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(西の御嶽/宮鳥御願)沖縄本島北部にある「本部/もとぶ町」の西側に周囲7.3キロ平方メートルの「瀬底/せそこ島」があります。この島の住民は「瀬底島」を「シマー/島」と呼びますが、対岸の本部半島の人々は「シーク」または「シスク」と呼んでいます。国道449号線から「瀬底大橋」を渡った場所にある「瀬底島」の西側に「瀬底ビーチ」があります。この浜の南側には「西の御嶽/イリヌウタキ」の森が佇み、別名「宮鳥御願/ミーヤトゥヤウガン」と呼ばれています。この御嶽は1913年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」に記されている『ヨネフサキ嶽 神名 カネマツ司ノ御イベ』に相当すると考えられます。「瀬底集落」の西側約900メートルの場所にある「西の御嶽」は木々が生い茂る一帯に2〜3メートルの窪地にあり、御嶽の周囲は石灰岩の口の広い洞穴となっています。この拝所には「ノロ/祝女墓」の他にも洞穴内に4つの古墓が祀られています。(初代瀬底ノロ墓)(呂氏仲程瀬底一世の石碑)(洞穴内の古墓)(洞穴内の古墓)「西の御嶽」の「ノロ墓」は破風型のコンクリート製で、石碑には「呂氏仲程瀬底一世 昭和十一年四月建立」と記されています。この古墓には「瀬底村初代公儀ノロ」が祀られていると伝わります。葬られた祝女は若い頃から公儀ノロを務めた美女で、旧暦五月三日に穀物の豊作祈願を行う「ティラムヌメー」と呼ばれる祭祀の前に「トールマイ浜」にて身体を清める洗い髪をしていました。その時、以前から沖に停泊していた鹿児島船の船乗りに暴行され、ノロは「宮鳥御願」の森に逃げ込み身を隠しました。ノロは暴行した船乗りに『残波に行けば、お前達の船は破れてしまえ』と手を合わせて船乗りに呪いをかけたのです。その後、天候が回復して船を出したところ残波で船は難破して船乗りは全員死亡し、ノロはそれを見届けた後に洞穴で自ら命を絶ったと言われています。その骨神がこの「西の御嶽」の古墓に祀られていると伝わっています。(宮鳥拝所)(宮鳥拝所の石碑)(宮鳥拝所の祠内部)(宮鳥御願の竜宮神)旧暦五月の「ウフウグヮン/大御願」ではその昔、ノロ墓から骨を出して洗い清めていました。この骨洗いは「ミススイ/御洗清」や「スン」と呼ばれ「瀬底集落」の「仲程門中」が担当してきました。この「ウフウグヮン」は「七ウターキ/御嶽」の祈願で麦の豊作と村人の健康と繁栄を願います。現在はノロや神女達が集落にある七ヶ所の御嶽を巡り大豆九升・酒三合・線香二十五束を供えます。その昔は徒歩で巡っていたため一日がかりの行事となり、道中は供物を小使いの少年が担いでいたと伝わります。「宮鳥御願」の森には「宮鳥拝所」の祠があり、内部には三体の霊石と三基の石造りウコール(香炉)が祀られています。また祠の脇には「宮鳥拝所 一九九二年八月吉日改築」と刻まれた石碑が建立されています。この祠から浜の方向へ進むと「竜宮神」の拝所があり「竜神」と記された石碑、形の異なる三基の石造りウコール、一体の霊石、シャコガイの貝殻が海に向かって祀られています。(サンケーモー/三景毛)(大底門中/大城家の拝所)(大底門中/大城家の拝所)「瀬底集落」では旧暦五月と九月の「ウフウグヮン/大御願」の行事に「七御嶽」が拝まれます。参拝の最後に集落の南側にある「サンケーモー/三景毛」と呼ばれる小高い丘に行き「瀬底島」の西側にある「水納/みんな島」に向かって神人全員が拝みます。この行事は「水納島」にある「メンナの御嶽」へのタンカー(御通し)だと言われています。