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(瀬底土帝君/ティーティンク)沖縄本島の北部の「本部町/もとぶちょう」に「瀬底島/せそこじま」があります。橋長762メートルの「瀬底大橋」を渡り車や徒歩で行ける「瀬底島」は観光客に人気の美しい離島として知られています。島の中央部に「瀬底集落」があり「瀬底公民館/瀬底区事務所」の東側に「瀬底土帝君」という農神が祀られる祠が残されています。「ティーティンク」や「とていくん」と称される「瀬底土帝君」は1997年(平成9)12月3日に国指定重要文化財に登録され「本殿・拝殿・庭・石段・炉・周辺の石垣」で構成されています。「土帝君」は中国古来の土地関係の神の一種で、一般的に「土地神」と呼ばれています。「瀬底島」における「土帝君」信仰は島の旧家の1つである「上間家」の二世「健堅親雲上/きんきんペーちん(1705〜1779年)」が「尚敬王」の時代に「山内親方/やまうちうぇーかた」に随行して清国に渡った際に農神「土帝君」の木造を請じて祀ったのが始まりであると伝わっています。(瀬底土帝君の拝殿/アサギ)(拝殿のウジャイガミ)(瀬底土帝君の本殿/イビ)(本殿のウコール)「瀬底土帝君」は沖縄各地に祀られる「土帝君」のうち最大の規模を保つ礼拝施設で、建築年代は不明ですが本殿及び拝殿の軸部や石組み等の状態から18世紀中頃の造営であると考えられています。この「土帝君」は「本部間切」の「地頭代/ぢとぅでー」を勤めた「シークエーキ」と呼ばれる旧家「上間家」の所有で、毎年旧暦2月2日の「土帝君正月/てぃてぃんくそうぐゎち」の祭礼が行われます。「瀬底土帝君」の祠は集落東側の北西方向に面する傾斜地に位置し、自然林が構成する歴史的風致の中にあります。石垣で整然と区画された一画に珊瑚石の巨石を用いて建設された本殿(イビ)拝殿(アサギ)庭(ミャー)が直線上に並んでおり「土帝君」信仰に関する建造物の形態を良く保つ代表的な遺構として高い文化的価値があります。さらに旧暦5月ち9月の「大御願/ウフウガン」の行事にも拝され「瀬底集落」に於いて「瀬底の七嶽」と呼ばれる拝所の1つに含まれるようになりました。(ケーガーの拝所)(拝所の祠)(祠内部のウコール)(南洋サイパン/ロタ同志會の石碑)「瀬底土帝君」の東側で「瀬底島」で最も標高が高い「ウンバーリ」と呼ばれる丘陵西側の低地に「ケーガー」と称する拝井戸があります。「ケーガー」とは飲料水を貯める池の事で「ウンバーリ」の山に降った雨水を貯めた溜池が4つあります。以前は飲料用水として重宝されていましたが、現在は農業用水として利用されています。「ケーガー」の拝所は1番東側の溜池の脇にあり、祠と破損した鳥居が建立されています。祠の屋根の眉には左右に天皇家の家紋である「菊の御紋/菊花紋章」が刻まれており、中央に造形された5枚の花びらは桜を模ったと考えられます。また、この祠に向かって左側に「月」正面に「星」右側に「太陽」の模様が彫られています。祠内部には3基の石造りウコール(香炉)が祀られており、さらに祠に向かって左側には「奉納 南洋サイパン ロタ 同志會」と刻まれた石碑が建立されています。この石碑は昭和4年に南洋出稼ぎ移民としてサイパン島とロタ島に渡った「瀬底島」出身の移民者により造られたと言われています。(ケーガーの溜池)(ケーガーの溜池)(チンガー)(チンガーの石柱)旧暦9月9日の「ハーウグヮン」では「ケーガー」の溜池を拝み水の恩恵に感謝します。午後4時過ぎ頃から門中の神人等が「ケーガー」に集まり「ハーウグヮン」が始まります。まず初めに「瀬底ヌル」をはじめとする村の神人が祠の前に座り酒3合、米9合、ヒジュルウコー(火をつけない線香)を供えて村の祈願を行います。その後、門中ごとに供え物を捧げて各門中の神人達で祈願します。祈願が終わると「ケーガー」の敷地内にある広場に車座になり、夕刻まで供え物の酒と持参した弁当を飲食して楽しみます。