、まるで気がつかなかったのだからなおさら当惑した。仕方がないからなるべく食事中に話をして、せめて手持無沙汰(てもちぶさた)な隙間(すきま)だけでも補おうと力(つと)めた。不幸にして今の小六は、この嫂(あによめ)の態度に対してほどの好い調子を出すだけの余裕と分別(ふんべつ)を頭の中に発見し得なかったのである。「小六さん、下宿は御馳走(ごちそう)があって」 こんな質問に逢うと、小六は下宿から遊びに来た時分のように、淡泊(たんぱく)な遠慮のない答をする訳に行かなくなった。やむを得ず、「なにそうでもありません」ぐらいにしておくと、その語気がからりと澄んでいないので、御米の方では、自分の待遇が悪いせいかと解釈する事もあった。それがまた無言の間(あいだ)に、小六の頭に映る事もあった。 ことに今日は頭の具合が好くないので、膳に向っても、御米はいつものように力(つと)めるのが退儀(たいぎ)であった。力(つと)めて失敗するのはなお厭(いや)であった。それで二人とも障子(しょうじ)を張るときよりも言葉少なに食事を済ました。 午後は手が慣(な)れたせいか、朝に比べると仕事が少し果取(はかど)った。しかし二人の気分は飯前よりもかえって縁遠くなった。ことに寒い天気が二人の頭に応(こた)えた。起きた時は、日を載(の)せた空がしだいに遠退(とおの)いて行くかと思われるほどに、好く晴れていたが、それが真蒼(まっさお)に色づく頃から急に雲が出て、暗い中で粉雪(こゆき)でも醸(かも)しているように、日の目を密封した。二人は交(かわ)る交(がわ)る火鉢に手を翳(かざ)した。「兄さんは来年になると月給が上がるんでしょう」 ふと小六がこんな問を御米にかけた。御米はその時畳の上の紙片(かみぎれ)を取って、糊に汚(よご)れた手を拭いていたが、全く思も寄らないという顔をした。「どうして」「でも新聞で見ると、来年から一般に官吏の増俸があると云う話じゃありませんか」 御米はそんな消息を全く知らなかった。小六から詳しい説明を聞いて、始めてなるほどと首肯(うなず)いた。「全くね。これじゃ誰だって、やって行けないわ。御肴(おさかな)の切身なんか、私(わたし)が東京へ来てからでも、もう倍になってるんですもの」と云った。肴の切身の値段になると小六の方が全く無識であった。御米に注意されて始めてそれほどむやみに高くなるものかと思った。 小六にちょっとした好奇心の出たため、二人の会話は存外素直に流れて行った。御米は裏の家主の十八九時代に物価の大変安かった話を、この間宗助から聞いた通り繰り返した。その時分は蕎麦(そば)を食うにしても、盛(もり)かけが八厘、種(たね)ものが二銭五厘であった。牛肉は普通(なみ)が一人前(いちにんまえ)四銭で、ロースは六銭であった。寄席(よせ)は三銭か四銭であった。学生は月に七円ぐらい国から貰(もら)えば中(ちゅう)の部であった。十円も取るとすでに贅沢(ぜいたく)と思われた。「小六さんも、その時分だと訳なく大学が卒業できたのにね」と御米が云った。「兄さんもその時分だと大変暮しやすい訳ですね」と小六が答えた。 座敷の張易(はりかえ)が済んだときにはもう三時過になった。そうこうしているうちには、宗助も帰って来るし、晩の支度(したく)も始めなくってはならないので、二人はこれを一段落として、糊や髪剃(かみそり)を片づけた。小六は大きな伸(のび)を一つして、握(にぎ)り拳(こぶし)で自分の頭をこんこんと叩(たた)いた。「どうも御苦労さま。疲れたでしょう」と御米は小六を労(いた)わった。小六はそれよりも口淋(くちさむ)しい思がした。この間文庫を届けてやった礼に、坂井からくれたと云う菓子を、戸棚(とだな)から出して貰って食べた。御米は御茶を入れた。「坂井と云う人は大学出なんですか」「ええ、やっぱりそうなんですって」 小六は茶を飲んで煙草(たばこ)を吹いた。やがて、「兄さんは増俸の事をまだあなたに話さないんですか」と聞いた。「いいえ、ちっとも」と御米が答えた。「兄さんみたようになれたら好いだろうな。不平も何もなくって」 御米は特別の挨拶(あいさつ)もしなかった。小六はそのまま起(た)って六畳へ這入(はい)ったが、やがて火が消えたと云って、火鉢を抱(かか)えてまた出て来た。彼は兄の家(いえ)に厄介(やっかい)になりながら、もう少し立てば都合がつくだろうと慰めた安之助の言葉を信じて、学校は表向(おもてむき)休学の体(てい)にして一時の始末をつけたのである。cont...--------------
2006年08月14日
コメント(0)
"編集手帳"(8月13日)付「延命措置」という言葉に象徴されるような、終末期医療の在り方が論議を呼んでいる。どんな処置を望むか、患者自身が事前に選択できないような空気も社会にはある死について考えるときに思い出すのは、詩人の青木新門さんが書いた「納棺夫日記」(文春文庫)だ。葬儀社に勤務し、納棺の仕事に携わった体験をつづっているこの仕事を始めた30年以上前には自宅死亡も多く、「枯れ枝のような死体によく出会った」という。しかし、事故死などを除いて病院での死亡が当たり前になった今日では、「ぶよぶよした死体」が多くなった口から食べ物がとれなくても点滴で栄養が補給されているためだが、時には喉(のど)や下腹部から管などをぶら下げたまま、病院から運び出されるケースもあったという。「晩秋に枯れ葉が散るような」、そんな死の形が姿を消した朝から晩まで、猛烈会社の営業部のように周囲から「がんばって」と言われる中で、患者はひとりぼっちで死と対峙(たいじ)しなければならない。こんなことも書かれている青木さんにうかがうと、「私は枯れ枝のような死を選ぶ」と話された。医師とはまた別の視点で死と向かい合ってきた人の言葉には深みがある。自宅死亡は望むべくもないが、病院でも、それぞれの人の希望に沿った死の迎え方ができればと思う。(2006年8月13日 読売新聞)-------------------------ABOUT CINE「ブリキの太鼓」ポーランドのダンチッヒ(現在のグダニスク)を舞台に、3歳で自らの成長を止めた少年オスカルの視点で、1927年から1945年の激動の時代を描いた異色の大力作。ブリキの太鼓を叩き、奇声を発しガラスを割るという不思議な力も身につけたオスカル、従兄との不倫を続ける母、臆病者の父、画面は時代が産んだ奇異なキャラクターとグロテスクな描写に溢れ、その毒気たるや凄まじいばかりのものである。その中から、やがてナチスに呑み込まれていくポーランドの姿が浮かび上がってくる構成は素晴らしく、シュレンドルフの力強い演出もお見事。作品を象徴する主人公オスカルに扮した、D・ベネントの貢献度は計り知れない。-------------------------"ブリキ"(オランダ) blikスズをめっきした薄い鉄板。建材や缶詰の材料とする。-------------------------「ブリキの太鼓」グラス氏、ナチス親衛隊所属を告白【ベルリン支局】小説「ブリキの太鼓」などで知られるドイツのノーベル賞作家、ギュンター・グラス氏(78)が第2次世界大戦末期、ナチスの武装親衛隊に所属していたと、12日付のドイツ紙フランクフルター・アルゲマイネとのインタビューで明らかにした。グラス氏はイラク戦争に反対するなど、ドイツの代表的左派知識人で、半世紀以上を経ての告白は波紋を呼びそうだ。グラス氏はインタビューで、ナチスとの関係を今になって明かした理由について「心に重くのしかかっていた」「戦後は恥だと思うようになり、苦しんだ」などと語った。今年9月に出版される自伝の中でも武装親衛隊に所属していたことを告白しているという。グラス氏によると、武装親衛隊に所属したのは17歳の時。「両親の束縛から自由になる」ため、15歳で潜水艦部隊への配属を志願したが、受け入れられず、結局、敗戦直前になって東部ドレスデンの武装親衛隊機甲師団に招集されたという。グラス氏は1999年にノーベル文学賞を受賞。社会民主党(SPD)の応援など積極的な政治活動でも知られる。(2006年8月13日 読売新聞)--------------------------------Have you ever had This film???
2006年08月13日
コメント(0)
"Promenade de Picasso"by Jacques Prevert,Paroles ピカソの散歩by "ジャック-プレヴェール"(ことばたち)***********************************---------------Sur une assiette bien ronde en porcelaine reelleune pomme pose丸い本物の陶製のお皿の上で林檎ちゃんがポーズをとっているFace a face avec elleun peintre de la realiteessaie vainement de peindrela pomme telle qu'elle est林檎ちゃんの前に陣取るは写実派の画家だあるがままに描こうと必死になっているmaiselle ne se laisse pas faireしかし、林檎ちゃんのほうはそうはさせないla pommeelle a son mot a direet plusieurs tours dans son sac de pomme林檎ちゃんにだって意地があるそれに、林檎の言い分もあるしla pommeet la voila qui tournedans une assiette reellesournoisement sur elle-memedoucement sans bougerそして林檎ちゃんは廻り始める本物のお皿の中で抜け目なく動かず、こっそりとねet comme un duc de Guise qui se deguise en bec de gazparce qu'on veut malgre lui lui tirer le portraitそれで、まるでぷっと膨れた"ギーズ公"みたいになったの、ほんとはねポートレートを描いて欲しかったんだけれどla pomme se deguise en beau bruit deguiseet c'est alorsque le peintre de la realite commence a realiserque toutes les apparences de la pomme sont contre lui林檎ちゃんは..........................写実派の画家ときたら林檎ちゃんを手前に引き寄せたetcomme le malheureux indigentcomme le pauvre necessiteux qui se trouve soudain a la merci de n'importe そして、いかにも同情している様子で気にしないでと恩着せがましくquelle association bienfaisante et charitable et redoutable de bienfaisance de chariteet de redoutabilitele malheureux peintre de la realitese trouve soudain alors etre la triste proied'une innombrable foule d'associations d'ideesEt la pomme en tournant evoque le pommierle Paradis terrestre et Eve et puis Adaml'arrosoir l'espalier Parmentier l'escalierle Canada les Hesperides la Normandie la Reinette et l'Apile serpent du Jeu de Paume le serment du Jus de Pommeet le peche originelet les origines de l'artet la Suisse avec Guillaume Tellet meme Isaac Newtonplusieurs fois prime a l'Exposition de la Gravitation Universelleet le peintre etourdi perd de vue son modeleet s'endortC'est alors que Picassoqui passait par la comme il passe partoutchaque jour comme chez luivoit la pomme et l'assiette et le peintre endormiQuelle idee de peindre une pommedit Picassoet Picasso mange la pommeet la pomme lui dit Merciet Picasso casse l'assietteet s'en va en souriantet le peintre arrache a ses songescomme une dentse retrouve tout seul devant sa toile inacheveeavec au beau milieu de sa vaisselle briseeles terrifiants pepins de la realite..Paroles - Guallimard - 1949 . --------------------------ABOUT"ギーズ公"(Duc de Guise)出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』フランス貴族の称号。ユグノー戦争ではカトリック側の中心勢力として、プロテスタントに対抗した。ロレーヌ公家の系統で、1528年にクロード (ギーズ公)がギーズ公の称号を得た。クロードの娘メアリーはスコットランド王ジェームズ5世に嫁ぎ、その間に生まれたメアリー(メアリー・スチュワート)がフランス王フランソワ2世と結婚(1558年)したことで、ギーズ家は宮廷内に地位を築いた。フランス史上、ユグノー戦争(1562-1598年)でカトリック勢力の中心になったフランソワ・アンリ父子が有名。\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\映画史上に残る傑作「天井桟敷の人々」の脚本家、シャンソンの名曲「枯葉」の作詞者、そして世界の人々に愛される幸福な詩人、"Jacques Prevert"(プレヴェール)--------------------------"Les feuilles mortes"(枯葉)Paroles: Jacques Prevert. Musique: Joseph Kosma♪~Oh ! je voudrais tant que tu te souviennesDes jours heureux ou nous etions amis.En ce temps-la la vie etait plus belle,Et le soleil plus brulant qu'aujourd'hui.Les feuilles mortes se ramassent a la pelle.Tu vois, je n'ai pas oublie...Les feuilles mortes se ramassent a la pelle,Les souvenirs et les regrets aussiEt le vent du nord les emporteDans la nuit froide de l'oubli.Tu vois, je n'ai pas oublieLa chanson que tu me chantais.(Refrain:)C'est une chanson qui nous ressemble.Toi, tu m'aimais et je t'aimaisEt nous vivions tous deux ensemble,Toi qui m'aimais, moi qui t'aimais.Mais la vie separe ceux qui s'aiment,Tout doucement, sans faire de bruitEt la mer efface sur le sableLes pas des amants desunis.Les feuilles mortes se ramassent a la pelle,Les souvenirs et les regrets aussiMais mon amour silencieux et fideleSourit toujours et remercie la vie.Je t'aimais tant, tu etais si jolie.Comment veux-tu que je t'oublie ?En ce temps-la, la vie etait plus belleEt le soleil plus brulant qu'aujourd'hui.Tu etais ma plus douce amieMais je n'ai que faire des regretsEt la chanson que tu chantais,Toujours, toujours je l'entendrai !(Refrain)--------------------------Could you try to translate into Japanese!!
2006年08月12日
コメント(0)
cont...***************宗助は玄関から下駄を提(さ)げて来て、すぐ庭へ下りた。縁の先へ便所が折れ曲って突き出しているので、いとど狭い崖下が、裏へ抜ける半間ほどの所はなおさら狭苦しくなっていた。御米は掃除屋(そうじや)が来るたびに、この曲り角を気にしては、「あすこがもう少し広いといいけれども」と危険(あぶな)がるので、よく宗助から笑われた事があった。 そこを通り抜けると、真直(まっすぐ)に台所まで細い路が付いている。元は枯枝の交った杉垣があって、隣の庭の仕切りになっていたが、この間家主が手を入れた時、穴だらけの杉葉を奇麗(きれい)に取り払って、今では節(ふし)の多い板塀(いたべい)が片側を勝手口まで塞(ふさ)いでしまった。日当りの悪い上に、樋(とい)から雨滴(あまだれ)ばかり落ちるので、夏になると秋海棠(しゅうかいどう)がいっぱい生える。その盛りな頃は青い葉が重なり合って、ほとんど通り路がなくなるくらい茂って来る。始めて越した年は、宗助も御米もこの景色(けしき)を見て驚ろかされたくらいである。この秋海棠は杉垣のまだ引き抜かれない前から、何年となく地下に蔓(はびこ)っていたもので、古家(ふるや)の取り毀(こぼ)たれた今でも、時節が来ると昔の通り芽を吹くものと解った時、御米は、「でも可愛いわね」と喜んだ。 宗助が霜を踏んで、この記念の多い横手へ出た時、彼の眼は細長い路次(ろじ)の一点に落ちた。そうして彼は日の通わない寒さの中にはたと留まった。 彼の足元には黒塗の蒔絵(まきえ)の手文庫が放り出してあった。中味はわざわざそこへ持って来て置いて行ったように、霜の上にちゃんと据(すわ)っているが、蓋(ふた)は二三尺離れて、塀(へい)の根に打ちつけられたごとくに引っ繰り返って、中を張った千代紙(ちよがみ)の模様が判然(はっきり)見えた。文庫の中から洩(も)れた、手紙や書付類が、そこいらに遠慮なく散らばっている中に、比較的長い一通がわざわざ二尺ばかり広げられて、その先が紙屑のごとく丸めてあった。宗助は近づいて、この揉苦茶(もみくちゃ)になった紙の下を覗(のぞ)いて覚えず苦笑した。下には大便が垂れてあった。 土の上に散らばっている書類を一纏(ひとまとめ)にして、文庫の中へ入れて、霜と泥に汚れたまま宗助は勝手口まで持って来た。腰障子(こししょうじ)を開けて、清に「おいこれをちょっとそこへ置いてくれ」と渡すと、清は妙な顔をして、不思議そうにそれを受取った。御米は奥で座敷へ払塵(はたき)を掛けていた。宗助はそれから懐手(ふところで)をして、玄関だの門の辺(あたり)をよく見廻ったが、どこにも平常と異なる点は認められなかった。 宗助はようやく家(うち)へ入った。茶の間へ来て例の通り火鉢(ひばち)の前へ坐(すわ)ったが、すぐ大きな声を出して御米を呼んだ。御米は、「起き抜けにどこへ行っていらしったの」と云いながら奥から出て来た。「おい昨夜(ゆうべ)枕元で大きな音がしたのは、やっぱり夢じゃなかったんだ。泥棒だよ。泥棒が坂井さんの崖(がけ)の上から宅(うち)の庭へ飛び下りた音だ。今裏へ回って見たら、この文庫が落ちていて、中にはいっていた手紙なんぞが、むちゃくちゃに放り出してあった。おまけに御馳走(ごちそう)まで置いて行った」 宗助は文庫の中から、二三通の手紙を出して御米に見せた。それには皆(みんな)坂井の名宛(なあて)が書いてあった。御米は吃驚(びっくり)して立膝のまま、「坂井さんじゃほかに何か取られたでしょうか」と聞いた。宗助は腕組をして、「ことに因(よ)ると、まだ何かやられたね」と答えた。 夫婦はともかくもと云うので、文庫をそこへ置いたなり朝飯の膳(ぜん)に着いた。しかし箸(はし)を動かす間(ま)も泥棒の話は忘れなかった。御米は自分の耳と頭のたしかな事を夫に誇った。宗助は耳と頭のたしかでない事を幸福とした。「そうおっしゃるけれど、これが坂井さんでなくって、宅で御覧なさい。あなたみたように、ぐうぐう寝ていらしったら困るじゃないの」と御米が宗助をやり込めた。「なに、宅なんぞへ這入(はい)る気遣(きづかい)はないから大丈夫だ」と宗助も口の減らない返事をした。 そこへ清が突然台所から顔を出して、「この間拵(こしら)えた旦那様の外套(マント)でも取られようものなら、それこそ騒ぎでございましたね。御宅(おうち)でなくって坂井さんだったから、本当に結構でございます」と真面目(まじめ)に悦(よろこび)の言葉を述べたので、宗助も御米も少し挨拶(あいさつ)に窮(きゅう)した。 食事を済ましても、出勤の時刻にはまだだいぶ間があった。坂井では定めて騒いでるだろうと云うので、文庫は宗助が自分で持って行ってやる事にした。蒔絵(まきえ)ではあるが、ただ黒地に亀甲形(きっこうがた)を金(きん)で置いただけの事で、別に大して金目の物とも思えなかった。御米は唐桟(とうざん)の風呂敷(ふろしき)を出してそれを包(くる)んだ。風呂敷が少し小さいので、四隅(よすみ)を対(むこ)う同志繋(つな)いで、真中にこま結びを二つ拵(こしら)えた。宗助がそれを提(さ)げたところは、まるで進物の菓子折のようであった。 座敷で見ればすぐ崖の上だが、表から廻ると、通りを半町ばかり来て、坂を上(のぼ)って、また半町ほど逆に戻らなければ、坂井の門前へは出られなかった。宗助は石の上へ芝を盛って扇骨木(かなめ)を奇麗(きれい)に植えつけた垣に沿うて門内に入った。 家(いえ)の内はむしろ静か過ぎるくらいしんとしていた。摺硝子(すりガラス)の戸が閉(た)ててある玄関へ来て、ベルを二三度押して見たが、ベルが利(き)かないと見えて誰も出て来なかった。宗助は仕方なしに勝手口へ廻った。そこにも摺硝子の嵌(は)まった腰障子(こししょうじ)が二枚閉ててあった。中では器物を取り扱う音がした。宗助は戸を開けて、瓦斯七輪(ガスしちりん)を置いた板の間に蹲踞(しゃが)んでいる下女に挨拶(あいさつ)をした。「これはこちらのでしょう。今朝私(わたし)の家(うち)の裏に落ちていましたから持って来ました」と云いながら、文庫を出した。 下女は「そうでございましたか、どうも」と簡単に礼を述べて、文庫を持ったまま、板の間の仕切まで行って、仲働(なかばたらき)らしい女を呼び出した。そこで小声に説明をして、品物を渡すと、仲働はそれを受取ったなり、ちょっと宗助の方を見たがすぐ奥へ入った。入(い)れ違(ちがえ)に、十二三になる丸顔の眼の大きな女の子と、その妹らしい揃(そろい)のリボンを懸(か)けた子がいっしょに馳(か)けて来て、小さい首を二つ並べて台所へ出した。そうして宗助の顔を眺(なが)めながら、泥棒よと耳語(ささやき)やった。宗助は文庫を渡してしまえば、もう用が済んだのだから、奥の挨拶はどうでもいいとして、すぐ帰ろうかと考えた。「文庫は御宅のでしょうね。いいんでしょうね」と念を押して、何(な)にも知らない下女を気の毒がらしているところへ、最前の仲働が出て来て、「どうぞ御通り下さい」と丁寧(ていねい)に頭を下げたので、今度は宗助の方が少し痛み入るようになった。下女はいよいよしとやかに同じ請求を繰り返した。宗助は痛み入る境を通り越して、ついに迷惑を感じ出した。ところへ主人が自分で出て来た。 主人は予想通り血色の好い下膨(しもぶくれ)の福相(ふくそう)を具(そな)えていたが、御米の云ったように髭(ひげ)のない男ではなかった。鼻の下に短かく刈り込んだのを生やして、ただ頬(ほお)から腮(あご)を奇麗(きれい)に蒼(あお)くしていた。「いやどうもとんだ御手数(ごてかず)で」と主人は眼尻(めじり)に皺(しわ)を寄せながら礼を述べた。米沢(よねざわ)の絣(かすり)を着た膝(ひざ)を板の間に突いて、宗助からいろいろ様子を聞いている態度が、いかにも緩(ゆっ)くりしていた。宗助は昨夕(ゆうべ)から今朝へかけての出来事を一通り掻(か)い撮(つま)んで話した上、文庫のほかに何か取られたものがあるかないかを尋ねて見た。主人は机の上に置いた金時計を一つ取られた由(よし)を答えた。けれどもまるで他(ひと)のものでも失(な)くなした時のように、いっこう困ったと云う気色(けしき)はなかった。時計よりはむしろ宗助の叙述の方に多くの興味を有(も)って、泥棒が果して崖を伝って裏から逃げるつもりだったろうか、または逃げる拍子(ひょうし)に、崖から落ちたものだろうかと云うような質問を掛けた。宗助は固(もと)より返答ができなかった。 そこへ最前の仲働が、奥から茶や莨(たばこ)を運んで来たので、宗助はまた帰りはぐれた。主人はわざわざ座蒲団(ざぶとん)まで取り寄せて、とうとうその上へ宗助の尻を据(す)えさした。そうして今朝(けさ)早く来た刑事の話をし始めた。刑事の判定によると、賊は宵(よい)から邸内に忍び込んで、何でも物置かなぞに隠れていたに違ない。這入口(はいりくち)はやはり勝手である。燐寸(マッチ)を擦(す)って蝋燭(ろうそく)を点(とも)して、それを台所にあった小桶(こおけ)の中へ立てて、茶の間へ出たが、次の部屋には細君と子供が寝ているので、廊下伝いに主人の書斎へ来て、そこで仕事をしていると、この間生れた末の男の子が、乳を呑(の)む時刻が来たものか、眼を覚(さ)まして泣き出したため、賊は書斎の戸を開けて庭へ逃げたらしい。「平常(いつも)のように犬がいると好かったんですがね。あいにく病気なので、四五日前病院へ入れてしまったもんですから」と主人は残念がった。宗助も、「それは惜しい事でした」と答えた。すると主人はその犬の種(ブリード)やら血統やら、時々猟(かり)に連れて行く事や、いろいろな事を話し始めた。「猟(りょう)は好ですから。もっとも近来は神経痛で少し休んでいますが。何しろ秋口から冬へ掛けて鴫(しぎ)なぞを打ちに行くと、どうしても腰から下は田の中へ浸(つか)って、二時間も三時間も暮らさなければならないんですから、全く身体(からだ)には好くないようです」 主人は時間に制限のない人と見えて、宗助が、なるほどとか、そうですか、とか云っていると、いつまでも話しているので、宗助はやむを得ず中途で立ち上がった。「これからまた例の通り出かけなければなりませんから」と切り上げると、主人は始めて気がついたように、忙がしいところを引き留めた失礼を謝した。そうしていずれまた刑事が現状を見に行くかも知れないから、その時はよろしく願うと云うような事を述べた。最後に、「どうかちと御話に。私も近頃はむしろ閑(ひま)な方ですから、また御邪魔に出ますから」と丁寧(ていねい)に挨拶をした。門を出て急ぎ足に宅(うち)へ帰ると、毎朝出る時刻よりも、もう三十分ほど後れていた。「あなたどうなすったの」と御米が気を揉(も)んで玄関へ出た。宗助はすぐ着物を脱いで洋服に着換えながら、「あの坂井と云う人はよっぽど気楽な人だね。金があるとああ緩(ゆっ)くりできるもんかな」と云った。cont...-----------------
2006年08月12日
コメント(0)
cont..*******七円明寺の杉が焦(こ)げたように赭黒(あかぐろ)くなった。天気の好い日には、風に洗われた空の端(は)ずれに、白い筋の嶮(けわ)しく見える山が出た。年は宗助(そうすけ)夫婦を駆(か)って日ごとに寒い方へ吹き寄せた。朝になると欠かさず通る納豆売(なっとううり)の声が、瓦(かわら)を鎖(とざ)す霜(しも)の色を連想せしめた。宗助は床の中でその声を聞きながら、また冬が来たと思い出した。御米(およね)は台所で、今年も去年のように水道の栓(せん)が氷ってくれなければ助かるがと、暮から春へ掛けての取越苦労をした。夜になると夫婦とも炬燵(こたつ)にばかり親しんだ。そうして広島や福岡の暖かい冬を羨(うら)やんだ。「まるで前の本多さんみたようね」と御米が笑った。前の本多さんと云うのは、やはり同じ構内(かまえうち)に住んで、同じ坂井の貸家を借りている隠居夫婦であった。小女(こおんな)を一人使って、朝から晩までことりと音もしないように静かな生計(くらし)を立てていた。御米が茶の間で、たった一人裁縫(しごと)をしていると、時々御爺(おじい)さんと云う声がした。それはこの本多の御婆さんが夫を呼ぶ声であった。門口(かどぐち)などで行き逢うと、丁寧(ていねい)に時候の挨拶(あいさつ)をして、ちと御話にいらっしゃいと云うが、ついぞ行った事もなければ、向うからも来た試(ためし)がない。したがって夫婦の本多さんに関する知識は極(きわ)めて乏しかった。ただ息子が一人あって、それが朝鮮の統監府(とうかんふ)とかで、立派な役人になっているから、月々その方の仕送(しおくり)で、気楽に暮らして行かれるのだと云う事だけを、出入(でいり)の商人のあるものから耳にした。「御爺さんはやっぱり植木を弄(いじ)っているかい」「だんだん寒くなったから、もうやめたんでしょう。縁の下に植木鉢がたくさん並んでるわ」 話はそれから前の家(うち)を離れて、家主(やぬし)の方へ移った。これは、本多とはまるで反対で、夫婦から見ると、この上もない賑(にぎ)やかそうな家庭に思われた。この頃は庭が荒れているので、大勢の小供が崖(がけ)の上へ出て騒ぐ事はなくなったが、ピヤノの音は毎晩のようにする。折々は下女か何ぞの、台所の方で高笑をする声さえ、宗助の茶の間まで響いて来た。「ありゃいったい何をする男なんだい」と宗助が聞いた。この問は今までも幾度か御米に向って繰り返されたものであった。「何にもしないで遊(あす)んでるんでしょう。地面や家作を持って」と御米が答えた。この答も今までにもう何遍か宗助に向って繰り返されたものであった。 宗助はこれより以上立ち入って、坂井の事を聞いた事がなかった。学校をやめた当座は、順境にいて得意な振舞をするものに逢うと、今に見ろと云う気も起った。それがしばらくすると、単なる憎悪(ぞうお)の念に変化した。ところが一二年このかたは全く自他の差違に無頓着(むとんじゃく)になって、自分は自分のように生れついたもの、先は先のような運を持って世の中へ出て来たもの、両方共始から別種類の人間だから、ただ人間として生息する以外に、何の交渉も利害もないのだと考えるようになってきた。たまに世間話のついでとして、ありゃいったい何をしている人だぐらいは聞きもするが、それより先は、教えて貰う努力さえ出すのが面倒だった。御米にもこれと同じ傾きがあった。けれどもその夜(よ)は珍らしく、坂井の主人は四十恰好(かっこう)の髯(ひげ)のない人であると云う事やら、ピヤノを弾くのは惣領(そうりょう)の娘で十二三になると云う事やら、またほかの家(うち)の小供が遊びに来ても、ブランコへ乗せてやらないと云う事やらを話した。「なぜほかの家の子供はブランコへ乗せないんだい」「つまり吝(けち)なんでしょう。早く悪くなるから」 宗助は笑い出した。彼はそのくらい吝嗇(けち)な家主が、屋根が漏(も)ると云えば、すぐ瓦師(かわらし)を寄こしてくれる、垣が腐ったと訴えればすぐ植木屋に手を入れさしてくれるのは矛盾だと思ったのである。 その晩宗助の夢には本多の植木鉢も坂井のブランコもなかった。彼は十時半頃床に入って、万象に疲れた人のように鼾(いびき)をかいた。この間から頭の具合がよくないため、寝付(ねつき)の悪いのを苦にしていた御米は、時々眼を開けて薄暗い部屋を眺(なが)めた。細い灯(ひ)が床の間の上に乗せてあった。夫婦は夜中(よじゅう)灯火(あかり)を点(つ)けておく習慣がついているので、寝る時はいつでも心(しん)を細目にして洋灯(ランプ)をここへ上げた。 御米は気にするように枕の位置を動かした。そうしてそのたびに、下にしている方の肩の骨を、蒲団(ふとん)の上で滑(すべ)らした。しまいには腹這(はらばい)になったまま、両肱(りょうひじ)を突いて、しばらく夫の方を眺めていた。それから起き上って、夜具の裾(すそ)に掛けてあった不断着を、寝巻(ねまき)の上へ羽織(はお)ったなり、床の間の洋灯を取り上げた。「あなたあなた」と宗助の枕元へ来て曲(こご)みながら呼んだ。その時夫はもう鼾をかいていなかった。けれども、元の通り深い眠(ねむり)から来る呼吸(いき)を続けていた。御米はまた立ち上って、洋灯を手にしたまま、間(あい)の襖(ふすま)を開けて茶の間へ出た。暗い部屋が茫漠(ぼんやり)手元の灯に照らされた時、御米は鈍く光る箪笥(たんす)の環(かん)を認めた。それを通り過ぎると黒く燻(くす)ぶった台所に、腰障子(こししょうじ)の紙だけが白く見えた。御米は火の気(け)のない真中に、しばらく佇(たた)ずんでいたが、やがて右手に当る下女部屋の戸を、音のしないようにそっと引いて、中へ洋灯の灯を翳(かざ)した。下女は縞(しま)も色も判然(はっきり)映らない夜具の中に、土竜(もぐら)のごとく塊(かた)まって寝ていた。今度は左側の六畳を覗(のぞ)いた。がらんとして淋(さみ)しい中に、例の鏡台が置いてあって、鏡の表が夜中だけに凄(すご)く眼に応(こた)えた。 御米は家中を一回(ひとまわり)回った後(あと)、すべてに異状のない事を確かめた上、また床の中へ戻った。そうしてようやく眼を眠った。今度は好い具合に、眼蓋(まぶた)のあたりに気を遣(つか)わないで済むように覚えて、しばらくするうちに、うとうととした。 するとまたふと眼が開(あ)いた。何だかずしんと枕元で響いたような心持がする。耳を枕から離して考えると、それはある大きな重いものが、裏の崖から自分達の寝ている座敷の縁の外へ転がり落ちたとしか思われなかった。しかし今眼が覚(さ)めるすぐ前に起った出来事で、けっして夢の続じゃないと考えた時、御米は急に気味を悪くした。そうして傍に寝ている夫の夜具の袖(そで)を引いて、今度は真面目(まじめ)に宗助を起し始めた。 宗助はそれまで全くよく寝ていたが、急に眼が覚(さ)めると、御米が、「あなたちょっと起きて下さい」と揺(ゆす)っていたので、半分は夢中に、「おい、好し」とすぐ蒲団(ふとん)の上へ起き直った。御米は小声で先刻(さっき)からの様子を話した。「音は一遍した限(ぎり)なのかい」「だって今したばかりなのよ」 二人はそれで黙った。ただじっと外の様子を伺っていた。けれども世間は森(しん)と静であった。いつまで耳を峙(そばだ)てていても、再び物の落ちて来る気色(けしき)はなかった。宗助は寒いと云いながら、単衣(ひとえ)の寝巻の上へ羽織を被(かぶ)って、縁側(えんがわ)へ出て、雨戸を一枚繰った。外を覗(のぞ)くと何にも見えない。ただ暗い中から寒い空気がにわかに肌に逼(せま)って来た。宗助はすぐ戸を閉(た)てた。 (かきがね)をおろして座敷へ戻るや否や、また蒲団の中へ潜(もぐ)り込んだが、「何にも変った事はありゃしない。多分御前(おまい)の夢だろう」と云って、宗助は横になった。御米はけっして夢でないと主張した。たしかに頭の上で大きな音がしたのだと固執(こしつ)した。宗助は夜具から半分出した顔を、御米の方へ振り向けて、「御米、お前は神経が過敏になって、近頃どうかしているよ。もう少し頭を休めてよく寝る工夫でもしなくっちゃいけない」と云った。 その時次の間の柱時計が二時を打った。その音で二人ともちょっと言葉を途切らして、黙って見ると、夜はさらに静まり返ったように思われた。二人は眼が冴(さ)えて、すぐ寝つかれそうにもなかった。御米が、「でもあなたは気楽ね。横になると十分経(た)たないうちに、もう寝ていらっしゃるんだから」と云った。「寝る事は寝るが、気が楽で寝られるんじゃない。つまり疲れるからよく寝るんだろう」と宗助が答えた。こんな話をしているうちに、宗助はまた寝入ってしまった。御米は依然として、のつそつ床の中で動いていた。すると表をがらがらと烈(はげ)しい音を立てて車が一台通った。近頃御米は時々夜明前の車の音を聞いて驚ろかされる事があった。そうしてそれを思い合わせると、いつも似寄った刻限なので、必竟(ひっきょう)は毎朝同じ車が同じ所を通るのだろうと推測した。多分牛乳を配達するためかなどで、ああ急ぐに違ないときめていたから、この音を聞くと等しく、もう夜が明けて、隣人の活動が始ったごとくに、心丈夫になった。そうこうしていると、どこかで鶏(とり)の声が聞えた。またしばらくすると、下駄(げた)の音を高く立てて往来を通るものがあった。そのうち清(きよ)が下女部屋の戸を開けて厠(かわや)へ起きた模様だったが、やがて茶の間へ来て時計を見ているらしかった。この時床の間に置いた洋灯(ランプ)の油が減って、短かい心(しん)に届かなくなったので、御米の寝ている所は真暗になっていた。そこへ清の手にした灯火(あかり)の影が、襖(ふすま)の間から射し込んだ。「清かい」と御米が声を掛けた。清はそれからすぐ起きた。三十分ほど経(た)って御米も起きた。また三十分ほど経って宗助もついに起きた。平常(いつも)は好い時分に御米がやって来て、「もう起きてもよくってよ」と云うのが例であった。日曜とたまの旗日(はたび)には、それが、「さあもう起きてちょうだい」に変るだけであった。しかし今日は昨夕(ゆうべ)の事が何となく気にかかるので、御米の迎(むかえ)に来ないうち宗助は床を離れた。そうして直(すぐ)崖下の雨戸を繰った。 下から覗(のぞ)くと、寒い竹が朝の空気に鎖(とざ)されてじっとしている後(うしろ)から、霜(しも)を破る日の色が射して、幾分か頂(いただき)を染めていた。その二尺ほど下の勾配(こうばい)の一番急な所に生えている枯草が、妙に摺(す)り剥(む)けて、赤土の肌を生々(なまなま)しく露出した様子に、宗助はちょっと驚ろかされた。それから一直線に降(お)りて、ちょうど自分の立っている縁鼻(えんばな)の土が、霜柱を摧(くだ)いたように荒れていた。宗助は大きな犬でも上から転がり落ちたのじゃなかろうかと思った。しかし犬にしてはいくら大きいにしても、余り勢が烈し過ぎると思った。 --------------------------cont....
2006年08月12日
コメント(0)
"編集手帳"(8月12日)付「智仁勇」は武士の三徳といわれた。すべて備えるのはいかにも大変そうだが、武士の心得を記した「葉隠」は「易(やす)きことなり」、じつは簡単だという「智は、人に談合するばかりなり」(人と語らい、相談せよ)。「仁は人の為(ため)になる事なり」(人のためになることをせよ)。「勇は歯噛(はがみ)なり」(歯を食いしばれ)、それに尽きると(岩波文庫「葉隠」)関係先と緊密に連絡を取り合う。人々の生命の安全を一刻たりとも念頭から外さない。見えざる敵を監視する長期戦の緊張に耐え、歯を食いしばる。危機管理、とりわけテロ対策の要諦(ようてい)にも通じる英国で大規模な同時テロ計画が摘発された。実行寸前のところで逮捕された24人の容疑者は、米国に向かう旅客機を10機前後、爆破する計画であったという。背筋に冷たいものが走った人は多いはずである平和な街が一瞬にして戦場に変わる。「9・11」を境に世界は「常在戦場」の時代を迎えた。テロ包囲網の鎖は備えの甘い国、弱い輪が狙われやすい。日本も襲撃する側の目で盲点を洗い出し、警備のタガを締め直す時だろう「葉隠」の一節にある。「端的只今(ただいま)の一念より外(ほか)はこれなく候(そうろう)。一念々々と重ねて一生なり」。卑劣なテロは断じて封じる。弱い輪にならないために、苦しくともその一念を重ねていくしかない。(2006年8月12日 読売新聞)------------------------------------"実家の両親 けんかばかり" 30代独身の女性会社員。実家の両親についての相談です。父は3年前に病気に倒れ、ほとんど声を失ってしまいました。他人との意思の疎通がうまくいかず、後遺症もあり、つらそうです。 おこりっぽくなり、母に八つ当たりすることもしばしばです。母も反発して、言い合いになり、けんかが絶えません。お互い気持ちに余裕がないようです。 私は毎週末実家に帰り、なるべく父と母の話を聞くようにしていますが、その度お互いの悪口を聞かされます。私はそれぞれに「こういう点を直してみれば?」と言うのですが、結局はけんかの繰り返しです。 特に母は、父だけでなく、親類、近所の人、テレビのタレントと、周りのすべてに対して悪口を言います。私もいらいらが募ってきます。「母はストレスがたまっているので仕方ない」と思いながら、冷たい態度を取ってしまいます。 最近は実家に帰るのが苦痛です。ご助言をお願いします。(山口・H子) ◇声を失う苦しさは、大層なものと察しられます。また世話をなさる母上の苦労も、並大抵ではありますまい。思うように意思の疎通がはかれぬ日常を想像すると、ご両親が始終いらだつのも無理ありません。 賢明なあなたは、とうにそのことを気づいておられるし、週末には必ず帰ってご両親の話し相手をなさる。私はあなたの心優しさに打たれます。 そんなあなただから望むのですが、しばらくはご両親のぐちや悪口に、つきあってあげて下さい。父上も母上も、あなた以外に話す相手がいないのです。娘のあなただから、安心して、言いたいことが言えるのです。悪口は聞き難いでしょうが、どうぞ我慢してつきあってあげて下さい。母上はたぶん、あなただけに語っているはず、娘にしゃべるから大仰になるのです。 どこの家族も、こんな風に、家庭のストレスを発散しているのでして、あなただけが特別なのではありません。聞いたことは、あなただけの胸にしまっておくこと。 (出久根 達郎・作 家) (2006年8月11日 読売新聞)-----------------------------Could you??How was your-turn???