この「サンケーモー」には「大底門中」の拝所があり、この門中の「大城家/屋号ウフジュク」は「瀬底集落」の「ニーヤ/根屋」で、集落で最も古い約500年余りの歴史を持つ旧家です。「大底門中元祖由来記」には「大底門中」は第一尚氏「尚巴志」王統の「北山監守今帰仁按司」で、数代に渡り「山北今帰仁グスク」に駐在して山北諸郡を統治していました。第七代「尚徳王」が滅亡した時に「北山監守今帰仁按司」の子孫の1人が「瀬底島」に移り住み、村を創建して「瀬底集落」の草分けとなったと言われています。(上間門中拝所の石柱)(上間門中拝所の石柱)(上間門中拝所)(仲田門中拝所)「サンケーモー」には他にも「上間門中/上間家/屋号アガーリ」の拝所があり、別名「シークウェーキ」とも呼ばれています。伝承によると「上間門中」の始祖である「細工大主」は「瀬底島」に渡って来た当初は「アンチ浜」の海岸丘陵にある「カンジャーガマ」でカンジャー(鍛冶屋)をしていました。当時は士族や農民にとってカンジャーは重要で島民に重宝され、貯めた蓄えで土地を購入し「瀬底集落」に住居を構えるようになったと伝わります。第二世から第五世までは「本部間切地頭代役」を務めて「健堅親雲上/キンキンペーチン」と呼ばれていました。第二尚氏「尚円王」の子である「山内親方」のお供を若い頃からしていた第二世は中国の清に渡り、土地神(農耕神)である「土帝君」の木像を持ち帰り「瀬底島」に祀るなど豪農と慈善事業家として知られていました。また「サンケーモー」には集落で第三の旧家である「仲田門中」の拝所も設けられ、石碑の前には「首里」と「津嘉山」の石柱が建立されています。(前の御嶽/南の御嶽)(前の御嶽/南の御嶽の祠)(前の御嶽/南の御嶽の祠内部)(前の御嶽/南の御嶽の森)「前の御嶽/メーヌウタキ」は「瀬底集落」の南西の方角に約500メートルの場所にこんもり茂った「ウチンメー」と呼ばれる小丘陵にあります。別名「南の御嶽/へーヌウタキ」とも言われるこの御嶽は「瀬底島」の拝所の中で最南に位置しています。コンクリート製の祠内部には三体の霊石と一基の石造りウコール(香炉)が祀られています。以前は赤瓦屋根の祠でしたが、昭和40年代に現在の姿に建て替えられました。「前の御嶽」は「瀬底の七御嶽」の一つで「国守りの神」が祀られているとの伝承があり「瀬底島」を守護する御嶽であると考えられています。旧暦五月と九月の「大御願」の際に拝される「七御嶽」の最後に参拝される拝所として知られています。ちなみに旧暦五月の「大御願」では「瀬底ノロ」や神女等により麦の豊作祈願、村人の健康、村の繁栄を祈願し、九月の「大御願」では豆の豊作祈願、村人の健康、村の繁栄が祈祷されます。
2023.05.28
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(ウドゥンガー/御殿ガー)沖縄本島北部にある「恩納村/おんなそん」に「谷茶/たんちゃ集落」があります。1713年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」と1731年に成立した漢文による琉球王国地誌である「琉球国旧記」によると、恩納間切地頭代は『前兼久親曇上』と称する以前は『谷茶大屋子』と呼ばれていました。このことから「谷茶村」は琉球王国の行政村として確立していた事が示されています。また「谷茶村・仲泊村・前兼久村・冨着村」の4村は「山田ノロ」の管轄により「冨着神アサギ」にて合同祭祀が執り行われていました。「谷茶集落」の中央部にある小高い丘陵は村の御嶽となっており、この御嶽の東側に「ウドゥンガー/御殿ガー」と「シリンカー/後ガー」があり、西側には「メーンカー/前ガー」と呼ばれる井泉があります。