「瀬底島」の外に在住する神人も必ず「ハーウグヮン」に参加する決まりとなっており「ケーガー」に集合する前に各自の門中井戸や池を拝む事となっています。「ケーガー」に隣接した場所に「チンガー」と呼ばれる井戸があり、石積みで囲まれ整備された「チンガー」には石造りのウコール(香炉)が設置されています。なお「チンガー」に向かう道には「チンガー 田園空間整備事業」と記された石柱が立っています。(ウフニヤ)(ウフニヤの祠)(ウフニヤの祠内部)「ケーガー」の東側に「ウフニヤ」と呼ばれる拝所があります。「ウフニヤ」は「ウンバーリ」の山中にあり浄水場の近くにコンクリート製の祠が建立されており、祠内部には三基のウコール(香炉)が祀られています。旧正月の「ウフニヤウグヮン」では旧正月の朝「大底門中」の男神役である「ウフシヌヘー」と区長が「瀬底島」一番の高所である「ウフニヤ」に行き、酒とお供物を捧げて村人の健康と村の繁栄を祈願します。かつて「ウフニヤ」には船の出入りを見張る「トゥーミー/遠見番」と呼ばれる職が置かれており「伊江島」から入船の合図の狼煙が上がると「ウフニヤ」の「トゥーミー」で狼煙を上げて「読谷村」の「座喜味」に伝えたと言われています。これに因んで「瀬底島」では現在も「遠見屋/トゥーミーヤー」の屋号が残っています。さらに「ウフニヤウグヮン」の日には、同時に「ヌルルンチ/ノロ殿内」で神女を中心とした祈願が執り行われます。(ティランニー)(ティランニーの祠)(ティランニーの祠内部)(ティランニーの洞穴入り口)「ウフニヤ」北側に「ティランニー」と呼ばれる拝所があり、この森の中に深さ5〜6メートル程の洞穴があります。以前はこの洞穴の中で儀式が執り行われていましたが、現在は洞穴の前に小さな祠が建立され「お通し」の儀式が行われています。旧暦5月・9月・11月の穀物の豊作祈願である「ティラムヌメー」の行事の際に「ティランニー」が拝されています。伝承によると「ウフシヌヘー」と「瀬底ヌル」は行事の2日前から塩・味噌・油を使った食事を摂らず、当日の朝は「トールマイ」の浜に下りて海水で身体を清めます。その後「ウフシヌヘー」と「瀬底ヌル」は梯子で洞穴に降り下着を脱いでハヤーを43本束ねたサン(魔除け)を供えて祈願しました。「ティラムヌメー」の行事が穀物の豊作祈願である事から、男神役の「ウフシヌヘー」と神女の「瀬底ヌル」による一種の性交模倣儀礼であったと考えられています。
2023.06.24
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(ウチグスク/東の御嶽)沖縄本島の北部の「本部町/もとぶちょう」に西洋梨の形をした「瀬底島/せそこじま」があります。この大地状の島の面積は2.99平方キロメートル、周囲は7.3平方キロメートル、標高は76.0メートルとなっています。「瀬底島」の中央にある「瀬底集落」の南東側に位置する「ウチグスクヤマ/内城山」と呼ばれる場所に「ウチグスク/内城」があり「アガリヌウタキ/東の御嶽」または「ムーチースネードゥクル」と呼ばれています。また「ウチグスク山」の東側一帯は崖の丘陵となっています。この「ウチグスク」は「瀬底村」の発祥の土地でグスク時代の「瀬底貝塚」があり、村はその貝塚を「クサティ/腰当」にして北西側に広がって行ったと言われています。「瀬底島」の主要な祭祀が「ウチグスク」で行われている事から「瀬底村」の祖霊神を祀る御嶽であると考えられています。(ウチグスクの祠)(ウチグスクの祠内部)(ウチグスクの岩石)「ウチグスク」は1713年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」に記されている『カネオツ森 神名 ワカマツノ御イベ 瀬底村』に相当する説があります。「ウチグスク」での祭祀が執り行われる「ハギヤー」と呼ばれる広場にコンクリート製の祠があり、この祠内部には数体の霊石が祀られウコール(香炉)が3基設置されています。