2006年08月12日
コメント(0)
cont...-----------夫婦もまた同じように同じ事を繰り返した。その明る日もまだ晴れなかった。三日目の朝になって、宗助は眉(まゆ)を縮めて舌打をした。「いつまで降る気なんだ。靴がじめじめして我慢にも穿(は)けやしない」「六畳だって困るわ、ああ漏(も)っちゃ」 夫婦は相談して、雨が晴れしだい、家根を繕(つくろ)って貰うように家主(やぬし)へ掛け合う事にした。けれども靴の方は何ともしようがなかった。宗助はきしんで這入(はい)らないのを無理に穿(は)いて出て行った。 幸(さいわい)にその日は十一時頃からからりと晴れて、垣に雀(すずめ)の鳴く小春日和(こはるびより)になった。宗助が帰った時、御米は例(いつも)より冴(さ)え冴(ざ)えしい顔色をして、「あなた、あの屏風(びょうぶ)を売っちゃいけなくって」と突然聞いた。抱一(ほういつ)の屏風はせんだって佐伯(さえき)から受取ったまま、元の通り書斎の隅に立ててあったのである。二枚折だけれども、座敷の位置と広さから云っても、実はむしろ邪魔な装飾であった。南へ廻すと、玄関からの入口を半分塞(ふさ)いでしまうし、東へ出すと暗くなる、と云って、残る一方へ立てれば床の間を隠すので、宗助は、「せっかく親爺(おやじ)の記念(かたみ)だと思って、取って来たようなものの、しようがないねこれじゃ、場塞(ばふさ)げで」と零(こぼ)した事も一二度あった。その都度(つど)御米は真丸な縁(ふち)の焼けた銀の月と、絹地からほとんど区別できないような穂芒(ほすすき)の色を眺(なが)めて、こんなものを珍重する人の気が知れないと云うような見えをした。けれども、夫を憚(はばか)って、明白(あから)さまには何とも云い出さなかった。ただ一返(いっぺん)「これでもいい絵なんでしょうかね」と聞いた事があった。その時宗助は始めて抱一の名を御米に説明して聞かした。しかしそれは自分が昔(むか)し父から聞いた覚(おぼえ)のある、朧気(おぼろげ)な記憶を好加減(いいかげん)に繰り返すに過ぎなかった。実際の画(え)の価値や、また抱一についての詳しい歴史などに至ると宗助にもその実(じつ)はなはだ覚束(おぼつか)なかったのである。 ところがそれが偶然御米のために妙な行為の動機を構成(かたちづく)る原因となった。過去一週間夫と自分の間に起った会話に、ふとこの知識を結びつけて考え得た彼女はちょっと微笑(ほほえ)んだ。この日雨が上って、日脚(ひあし)がさっと茶の間の障子(しょうじ)に射した時、御米は不断着の上へ、妙な色の肩掛とも、襟巻(えりまき)ともつかない織物を纏(まと)って外へ出た。通りを二丁目ほど来て、それを電車の方角へ曲って真直(まっすぐ)に来ると、乾物(かんぶつ)屋と麺麭(パン)屋の間に、古道具を売っているかなり大きな店があった。御米はかつてそこで足の畳み込める食卓を買った記憶がある。今 火鉢(ひばち)に掛けてある鉄瓶(てつびん)も、宗助がここから提(さ)げて帰ったものである。 御米は手を袖(そで)にして道具屋の前に立ち留まった。見ると相変らず新らしい鉄瓶がたくさん並べてあった。そのほかには時節柄とでも云うのか火鉢(ひばち)が一番多く眼に着いた。しかし骨董(こっとう)と名のつくほどのものは、一つもないようであった。ひとり何とも知れぬ大きな亀の甲(こう)が、真向(まむこう)に釣るしてあって、その下から長い黄ばんだ払子(ほっす)が尻尾(しっぽ)のように出ていた。それから紫檀(したん)の茶棚(ちゃだな)が一つ二つ飾ってあったが、いずれも狂(くるい)の出そうな生(なま)なものばかりであった。しかし御米にはそんな区別はいっこう映らなかった。ただ掛物も屏風(びょうぶ)も一つも見当らない事だけ確かめて、中へ這入(はい)った。 御米は無論夫が佐伯から受取った屏風(びょうぶ)を、いくらかに売り払うつもりでわざわざここまで足を運んだのであるが、広島以来こう云う事にだいぶ経験を積んだ御蔭(おかげ)で、普通の細君のような努力も苦痛も感ぜずに、思い切って亭主と口を利(き)く事ができた。亭主は五十恰好(かっこう)の色の黒い頬の瘠(こ)けた男で、鼈甲(べっこう)の縁(ふち)を取った馬鹿に大きな眼鏡(めがね)を掛けて、新聞を読みながら、疣(いぼ)だらけの唐金(からかね)の火鉢に手を翳(かざ)していた。「そうですな、拝見に出てもようがす」と軽く受合ったが、別に気の乗った様子もないので、御米は腹の中で少し失望した。しかし自分からがすでに大した望を抱(いだ)いて出て来た訳でもないので、こう簡易に受けられると、こっちから頼むようにしても、見て貰わなければならなかった。「ようがす。じゃのちほど伺いましょう。今小僧がちょっと出ておりませんからな」 御米はこの存在(ぞんざい)な言葉を聞いてそのまま宅(うち)へ帰ったが、心の中では、はたして道具屋が来るか来ないかはなはだ疑わしく思った。一人でいつものように簡単な食事を済まして、清(きよ)に膳を下げさしていると、いきなり御免下さいと云って、大きな声を出して道具屋が玄関からやって来た。座敷へ上げて、例の屏風を見せると、なるほどと云って裏だの縁だのを撫(な)でていたが、「御払(おはらい)になるなら」と少し考えて、「六円に頂いておきましょう」と否々(いやいや)そうに価(ね)を付けた。御米には道具屋の付けた相場が至当のように思われた。けれども一応宗助に話してからでなくっては、余り専断過ぎると心づいた上、品物の歴史が歴史だけに、なおさら遠慮して、いずれ帰ったらよく相談して見た上でと答えたまま、道具屋を帰そうとした。道具屋は出掛に、「じゃ、奥さんせっかくだから、もう一円奮発しましょう。それで御払い下さい」と云った。御米はその時思い切って、「でも、道具屋さん、ありゃ抱一(ほういつ)ですよ」と答えて、腹の中ではひやりとした。道具屋は、平気で、「抱一は近来流行(はや)りませんからな」と受け流したが、じろじろ御米の姿を眺(なが)めた上、「じゃなおよく御相談なすって」と云い捨てて帰って行った。 御米はその時の模様を詳しく話した後(あと)で、「売っちゃいけなくって」とまた無邪気に聞いた。 宗助の頭の中には、この間から物質上の欲求が、絶えず動いていた。ただ地味な生活をしなれた結果として、足らぬ家計(くらし)を足ると諦(あき)らめる癖がついているので、毎月きまって這入(はい)るもののほかには、臨時に不意の工面(くめん)をしてまで、少しでも常以上に寛(くつ)ろいでみようと云う働は出なかった。話を聞いたとき彼はむしろ御米の機敏な才覚に驚ろかされた。同時にはたしてそれだけの必要があるかを疑った。御米の思(おも)わくを聞いて見ると、ここで十円足らずの金が入(はい)れば、宗助の穿(は)く新らしい靴を誂(あつ)らえた上、銘仙(めいせん)の一反ぐらいは買えると云うのである。宗助はそれもそうだと思った。けれども親から伝わった抱一の屏風(びょうぶ)を一方に置いて、片方に新らしい靴及び新らしい銘仙(めいせん)を並べて考えて見ると、この二つを交換する事がいかにも突飛(とっぴ)でかつ滑稽(こっけい)であった。「売るなら売っていいがね。どうせ家(うち)に在(あ)ったって邪魔になるばかりだから。けれどもおれはまだ靴は買わないでも済むよ。この間中みたように、降り続けに降られると困るが、もう天気も好くなったから」「だってまた降ると困るわ」 宗助は御米に対して永久に天気を保証する訳にも行かなかった。御米も降らない前に是非屏風を売れとも云いかねた。二人は顔を見合して笑っていた。やがて、「安過ぎるでしょうか」と御米が聞いた。「そうさな」と宗助が答えた。 彼は安いと云われれば、安いような気がした。もし買手があれば、買手の出すだけの金はいくらでも取りたかった。彼は新聞で、近来古書画の入札が非常に高価になった事を見たような心持がした。せめてそんなものが一幅でもあったらと思った。けれどもそれは自分の呼吸する空気の届くうちには、落ちていないものと諦(あきら)めていた。「買手にも因(よ)るだろうが、売手にも因るんだよ。いくら名画だって、おれが持っていた分にはとうていそう高く売れっこはないさ。しかし七円や八円てえな、余(あんま)り安いようだね」 宗助は抱一の屏風を弁護すると共に、道具屋をも弁護するような語気を洩(も)らした。そうしてただ自分だけが弁護に価(あたい)しないもののように感じた。御米も少し気を腐らした気味で、屏風の話はそれなりにした。 翌日(あくるひ)宗助は役所へ出て、同僚の誰彼にこの話をした。すると皆申し合せたように、それは価(ね)じゃないと云った。けれども誰も自分が周旋して、相当の価に売払ってやろうと云うものはなかった。またどう云う筋を通れば、馬鹿な目に逢わないで済むという手続を教えてくれるものもなかった。宗助はやっぱり横町の道具屋に屏風を売るよりほかに仕方がなかった。それでなければ元の通り、邪魔でも何でも座敷へ立てておくよりほかに仕方がなかった。彼は元の通りそれを座敷へ立てておいた。すると道具屋が来て、あの屏風を十五円に売ってくれと云い出した。夫婦は顔を見合して微笑(ほほえ)んだ。もう少し売らずに置いてみようじゃないかと云って、売らずにおいた。すると道具屋がまた来た。また売らなかった。御米は断るのが面白くなって来た。四度目(よたびめ)には知らない男を一人連れて来たが、その男とこそこそ相談して、とうとう三十五円に価を付けた。その時夫婦も立ちながら相談した。そうしてついに思い切って屏風を売り払った。cont....-------------------Dose it cost How mutch????
2006年08月11日
コメント(0)
"知らぬ顔の半兵衛"(しらぬかおのはんべえ) 素知らぬ振りをして少しも取り合わないこと。また、その人。 例:「知らぬ顔の半兵衛を決め込む」--------------------"論語読みの論語知らず"出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』"論語読みの論語知らず"(ろんごよみのろんごしらず)は、ことわざの一つで、論語を読んだが内容を理解していない人、の意。知ったような顔をしているが、物事の本質を理解していない、ということの喩え。いい意味に使われることわざではない。原文は「読論語、有読了全然無事者。有読了後、其中的一両句喜者。有読了後、知好之者。有読了後、直有不知手之舞之足之蹈者。」朱熹(朱子)の著書『論語序説』に登場する程子の言葉をもとにしたもの。これをもじったものに、マルクス読みのマルクス知らずというのもあった。しかし、今日では社民党・共産党をはじめとする左翼運動全般の退潮とともに、老人語となりつつある。***************************A mere scholar, a mere ass.(学者物知らず)--------------------------cont....六小六(ころく)はともかくも都合しだい下宿を引き払って兄の家へ移る事に相談が調(ととの)った。御米(およね)は六畳に置きつけた桑(くわ)の鏡台を眺(なが)めて、ちょっと残り惜しい顔をしたが、「こうなると少し遣場(やりば)に困るのね」と訴えるように宗助(そうすけ)に告げた。実際ここを取り上げられては、御米の御化粧(おつくり)をする場所が無くなってしまうのである。宗助は何の工夫もつかずに、立ちながら、向うの窓側(まどぎわ)に据(す)えてある鏡の裏を斜(はす)に眺(なが)めた。すると角度の具合で、そこに御米の襟元(えりもと)から片頬が映っていた。それがいかにも血色のわるい横顔なのに驚ろかされて、「御前(おまい)、どうかしたのかい。大変色が悪いよ」と云いながら、鏡から眼を放して、実際の御米の姿を見た。鬢(びん)が乱れて、襟の後(うしろ)の辺(あたり)が垢(あか)で少し汚(よご)れていた。御米はただ、「寒いせいなんでしょう」と答えて、すぐ西側に付いている。一間(いっけん)の戸棚(とだな)を明けた。下には古い創(きず)だらけの箪笥(たんす)があって、上には支那鞄(しなかばん)と柳行李(やなぎごり)が二つ三つ載(の)っていた。「こんなもの、どうしたって片づけようがないわね」「だからそのままにしておくさ」 小六のここへ引移って来るのは、こう云う点から見て、夫婦のいずれにも、多少迷惑であった。だから来ると云って約束しておきながら、今だに来ない小六に対しては、別段の催促もしなかった。一日延びれば延びただけ窮屈が逃げたような気がどこかでした。小六にもちょうどそれと同じ憚(はばかり)があったので、いられる限(かぎり)は下宿にいる方が便利だと胸をきめたものか、つい一日一日と引越を前(さき)へ送っていた。その癖(くせ)彼の性質として、兄夫婦のごとく、荏苒(じんぜん)の境に落ちついてはいられなかったのである。 そのうち薄い霜(しも)が降(お)りて、裏の芭蕉(ばしょう)を見事に摧(くだ)いた。朝は崖上(がけうえ)の家主(やぬし)の庭の方で、鵯(ひよどり)が鋭どい声を立てた。夕方には表を急ぐ豆腐屋の喇叭(らっぱ)に交って、円明寺の木魚の音が聞えた。日はますます短かくなった。そうして御米の顔色は、宗助が鏡の中に認めた時よりも、爽(さや)かにはならなかった。夫(おっと)が役所から帰って来て見ると、六畳で寝ている事が一二度あった。どうかしたかと尋ねると、ただ少し心持が悪いと答えるだけであった。医者に見て貰えと勧めると、それには及ばないと云って取り合わなかった。 宗助は心配した。役所へ出ていてもよく御米の事が気にかかって、用の邪魔になるのを意識する時もあった。ところがある日帰りがけに突然電車の中で膝(ひざ)を拍(う)った。その日は例になく元気よく格子(こうし)を明けて、すぐと勢(いきおい)よく今日はどうだいと御米に聞いた。御米がいつもの通り服や靴足袋(くつたび)を一纏(ひとまと)めにして、六畳へ這入(はい)る後(あと)から追(つ)いて来て、「御米、御前(おまい)子供ができたんじゃないか」と笑いながら云った。御米は返事もせずに俯向(うつむ)いてしきりに夫の背広(せびろ)の埃(ほこり)を払った。刷毛(ブラッシ)の音がやんでもなかなか六畳から出て来ないので、また行って見ると、薄暗い部屋の中で、御米はたった一人寒そうに、鏡台の前に坐(すわ)っていた。はいと云って立ったが、その声が泣いた後の声のようであった。 その晩夫婦は火鉢(ひばち)に掛けた鉄瓶(てつびん)を、双方から手で掩(おお)うようにして差し向った。「どうですな世の中は」と宗助が例にない浮いた調子を出した。御米の頭の中には、夫婦にならない前の、宗助と自分の姿が奇麗(きれい)に浮んだ。「ちっと、面白くしようじゃないか。この頃(ごろ)はいかにも不景気だよ」と宗助がまた云った。二人はそれから今度の日曜にはいっしょにどこへ行こうか、ここへ行こうかと、しばらくそればかり話し合っていた。それから二人の春着の事が題目になった。宗助の同僚の高木とか云う男が、細君に小袖(こそで)とかを強請(ねだ)られた時、おれは細君の虚栄心を満足させるために稼(かせ)いでるんじゃないと云って跳(は)ねつけたら、細君がそりゃ非道(ひど)い、実際寒くなっても着て出るものがないんだと弁解するので、寒ければやむを得ない、夜具を着るとか、毛布(けっと)を被(かぶ)るとかして、当分我慢しろと云った話を、宗助はおかしく繰り返して御米を笑わした。御米は夫のこの様子を見て、昔がまた眼の前に戻ったような気がした。「高木の細君は夜具でも構わないが、おれは一つ新らしい外套(マント)を拵(こしら)えたいな。この間歯医者へ行ったら、植木屋が薦(こも)で盆栽(ぼんさい)の松の根を包んでいたので、つくづくそう思った」「外套が欲しいって」「ああ」 御米は夫の顔を見て、さも気の毒だと云う風に、「御拵(おこし)らえなさいな。月賦で」と云った。宗助は、「まあ止そうよ」と急に侘(わび)しく答えた。そうして「時に小六はいつから来る気なんだろう」と聞いた。「来るのは厭なんでしょう」と御米が答えた。御米には、自分が始めから小六に嫌(きら)われていると云う自覚があった。それでも夫の弟だと思うので、なるべくは反(そり)を合せて、少しでも近づけるように近づけるようにと、今日(こんにち)まで仕向けて来た。そのためか、今では以前と違って、まあ普通の小舅(こじゅうと)ぐらいの親しみはあると信じているようなものの、こんな場合になると、つい実際以上にも気を回して、自分だけが小六の来ない唯一(ゆいいつ)の原因のように考えられるのであった。「そりゃ下宿からこんな所へ移るのは好かあないだろうよ。ちょうどこっちが迷惑を感ずる通り、向うでも窮屈を感ずる訳だから。おれだって、小六が来ないとすれば、今のうち思い切って外套(マント)を作るだけの勇気があるんだけれども」 宗助は男だけに思い切ってこう云ってしまった。けれどもこれだけでは御米の心を尽していなかった。御米は返事もせずに、しばらく黙っていたが、細い腮(あご)を襟(えり)の中へ埋(う)めたまま、上眼(うわめ)を使って、「小六さんは、まだ私の事を悪(にく)んでいらっしゃるでしょうか」と聞き出した。宗助が東京へ来た当座は、時々これに類似の質問を御米から受けて、その都度(つど)慰めるのにだいぶ骨の折れた事もあったが、近来は全く忘れたように何も云わなくなったので、宗助もつい気に留めなかったのである。「またヒステリーが始まったね。好いじゃないか小六なんぞが、どう思ったって。おれさえついてれば」「論語にそう書いてあって」 御米はこんな時に、こういう冗談(じょうだん)を云う女であった。宗助は「うん、書いてある」と答えた。それで二人の会話がしまいになった。 翌日宗助が眼を覚(さ)ますと、亜鉛張(トタンばり)の庇(ひさし)の上で寒い音がした。御米が襷掛(たすきがけ)のまま枕元へ来て、「さあ、もう時間よ」と注意したとき、彼はこの点滴(てんてき)の音を聞きながら、もう少し暖かい蒲団(ふとん)の中に温(ぬく)もっていたかった。けれども血色のよくない御米の、かいがいしい姿を見るや否(いな)や、「おい」と云って直(すぐ)起き上った。 外は濃い雨に鎖(とざ)されていた。崖(がけ)の上の孟宗竹(もうそうちく)が時々鬣(たてがみ)を振(ふる)うように、雨を吹いて動いた。この侘(わ)びしい空の下へ濡(ぬ)れに出る宗助に取って、力になるものは、暖かい味噌汁(みそしる)と暖かい飯よりほかになかった。「また靴の中が濡(ぬ)れる。どうしても二足持っていないと困る」と云って、底に小さい穴のあるのを仕方なしに穿(は)いて、洋袴(ズボン)の裾(すそ)を一寸(いっすん)ばかりまくり上げた。 午過(ひるすぎ)に帰って来て見ると、御米は金盥(かなだらい)の中に雑巾(ぞうきん)を浸(つ)けて、六畳の鏡台の傍(そば)に置いていた。その上の所だけ天井(てんじょう)の色が変って、時々雫(しずく)が落ちて来た。「靴ばかりじゃない。家(うち)の中まで濡(ぬ)れるんだね」と云って宗助は苦笑した。御米はその晩夫のために置炬燵(おきごたつ)へ火を入れて、スコッチの靴下と縞羅紗(しまらしゃ)の洋袴(ズボン)を乾かした。 明(あく)る日もまた同じように雨が降った。cont..--------------
2006年08月11日
コメント(0)
"編集手帳"(8月11日)付江戸川柳に、川留めに腹の立つほど富士が晴れとある。大井川だろうか、雨は上がったものの増水で川が渡れない。空にくっきり映った富士山を恨めしげに仰ぐ旅人の舌打ちが聞こえる川留めならぬ、“空留め”や“駅留め”に遭い、「腹の立つほど」晴れ渡ったきのうの青空を、深いため息とともに仰いだ方もあったろう。運休に欠航、陸と空の便を引っかき回して台風7号が去った旅行の予定が大きく狂い、あるいは取りやめになり、がっかりした顔の家族を引き連れて、空港や駅から自宅に引き返した人のことを考えると、自然の仕業とはいえ、お気の毒と申し上げるほかはないいつもの夏ならばプールにでも連れて行って子供たちに埋め合わせをするところだろうが、埼玉県ふじみ野市のプール事故があった後ではそれも親御さんの心配の種になる文部科学省の緊急調査によれば、全国の公立学校のプールと公営プール2300か所以上で安全管理の不備が見つかったという。子供たちのつまらなそうな顔が目に浮かぶ作家の井上靖は四季では夏、夏の一日では昼下がりの一刻(ひととき)が好きだと書いた。「あの風の死んだ、もの憂い、しんとした真昼のうしみつ刻(どき)だ」と(「夏」)。いくらか浮かない気分の夏、せめて台風一過の日差しだけは大事にしたいものである。(2006年8月11日 読売新聞)-----------------------"夏"by (井上靖)四季で一番好きなのは夏だ。夏の一日で一番好きなのは昼下がりの一刻(ひととき)--、あの風の死んだ、もの憂い、しんとした真昼のうしみつ刻だ。そうした時刻 幼い頃の私はいつも土蔵の窓際で、祖母ととうもろこしを食べていた。 小学校に通っている頃は毎日、インキ壺のような谷川の淵に身を躍らせて、その時刻を過ごした。学生の頃は、校庭の樹蔭で、書物で顔を覆って、爽やかな青春の眠りを眠った。そうしたこの世ならぬ贅沢なすべては遠く去り、今の私にはもはや土蔵も、谷川の淵も、校庭の樹蔭もない。真夏の昼下がりの一刻、私は書斎の縁側の籐椅子に倚って、遠い風景を追い求めている。烈日に燃えた漢地の一画、遠くに何本かの竜巻の柱が立ち、更にその向こうを、静かに駱駝の隊列が横切っている。そうした旅への烈しい思いだけが、風の死んだ、もの憂い、しんとした真昼のうしみつ刻の中に、私を落着かせる。私を生き生きとさせる。(「遠征路」より)--------------------AND..."青葉"by (井上靖)この世にまだ神があった時代、一人の忠臣が木の下蔭馬を留めて、己が子に後事を託して別れて行く話は、誰が作ったか知らぬが、木の下蔭の仄暗さと、そこを渡って行く風の爽やかさの故に、私は好きだ。ひと組の父子の青葉に包まれたドラマの悲しさもさることながら、仄暗く爽やかな小さい空間の設定はみごとである。今はこの世から神は姿を消してしまったが、その空間だけは私たちのものだ。私は愛犬の小屋を木の下蔭におき、幼い孫娘の小さい机を木の下蔭に置く。私の幸福もまた別離とは無縁ではないのだ。 (「季節」より)--------------あらたうと青葉若葉の日の光(あらとうと あおばわかばの ひのひかり)奥の細道(日光)yoyi------------------卯月朔日、御山に詣拝す。往昔、此御山を「二荒山」と書しを、空海大師開基の時、「日光」と改給ふ。千歳未来をさとり給ふにや、今此御光一天にかゝやきて、恩沢八荒にあふれ、四民安堵の栖穏なり。猶、憚多くて筆をさし置ぬ。------------------------------"青葉茂れる桜井の"(桜井の訣別)落合直文作詞/奥山朝恭作曲♪~青葉茂れる桜井の里のわたりの夕まぐれ木(こ)の下陰(したかげ)に駒とめて世の行く末をつくづくと忍ぶ鎧(よろい)の袖(そで)の上(え)に散るは涙かはた露か正成(まさしげ)涙を打ち払い我子(わがこ)正行(まさつら)呼び寄せて父は兵庫へ赴かん彼方(かなた)の浦にて討死(うちじに)せんいましはここまで来(きつ)れどもとくとく帰れ故郷(ふるさと)へ父上いかにのたもうも見捨てまつりてわれ一人いかで帰らん帰られんこの正行は年こそは未(いま)だ若けれ諸共(もろとも)に御供(おんとも)仕(つか)えん死出の旅いましをここより帰さんはわが私(わたくし)の為ならず己れ討死為さんには世は尊氏(たかうじ)の儘(まま)ならん早く生い立ち大君に仕えまつれよ国の為めこの一刀(ひとふり)は往(いに)し年君の賜いし物なるぞこの世の別れの形見にといましにこれを贈りてん行けよ正行故郷へ老いたる母の待ちまさん共に見送り見返りて別れを惜む折りからに復(また)も降り来る五月雨(さみだれ)の空に聞こゆる時鳥(ほととぎす)誰れか哀(あわれ)と聞かざらんあわれ血に泣くその声を------------------------------"THE GREEN LEAVES OF SUMMER" ♪~A time to be reapin', a time to be sowin', the green leaves of summer are callin' me home. It was good to be young the in the season of plenty, when the catfish were jumpin' as high as the sky. A time just for plantin', a time just for ploughin', a time to be courtin', a girl of your own. Twas so good to be young then, to be close to the earth and to stand by your wife at the moment of birth. by "Paul Francis Webster"------------------------------Have you ever had any-light of green-leaves?
2006年08月11日
コメント(0)
働けど 働けどなお 我暮らし 楽にならざり ぢっと手を見るby "啄木"-----------------------以下 USA TODAY yori...What recovery? "Working poor struggle" to pay billsBy Stephanie Armour, USA TODAYCathy Gardner faces difficult choices. With barely enough money to cover her bills and the rent on the home she shares with her brother, she sometimes can't afford to buy food. Other times, she goes without the prescription drugs she takes for her depression. Latwanda Manson takes a break from cooking in her Bronx, N.Y. apartment. "I struggle constantly," the single mother says. Robert Deutsch, USA TODAY It's a constant struggle, even though Gardner holds a full-time job as a hospital food service worker, dishing up trays of pizza, pot roast and beef stroganoff for patients. "There's a manufactured home selling for $7,500, and I can't even afford that," says Gardner, 54, of Salem, Ore., who earns $1,200 a month. "I have a good job, but I have to choose between buying gas or getting food. It's very hard."Food server. Home health care worker. Grocery clerk. These are the kind of bread-and-butter jobs that once sustained a family with decent benefits and solid wages. Today, these jobs are more likely to bring a life of poverty.The ranks of the working poor are swelling as more families slip into poverty, health benefits are lost and low-wage employees bear the brunt of many corporate cutbacks. That means more employees many of them in service jobs that are essential to the economy are working full-time, only to find they can barely support their families.They wait tables at restaurants where they can't afford to eat, wash cars but can only take the bus and care for children but don't make enough to hire a babysitter. About 35 million Americans lived in poverty in 2002, which is 1.7 million more people than in 2001, according to Census data. The federal poverty threshold for a family of four in 2002 was $18,392 in annual income. Nearly 40% of working-age poor people were employed, and the percentage working full time all year increased 45% from 1978 to 2002. "There is a systematic ratcheting down of jobs that once could support a family," says Greg Denier, a spokesman with the United Food and Commercial Workers International Union. "The real question is, what does this mean for the future of the American worker?"A new class of poor The fate of the working poor is becoming a major issue for politicians, union groups and activists who are now calling for reform. Unions are launching membership drives and protests part of an effort to preserve benefits and boost pay for service-sector jobs in much the same way that union muscle helped raise the standard of living for manufacturing workers in the mid-20th century.The rise in low-wage workers is also a catalyst for activists who are waging campaigns to pass living-wage ordinances, which are local laws that require some businesses to pay employees more than the federal minimum wage of $5.15 an hour. The grass-roots effort is having an impact. So far, more than 120 ordinances mandating living wages have been passed. In San Francisco, a citywide wage of $8.50 an hour went into effect in February. New debate The increase is shaping new public dialogue about poverty in America. Philip Coltoff, who is chief executive of the philanthropic Children's Aid Society, looks out of the window of his Park Avenue South office in New York. Bike messengers, taxi drivers and street vendors hawking hot dogs and ball caps populate the street. These people, he says, are the new faces of the working poor. "This is a very interesting sociological change. We've created a new class of poor. There is this huge group of people who want to work, who are working, but it's a form of being indentured," Coltoff says. "America has always been built on the belief that you can do better, but we have shut down the ladder to the middle class." Sherry Byrum, 48, feels there is no way up. The Spokane Valley, Wash., woman works full time at a day care, earning about $9 an hour, and earns $8.43 an hour providing home care for a disabled girl. The number of hours she works each week varies; health insurance costs $71 a week.The work is emotionally fulfilling, she says."When a child gives you a hug or draws you a little scribble, it means everything in the world," Byrum says. "These are important jobs. You're dealing with people's lives."But it's financially frustrating. Her husband just had open heart surgery and doesn't work, so she brings in the only income. They live in a 30-year-old mobile home and get their groceries at a local food bank. They also have medical costs because both are diabetic."Last week, we went several days without really eating. We've got to pay our bills," Byrum says. "I can't buy us the things we should eat because of the diabetes. There are some times I go to bed in tears thinking I just can't do it all."Wages have eroded There are a host of reasons why jobs that once paid decent wages today provide an impoverished lifestyle, economists say. The value of the minimum wage, in real dollars, peaked in the late 1960s. That means workers today who earn minimum wage have less buying power than in years before. The inflation-adjusted value of the $5.15-an-hour minimum wage is at least 24% lower today than it was in 1979, according to the Economic Policy Institute, a non-profit Washington-based think tank. A full-time worker earning minimum wage would earn $10,712 a year, below the 2002 federal poverty line of $11,756 for a family of two. "Wages have eroded and haven't risen with productivity," says Jared Bernstein, an economist with the Economic Policy Institute. "Many occupations that a decade ago afforded a living wage are now low wage."In addition, global competition has intensified profit pressures, causing companies to squeeze wages to cut costs. Unions are not as pervasive as they used to be, which means workers have less clout. Some economists say immigration has added to the labor force supply, causing downward pressure on wages. Immigration has reduced the average annual earnings of male workers born in the USA by $1,700 over the last 20 years, according to new research by the Center for Immigration Studies. The research indicates that immigration increases the supply of labor, which reduces wages. While welfare rolls have dropped by more than 50% since 1994, many of these former recipients have moved into jobs that pay low wages compelled by welfare reform in the 1990s that required many of those who received welfare to work. These are employees who hold jobs as security guards, hotel workers, home health care aides, receptionists, food processors, data-entry clerks, call-center operators, telemarketers. Many are also in home health care or child care workers."Those are jobs that used to be unpaid labor done by women who stayed home. They took care of the children and the elderly," says Marnie Goodfriend, with the Service Employees International Union. "They have transferred to the marketplace, but people can't survive on those jobs."Danielle DaSilva, 25, believes change is needed. She works part time as a restaurant hostess, earning $6.65 an hour, although she wants to work full time. She is also raising two daughters, Jade, 5, and Alana, 2. She owns her own home, but is struggling to make her monthly mortgage payments of $815. Her mother often watches her children while she works, and her children get health insurance through Medicaid."It's awful, it's really awful," says DaSilva, of Kissimmee, Fla. "I work very hard, nine-hour shifts a day. I'm not one of those people who wants to leech off the system. But my children have to live off macaroni and cheese and bologna. It's ridiculous. My kids suffer."Many challenges There are other challenges. For low-wage workers, many of the benefits available to higher earners are out of reach. Consider paid time off. More than half of poor workers, working welfare recipients and workers who recently left welfare are unable to take paid leave from their jobs because it's not offered, according to research by the Urban Institute. Robert Deutsch, USA TODAY Wash day:Latwanda's daughter, Timara Manson, 13, loads laundry at a neighborhood laundromat in the Bronx. While lower interest rates have made homeownership more affordable for many, runaway prices have put homes out of reach for working poor. In the past 12 years, home prices have risen 30% faster than wages and salaries for low-to-moderate-income families, according to an April report by the Milken Institute. While the economy has created nearly a million jobs since March, the pace of job creation has previously been slow taking a toll on lower-wage workers who often lack college degrees. "There's no way of rationalizing a CEO making millions of dollars when workers don't get enough to support themselves. Something seems wrong," says Beth Shulman, author of The Betrayal of Work: How Low-Wage Jobs Fail 30 Million Americans and their Families. "Low-wage workers are subsidizing our lives. We can make better choices that really improve these jobs."Latwanda Manson, 35, says change could bring her better and more affordable health insurance or wages a lifestyle where she wouldn't have to live paycheck to paycheck anymore.Manson, a secretary, earns $30,000. She is a single mother in New York raising her daughters, Taia Bell, 5, and Timara, 13. Health insurance for her family costs her $75 every two weeks."I struggle constantly," she says. "Your children come to you and want things, and you can't give it to them. That's hard. I have to say, 'Give Mommy another two weeks.' -----------------Could you agree that???(*^貧困^*)
2006年08月10日
コメント(0)
"編集手帳"(8月10日)付早慶戦を実況した松内則三(のりぞう)さんの「夕闇迫る神宮球場、カラスが二羽三羽…」。2・26事件の反乱軍に向けた、中村茂さんの「兵に告ぐ」。いまも語り継がれるアナウンサーの名放送がある河西三省(かさい・みつみ)さんの「前畑がんばれ」もよく知られている。数えた人によれば「がんばれ」は36回、「前畑勝った、勝った」は15回に及んだというベルリン五輪の水泳女子二百メートル平泳ぎで、前畑秀子選手が日本人女性として初めての金メダルにかがやいたのは1936年(昭和11年)8月11日のこと、あすで70年になる放送された当座は、NHKの先輩アナウンサーには厳しい採点をくだす人もいたという。「勝った、勝った、そればかりでタイムを伝えるのさえ忘れた」と。河西さんは実況中、興奮のあまり机の上に立ち上がり、頼みのストップウオッチを踏みつぶしていた数々のこぼれ話に彩られたベルリン五輪の熱狂は、日没前の美しい夕映えでもあっただろう。やがて日中戦争がはじまり、4年後に予定されていた東京大会は返上、血なまぐさい闇が時代を覆っていく人々がラジオの前で手に汗を握った「前畑がんばれ」の記憶はいま、ふたつの原爆忌と終戦記念日に挟まれて暦のなかに置かれてある。スポーツに心を躍らせることができる平和のありがたさを語り伝えるかのように。(2006年8月10日 読売新聞) --------------------------"原爆宣言"(NAGASAKI)yori 「人間は、いったい何をしているのか」 被爆から61年目を迎えた今、ここ長崎では怒りといらだちの声が渦巻いています。 1945年8月9日11時2分、長崎は一発の原子爆弾で壊滅し、一瞬にして、7万4千人の人々が亡くなり、7万5千人が傷つきました。人々は、強烈な熱線に焼かれ、凄まじい爆風で吹き飛ばされ、恐るべき放射線を身体に浴び、現在も多くの被爆者が後障害に苦しんでいます。生活や夢を奪われた方々の無念の叫びを、忘れることはできません。 しかし、未だに世界には、人類を滅亡させる約3万発もの核兵器が存在しています。 10年前、国際司法裁判所は、核兵器による威嚇と使用は一般的に国際法に違反するとして、国際社会に核廃絶の努力を強く促しました。 6年前、国連において、核保有国は核の拡散を防ぐだけではなく、核兵器そのものの廃絶を明確に約束しました。 核兵器は、無差別に多数の人間を殺りくする兵器であり、その廃絶は人間が絶対に実現すべき課題です。 昨年、189か国が加盟する核不拡散条約の再検討会議が、成果もなく閉幕し、その後も進展はありません。 核保有国は、核軍縮に真摯に取り組もうとせず、中でも米国は、インドの核兵器開発を黙認して、原子力技術の協力体制を築きつつあります。一方で、核兵器保有を宣言した北朝鮮は、我が国をはじめ世界の平和と安全を脅かしています。また、すでに保有しているパキスタンや、事実上の保有国と言われているイスラエルや、イランの核開発疑惑など、世界の核不拡散体制は崩壊の危機に直面しています。 核兵器の威力に頼ろうとする国々は、今こそ、被爆者をはじめ、平和を願う人々の声に謙虚に耳を傾け、核兵器の全廃に向けて、核軍縮と核不拡散に誠実に取り組むべきです。 また、核兵器は科学者の協力なしには開発できません。科学者は、自分の国のためだけではなく、人類全体の運命と自らの責任を自覚して、核兵器の開発を拒むべきです。 繰り返して日本政府に訴えます。被爆国の政府として、再び悲惨な戦争が起こることのないよう、歴史の反省のうえにたって、憲法の平和理念を守り、非核三原則の法制化と北東アジアの非核兵器地帯化に取り組んでください。さらに、高齢化が進む国内外の被爆者の援護の充実を求めます。 61年もの間、被爆者は自らの悲惨な体験を語り伝えてきました。ケロイドが残る皮膚をあえて隠すことなく、思い出したくない悲惨な体験を語り続ける被爆者の姿は、平和を求める取り組みの原点です。その声は世界に広がり、長崎を最後の被爆地にしようとする活動は、人々の深い共感を呼んでいます。 本年10月、第3回「核兵器廃絶-地球市民集会ナガサキ」が開催されます。過去と未来をつなぐ平和の担い手として、世代と国境を超えて、共に語り合おうではありませんか。しっかりと手を結び、さらに力強い核兵器廃絶と平和のネットワークを、ここ長崎から世界に広げていきましょう。 被爆者の願いを受け継ぐ人々の共感と連帯が、より大きな力となり、必ずや核兵器のない平和な世界を実現させるものと確信しています。 最後に、無念の思いを抱いて亡くなられた方々の御霊の平安を祈り、この2006年を再出発の年とすることを決意し、恒久平和の実現に力を尽くすことを宣言します。 2006年(平成18年)8月9日 長崎市長 伊 藤 一 長 --------------------------Nagasaki Peace Declaration (August 9, 2005)Today the bells of Nagasaki echo in the sky, marking 60 years since the atomic bombing. At 11:02 a.m. on August 9, 1945, a single atomic bomb was dropped from an American warplane, exploding in this same sky above us, instantly destroying the city of Nagasaki. Some 74,000 people were killed, and another 75,000 wounded. Some of the victims never knew what happened. Others pleaded for water as death overtook them. Children, so burned and blackened that they could not even cry out, lay with their eyes closed.Those people who narrowly survived were afflicted with deep physical and mental wounds that could never be healed. They continue to suffer from the after-effects of the bomb, living in fear of death.To the leaders of the nuclear weapons states: Nuclear weapons must never be used for any reason whatsoever. This we know from painful experience. For sixty years we have repeated our plea, "No more Hiroshima! No more Nagasaki!” International society has also been exerting effort for the prohibition of nuclear weapons tests and the establishment of nuclear-weapon-free zones. In 2000, the nuclear weapons states themselves promised an “unequivocal undertaking” for the “elimination of their nuclear arsenals.” Nevertheless, at the end of the Review Conference of the Parties to the Treaty on the Non-Proliferation of Nuclear Weapons held at United Nations headquarters in May of this year,no progress was achieved. The nuclear weapons states, and the United States of America in particular, have ignored their international commitments, and have made no change in their unyielding stance on nuclear deterrence. We strongly resent the trampling of the hopes of the world’s people. To the citizens of the United States of America: We understand your anger and anxiety over the memories of the horror of the 9/11 terrorist attacks. Yet, is your security actually enhanced by your government’s policies of maintaining 10,000 nuclear weapons, of carrying out repeated sub-critical nuclear tests, and of pursuing the development of new “mini” nuclear weapons? We are confident that the vast majority of you desire in your hearts the elimination of nuclear arms. May you join hands with the people of the world who share that same desire, and work together for a peaceful planet free from nuclear weapons. To the government of Japan: Our nation deeply regrets the last war, and our government has supposedly resolved not to engage in actions that might lead to the tragedy of war again. The peaceful ideals of our constitution must be upheld, and the threefold non-nuclear principle of neither possessing, manufacturing, nor allowing nuclear arms within our borders must be enacted into law without delay. The efforts of concerned countries for nuclear disarmament on the Korean peninsula, combined with the concomitant results of the threefold non-nuclear principle, will pave the way for a Northeast Asia nuclear-weapon-free zone. We urge you to adopt a stance that does not rely upon the “nuclear umbrella,” and to take a leading role in nuclear abolition. We would also point out that the atomic bomb survivors have become quite elderly. We further call upon the Japanese government to provide greater assistance to those who continue to suffer from the mental anguish caused by the bombing, and to extend sufficient aid to survivors who now reside overseas. Here in Nagasaki, many young people are learning about the atomic bombing and about peace, and are engaged in activities that they themselves have originated. To our young people: Remember always the miserable deaths of the atomic bomb victims. We ask each of you to earnestly study history and to consider the importance of peace and the sanctity of life. The citizens of Nagasaki stand behind your efforts. May you join hands with the world’s citizens and NGOs, that the bells of peace will ring loud and clear in the sky over Nagasaki. Today, as we mark 60 years since the atomic bombing, we pray for the repose of the souls of those who died, even as we declare our commitment, together with Hiroshima, never to abandon our efforts for the elimination of nuclear weapons and the establishment of lasting world peace. Iccho Itoh, Mayor of Nagasaki -------------------------------Could you agree that??(*^不許^*)
2006年08月10日
コメント(0)
cont...\\\\\\\\\\\\\\\\宗助はその口絵に出ている女の写真を、何枚も繰り返して眺(なが)めた。それから「成功」と云う雑誌を取り上げた。その初めに、成効の秘訣(ひけつ)というようなものが箇条書にしてあったうちに、何でも猛進しなくってはいけないと云う一カ条と、ただ猛進してもいけない、立派な根底の上に立って、猛進しなくってはならないと云う一カ条を読んで、それなり雑誌を伏せた。「成功」と宗助は非常に縁の遠いものであった。宗助はこういう名の雑誌があると云う事さえ、今日(こんにち)まで知らなかった。それでまた珍らしくなって、いったん伏せたのをまた開けて見ると、ふと仮名(かな)の交らない四角な字が二行ほど並んでいた。それには風(かぜ)碧落(へきらく)を吹(ふ)いて浮雲(ふうん)尽(つ)き、月(つき)東山(とうざん)に上(のぼ)って玉(ぎょく)一団(いちだん)とあった。宗助は詩とか歌とかいうものには、元から余り興味を持たない男であったが、どう云う訳かこの二句を読んだ時に大変感心した。対句(ついく)が旨(うま)くできたとか何とか云う意味ではなくって、こんな景色(けしき)と同じような心持になれたら、人間もさぞ嬉(うれ)しかろうと、ひょっと心が動いたのである。宗助は好奇心からこの句の前に付いている論文を読んで見た。しかしそれはまるで無関係のように思われた。ただこの二句が雑誌を置いた後(あと)でも、しきりに彼の頭の中を徘徊(はいかい)した。彼の生活は実際この四五年来こういう景色に出逢った事がなかったのである。 その時向うの戸が開(あ)いて、紙片(かみぎれ)を持った書生が野中さんと宗助を手術室へ呼び入れた。 中へ這入(はい)ると、そこは応接間よりは倍も広かった。光線がなるべく余計取れるように明るく拵(こし)らえた部屋の二側(ふたがわ)に、手術用の椅子(いす)を四台ほど据(す)えて、白い胸掛をかけた受持の男が、一人ずつ別々に療治をしていた。宗助は一番奥の方にある一脚に案内されて、これへと云われるので、踏段のようなものの上へ乗って、椅子へ腰をおろした。書生が厚い縞入(しまいり)の前掛で丁寧(ていねい)に膝(ひざ)から下を包(くる)んでくれた。 こう穏(おだ)やかに寝(ね)かされた時、宗助は例の歯がさほど苦になるほど痛んでいないと云う事を発見した。そればかりか、肩も背(せな)も、腰の周(まわ)りも、心安く落ちついて、いかにも楽に調子が取れている事に気がついた。彼はただ仰向(あおむ)いて天井(てんじょう)から下っている瓦斯管(ガスかん)を眺めた。そうしてこの構(かまえ)と設備では、帰りがけに思ったより高い療治代を取られるかも知れないと気遣(きづか)った。 ところへ顔の割に頭の薄くなり過ぎた肥(ふと)った男が出て来て、大変丁寧(ていねい)に挨拶(あいさつ)をしたので、宗助は少し椅子の上で狼狽(あわて)たように首を動かした。肥った男は一応容体を聞いて、口中を検査して、宗助の痛いと云う歯をちょっと揺(ゆす)って見たが、「どうもこう弛(ゆる)みますと、とても元のように緊(しま)る訳には参りますまいと思いますが。何しろ中がエソになっておりますから」と云った。 宗助はこの宣告を淋(さび)しい秋の光のように感じた。もうそんな年なんでしょうかと聞いて見たくなったが、少しきまりが悪いので、ただ、「じゃ癒(なお)らないんですか」と念を押した。 肥(ふと)った男は笑いながらこう云った。――「まあ癒らないと申し上げるよりほかに仕方がござんせんな。やむを得なければ、思い切って抜いてしまうんですが、今のところでは、まだそれほどでもございますまいから、ただ御痛みだけを留めておきましょう。何しろエソ――エソと申しても御分りにならないかも知れませんが、中がまるで腐っております」 宗助は、そうですかと云って、ただ肥った男のなすがままにしておいた。すると彼は器械をぐるぐる廻して、宗助の歯の根へ穴を開け始めた。そうしてその中へ細長い針のようなものを刺し通しては、その先を嗅(か)いでいたが、しまいに糸ほどな筋を引き出して、神経がこれだけ取れましたと云いながら、それを宗助に見せてくれた。それから薬でその穴を埋(う)めて、明日(みょうにち)またいらっしゃいと注意を与えた。 椅子(いす)を下りるとき、身体(からだ)が真直(まっす)ぐになったので、視線の位置が天井からふと庭先に移ったら、そこにあった高さ五尺もあろうと云う大きな鉢栽(はちうえ)の松が宗助の眼に這入(はい)った。その根方の所を、草鞋(わらじ)がけの植木屋が丁寧(ていねい)に薦(こも)で包(くる)んでいた。だんだん露が凝(こ)って霜(しも)になる時節なので、余裕(よゆう)のあるものは、もう今時分から手廻しをするのだと気がついた。 帰りがけに玄関脇の薬局で、粉薬(こぐすり)のまま含嗽剤(がんそうざい)を受取って、それを百倍の微温湯(びおんとう)に溶解して、一日十数回使用すべき注意を受けた時、宗助は会計の請求した治療代の案外廉(れん)なのを喜んだ。これならば向うで云う通り四五回通(かよ)ったところが、さして困難でもないと思って、靴を穿(は)こうとすると、今度は靴の底がいつの間にか破れている事に気がついた。 宅(うち)へ着いた時は一足違(ひとあしちがい)で叔母がもう帰ったあとであった。宗助は、「おお、そうだったか」と云いながら、はなはだ面倒そうに洋服を脱ぎ更(か)えて、いつもの通り火鉢(ひばち)の前に坐った。御米は襯衣(シャツ)や洋袴(ズボン)や靴足袋(くつたび)を一抱(ひとかかえ)にして六畳へ這入(はい)った。宗助はぼんやりして、煙草(たばこ)を吹かし始めたが、向うの部屋で、刷毛(ブラッシ)を掛ける音がし出した時、「御米、佐伯の叔母さんは何とか云って来たのかい」と聞いた。 歯痛(しつう)が自(おのず)から治(おさ)まったので、秋に襲(おそ)われるような寒い気分は、少し軽くなったけれども、やがて御米が隠袋(ポッケット)から取り出して来た粉薬を、温(ぬる)ま湯に溶(と)いて貰(もら)って、しきりに含嗽(うがい)を始めた。その時彼は縁側(えんがわ)へ立ったまま、「どうも日が短かくなったなあ」と云った。 やがて日が暮れた。昼間からあまり車の音を聞かない町内は、宵(よい)の口(くち)から寂(しん)としていた。夫婦は例の通り洋灯(ランプ)の下(もと)に寄った。広い世の中で、自分達の坐っている所だけが明るく思われた。そうしてこの明るい灯影に、宗助は御米だけを、御米は宗助だけを意識して、洋灯の力の届かない暗い社会は忘れていた。彼らは毎晩こう暮らして行く裡(うち)に、自分達の生命を見出していたのである。 この静かな夫婦は、安之助の神戸から土産(みやげ)に買って来たと云う養老昆布(ようろうこぶ)の缶(かん)をがらがら振って、中から山椒(さんしょ)入(い)りの小さく結んだ奴を撰(よ)り出しながら、緩(ゆっ)くり佐伯からの返事を語り合った。「しかし月謝と小遣(こづかい)ぐらいは都合してやってくれても好さそうなもんじゃないか」「それができないんだって。どう見積っても両方寄せると、十円にはなる。十円と云う纏(まとま)った御金を、今のところ月々出すのは骨が折れるって云うのよ」「それじゃことしの暮まで二十何円ずつか出してやるのも無理じゃないか」「だから、無理をしても、もう一二カ月のところだけは間に合せるから、そのうちにどうかして下さいと、安さんがそう云うんだって」「実際できないのかな」「そりゃ私(わたし)には分らないわ。何しろ叔母さんが、そう云うのよ」「鰹舟(かつおぶね)で儲(もう)けたら、そのくらい訳なさそうなもんじゃないか」「本当ね」御米は低い声で笑った。宗助もちょっと口の端(はた)を動かしたが、話はそれで途切(とぎ)れてしまった。しばらくしてから、「何しろ小六は家(うち)へ来るときめるよりほかに道はあるまいよ。後(あと)はその上の事だ。今じゃ学校へは出ているんだね」と宗助が云った。「そうでしょう」と御米が答えるのを聞き流して、彼は珍らしく書斎に這入(はい)った。一時間ほどして、御米がそっと襖(ふすま)を開(あ)けて覗(のぞ)いて見ると、机に向って、何か読んでいた。「勉強? もう御休みなさらなくって」と誘われた時、彼は振り返って、「うん、もう寝よう」と答えながら立ち上った。 寝る時、着物を脱いで、寝巻の上に、絞(しぼ)りの兵児帯(へこおび)をぐるぐる巻きつけながら、「今夜は久し振に論語を読んだ」と云った。「論語に何かあって」と御米が聞き返したら、宗助は、「いや何にもない」と答えた。それから、「おい、おれの歯はやっぱり年のせいだとさ。ぐらぐらするのはとても癒(なお)らないそうだ」と云いつつ、黒い頭を枕の上に着けた。cont...--------------Could you have anyone??