この3箇所の井泉は集落の草分け旧家とその子孫に水の恩恵を与えた拝井として現在も大切に崇められています。(ウドゥンガー/御殿ガーの祠)(シリンカー/後ガーの拝所)(シリンカー/後ガーの祠)(ミージマバシ/新島橋)「谷茶集落」の御嶽がある丘陵の東側麓に村の草分け旧家の1つである「アガリ/東」があり、この家の南西側に「ウドゥンガー/御殿ガー」の拝井が残されています。井戸は石組で丸く囲まれており現在も水が湧き出ています。「ウドゥンガー」には南側に隣接する御嶽に向かって祠が建てられており、コンクリート製の祠内部には数個の霊石が祀られています。この「ウドゥンガー」から更に東に50m程の場所に「シリンカー」と呼ばれる小川が流れており、川岸にはコンクリート製の祠が建てられ「クシガー/後ガー」と呼ばれる拝所となっています。コンクリート製の祠内部には霊石が1個祀られています。その昔は「シリンカー」から西側に「谷茶集落」が広がっていましたが、明治20年頃に集落のほぼ全域を焼き払う大火がありました。それ以後「シリンカー」を越えて東側に民家が建つようになり「シリンカー」に架かる「ミージマバシ/新島橋」を境に東側の地域を「ミージマ/新島」と呼ぶようになりました。(メーンカー/前ガーの拝所)(メーンカー/前ガーの祠)(メーンカー/前ガーのグムイ/溜池)(メーンカー/前ガーの上流)御嶽の西側で「アガリメーウフヤ/東前大屋」の旧家から北側に進んだ森に「メーンカー/前川」の上流があります。水量が豊富な小川の流れを堰き止めた「グムイ/溜池」があり、この場所に「メーンカー」の祠が建てられ「メーガー/前ガー」と呼ばれる拝所となっています。北側に隣接する御嶽に向けて建てられたコンクリート製の祠内部には霊石が6個祀られており、現在でも先人が水の恵みを頂いた拝井として多くの住民が参拝しています。「谷茶集落」の古島は「メーンカー」と「シリンカー」に挟まれた地域に民家が広がり集落を形成し発展してきました。人々の生活に欠かせない「ウドゥンガー」「クシガー」「メーガー」の井泉に祀られる3箇所の拝所は旧暦8月に行われる「カーウガミ/井泉祈願」で拝されており、かつて正月に汲む若水や産まれた子供の産水としての「ウブガー/産ガー」として村人に重宝されていたと考えられます。(東リタカビチェー/谷茶村墓)(ウフヤームンチュー/大屋門中之墓)(亀甲墓)「谷茶集落」の北東側に「谷茶古墓群」と呼ばれる標高約20mの丘陵があり「クガタ/此方組墓」と呼ばれる「ムンチュー/門中墓」が点在しています。集落の「アガリ/東リ・ウフヤー/大屋・イリ/入り」などの旧家は「クガタムンチュー」に属していました。「ムンチュー/門中」とは沖縄県における始祖を同じくする父系の血縁集団を言います。「ムンチュー」の一族は同一の共同墓に入り、墓の管理や運営も「ムンチュー」により行われています。「丘陵の中腹には「東リタカビチェー」と称する「ムラバカ/村墓」があり、他にも「ウフヤームンチュー/大屋門中之墓」など古い亀甲墓が構えています。この「タンチャオオブクロバル/谷茶大袋原」にある「谷茶古墓群」には亀甲墓の他にも堀込墓や破風墓があり、古墓の蓋石に大型のテーブルサンゴなどが用いられています。さらに丘陵の周囲からは獅子竈や近世陶磁器が発掘されています。(旧ムラバカ/村墓)(堀込墓)(谷茶古墓群に移設されたムラバカ/村墓)「谷茶古墓群」から更に北東側で「大湾川」の北側に「ガンジ原古墓群」と呼ばれる約3m程の小高い丘があり「アガタ/彼方組墓」と称する「ムンチュー墓」が造られていました。