「ウチグスク」一帯の森や岩石が聖域を意味する「イビ/威部」となっており「瀬底村」の草分け旧家である「ウフシヌヘー/大城家」が「ウチグスク」の鳥居と祠を建立しました。「瀬底村」の「ニードゥクル/根所」として代々村の祭祀を執り行ってきた男神役である「ウフシヌヘー」の屋敷は「ウチグスク」北側の「瀬底貝塚」にありましたが、3回目に現在の場所に移転したと伝わっています。現在でも旧暦7月22日の「ハンブトウキ」や「ハンジャレートウ」と呼ばれる悪風祓いと豊作祈願の行事で「瀬底貝塚」が拝されています。(ヌルヒヌカン/祝女火神の鳥居と祠)(ヌルヒヌカン/祝女火神の祠)(ヌルヒヌカン/祝女火神の祠内部)(ヌルヒヌカン/祝女火神の石碑)「瀬底グスク」とも称される「ウチグスク」の西側入り口に「ヌルヒヌカン/祝女火神」があり鳥居と祠が建立されています。この「ヌルヒヌカン」は「ヌルルンチ/ノロ殿内」とも呼ばれ「祝女火神」の祭神が祀られています。かつての祠は破風型のコンクリート造りで昭和4〜5年頃に「瀬底島」でトラバーチンを発掘した道下氏が寄付した二百円のうち百拾五円で建立されました。トラバーチンとは貝を含む珊瑚石灰岩で、日本の国会議事堂の内装に使用されています。現在の赤瓦屋根の祠は1988年(昭和63)に建て替えられたもので祠内部には古い数体の霊石が祀られており、石造りのウコールが一基設置されています。この祠に向かって左側には「のろ火の神 ヌルヒヌカン」と記された自然岩の石碑と「奉納 道下扉志 昭和六年七月建立」と考えられる文字が刻まれた石碑が設けられています。(ヌルヒヌカンの敷地にある記念樹碑)(ウチグスク入り口の仲田門中章氏拝所)(ウチグスク入り口のウコール)(ウチグスク入り口のカミヤー/神屋)(カミヤー/神屋の敷地にある井泉跡)「ノロヒヌカン」は1713年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」に次のように記されています。『瀬底巫火神 瀬底村 毎年三・八月、四度御物参有祈願也。且、麦・稲穂祭之時、仙香 巫、花米五合宛・神酒壱宛 百姓。麦大祭之時、仙香 巫、花米五合宛・神酒二 百姓。竈廻之時、仙香 巫、花米五合・神酒壱 百姓。ミヤ種子・畔払之時、仙香 巫、花米五合宛・五水三合宛 百姓。アラザウリ・向ザウリノ時、仙香 巫、花米五合宛・神酒壱宛 百姓。稲大祭之時、仙香 巫、花米九合 百姓、神酒弐 壱地頭 壱百姓。山留ニ竹木伐故、為作物祈願之時、仙香 巫、花米九合・神酒弐 百姓。毎年十一月、海神折目之時、仙香 巫、花米五合・神酒三・五水三合・魚三絡 百姓、供之。同巫、根人祭祀也。』また「ウチグスク」の入り口には「仲田門中章氏拝所」が設けられており、隣接した場所には石造りのウコール(香炉)が祀られています。さらに「ウチグスク」の入り口には他にも「カミヤー/神屋」の祠が建立されており、敷地には井戸跡が残されウコールが設置されています。(カミヤー/神屋のヒヌカン/火の神)(カミヤー/神屋の仏壇)(カミヤー/神屋のトゥクシン/床の神)(カミヤー/神屋の仏壇)(カミヤー/神屋の位牌)「カミヤー」の内部にはヒヌカン(火の神)、仏壇、トゥクシン(床の神)、位牌が祀られています。旧暦7月18日から24日まで執り行われる「ウフユミシヌグイ」では悪風払いと農作物の豊穣、さらに村の繁栄と村人の健康祈願が行われ「ヌルヒヌカン」や「ヌルルンチ」の入り口広場でも祈願が行われます。3日目(旧暦7月20日)に行われる「ウフユミ」は主な儀礼の一つで、この日から3日間は死者を村の中に入れてはいけない風習となっています。「ウフユミ」は「タチガミ/立神」と呼ばれる神女が中心に行われ「瀬底ヌル・ウフニシヘー」や他の神女達が参加して「カーサームーチー」と呼ばれる月桃(げっとう)の葉で包んだ餅が供えられます。