2006年08月09日
コメント(0)
cont...--------五佐伯(さえき)の叔母の尋ねて来たのは、土曜の午後の二時過であった。その日は例になく朝から雲が出て、突然と風が北に変ったように寒かった。叔母は竹で編んだ丸い火桶(ひおけ)の上へ手を翳(かざ)して、「何ですね、御米(およね)さん。この御部屋は夏は涼しそうで結構だが、これからはちと寒うござんすね」と云った。叔母は癖のある髪を、奇麗(きれい)に髷(まげ)に結(い)って、古風な丸打の羽織の紐(ひも)を、胸の所で結んでいた。酒の好きな質(たち)で、今でも少しずつは晩酌をやるせいか、色沢(いろつや)もよく、でっぷり肥(ふと)っているから、年よりはよほど若く見える。御米は叔母が来るたんびに、叔母さんは若いのねと、後(あと)でよく宗助(そうすけ)に話した。すると宗助がいつでも、若いはずだ、あの年になるまで、子供をたった一人しか生まないんだからと説明した。御米は実際そうかも知れないと思った。そうしてこう云われた後では、折々そっと六畳へ這入(はい)って、自分の顔を鏡に映して見た。その時は何だか自分の頬(ほお)が見るたびに瘠(こ)けて行くような気がした。御米には自分と子供とを連想して考えるほど辛(つら)い事はなかったのである。裏の家主の宅(うち)に、小さい子供が大勢いて、それが崖(がけ)の上の庭へ出て、ブランコへ乗ったり、鬼ごっこをやったりして騒ぐ声が、よく聞えると、御米はいつでも、はかないような恨(うら)めしいような心持になった。今自分の前に坐っている叔母は、たった一人の男の子を生んで、その男の子が順当に育って、立派な学士になったればこそ、叔父が死んだ今日(こんにち)でも、何不足のない顔をして、腮(あご)などは二重(ふたえ)に見えるくらいに豊(ゆたか)なのである。御母さんは肥っているから剣呑(けんのん)だ、気をつけないと卒中でやられるかも知れないと、安之助(やすのすけ)が始終(しじゅう)心配するそうだけれども、御米から云わせると、心配する安之助も、心配される叔母も、共に幸福を享(う)け合っているものとしか思われなかった。「安さんは」と御米が聞いた。「ええようやくね、あなた。一昨日(おととい)の晩帰りましてね。それでついつい御返事も後(おく)れちまって、まことに済みませんような訳で」と云ったが、返事の方はそれなりにして、話はまた安之助へ戻って来た。「あれもね、御蔭(おかげ)さまでようやく学校だけは卒業しましたが、これからが大事のところで、心配でございます。――それでもこの九月から、月島の工場の方へ出る事になりまして、まあさいわいとこの分で勉強さえして行ってくれれば、この末ともに、そう悪い事も無かろうかと思ってるんですけれども、まあ若いものの事ですから、これから先どう変化(へんげ)るか分りゃしませんよ」 御米はただ結構でございますとか、おめでとうございますとか云う言葉を、間々(あいだあいだ)に挟(はさ)んでいた。「神戸へ参ったのも、全くその方の用向なので。石油発動機とか何とか云うものを鰹船(かつおぶね)へ据(す)え付けるんだとかってねあなた」 御米にはまるで意味が分らなかった。分らないながらただへええと受けていると、叔母はすぐ後(あと)を話した。「私にも何のこったか、ちっとも分らなかったんですが、安之助の講釈を聞いて始めて、おやそうかいと云うような訳でしてね。――もっとも石油発動機は今もって分らないんですけれども」と云いながら、大きな声を出して笑った。「何でも石油を焚(た)いて、それで船を自由にする器械なんだそうですが、聞いて見るとよほど重宝なものらしいんですよ。それさえ付ければ、舟を漕(こ)ぐ手間(てま)がまるで省けるとかでね。五里も十里も沖へ出るのに、大変楽なんですとさ。ところがあなた、この日本全国で鰹船の数ったら、それこそ大したものでしょう。その鰹船が一つずつこの器械を具(そな)え付けるようになったら、莫大(ばくだい)な利益だって云うんで、この頃は夢中になってその方ばっかりに掛(かか)っているようですよ。莫大な利益はありがたいが、そう凝(こ)って身体(からだ)でも悪くしちゃつまらないじゃないかって、この間も笑ったくらいで」 叔母はしきりに鰹船と安之助の話をした。そうして大変得意のように見えたが、小六の事はなかなか云い出さなかった。もう疾(とう)に帰るはずの宗助もどうしたか帰って来なかった。 彼はその日役所の帰りがけに駿河台下(するがだいした)まで来て、電車を下りて、酸(す)いものを頬張(ほおば)ったような口を穿(すぼ)めて一二町歩いた後(のち)、ある歯医者の門(かど)を潜(くぐ)ったのである。三四日前彼は御米と差向いで、夕飯の膳(ぜん)に着いて、話しながら箸(はし)を取っている際に、どうした拍子か、前歯を逆にぎりりと噛(か)んでから、それが急に痛み出した。指で揺(うご)かすと、根がぐらぐらする。食事の時には湯茶が染(し)みる。口を開けて息をすると風も染みた。宗助はこの朝歯を磨(みが)くために、わざと痛い所を避(よ)けて楊枝(ようじ)を使いながら、口の中を鏡に照らして見たら、広島で銀を埋(う)めた二枚の奥歯と、研(と)いだように磨(す)り減らした不揃(ぶそろ)の前歯とが、にわかに寒く光った。洋服に着換える時、「御米、おれは歯の性(しょう)がよっぽど悪いと見えるね。こうやると大抵動くぜ」と下歯を指で動かして見せた。御米は笑いながら、「もう御年のせいよ」と云って白い襟(えり)を後へ廻って襯衣(シャツ)へ着けた。 宗助はその日の午後とうとう思い切って、歯医者へ寄ったのである。応接間へ通ると、大きな洋卓(テーブル)の周囲(まわり)に天鵞絨(びろうど)で張った腰掛が并(なら)んでいて、待ち合している三四人が、うずくまるように腮(あご)を襟(えり)に埋(うず)めていた。それが皆女であった。奇麗(きれい)な茶色の瓦斯暖炉(ガスストーヴ)には火がまだ焚(た)いてなかった。宗助は大きな姿見に映る白壁の色を斜(なな)めに見て、番の来るのを待っていたが、あまり退屈になったので、洋卓の上に重ねてあった雑誌に眼を着けた。一二冊手に取って見ると、いずれも婦人用のものであった。cont...
2006年08月09日
コメント(0)
"長崎"きょう原爆の日…前夜、平和願いキャンドル6千個平和への願いを込め、長崎市の「平和の泉」にともされた手作りのキャンドル 長崎は9日、61回目の原爆の日を迎える。長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典が開かれる長崎市の平和公園にある「平和の泉」では8日夜、キャンドル約6000個に火がともされた。キャンドルは、同市内の小中学校44校の児童・生徒が中心となって作り、「平和な世界」「ちきゅうをたいせつに」などのメッセージを書いた。点灯後、平和の泉の周辺では、コンサートもあり、小学生らが平和への願いを込めて「子らのみ魂(たま)よ」などを合唱した。式典は9日午前10時40分から開かれ、小泉首相らが参列。原爆投下時刻の午前11時2分に黙とうをささげた後、伊藤一長市長が平和宣言を読み上げる。(2006年8月9日 読売新聞)--"--------------------------------"死んだ女の子"作曲 木下航二/作詞 ナームズ・ヒクメット訳詞 飯塚 広♪~扉をたたくのはあたし あなたの胸に響くでしょう小さな声が聞こえるでしょうあたしの姿は見えないの十年前の夏の朝 私は広島で死んだそのまま六つの女の子いつまでたっても六つなのあたしの髪に火がついて 目と手が焼けてしまったのあたしは冷たい灰になり風で遠くへ飛び散ったあたしは何にもいらないの 誰にも抱いてもらえないの紙切れのように燃えた子はおいしいお菓子も食べられない扉をたたくのはあたし みんなが笑って暮らせるようおいしいお菓子を食べられるよう署名をどうぞして下さい*************************"子らのみ魂よ" 作詞 島内八郎/作曲 木野普見雄♪~1.めぐりきぬ この月 この日思い出は 白雲の かなたひらめきの またたく ひまに声もなく 空しく 散りし先生よ 子らの み魂よ2.今日ここの 夏草の うえすぎし日の 友の 姿にとむらいの 真を こめてはるかなる 空に へだてしなつかしの み魂を しのぶ3.すみわたる 城山の 空うちひらく つるの 港に平和なる 光 みつれば先生よ 子らのみ魂よ安らぎて 永久に ましませ-------------------------Would you like??
2006年08月09日
コメント(0)
以下"源氏物語"(桐壺の巻)yori第二段 靫負命婦の弔問"野分"立ちて、にはかに肌寒き夕暮のほど、常よりも思し出づること多くて、靫負命婦といふを遣はす。夕月夜のをかしきほどに出だし立てさせたまひて、やがて眺めおはします。かうやうの折は、御遊びなどせさせたまひしに、心ことなる物の音を掻き鳴らし、はかなく聞こえ出づる言の葉も、人よりはことなりしけはひ容貌の、面影につと添ひて思さるるにも、闇の現にはなほ劣りけり。命婦、かしこに参で着きて、門引き入るるより、けはひあはれなり。やもめ住みなれど、人一人の御かしづきに、とかくつくろひ立てて、めやすきほどにて過ぐしたまひつる、闇に暮れて臥し沈みたまへるほどに、草も高くなり、"野分"にいとど荒れたる心地して、月影ばかりぞ八重葎にも障はらず差し入りたる。南面に下ろして、母君も、とみにえものものたまはず。「今までとまりはべるがいと憂きを、かかる御使の蓬生の露分け入りたまふにつけても、いと恥づかしうなむ」とて、げにえ堪ふまじく泣いたまふ。「『参りては、いとど心苦しう、心肝も尽くるやうになむ』と、典侍の奏したまひしを、もの思ひたまへ知らぬ心地にも、げにこそいと忍びがたうはべりけれ」とて、ややためらひて、仰せ言伝へきこゆ。「『しばしは夢かとのみたどられしを、やうやう思ひ静まるにしも、覚むべき方なく堪へがたきは、いかにすべきわざにかとも、問ひあはすべき人だになきを、忍びては参りたまひなむや。若宮のいとおぼつかなく、露けき中に過ぐしたまふも、心苦しう思さるるを、とく参りたまへ』など、はかばかしうものたまはせやらず、むせかへらせたまひつつ、かつは人も心弱く見たてまつるらむと、思しつつまぬにしもあらぬ御気色の心苦しさに、承り果てぬやうにてなむ、まかではべりぬる」とて、御文奉る。「目も見えはべらぬに、かくかしこき仰せ言を光にてなむ」とて、見たまふ。「ほど経ばすこしうち紛るることもやと、待ち過ぐす月日に添へて、いと忍びがたきはわりなきわざになむ。いはけなき人をいかにと思ひやりつつ、もろともに育まぬおぼつかなさを。今は、なほ昔のかたみになずらへて、ものしたまへ」など、こまやかに書かせたまへり。「宮城野の露吹きむすぶ風の音に小萩がもとを思ひこそやれ」とあれど、え見たまひ果てず。「命長さの、いとつらう思ひたまへ知らるるに、松の思はむことだに、恥づかしう思ひたまへはべれば、百敷に行きかひはべらむことは、ましていと憚り多くなむ。かしこき仰せ言をたびたび承りながら、みづからはえなむ思ひたまへたつまじき。若宮は、いかに思ほし知るにか、参りたまはむことをのみなむ思し急ぐめれば、ことわりに悲しう見たてまつりはべるなど、うちうちに思ひたまふるさまを奏したまへ。ゆゆしき身にはべれば、かくておはしますも、忌ま忌ましうかたじけなくなむ」とのたまふ。宮は大殿籠もりにけり。「見たてまつりて、くはしう御ありさまも奏しはべらまほしきを、待ちおはしますらむに、夜更けはべりぬべし」とて急ぐ。「暮れまどふ心の闇も堪へがたき片端をだに、はるくばかりに聞こえまほしうはべるを、私にも心のどかにまかでたまへ。年ごろ、うれしく面だたしきついでにて立ち寄りたまひしものを、かかる御消息にて見たてまつる、返す返すつれなき命にもはべるかな。生まれし時より、思ふ心ありし人にて、故大納言、いまはとなるまで、『ただ、この人の宮仕への本意、かならず遂げさせたてまつれ。我れ亡くなりぬとて、口惜しう思ひくづほるな』と、返す返す諌めおかれはべりしかば、はかばかしう後見思ふ人もなき交じらひは、なかなかなるべきことと思ひたまへながら、ただかの遺言を違へじとばかりに、出だし立てはべりしを、身に余るまでの御心ざしの、よろづにかたじけなきに、人げなき恥を隠しつつ、交じらひたまふめりつるを、人の嫉み深く積もり、安からぬこと多くなり添ひはべりつるに、横様なるやうにて、つひにかくなりはべりぬれば、かへりてはつらくなむ、かしこき御心ざしを思ひたまへられはべる。これもわりなき心の闇になむ」と、言ひもやらずむせかへりたまふほどに、夜も更けぬ。「主上もしかなむ。『我が御心ながら、あながちに人目おどろくばかり思されしも、長かるまじきなりけりと、今はつらかりける人の契りになむ。世にいささかも人の心を曲げたることはあらじと思ふを、ただこの人のゆゑにて、あまたさるまじき人の恨みを負ひし果て果ては、かううち捨てられて、心をさめむ方なきに、いとど人悪ろうかたくなになり果つるも、前の世ゆかしうなむ』とうち返しつつ、御しほたれがちにのみおはします」と語りて尽きせず。泣く泣く、「夜いたう更けぬれば、今宵過ぐさず、御返り奏せむ」と急ぎ参る。月は入り方の、空清う澄みわたれるに、風いと涼しくなりて、草むらの虫の声ごゑもよほし顔なるも、いと立ち離れにくき草のもとなり。「鈴虫の声の限りを尽くしても長き夜あかずふる涙かな」えも乗りやらず。「いとどしく虫の音しげき 浅茅生に露置き添ふる雲の上人 かごとも聞こえつべくなむ」と言はせたまふ。をかしき御贈り物などあるべき折にもあらねば、ただかの御形見にとて、かかる用もやと残したまへりける御装束一領、御髪上げの調度めく物添へたまふ。若き人びと、悲しきことはさらにも言はず、内裏わたりを朝夕にならひて、いとさうざうしく、主上の御ありさまなど思ひ出できこゆれば、とく参りたまはむことをそそのかしきこゆれど、「かく忌ま忌ましき身の添ひたてまつらむも、いと人聞き憂かるべし、また、見たてまつらでしばしもあらむは、いとうしろめたう」思ひきこえたまひて、すがすがともえ参らせたてまつりたまはぬなりけり。--------------------日本では、台風について「はやち」とか「野分(のわき)」という。********************ABOUT"野分き"野の草を吹き分ける風、の意(1)二百十日、二百二十日前後に吹く暴風。台風。あるいはその余波の風。また、秋から初冬にかけて吹く強い風。のわけ。のわきのかぜ。[季]秋。《吹飛ばす石は浅間の―かな/芭蕉》(2)源氏物語の巻名。第二八帖。-----------------以下"源氏物語"(野分の巻)yori野分第一段 "八月野分の襲来" 中宮の御前に、秋の花を 植ゑさせたまへること、常の年よりも見所多く、色種を尽くして、よしある黒木赤木の籬を結ひまぜつつ、同じき花の枝ざし、姿、 朝夕露の光も世の常ならず、玉かとかかやきて 作りわたせる野辺の色を見るに、はた、春の山も忘られて、涼しうおもしろく、心もあくがるるやうなり。春秋の争ひに、昔より秋に心寄する人は数まさりけるを、 名立たる 春の御前の花園に心寄せし人びと、また引きかへし 移ろふけしき、世のありさまに似たり。これを御覧じつきて、里居したまふほど、御遊びなどもあらまほしけれど、八月は 故前坊の御忌月なれば、心もとなく思しつつ明け暮るるに、この花の色まさるけしきどもを御覧ずるに、"野分"、例の年よりもおどろおどろしく、空の色変りて吹き出づ。花どものしをるるを、いとさしも思ひしまぬ人だに、あなわりなと思ひ騒がるるを、まして、草むらの 露の玉の緒乱るるままに、御心惑ひもしぬべく思したり。 おほふばかりの袖は、秋の空にしもこそ欲しげなりけれ。暮れゆくままに、ものも見えず吹きまよはして、いとむくつけければ、御格子など参りぬるに、うしろめたくいみじと、花の上を思し嘆く。第二段 夕霧、紫の上を垣間見る南の御殿にも、前栽つくろはせたまひける折にしも、かく吹き出でて、 もとあらの小萩、はしたなく待ちえたる風のけしきなり。 折れ返り、露もとまるまじく吹き散らすを、すこし端近くて見たまふ。大臣は、 姫君の御方におはしますほどに、中将の君参りたまひて、 東の渡殿の小障子の上より、妻戸の開きたる隙を、何心もなく見入れたまへるに、女房のあまた見ゆれば、立ちとまりて、音もせで見る。御屏風も、風のいたく吹きければ、押し畳み寄せたるに、見通しあらはなる 廂の御座にゐたまへる人、ものに紛るべくもあらず、 気高くきよらに、さとにほふ心地して、 春の曙の霞の間より、おもしろき樺桜の咲き乱れたるを見る心地す。あぢきなく、見たてまつるわが顔にも移り来るやうに、愛敬はにほひ散りて、またなくめづらしき人の御さまなり。御簾の吹き上げらるるを、人びと押へて、 いかにしたるにかあらむ、うち笑ひたまへる、いといみじく見ゆ。花どもを心苦しがりて、え見捨てて入りたまはず。御前なる人びとも、さまざまにものきよげなる姿どもは見わたさるれど、目移るべくもあらず。「 大臣のいと気遠くはるかにもてなしたまへるは、かく見る人ただにはえ思ふまじき御ありさまを、いたり深き御心にて、もし、かかることもやと思すなりけり」と思ふに、けはひ恐ろしうて、立ち去るにぞ、 西の御方より、内の御障子引き開けて渡りたまふ。 「いとうたて、あわたたしき風なめり。御格子下ろしてよ。男どもあるらむを、あらはにもこそあれ」と聞こえたまふを、また寄りて見れば、もの聞こえて、大臣もほほ笑みて見たてまつりたまふ。親ともおぼえず、若くきよげになまめきて、いみじき御容貌の盛りなり。女もねびととのひ、飽かぬことなき御さまどもなるを、身にしむばかりおぼゆれど、この渡殿の格子も吹き放ちて、立てる所のあらはになれば、恐ろしうて立ち退きぬ。今参れるやうにうち声づくりて、簀子の方に歩み出でたまへれば「さればよ。あらはなりつらむ」とて、「かの妻戸の開きたりけるよ」と、今ぞ見咎めたまふ。「年ごろかかることのつゆなかりつるを。風こそ、げに巌も吹き上げつべきものなりけれ。さばかりの御心どもを騒がして。めづらしくうれしき目を見つるかな」とおぼゆ。以下 略----------How was about "typhoon"???
2006年08月09日
コメント(0)
"編集手帳"(8月8日付)蕪村に、「秋の蚊の人を尋ぬる心かな」という句がある。暦の上とはいえ秋の声を聞けば、盛りのころにはときに眉(まゆ)をひそめた羽音にも、人はいくばくかの哀れを感じる。きょうは立秋である濃い緑が美しい信州から田中康夫知事落選の報が届く。6年前に初当選した折の熱風を思い起こし、支持、不支持の立場は別にして季節の移ろいを実感した人は多いはずである着眼は鋭く理想は高くとも、実行に移す手腕が伴わない人を評して「眼高手低」という。県議会との意思の疎通をおろそかにし、県政の混迷をいたずらに深めた田中氏の「手低」が敗因といわれる県政に巣くう官僚支配というヤブ蚊にうんざりした人々の拍手に迎えられたものの、香りのいい蚊遣(や)り香をたいてくれるかと思いきや、短兵急にヤブを焼き払う。手荒さに、蚊よりも先に県民が音を上げた負ければ一から十まで悪く言われるのが政治の世界だが、土木事業だけが地方再生の道か――と問うた田中氏の「眼高」に共鳴する人は、いまなお少なくない。当選した村井仁氏の61万票に対し、田中氏は53万票を集めている蚊取り線香の火は、渦巻きを一巡しても同じ場所には戻らない。行政の火もそうあるべきだろう。ヤブ蚊が謳歌(おうか)する「田中以前」の昔に回帰するだけならば、6年の歳月が無駄になる。(2006年8月8日 読売新聞)--------------------------------"立秋"(りっしゅう)二十四節気の一。太陽の黄経が一三五度に達する時をいい、太陽暦で八月八日ごろ。この日以後の暑さを残暑という。七月節気。「秋立つ」ともいう。[季]秋。《―の雲の動きのなつかしき/虚子》---------------------------------How was that??
2006年08月08日
コメント(0)
cont..---------------------そうして苦笑しながら、「この暑いのに、こんなものを立てて置くのは、気狂(きちがい)じみているが、入れておく所がないから、仕方がない」と云う述懐(じゅっかい)をした。 小六はこの気楽なような、ぐずのような、自分とは余りに懸(か)け隔(へだ)たっている兄を、いつも物足りなくは思うものの、いざという場合に、けっして喧嘩(けんか)はし得なかった。この時も急に癇癪(かんしゃく)の角(つの)を折られた気味で、「屏風はどうでも好いが、これから先(さき)僕はどうしたもんでしょう」と聞き出した。「それは問題だ。何しろことしいっぱいにきまれば好い事だから、まあよく考えるさ。おれも考えて置こう」と宗助が云った。 弟は彼の性質として、そんな中ぶらりんの姿は嫌(きらい)である、学校へ出ても落ちついて稽古(けいこ)もできず、下調も手につかないような境遇は、とうてい自分には堪(た)えられないと云う訴(うったえ)を切にやり出したが、宗助の態度は依然として変らなかった。小六があまり癇(かん)の高い不平を並べると、「そのくらいな事でそれほど不平が並べられれば、どこへ行ったって大丈夫だ。学校をやめたって、いっこう差支(さしつかえ)ない。御前の方がおれよりよっぽどえらいよ」と兄が云ったので、話はそれぎり頓挫(とんざ)して、小六はとうとう本郷へ帰って行った。 宗助はそれから湯を浴びて、晩食(ばんめし)を済まして、夜は近所の縁日へ御米といっしょに出掛けた。そうして手頃な花物を二鉢買って、夫婦して一つずつ持って帰って来た。夜露にあてた方がよかろうと云うので、崖下(がけした)の雨戸を明けて、庭先にそれを二つ並べて置いた。 蚊帳(かや)の中へ這入(はい)った時、御米は、「小六さんの事はどうなって」と夫に聞くと、「まだどうもならないさ」と宗助は答えたが、十分ばかりの後(のち)夫婦ともすやすや寝入(ねい)った。 翌日眼が覚めて役所の生活が始まると、宗助はもう小六の事を考える暇を有(も)たなかった。家(うち)へ帰って、のっそりしている時ですら、この問題を確的(はっきり)眼の前に描(えが)いて明らかにそれを眺(なが)める事を憚(はば)かった。髪の毛の中に包んである彼の脳は、その煩(わずら)わしさに堪(た)えなかった。昔は数学が好きで、随分込み入った幾何(きか)の問題を、頭の中で明暸(めいりょう)な図にして見るだけの根気があった事を憶(おも)い出すと、時日の割には非常に烈(はげ)しく来たこの変化が自分にも恐ろしく映った。 それでも日に一度ぐらいは小六の姿がぼんやり頭の奥に浮いて来る事があって、その時だけは、あいつの将来も何とか考えておかなくっちゃならないと云う気も起った。しかしすぐあとから、まあ急ぐにも及ぶまいぐらいに、自分と打ち消してしまうのが常であった。そうして、胸の筋(きん)が一本鉤(かぎ)に引っ掛ったような心を抱(いだ)いて、日を暮らしていた。 そのうち九月も末になって、毎晩天(あま)の河(がわ)が濃く見えるある宵(よい)の事、空から降ったように安之助がやって来た。宗助にも御米にも思い掛けないほど稀(たま)な客なので、二人とも何か用があっての訪問だろうと推(すい)したが、はたして小六に関する件であった。 この間月島の工場へひょっくり小六がやって来て云うには、自分の学資についての詳しい話は兄から聞いたが、自分も今まで学問をやって来て、とうとう大学へ這入(はい)れずじまいになるのはいかにも残念だから、借金でも何でもして、行けるところまで行きたいが、何か好い工夫はあるまいかと相談をかけるので、安之助はよく宗さんにも話して見ようと答えると、小六はたちまちそれを遮(さえ)ぎって、兄はとうてい相談になってくれる人じゃない。自分が大学を卒業しないから、他(ひと)も中途でやめるのは当然だぐらいに考えている。元来今度の事も元を糺(ただ)せば兄が責任者であるのに、あの通りいっこう平気なもので、他が何を云っても取り合ってくれない。だから、ただ頼りにするのは君だけだ。叔母さんに正式に断わられながら、また君に依頼するのはおかしいようだが、君の方が叔母さんより話が分るだろうと思って来たと云って、なかなか動きそうもなかったそうである。 安之助は、そんな事はない、宗さんも君の事ではだいぶ心配して、近いうちまた家(うち)へ相談に来るはずになっているんだからと慰めて、小六を帰したんだと云う。帰るときに、小六は袂(たもと)から半紙を何枚も出して、欠席届が入用(にゅうよう)だからこれに判を押してくれと請求して、僕は退学か在学か片がつくまでは勉強ができないから、毎日学校へ出る必要はないんだと云ったそうである。 安之助は忙がしいとかで、一時間足らず話して帰って行ったが、小六の所置については、両人の間に具体的の案は別に出なかった。いずれ緩(ゆっ)くりみんなで寄ってきめよう、都合がよければ小六も列席するが好かろうというのが別れる時の言葉であった。二人になったとき、御米は宗助に、「何を考えていらっしゃるの」と聞いた。宗助は両手を兵児帯(へこおび)の間に挟(はさ)んで、心持肩を高くしたなり、「おれももう一返小六みたようになって見たい」と云った。「こっちじゃ、向(むこう)がおれのような運命に陥(おちい)るだろうと思って心配しているのに、向じゃ兄貴なんざあ眼中にないから偉いや」 御米は茶器を引いて台所へ出た。夫婦はそれぎり話を切り上げて、また床(とこ)を延べて寝(ね)た。夢の上に高い銀河(あまのがわ)が涼しく懸(かか)った。 次の週間には、小六も来ず、佐伯からの音信(たより)もなく、宗助の家庭はまた平日の無事に帰った。夫婦は毎朝露に光る頃起きて、美しい日を廂(ひさし)の上に見た。夜は煤竹(すすだけ)の台を着けた洋灯(ランプ)の両側に、長い影を描(えが)いて坐っていた。話が途切れた時はひそりとして、柱時計の振子の音だけが聞える事も稀(まれ)ではなかった。 それでも夫婦はこの間に小六の事を相談した。小六がもしどうしても学問を続ける気なら無論の事、そうでなくても、今の下宿を一時引き上げなければならなくなるのは知れているが、そうすればまた佐伯へ帰るか、あるいは宗助の所へ置くよりほかに途(みち)はない。佐伯ではいったんああ云い出したようなものの、頼んで見たら、当分宅(うち)へ置くぐらいの事は、好意上してくれまいものでもない。が、その上修業をさせるとなると、月謝小遣その他は宗助の方で担任(たんにん)しなければ義理が悪い。ところがそれは家計上宗助の堪(た)えるところでなかった。月々の収支を事細かに計算して見た両人(ふたり)は、「とうてい駄目だね」「どうしたって無理ですわ」と云った。 夫婦の坐(すわ)っている茶の間の次が台所で、台所の右に下女部屋、左に六畳が一間(ひとま)ある。下女を入れて三人の小人数(こにんず)だから、この六畳には余り必要を感じない御米は、東向の窓側にいつも自分の鏡台を置いた。宗助も朝起きて顔を洗って、飯を済ますと、ここへ来て着物を脱(ぬ)ぎ更(か)えた。「それよりか、あの六畳を空(あ)けて、あすこへ来ちゃいけなくって」と御米が云い出した。御米の考えでは、こうして自分の方で部屋と食物だけを分担して、あとのところを月々いくらか佐伯から助(すけ)て貰(もら)ったら、小六の望み通り大学卒業までやって行かれようと云うのである。「着物は安さんの古いのや、あなたのを直して上げたら、どうかなるでしょう」と御米が云い添えた。実は宗助にもこんな考が、多少頭に浮かんでいた。ただ御米に遠慮がある上に、それほど気が進まなかったので、つい口へ出さなかったまでだから、細君からこう反対(あべこべ)に相談を掛けられて見ると、固(もと)よりそれを拒(こば)むだけの勇気はなかった。 小六にその通りを通知して、御前さえそれで差支(さしつかえ)なければ、おれがもう一遍佐伯へ行って掛合って見るがと、手紙で問い合せると、小六は郵便の着いた晩、すぐ雨の降る中を、傘(からかさ)に音を立ててやって来て、もう学資ができでもしたように嬉(うれ)しがった。「何、叔母さんの方じゃ、こっちでいつまでもあなたの事を放り出したまんま、構わずにおくもんだから、それでああおっしゃるのよ。なに兄さんだって、もう少し都合が好ければ、疾(と)うにもどうにかしたんですけれども、御存じの通りだから実際やむを得なかったんですわ。しかしこっちからこう云って行けば、叔母さんだって、安さんだって、それでも否(いや)だとは云われないわ。きっとできるから安心していらっしゃい。私(わたし)受合うわ」 御米にこう受合って貰った小六は、また雨の音を頭の上に受けて本郷へ帰って行った。しかし中一日置いて、兄さんはまだ行かないんですかと聞きに来た。また三日ばかり過ぎてから、今度は叔母さんの所へ行って聞いたら、兄さんはまだ来ないそうだから、なるべく早く行くように勧(すす)めてくれと催促して行った。 宗助が行く行くと云って、日を暮らしているうちに世の中はようやく秋になった。その朗らかな或日曜の午後に、宗助はあまり佐伯へ行くのが後(おく)れるので、この要件を手紙に認(したた)めて番町へ相談したのである。すると、叔母から安之助は神戸へ行って留守だと云う返事が来たのである。--------------------cont....
2006年08月08日
コメント(0)
cont...-----------------------「宗さん怒っちゃいけませんよ。ただ叔父さんの云った通りを話すんだから」と叔母が断った。宗助は黙ってあとを聞いていた。 小六の名義で保管されべき財産は、不幸にして、叔父の手腕で、すぐ神田の賑(にぎ)やかな表通りの家屋に変形した。そうして、まだ保険をつけないうちに、火事で焼けてしまった。小六には始めから話してない事だから、そのままにして、わざと知らせずにおいた。「そう云う訳でね、まことに宗さんにも、御気の毒だけれども、何しろ取って返しのつかない事だから仕方がない。運だと思って諦(あき)らめて下さい。もっとも叔父さんさえ生きていれば、またどうともなるんでしょうさ。小六一人ぐらいそりゃ訳はありますまいよ。よしんば、叔父さんがいなさらない、今にしたって、こっちの都合さえ好ければ、焼けた家(うち)と同じだけのものを、小六に返すか、それでなくっても、当人の卒業するまでぐらいは、どうにかして世話もできるんですけれども」と云って叔母はまたほかの内幕話をして聞かせた。それは安之助の職業についてであった。 安之助は叔父の一人息子で、この夏大学を出たばかりの青年である。家庭で暖かに育った上に、同級の学生ぐらいよりほかに交際のない男だから、世の中の事にはむしろ迂濶(うかつ)と云ってもいいが、その迂濶なところにどこか鷹揚(おうよう)な趣(おもむき)を具(そな)えて実社会へ顔を出したのである。専門は工科の器械学だから、企業熱の下火になった今日(こんにち)といえども、日本中にたくさんある会社に、相応の口の一つや二つあるのは、もちろんであるが、親譲(おやゆず)りの山気(やまぎ)がどこかに潜(ひそ)んでいるものと見えて、自分で自分の仕事をして見たくてならない矢先へ、同じ科の出身で、小規模ながら専有の工場(こうば)を月島辺(へん)に建てて、独立の経営をやっている先輩に出逢ったのが縁となって、その先輩と相談の上、自分も幾分かの資本を注(つ)ぎ込んで、いっしょに仕事をしてみようという考になった。叔母の内幕話と云ったのはそこである。「でね、少しあった株をみんなその方へ廻す事にしたもんだから、今じゃ本当に一文(いちもん)なし同然な仕儀(しぎ)でいるんですよ。それは世間から見ると、人数は少なし、家邸(いえやしき)は持っているし、楽に見えるのも無理のないところでしょうさ。この間も原の御母(おっか)さんが来て、まああなたほど気楽な方はない、いつ来て見ても万年青(おもと)の葉ばかり丹念に洗っているってね。真逆(まさか)そうでも無いんですけれども」と叔母が云った。 宗助が叔母の説明を聞いた時は、ぼんやりしてとかくの返事が容易に出なかった。心のなかで、これは神経衰弱の結果、昔のように機敏で明快な判断を、すぐ作り上げる頭が失(な)くなった証拠(しょうこ)だろうと自覚した。叔母は自分の云う通りが、宗助に本当と受けられないのを気にするように、安之助から持ち出した資本の高まで話した。それは五千円ほどであった。安之助は当分の間、わずかな月給と、この五千円に対する利益配当とで暮らさなければならないのだそうである。「その配当だって、まだどうなるか分りゃしないんでさあね。旨(うま)く行ったところで、一割か一割五分ぐらいなものでしょうし、また一つ間違えばまるで煙(けむ)にならないとも限らないんですから」と叔母がつけ加えた。 宗助は叔母の仕打に、これと云う目立った阿漕(あこぎ)なところも見えないので、心の中(うち)では少なからず困ったが、小六の将来について一口の掛合(かけあい)もせずに帰るのはいかにも馬鹿馬鹿しい気がした。そこで今までの問題はそこに据(す)えっきりにして置いて、自分が当時小六の学資として叔父に預けて行った千円の所置を聞き糺(ただ)して見ると、叔母は、「宗さん、あれこそ本当に小六が使っちまったんですよ。小六が高等学校へ這入(はい)ってからでも、もうかれこれ七百円は掛かっているんですもの」と答えた。 宗助はついでだから、それと同時に、叔父に保管を頼んだ書画や骨董品(こっとうひん)の成行(なりゆき)を確かめて見た。すると、叔母は、「ありあとんだ馬鹿な目に逢って」と云いかけたが、宗助の様子を見て、「宗さん、何ですか、あの事はまだ御話をしなかったんでしたかね」と聞いた。宗助がいいえと答えると、「おやおや、それじゃ叔父さんが忘れちまったんですよ」と云いながら、その顛末(てんまつ)を語って聞かした。宗助が広島へ帰ると間もなく、叔父はその売捌方(うりさばきかた)を真田(さなだ)とかいう懇意の男に依頼した。この男は書画骨董の道に明るいとかいうので、平生そんなものの売買の周旋をして諸方へ出入するそうであったが、すぐさま叔父の依頼を引き受けて、誰某(だれそれがし)が何を欲しいと云うから、ちょっと拝見とか、何々氏がこう云う物を希望だから、見せましょうとか号(ごう)して、品物を持って行ったぎり、返して来ない。催促すると、まだ先方から戻って参りませんからとか何とか言訳をするだけでかつて埒(らち)の明いた試(ためし)がなかったが、とうとう持ち切れなくなったと見えて、どこかへ姿を隠してしまった。「でもね、まだ屏風(びょうぶ)が一つ残っていますよ。この間引越の時に、気がついて、こりゃ宗さんのだから、今度(こんだ)ついでがあったら届けて上げたらいいだろうって、安がそう云っていましたっけ」 叔母は宗助の預けて行った品物にはまるで重きを置いていないような、ものの云い方をした。宗助も今日(きょう)まで放っておくくらいだから、あまりその方面には興味を有(も)ち得なかったので、少しも良心に悩まされている気色(けしき)のない叔母の様子を見ても、別に腹は立たなかった。それでも、叔母が、「宗さん、どうせ家(うち)じゃ使っていないんだから、なんなら持っておいでなすっちゃどうです。この頃はああいうものが、大変価(ね)が出たと云う話じゃありませんか」と云ったときは、実際それを持って帰る気になった。 納戸(なんど)から取り出して貰って、明るい所で眺(なが)めると、たしかに見覚(みおぼえ)のある二枚折であった。下に萩(はぎ)、桔梗(ききょう)、芒(すすき)、葛(くず)、女郎花(おみなえし)を隙間(すきま)なく描(か)いた上に、真丸な月を銀で出して、その横の空(あ)いた所へ、野路(のじ)や空月の中なる女郎花、其一(きいち)と題してある。宗助は膝(ひざ)を突いて銀の色の黒く焦(こ)げた辺(あたり)から、葛の葉の風に裏を返している色の乾いた様から、大福(だいふく)ほどな大きな丸い朱の輪廓(りんかく)の中に、抱一(ほういつ)と行書で書いた落款(らっかん)をつくづくと見て、父の生きている当時を憶(おも)い起さずにはいられなかった。 父は正月になると、きっとこの屏風(びょうぶ)を薄暗い蔵(くら)の中から出して、玄関の仕切りに立てて、その前へ紫檀(したん)の角(かく)な名刺入を置いて、年賀を受けたものである。その時はめでたいからと云うので、客間の床(とこ)には必ず虎の双幅(そうふく)を懸(か)けた。これは岸駒(がんく)じゃない岸岱(がんたい)だと父が宗助に云って聞かせた事があるのを、宗助はいまだに記憶していた。この虎の画(え)には墨が着いていた。虎が舌を出して谷の水を呑(の)んでいる鼻柱が少し汚(けが)されたのを、父は苛(ひど)く気にして、宗助を見るたびに、御前ここへ墨を塗った事を覚えているか、これは御前の小さい時分の悪戯(いたずら)だぞと云って、おかしいような恨(うら)めしいような一種の表情をした。 宗助は屏風(びょうぶ)の前に畏(かしこ)まって、自分が東京にいた昔の事を考えながら、「叔母さん、じゃこの屏風はちょうだいして行きましょう」と云った。「ああああ、御持ちなさいとも。何なら使に持たせて上げましょう」と叔母は好意から申し添えた。 宗助は然(しか)るべく叔母に頼んで、その日はそれで切り上げて帰った。晩食(ばんめし)の後(のち)御米といっしょにまた縁側へ出て、暗い所で白地の浴衣(ゆかた)を並べて、涼みながら、画の話をした。「安さんには、御逢いなさらなかったの」と御米が聞いた。「ああ、安さんは土曜でも何でも夕方まで、工場にいるんだそうだ」「随分骨が折れるでしょうね」 御米はそう云ったなり、叔父や叔母の処置については、一言(ひとこと)の批評も加えなかった。「小六の事はどうしたものだろう」と宗助が聞くと、「そうね」と云うだけであった。「理窟(りくつ)を云えば、こっちにも云い分はあるが、云い出せば、とどのつまりは裁判沙汰になるばかりだから、証拠(しょうこ)も何もなければ勝てる訳のものじゃなし」と宗助が極端を予想すると、「裁判なんかに勝たなくたってもいいわ」と御米がすぐ云ったので、宗助は苦笑してやめた。「つまりおれがあの時東京へ出られなかったからの事さ」「そうして東京へ出られた時は、もうそんな事はどうでもよかったんですもの」 夫婦はこんな話をしながら、また細い空を庇(ひさし)の下から覗(のぞ)いて見て、明日(あした)の天気を語り合って蚊帳(かや)に這入(はい)った。 次の日曜に宗助は小六を呼んで、叔母の云った通りを残らず話して聞かせて、「叔母さんが御前に詳しい説明をしなかったのは、短兵急な御前の性質を知ってるせいか、それともまだ小供だと思ってわざと略してしまったのか、そこはおれにも分らないが、何しろ事実は今云った通りなんだよ」と教えた。 小六にはいかに詳しい説明も腹の足しにはならなかった。ただ、「そうですか」と云ってむずかしい不満な顔をして宗助を見た。「仕方がないよ。叔母さんだって、安さんだって、そう悪い料簡(りょうけん)はないんだから」「そりゃ、分っています」と弟は峻(けわ)しい物の云い方をした。「じゃおれが悪いって云うんだろう。おれは無論悪いよ。昔から今日(こんにち)まで悪いところだらけな男だもの」 宗助は横になって煙草(たばこ)を吹かしながら、これより以上は何とも語らなかった。小六も黙って、座敷の隅(すみ)に立ててあった二枚折の抱一の屏風(びょうぶ)を眺(なが)めていた。「御前あの屏風を覚えているかい」とやがて兄が聞いた。「ええ」と小六が答えた。「一昨日(おととい)佐伯から届けてくれた。御父さんの持ってたもので、おれの手に残ったのは、今じゃこれだけだ。これが御前の学資になるなら、今すぐにでもやるが、剥(は)げた屏風一枚で大学を卒業する訳にも行かずな」と宗助が云った。cont...
2006年08月07日
コメント(0)
cont...-------------------------また十日ほど経(た)った。すると今度(こんだ)は宗助の方から、「御米、あの事はまだ云わないよ。どうも云うのが面倒で厭(いや)になった」と云い出した。「厭なのを無理におっしゃらなくってもいいわ」と御米が答えた。「好いかい」と宗助が聞き返した。「好いかいって、もともとあなたの事じゃなくって。私は先(せん)からどうでも好いんだわ」と御米が答えた。 その時宗助は、「じゃ、鹿爪(しかつめ)らしく云い出すのも何だか妙だから、そのうち機会(おり)があったら、聞くとしよう。なにそのうち聞いて見る機会(おり)がきっと出て来るよ」と云って延ばしてしまった。 小六は何不足なく叔父の家に寝起(ねおき)していた。試験を受けて高等学校へ這入(はい)れれば、寄宿へ入舎しなければならないと云うので、その相談まですでに叔父と打合せがしてあるようであった。新らしく出京した兄からは別段学資の世話を受けないせいか、自分の身の上については叔父ほどに親しい相談も持ち込んで来なかった。従兄弟(いとこ)の安之助とは今までの関係上大変仲が好かった。かえってこの方が兄弟らしかった。 宗助は自然叔父の家(うち)に足が遠くなるようになった。たまに行っても、義理一遍の訪問に終る事が多いので、帰り路にはいつもつまらない気がしてならなかった。しまいには時候の挨拶(あいさつ)を済ますと、すぐ帰りたくなる事もあった。こう云う時には三十分と坐(すわ)って、世間話に時間を繋(つな)ぐのにさえ骨が折れた。向うでも何だか気が置けて窮屈だと云う風が見えた。「まあいいじゃありませんか」と叔母が留めてくれるのが例であるが、そうすると、なおさらいにくい心持がした。それでも、たまには行かないと、心のうちで気が咎(とが)めるような不安を感ずるので、また行くようになった。折々は、「どうも小六が御厄介(ごやっかい)になりまして」とこっちから頭を下げて礼を云う事もあった。けれども、それ以上は、弟の将来の学資についても、また自分が叔父に頼んで、留守中に売り払って貰(もら)った地所家作についても、口を切るのがつい面倒になった。しかし宗助が興味を有(も)たない叔父の所へ、不精無精(ふしょうぶしょう)にせよ、時たま出掛けて行くのは、単に叔父甥(おい)の血属関係を、世間並に持ち堪(こた)えるための義務心からではなくって、いつか機会があったら、片をつけたい或物を胸の奥に控えていた結果に過ぎないのは明かであった。「宗さんはどうもすっかり変っちまいましたね」と叔母が叔父に話す事があった。すると叔父は、「そうよなあ。やっぱり、ああ云う事があると、永(なが)くまで後(あと)へ響くものだからな」と答えて、因果(いんが)は恐ろしいと云う風をする。叔母は重ねて、「本当に、怖(こわ)いもんですね。元はあんな寝入(ねい)った子(こ)じゃなかったが――どうもはしゃぎ過ぎるくらい活溌(かっぱつ)でしたからね。それが二三年見ないうちに、まるで別の人みたように老(ふ)けちまって。今じゃあなたより御爺(おじい)さん御爺さんしていますよ」と云う。「真逆(まさか)」と叔父がまた答える。「いえ、頭や顔は別として、様子がさ」と叔母がまた弁解する。こんな会話が老夫婦の間に取り換わされたのは、宗助が出京して以来一度や二度ではなかった。実際彼は叔父の所へ来ると、老人の眼に映る通りの人間に見えた。 御米はどう云うものか、新橋へ着いた時、老人夫婦に紹介されたぎり、かつて叔父の家の敷居を跨(また)いだ事がない。むこうから見えれば叔父さん叔母さんと丁寧(ていねい)に接待するが、帰りがけに、「どうです、ちと御出かけなすっちゃ」などと云われると、ただ、「ありがとう」と頭を下げるだけで、ついぞ出掛けた試(ためし)はなかった。さすがの宗助さえ一度は、「叔父さんの所へ一度行って見ちゃ、どうだい」と勧(すす)めた事があるが、「でも」と変な顔をするので、宗助はそれぎりけっしてその事を云い出さなかった。 両家族はこの状態で約一年ばかりを送った。すると宗助よりも気分は若いと許された叔父が突然死んだ。病症は脊髄脳膜炎(せきずいのうまくえん)とかいう劇症(げきしょう)で、二三日風邪(かぜ)の気味で寝(ね)ていたが、便所へ行った帰りに、手を洗おうとして、柄杓(ひしゃく)を持ったまま卒倒したなり、一日(いちんち)経(た)つか経たないうちに冷たくなってしまったのである。「御米、叔父はとうとう話をしずに死んでしまったよ」と宗助が云った。「あなたまだ、あの事を聞くつもりだったの、あなたも随分執念深(しゅうねんぶか)いのね」と御米が云った。 それからまた一年ばかり経ったら、叔父の子の安之助が大学を卒業して、小六が高等学校の二年生になった。叔母は安之助といっしょに中六番町に引き移った。 三年目の夏休みに小六は房州の海水浴へ行った。そこに一月余りも滞在しているうちに九月になり掛けたので、保田(ほた)から向うへ突切(つっき)って、上総(かずさ)の海岸を九十九里伝いに、銚子(ちょうし)まで来たが、そこから思い出したように東京へ帰った。宗助の所へ見えたのは、帰ってから、まだ二三日しか立たない、残暑の強い午後である。真黒に焦(こ)げた顔の中に、眼だけ光らして、見違えるように蛮色(ばんしょく)を帯びた彼は、比較的日の遠い座敷へ這入(はい)ったなり横になって、兄の帰りを待ち受けていたが、宗助の顔を見るや否や、むっくり起き上がって、「兄さん、少し御話があって来たんですが」と開き直られたので、宗助は少し驚ろいた気味で、暑苦しい洋服さえ脱ぎ更(か)えずに、小六の話を聞いた。 小六の云うところによると、二三日前彼が上総から帰った晩、彼の学資はこの暮限り、気の毒ながら出してやれないと叔母から申し渡されたのだそうである。小六は父が死んで、すぐと叔父に引き取られて以来、学校へも行けるし、着物も自然(ひとりで)にできるし、小遣(こづかい)も適宜(てきぎ)に貰えるので、父の存生中(ぞんしょうちゅう)と同じように、何不足なく暮らせて来た惰性から、その日その晩までも、ついぞ学資と云う問題を頭に思い浮べた事がなかったため、叔母の宣告を受けた時は、茫然(ぼんやり)してとかくの挨拶(あいさつ)さえできなかったのだと云う。 叔母は気の毒そうに、なぜ小六の世話ができなくなったかを、女だけに、一時間も掛かって委(くわ)しく説明してくれたそうである。それには叔父の亡(な)くなった事やら、継(つ)いで起る経済上の変化やら、また安之助の卒業やら、卒業後に控えている結婚問題やらが這入っていたのだと云う。「できるならば、せめて高等学校を卒業するまでと思って、今日(きょう)までいろいろ骨を折ったんだけれども」 叔母はこう云ったと小六は繰り返した。小六はその時ふと兄が、先年父の葬式の時に出京して、万事を片づけた後、広島へ帰るとき、小六に、御前の学資は叔父さんに預けてあるからと云った事があるのを思い出して、叔母に始めて聞いて見ると、叔母は案外な顔をして、「そりゃ、あの時、宗(そう)さんが若干(いくら)か置いて行きなすった事は、行きなすったが、それはもうありゃしないよ。叔父さんのまだ生きて御出(おいで)の時分から、御前の学資は融通して来たんだから」と答えた。 小六は兄から自分の学資がどれほどあって、何年分の勘定(かんじょう)で、叔父に預けられたかを、聞いておかなかったから、叔母からこう云われて見ると、一言(ひとこと)も返しようがなかった。「御前(おまえ)も一人じゃなし、兄さんもある事だからよく相談をして見たら好いだろう。その代り私(わたし)も宗さんに逢って、とっくり訳(わけ)を話しましょうから。どうも、宗さんも余(あん)まり近頃は御出(おいで)でないし、私も御無沙汰(ごぶさた)ばかりしているのでね、つい御前の事は御話をする訳にも行かなかったんだよ」と叔母は最後につけ加えたそうである。 小六から一部始終(いちぶしじゅう)を聞いた時、宗助はただ弟の顔を眺(なが)めて、一口、「困ったな」と云った。昔のように赫(かっ)と激して、すぐ叔母の所へ談判に押し掛ける気色(けしき)もなければ、今まで自分に対して、世話にならないでも済む人のように、よそよそしく仕向けて来た弟の態度が、急に方向を転じたのを、悪(にく)いと思う様子も見えなかった。 自分の勝手に作り上げた美くしい未来が、半分壊(くず)れかかったのを、さも傍(はた)の人のせいででもあるかのごとく心を乱している小六の帰る姿を見送った宗助は、暗い玄関の敷居の上に立って、格子(こうし)の外に射す夕日をしばらく眺(なが)めていた。 その晩宗助は裏から大きな芭蕉(ばしょう)の葉を二枚剪(き)って来て、それを座敷の縁に敷いて、その上に御米と並んで涼(すず)みながら、小六の事を話した。「叔母さんは、こっちで、小六さんの世話をしろって云う気なんじゃなくって」と御米が聞いた。「まあ、逢って聞いて見ないうちは、どう云う料簡(りょうけん)か分らないがね」と宗助が云うと、御米は、「きっとそうよ」と答えながら、暗がりで団扇(うちわ)をはたはた動かした。宗助は何も云わずに、頸(くび)を延ばして、庇(ひさし)と崖(がけ)の間に細く映る空の色を眺めた。二人はそのまましばらく黙っていたが、良(やや)あって、「だってそれじゃ無理ね」と御米がまた云った。「人間一人大学を卒業させるなんて、おれの手際(てぎわ)じゃ到底(とても)駄目だ」と宗助は自分の能力だけを明らかにした。 会話はそこで別の題目に移って、再び小六の上にも叔母の上にも帰って来なかった。それから二三日するとちょうど土曜が来たので、宗助は役所の帰りに、番町の叔母の所へ寄って見た。叔母は、「おやおや、まあ御珍らしい事」と云って、いつもよりは愛想(あいそ)よく宗助を款待(もてな)してくれた。その時宗助は厭(いや)なのを我慢して、この四五年来溜めて置いた質問を始めて叔母に掛けた。叔母は固(もと)よりできるだけは弁解しない訳に行かなかった。 叔母の云うところによると、宗助の邸宅(やしき)を売払った時、叔父の手に這入(はい)った金は、たしかには覚えていないが、何でも、宗助のために、急場の間に合せた借財を返した上、なお四千五百円とか四千三百円とか余ったそうである。ところが叔父の意見によると、あの屋敷は宗助が自分に提供して行ったのだから、たといいくら余ろうと、余った分は自分の所得と見傚(みな)して差支(さしつかえ)ない。しかし宗助の邸宅を売って儲(もう)けたと云われては心持が悪いから、これは小六の名義で保管して置いて、小六の財産にしてやる。宗助はあんな事をして廃嫡(はいちゃく)にまでされかかった奴だから、一文(いちもん)だって取る権利はない。cont...-----------------
2006年08月07日
コメント(0)
cont...四小六(ころく)の苦(く)にしていた佐伯(さえき)からは、予期の通り二三日して返事があったが、それは極(きわ)めて簡単なもので、端書(はがき)でも用の足りるところを、鄭重(ていちょう)に封筒へ入れて三銭の切手を貼(は)った、叔母の自筆に過ぎなかった。 役所から帰って、筒袖(つつそで)の仕事着を、窮屈そうに脱(ぬ)ぎ易(か)えて、火鉢(ひばち)の前へ坐(すわ)るや否や、抽出(ひきだし)から一寸ほどわざと余して差し込んであった状袋に眼が着いたので、御米(およね)の汲んで出す番茶を一口呑(の)んだまま、宗助(そうすけ)はすぐ封を切った。「へえ、安(やす)さんは神戸へ行ったんだってね」と手紙を読みながら云った。「いつ?」と御米は湯呑を夫の前に出した時の姿勢のままで聞いた。「いつとも書いてないがね。何しろ遠からぬうちには帰京仕るべく候間と書いてあるから、もうじき帰って来るんだろう」「遠からぬうちなんて、やっぱり叔母さんね」 宗助は御米の批評に、同意も不同意も表しなかった。読んだ手紙を巻き納めて、投げるようにそこへ放り出して、四五日目になる、ざらざらした腮(あご)を、気味わるそうに撫(な)で廻した。 御米はすぐその手紙を拾ったが、別に読もうともしなかった。それを膝(ひざ)の上へ乗せたまま、夫の顔を見て、「遠からぬうちには帰京仕(つかまつ)るべく候間、どうだって云うの」と聞いた。「いずれ帰ったら、安之助(やすのすけ)と相談して何とか御挨拶(ごあいさつ)を致しますと云うのさ」「遠からぬうちじゃ曖昧(あいまい)ね。いつ帰るとも書いてなくって」「いいや」 御米は念のため、膝の上の手紙を始めて開いて見た。そうしてそれを元のように畳んで、「ちょっとその状袋を」と手を夫(おっと)の方へ出した。宗助は自分と火鉢の間に挟まっている青い封筒を取って細君に渡した。御米はそれをふっと吹いて、中を膨(ふく)らまして手紙を収めた。そうして台所へ立った。 宗助はそれぎり手紙の事には気を留めなかった。今日役所で同僚が、この間英吉利(イギリス)から来遊したキチナー元帥に、新橋の傍(そば)で逢(あ)ったと云う話を思い出して、ああ云う人間になると、世界中どこへ行っても、世間を騒がせるようにできているようだが、実際そういう風に生れついて来たものかも知れない。自分の過去から引き摺(ず)ってきた運命や、またその続きとして、これから自分の眼前に展開されべき将来を取って、キチナーと云う人のそれに比べて見ると、とうてい同じ人間とは思えないぐらい懸(か)け隔(へだ)たっている。 こう考えて宗助はしきりに煙草(たばこ)を吹かした。表は夕方から風が吹き出して、わざと遠くの方から襲(おそ)って来るような音がする。それが時々やむと、やんだ間は寂(しん)として、吹き荒れる時よりはなお淋(さび)しい。宗助は腕組をしながら、もうそろそろ火事の半鐘(はんしょう)が鳴り出す時節だと思った。 台所へ出て見ると、細君は七輪(しちりん)の火を赤くして、肴(さかな)の切身を焼いていた。清(きよ)は流し元に曲(こご)んで漬物を洗っていた。二人とも口を利(き)かずにせっせと自分のやる事をやっている。宗助は障子(しょうじ)を開けたなり、しばらく肴から垂(た)る汁(つゆ)か膏(あぶら)の音を聞いていたが、無言のまままた障子を閉(た)てて元の座へ戻った。細君は眼さえ肴から離さなかった。 食事を済まして、夫婦が火鉢を間(あい)に向い合った時、御米はまた「佐伯の方は困るのね」と云い出した。「まあ仕方がない。安さんが神戸から帰るまで待つよりほかに道はあるまい」「その前にちょっと叔母さんに逢って話をしておいた方が好かなくって」「そうさ。まあそのうち何とか云って来るだろう。それまで打遣(うっちゃ)っておこうよ」「小六さんが怒ってよ。よくって」と御米はわざと念を押しておいて微笑した。宗助は下眼を使って、手に持った小楊枝(こようじ)を着物の襟(えり)へ差した。 中一日(なかいちんち)置いて、宗助はようやく佐伯からの返事を小六に知らせてやった。その時も手紙の尻(しり)に、まあそのうちどうかなるだろうと云う意味を、例のごとく付け加えた。そうして当分はこの事件について肩が抜けたように感じた。自然の経過(なりゆき)がまた窮屈に眼の前に押し寄せて来るまでは、忘れている方が面倒がなくって好いぐらいな顔をして、毎日役所へ出てはまた役所から帰って来た。帰りも遅いが、帰ってから出かけるなどという億劫(おっくう)な事は滅多(めった)になかった。客はほとんど来ない。用のない時は清を十時前に寝(ね)かす事さえあった。夫婦は毎夜同じ火鉢の両側に向き合って、食後一時間ぐらい話をした。話の題目は彼らの生活状態に相応した程度のものであった。けれども米屋の払を、この三十日(みそか)にはどうしたものだろうという、苦しい世帯話は、いまだかつて一度も彼らの口には上らなかった。と云って、小説や文学の批評はもちろんの事、男と女の間を陽炎(かげろう)のように飛び廻る、花やかな言葉のやりとりはほとんど聞かれなかった。彼らはそれほどの年輩でもないのに、もうそこを通り抜けて、日ごとに地味になって行く人のようにも見えた。または最初から、色彩の薄い極(きわ)めて通俗の人間が、習慣的に夫婦の関係を結ぶために寄り合ったようにも見えた。 上部(うわべ)から見ると、夫婦ともそう物に屈托(くったく)する気色(けしき)はなかった。それは彼らが小六の事に関して取った態度について見てもほぼ想像がつく。さすが女だけに御米は一二度、「安さんは、まだ帰らないんでしょうかね。あなた今度(こんだ)の日曜ぐらいに番町まで行って御覧なさらなくって」と注意した事があるが、宗助は、「うん、行っても好い」ぐらいな返事をするだけで、その行っても好い日曜が来ると、まるで忘れたように済ましている。御米もそれを見て、責める様子もない。天気が好いと、「ちと散歩でもしていらっしゃい」と云う。雨が降ったり、風が吹いたりすると、「今日は日曜で仕合せね」と云う。 幸にして小六はその後(ご)一度もやって来ない。この青年は、至って凝(こ)り性(しょう)の神経質で、こうと思うとどこまでも進んで来るところが、書生時代の宗助によく似ている代りに、ふと気が変ると、昨日(きのう)の事はまるで忘れたように引っ繰り返って、けろりとした顔をしている。そこも兄弟だけあって、昔の宗助にそのままである。それから、頭脳が比較的明暸(めいりょう)で、理路に感情を注(つ)ぎ込むのか、または感情に理窟(りくつ)の枠(わく)を張るのか、どっちか分らないが、とにかく物に筋道を付けないと承知しないし、また一返(いっぺん)筋道が付くと、その筋道を生かさなくってはおかないように熱中したがる。その上体質の割合に精力がつづくから、若い血気に任せて大抵の事はする。 宗助は弟を見るたびに、昔の自分が再び蘇生(そせい)して、自分の眼の前に活動しているような気がしてならなかった。時には、はらはらする事もあった。また苦々(にがにが)しく思う折もあった。そう云う場合には、心のうちに、当時の自分が一図に振舞った苦い記憶を、できるだけしばしば呼び起させるために、とくに天が小六を自分の眼の前に据(す)え付けるのではなかろうかと思った。そうして非常に恐ろしくなった。こいつもあるいはおれと同一の運命に陥(おちい)るために生れて来たのではなかろうかと考えると、今度は大いに心がかりになった。時によると心がかりよりは不愉快であった。 けれども、今日(こんにち)まで宗助は、小六に対して意見がましい事を云った事もなければ、将来について注意を与えた事もなかった。彼の弟に対する待遇方(ほう)はただ普通凡庸(ぼんよう)のものであった。彼の今の生活が、彼のような過去を有っている人とは思えないほどに、沈んでいるごとく、彼の弟を取り扱う様子にも、過去と名のつくほどの経験を有(も)った年長者の素振(そぶり)は容易に出なかった。 宗助と小六の間には、まだ二人ほど男の子が挟(はさ)まっていたが、いずれも早世(そうせい)してしまったので、兄弟とは云いながら、年は十(とお)ばかり違っている。その上宗助はある事情のために、一年の時京都へ転学したから、朝夕(ちょうせき)いっしょに生活していたのは、小六の十二三の時までである。宗助は剛情(ごうじょう)な聴(き)かぬ気の腕白小僧としての小六をいまだに記憶している。その時分は父も生きていたし、家(うち)の都合も悪くはなかったので、抱車夫(かかえしゃふ)を邸内の長屋に住まわして、楽に暮していた。この車夫に小六よりは三つほど年下の子供があって、始終(しじゅう)小六の御相手をして遊んでいた。ある夏の日盛りに、二人して、長い竿(さお)のさきへ菓子袋を括(くく)り付けて、大きな柿の木の下で蝉(せみ)の捕りくらをしているのを、宗助が見て、兼坊(けんぼう)そんなに頭を日に照らしつけると霍乱(かくらん)になるよ、さあこれを被(かぶ)れと云って、小六の古い夏帽を出してやった。すると、小六は自分の所有物を兄が無断で他(ひと)にくれてやったのが、癪(しゃく)に障(さわ)ったので、突然(いきなり)兼坊の受取った帽子を引ったくって、それを地面の上へ抛(な)げつけるや否や、馳(か)け上がるようにその上へ乗って、くしゃりと麦藁帽(むぎわらぼう)を踏み潰(つぶ)してしまった。宗助は縁から跣足(はだし)で飛んで下りて、小六の頭を擲(なぐ)りつけた。その時から、宗助の眼には、小六が小悪(こにく)らしい小僧として映った。 二年の時宗助は大学を去らなければならない事になった。東京の家(うち)へも帰(か)えれない事になった。京都からすぐ広島へ行って、そこに半年ばかり暮らしているうちに父が死んだ。母は父よりも六年ほど前に死んでいた。だから後には二十五六になる妾(めかけ)と、十六になる小六が残っただけであった。 佐伯から電報を受け取って、久しぶりに出京した宗助は、葬式を済ました上、家(うち)の始末をつけようと思ってだんだん調べて見ると、あると思った財産は案外に少なくって、かえって無いつもりの借金がだいぶあったに驚ろかされた。叔父の佐伯に相談すると、仕方がないから邸(やしき)を売るが好かろうと云う話であった。妾(めかけ)は相当の金をやってすぐ暇を出す事にきめた。小六は当分叔父の家に引き取って世話をして貰(もら)う事にした。しかし肝心(かんじん)の家屋敷はすぐ右から左へと売れる訳(わけ)には行かなかった。仕方がないから、叔父に一時の工面(くめん)を頼んで、当座の片をつけて貰った。叔父は事業家でいろいろな事に手を出しては失敗する、云わば山気(やまぎ)の多い男であった。宗助が東京にいる時分も、よく宗助の父を説きつけては、旨(うま)い事を云って金を引き出したものである。宗助の父にも慾があったかも知れないが、この伝(でん)で叔父の事業に注(つ)ぎ込んだ金高はけっして少ないものではなかった。 父の亡くなったこの際にも、叔父の都合は元と余り変っていない様子であったが、生前の義理もあるし、またこう云う男の常として、いざと云う場合には比較的融通のつくものと見えて、叔父は快よく整理を引き受けてくれた。その代り宗助は自分の家屋敷の売却方についていっさいの事を叔父に一任してしまった。早く云うと、急場の金策に対する報酬として土地家屋を提供したようなものである。叔父は、「何しろ、こう云うものは買手を見て売らないと損だからね」と云った。 ---------------cont....