この日の祭祀で「タチガミ」は竹製の6本の弓矢を持ち頭に草を巻いて武装します。「瀬底島」西側の海岸にある「アタフジ浜」へ向かう途中と浜では「タチガミ」が「水納島」と「伊平屋島」方面に向いて、敵を想定して弓矢を投げる儀式が行われます。(内城按司/ノロ之墓)(内城按司/ノロ之墓の改築記念碑)(内城按司/ノロ之墓の石碑)(内城按司/ノロ之墓からの景色)「ウチグスク」がある「ウチグスクヤマ」西側の森の中に「内城按司」と「瀬底ノロ」の墓があります。この墓の「マユ/眉」と呼ばれる位置に「第一尚氏」の家紋が刻まれており、墓に向かって左側には「内城按司 ノロ 之墓 改築記念碑 昭和六二年六月廿日竣工」と記された石碑が建立されています。また、その左側には「女神様 一九七七年三月五日」と刻まれた石碑と、更にもう一体の石碑が設置されています。「瀬底島」の祭祀は旧暦1月1日の正月の祈願から旧暦12月の「ワタクシウグヮン」まで「瀬底ノロ」により執り行われます。「瀬底島」の年中行事を締めくくる「ワタクシウグヮン」は「ヌルルンチ」に豆、酒、線香を供えて1年間の感謝祈願として拝されます。この祭祀は昔からノロの「ウグヮン/御願」で、ノロの1年間の勤めに感謝して集落の各戸から徴収した穀物を報酬としてノロに与えたと言われています。
2023.06.16
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(大城家/屋号ウフジュクの神アサギ)沖縄本島の北部の「本部町」に隆起珊瑚礁で形成された「瀬底島」があり「島尻マージ」と呼ばれる土壌が分布しています。「瀬底島」の中央部に「瀬底集落」があり、この集落の草分け旧家である「大城家/屋号ウフジュク」の屋敷に「神アサギ」が建立されています。「大城家」の「ムートゥヤー/元屋」である「大底門中」の先祖が「瀬底島」に移り住んだ15世紀中頃には島の先住民が暮らしていましたが「北山監守今帰仁按司」の子孫で武力と統治力のある「大城家」により島は支配されたと伝わります。「大底門中」は現在も集落の「ニーヤー/根屋」としてウフシヌヘー、ノロ、神人などを出し、島の祭祀の中心的役割を担っています。この「大城家」の屋敷の東側に神を迎えて招宴する「神アサギ」があり、内部には神の依代である「タムト木」と呼ばれる丸太が祀られています。「神アサギ」での祭祀の際にはこの「タムト木」の上に線香を供えて祈願します。(大城家のカミヤー/神屋)(カミヤーの仏壇とヒヌカン)(カミヤーのトゥクシン/床の神)(カミヤーの仏壇)「神アサギ」は1713年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」に『麦・稲三祭之時、仙香 巫、花米五合宛・神酒壱宛 百姓。柴指之時、線香 巫、花米九合・神酒弍・五水五合・肴壱器 百姓。芋祭之時、仙香 巫、蕃薯三器・神酒弍・肴壱器 百姓、供之。瀬底巫祭祀也。』と記されています。「大城家」の敷地内で「神アサギ」の東側には「カミヤー/神屋」があります。仏壇には『大城親雲上・大城筑登之・内城按司・内城大主・内城按司女神・内城按司祝女・七之ウミナイビ乳母・七代先祖・八代先祖』などの位牌が建立されており、仏壇の左側には「ヒヌカン/火の神」の霊石が三体祀られています。「カミヤー」の中央には「大城家/大底門中」の先祖である「ウチグスク/内城按司」と考えられる人物を描いた掛軸と刀が飾られており、向かって右側には「寿」と記された木彫りの扇子が二面据え置かれています。(大城家の鳥居)(大城家のニーヒヌカン/根火神)(ニーヒヌカン/根火神の祠内部)(アシビモー/遊び毛/フチャムイのガジュマル)「神アサギ」の北側に面して「ニードゥクル/根所」と呼ばれる赤瓦屋根の祠があり「ニーヒヌカン/根火神」が祀られています。この祠は「大城家」の屋敷東側に建立されているため「大底門中」の「ヒヌカン/火神」であると考えられています。