2006年08月07日
コメント(0)
cont....三宗助(そうすけ)と小六(ころく)が手拭(てぬぐい)を下げて、風呂(ふろ)から帰って来た時は、座敷の真中に真四角な食卓を据(す)えて、御米(およね)の手料理が手際(てぎわ)よくその上に並べてあった。手焙(てあぶり)の火も出がけよりは濃い色に燃えていた。洋灯(ランプ)も明るかった。 宗助が机の前の座蒲団(ざぶとん)を引き寄せて、その上に楽々(らくらく)と胡坐(あぐら)を掻(か)いた時、手拭と石鹸(シャボン)を受取った御米は、「好い御湯だった事?」と聞いた。宗助はただ一言(ひとこと)、「うん」と答えただけであったが、その様子は素気(そっけ)ないと云うよりも、むしろ湯上りで、精神が弛緩(しかん)した気味に見えた。「なかなか好い湯でした」と小六が御米の方を見て調子を合せた。「しかしああ込んじゃ溜(たま)らないよ」と宗助が机の端(はじ)へ肱(ひじ)を持たせながら、倦怠(けた)るそうに云った。宗助が風呂に行くのは、いつでも役所が退(ひ)けて、家(うち)へ帰ってからの事だから、ちょうど人の立て込む夕食前(ゆうめしまえ)の黄昏(たそがれ)である。彼はこの二三カ月間ついぞ、日の光に透(す)かして湯の色を眺(なが)めた事がない。それならまだしもだが、ややともすると三日も四日もまるで銭湯の敷居を跨(また)がずに過してしまう。日曜になったら、朝早く起きて何よりも第一に奇麗(きれい)な湯に首だけ浸(つか)ってみようと、常は考えているが、さてその日曜が来て見ると、たまに悠(ゆっ)くり寝られるのは、今日ばかりじゃないかと云う気になって、つい床のうちでぐずぐずしているうちに、時間が遠慮なく過ぎて、ええ面倒だ、今日はやめにして、その代り今度(こんだ)の日曜に行こうと思い直すのが、ほとんど惰性のようになっている。「どうかして、朝湯にだけは行きたいね」と宗助が云った。「その癖朝湯に行ける日は、きっと寝坊(ねぼう)なさるのね」と細君は調戯(からか)うような口調であった。小六は腹の中でこれが兄の性来(うまれつき)の弱点であると思い込んでいた。彼は自分で学校生活をしているにもかかわらず、兄の日曜が、いかに兄にとって貴(たっ)といかを会得(えとく)できなかった。六日間の暗い精神作用を、ただこの一日で暖かに回復すべく、兄は多くの希望を二十四時間のうちに投げ込んでいる。だからやりたい事があり過ぎて、十の二三も実行できない。否、その二三にしろ進んで実行にかかると、かえってそのために費やす時間の方が惜しくなって来て、ついまた手を引込めて、じっとしているうちに日曜はいつか暮れてしまうのである。自分の気晴しや保養や、娯楽もしくは好尚(こうしょう)についてですら、かように節倹しなければならない境遇にある宗助が、小六のために尽さないのは、尽さないのではない、頭に尽す余裕(よゆう)のないのだとは、小六から見ると、どうしても受取れなかった。兄はただ手前勝手な男で、暇があればぶらぶらして細君と遊んでばかりいて、いっこう頼りにも力にもなってくれない、真底は情合(じょうあい)に薄い人だぐらいに考えていた。 けれども、小六がそう感じ出したのは、つい近頃の事で、実を云うと、佐伯との交渉が始まって以来の話である。年の若いだけ、すべてに性急な小六は、兄に頼めば今日明日(きょうあす)にも方(かた)がつくものと、思い込んでいたのに、何日(いつ)までも埒(らち)が明かないのみか、まだ先方へ出かけてもくれないので、だいぶ不平になったのである。 ところが今日帰りを待ち受けて逢(あ)って見ると、そこが兄弟で、別に御世辞も使わないうちに、どこか暖味(あたたかみ)のある仕打も見えるので、つい云いたい事も後廻しにして、いっしょに湯になんぞ這入(はい)って、穏やかに打ち解けて話せるようになって来た。 兄弟は寛(くつ)ろいで膳(ぜん)についた。御米も遠慮なく食卓の一隅(ひとすみ)を領(りょう)した。宗助も小六も猪口(ちょく)を二三杯ずつ干した。飯にかかる前に、宗助は笑いながら、「うん、面白いものが有ったっけ」と云いながら、袂(たもと)から買って来た護謨風船(ゴムふうせん)の達磨(だるま)を出して、大きく膨(ふく)らませて見せた。そうして、それを椀(わん)の葢(ふた)の上へ載(の)せて、その特色を説明して聞かせた。御米も小六も面白がって、ふわふわした玉を見ていた。しまいに小六が、ふうっと吹いたら達磨は膳(ぜん)の上から畳の上へ落ちた。それでも、まだ覆(かえ)らなかった。「それ御覧」と宗助が云った。 御米は女だけに声を出して笑ったが、御櫃(おはち)の葢(ふた)を開けて、夫の飯を盛(よそ)いながら、「兄さんも随分呑気(のんき)ね」と小六の方を向いて、半ば夫を弁護するように云った。宗助は細君から茶碗を受取って、一言(ひとこと)の弁解もなく食事を始めた。小六も正式に箸(はし)を取り上げた。 達磨はそれぎり話題に上(のぼ)らなかったが、これが緒(いとくち)になって、三人は飯の済むまで無邪気に長閑(のどか)な話をつづけた。しまいに小六が気を換えて、「時に伊藤さんもとんだ事になりましたね」と云い出した。宗助は五六日前伊藤公暗殺の号外を見たとき、御米の働いている台所へ出て来て、「おい大変だ、伊藤さんが殺された」と云って、手に持った号外を御米のエプロンの上に乗せたなり書斎へ這入(はい)ったが、その語気からいうと、むしろ落ちついたものであった。「あなた大変だって云う癖に、ちっとも大変らしい声じゃなくってよ」と御米が後(あと)から冗談(じょうだん)半分にわざわざ注意したくらいである。その後日ごとの新聞に伊藤公の事が五六段ずつ出ない事はないが、宗助はそれに目を通しているんだか、いないんだか分らないほど、暗殺事件については平気に見えた。夜帰って来て、御米が飯の御給仕をするときなどに、「今日も伊藤さんの事が何か出ていて」と聞く事があるが、その時には「うんだいぶ出ている」と答えるぐらいだから、夫の隠袋(かくし)の中に畳んである今朝の読殻(よみがら)を、後(あと)から出して読んで見ないと、その日の記事は分らなかった。御米もつまりは夫が帰宅後の会話の材料として、伊藤公を引合に出すぐらいのところだから、宗助が進まない方向へは、たって話を引張りたくはなかった。それでこの二人の間には、号外発行の当日以後、今夜小六がそれを云い出したまでは、公(おおや)けには天下を動かしつつある問題も、格別の興味をもって迎えられていなかったのである。「どうして、まあ殺されたんでしょう」と御米は号外を見たとき、宗助に聞いたと同じ事をまた小六に向って聞いた。「短銃(ピストル)をポンポン連発したのが命中(めいちゅう)したんです」と小六は正直に答えた。「だけどさ。どうして、まあ殺されたんでしょう」 小六は要領を得ないような顔をしている。宗助は落ちついた調子で、「やっぱり運命だなあ」と云って、茶碗の茶を旨(うま)そうに飲んだ。御米はこれでも納得(なっとく)ができなかったと見えて、「どうしてまた満洲(まんしゅう)などへ行ったんでしょう」と聞いた。「本当にな」と宗助は腹が張って充分物足りた様子であった。「何でも露西亜(ロシア)に秘密な用があったんだそうです」と小六が真面目(まじめ)な顔をして云った。御米は、「そう。でも厭(いや)ねえ。殺されちゃ」と云った。「おれみたような腰弁(こしべん)は、殺されちゃ厭だが、伊藤さんみたような人は、哈爾賓(ハルピン)へ行って殺される方がいいんだよ」と宗助が始めて調子づいた口を利(き)いた。「あら、なぜ」「なぜって伊藤さんは殺されたから、歴史的に偉い人になれるのさ。ただ死んで御覧、こうはいかないよ」「なるほどそんなものかも知れないな」と小六は少し感服したようだったが、やがて、「とにかく満洲だの、哈爾賓だのって物騒な所ですね。僕は何だか危険なような心持がしてならない」と云った。「そりゃ、色んな人が落ち合ってるからね」 この時御米は妙な顔をして、こう答えた夫の顔を見た。宗助もそれに気がついたらしく、「さあ、もう御膳(おぜん)を下げたら好かろう」と細君を促(うな)がして、先刻(さっき)の達磨(だるま)をまた畳の上から取って、人指指(ひとさしゆび)の先へ載(の)せながら、「どうも妙だよ。よくこう調子好くできるものだと思ってね」と云っていた。 台所から清(きよ)が出て来て、食い散らした皿小鉢(さらこばち)を食卓ごと引いて行った後で、御米も茶を入れ替えるために、次の間へ立ったから、兄弟は差向いになった。「ああ奇麗(きれい)になった。どうも食った後は汚ないものでね」と宗助は全く食卓に未練のない顔をした。勝手の方で清がしきりに笑っている。「何がそんなにおかしいの、清」と御米が障子越(しょうじごし)に話しかける声が聞えた。清はへえと云ってなお笑い出した。兄弟は何にも云わず、半(なか)ば下女の笑い声に耳を傾けていた。 しばらくして、御米が菓子皿と茶盆を両手に持って、また出て来た。藤蔓(ふじづる)の着いた大きな急須(きゅうす)から、胃にも頭にも応(こた)えない番茶を、湯呑(ゆのみ)ほどな大きな茶碗(ちゃわん)に注(つ)いで、両人(ふたり)の前へ置いた。 cont.......------------------------
2006年08月07日
コメント(0)
"長野知事選、村井氏が初当選"…田中氏3選阻む 長野県知事選は6日、投開票が行われ、新人の元防災相・村井仁氏(69)(無)が、3選を目指した現職・田中康夫氏(50)(無)を破り、初当選した。田中氏のトップダウン型の政治手法が問われたが、村井氏は、県議会や市町村長と対立する田中氏の姿勢を争点化し、批判票の結集に成功した。田中氏は「脱ダム」政策など公共事業を抑制して財政健全化を目指す「改革路線」の継続を訴えたが、及ばなかった。投票率は65・98%(前回73・78%)だった。当選した村井氏は、「責任の重さを改めて実感している。県民の皆さまと対話し、各市町村長や議会、市民団体の声に謙虚に耳を傾け、建設的な県政運営に力を尽くしていきたい」と述べた。同時に「決して改革を後戻りさせず、しっかりやって参りたい」とし、県政改革に取り組む考えを強調した。前自民党衆院議員の村井氏は昨年、郵政民営化関連法案に反対し、衆院選で党公認を得られず、いったん政界引退を表明した。自民党県連と公明党県本部の推薦、連合長野の支援を受けて、県議や市町村議と連携した地域レベルの集会を開催。選挙戦でも「田中知事が進めてきた改革を後戻りさせることはない」と訴え、無党派層や自主投票の民主支持層の一部にも浸透した。田中県政については、「自分の考え方、理念を県民に押しつけている」と批判。県内81市町村の意向を重視しつつ、税源・権限移譲など分権を進めるとし、「調整」と「改革」を両立させる姿勢を打ち出した。さらに豪雨被害を踏まえ、田中氏が推進する「脱ダム」などによる治水対策の再検討を訴えた。2000年10月に初当選した田中氏は、約1兆6400億円あった県債発行残高を923億円削減した成果を訴え、「子供たちに借金の山でなく、緑の山を残そう」と主張。財政改革と環境重視の姿勢をアピールした。しかし、初当選以来の有力支援者の多くが、強引な田中氏の言動などに反発して離れ、無党派層の盛り上がりは今ひとつ。陣営は「改革を後戻りさせてはならない」と訴えたが、大差で勝った過去2回の知事選のような支持の広がりにはつながらなかった。--------------------------"うそ"山口洋子 作詞/平尾昌晃 作曲♪~折れた煙草の 吸いがらであなたの嘘が わかるのよ誰かいい女 できたのね できたのねあー 半年あまりの 恋なのにあー エプロン姿が よく似合う爪もそめずに いてくれと女があとから 泣けるよな哀しい嘘の つける人あなた残した わるいくせ夜中に電話 かけるくせ鍵もかけずに ねむるくせ ねむるくせあー 一緒になる気も ないくせにあー 花嫁衣装は どうするの僕は着物が 好きだよとあついくちづけ くれながら冷たい嘘の つける人あー あんまり飲んでは いけないよあー 帰りの車も 気をつけてひとりの身体じゃ ないなんて女がほろりと くるような優しい嘘の 上手い人---------------------How was your "Lie"
2006年08月07日
コメント(0)
cont...道具類も積(せき)ばかり取って、金目にならないものは、ことごとく売り払ったが、五六幅の掛物と十二三点の骨董品(こっとうひん)だけは、やはり気長に欲しがる人を探(さが)さないと損だと云う叔父の意見に同意して、叔父に保管を頼む事にした。すべてを差し引いて手元に残った有金は、約二千円ほどのものであったが、宗助はそのうちの幾分を、小六の学資として、使わなければならないと気がついた。しかし月々自分の方から送るとすると、今日(こんにち)の位置が堅固でない当時、はなはだ実行しにくい結果に陥(おちい)りそうなので、苦しくはあったが、思い切って、半分だけを叔父に渡して、何分宜(よろ)しくと頼んだ。自分が中途で失敗(しくじ)ったから、せめて弟だけは物にしてやりたい気もあるので、この千円が尽きたあとは、またどうにか心配もできようしまたしてくれるだろうぐらいの不慥(ふたしか)な希望を残して、また広島へ帰って行った。 それから半年ばかりして、叔父の自筆で、家はとうとう売れたから安心しろと云う手紙が来たが、いくらに売れたとも何とも書いてないので、折り返して聞き合せると、二週間ほど経(た)っての返事に、優に例の立替を償(つぐな)うに足る金額だから心配しなくても好いとあった。宗助はこの返事に対して少なからず不満を感じたには感じたが、同じ書信の中に、委細はいずれ御面会の節云々とあったので、すぐにも東京へ行きたいような気がして、実はこうこうだがと、相談半分細君に話して見ると、御米は気の毒そうな顔をして、「でも、行けないんだから、仕方がないわね」と云って、例のごとく微笑した。その時宗助は始めて細君から宣告を受けた人のように、しばらく腕組をして考えたが、どう工夫したって、抜ける事のできないような位地(いち)と事情の下(もと)に束縛(そくばく)されていたので、ついそれなりになってしまった。 仕方がないから、なお三四回書面で往復を重ねて見たが、結果はいつも同じ事で、版行(はんこう)で押したようにいずれ御面会の節を繰り返して来るだけであった。「これじゃしようがないよ」と宗助は腹が立ったような顔をして御米を見た。三カ月ばかりして、ようやく都合がついたので、久し振りに御米を連れて、出京しようと思う矢先に、つい風邪(かぜ)を引いて寝(ね)たのが元で、腸窒扶斯(ちょうチフス)に変化したため、六十日余りを床の上に暮らした上に、あとの三十日ほどは充分仕事もできないくらい衰えてしまった。 病気が本復してから間もなく、宗助はまた広島を去って福岡の方へ移らなければならない身となった。移る前に、好い機会だからちょっと東京まで出たいものだと考えているうちに、今度もいろいろの事情に制せられて、ついそれも遂行(すいこう)せずに、やはり下り列車の走る方(かた)に自己の運命を托した。その頃は東京の家を畳むとき、懐(ふところ)にして出た金は、ほとんど使い果たしていた。彼の福岡生活は前後二年を通じて、なかなかの苦闘であった。彼は書生として京都にいる時分、種々の口実の下(もと)に、父から臨時随意に多額の学資を請求して、勝手しだいに消費した昔をよく思い出して、今の身分と比較しつつ、しきりに因果(いんが)の束縛を恐れた。ある時はひそかに過ぎた春を回顧して、あれが己(おれ)の栄華の頂点だったんだと、始めて醒(さ)めた眼に遠い霞(かすみ)を眺(なが)める事もあった。いよいよ苦しくなった時、「御米、久しく放っておいたが、また東京へ掛合(かけあ)ってみようかな」と云い出した。御米は無論逆(さから)いはしなかった。ただ下を向いて、「駄目よ。だって、叔父さんに全く信用がないんですもの」と心細そうに答えた。「向うじゃこっちに信用がないかも知れないが、こっちじゃまた向うに信用がないんだ」と宗助は威張って云い出したが、御米の俯目(ふしめ)になっている様子を見ると、急に勇気が挫(くじ)ける風に見えた。こんな問答を最初は月に一二返ぐらい繰り返していたが、後(のち)には二月(ふたつき)に一返になり、三月(みつき)に一返になり、とうとう、「好(い)いや、小六さえどうかしてくれれば。あとの事はいずれ東京へ出たら、逢(あ)った上で話をつけらあ。ねえ御米、そうすると、しようじゃないか」と云い出した。「それで、好(よ)ござんすとも」と御米は答えた。 宗助は佐伯の事をそれなり放ってしまった。単なる無心は、自分の過去に対しても、叔父に向って云い出せるものでないと、宗助は考えていた。したがってその方の談判は、始めからいまだかつて筆にした事がなかった。小六からは時々手紙が来たが、極(きわ)めて短かい形式的のものが多かった。宗助は父の死んだ時、東京で逢った小六を覚えているだけだから、いまだに小六を他愛(たわい)ない小供ぐらいに想像するので、自分の代理に叔父と交渉させようなどと云う気は無論起らなかった。 夫婦は世の中の日の目を見ないものが、寒さに堪(た)えかねて、抱き合って暖(だん)を取るような具合に、御互同志を頼りとして暮らしていた。苦しい時には、御米がいつでも、宗助に、「でも仕方がないわ」と云った。宗助は御米に、「まあ我慢するさ」と云った。 二人の間には諦(あきら)めとか、忍耐とか云うものが断えず動いていたが、未来とか希望と云うものの影はほとんど射さないように見えた。彼らは余り多く過去を語らなかった。時としては申し合わせたように、それを回避する風さえあった。御米が時として、「そのうちにはまたきっと好い事があってよ。そうそう悪い事ばかり続くものじゃないから」と夫(おっと)を慰さめるように云う事があった。すると、宗助にはそれが、真心(まごころ)ある妻(さい)の口を藉(か)りて、自分を翻弄(ほんろう)する運命の毒舌のごとくに感ぜられた。宗助はそう云う場合には何にも答えずにただ苦笑するだけであった。御米がそれでも気がつかずに、なにか云い続けると、「我々は、そんな好い事を予期する権利のない人間じゃないか」と思い切って投げ出してしまう。細君はようやく気がついて口を噤(つぐ)んでしまう。そうして二人が黙って向き合っていると、いつの間にか、自分達は自分達の拵(こしら)えた、過去という暗い大きな窖(あな)の中に落ちている。 彼らは自業自得(じごうじとく)で、彼らの未来を塗抹(とまつ)した。だから歩いている先の方には、花やかな色彩を認める事ができないものと諦(あき)らめて、ただ二人手を携(たずさ)えて行く気になった。叔父の売り払ったと云う地面家作についても、固(もと)より多くの期待は持っていなかった。時々考え出したように、「だって、近頃の相場なら、捨売(すてうり)にしたって、あの時叔父の拵らえてくれた金の倍にはなるんだもの。あんまり馬鹿馬鹿しいからね」と宗助が云い出すと、御米は淋(さみ)しそうに笑って、「また地面? いつまでもあの事ばかり考えていらっしゃるのね。だって、あなたが万事宜(よろ)しく願いますと、叔父さんにおっしゃったんでしょう」と云う。「そりゃ仕方がないさ。あの場合ああでもしなければ方(ほう)がつかないんだもの」と宗助が云う。「だからさ。叔父さんの方では、御金の代りに家(うち)と地面を貰ったつもりでいらっしゃるかも知れなくってよ」と御米が云う。 そう云われると、宗助も叔父の処置に一理あるようにも思われて、口では、「そのつもりが好くないじゃないか」と答弁するようなものの、この問題はその都度(つど)しだいしだいに背景の奥に遠ざかって行くのであった。 夫婦がこんな風に淋しく睦(むつ)まじく暮らして来た二年目の末に、宗助はもとの同級生で、学生時代には大変懇意であった杉原と云う男に偶然出逢った。杉原は卒業後高等文官試験に合格して、その時すでに或省に奉職していたのだが、公務上福岡と佐賀へ出張することになって、東京からわざわざやって来たのである。宗助は所の新聞で、杉原のいつ着いて、どこに泊っているかをよく知ってはいたが、失敗者としての自分に顧(かえり)みて、成効者(せいこうしゃ)の前に頭を下げる対照を恥ずかしく思った上に、自分は在学当時の旧友に逢うのを、特に避けたい理由を持っていたので、彼の旅館を訪ねる気は毛頭なかった。 ところが杉原の方では、妙な引掛りから、宗助のここに燻(くす)ぶっている事を聞き出して、強(し)いて面会を希望するので、宗助もやむを得ず我(が)を折った。宗助が福岡から東京へ移れるようになったのは、全くこの杉原の御蔭(おかげ)である。杉原から手紙が来て、いよいよ事がきまったとき、宗助は箸(はし)を置いて、「御米、とうとう東京へ行けるよ」と云った。「まあ結構ね」と御米が夫の顔を見た。 東京に着いてから二三週間は、眼の回(まわ)るように日が経(た)った。新らしく世帯を有(も)って、新らしい仕事を始める人に、あり勝ちな急忙(せわ)しなさと、自分達を包む大都の空気の、日夜劇(はげ)しく震盪(しんとう)する刺戟(しげき)とに駆(か)られて、何事をもじっと考える閑(ひま)もなく、また落ちついて手を下(くだ)す分別も出なかった。 夜汽車で新橋へ着いた時は、久しぶりに叔父夫婦の顔を見たが、夫婦とも灯(ひ)のせいか晴れやかな色には宗助の眼に映らなかった。途中に事故があって、着(ちゃく)の時間が珍らしく三十分ほど後れたのを、宗助の過失ででもあるかのように、待草臥(まちくたび)れた気色(けしき)であった。 宗助がこの時叔母から聞いた言葉は、「おや宗(そう)さん、しばらく御目に掛(か)からないうちに、大変御老(おふ)けなすった事」という一句であった。御米はその折(おり)始めて叔父夫婦に紹介された。「これがあの……」と叔母は逡巡(ためら)って宗助の方を見た。御米は何と挨拶(あいさつ)のしようもないので、無言のままただ頭を下げた。 小六も無論叔父夫婦と共に二人を迎いに来ていた。宗助は一眼その姿を見たとき、いつの間にか自分を凌(しの)ぐように大きくなった、弟の発育に驚ろかされた。小六はその時中学を出て、これから高等学校へ這入(はい)ろうという間際(まぎわ)であった。宗助を見て、「兄さん」とも「御帰りなさい」とも云わないで、ただ不器用に挨拶をした。 宗助と御米は一週ばかり宿屋住居(ずまい)をして、それから今の所に引き移った。その時は叔父夫婦がいろいろ世話を焼いてくれた。細々(こまごま)しい台所道具のようなものは買うまでもあるまい、古いのでよければと云うので、小人数に必要なだけ一通り取り揃(そろ)えて送って来た。その上、「御前も新世帯だから、さぞ物要(ものいり)が多かろう」と云って金を六十円くれた。 家(うち)を持ってかれこれ取り紛(まぎ)れているうちに、早(はや)半月余(よ)も経ったが、地方にいる時分あんなに気にしていた家邸(いえやしき)の事は、ついまだ叔父に言い出さずにいた。ある時御米が、「あなたあの事を叔父さんにおっしゃって」と聞いた。宗助はそれで急に思い出したように、「うん、まだ云わないよ」と答えた。「妙ね、あれほど気にしていらしったのに」と御米がうす笑をした。「だって、落ちついて、そんな事を云い出す暇(ひま)がないんだもの」と宗助が弁解した。 cont...
2006年08月06日
コメント(0)
"編集手帳"(8月6日付)手鏡のなかにケロイドの顔がある。中学生の山岡ミチコは鏡を投げ捨て、母に告げた。「殺して」。新藤兼人氏のシナリオ「ヒロシマ」である「外へ出て、その顔を皆に見せるんじゃ」と母は言った。「わしは見世物(みせも)んじゃない」「見せんさい。…それがあんたのこれからの生きる道じゃ、世界の人に、あんたのその悪魔の爪跡(つめあと)を見せるんじゃ」山岡ミチコさんは76歳になる。「その顔を見せるんじゃ」と叱咤(しった)した母アキノさんは26年前に亡くなった。被爆の語り部として、広島市を訪れた生徒たちの前に立つようになったのはそれからである過去に4度、命を絶とうとした。「殺して」は虚構ではない。「母を亡くし、記憶を語り継ぐことが“生かされてある”身の使命と知りました」。市内の自宅で静かに語った地獄絵のなかを生きた人は、残酷さの伝わらない言葉で原爆が語られるのが嫌だという。「ピース」という言葉では何も伝えられない。キノコ雲の下で何が起きたのか、だから語りつづけるのだ、と「人が飛んだ。空中を飛んだ。首や胴体や手や足が飛んだ…」(「ヒロシマ」、新日本出版社「新藤兼人 原爆を撮る」所収)。あの日、山岡さんも一瞬の閃光(せんこう)とともに空中を飛んでいる。目をそむけてはいけない情景がある。耳をふさいではいけない言葉がある。(2006年8月6日 読売新聞)-----------------------------------"原爆許すまじ"浅田石二 作詞/木下航二 作曲♪~ふるさとの街やかれ身よりの骨うめし焼土に今は白い花咲くああ許すまじ原爆を三度許すまじ原爆をわれらの街にふるさとの海荒れて黒き雨喜びの日はなく今は舟に人もなしああ許すまじ原爆を三度許すまじ原爆をわれらの海にふるさとの空重く黒き雲今日も大地おおい今は空に陽もささずああ許すまじ原爆を三度許すまじ原爆をわれらの空にはらからのたえまなき労働にきずきあぐ富と幸今はすべてついえ去らんああ許すまじ原爆を三度許すまじ原爆を世界の上に-----------------Would you mind to permit to do that??
2006年08月06日
コメント(0)
cont...宗助は約十分もかかって、すべての広告を丁寧(ていねい)に三返ほど読み直した。別に行って見ようと思うものも、買って見たいと思うものも無かったが、ただこれらの広告が判然(はっきり)と自分の頭に映って、そうしてそれを一々読み終(おお)せた時間のあった事と、それをことごとく理解し得たと云う心の余裕(よゆう)が、宗助には少なからぬ満足を与えた。彼の生活はこれほどの余裕にすら誇りを感ずるほどに、日曜以外の出入(ではい)りには、落ちついていられないものであった。 宗助は駿河台下(するがだいした)で電車を降りた。降りるとすぐ右側の窓硝子(まどガラス)の中に美しく並べてある洋書に眼がついた。宗助はしばらくその前に立って、赤や青や縞(しま)や模様の上に、鮮(あざや)かに叩(たた)き込んである金文字を眺めた。表題の意味は無論解るが、手に取って、中を検(しら)べて見ようという好奇心はちっとも起らなかった。本屋の前を通ると、きっと中へ這入(はい)って見たくなったり、中へ這入ると必ず何か欲しくなったりするのは、宗助から云うと、すでに一昔(ひとむか)し前の生活である。ただ History(ヒストリ) of(オフ) Gambling(ガムブリング)(博奕史(ばくえきし))と云うのが、ことさらに美装して、一番真中に飾られてあったので、それが幾分か彼の頭に突飛(とっぴ)な新し味を加えただけであった。 宗助は微笑しながら、急忙(せわ)しい通りを向側(むこうがわ)へ渡って、今度は時計屋の店を覗(のぞ)き込んだ。金時計だの金鎖が幾つも並べてあるが、これもただ美しい色や恰好(かっこう)として、彼の眸(ひとみ)に映るだけで、買いたい了簡(りょうけん)を誘致するには至らなかった。その癖彼は一々絹糸で釣るした価格札(ねだんふだ)を読んで、品物と見較(みくら)べて見た。そうして実際金時計の安価なのに驚ろいた。 蝙蝠傘屋(こうもりがさや)の前にもちょっと立ちどまった。西洋小間物(こまもの)を売る店先では、礼帽(シルクハット)の傍(わき)にかけてあった襟飾(えりかざ)りに眼がついた。自分の毎日かけているのよりも大変柄(がら)が好かったので、価(ね)を聞いてみようかと思って、半分店の中へ這入(はい)りかけたが、明日(あした)から襟飾りなどをかけ替えたところが下らない事だと思い直すと、急に蟇口(がまぐち)の口を開けるのが厭(いや)になって行き過ぎた。呉服店でもだいぶ立見をした。鶉御召(うずらおめし)だの、高貴織(こうきおり)だの、清凌織(せいりょうおり)だの、自分の今日(こんにち)まで知らずに過ぎた名をたくさん覚えた。京都の襟新(えりしん)と云う家(うち)の出店の前で、窓硝子(まどガラス)へ帽子の鍔(つば)を突きつけるように近く寄せて、精巧に刺繍(ぬい)をした女の半襟(はんえり)を、いつまでも眺(なが)めていた。その中(うち)にちょうど細君に似合いそうな上品なのがあった。買って行ってやろうかという気がちょっと起るや否(いな)や、そりゃ五六年前(ぜん)の事だと云う考が後(あと)から出て来て、せっかく心持の好い思いつきをすぐ揉(も)み消してしまった。宗助は苦笑しながら窓硝子を離れてまた歩き出したが、それから半町ほどの間は何だかつまらないような気分がして、往来にも店先にも格段の注意を払わなかった。 ふと気がついて見ると角に大きな雑誌屋があって、その軒先には新刊の書物が大きな字で広告してある。梯子(はしご)のような細長い枠(わく)へ紙を張ったり、ペンキ塗の一枚板へ模様画みたような色彩を施こしたりしてある。宗助はそれを一々読んだ。著者の名前も作物(さくぶつ)の名前も、一度は新聞の広告で見たようでもあり、また全く新奇のようでもあった。 この店の曲り角の影になった所で、黒い山高帽を被(かぶ)った三十ぐらいの男が地面の上へ気楽そうに胡坐(あぐら)をかいて、ええ御子供衆の御慰(おなぐさ)みと云いながら、大きな護謨風船(ゴムふうせん)を膨(ふく)らましている。それが膨れると自然と達磨(だるま)の恰好(かっこう)になって、好加減(いいかげん)な所に眼口まで墨で書いてあるのに宗助は感心した。その上一度息を入れると、いつまでも膨れている。かつ指の先へでも、手の平の上へでも自由に尻が据(すわ)る。それが尻の穴へ楊枝(ようじ)のような細いものを突っ込むとしゅうっと一度に収縮してしまう。 忙がしい往来の人は何人でも通るが、誰も立ちどまって見るほどのものはない。山高帽の男は賑(にぎ)やかな町の隅に、冷やかに胡坐(あぐら)をかいて、身の周囲(まわり)に何事が起りつつあるかを感ぜざるもののごとくに、ええ御子供衆の御慰みと云っては、達磨を膨らましている。宗助は一銭五厘出して、その風船を一つ買って、しゅっと縮ましてもらって、それを袂(たもと)へ入れた。奇麗(きれい)な床屋へ行って、髪を刈りたくなったが、どこにそんな奇麗なのがあるか、ちょっと見つからないうちに、日が限(かぎ)って来たので、また電車へ乗って、宅(うち)の方へ向った。 宗助が電車の終点まで来て、運転手に切符を渡した時には、もう空の色が光を失いかけて、湿った往来に、暗い影が射(さ)し募(つの)る頃であった。降りようとして、鉄の柱を握ったら、急に寒い心持がした。いっしょに降りた人は、皆(みん)な離れ離れになって、事あり気に忙がしく歩いて行く。町のはずれを見ると、左右の家の軒から家根(やね)へかけて、仄白(ほのしろ)い煙りが大気の中に動いているように見える。宗助も樹(き)の多い方角に向いて早足に歩を移した。今日の日曜も、暢(のん)びりした御天気も、もうすでにおしまいだと思うと、少しはかないようなまた淋(さみ)しいような一種の気分が起って来た。そうして明日(あした)からまた例によって例のごとく、せっせと働らかなくてはならない身体(からだ)だと考えると、今日半日の生活が急に惜しくなって、残る六日半(むいかはん)の非精神的な行動が、いかにもつまらなく感ぜられた。歩いているうちにも、日当の悪い、窓の乏しい、大きな部屋の模様や、隣りに坐(すわ)っている同僚の顔や、野中さんちょっとと云う上官の様子ばかりが眼に浮かんだ。 魚勝と云う肴屋(さかなや)の前を通り越して、その五六軒先の露次(ろじ)とも横丁ともつかない所を曲ると、行き当りが高い崖(がけ)で、その左右に四五軒同じ構(かまえ)の貸家が並んでいる。ついこの間までは疎(まば)らな杉垣の奥に、御家人(ごけにん)でも住み古したと思われる、物寂(ものさび)た家も一つ地所のうちに混(まじ)っていたが、崖の上の坂井(さかい)という人がここを買ってから、たちまち萱葺(かやぶき)を壊して、杉垣を引き抜いて、今のような新らしい普請(ふしん)に建て易(か)えてしまった。宗助の家(うち)は横丁を突き当って、一番奥の左側で、すぐの崖下だから、多少陰気ではあるが、その代り通りからはもっとも隔っているだけに、まあ幾分か閑静だろうと云うので、細君と相談の上、とくにそこを択(えら)んだのである。 宗助は七日(なのか)に一返の日曜ももう暮れかかったので、早く湯にでも入(い)って、暇があったら髪でも刈って、そうして緩(ゆっ)くり晩食(ばんめし)を食おうと思って、急いで格子(こうし)を開けた。台所の方で皿小鉢(さらこばち)の音がする。上がろうとする拍子(ひょうし)に、小六(ころく)の脱(ぬ)ぎ棄(す)てた下駄(げた)の上へ、気がつかずに足を乗せた。曲(こご)んで位置を調(ととの)えているところへ小六が出て来た。台所の方で御米(およね)が、「誰? 兄さん?」と聞いた。宗助は、「やあ、来ていたのか」と云いながら座敷へ上った。先刻(さっき)郵便を出してから、神田を散歩して、電車を降りて家へ帰るまで、宗助の頭には小六の小の字も閃(ひら)めかなかった。宗助は小六の顔を見た時、何となく悪い事でもしたようにきまりが好くなかった。「御米、御米」と細君を台所から呼んで、「小六が来たから、何か御馳走(ごちそう)でもするが好い」と云いつけた。細君は、忙がしそうに、台所の障子(しょうじ)を開け放したまま出て来て、座敷の入口に立っていたが、この分り切った注意を聞くや否や、「ええ今直(じき)」と云ったなり、引き返そうとしたが、また戻って来て、「その代り小六さん、憚(はばか)り様(さま)。座敷の戸を閉(た)てて、洋灯(ランプ)を点(つ)けてちょうだい。今私(わたし)も清(きよ)も手が放せないところだから」と依頼(たの)んだ。小六は簡単に、「はあ」と云って立ち上がった。 勝手では清が物を刻む音がする。湯か水をざあと流しへ空(あ)ける音がする。「奥様これはどちらへ移します」と云う声がする。「姉さん、ランプの心(しん)を剪(き)る鋏(はさみ)はどこにあるんですか」と云う小六の声がする。しゅうと湯が沸(たぎ)って七輪(しちりん)の火へかかった様子である。 宗助は暗い座敷の中で黙然(もくねん)と手焙(てあぶり)へ手を翳(かざ)していた。灰の上に出た火の塊(かた)まりだけが色づいて赤く見えた。その時裏の崖(がけ)の上の家主(やぬし)の家の御嬢さんがピヤノを鳴らし出した。宗助は思い出したように立ち上がって、座敷の雨戸を引きに縁側(えんがわ)へ出た。孟宗竹(もうそうちく)が薄黒く空の色を乱す上に、一つ二つの星が燦(きら)めいた。ピヤノの音(ね)は孟宗竹の後(うしろ)から響いた。------------------------------"もしもピアノが 弾けたなら"作曲 坂田 晃一/ 作詞 阿久 悠1981年(S.56)、西田敏行がTVドラマ"池中玄太80キロ(2)"のテーマソングとして歌ってヒットした作曲です。 ♪~(1) 思いのすべてを 歌にして君に伝えることだろう 雨の降る日は 雨のよに風吹く夜には 風のように晴れた朝には 晴れやかにだけど~僕には ピアノがない君に聞かせる 腕もない 心はいつでも 半開き伝える言葉が 残されるアーアアア アーアアア アーアアー 残される (2) もしもピアノが 弾けたなら小さな明かりを 一つ点(ツ)け君に聞かせることだろう 人を愛した 喜びや心が通わぬ 悲しみや抑えきれない 情熱やだけど~僕には ピアノがない君と夢見る こともない心はいつでも 空回り聞かせる夢さえ 遠ざかるアーアアア アーアアア アーアアー 遠ざかる ------------------------------Could you play piano???
2006年08月06日
コメント(0)
"50代の夫が家出、別れを要求"40代主婦。50代の夫が昨年秋、突然家出しました。「別れたい。自分にはもう何も関係ない」と言い出しました。自営の職場に寝泊まりし、帰宅しません。生活費は、夫が使うお金を差し引いた、これまでの2割減の額を渡してきます。 私は昼の弁当や郵便物などを持って職場に通いましたが、「もう来るな、お前には用はない」と、話を聞いてくれません。別の女性とつきあうようになったわけではなく、自分の好きなことだけを、気楽にやっていたいようです。自分の実家にはよく帰っています。 高校生の長男は受験を控え大変な時期です。私も悪いところがあれば、直したいと思っていますが、夫は「家庭が冷たい。これまでずっと我慢してきた」と言うだけです。 私は別れる気はありません。大好きな夫と、仲良く暮らしたいのです。何かアドバイスをお願いします。(福島・W子) ◇人生も半ばを過ぎると、誰しも来し方や行く末を考え、人生このままで良いのかと焦りを覚えます。仕事や家族を養う責任の重さから、すべてをリセットして身軽になり、残された時間を自由に生きたいと願うのも中年心理の特徴の一つです。 そうは言っても思慮分別も備わっている中年期には、若いころのように気軽に家出をするわけにもいかず、大抵は趣味や他の活動で気を紛らわすのですが、あなたの夫は無謀な行動に出たものですね。1年近くも家に帰らず、話し合いも拒否しているのはまるで駄々っ子ですが、まだ自分探しの旅が終わっていないのでしょう。 どういう結論に至るのか心配ですが、しばらく放っておいたらいかがでしょう。身の回りの世話も無用です。一人になりたいと言っている相手にすがっていくのは逆効果です。もちろん、息子さんの進学やあなた方の生活に対する責任は毅然(きぜん)と要求して下さい。大人が家出をするなら、それがけじめです。同時にあなたも自活の道を探しましょう。本当に大好きなら、逃げる夫を追い求めず待つことがあなたがとるべき道のように思います。 (大日向 雅美・大学教授) (2006年8月5日 読売新聞)------------------------以下 門 by 漱石cot.二そこに気のつかなかった宗助(そうすけ)は、町の角(かど)まで来て、切手と「敷島(しきしま)」を同じ店で買って、郵便だけはすぐ出したが、その足でまた同じ道を戻るのが何だか不足だったので、啣(くわ)え煙草(たばこ)の煙(けむ)を秋の日に揺(ゆら)つかせながら、ぶらぶら歩いているうちに、どこか遠くへ行って、東京と云う所はこんな所だと云う印象をはっきり頭の中へ刻みつけて、そうしてそれを今日の日曜の土産(みやげ)に家(うち)へ帰って寝(ね)ようと云う気になった。彼は年来東京の空気を吸って生きている男であるのみならず、毎日役所の行通(ゆきかよい)には電車を利用して、賑(にぎ)やかな町を二度ずつはきっと往(い)ったり来たりする習慣になっているのではあるが、身体(からだ)と頭に楽(らく)がないので、いつでも上(うわ)の空(そら)で素通りをする事になっているから、自分がその賑やかな町の中に活(い)きていると云う自覚は近来とんと起った事がない。もっとも平生(へいぜい)は忙がしさに追われて、別段気にも掛からないが、七日(なのか)に一返(いっぺん)の休日が来て、心がゆったりと落ちつける機会に出逢(であ)うと、不断の生活が急にそわそわした上調子(うわちょうし)に見えて来る。必竟(ひっきょう)自分は東京の中に住みながら、ついまだ東京というものを見た事がないんだという結論に到着すると、彼はそこにいつも妙な物淋(さび)しさを感ずるのである。 そう云う時には彼は急に思い出したように町へ出る。その上懐(ふところ)に多少余裕(よゆう)でもあると、これで一つ豪遊でもしてみようかと考える事もある。けれども彼の淋しみは、彼を思い切った極端に駆(か)り去るほどに、強烈の程度なものでないから、彼がそこまで猛進する前に、それも馬鹿馬鹿しくなってやめてしまう。のみならず、こんな人の常態として、紙入の底が大抵の場合には、軽挙を戒(いまし)める程度内に膨(ふく)らんでいるので、億劫(おっくう)な工夫を凝(こ)らすよりも、懐手(ふところで)をして、ぶらりと家(うち)へ帰る方が、つい楽になる。だから宗助の淋(さび)しみは単なる散歩か勧工場(かんこうば)縦覧ぐらいなところで、次の日曜まではどうかこうか慰藉(いしゃ)されるのである。 この日も宗助はともかくもと思って電車へ乗った。ところが日曜の好天気にもかかわらず、平常よりは乗客が少ないので例になく乗心地が好かった。その上乗客がみんな平和な顔をして、どれもこれも悠(ゆっ)たりと落ちついているように見えた。宗助は腰を掛けながら、毎朝例刻に先を争って席を奪い合いながら、丸の内方面へ向う自分の運命を顧(かえり)みた。出勤刻限の電車の道伴(みちづれ)ほど殺風景なものはない。革(かわ)にぶら下がるにしても、天鵞絨(びろうど)に腰を掛けるにしても、人間的な優(やさ)しい心持の起った試(ためし)はいまだかつてない。自分もそれでたくさんだと考えて、器械か何ぞと膝(ひざ)を突き合せ肩を並べたかのごとくに、行きたい所まで同席して不意と下りてしまうだけであった。前の御婆さんが八つぐらいになる孫娘の耳の所へ口を付けて何か云っているのを、傍(そば)に見ていた三十恰好(がっこう)の商家の御神(おかみ)さんらしいのが、可愛らしがって、年を聞いたり名を尋ねたりするところを眺(なが)めていると、今更(いまさら)ながら別の世界に来たような心持がした。 頭の上には広告が一面に枠(わく)に嵌(は)めて掛けてあった。宗助は平生これにさえ気がつかなかった。何心なしに一番目のを読んで見ると、引越は容易にできますと云う移転会社の引札(ひきふだ)であった。その次には経済を心得る人は、衛生に注意する人は、火の用心を好むものは、と三行に並べておいてその後(あと)に瓦斯竈(ガスがま)を使えと書いて、瓦斯竈から火の出ている画(え)まで添えてあった。三番目には露国文豪トルストイ伯傑作「千古の雪」と云うのと、バンカラ喜劇小辰(こたつ)大一座と云うのが、赤地に白で染め抜いてあった。 cont...------------------------How was your turn???
2006年08月06日
コメント(0)
"編集手帳"(8月4日付)小説「坊っちゃん」の最終章に、「その夜おれと山嵐はこの不浄な地を離れた」とある。小説の舞台は「四国辺」とぼやかしてあるものの、作家も口が悪い作品名を冠した列車があり、文学賞があり、菓子があり、松山市はいま、“坊っちゃんの町”で知られている。文芸誌「ホトトギス」に小説が発表されて満100年にあたる今年は多彩な催しが用意され、地元の意気込みは格別と聞く悪口を書いて、こんなに大事にされて「漱石先生、もって瞑(めい)すべし」と、作家の半藤一利さんが「漱石俳句探偵帖」(角川選書)に書いていた。風光に似て、人の心も穏やかな土地ならではだろう松山中学の英語科教師として赴任した1895年(明治28年)の4月から、熊本県の旧制五高に転出する翌年の4月まで、夏目漱石が松山に暮らしたのはわずか1年に過ぎない思えば、小泉八雲が松江市に住んだのも1年余り、石川啄木が北海道釧路市に滞在したのは数か月であった。人と土地とのえにしの深さは時間の長短では計れぬらしい旅行かばんに文庫本を携えて、松山を訪ねる方もおられよう。「親譲りの無鉄砲で小供(こども)の時から損ばかりしている」の書き出しから、最後の一行「だから清の墓は小日向の養源寺にある」まで。全編流れるような名文は心軽やかな夏の旅によく似合う。(2006年8月4日 読売新聞)-----------------------------------「夢十夜」by (夏目漱石)"第十夜"庄太郎が女に攫(さら)われてから七日(なのか)目の晩にふらりと帰って来て、急に熱が出てどっと、床に就いていると云って健さんが知らせに来た。 庄太郎は町内一の好男子で、至極善良な正直者である。只一つの道楽がある。パナマの帽子を被(かぶ)って、夕方になると水菓子屋の店先へ腰をかけて、往来(おうらい)の女の顔を眺めている。そうして頻(しきり)に感心している。そのほかにはこれと云う程の特色もない。 あまり女が通らない時は、往来を見ないで水菓子を見ている。水菓子には色々ある。水蜜桃や、林檎(りんご)や、枇杷(びわ)や、バナナを綺麗に籠に盛って、すぐ見舞物(みやげもの)に持って行ける様に二列に並べてある。庄太郎はこの籠を見ては綺麗だと云っている。商売をするなら水菓子屋に限ると云っている。そのくせ自分はパナマの帽子を被ってぶらぶら遊んでいる。この色がいいと云って、夏蜜柑などを品評する事もある。けれども、曾(かつ)て銭を出して水菓子を買った事がない。只では無論食わない。色ばかり賞めている。 ある夕方一人の女が、不意に店先に立った。身分のある人と見えて立派な服装をしている。その着物の色がひどく庄太郎の気に入った。その上庄太郎は大変女の顔に感心してしまった。そこで大事なパナマの帽子を脱(と)って丁寧に挨拶をしたら、女は籠詰の一番大きいのを指して、これを下さいと云うんで、庄太郎はすぐその籠を取って渡した。すると女はそれを一寸提げて見て、大変重い事と云った。 庄太郎は元来閑人(ひまじん)の上に、頗(すこぶ)る気作(きさく)な男だから、ではお宅まで持って参りましょうと云って、女といっしょに水菓子屋を出た。それぎり帰って来なかった。 如何(いか)な庄太郎でも、余(あん)まり呑気(のんき)過ぎる。只事じゃ無かろうと云って、親類や友達が騒ぎ出していると、七日目の晩になって、ふらりと帰って来た。 そこで大勢寄ってたかって、庄さん何処へ行っていたんだいと聞くと、庄太郎は電車へ乗って山へ行ったんだと答えた。 何でも余程長い電車に違いない。庄太郎の云う所によると、電車を下りるとすぐと原へ出たそうである。非常に広い原で、何処を見廻しても青い草ばかり生えていた。女と一緒に草の上を歩いて行くと、急に絶壁(きりぎし)の天辺(てっぺん)へ出た。その時女が庄太郎に、此処(ここ)から飛び込んで御覧なさいと云った。 底を覗(のぞ)いて見ると、切岸(きりぎし)は見えるが底は見えない。庄太郎は又パナマの帽子を脱いで再三辞退した。すると女が、もし思い切って飛び込まなければ、 豚に舐(な)められますが好う御座んすかと聞いた。庄太郎は豚と雲右衛門が大嫌(だいきらい)だった。けれども命には易(か)えられないと思って、やっぱり飛び込むのを見合せていた。ところへ豚が一匹鼻を鳴らして来た。庄太郎は仕方なしに、持っていた細い檳榔樹(びんろうじゅ)の洋杖(ステッキ)で、豚の鼻頭(はなづら)を打った。豚はぐうと云いながら、ころりと引っ繰り返って、絶壁(きりぎし)の下へ落ちて行った。庄太郎はほっと一と息接(つ)いでいると又一匹の豚が大きな鼻を庄太郎に擦(す)り附けに来た。庄太郎は已(やむ)をえず又洋杖(ステッキ)を振り上げた。豚はぐうと鳴いて又真逆様(まっさかさま)に穴の底へ転げ込んだ。すると又一匹あらわれた。この時庄太郎は不図(ふと)気がついて、向うを見ると、遥(はるか)の青草原(あおくさばら)の尽きる辺(あたり)から幾万匹か数え切れぬ豚が、群(むれ)をなして一直線に、この絶壁(きりぎし)の上に立っている庄太郎を目懸(めが)けて鼻を鳴らしてくる。庄太郎は心(しん)から恐縮した。けれども仕方がないから、近寄ってくる豚の鼻頭(はなづら)を、一つ一つ丁寧に檳榔樹の洋杖で打(ぶ)っていた。不思議な事に洋杖が鼻へ触りさえすれば豚はころりと谷の底へ落ちて行く。覗いて見ると底の見えない絶壁(きりぎし)を、逆さになった豚が行列して落ちて行く。自分がこの位多くの豚を谷へ落したかと思うと、庄太郎は我ながら怖(こわ)くなった。けれども豚は続々くる。黒雲に足が生えて、青草を踏み分ける様な勢いで無(む)尽蔵に鼻を鳴らしてくる。 庄太郎は必死の勇 を振って、豚の鼻頭(はなづら)を七日六晩(ばん)叩いた。けれども、とうとう精根が尽きて、手が蒟蒻(こんにゃく)の様に弱って、仕舞(しまい)に豚に舐められてしまった。そうして絶壁(きりぎし)の上へ倒れた。健さんは、庄太郎の話を此処までして、だから余(あま)り女を見るのは善くないよと云った。自分も尤(もっと)もだと思った。けれども健さんは庄太郎のパナマの帽子が貰いたいと云っていた。 庄太郎は助かるまい。パナマは健さんのものだろう。--------------------"心 凍らせて"by ( 高山 厳) 作詞 荒木とよひさ/作曲 浜 圭介♪~ あなたの愛だけは 今度の愛だけは他の男とはちがうと思っていたけど 抱かれるその度に 背中が悲しくていつか切り出す別れの言葉が恐くて 心 凍らせて愛を凍らせて今がどこへも 行かないように 心 凍らせて 夢を凍らせて涙の終わりに ならにように 奇麗な愛じゃなく子供の愛じゃなく生命すててもいいほど慕っていたけど あなたのその胸はいつでも遠すぎてきっと理想の誰かを 宿して生きてる 心 凍らせて 愛に流されて今も想い出 つかまりながら 心 流されて 夢に流されてあなたの右手と はぐれぬように 心 凍らせて 愛を凍らせて今がどこへも 行かないように 心 凍らせて 夢を凍らせて涙の終わりに ならないように--------------------How was today's one ???(*^夢^*)
2006年08月04日
コメント(0)
細君は悪いとも云い兼ねたと見えて、その上争いもしなかった。宗助は郵便を持ったまま、座敷から直(す)ぐ玄関に出た。細君は夫の足音を聞いて始めて、座を立ったが、これは茶の間の縁伝(えんづた)いに玄関に出た。「ちょっと散歩に行って来るよ」「行っていらっしゃい」と細君は微笑しながら答えた。 三十分ばかりして格子(こうし)ががらりと開(あ)いたので、御米はまた裁縫(しごと)の手をやめて、縁伝いに玄関へ出て見ると、帰ったと思う宗助の代りに、高等学校の制帽を被(かぶ)った、弟の小六(ころく)が這入(はい)って来た。袴(はかま)の裾(すそ)が五六寸しか出ないくらいの長い黒羅紗(くろらしゃ)のマントの釦(ボタン)を外(はず)しながら、「暑い」と云っている。「だって余(あん)まりだわ。この御天気にそんな厚いものを着て出るなんて」「何、日が暮れたら寒いだろうと思って」と小六は云訳(いいわけ)を半分しながら、嫂(あによめ)の後(あと)に跟(つ)いて、茶の間へ通ったが、縫い掛けてある着物へ眼を着けて、「相変らず精が出ますね」と云ったなり、長火鉢(ながひばち)の前へ胡坐(あぐら)をかいた。嫂は裁縫を隅(すみ)の方へ押しやっておいて、小六の向(むこう)へ来て、ちょっと鉄瓶(てつびん)をおろして炭を継(つ)ぎ始めた。「御茶ならたくさんです」と小六が云った。「厭(いや)?」と女学生流に念を押した御米は、「じゃ御菓子は」と云って笑いかけた。「あるんですか」と小六が聞いた。「いいえ、無いの」と正直に答えたが、思い出したように、「待ってちょうだい、あるかも知れないわ」と云いながら立ち上がる拍子(ひょうし)に、横にあった炭取を取り退(の)けて、袋戸棚(ふくろとだな)を開けた。小六は御米の後姿(うしろすがた)の、羽織(はおり)が帯で高くなった辺(あたり)を眺(なが)めていた。何を探(さが)すのだかなかなか手間(てま)が取れそうなので、「じゃ御菓子も廃(よ)しにしましょう。それよりか、今日は兄さんはどうしました」と聞いた。「兄さんは今ちょいと」と後向のまま答えて、御米はやはり戸棚の中を探している。やがてぱたりと戸を締めて、「駄目よ。いつの間(ま)にか兄さんがみんな食べてしまった」と云いながら、また火鉢の向(むこう)へ帰って来た。「じゃ晩に何か御馳走(ごちそう)なさい」「ええしてよ」と柱時計を見ると、もう四時近くである。御米は「四時、五時、六時」と時間を勘定(かんじょう)した。小六は黙って嫂の顔を見ていた。彼は実際嫂の御馳走には余り興味を持ち得なかったのである。「姉さん、兄さんは佐伯(さえき)へ行ってくれたんですかね」と聞いた。「この間から行く行くって云ってる事は云ってるのよ。だけど、兄さんも朝出て夕方に帰るんでしょう。帰ると草臥(くたび)れちまって、御湯に行くのも大儀そうなんですもの。だから、そう責めるのも実際御気の毒よ」「そりゃ兄さんも忙がしいには違なかろうけれども、僕もあれがきまらないと気がかりで落ちついて勉強もできないんだから」と云いながら、小六は真鍮(しんちゅう)の火箸(ひばし)を取って火鉢(ひばち)の灰の中へ何かしきりに書き出した。御米はその動く火箸の先を見ていた。「だから先刻(さっき)手紙を出しておいたのよ」と慰めるように云った。「何て」「そりゃ私(わたし)もつい見なかったの。けれども、きっとあの相談よ。今に兄さんが帰って来たら聞いて御覧なさい。きっとそうよ」「もし手紙を出したのなら、その用には違ないでしょう」「ええ、本当に出したのよ。今兄さんがその手紙を持って、出しに行ったところなの」小六はこれ以上弁解のような慰藉(いしゃ)のような嫂(あによめ)の言葉に耳を借したくなかった。散歩に出る閑(ひま)があるなら、手紙の代りに自分で足を運んでくれたらよさそうなものだと思うと余り好い心持でもなかった。座敷へ来て、書棚の中から赤い表紙の洋書を出して、方々頁(ページ)を剥(はぐ)って見ていた。cont.********門を入つて振り返つたとき、 憂の國に行かんとするものは此門を潛れ。永劫の呵責に遭はんとするものは此門をくぐれ。迷惑の人と伍せんとするものは此門をくぐれ。正義は高き主を動かし、神威は、最上智は、最初愛は、われを作る。我が前に物なしただ無窮あり我は無窮に忍ぶものなり。此門を過ぎんとするものは一切の望を捨てよ。という句がどこぞで刻んではないかと思つた。 『倫敦塔』yori 引用部はダンテ・アリギエーリ『神曲』地獄篇yori---------------------Could you??
2006年08月03日
コメント(0)
cont...**********"門"writen by (夏目漱石)一宗助(そうすけ)は先刻(さっき)から縁側(えんがわ)へ坐蒲団(ざぶとん)を持ち出して、日当りの好さそうな所へ気楽に胡坐(あぐら)をかいて見たが、やがて手に持っている雑誌を放り出すと共に、ごろりと横になった。秋日和(あきびより)と名のつくほどの上天気なので、往来を行く人の下駄(げた)の響が、静かな町だけに、朗らかに聞えて来る。肱枕(ひじまくら)をして軒から上を見上げると、奇麗(きれい)な空が一面に蒼(あお)く澄んでいる。その空が自分の寝ている縁側の、窮屈な寸法に較(くら)べて見ると、非常に広大である。たまの日曜にこうして緩(ゆっ)くり空を見るだけでもだいぶ違うなと思いながら、眉(まゆ)を寄せて、ぎらぎらする日をしばらく見つめていたが、眩(まぼ)しくなったので、今度はぐるりと寝返りをして障子(しょうじ)の方を向いた。障子の中では細君が裁縫(しごと)をしている。「おい、好い天気だな」と話しかけた。細君は、「ええ」と云(い)ったなりであった。宗助も別に話がしたい訳でもなかったと見えて、それなり黙ってしまった。しばらくすると今度は細君の方から、「ちっと散歩でもしていらっしゃい」と云った。しかしその時は宗助がただうんと云う生返事(なまへんじ)を返しただけであった。 二三分して、細君は障子(しょうじ)の硝子(ガラス)の所へ顔を寄せて、縁側に寝ている夫の姿を覗(のぞ)いて見た。夫はどう云う了見(りょうけん)か両膝(りょうひざ)を曲げて海老(えび)のように窮屈になっている。そうして両手を組み合わして、その中へ黒い頭を突っ込んでいるから、肱(ひじ)に挟(はさ)まれて顔がちっとも見えない。「あなたそんな所へ寝ると風邪(かぜ)引(ひ)いてよ」と細君が注意した。細君の言葉は東京のような、東京でないような、現代の女学生に共通な一種の調子を持っている。 宗助は両肱の中で大きな眼をぱちぱちさせながら、「寝やせん、大丈夫だ」と小声で答えた。 それからまた静かになった。外を通る護謨車(ゴムぐるま)のベルの音が二三度鳴った後(あと)から、遠くで鶏の時音(とき)をつくる声が聞えた。宗助は仕立(したて)おろしの紡績織(ぼうせきおり)の背中へ、自然(じねん)と浸み込んで来る光線の暖味(あたたかみ)を、襯衣(シャツ)の下で貪(むさ)ぼるほど味(あじわ)いながら、表の音を聴(き)くともなく聴いていたが、急に思い出したように、障子越しの細君を呼んで、「御米(およね)、近来(きんらい)の近(きん)の字はどう書いたっけね」と尋ねた。細君は別に呆(あき)れた様子もなく、若い女に特有なけたたましい笑声も立てず、「近江(おうみ)のおうの字じゃなくって」と答えた。「その近江(おうみ)のおうの字が分らないんだ」 細君は立て切った障子を半分ばかり開けて、敷居の外へ長い物指(ものさし)を出して、その先で近の字を縁側へ書いて見せて、「こうでしょう」と云ったぎり、物指の先を、字の留った所へ置いたなり、澄み渡った空を一しきり眺(なが)め入った。宗助は細君の顔も見ずに、「やっぱりそうか」と云ったが、冗談(じょうだん)でもなかったと見えて、別に笑もしなかった。細君も近の字はまるで気にならない様子で、「本当に好い御天気だわね」と半(なか)ば独(ひと)り言(ごと)のように云いながら、障子を開けたまままた裁縫(しごと)を始めた。すると宗助は肱で挟んだ頭を少し擡(もた)げて、「どうも字と云うものは不思議だよ」と始めて細君の顔を見た。「なぜ」「なぜって、いくら容易(やさし)い字でも、こりゃ変だと思って疑ぐり出すと分らなくなる。この間も今日(こんにち)の今(こん)の字で大変迷った。紙の上へちゃんと書いて見て、じっと眺めていると、何だか違ったような気がする。しまいには見れば見るほど今(こん)らしくなくなって来る。――御前(おまい)そんな事を経験した事はないかい」「まさか」「おれだけかな」と宗助は頭へ手を当てた。「あなたどうかしていらっしゃるのよ」「やっぱり神経衰弱のせいかも知れない」「そうよ」と細君は夫の顔を見た。夫はようやく立ち上った。 針箱と糸屑(いとくず)の上を飛び越すように跨(また)いで、茶の間の襖(ふすま)を開けると、すぐ座敷である。南が玄関で塞(ふさ)がれているので、突き当りの障子が、日向(ひなた)から急に這入(はい)って来た眸(ひとみ)には、うそ寒く映った。そこを開けると、廂(ひさし)に逼(せま)るような勾配(こうばい)の崖(がけ)が、縁鼻(えんばな)から聳(そび)えているので、朝の内は当って然(しか)るべきはずの日も容易に影を落さない。崖には草が生えている。下からして一側(ひとかわ)も石で畳んでないから、いつ壊(くず)れるか分らない虞(おそれ)があるのだけれども、不思議にまだ壊れた事がないそうで、そのためか家主(やぬし)も長い間昔のままにして放ってある。もっとも元は一面の竹藪(たけやぶ)だったとかで、それを切り開く時に根だけは掘り返さずに土堤(どて)の中に埋めて置いたから、地(じ)は存外緊(しま)っていますからねと、町内に二十年も住んでいる八百屋の爺(おやじ)が勝手口でわざわざ説明してくれた事がある。その時宗助はだって根が残っていれば、また竹が生えて藪になりそうなものじゃないかと聞き返して見た。すると爺は、それがね、ああ切り開かれて見ると、そう甘(うま)く行くもんじゃありませんよ。しかし崖だけは大丈夫です。どんな事があったって壊(く)えっこはねえんだからと、あたかも自分のものを弁護でもするように力(りき)んで帰って行った。 崖は秋に入(い)っても別に色づく様子もない。ただ青い草の匂(におい)が褪(さ)めて、不揃(ぶそろ)にもじゃもじゃするばかりである。薄(すすき)だの蔦(つた)だのと云う洒落(しゃれ)たものに至ってはさらに見当らない。その代り昔の名残(なご)りの孟宗(もうそう)が中途に二本、上の方に三本ほどすっくりと立っている。それが多少黄に染まって、幹に日の射(さ)すときなぞは、軒から首を出すと、土手の上に秋の暖味(あたたかみ)を眺(なが)められるような心持がする。宗助は朝出て四時過に帰る男だから、日の詰(つ)まるこの頃は、滅多(めった)に崖の上を覗(のぞ)く暇(ひま)を有(も)たなかった。暗い便所から出て、手水鉢(ちょうずばち)の水を手に受けながら、ふと廂(ひさし)の外を見上げた時、始めて竹の事を思い出した。幹の頂(いただき)に濃(こま)かな葉が集まって、まるで坊主頭(ぼうずあたま)のように見える。それが秋の日に酔って重く下を向いて、寂(ひっ)そりと重なった葉が一枚も動かない。 宗助は障子を閉(た)てて座敷へ帰って、机の前へ坐った。座敷とは云いながら客を通すからそう名づけるまでで、実は書斎とか居間とか云う方が穏当である。北側に床(とこ)があるので、申訳のために変な軸(じく)を掛けて、その前に朱泥(しゅでい)の色をした拙(せつ)な花活(はないけ)が飾ってある。欄間(らんま)には額(がく)も何もない。ただ真鍮(しんちゅう)の折釘(おれくぎ)だけが二本光っている。その他には硝子戸(ガラスど)の張った書棚が一つある。けれども中には別にこれと云って目立つほどの立派なものも這入っていない。 宗助は銀金具(ぎんかなぐ)の付いた机の抽出(ひきだし)を開けてしきりに中を検(しら)べ出したが、別に何も見つけ出さないうちに、はたりと締(あきら)めてしまった。それから硯箱(すずりばこ)の葢(ふた)を取って、手紙を書き始めた。一本書いて封をして、ちょっと考えたが、「おい、佐伯(さえき)のうちは中六番町(なかろくばんちょう)何番地だったかね」と襖越(ごし)に細君に聞いた。「二十五番地じゃなくって」と細君は答えたが、宗助が名宛を書き終る頃になって、「手紙じゃ駄目よ、行ってよく話をして来なくっちゃ」と付け加えた。「まあ、駄目までも手紙を一本出しておこう。それでいけなかったら出掛けるとするさ」と云い切ったが、細君が返事をしないので、「ねえ、おい、それで好いだろう」と念を押した。 cont..
2006年08月03日
コメント(0)
"編集手帳"(8月3日)付 古代ギリシャの都市国家アテナイがある戦争を始めるとき、政治家ペリクレスが反対した。「私の言葉は聞かずとも、最も賢明な相談相手の言うことはよく聞け。それは『時』である」と無理な開戦に踏み切って数日後、アテナイ軍で多くの人命が失われたとき、人々は初めてペリクレスの言葉が意味するところを悟ったと「プルターク英雄伝」は伝えている「時」という相談相手が賢明であることは疑いもないが、いつも遅れてやって来る。悔恨という形でしか何ひとつ教えてはくれない。「死ぬまで、おまえと一緒に罪を背負って生きていく」。そう語る父親に、長男は「ごめんなさい」と泣きじゃくったという自宅に放火し、母親と弟、妹を焼死させた高校1年生(16)。息子を医師にしたい一心から、殴る、蹴(け)るの暴力で学業の不振をなじっていた医師の父親(47)。奈良の放火殺人事件で、長男と少年鑑別所で面会した父親の手記を読んだ父はわびた。「家にいてもずっとパパに監視されていて、辛(つら)かったやろ。パパを許してくれ」と。子はわびた。「本当にひどいことしてしまったと思ってる。僕の代わりに、毎日花を供えたって…」と事件の起こる前に時計の針を戻すすべはないものか。人は誰しも悔いの種をまき散らして生きていくとはいいながら、さりながら。(2006年8月3日 読売新聞)----------------"亀田、初回ダウン・終始劣勢"…残る疑問 WBA以下 "ASAHI-COM" yori 際どい判定を制した亀田が、父の史郎トレーナーと固く抱き合った。ベルトを肩にかけて涙ぐむ。だが、晴れ姿はおろか、判定すら聞かずに帰るファンの多さが、後味の悪さを物語っていた。"1回、亀田興毅はファン・ランダエタからダウンをとられる"1回、いきなり修羅場に立たされた。「足が地についていなかった」。打ち終わりでガードが下がると、右ストレートに顔面を揺らされ、人生初のダウンを喫した。 「弱い相手とばかり戦っている」と言われた亀田。この修羅場こそ真価を示すチャンスだった。 だが、2回以降、細かい左右のジャブを顔面に浴び続けた。時折、鋭いボディーやフックで抵抗したが、足を使いリズムを取ることも無かった。 中盤はラッシュで追いつめ、相手の顔面を揺らす場面もあった。だが、細かいパンチを受けるのは相変わらず。血を吹き、右目の上も切った。 11回、手も足も止まり連打を浴びた。悲鳴が響き渡る中、なりふり構わず3度も抱きついてしのぐ。いつも強気一辺倒だった「闘拳」らしさは、もはや無かった。 手数は圧倒的にランダエタ。だが、一度も下がらず抵抗した19歳の根性を、2人のジャッジは評価したのか。結局、中盤以降に倒れなかったことこそ唯一の勝因だった。 試合終了の瞬間、両腕を上げたランダエタを横目に、闘拳はアピールをしなかった。 「あかん、悔しい。10のうち1しか力が出なかった。もっと練習して最高の王者になる」。亀田に新王者の喜びは薄い。力が及ばなかったことを、誰より自覚していたように思えてならない。--------"栄冠は君に輝く"作詞 加賀大介/作曲 古関裕而♪~一雲は湧き 光あふれて天高く 純白の玉今日ぞ飛ぶ若人よいざ まなじりは 歓呼にこたえいさぎよし ほほえむ希望ああ栄冠は君に輝く二風を打ち 大地を蹴りて悔ゆるなき 白熱の力ぞわざぞ若人よいざ一球に 一打にかけて青春の賛歌をつづれああ栄冠は君に輝く三 空をきる 球の命にかようもの 美しにおえる健康若人よいざ緑濃き シュロの葉かざす感激をまぶたに描けああ栄冠は君に輝く~******************ABOUT...."栄冠は君に輝く"出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』『栄冠は君に輝く』 (えいかんはきみにかがやく)は加賀大介作詞、古関裕而作曲の歌、行進曲である。1949年(昭和24年)発表。全国高等学校野球選手権大会の大会歌として夏の高校野球大会の開会式、閉会式や行進に歌われ演奏される。また、現在夏の高校野球大会では、5回裏終了時から6回表攻撃開始前のグラウンド整備時に、大会イメージアーチストによる同曲が流れている。日本人で、この歌を知らない人はいないであろうと言われている。"エピソード"詞は1948年(昭和23年)に大会歌として全国から応募された5252編中の最優秀作品である。当初は中村道子名義となっていたが、これは執筆活動をしていた加賀(当時の本名:中村義雄)が自分の名前を伏せて婚約者の名前で応募したためであり、第50回大会を機に、加賀大介作詞と改められた。そのころ本名も中村義雄からペンネームの一つであった「加賀大介」に改名。加賀は野球球児であったが、骨髄炎のため右足切断を余儀無くされ、野球を断念した経緯があり、この詞には野球への熱い想いが強くこめられている。--------"風"(The wind)Who has seen the wind? Neither I nor you ; 誰が風を 見たでしょう?僕もあなたも 見やしないBut when the leaves hang trembling, The wind is passing through.けれど 木の葉を ふるわせて風は通り抜けてゆく Who has seen the wind ? Neither you nor I ; 誰が風を 見たでしょう?あなたも僕も 見やしないBut when the trees bow down their heads,The wind is passing by.けれど 木立ちが 頭を下げて風は通り抜けてゆく***********************Christine G.Rossetti 作 西条八十 訳---------------------------------Would you mind to congratulate for his win???(*^疑^*)
2006年08月03日
コメント(0)
"行人"(こうじん)(1)道を歩いて行く人。また、旅人。(2)使者。(3)出征兵士。******************"行人"(KOUJIN)writen by (夏目漱石)友達一"梅田"(うめだ)の停車場(ステーション)を下(お)りるや否(いな)や自分は母からいいつけられた通り、すぐ俥(くるま)を雇(やと)って岡田(おかだ)の家に馳(か)けさせた。岡田は母方の遠縁に当る男であった。自分は彼がはたして母の何に当るかを知らずにただ疎(うと)い親類とばかり覚えていた。 *********Where's "梅田"大阪市北区の地名。鉄道各線やバス路線が集中する大阪駅周辺一帯の地。大阪の北の玄関で繁華街。*********大阪へ下りるとすぐ彼を訪(と)うたのには理由があった。自分はここへ来る一週間前ある友達と約束をして、今から十日以内に阪地(はんち)で落ち合おう、そうしていっしょに高野(こうや)登りをやろう、もし時日(じじつ)が許すなら、伊勢から名古屋へ廻(まわ)ろう、と取りきめた時、どっちも指定すべき場所をもたないので、自分はつい岡田の氏名と住所を自分の友達に告げたのである。「じゃ大阪へ着き次第、そこへ電話をかければ君のいるかいないかは、すぐ分るんだね」と友達は別れるとき念を押した。岡田が電話をもっているかどうか、そこは自分にもはなはだ危(あや)しかったので、もし電話がなかったら、電信でも郵便でも好(い)いから、すぐ出してくれるように頼んでおいた。友達は甲州線(こうしゅうせん)で諏訪(すわ)まで行って、それから引返して木曾(きそ)を通った後(あと)、大阪へ出る計画であった。自分は東海道を一息(ひといき)に京都まで来て、そこで四五日用足(ようたし)かたがた逗留(とうりゅう)してから、同じ大阪の地を踏む考えであった。 予定の時日を京都で費(ついや)した自分は、友達の消息(たより)を一刻も早く耳にするため停車場を出ると共に、岡田の家を尋ねなければならなかったのである。けれどもそれはただ自分の便宜(べんぎ)になるだけの、いわば私の都合に過ぎないので、先刻(さっき)云った母のいいつけとはまるで別物であった。母が自分に向って、あちらへ行ったら何より先に岡田を尋ねるようにと、わざわざ荷になるほど大きい鑵入(かんいり)の菓子を、御土産(おみやげ)だよと断(ことわ)って、鞄(かばん)の中へ入れてくれたのは、昔気質(むかしかたぎ)の律儀(りちぎ)からではあるが、その奥にもう一つ実際的の用件を控(ひか)えているからであった。 自分は母と岡田が彼らの系統上どんな幹の先へ岐(わか)れて出た、どんな枝となって、互に関係しているか知らないくらいな人間である。母から依託された用向についても大した期待も興味もなかった。けれども久しぶりに岡田という人物――落ちついて四角な顔をしている、いくら髭(ひげ)を欲しがっても髭の容易に生えない、しかも頭の方がそろそろ薄くなって来そうな、――岡田という人物に会う方の好奇心は多少動いた。岡田は今までに所用で時々出京した。ところが自分はいつもかけ違って会う事ができなかった。したがって強く酒精(アルコール)に染められた彼(かれ)の四角な顔も見る機会を奪われていた。自分は俥(くるま)の上で指を折って勘定して見た。岡田がいなくなったのは、ついこの間のようでも、もう五六年になる。彼の気にしていた頭も、この頃ではだいぶ危険に逼(せま)っているだろうと思って、その地(じ)の透(す)いて見えるところを想像したりなどした。 岡田の髪の毛は想像した通り薄くなっていたが、住居(すまい)は思ったよりもさっぱりした新しい普請(ふしん)であった。「どうも上方流(かみがたりゅう)で余計な所に高塀(たかべい)なんか築き上(あげ)て、陰気(いんき)で困っちまいます。そのかわり二階はあります。ちょっと上(あが)って御覧なさい」と彼は云った。自分は何より先に友達の事が気になるので、こうこういう人からまだ何とも通知は来ないかと聞いた。岡田は不思議そうな顔をして、いいえと答えた。二自分は岡田に連れられて二階へ上(あが)って見た。当人が自慢するほどあって眺望(ちょうぼう)はかなり好かったが、縁側(えんがわ)のない座敷の窓へ日が遠慮なく照り返すので、暑さは一通りではなかった。床(とこ)の間(ま)にかけてある軸物(じくもの)も反(そ)っくり返っていた。「なに日が射すためじゃない。年(ねん)が年中(ねんじゅう)かけ通しだから、糊(のり)の具合でああなるんです」と岡田は真面目(まじめ)に弁解した。「なるほど梅(うめ)に鶯(うぐいす)だ」と自分も云いたくなった。彼は世帯を持つ時の用意に、この幅(ふく)を自分の父から貰(もら)って、大得意で自分の室(へや)へ持って来て見せたのである。その時自分は「岡田君この呉春(ごしゅん)は偽物(ぎぶつ)だよ。それだからあの親父(おやじ)が君にくれたんだ」と云って調戯(からかい)半分岡田を怒らした事を覚えていた。 ************What's a "呉春"松村"呉春"(まつむら-ごしゅん)(1752-1811) 江戸後期の画家。京都の人。名は豊昌。月渓とも号す。与謝蕪村に南画を学び、のち円山応挙の影響を受け、蕪村の詩情性と応挙の写実性を融合させた新様式を確立。その様式は弟景文に継承され四条派を形成。************二人は懸物(かけもの)を見て、当時を思い出しながら子供らしく笑った。岡田はいつまでも窓に腰をかけて話を続ける風に見えた。自分も襯衣(シャツ)に洋袴(ズボン)だけになってそこに寝転(ねころ)びながら相手になった。そうして彼から天下茶屋(てんがちゃや)の形勢だの、将来の発展だの、電車の便利だのを聞かされた。自分は自分にそれほど興味のない問題を、ただ素直にはいはいと聴(き)いていたが、電車の通じる所へわざわざ俥(くるま)へ乗って来た事だけは、馬鹿らしいと思った。二人はまた二階を下りた。 やがて細君が帰って来た。細君はお兼(かね)さんと云って、器量(きりょう)はそれほどでもないが、色の白い、皮膚の滑(なめ)らかな、遠見(とおみ)の大変好い女であった。父が勤めていたある官省の属官の娘で、その頃は時々勝手口から頼まれものの仕立物などを持って出入(でいり)をしていた。岡田はまたその時分自分の家の食客(しょっかく)をして、勝手口に近い書生部屋で、勉強もし昼寝(ひるね)もし、時には焼芋(やきいも)なども食った。彼らはかようにして互に顔を知り合ったのである。が、顔を知り合ってから、結婚が成立するまでに、どんな径路(けいろ)を通って来たか自分はよく知らない。岡田は母の遠縁に当る男だけれども、自分の宅(うち)では書生同様にしていたから、下女達は自分や自分の兄には遠慮して云い兼ねる事までも、岡田に対してはつけつけと云って退(の)けた。「岡田さんお兼さんがよろしく」などという言葉は、自分も時々耳にした。けれども岡田はいっこう気にもとめない様子だったから、おおかたただの徒事(いたずら)だろうと思っていた。すると岡田は高商を卒業して一人で大阪のある保険会社へ行ってしまった。地位は自分の父が周旋(しゅうせん)したのだそうである。それから一年ほどして彼はまた飄然(ひょうぜん)として上京した。そうして今度はお兼さんの手を引いて大阪へ下(くだ)って行った。これも自分の父と母が口を利(き)いて、話を纏(まと)めてやったのだそうである。自分はその時富士へ登って甲州路を歩く考えで家にはいなかったが、後でその話を聞いてちょっと驚いた。勘定して見ると、自分が御殿場で下りた汽車と擦(す)れ違って、岡田は新しい細君を迎えるために入京したのである。 お兼さんは格子(こうし)の前で畳んだ洋傘(こうもり)を、小さい包と一緒に、脇(わき)の下に抱(かか)えながら玄関から勝手の方に通り抜ける時、ちょっときまりの悪そうな顔をした。その顔は日盛(ひざかり)の中を歩いた火気(ほてり)のため、汗を帯びて赤くなっていた。「おい御客さまだよ」と岡田が遠慮のない大きな声を出した時、お兼さんは「ただいま」と奥の方で優(やさ)しく答えた。自分はこの声の持主に、かつて着た久留米絣(くるめがすり)やフランネルの襦袢(じゅばん)を縫って貰った事もあるのだなとふと懐(なつ)かしい記憶を喚起(よびおこ)した。cont.----------"行人"(かうじん)小説。夏目漱石作。1914年(大正3)刊。妻への不信感から人間社会自体へも憎しみを持つに至る一郎の、深刻な孤独感を描き、無心の境地には到達できない近代知識人の苦悩を示す。=========="高野山"世界遺産登録について以下、HP yori************** 高野山は平成16年(2004)7月「紀伊山地の霊場と参詣道」として世界遺産に登録された。ユネスコが高野山に対して、世界遺産登録の対象として認めたのは次のような内容でした。1.高野山における世界遺産登録の中心(核)世界遺産に登録された場所は、従来より国の史跡として重要文化財に指定されていた境内(けいだい)の多くが含まれています。大門、伽藍(がらん)、金剛峯寺、徳川家霊台、金剛三昧院の各境内地、そして、奥之院全体と自然景観や森林までを含めて登録の対象となりました。 2.参詣道高野山麓九度山町の慈尊院、天野社、高野山を結ぶ最も古い登山参詣道は、一町ごとに町卒塔婆(そとば)が180石、建っており「町石道」と呼ばれています。この町石道と、高野山から熊野への参詣道である小辺路と呼ばれる信仰の道が世界遺産として登録されました。***************** 世界遺産登録名称「紀伊山地の霊場と参詣道」和歌山、奈良、三重県の三県29市町村の広範囲にまたがる文化遺産に対して「紀伊山地の霊場と参詣道」と名付けられ、日本では12番目に登録されました。この三県からなる代表的な地域とは、高野山、熊野、大峯吉野であり、古来より重要な霊場の拠点としても知られています。*****************「紀伊山地の霊場と参詣道」の登録趣旨文化遺産登録評価基準 五項目の内、次の四項目が評価され「紀伊山地の霊場と参詣道」として世界遺産に登録。1.紀伊山地の文化的景観を構成する記念物と遺跡は、東アジアにおける宗教文化の交流と発展を示す神道と仏教の比類ない融合の所産である点。2.紀伊山地の神社と寺院は、それらに関連する宗教儀礼とともに、1000年以上にわたる日本の宗教文化の発展を示すたぐいまれな証拠である点。3.紀伊山地は、日本の多くの地域における神社や寺院建築への独特の形式を生み出す背景となった点。4.紀伊山地の遺跡と森林景観は、1200年以上の期間にわたって、永続的かつ並はずれて良好に記録された信仰の山の伝統を反映している点。*********************Could you have any-"heart"??(*~無心~*)
2006年08月02日
コメント(0)
ABOUT"ついたち""一日"(朔日)「月立ち」の転(1)月の第一日。(2)月の初め。上旬。「十二月の―五日と定めたる程は/落窪 2」(3)一月一日。元日。また、正月。「―のほどのこと/源氏(幻)」********************"朔日"(さくじつ)陰暦で、毎月の第一日。ついたち。********************continue..."草枕"by ( 漱石 )十三川舟(かわふね)で久一さんを吉田の停車場(ステーション)まで見送る。舟のなかに坐ったものは、送られる久一さんと、送る老人と、那美さんと、那美さんの兄さんと、荷物の世話をする源兵衛と、それから余である。余は無論"御招伴"(おしょうばん)に過ぎん。御招伴でも呼ばれれば行く。何の意味だか分らなくても行く。非人情の旅に思慮は入らぬ。舟は筏(いかだ)に縁(ふち)をつけたように、底が平(ひら)たい。老人を中に、余と那美さんが艫(とも)、久一さんと、兄さんが、舳(みよし)に座をとった。源兵衛は荷物と共に独(ひと)り離れている。「久一さん、軍(いく)さは好きか嫌いかい」と那美さんが聞く。「出て見なければ分らんさ。苦しい事もあるだろうが、愉快な事も出て来るんだろう」と戦争を知らぬ久一さんが云う。「いくら苦しくっても、国家のためだから」と老人が云う。「短刀なんぞ貰うと、ちょっと戦争に出て見たくなりゃしないか」と女がまた妙な事を聞く。久一さんは、「そうさね」と軽(かろ)く首肯(うけが)う。老人は髯(ひげ)を掀(かか)げて笑う。兄さんは知らぬ顔をしている。「そんな平気な事で、軍(いく)さが出来るかい」と女は、委細(いさい)構わず、白い顔を久一さんの前へ突き出す。久一さんと、兄さんがちょっと眼を見合せた。「那美さんが軍人になったらさぞ強かろう」兄さんが妹に話しかけた第一の言葉はこれである。語調から察すると、ただの冗談(じょうだん)とも見えない。「わたしが? わたしが軍人? わたしが軍人になれりゃとうになっています。今頃は死んでいます。久一さん。御前も死ぬがいい。生きて帰っちゃ外聞(がいぶん)がわるい」「そんな乱暴な事を――まあまあ、めでたく凱旋(がいせん)をして帰って来てくれ。死ぬばかりが国家のためではない。わしもまだ二三年は生きるつもりじゃ。まだ逢(あ)える」 老人の言葉の尾を長く手繰(たぐる)と、尻が細くなって、末は涙の糸になる。ただ男だけにそこまではだまを出さない。久一さんは何も云わずに、横を向いて、岸の方を見た。 岸には大きな柳がある。下に小さな舟を繋(つな)いで、一人の男がしきりに垂綸(いと)を見詰めている。一行の舟が、ゆるく波足(なみあし)を引いて、その前を通った時、この男はふと顔をあげて、久一さんと眼を見合せた。眼を見合せた両人(ふたり)の間には何らの電気も通わぬ。男は魚の事ばかり考えている。久一さんの頭の中には一尾の鮒(ふな)も宿(やど)る余地がない。一行の舟は静かに太公望(たいこうぼう)の前を通り越す。 日本橋(にほんばし)を通る人の数は、一分(ぷん)に何百か知らぬ。もし橋畔(きょうはん)に立って、行く人の心に蟠(わだか)まる葛藤(かっとう)を一々に聞き得たならば、浮世(うきよ)は目眩(めまぐる)しくて生きづらかろう。ただ知らぬ人で逢い、知らぬ人でわかれるから結句(けっく)日本橋に立って、電車の旗を振る志願者も出て来る。太公望が、久一さんの泣きそうな顔に、何らの説明をも求めなかったのは幸(さいわい)である。顧(かえ)り見ると、安心して浮標(うき)を見詰めている。おおかた日露戦争(にちろせんそう)が済むまで見詰める気だろう。 cont...------------
2006年08月01日
コメント(1)
"7歳女児、プールの吸水口から吸い込まれ死亡"…埼玉 31日午後1時40分ごろ、埼玉県ふじみ野市大井武蔵野、「ふじみ野市大井プール」で、遊泳中の同県所沢市山口、会社員戸丸勝博さん(45)の長女、市立小手指小2年、瑛梨香(えりか)ちゃん(7)がプール側面の吸水口(直径約60センチ)から配管の中に吸い込まれた。消防署員ら約50人が駆け付け、プールの水を抜くとともに、配管を重機で壊して捜したところ、同日午後7時45分ごろ、吸水口から約12メートルの配管内で瑛梨香ちゃんを発見、近くの病院で死亡が確認された。吸水口には格子状のアルミ製のふた(約60センチ四方)2枚が取り付けられていたが、うち1枚が外れており、東入間署は業務上過失致死の疑いがあるとみて、市やプール関係者から事情を聞いている。調べによると、プールは水深約1メートル、全長約120メートルの「O」字形の流水プール。水深約50センチのところに設けられている円筒形の吸水口から、プールの水をポンプで配管内にいったん吸い込み、別の排出口からプールに押し流すことで水の流れを作る仕組み。水は毎秒2・4メートルの速さで吸水口から吸い込まれている。同日午後1時半ごろ、遊泳中の子供から「(吸水口の)ふたのうち1枚が外れている」と監視員に届け出があったが、女性監視員が、吸水口のそばに立って口頭で注意を呼びかけながら、営業を続けていた。消防署員が駆けつけた時には、プールで泳いでいた人もいたという。瑛梨香ちゃんは水に潜って泳いでいるうちに吸水口に近づいたとみられ、監視員が見ている前で、頭から吸水口に吸い込まれたという。近くには、母親(38)もいたという。瑛梨香ちゃんは、母親と兄2人(14歳と11歳)、同級生の女児(7)と一緒に遊びに来ていた。事故当時、同プールには約230人の客がおり、約10人の監視員が監視にあたっていたという。同プールは15日から今季の営業を開始。市教委が、さいたま市北区のビルメンテナンス会社に運営を委託している。(2006年8月1日 読売新聞)---------------------------"独り暮らしの義父かわいそう"30代の主婦。今年、義母が亡くなりました。義父を一人にしてはかわいそうなので同居の話が出ています。夫は二男ですが、実家のすぐ近くにあった義父所有の土地に家を建てています。 義兄は同じ市内に、夫婦と子どもの3人で暮らしています。義兄が結婚する際、義母は「しばらくの間は、同居しなくていい」と言ったそうです。その後、同居の話はずるずると先延ばしにされたままです。 義兄は今「自分は父と同居したいが、妻がしぶっているし、子どもの学校の問題もある」と煮え切らない態度です。義姉は食事の支度をあまりせず、その点も不安なようです。 私は、週に何回か食事を義父に届けています。同居してもいいと思っていますが、世間では長男が入るべきだ、という考えでしょう。嫁の立場であれこれ言うべきではないのかもしれませんが、じれったいのです。私たちの家は借家にして、義父の家に入るなどの方法があると思います。 早めに結論を出さないと、義父がかわいそうです。(神奈川・S子) ◇あなたと夫が同居に異存がないなら、義兄一家に相談して、そうなさったらいかがですか。長男が親の面倒をみなくてはならぬ、ということはありません。世間の思惑を気にかける必要は、一切ありません。世間は無責任にわめくだけです。義父の世話をしてくれるわけではありません。 住まいについても、義父を交えて皆と話し合えばよろしいでしょう。財産の問題もあることですし、あなたたちだけで進めず、この際、いろいろ細かく話し合いで決めておいたらいかがですか。 義父の食事だけでなく、介護のこと、その他、思いがけぬ問題が、今後出てまいります。困惑する事態に直面することが、きっとあります。その時あわてないためにも、義兄一家とよく話し合っておくことが大切ですよ。失礼ながら、あなたは楽観的すぎます。嫁の立場だから、発言すべきです。義父が言いたくても言えないことを、あなたがかわりに言ってあげたらよい。家族のためになることなのですから。 (出久根 達郎・作 家) (2006年7月31日 読売新聞)---------------------------"ひとり寝の子守唄"presehted by 加藤登紀子 (昭和44年)♪~ひとりで寝るときにゃよォーひざっ小僧が寒かろうおなごを抱くようにあたためておやりよォーひとりで寝る時にゃよォー天井のねずみが歌ってくれるだろういっしょに歌えよひとりで寝る時にゃよォーもみがら枕を想い出がぬらすだろう人恋しさにひとりで寝るときにゃよォー浮気な夜風がトントン戸をたたきお前を呼ぶだろうひとりで寝るときにゃよォー夜明けの青さが教えてくれるだろう一人もいいもんだとひとりで寝るときにゃよォーララララ・・・・・・ララララ・・・・・ ----------------------where is your fine-world ???