旧暦2月の麦の豊作祈願で麦の初穂を供える「2月ウマチー」と、旧暦5月の粟の穂を供えて粟の豊作祈願と集落の住民の健康祈願を行う「5月ウマチー」でウフシニヘーやノロなどの神人が「ニーヒヌカン」を拝します。また旧暦3月の麦の豊作に感謝しウブク(ご飯)・酒・カティムン(おかず)・線香を供えて祈願する「3月ウバングミ」と、旧暦6月に粟の豊作を感謝しウブク・酒・カティムン・線香を供える「6月ウバングミ」でもウフシニヘーやノロなどの神人により祈願が行われます。「大城家」の東隣には集落の踊りが行われる「アシビモー/遊び毛」があり「フチャムイ」とも呼ばれています。旧暦8月15日の「シシウグヮン/獅子御願」では「アシビモー」に獅子を安置し「ヤナカジゲージ」と呼ばれる「ヤナムン/悪霊」祓いの祈願をします。(若狭松御願/ワカサマチウガン)(若狭松拝所の石碑)(若狭松御願/ワカサマチウガンの祠内部)「大城家」の「神アサギ」から西側の場所に位置する「ウチマンモー」と呼ばれる広場に「ワカサマチウガン/若狭松御願」の拝所があります。その昔、この一帯に青々とした立派な松の木があった事からこの名前が付いたと伝わります。「ワカサマチウガン」の祠内部には石造りウコール(香炉)が2基と鉄製のウコールが1基祀られており、この拝所には『若狭松拝所 一九六三 . 八 . 廿五 .』と記された石碑が建立されています。「ワカサマチウガン」は「瀬底集落」の年中行事で悪風祓いと農作物の豊穣、さらに村人の健康と村の繁栄を祈願を兼ねた「ウフユミシヌグイ」の6日目に拝されます。この行事は一年で最も重要な祭祀で旧暦7月18日から24日の1週間に渡り行われます。この拝所は「瀬底の七門中/大城・上間・仲田・湧川・仲原・仲程・奥原」の「仲田門中」と深い関わりがあると言われています。(御天竜神地の拝所)(御天竜神地の石碑)(御天竜神地のウコール)旧暦7月23日の「ワカサマチウガンの日」の午後、神人および「仲田門中」の人々が「ワカサマチウガン」の拝所に集まり、重箱(仲田門中)・おにぎり・酒・シブイ(冬瓜)の薄切・刺身の味噌和え・線香を供えて祈願します。「ワカサマチウガン」に隣接して「御天竜神地」の拝所があり大小無数の石が積まれています。『御先 御天竜神地 ニライカナイ』と刻まれた石碑が建立されており、石造りのウコールと数個の霊石が祀られています。『御先/ウサチ』は「アマミキヨ・シネリキヨ」の琉球開闢の世の中である「御先の世/ウサチユー」を意味し『御天/ウティン』は「天」を指します。琉球神道に於ける主神は遥か東の海の彼方に存在する「ニライカナイ/理想郷」に住む神であり、この海の神こそが「龍宮神」であると信じられています。この拝所は海の神に通じる聖域であり、航海安全や豊漁祈願が行われる「地/ジーチ」として崇められています。(慰霊塔)(慰霊塔)(刻まれた戦没者名)更に「ウチマンモー」の南側には昭和32年に建立された「慰霊塔」があり沖縄戦で戦没した軍人・軍属の御霊を祀り、毎年6月23日の「慰霊の日」に「慰霊祭」が執り行われています。1944年(昭和19)10月10日の「十・十空襲」では「瀬底島」と沖縄本島の「先本部」の海峡に停泊していた潜水母艦「迅鯨/じんげい」がアメリカ軍の攻撃により沈没しました。この空襲により「瀬底島」の民家と学校が消失し島民1人が死亡し、翌年の1945年(昭和20)4月22日、アメリカ軍は「瀬底島」に上陸したのです。沖縄戦に於いて「瀬底島」出身の軍人・軍属72名と一般住民102名が犠牲となりました。戦時中「本部町」の住民は「名護市」の「久志・辺野古」の収容所に移動させられましたが「瀬底島」の住民は収容されなかったと伝わります。この理由として「瀬底島」の主要な人物が島の学校を再建する事を条件にアメリカ軍と交渉して島民は収容所への移動を免れたと言われています。
2023.06.05
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