2006年08月01日
コメント(0)
愈愈、終幕です...cont....**********川幅(かわはば)はあまり広くない。底は浅い。流れはゆるやかである。舷(ふなばた)に倚(よ)って、水の上を滑(すべ)って、どこまで行くか、春が尽きて、人が騒いで、鉢(は)ち合せをしたがるところまで行かねばやまぬ。腥(なまぐさ)き一点の血を眉間(みけん)に印(いん)したるこの青年は、余ら一行を容赦(ようしゃ)なく引いて行く。運命の縄(なわ)はこの青年を遠き、暗き、物凄(ものすご)き北の国まで引くが故(ゆえ)に、ある日、ある月、ある年の因果(いんが)に、この青年と絡(から)みつけられたる吾(われ)らは、その因果の尽くるところまでこの青年に引かれて行かねばならぬ。因果の尽くるとき、彼と吾らの間にふっと音がして、彼一人は否応(いやおう)なしに運命の手元(てもと)まで手繰(たぐ)り寄せらるる。残る吾らも否応(いやおう)なしに残らねばならぬ。頼んでも、もがいても、引いていて貰う訳には行かぬ。 舟は面白いほどやすらかに流れる。左右の岸には土筆(つくし)でも生えておりそうな。土堤(どて)の上には柳が多く見える。まばらに、低い家がその間から藁屋根(わらやね)を出し。煤(すす)けた窓を出し。時によると白い家鴨(あひる)を出す。家鴨はがあがあと鳴いて川の中まで出て来る。 柳と柳の間に的(てきれき)と光るのは白桃(しろもも)らしい。とんかたんと機(はた)を織る音が聞える。とんかたんの絶間(たえま)から女の唄(うた)が、はああい、いようう――と水の上まで響く。何を唄うのやらいっこう分らぬ。「先生、わたくしの画(え)をかいて下さいな」と那美さんが注文する。久一さんは兄さんと、しきりに軍隊の話をしている。老人はいつか居眠りをはじめた。「書いてあげましょう」と写生帖を取り出して、春風にそら解(ど)け繻子(しゅす)の銘は何と書いて見せる。女は笑いながら、「こんな一筆(ひとふで)がきでは、いけません。もっと私の気象(きしょう)の出るように、丁寧にかいて下さい」「わたしもかきたいのだが。どうも、あなたの顔はそれだけじゃ画(え)にならない」「御挨拶(ごあいさつ)です事。それじゃ、どうすれば画になるんです」「なに今でも画に出来ますがね。ただ少し足りないところがある。それが出ないところをかくと、惜しいですよ」「足りないたって、持って生れた顔だから仕方がありませんわ」「持って生れた顔はいろいろになるものです」「自分の勝手にですか」「ええ」「女だと思って、人をたんと馬鹿になさい」「あなたが女だから、そんな馬鹿を云うのですよ」「それじゃ、あなたの顔をいろいろにして見せてちょうだい」「これほど毎日いろいろになってればたくさんだ」女は黙って向(むこう)をむく。川縁(かわべり)はいつか、水とすれすれに低く着いて、見渡す田のもは、一面(いちめん)のげんげんで埋(うずま)っている。鮮(あざ)やかな紅(べに)の滴々(てきてき)が、いつの雨に流されてか、半分溶(と)けた花の海は霞(かすみ)のなかに果(はて)しなく広がって、見上げる半空(はんくう)には崢(そうこう)たる一峰(ぽう)が半腹(はんぷく)から微(ほの)かに春の雲を吐いている。「あの山の向うを、あなたは越していらしった」と女が白い手を舷(ふなばた)から外へ出して、夢のような春の山を指(さ)す。「天狗岩(てんぐいわ)はあの辺ですか」「あの翠(みどり)の濃い下の、紫に見える所がありましょう」「あの日影の所ですか」「日影ですかしら。禿(は)げてるんでしょう」「なあに凹(くぼ)んでるんですよ。禿げていりゃ、もっと茶に見えます」「そうでしょうか。ともかく、あの裏あたりになるそうです」「そうすると、七曲(ななまが)りはもう少し左りになりますね」「七曲りは、向うへ、ずっと外(そ)れます。あの山のまた一つ先きの山ですよ」「なるほどそうだった。しかし見当から云うと、あのうすい雲が懸(かか)ってるあたりでしょう」「ええ、方角はあの辺(へん)です」 居眠をしていた老人は、舷(こべり)から、肘(ひじ)を落して、ほいと眼をさます。「まだ着かんかな」 胸膈(きょうかく)を前へ出して、右の肘(ひじ)を後(うし)ろへ張って、左り手を真直に伸(の)して、ううんと欠伸(のび)をするついでに、弓を攣(ひ)く真似をして見せる。女はホホホと笑う。「どうもこれが癖で、……」「弓が御好(おすき)と見えますね」と余も笑いながら尋ねる。「若いうちは七分五厘まで引きました。押(お)しは存外今でもたしかです」と左の肩を叩(たた)いて見せる。舳(へさき)では戦争談が酣(たけなわ)である。 舟はようやく町らしいなかへ這入(はい)る。腰障子に御肴(おんさかな)と書いた居酒屋が見える。古風(こふう)な縄暖簾(なわのれん)が見える。材木の置場が見える。人力車の音さえ時々聞える。乙鳥(つばくろ)がちちと腹を返して飛ぶ。家鴨(あひる)ががあがあ鳴く。一行は舟を捨てて停車場(ステーション)に向う。 いよいよ現実世界へ引きずり出された。汽車の見える所を現実世界と云う。汽車ほど二十世紀の文明を代表するものはあるまい。何百と云う人間を同じ箱へ詰めて轟(ごう)と通る。情(なさ)け容赦(ようしゃ)はない。詰め込まれた人間は皆同程度の速力で、同一の停車場へとまってそうして、同様に蒸(じょうき)の恩沢(おんたく)に浴さねばならぬ。人は汽車へ乗ると云う。余は積み込まれると云う。人は汽車で行くと云う。余は運搬されると云う。汽車ほど個性を軽蔑(けいべつ)したものはない。文明はあらゆる限りの手段をつくして、個性を発達せしめたる後、あらゆる限りの方法によってこの個性を踏み付けようとする。一人前(ひとりまえ)何坪何合かの地面を与えて、この地面のうちでは寝るとも起きるとも勝手にせよと云うのが現今の文明である。同時にこの何坪何合の周囲に鉄柵(てっさく)を設けて、これよりさきへは一歩も出てはならぬぞと威嚇(おど)かすのが現今の文明である。何坪何合のうちで自由を擅(ほしいまま)にしたものが、この鉄柵外にも自由を擅にしたくなるのは自然の勢(いきおい)である。憐(あわれ)むべき文明の国民は日夜にこの鉄柵に噛(か)みついて咆哮(ほうこう)している。文明は個人に自由を与えて虎(とら)のごとく猛(たけ)からしめたる後、これを檻穽(かんせい)の内に投げ込んで、天下の平和を維持しつつある。この平和は真の平和ではない。動物園の虎が見物人を睨(にら)めて、寝転(ねころ)んでいると同様な平和である。檻(おり)の鉄棒が一本でも抜けたら――世はめちゃめちゃになる。第二の仏蘭西革命(フランスかくめい)はこの時に起るのであろう。個人の革命は今すでに日夜(にちや)に起りつつある。北欧の偉人イブセンはこの革命の起るべき状態についてつぶさにその例証を吾人(ごじん)に与えた。余は汽車の猛烈に、見界(みさかい)なく、すべての人を貨物同様に心得て走る様(さま)を見るたびに、客車のうちに閉(と)じ籠(こ)められたる個人と、個人の個性に寸毫(すんごう)の注意をだに払わざるこの鉄車(てっしゃ)とを比較して、――あぶない、あぶない。気をつけねばあぶないと思う。現代の文明はこのあぶないで鼻を衝(つ)かれるくらい充満している。おさき真闇(まっくら)に盲動(もうどう)する汽車はあぶない標本の一つである。 停車場(ステーション)前の茶店に腰を下ろして、蓬餅(よもぎもち)を眺(なが)めながら汽車論を考えた。これは写生帖へかく訳にも行かず、人に話す必要もないから、だまって、餅を食いながら茶を飲む。 向うの床几(しょうぎ)には二人かけている。等しく草鞋穿(わらじば)きで、一人は赤毛布(あかげっと)、一人は千草色(ちくさいろ)の股引(ももひき)の膝頭(ひざがしら)に継布(つぎ)をあてて、継布のあたった所を手で抑えている。「やっぱり駄目かね」「駄目さあ」「牛のように胃袋が二つあると、いいなあ」「二つあれば申し分はなえさ、一つが悪(わ)るくなりゃ、切ってしまえば済むから」 この田舎者(いなかもの)は胃病と見える。彼らは満洲の野に吹く風の臭(にお)いも知らぬ。現代文明の弊(へい)をも見認(みと)めぬ。革命とはいかなるものか、文字さえ聞いた事もあるまい。あるいは自己の胃袋が一つあるか二つあるかそれすら弁じ得んだろう。余は写生帖を出して、二人の姿を描(か)き取った。 じゃらんじゃらんと号鈴(ベル)が鳴る。切符(きっぷ)はすでに買うてある。「さあ、行きましょ」と那美さんが立つ。「どうれ」と老人も立つ。一行は揃(そろ)って改札場(かいさつば)を通り抜けて、プラットフォームへ出る。号鈴(ベル)がしきりに鳴る。 轟(ごう)と音がして、白く光る鉄路の上を、文明の長蛇(ちょうだ)が蜿蜒(のたくっ)て来る。文明の長蛇は口から黒い煙を吐く。「いよいよ御別かれか」と老人が云う。「それでは御機嫌(ごきげん)よう」と久一さんが頭を下げる。「死んで御出(おい)で」と那美さんが再び云う。「荷物は来たかい」と兄さんが聞く。 蛇は吾々(われわれ)の前でとまる。横腹の戸がいくつもあく。人が出たり、這入(はい)ったりする。久一さんは乗った。老人も兄さんも、那美さんも、余もそとに立っている。 車輪が一つ廻れば久一さんはすでに吾らが世の人ではない。遠い、遠い世界へ行ってしまう。その世界では煙硝(えんしょう)の臭(にお)いの中で、人が働いている。そうして赤いものに滑(すべ)って、むやみに転(ころ)ぶ。空では大きな音がどどんどどんと云う。これからそう云う所へ行く久一さんは車のなかに立って無言のまま、吾々を眺(なが)めている。吾々を山の中から引き出した久一さんと、引き出された吾々の因果(いんが)はここで切れる。もうすでに切れかかっている。車の戸と窓があいているだけで、御互(おたがい)の顔が見えるだけで、行く人と留まる人の間が六尺ばかり隔(へだた)っているだけで、因果はもう切れかかっている。 車掌が、ぴしゃりぴしゃりと戸を閉(た)てながら、こちらへ走って来る。一つ閉てるごとに、行く人と、送る人の距離はますます遠くなる。やがて久一さんの車室の戸もぴしゃりとしまった。世界はもう二つに為(な)った。老人は思わず窓側(まどぎわ)へ寄る。青年は窓から首を出す。「あぶない。出ますよ」と云う声の下から、未練(みれん)のない鉄車(てっしゃ)の音がごっとりごっとりと調子を取って動き出す。窓は一つ一つ、余等(われわれ)の前を通る。久一さんの顔が小さくなって、最後の三等列車が、余の前を通るとき、窓の中から、また一つ顔が出た。 茶色のはげた中折帽の下から、髯(ひげ)だらけな野武士が名残(なご)り惜気(おしげ)に首を出した。そのとき、那美さんと野武士は思わず顔を見合(みあわ)せた。鉄車(てっしゃ)はごとりごとりと運転する。野武士の顔はすぐ消えた。那美さんは茫然(ぼうぜん)として、行く汽車を見送る。その茫然のうちには不思議にも今までかつて見た事のない「憐(あわ)れ」が一面に浮いている。「それだ! それだ! それが出れば画(え)になりますよ」と余は那美さんの肩を叩(たた)きながら小声に云った。余が胸中の画面はこの咄嗟(とっさ)の際に成就(じょうじゅ)したのである。------------------------------底本:「夏目漱石全集3」ちくま文庫、筑摩書房 1987(昭和62)年12月1日第1刷発行-------------------------------ふうっ!!!
2006年07月31日
コメント(0)
"原爆症の審査長期化"「死後認定」増える 厚生労働省が行う被爆者の原爆症認定の審査が長期化し、2004年度は平均307日を要したことがわかった。02年度の2倍以上で、審査結果の通知前に死亡する申請者が、広島、長崎両市だけでも、03~05年度に計108人に上った。厚労省は、日本原水爆被害者団体協議会(被団協)が集団申請を呼びかけたため、「審査が追い付かない状態」と釈明しているが、被団協は「戦後61年。被爆者の高齢化で原爆症が一気に顕在化しているなか、死後認定されても無意味だ」と審査の迅速化を訴えている。原爆症認定は、医師や専門家18人でつくる審査会で判断。認定されると、月額約14万円の医療特別手当が支払われる。厚労省によると、以前は審査会を1~2か月おきに開いており、申請受理から審査終了まで、00年度は326日かかっていた。01年度から毎月開催に変更。189日に短縮され、02年度は129日だった。しかし、02年度には、画一的とされる基準の見直しを世論に訴える手段として、被団協が集団申請を呼び掛け、また、被爆者の高齢化に伴ってがんなどを発病する人も増えたことから、申請件数は1180件と、515件だった前年度の倍以上に跳ね上がった。1回の審査会で判断できるのは70件程度で、02年度の未審査分を持ち越した03年度の審査日数は253日と長期化。さらに04年度は307日へと延びた。05年度も審査日数は300日前後になる見込みだ。この間、結果待ちの死亡者数は、広島市では02年度が23人だったが、03年度からの3年間で25人、33人、30人。02年度2人だった長崎市でも、同6人、11人、3人となった。このうち、広島市では03年度からの3年間で計32人(00年度から3年間で計22人)、長崎市でも計7人(同計4人)が死後に認定された。死後認定の場合でも、申請翌月にさかのぼって手当は支給されるが、広島市内の男性被爆者の遺族は「認定通知を見せてあげたかった」と悔しがる。厚労省は「申請順に議論しており、積み残しもあって長期化は避けられない」とするが、審査会の開催回数を増やすことは考えていない、という。被団協は「厚労省は大勢が亡くなっている現実を重く受け止めてほしい」と訴えている。(2006年7月30日 読売新聞)----------------------------------"ジョニイへの伝言"(昭和48年)阿久悠作詞/都倉俊一作曲ペドロ&カプリシャス(唄) ♪~♪ ジョニーが来たなら 伝えてよ 二時間待ってたと わりと元気よく 出て行ったよと お酒のついでに 話してよ 友だちなら そこのところ うまく伝えて ジョニーが来たなら 伝えてよ わたしは大丈夫 もとの踊り子で また稼げるわ 根っから陽気に できてるの 友だちなら そこのところ うまく伝えて 今度のバスで行く 西でも東でも 気がつけば さびしげな町ね この町は 友だちなら そこのところ うまく伝えて 今度のバスで行く 西でも東でも 気がつけば さびしげな町ね この町は ジョニーが来たなら 伝えてよ 二時間待ってたと サイは投げられた もう出かけるわ わたしはわたしの 道を行く 友だちなら そこのところ うまく伝えて うまく伝えて **********************************wet......I wana to call you, NO MORE "HIROSHIMA"!!**********************************"原爆許すまじ"浅田石二 作詞/木下航二 作曲♪~♪ふるさとの街やかれ身よりの骨うめし焼土に今は白い花咲くああ許すまじ原爆を三度許すまじ原爆をわれらの街にふるさとの海荒れて黒き雨喜びの日はなく今は舟に人もなしああ許すまじ原爆を三度許すまじ原爆をわれらの海にふるさとの空重く黒き雲今日も大地おおい今は空に陽もささずああ許すまじ原爆を三度許すまじ原爆をわれらの空にはらからのたえまなき労働にきずきあぐ富と幸今はすべてついえ去らんああ許すまじ原爆を三度許すまじ原爆を世界の上に-------------------How about you??(~不許~)
2006年07月30日
コメント(0)
余は那美さんの姿を見た時、すぐ今朝の短刀を連想した。もしや懐(ふところ)に呑(の)んでおりはせぬかと思ったら、さすが非人情(ひにんじょう)の余もただ、ひやりとした。 男女は向き合うたまま、しばらくは、同じ態度で立っている。動く景色(けしき)は見えぬ。口は動かしているかも知れんが、言葉はまるで聞えぬ。男はやがて首を垂(た)れた。女は山の方を向く。顔は余の眼に入らぬ。 山では鶯(うぐいす)が啼(な)く。女は鶯に耳を借して、いるとも見える。しばらくすると、男は屹(きっ)と、垂れた首を挙げて、半(なか)ば踵(くびす)を回(めぐ)らしかける。尋常の様(さま)ではない。女は颯(さっ)と体を開いて、海の方へ向き直る。帯の間から頭を出しているのは懐剣(かいけん)らしい。男は昂然(こうぜん)として、行きかかる。女は二歩(ふたあし)ばかり、男の踵を縫(ぬ)うて進む。女は草履(ぞうり)ばきである。男の留(とま)ったのは、呼び留められたのか。振り向く瞬間に女の右手(めて)は帯の間へ落ちた。あぶない! するりと抜け出たのは、九寸五分かと思いのほか、財布(さいふ)のような包み物である。差し出した白い手の下から、長い紐(ひも)がふらふらと春風(しゅんぷう)に揺れる。 片足を前に、腰から上を少しそらして、差し出した、白い手頸(てくび)に、紫の包。これだけの姿勢で充分画(え)にはなろう。 紫でちょっと切れた図面が、二三寸の間隔をとって、振り返る男の体(たい)のこなし具合で、うまい按排(あんばい)につながれている。不即不離(ふそくふり)とはこの刹那(せつな)の有様を形容すべき言葉と思う。女は前を引く態度で、男は後(しり)えに引かれた様子だ。しかもそれが実際に引いてもひかれてもおらん。両者の縁(えん)は紫の財布の尽くる所で、ふつりと切れている。 二人の姿勢がかくのごとく美妙(びみょう)な調和を保(たも)っていると同時に、両者の顔と、衣服にはあくまで、対照が認められるから、画として見ると一層の興味が深い。 背(せ)のずんぐりした、色黒の、髯(ひげ)づらと、くっきり締(しま)った細面(ほそおもて)に、襟(えり)の長い、撫肩(なでがた)の、華奢(きゃしゃ)姿。ぶっきらぼうに身をひねった下駄がけの野武士と、不断着(ふだんぎ)の銘仙(めいせん)さえしなやかに着こなした上、腰から上を、おとなしく反(そ)り身に控えたる痩形(やさすがた)。はげた茶の帽子に、藍縞(あいじま)の尻切(しりき)り出立(でだ)ちと、陽炎(かげろう)さえ燃やすべき櫛目(くしめ)の通った鬢(びん)の色に、黒繻子(くろじゅす)のひかる奥から、ちらりと見せた帯上(おびあげ)の、なまめかしさ。すべてが好画題(こうがだい)である。 男は手を出して財布を受け取る。引きつ引かれつ巧(たく)みに平均を保ちつつあった二人の位置はたちまち崩(くず)れる。女はもう引かぬ、男は引かりょうともせぬ。心的状態が絵を構成する上に、かほどの影響を与えようとは、画家ながら、今まで気がつかなかった。 二人は左右へ分かれる。双方に気合(きあい)がないから、もう画としては、支離滅裂(しりめつれつ)である。雑木林(ぞうきばやし)の入口で男は一度振り返った。女は後(あと)をも見ぬ。すらすらと、こちらへ歩行(あるい)てくる。やがて余の真正面(ましょうめん)まで来て、「先生、先生」と二声(ふたこえ)掛けた。これはしたり、いつ目付(めっ)かったろう。「何です」と余は木瓜(ぼけ)の上へ顔を出す。帽子は草原へ落ちた。「何をそんな所でしていらっしゃる」「詩を作って寝(ね)ていました」「うそをおっしゃい。今のを御覧でしょう」「今の? 今の、あれですか。ええ。少々拝見しました」「ホホホホ少々でなくても、たくさん御覧なさればいいのに」「実のところはたくさん拝見しました」「それ御覧なさい。まあちょっと、こっちへ出ていらっしゃい。木瓜の中から出ていらっしゃい」 余は唯々(いい)として木瓜の中から出て行く。「まだ木瓜の中に御用があるんですか」「もう無いんです。帰ろうかとも思うんです」「それじゃごいっしょに参りましょうか」「ええ」 余は再び唯々として、木瓜の中に退(しりぞ)いて、帽子を被(かぶ)り、絵の道具を纏(まと)めて、那美さんといっしょにあるき出す。「画を御描きになったの」「やめました」「ここへいらしって、まだ一枚も御描きなさらないじゃありませんか」「ええ」「でもせっかく画をかきにいらしって、ちっとも御かきなさらなくっちゃ、つまりませんわね」「なにつまってるんです」「おやそう。なぜ?」「なぜでも、ちゃんとつまるんです。画なんぞ描(か)いたって、描かなくったって、つまるところは同(おんな)じ事でさあ」「そりゃ洒落(しゃれ)なの、ホホホホ随分呑気(のんき)ですねえ」「こんな所へくるからには、呑気にでもしなくっちゃ、来た甲斐(かい)がないじゃありませんか」「なあにどこにいても、呑気にしなくっちゃ、生きている甲斐はありませんよ。私なんぞは、今のようなところを人に見られても恥(はず)かしくも何とも思いません」「思わんでもいいでしょう」「そうですかね。あなたは今の男をいったい何だと御思いです」「そうさな。どうもあまり、金持ちじゃありませんね」「ホホホ善(よ)くあたりました。あなたは占(うらな)いの名人ですよ。あの男は、貧乏して、日本にいられないからって、私に御金を貰いに来たのです」「へえ、どこから来たのです」「城下(じょうか)から来ました」「随分遠方から来たもんですね。それで、どこへ行くんですか」「何でも満洲へ行くそうです」「何しに行くんですか」「何しに行くんですか。御金を拾いに行くんだか、死にに行くんだか、分りません」この時余は眼をあげて、ちょと女の顔を見た。今結んだ口元には、微(かす)かなる笑の影が消えかかりつつある。意味は解(げ)せぬ。「あれは、わたくしの亭主です」 迅雷(じんらい)を掩(おお)うに遑(いとま)あらず、女は突然として一太刀(ひとたち)浴びせかけた。余は全く不意撃(ふいうち)を喰(く)った。無論そんな事を聞く気はなし、女も、よもや、ここまで曝(さら)け出そうとは考えていなかった。「どうです、驚ろいたでしょう」と女が云う。「ええ、少々驚ろいた」「今の亭主じゃありません、離縁(りえん)された亭主です」「なるほど、それで……」「それぎりです」「そうですか。――あの蜜柑山(みかんやま)に立派な白壁の家がありますね。ありゃ、いい地位にあるが、誰の家(うち)なんですか」「あれが兄の家です。帰り路にちょっと寄って、行きましょう」「用でもあるんですか」「ええちっと頼まれものがあります」「いっしょに行きましょう」 岨道(そばみち)の登り口へ出て、村へ下りずに、すぐ、右に折れて、また一丁ほどを登ると、門がある。門から玄関へかからずに、すぐ庭口へ廻る。女が無遠慮につかつか行くから、余も無遠慮につかつか行く。南向きの庭に、棕梠(しゅろ)が三四本あって、土塀(どべい)の下はすぐ蜜柑畠である。 女はすぐ、椽鼻(えんばな)へ腰をかけて、云う。「いい景色だ。御覧なさい」「なるほど、いいですな」障子のうちは、静かに人の気合(けあい)もせぬ。女は音(おと)のう景色もない。ただ腰をかけて、蜜柑畠を見下(みおろ)して平気でいる。余は不思議に思った。元来何の用があるのかしら。 しまいには話もないから、両方共無言のままで蜜柑畠を見下している。午(ご)に逼(せま)る太陽は、まともに暖かい光線を、山一面にあびせて、眼に余る蜜柑の葉は、葉裏まで、蒸(む)し返(かえ)されて耀(かが)やいている。やがて、裏の納屋(なや)の方で、鶏が大きな声を出して、こけこっこううと鳴く。「おやもう。御午(おひる)ですね。用事を忘れていた。――久一(きゅういち)さん、久一さん」 女は及(およ)び腰(ごし)になって、立て切った障子(しょうじ)を、からりと開(あ)ける。内は空(むな)しき十畳敷に、狩野派(かのうは)の双幅(そうふく)が空しく春の床(とこ)を飾っている。「久一さん」 納屋(なや)の方でようやく返事がする。足音が襖(ふすま)の向(むこう)でとまって、からりと、開(あ)くが早いか、白鞘(しらさや)の短刀(たんとう)が畳の上へ転(ころ)がり出す。「そら御伯父(おじ)さんの餞別(せんべつ)だよ」 帯の間に、いつ手が這入(はい)ったか、余は少しも知らなかった。短刀は二三度とんぼ返りを打って、静かな畳の上を、久一さんの足下(あしもと)へ走る。作りがゆる過ぎたと見えて、ぴかりと、寒いものが一寸(すん)ばかり光った。-----------cont.次は"最終章"desu..----------------------------------------
2006年07月28日
コメント(0)
cont...海は足の下に光る。遮ぎる雲の一片(ひとひら)さえ持たぬ春の日影は、普(あま)ねく水の上を照らして、いつの間にかほとぼりは波の底まで浸(し)み渡ったと思わるるほど暖かに見える。色は一刷毛(ひとはけ)の紺青(こんじょう)を平らに流したる所々に、しろかねの細鱗(さいりん)を畳んで濃(こま)やかに動いている。春の日は限り無き天(あめ)が下(した)を照らして、天が下は限りなき水を湛(たた)えたる間には、白き帆が小指の爪(つめ)ほどに見えるのみである。しかもその帆は全く動かない。往昔入貢(そのかみにゅうこう)の高麗船(こまぶね)が遠くから渡ってくるときには、あんなに見えたであろう。そのほかは大千(だいせん)世界を極(きわ)めて、照らす日の世、照らさるる海の世のみである。 ごろりと寝(ね)る。帽子が額(ひたい)をすべって、やけに"阿弥陀"(あみだ)となる。******************Whst's a "阿弥陀"??"阿弥陀被り"(あみだ-かぶり)帽子などを、後ろ下がりにかぶること。あみだ。******************所々の草を一二尺抽(ぬ)いて、木瓜(ぼけ)の小株が茂っている。余が顔はちょうどその一つの前に落ちた。木瓜(ぼけ)は面白い花である。枝は頑固(がんこ)で、かつて曲(まが)った事がない。そんなら真直(まっすぐ)かと云うと、けっして真直でもない。ただ真直な短かい枝に、真直な短かい枝が、ある角度で衝突して、斜(しゃ)に構えつつ全体が出来上っている。そこへ、紅(べに)だか白だか要領を得ぬ花が安閑(あんかん)と咲く。柔(やわら)かい葉さえちらちら着ける。評して見ると木瓜は花のうちで、愚(おろ)かにして悟(さと)ったものであろう。世間には拙(せつ)を守ると云う人がある。この人が来世(らいせ)に生れ変るときっと木瓜になる。余も"木瓜"になりたい。*********************What's a "木瓜"??"木瓜"(ぼけ)(1)バラ科の落葉低木。中国原産。庭木とする。高さ約2メートル。小枝はときにとげとなる。葉は楕円形。春、五弁花が前年枝に数個ずつつく。花は紅・白のほか咲き分け、絞りなどがある。果実は楕円形で黄熟し、香りが良い。「木瓜の花」は [季]春(2)クサボケの別名。********************* 小供のうち花の咲いた、葉のついた木瓜(ぼけ)を切って、面白く枝振(えだぶり)を作って、筆架(ひつか)をこしらえた事がある。それへ二銭五厘の水筆(すいひつ)を立てかけて、白い穂が花と葉の間から、隠見(いんけん)するのを机へ載(の)せて楽んだ。その日は木瓜(ぼけ)の筆架(ひつか)ばかり気にして寝た。あくる日、眼が覚(さ)めるや否(いな)や、飛び起きて、机の前へ行って見ると、花は萎(な)え葉は枯れて、白い穂だけが元のごとく光っている。あんなに奇麗なものが、どうして、こう一晩のうちに、枯れるだろうと、その時は不審(ふしん)の念に堪(た)えなかった。今思うとその時分の方がよほど出世間的(しゅっせけんてき)である。 寝(ね)るや否や眼についた木瓜は二十年来の旧知己である。見詰めているとしだいに気が遠くなって、いい心持ちになる。また詩興が浮ぶ。 寝ながら考える。一句を得るごとに写生帖に記(しる)して行く。しばらくして出来上ったようだ。始めから読み直して見る。出門多所思。春風吹吾衣。芳草生車轍。廃道入霞微。停而矚目。万象帯晴暉。聴黄鳥宛転。観落英紛霏。行尽平蕪遠。題詩古寺扉。孤愁高雲際。大空断鴻帰。寸心何窈窕。縹緲忘是非。三十我欲老。韶光猶依々。逍遥随物化。悠然対芬菲。ああ出来た、出来た。これで出来た。寝ながら木瓜を観(み)て、世の中を忘れている感じがよく出た。木瓜が出なくっても、海が出なくっても、感じさえ出ればそれで結構である。と唸(うな)りながら、喜んでいると、エヘンと云う人間の咳払(せきばらい)が聞えた。こいつは驚いた。 寝返(ねがえ)りをして、声の響いた方を見ると、山の出鼻を回って、雑木(ぞうき)の間から、一人の男があらわれた。 茶の中折(なかお)れを被(かぶ)っている。中折れの形は崩(くず)れて、傾(かたむ)く縁(へり)の下から眼が見える。眼の恰好(かっこう)はわからんが、たしかにきょろきょろときょろつくようだ。藍(あい)の縞物(しまもの)の尻を端折(はしょ)って、素足(すあし)に下駄がけの出(い)で立(た)ちは、何だか鑑定がつかない。野生(やせい)の髯(ひげ)だけで判断するとまさに野武士(のぶし)の価値はある。 男は岨道(そばみち)を下りるかと思いのほか、曲り角からまた引き返した。もと来た路へ姿をかくすかと思うと、そうでもない。またあるき直してくる。この草原を、散歩する人のほかに、こんなに行きつ戻りつするものはないはずだ。しかしあれが散歩の姿であろうか。またあんな男がこの近辺(きんぺん)に住んでいるとも考えられない。男は時々立ち留(どま)る。首を傾ける。または四方を見廻わす。大に考え込むようにもある。人を待ち合せる風にも取られる。何だかわからない。 余はこの物騒(ぶっそう)な男から、ついに吾眼をはなす事ができなかった。別に恐しいでもない、また画(え)にしようと云う気も出ない。ただ眼をはなす事ができなかった。右から左、左りから右と、男に添うて、眼を働かせているうちに、男ははたと留った。留ると共に、またひとりの人物が、余が視界に点出(てんしゅつ)された。 二人は双方(そうほう)で互に認識したように、しだいに双方から近づいて来る。余が視界はだんだん縮(ちぢ)まって、原の真中で一点の狭(せま)き間に畳(たた)まれてしまう。二人は春の山を背(せ)に、春の海を前に、ぴたりと向き合った。 男は無論例の野武士(のぶし)である。相手は? 相手は女である。那美(なみ)さんである。 cont....
2006年07月28日
コメント(0)
cont...日は霞(かすみ)を離れて高く上(のぼ)っている。障子(しょうじ)をあけて、後(うし)ろの山を眺(なが)めたら、蒼(あお)い樹(き)が非常にすき通って、例になく鮮(あざ)やかに見えた。 余は常に空気と、物象と、彩色の関係を宇宙(よのなか)でもっとも興味ある研究の一と考えている。色を主にして空気を出すか、物を主にして、空気をかくか。または空気を主にしてそのうちに色と物とを織り出すか。画は少しの気合(きあい)一つでいろいろな調子が出る。この調子は画家自身の嗜好(しこう)で異なってくる。それは無論であるが、時と場所とで、自(おの)ずから制限されるのもまた当前(とうぜん)である。英国人のかいた山水(さんすい)に明るいものは一つもない。明るい画が嫌(きらい)なのかも知れぬが、よし好きであっても、あの空気では、どうする事も出来ない。同じ英人でもグーダルなどは色の調子がまるで違う。違うはずである。彼は英人でありながら、かつて英国の景色(けいしょく)をかいた事がない。彼の画題は彼の郷土にはない。彼の本国に比すると、空気の透明の度の非常に勝(まさ)っている、埃及(エジプト)または波斯辺(ペルシャへん)の光景のみを択(えら)んでいる。したがって彼のかいた画を、始めて見ると誰も驚ろく。英人にもこんな明かな色を出すものがあるかと疑うくらい判然(はっきり)出来上っている。 個人の嗜好(しこう)はどうする事も出来ん。しかし日本の山水を描くのが主意であるならば、吾々(われわれ)もまた日本固有の空気と色を出さなければならん。いくら仏蘭西(フランス)の絵がうまいと云って、その色をそのままに写して、これが日本の景色(けいしょく)だとは云われない。やはり面(ま)のあたり自然に接して、朝な夕なに雲容煙態(うんようえんたい)を研究したあげく、あの色こそと思ったとき、すぐ三脚几(さんきゃくき)を担いで飛び出さなければならん。色は刹那(せつな)に移る。一たび機を失(しっ)すれば、同じ色は容易に眼には落ちぬ。余が今見上げた山の端(は)には、滅多(めった)にこの辺で見る事の出来ないほどな好(い)い色が充(み)ちている。せっかく来て、あれを逃(にが)すのは惜しいものだ。ちょっと写してきよう。 襖(ふすま)をあけて、椽側(えんがわ)へ出ると、向う二階の障子(しょうじ)に身を倚(も)たして、那美さんが立っている。顋(あご)を襟(えり)のなかへ埋(うず)めて、横顔だけしか見えぬ。余が挨拶(あいさつ)をしようと思う途端(とたん)に、女は、左の手を落としたまま、右の手を風のごとく動かした。閃(ひらめ)くは稲妻(いなずま)か、二折(ふたお)れ三折(みお)れ胸のあたりを、するりと走るや否(いな)や、かちりと音がして、閃めきはすぐ消えた。女の左り手には九寸(すん)五分(ぶ)の白鞘(しらさや)がある。姿はたちまち障子の影に隠れた。余は朝っぱらから歌舞伎座(かぶきざ)を覗(のぞ)いた気で宿を出る。 門を出て、左へ切れると、すぐ岨道(そばみち)つづきの、爪上(つまあが)りになる。鶯(うぐいす)が所々(ところどころ)で鳴く。左り手がなだらかな谷へ落ちて、蜜柑(みかん)が一面に植えてある。右には高からぬ岡が二つほど並んで、ここにもあるは蜜柑のみと思われる。何年前か一度この地に来た。指を折るのも面倒だ。何でも寒い師走(しわす)の頃であった。その時蜜柑山に蜜柑がべた生(な)りに生る景色を始めて見た。蜜柑取りに一枝売ってくれと云ったら、幾顆(いくつ)でも上げますよ、持っていらっしゃいと答えて、樹(き)の上で妙な節(ふし)の唄(うた)をうたい出した。東京では蜜柑の皮でさえ薬種屋(やくしゅや)へ買いに行かねばならぬのにと思った。夜になると、しきりに銃(つつ)の音がする。何だと聞いたら、猟師(りょうし)が鴨(かも)をとるんだと教えてくれた。その時は那美さんの、なの字も知らずに済んだ。 あの女を役者にしたら、立派な女形(おんながた)が出来る。普通の役者は、舞台へ出ると、よそ行きの芸をする。あの女は家のなかで、常住(じょうじゅう)芝居をしている。しかも芝居をしているとは気がつかん。自然天然(しぜんてんねん)に芝居をしている。あんなのを美的生活(びてきせいかつ)とでも云うのだろう。あの女の御蔭(おかげ)で画(え)の修業がだいぶ出来た。 あの女の所作(しょさ)を芝居と見なければ、薄気味がわるくて一日もいたたまれん。義理とか人情とか云う、尋常の道具立(どうぐだて)を背景にして、普通の小説家のような観察点からあの女を研究したら、刺激が強過ぎて、すぐいやになる。現実世界に在(あ)って、余とあの女の間に纏綿(てんめん)した一種の関係が成り立ったとするならば、余の苦痛は恐らく言語(ごんご)に絶するだろう。余のこのたびの旅行は俗情を離れて、あくまで画工になり切るのが主意であるから、眼に入るものはことごとく画として見なければならん。能、芝居、もしくは詩中の人物としてのみ観察しなければならん。この覚悟の眼鏡(めがね)から、あの女を覗(のぞ)いて見ると、あの女は、今まで見た女のうちでもっともうつくしい所作をする。自分でうつくしい芸をして見せると云う気がないだけに役者の所作よりもなおうつくしい。 こんな考(かんがえ)をもつ余を、誤解してはならん。社会の公民として不適当だなどと評してはもっとも不届(ふとど)きである。善は行い難い、徳は施(ほど)こしにくい、節操は守り安からぬ、義のために命を捨てるのは惜しい。これらをあえてするのは何人(なんびと)に取っても苦痛である。その苦痛を冒(おか)すためには、苦痛に打ち勝つだけの愉快がどこかに潜(ひそ)んでおらねばならん。画と云うも、詩と云うも、あるは芝居と云うも、この悲酸(ひさん)のうちに籠(こも)る快感の別号に過ぎん。この趣(おもむ)きを解し得て、始めて吾人(ごじん)の所作は壮烈にもなる、閑雅にもなる、すべての困苦に打ち勝って、胸中の一点の無上趣味を満足せしめたくなる。肉体の苦しみを度外に置いて、物質上の不便を物とも思わず、勇猛精進(しょうじん)の心を駆(か)って、人道のために、鼎(ていかく)に烹(に)らるるを面白く思う。もし人情なる狭(せま)き立脚地に立って、芸術の定義を下し得るとすれば、芸術は、われら教育ある士人の胸裏(きょうり)に潜(ひそ)んで、邪(じゃ)を避(さ)け正(せい)に就(つ)き、曲(きょく)を斥(しりぞ)け直(ちょく)にくみし、弱(じゃく)を扶(たす)け強(きょう)を挫(くじ)かねば、どうしても堪(た)えられぬと云う一念の結晶して、燦(さん)として白日(はくじつ)を射返すものである。 芝居気があると人の行為を笑う事がある。うつくしき趣味を貫(つらぬ)かんがために、不必要なる犠牲をあえてするの人情に遠きを嗤(わら)うのである。自然にうつくしき性格を発揮するの機会を待たずして、無理矢理に自己の趣味観を衒(てら)うの愚(ぐ)を笑うのである。真に個中(こちゅう)の消息を解し得たるものの嗤うはその意を得ている。趣味の何物たるをも心得ぬ下司下郎(げすげろう)の、わが卑(いや)しき心根に比較して他(た)を賤(いや)しむに至っては許しがたい。昔し巌頭(がんとう)の吟(ぎん)を遺(のこ)して、五十丈の飛瀑(ひばく)を直下して急湍(きゅうたん)に赴(おもむ)いた青年がある。余の視(み)るところにては、彼の青年は美の一字のために、捨つべからざる命を捨てたるものと思う。死そのものは洵(まこと)に壮烈である、ただその死を促(うな)がすの動機に至っては解しがたい。されども死そのものの壮烈をだに体し得ざるものが、いかにして藤村子(ふじむらし)の所作(しょさ)を嗤い得べき。彼らは壮烈の最後を遂(と)ぐるの情趣を味(あじわ)い得ざるが故(ゆえ)に、たとい正当の事情のもとにも、とうてい壮烈の最後を遂げ得べからざる制限ある点において、藤村子よりは人格として劣等であるから、嗤う権利がないものと余は主張する。 余は画工である。画工であればこそ趣味専門の男として、たとい人情世界に堕在(だざい)するも、東西両隣りの没風流漢(ぼつふうりゅうかん)よりも高尚である。社会の一員として優に他を教育すべき地位に立っている。詩なきもの、画(え)なきもの、芸術のたしなみなきものよりは、美くしき所作が出来る。人情世界にあって、美くしき所作は正である、義である、直である。正と義と直を行為の上において示すものは天下の公民の模範である。 しばらく人情界を離れたる余は、少なくともこの旅中(りょちゅう)に人情界に帰る必要はない。あってはせっかくの旅が無駄になる。人情世界から、じゃりじゃりする砂をふるって、底にあまる、うつくしい金(きん)のみを眺めて暮さなければならぬ。余自(みずか)らも社会の一員をもって任じてはおらぬ。純粋なる専門画家として、己(おの)れさえ、纏綿(てんめん)たる利害の累索(るいさく)を絶って、優(ゆう)に画布裏(がふり)に往来している。いわんや山をや水をや他人をや。那美さんの行為動作といえどもただそのままの姿と見るよりほかに致し方がない。 三丁ほど上(のぼ)ると、向うに白壁の一構(ひとかまえ)が見える。蜜柑(みかん)のなかの住居(すまい)だなと思う。道は間もなく二筋に切れる。白壁を横に見て左りへ折れる時、振り返ったら、下から赤い腰巻(こしまき)をした娘が上(あが)ってくる。腰巻がしだいに尽きて、下から茶色の脛(はぎ)が出る。脛が出切(でき)ったら、藁草履(わらぞうり)になって、その藁草履がだんだん動いて来る。頭の上に山桜が落ちかかる。背中には光る海を負(しょっ)ている。 岨道(そばみち)を登り切ると、山の出鼻(でばな)の平(たいら)な所へ出た。北側は翠(みど)りを畳(たた)む春の峰で、今朝椽(えん)から仰いだあたりかも知れない。南側には焼野とも云うべき地勢が幅半丁ほど広がって、末は崩(くず)れた崖(がけ)となる。崖の下は今過ぎた蜜柑山で、村を跨(また)いで向(むこう)を見れば、眼に入るものは言わずも知れた青海(あおうみ)である。 路(みち)は幾筋もあるが、合うては別れ、別れては合うから、どれが本筋とも認められぬ。どれも路である代りに、どれも路でない。草のなかに、黒赤い地が、見えたり隠れたりして、どの筋につながるか見分(みわけ)のつかぬところに変化があって面白い。 どこへ腰を据(す)えたものかと、草のなかを遠近(おちこち)と徘徊(はいかい)する。椽(えん)から見たときは画(え)になると思った景色も、いざとなると存外纏(まと)まらない。色もしだいに変ってくる。草原をのそつくうちに、いつしか描(か)く気がなくなった。描かぬとすれば、地位は構わん、どこへでも坐(すわ)った所がわが住居(すまい)である。染(し)み込んだ春の日が、深く草の根に籠(こも)って、どっかと尻を卸(おろ)すと、眼に入らぬ陽炎(かげろう)を踏(ふ)み潰(つぶ)したような心持ちがする。 cont...
2006年07月28日
コメント(0)
cont...十二基督(キリスト)は最高度に芸術家の態度を具足したるものなりとは、オスカー・ワイルドの説と記憶している。基督は知らず。観海寺の和尚(おしょう)のごときは、まさしくこの資格を有していると思う。趣味があると云う意味ではない。時勢に通じていると云う訳でもない。彼は画(え)と云う名のほとんど下(くだ)すべからざる達磨(だるま)の幅(ふく)を掛けて、ようできたなどと得意である。彼は画工(えかき)に博士があるものと心得ている。彼は鳩の眼を夜でも利(き)くものと思っている。それにも関(かか)わらず、芸術家の資格があると云う。彼の心は底のない嚢(ふくろ)のように行き抜けである。何にも停滞(ていたい)しておらん。随処(ずいしょ)に動き去り、任意(にんい)に作(な)し去って、些(さ)の塵滓(じんし)の腹部に沈澱(ちんでん)する景色(けしき)がない。もし彼の脳裏(のうり)に一点の趣味を貼(ちょう)し得たならば、彼は之(ゆ)く所に同化して、行屎走尿(こうしそうにょう)の際にも、完全たる芸術家として存在し得るだろう。余のごときは、探偵に屁(へ)の数を勘定(かんじょう)される間は、とうてい画家にはなれない。画架(がか)に向う事は出来る。小手板(こていた)を握る事は出来る。しかし画工にはなれない。こうやって、名も知らぬ山里へ来て、暮れんとする春色(しゅんしょく)のなかに五尺の痩躯(そうく)を埋(うず)めつくして、始めて、真の芸術家たるべき態度に吾身を置き得るのである。一たびこの境界(きょうがい)に入れば美の天下はわが有に帰する。尺素(せきそ)を染めず、寸(すんけん)を塗らざるも、われは第一流の大画工である。技(ぎ)において、ミケルアンゼロに及ばず、巧(たく)みなる事ラフハエルに譲る事ありとも、芸術家たるの人格において、古今の大家と歩武(ほぶ)を斉(ひとし)ゅうして、毫(ごう)も遜(ゆず)るところを見出し得ない。余はこの温泉場へ来てから、まだ一枚の画(え)もかかない。絵の具箱は酔興(すいきょう)に、担(かつ)いできたかの感さえある。人はあれでも画家かと嗤(わら)うかもしれぬ。いくら嗤われても、今の余は真の画家である。立派な画家である。こう云う境(きょう)を得たものが、名画をかくとは限らん。しかし名画をかき得る人は必ずこの境を知らねばならん。 朝飯(あさめし)をすまして、一本の"敷島"(しきしま)をゆたかに吹かしたるときの余の観想は以上のごとくである。\\\\\\\\\\\\\What's a "敷島"以下 YOMIURI-ONLINE yori煙草(たばこ)は日本原産ではなく、南米からヨーロッパに伝わり、天文十八年(一五四九年)フランシスコ・ザビエルの来日のさい、日本に伝えられたといわれる。日本での栽培は天正年間(一五七三~九二年)とされているが、記録では慶長十年(一六〇五年)長崎桜馬場に植えられ、のち山城の花山、大和の吉野に移植された。同じころ鹿児島の指宿に植えられ、その種を島津氏が近衛家に贈り、それを花山に植えたという説もある。そして、天和三年(一六八三年)ごろの産地としては、上野国高崎・岩崎・石原、甲斐国小松・葉袋、信濃国生坂・井上、陸奥国田代・仙東・白石、常陸国赤土、大和国吉野、丹波国篠山・福知山などが有名であった。享保年間(一七一六~三六年)になると諸藩も財政窮乏の打開策として煙草の栽培を奨励した。"明治に品質改良され栽培盛んに" 喫煙法もはじめは煙草の葉を巻き、のみ口に紙を巻いたり、竹の筒を使用したりしていたが、江戸時代に煙草が普及すると刻み煙草になり、それにともなって煙管(きせる)・煙管入れ・煙草盆などが作られ、それも意匠を凝らすようになった。明治になってからは新しい品種も移入され、品質・技術が改良され、各地でさかんに栽培された。奈良県吉野郡の十津川村では、若い衆がヨバイに行って、娘の親が怒るようなとき、オヤイジメとしてとった手段に、屋敷の煙草畑に竿(さお)をたおし、竿の両端に縄をつけて引き歩き、煙草畑をだいなしにしたり、縄に一葉ずつさして乾かしてある煙草の葉を、縄の端を持って引きずって逃げ、煙草の葉をいためてしまうのが、もっとも大きな打撃を与えるイジメ方だったというのも、煙草栽培の普及を物語っている。ところで、明治六年(一八七三年)に政府は地租改正を実施し、地租を地価の百分の三定率としたが、これは事実上封建貢租以上の負担になったので、明治九年(一八七六年)茨城・三重・奈良・愛知・岐阜で、はげしい地租改正反対の一揆が起こった。その結果、西南戦争の直前に税率は二分五厘に引き下げられた。このことを一般に「竹槍でちょっと突き出す二分五厘」と、一揆の成果ともいうが、政府はそれにかわる財源として、すでに煙草に対する課税を決めていたのである。それが明治八年の「煙草税則」で、営業税のほかに消費税を設けるものであった。これがのちに煙草専売制へと発展していったのである。巻き煙草が一般に吸い出されるようになったのは、明治二十年(一八八七年)をすぎてからで、最初は京都の村井商会のサンライズで、つぎにヒーローであった。東京では岩谷天狗煙草の売り出した白牡丹が人気をよんだ。このころ巻き煙草を買うと、中にガラスの吸い口が入っていて、煙草の太さも今の煙草の三分の二もないほど細いものであった。外国煙草ではカメオ・ピンヘッドがこのころから用いられた。"最初の銘柄は本居宣長の歌から拝借" いよいよ明治二十九年(一八九六年)の「葉煙草専売法」に続いて、明治三十七年(一九〇四年)七月から煙草の製造・販売を含めた完全専売の「煙草専売法」が施行されるのであるが、その最初に売り出す煙草の名前にどうしても名案が浮かばず、一月前になってもなお決まらなかった。そのとき一担当者が思いついたのが、愛煙家で知られた国学者本居宣長の、「敷島の大和心を人問わば、朝日に匂う山桜花」という歌であった。この歌からそれぞれ「敷島」・「大和」・「朝日」・「山桜」と命名した煙草を売り出したのであった。このうち「朝日」はその包みが平型と角型があって、平型は洋服用、角型は和服用と両者使い分けるようになっていた。これに続いて以降、スター・チェリー・カメリア・オリエント・ほまれ・不二・ナイル・アルマ・国華・やよい、とさまざまな煙草が売り出された。一方、刻み煙草も愛用されていて、ふくじゅ草・白梅・さつき・あやめ・はぎ・もみじ・なでしこ、などが出まわった\\\\\\\\\\\\\cont...
2006年07月28日
コメント(0)
"編集手帳"(7月28日付)「おひや」を頼めば水がくる。「ひや」を頼めば酒がくる。「にぎり」と「おにぎり」は別物である「『おビール』と言ふのが気に入らない。外来語に『お』をつけるな」。作家の阿川弘之さんが「食味風々録」(新潮社)に書いていた。「お」の字ひとつで指す品が変わり、人を不愉快にもし、日本語はむずかしい文化庁の「国語に関する世論調査」によれば、4人に3人が「お菓子」と用い、2人に1人が「お酒」と使う。「お」の定着組だろう。少数派には先の「おビール」1・6%、「おくつした」0・9%…などがある「おビール」はもっと頻繁に耳にしている気もするが、紅灯の巷(ちまた)をさまようことの多い身の統計的な偏りかも知れない。足の指が光栄のあまり引きつりそうな「おくつした」が普及しないことをただ祈るばかりである調査では「怒り心頭に達する」(正しくは、発する)と使う人が7割を超えた。言葉は時代とともに変化していくものであればこそ、「お」のつけすぎに限らず、慣用句の誤用に限らず、「気に入らない」と言いつづけることが大事なのだろう調査結果を伝える朝刊を読みながら食卓をふと見ると、おみおつけ(御味御付)の椀(わん)がある。「お」が二つ…。一つでも時に多すぎ、二つあって邪魔にはならず、言葉というのは奥が深い。(2006年7月28日 読売新聞)---------------------------------AND..."風が吹けば"************風が吹けば桶屋が儲かる出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』"風が吹けば桶屋が儲かる"(かぜがふけばおけやがもうかる)英:(After wind's blowing, basinsmiths get money)日本のことわざで、あたかもバタフライ効果のように思わぬ所に思わぬ物事の影響が出ることの例えである。しかし現代では、その論証に用いられる例が突飛である故に、「あり得なくはない因果関係を無理矢理つなげて出来たトンデモ理論」も指すことが多い。経済学においては、ある主体の支出が様々なプロセスを経て何倍もの支出になる乗数効果や、投資が投資を生む波及効果のたとえとして持ち出される場合がある。"語源"江戸時代の浮世草子「世間学者気質(かたぎ)」だと言われている。 この俚諺を展開すると、以下のような論証があると言う。風で砂埃が舞い上がる。 その風が目に入り、失明する人が増える。 当時、視覚障害者が就ける職業は三味線弾きぐらいだと思われていた。故に、三味線弾きが増える。 三味線に張る革を集めるため、ネコが大量に殺される。 天敵が減ったことによりネズミが大発生する。 ネズミは桶を食害する。 桶の売り上げが上がる。 故に、桶屋が儲かる。 これを一つ一つ検証してみると、砂埃で失明する人がそれほど大量にいるか? それほどの風であれば、家屋倒壊や農作物の損害の方が大きくなるはずである。 視覚障害者が大量に出たとしたら、その全員が三味線弾きとして糊口することは出来なくなるはずである。 ネコが激減する前にその革の値段は高騰し、例えば(練習用三味線の革として使われる)イヌに取って代わられるはずである。 ネズミが大発生したとしても、桶だけを食害するとは考えにくい。むしろヒトに噛みつく、伝染病を媒介すると言う問題の方が遙かに大きくなるはずである。 こうして社会は大混乱に陥る。そのような状態で、人々が食害された桶を買いに走るとは考えにくく、桶屋(彼ら自身もその混乱に巻き込まれるに違いない)がこの事例でそれほど利益を得られるとは考えられない。 故に、これは広義のドミノ理論であると言える。個々の因果関係は「あり得なくもない」物であるが、実際にどれくらいの確率があるのか検証された事の無い、経験的に言っても「恐らく無いと言っていい」事象が5段階に渡って積み重ねられており、全体的な尤度は限りなく低い。その上、もし実際に起こったとしたら副次的な問題の方が大きい。いわゆる「机上の空論」として批判される物は、多かれ少なかれこの俚諺のような要素を含んでいる。このような蓋然性を無視した議論に対し、実際の結果を元に論証しようとする態度が経験論であり、その代表がプラグマティズムである。----------------------------------------"風"北山 修 作詞/端田 宣彦 作曲♪~♪人は誰もただ一人 旅に出て 人は誰もふるさとを 振り返るちょっぴりさみしくて 振り返っても そこにはただ風が吹いているだけ・・・・・・♪人は誰も 人生につまづいて 人は誰も 夢破れ 振り返るプラタナスの枯れ葉舞う 冬の道で プラタナスの散る音に 振り返る帰っておいでよと 振り返っても そこにはただ風が 吹いているだけ・・・・・・人は誰も 恋をした切なさに 人は誰も 耐え切れず 振り返る(間奏 口笛)何かを求めて 振り返ってもそこには ただ風が 吹いているだけ振り返らず ただ一人 一歩ずつ振り返らず 泣かないで 歩くんだ何かを求めて 振り返ってもそこには ただ風が 吹いているだけ吹いているだけ~吹いているだけ・・・・・・・・・・----------------How do you feel about this ??(*~風~*)
2006年07月28日
コメント(0)
"編集手帳"(7月27日付)正岡子規は亡くなる前年、ロンドンに留学中の友、夏目漱石に手紙を書き、闘病の苦しみを訴えた。「僕ハモーダメニナッテシマッタ」「生キテヰルノガ苦シイノダ」同じ手紙に以下のくだりがある。「倫敦(ロンドン)ノ焼芋ノ味ハドンナカ聞キタイ」と。生きることに苦しみながらも好奇心は衰えていない。「その明るさが人々を引き入れ、子規のそばに添わせてしまう」とは司馬遼太郎さんの言葉である病床の随筆「墨汁一滴」では痛みをこらえつつ、ガラス鉢の金魚を眺めて言う。「痛い事も痛いが、綺麗(きれい)な事も綺麗じゃ」。これも読む人を“そばに添わせる”一行だろう独特の明るさを育てたものは、生まれもった晴朗な人柄に加えて、病床を囲む友人たちとの心の交流であったに違いない。その記録ともいうべき子規と友人たちの筆による書画約120点が見つかった「竹の子や雨の一夜を二三尺」という子規の筆とおぼしき句の傍らに、洋画家中村不折(ふせつ)が若竹の図を描き添えた作品も含まれている。書画の一部は子規庵で9月に催される特別展示で公開されるという「枝豆や三寸飛んで口に入る」。死の影が迫る病床で屈託を感じさせない句を詠んだ人である。病気を苦に、生活に疲れ、年間3万人以上がみずから命を絶つ時代、書画は見る人に何ごとかを語りかけるだろう。(2006年7月27日 読売新聞)---------------------------Who's Who???ABOUT "正岡子規"(まさおか-しき)出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』(1867年10月14日(旧暦9月17日) - 1902年9月19日)俳人、歌人。名は常規(つねのり)。幼名は処之助(ところのすけ)で、のちに升(のぼる)と改めた。俳句・短歌・新体詩・小説・評論・随筆など、多方面に渡り創作活動を行い、日本の近代文学に多大な影響を及ぼした、明治時代を代表する文学者の一人である。死を迎えるまでの約7年間は結核を患っていた。享年35。辞世の句「糸瓜咲て痰のつまりし佛かな」より、子規の忌日9月19日を「糸瓜忌」「獺祭(だっさい)忌」という。---------------------------AND....正岡子規 「はて知らずの記」yori (新聞 『日本』 明治26年7月23日~9月10日掲載) (一)松島の風 象潟の雨 いつしかとは思ひながら 病める身の行脚道中覚束なく うたゝ寝の夢はあらぬ山河の面影うつゝにのみ現はれて 今日としも思ひ立つ日のなくて過ぎにしを 今年夏のはじめ何の心にかありけん、 松島の心に近き袷かな と自ら口ずさみたるこそ我ながらあやしうも思ひしが つひにこの遊歴とはなりけらし。先づ松島とは志しながら 行くては何処にか向はん。金華の豪壮高舘の悲滲末の松山末遠くとも矢立峠に筆を濡し 八郎潟に西湖の遠きを忍びて名にしあふ秋田に露の哀はれを知らんか はた山形米沢をうしろにして越の国に夏の白雪を誰やらの膚にながめ 猶行く先は直江津より信州に入りて仏の御光を拝まんか 山路にあへぎて掬ぴあへぬ清水越に 渇せる喉をうるほさんか。まゝよ浮世のうき旅に 行く手の定まりたるもの幾人かある。山あれば足あり 金あれば車あり。脚力尽くる時 山更に好し 財布軽き時 却て羽が生へて仙人になるまじきものにもあらず。自ら知らぬ行末を楽みに はて知らずの日記をつくる気楽さを 誰に語らんとつぶやけば罔両(魍魎)傍に在りてうなつく。乃ち以て序と爲す。あなかしこ。三春病ひに鎮して筆硯やうやうにうとみ勝なるに 六月のはじめつかたより又わらはやみに罹りて 人情の冷熱一生の盛衰は独り心に入みながら時鳥の黒焼も其効あらず 野道の女郎花われ落ちにきと人に語らふ間も無く 木末の朽葉ふるひかへしふるひ落して兎角する程に一月も過ぎぬ。ある日鉄眼禅師のわが病床をおとつれて 今より北海行脚にと志すなりと語らるゝに羨ましさは限りなけれども 羽抜鳥の雲井を慕ふ心地して涼しさやわれは禅師を夢に見ん と餞別の一句をまゐらす。やがて病の大方にをこたりしかば 枕上の簑笠を睨みて空しく心を苦しめんよりは 奥山越水を躇み越えて胸中の欝気を散ぜんには如かじと我も思ひ人もすゝむるに 旅衣の破れをつくろひ蕉翁の奥の細道を写しなどあらましとゝのへて 今日やたゝん明日や行かんと思ふものから ゆくり無く医師にいさめられて七月もはや十九日といふに やうやう東都の仮住居を立ち出でぬ。かねて旅立のよし知りたる誰彼より よりよりに贈られたる餞別の句 松島の紙帳につるせ松の月 素香 橘爲仲とよ陸奥守にてくだりける時白河の関を通るとて狩衣指貫とり出でゝ着しける事を思ひ出でゝ 白河の関で着かへよひとへ物 松島へ書床しに行く行脚かな 涼しさの君まつしまぞ目に見ゆる 同孤松鷺洲 子規氏松島行脚の首送に泥硯を贐(はなむけ)して 旅硯清水にぬらせ柳陰 松島で日本一の涼みせよ 江左瓢亭 其外にも数へ尽さず。 -------------------How does he want to live???(*^糸瓜^*)
2006年07月27日
コメント(0)
庫裏に入る。庫裏は明け放してある。盗人(ぬすびと)はおらぬ国と見える。狗(いぬ)はもとより吠(ほ)えぬ。「御免」と訪問(おとず)れる。森(しん)として返事がない。「頼む」と案内を乞う。鳩の声がくううくううと聞える。「頼みまああす」と大きな声を出す。「おおおおおおお」と遥かの向(むこう)で答えたものがある。人の家を訪(と)うて、こんな返事を聞かされた事は決してない。やがて足音が廊下へ響くと、紙燭(しそく)の影が、衝立(ついたて)の向側にさした。小坊主がひょこりとあらわれる。了念(りょうねん)であった。「和尚(おしょう)さんはおいでかい」「おられる。何しにござった」「温泉にいる画工(えかき)が来たと、取次(とりつい)でおくれ」「画工さんか。それじゃ御上(おあが)り」「断わらないでもいいのかい」「よろしかろ」 余は下駄を脱いで上がる。「行儀がわるい画工さんじゃな」「なぜ」「下駄を、よう御揃(おそろ)えなさい。そらここを御覧」と紙燭を差しつける。黒い柱の真中に、土間から五尺ばかりの高さを見計(みはから)って、半紙を四つ切りにした上へ、何か認(したた)めてある。「そおら。読めたろ。脚下(きゃっか)を見よ、と書いてあるが」「なるほど」と余は自分の下駄を丁寧に揃える。 和尚の室(へや)は廊下を鍵(かぎ)の手(て)に曲(まが)って、本堂の横手にある。障子(しょうじ)を恭(うやうや)しくあけて、恭しく敷居越しにつくばった了念が、「あのう、志保田(しほだ)から、画工さんが来られました」と云う。はなはだ恐縮の体(てい)である。余はちょっとおかしくなった。「そうか、これへ」 余は了念と入れ代る。室がすこぶる狭い。中に囲炉裏(いろり)を切って、鉄瓶(てつびん)が鳴る。和尚は向側に書見(しょけん)をしていた。「さあこれへ」と眼鏡(めがね)をはずして、書物を傍(かたわら)へおしやる。「了念。りょううねええん」「ははははい」「座布団(ざぶとん)を上げんか」「はははははい」と了念は遠くで、長い返事をする。「よう、来られた。さぞ退屈だろ」「あまり月がいいから、ぶらぶら来ました」「いい月じゃな」と障子をあける。飛び石が二つ、松一本のほかには何もない、平庭(ひらにわ)の向うは、すぐ懸崖(けんがい)と見えて、眼の下に朧夜(おぼろよ)の海がたちまちに開ける。急に気が大きくなったような心持である。漁火(いさりび)がここ、かしこに、ちらついて、遥かの末は空に入って、星に化(ば)けるつもりだろう。「これはいい景色。和尚(おしょう)さん、障子をしめているのはもったいないじゃありませんか」「そうよ。しかし毎晩見ているからな」「何晩(いくばん)見てもいいですよ、この景色は。私なら寝ずに見ています」「ハハハハ。もっともあなたは画工(えかき)だから、わしとは少し違うて」「和尚さんだって、うつくしいと思ってるうちは画工でさあ」「なるほどそれもそうじゃろ。わしも達磨(だるま)の画(え)ぐらいはこれで、かくがの。そら、ここに掛けてある、この軸(じく)は先代がかかれたのじゃが、なかなかようかいとる」 なるほど達磨の画が小さい床(とこ)に掛っている。しかし画としてはすこぶるまずいものだ。ただ俗気(ぞっき)がない。拙(せつ)を蔽(おお)おうと力(つと)めているところが一つもない。無邪気な画だ。この先代もやはりこの画のような構わない人であったんだろう。「無邪気な画ですね」「わしらのかく画はそれで沢山じゃ。気象(きしょう)さえあらわれておれば……」「上手で俗気があるのより、いいです」「ははははまあ、そうでも、賞(ほ)めて置いてもらおう。時に近頃は画工にも博士があるかの」「画工の博士はありませんよ」「あ、そうか。この間、何でも博士に一人逢(お)うた」「へええ」「博士と云うとえらいものじゃろな」「ええ。えらいんでしょう」「画工にも博士がありそうなものじゃがな。なぜ無いだろう」「そういえば、和尚さんの方にも博士がなけりゃならないでしょう」「ハハハハまあ、そんなものかな。――何とか云う人じゃったて、この間逢うた人は――どこぞに名刺があるはずだが……」「どこで御逢いです、東京ですか」「いやここで、東京へは、も二十年も出ん。近頃は電車とか云うものが出来たそうじゃが、ちょっと乗って見たいような気がする」「つまらんものですよ。やかましくって」「そうかな。蜀犬(しょっけん)日に吠(ほ)え、呉牛(ごぎゅう)月に喘(あえ)ぐと云うから、わしのような田舎者(いなかもの)は、かえって困るかも知れんてのう」「困りゃしませんがね。つまらんですよ」「そうかな」 鉄瓶(てつびん)の口から煙が盛(さかん)に出る。和尚(おしょう)は茶箪笥(ちゃだんす)から茶器を取り出して、茶を注(つ)いでくれる。「番茶を一つ御上(おあが)り。志保田の隠居さんのような甘(うま)い茶じゃない」「いえ結構です」「あなたは、そうやって、方々あるくように見受けるがやはり画(え)をかくためかの」「ええ。道具だけは持ってあるきますが、画はかかないでも構わないんです」「はあ、それじゃ遊び半分かの」「そうですね。そう云っても善(い)いでしょう。屁(へ)の勘定(かんじょう)をされるのが、いやですからね」 さすがの禅僧も、この語だけは解(げ)しかねたと見える。「屁の勘定た何かな」「東京に永くいると屁の勘定をされますよ」「どうして」「ハハハハハ勘定だけならいいですが。人の屁を分析して、臀(しり)の穴が三角だの、四角だのって余計な事をやりますよ」「はあ、やはり衛生の方かな」「衛生じゃありません。探偵(たんてい)の方です」「探偵? なるほど、それじゃ警察じゃの。いったい警察の、巡査のて、何の役に立つかの。なけりゃならんかいの」「そうですね、画工(えかき)には入(い)りませんね」「わしにも入らんがな。わしはまだ巡査の厄介(やっかい)になった事がない」「そうでしょう」「しかし、いくら警察が屁の勘定をしたてて、構わんがな。澄(す)ましていたら。自分にわるい事がなけりゃ、なんぼ警察じゃて、どうもなるまいがな」「屁くらいで、どうかされちゃたまりません」「わしが小坊主のとき、先代がよう云われた。人間は日本橋の真中に臓腑(ぞうふ)をさらけ出して、恥ずかしくないようにしなければ修業を積んだとは云われんてな。あなたもそれまで修業をしたらよかろ。旅などはせんでも済むようになる」「画工になり澄ませば、いつでもそうなれます」「それじゃ画工になり澄したらよかろ」「屁の勘定をされちゃ、なり切れませんよ」「ハハハハ。それ御覧。あの、あなたの泊(とま)っている、志保田の御那美さんも、嫁に入(い)って帰ってきてから、どうもいろいろな事が気になってならん、ならんと云うてしまいにとうとう、わしの所へ法(ほう)を問いに来たじゃて。ところが近頃はだいぶ出来てきて、そら、御覧。あのような訳(わけ)のわかった女になったじゃて」「へええ、どうもただの女じゃないと思いました」「いやなかなか機鋒(きほう)の鋭(する)どい女で――わしの所へ修業に来ていた泰安(たいあん)と云う若僧(にゃくそう)も、あの女のために、ふとした事から大事(だいじ)を窮明(きゅうめい)せんならん因縁(いんねん)に逢着(ほうちゃく)して――今によい智識(ちしき)になるようじゃ」 静かな庭に、松の影が落ちる、遠くの海は、空の光りに応(こた)うるがごとく、応えざるがごとく、有耶無耶(うやむや)のうちに微(かす)かなる、耀(かがや)きを放つ。漁火(いさりび)は明滅す。「あの松の影を御覧」「奇麗(きれい)ですな」「ただ奇麗かな」「ええ」「奇麗な上に、風が吹いても苦にしない」茶碗に余った渋茶を飲み干して、糸底(いとぞこ)を上に、茶托(ちゃたく)へ伏せて、立ち上る。「門まで送ってあげよう。りょううねええん。御客が御帰(おかえり)だぞよ」 送られて、庫裏(くり)を出ると、鳩がくううくううと鳴く。「鳩ほど可愛いものはない、わしが、手をたたくと、みな飛んでくる。呼んで見よか」月はいよいよ明るい。しんしんとして、木蓮(もくれん)は幾朶(いくだ)の雲華(うんげ)を空裏(くうり)に(ささ)げている。寥(けつりょう)たる春夜(しゅんや)の真中(まなか)に、和尚ははたと掌(たなごころ)を拍(う)つ。声は風中(ふうちゅう)に死して一羽の鳩も下りぬ。「下りんかいな。下りそうなものじゃが」 了念は余の顔を見て、ちょっと笑った。和尚は鳩の眼が夜でも見えると思うているらしい。気楽なものだ。 山門の所で、余は二人に別れる。見返えると、大きな丸い影と、小さな丸い影が、石甃(いしだたみ)の上に落ちて、前後して庫裏の方に消えて行く。-------------cont.
2006年07月27日
コメント(0)
十一山里(やまざと)の朧(おぼろ)に乗じてそぞろ歩く。観海寺の石段を登りながら仰数(あおぎかぞう)春星(しゅんせい)一二三と云う句を得た。余は別に和尚(おしょう)に逢う用事もない。逢うて雑話をする気もない。偶然と宿を出(い)でて足の向くところに任せてぶらぶらするうち、ついこの石磴(せきとう)の下に出た。しばらく"不許葷酒入山門"(くんしゅさんもんにいるをゆるさず)と云う石を撫(な)でて立っていたが、急にうれしくなって、登り出したのである。---------------(注)ABOUT"不許葷酒入山門"(葷酒山門に入るを許さず)禅寺の門の脇の戒壇石(かいだんせき)に刻まれる句。臭いが強い野菜(=葱(ねぎ)、韮(にら)、大蒜(にんにく)など)は他人を苦しめると共に自分の修行を妨げ、酒は心を乱すので、これらを口にした者は清浄な寺内に立ち入ることを許さないということ。(参考)戒壇石(かいだんせき) 律宗・禅宗などの寺院の前に立てた石標。多く、「不許葷酒入山門」の句が刻んである。結界石。--------------- トリストラム・シャンデーと云う書物のなかに、この書物ほど神の御覚召(おぼしめし)に叶(かの)うた書き方はないとある。最初の一句はともかくも自力(じりき)で綴(つづ)る。あとはひたすらに神を念じて、筆の動くに任せる。何をかくか自分には無論見当がつかぬ。かく者は自己であるが、かく事は神の事である。したがって責任は著者にはないそうだ。余が散歩もまたこの流儀を汲(く)んだ、無責任の散歩である。ただ神を頼まぬだけが一層の無責任である。スターンは自分の責任を免(のが)れると同時にこれを在天の神に嫁(か)した。引き受けてくれる神を持たぬ余はついにこれを泥溝(どぶ)の中に棄(す)てた。 石段を登るにも骨を折っては登らない。骨が折れるくらいなら、すぐ引き返す。一段登って佇(たたず)むとき何となく愉快だ。それだから二段登る。二段目に詩が作りたくなる。黙然(もくねん)として、吾影を見る。角石(かくいし)に遮(さえぎ)られて三段に切れているのは妙だ。妙だからまた登る。仰いで天を望む。寝ぼけた奥から、小さい星がしきりに瞬(まばた)きをする。句になると思って、また登る。かくして、余はとうとう、上まで登り詰めた。 石段の上で思い出す。昔し鎌倉へ遊びに行って、いわゆる五山(ごさん)なるものを、ぐるぐる尋ねて廻った時、たしか円覚寺(えんがくじ)の塔頭(たっちゅう)であったろう、やはりこんな風に石段をのそりのそりと登って行くと、門内から、黄(き)な法衣(ころも)を着た、頭の鉢(はち)の開いた坊主が出て来た。余は上(のぼ)る、坊主は下(くだ)る。すれ違った時、坊主が鋭どい声でどこへ御出(おいで)なさると問うた。余はただ境内(けいだい)を拝見にと答えて、同時に足を停(と)めたら、坊主は直(ただ)ちに、何もありませんぞと言い捨てて、すたすた下りて行った。あまり洒落(しゃらく)だから、余は少しく先(せん)を越された気味で、段上に立って、坊主を見送ると、坊主は、かの鉢の開いた頭を、振り立て振り立て、ついに姿を杉の木の間に隠した。その間(あいだ)かつて一度も振り返った事はない。なるほど禅僧は面白い。きびきびしているなと、のっそり山門を這入(はい)って、見ると、広い庫裏(くり)も本堂も、がらんとして、人影はまるでない。余はその時に心からうれしく感じた。世の中にこんな洒落(しゃらく)な人があって、こんな洒落に、人を取り扱ってくれたかと思うと、何となく気分が晴々(せいせい)した。禅(ぜん)を心得ていたからと云う訳ではない。禅のぜの字もいまだに知らぬ。ただあの鉢の開いた坊主の所作(しょさ)が気に入ったのである。 世の中はしつこい、毒々しい、こせこせした、その上ずうずうしい、いやな奴(やつ)で埋(うずま)っている。元来何しに世の中へ面(つら)を曝(さら)しているんだか、解(げ)しかねる奴さえいる。しかもそんな面に限って大きいものだ。浮世の風にあたる面積の多いのをもって、さも名誉のごとく心得ている。五年も十年も人の臀(しり)に探偵(たんてい)をつけて、人のひる屁(へ)の勘定(かんじょう)をして、それが人世だと思ってる。そうして人の前へ出て来て、御前は屁をいくつ、ひった、いくつ、ひったと頼みもせぬ事を教える。前へ出て云うなら、それも参考にして、やらんでもないが、後(うし)ろの方から、御前は屁をいくつ、ひった、いくつ、ひったと云う。うるさいと云えばなおなお云う。よせと云えばますます云う。分ったと云っても、屁をいくつ、ひった、ひったと云う。そうしてそれが処世の方針だと云う。方針は人々(にんにん)勝手である。ただひったひったと云わずに黙って方針を立てるがいい。人の邪魔になる方針は差(さ)し控(ひか)えるのが礼儀だ。邪魔にならなければ方針が立たぬと云うなら、こっちも屁をひるのをもって、こっちの方針とするばかりだ。そうなったら日本も運の尽きだろう。 こうやって、美しい春の夜に、何らの方針も立てずに、あるいてるのは実際高尚だ。興来(きた)れば興来るをもって方針とする。興去れば興去るをもって方針とする。句を得れば、得たところに方針が立つ。得なければ、得ないところに方針が立つ。しかも誰の迷惑にもならない。これが真正の方針である。屁を勘定するのは人身攻撃の方針で、屁をひるのは正当防禦(ぼうぎょ)の方針で、こうやって観海寺の石段を登るのは随縁放曠(ずいえんほうこう)の方針である。 仰数(あおぎかぞう)春星(しゅんせい)一二三の句を得て、石磴(せきとう)を登りつくしたる時、朧(おぼろ)にひかる春の海が帯のごとくに見えた。山門を入る。絶句(ぜっく)は纏(まと)める気にならなくなった。即座にやめにする方針を立てる。 石を甃(たた)んで庫裡(くり)に通ずる一筋道の右側は、岡つつじの生垣(いけがき)で、垣の向(むこう)は墓場であろう。左は本堂だ。屋根瓦(やねがわら)が高い所で、幽(かす)かに光る。数万の甍(いらか)に、数万の月が落ちたようだと見上(みあげ)る。どこやらで鳩の声がしきりにする。棟(むね)の下にでも住んでいるらしい。気のせいか、廂(ひさし)のあたりに白いものが、点々見える。糞(ふん)かも知れぬ。 雨垂(あまだ)れ落ちの所に、妙な影が一列に並んでいる。木とも見えぬ、草では無論ない。感じから云うと岩佐又兵衛(いわさまたべえ)のかいた、鬼(おに)の念仏(ねんぶつ)が、念仏をやめて、踊りを踊っている姿である。本堂の端(はじ)から端まで、一列に行儀よく並んで躍(おど)っている。その影がまた本堂の端から端まで一列に行儀よく並んで躍っている。朧夜(おぼろよ)にそそのかされて、鉦(かね)も撞木(しゅもく)も、奉加帳(ほうがちょう)も打ちすてて、誘(さそ)い合(あわ)せるや否やこの山寺(やまでら)へ踊りに来たのだろう。 近寄って見ると大きな覇王樹(さぼてん)である。高さは七八尺もあろう、糸瓜(へちま)ほどな青い黄瓜(きゅうり)を、杓子(しゃもじ)のように圧(お)しひしゃげて、柄(え)の方を下に、上へ上へと継(つ)ぎ合(あわ)せたように見える。あの杓子がいくつ継(つな)がったら、おしまいになるのか分らない。今夜のうちにも廂(ひさし)を突き破って、屋根瓦の上まで出そうだ。あの杓子が出来る時には、何でも不意に、どこからか出て来て、ぴしゃりと飛びつくに違いない。古い杓子が新しい小杓子を生んで、その小杓子が長い年月のうちにだんだん大きくなるようには思われない。杓子と杓子の連続がいかにも突飛(とっぴ)である。こんな滑稽(こっけい)な樹(き)はたんとあるまい。しかも澄ましたものだ。いかなるこれ仏(ぶつ)と問われて、庭前(ていぜん)の柏樹子(はくじゅし)と答えた僧があるよしだが、もし同様の問に接した場合には、余は一も二もなく、月下(げっか)の覇王樹(はおうじゅ)と応(こた)えるであろう。 少時(しょうじ)、晁補之(ちょうほし)と云う人の記行文を読んで、いまだに暗誦(あんしょう)している句がある。「時に九月天高く露清く、山空(むな)しく、月明(あきら)かに、仰いで星斗(せいと)を視(み)れば皆(みな)光大(ひかりだい)、たまたま人の上にあるがごとし、窓間(そうかん)の竹(たけ)数十竿(かん)、相摩戞(まかつ)して声切々(せつせつ)やまず。竹間(ちくかん)の梅棕(ばいそう)森然(しんぜん)として鬼魅(きび)の離立笑(りりつしょうひん)の状(じょう)のごとし。二三子相顧(あいかえり)み、魄(はく)動いて寝(いぬ)るを得ず。遅明(ちめい)皆去る」とまた口の内で繰り返して見て、思わず笑った。この覇王樹(さぼてん)も時と場合によれば、余の魄(はく)を動かして、見るや否や山を追い下げたであろう。刺(とげ)に手を触れて見ると、いらいらと指をさす。 石甃(いしだたみ)を行き尽くして左へ折れると庫裏(くり)へ出る。庫裏の前に大きな木蓮(もくれん)がある。ほとんど一(ひ)と抱(かかえ)もあろう。高さは庫裏の屋根を抜いている。見上げると頭の上は枝である。枝の上も、また枝である。そうして枝の重なり合った上が月である。普通、枝がああ重なると、下から空は見えぬ。花があればなお見えぬ。木蓮の枝はいくら重なっても、枝と枝の間はほがらかに隙(す)いている。木蓮は樹下に立つ人の眼を乱すほどの細い枝をいたずらには張らぬ。花さえ明(あきら)かである。この遥かなる下から見上げても一輪の花は、はっきりと一輪に見える。その一輪がどこまで簇(むら)がって、どこまで咲いているか分らぬ。それにもかかわらず一輪はついに一輪で、一輪と一輪の間から、薄青い空が判然(はんぜん)と望まれる。花の色は無論純白ではない。いたずらに白いのは寒過ぎる。専(もっぱ)らに白いのは、ことさらに人の眼を奪う巧(たく)みが見える。木蓮の色はそれではない。極度の白きをわざと避(さ)けて、あたたかみのある淡黄(たんこう)に、奥床(おくゆか)しくも自(みずか)らを卑下(ひげ)している。余は石甃(いしだたみ)の上に立って、このおとなしい花が累々(るいるい)とどこまでも空裏(くうり)に蔓(はびこ)る様(さま)を見上げて、しばらく茫然(ぼうぜん)としていた。眼に落つるのは花ばかりである。葉は一枚もない。木蓮の花ばかりなる空を瞻(み)ると云う句を得た。どこやらで、鳩がやさしく鳴き合うている。 --------------cont.
2006年07月27日
コメント(0)
全805件 (805件中 1-50件目)
![]()