この古墓群には集落の草分け旧家である「ニーチュヤー/根人屋」などの「ムンチュー」が「旧ムラバカ/村墓」や「堀込墓」に葬られていました。この「ガンジ原古墓群」は「谷茶集落」と関連がある古墓とされていますが「谷茶古墓群」と位置が離れており墓の形状も違う事から、より古い違う時代の古墓群であると考えられています。その証拠に「ガンジ原古墓群」には堀込墓が多く「大湾川」から多数の厨子甕が発見されています。この周辺の丘からは厨子甕に使われた土器壺や青花が表面採集されており、さらに「寛永通寶」の貨幣も発掘されています。現在「ガンジ原古墓群」にあった「旧ムラバカ」は「谷茶古墓群」に「谷茶区合祀墓」として移設されています。(谷茶前節の歌碑)(谷茶前浜)(谷茶前浜)「谷茶前浜」には沖縄本島の代表的な民謡と踊りである「谷茶前節」の歌碑が建立されています。耕作地が少なかった「谷茶集落」では村を上げて漁具に力を注いでいました。集落では海の幸の恵みと感謝を示すため御嶽の祭祀には魚を神前に捧げたと言われています。「アカヒゲ屋」の人は三線が巧みで踊りや狂言も人気があり「マネク屋・トクムト・入り・与儀小」などの人々と共に「谷茶前浜」に押し寄せた数えきれない海の幸、大漁に心躍る青年達、忙しく魚を売りに走る乙女達の情景を「谷茶前節」で見事に歌と踊りに表現しました。因みに、琉球音楽の世界で『唄三線の始祖』として信仰されている「赤犬子」が旅の途中に「谷茶」で物乞いをした時、そこの船大工は「ひもじかったら食べなさい」と丁寧に「赤犬子」をもてなしてくれました。「赤犬子」は谷茶の船を「谷茶速船」と名付け、それから谷茶の船は爽快に水を切って走ったとの伝承が残されています。
2023.05.18
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(谷茶の御嶽)沖縄本島北部の西海岸線沿いに「恩納村/おんなそん」が南北に長く広がり、この村の中央部に「谷茶/たんちゃ集落があります。この村の集落は東西に細長い形をしており、西側にある弓状の浜辺の砂堆上に位置しています。「谷茶」という村名は1713年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」から記載され始めました。さらに1743〜1745年にかけて琉球王国の正史として編纂された歴史書である「球陽/きゅうよう」には『一六七三年(延宝元年)恩納間切創設に読谷山間切から八邑、金武間切から四邑を割き、十二邑で恩納間切を創めた。』と記載されています。このことから「谷茶」は読谷山間切から割かれた八邑の一つである事が分かります。また、1731年に成立した漢文による琉球王国地誌の「琉球国旧記」には『谷茶大屋子(地頭代)』の記事が記されています。(御嶽の丘陵)(御嶽の登口)(谷茶の御嶽)「谷茶集落」の中心部から南側にある丘陵の頂上に「御嶽」の社が「谷茶」の古島がある北側に向けて建立されています。「谷茶」の草分け旧家を見晴らす位置にある「御嶽」は村の守護神として昔から崇められてきたと考えられます。この御嶽は旧正月1日の「ハチウガン/初御願」で「谷茶集落」の老若男女が初詣に参拝しました。前年に子供が産まれた家は「カミジン酒」をつくり神に捧げ「ニーガン/根神」により神への報告が行われます。寄り合った人々は神酒を戴き、三線の演奏に合わせて歌舞が奉納されます。まず最初に男達が舞い、次に神女が舞う慣わしとなっていました。御嶽参詣は祭りの日や年中行事の際だけではなく、日付けを問わず出稼ぎに行く人や試験を受ける人などが御嶽を拝し、それぞれの日程から集落に帰った時に「フトゥチウガン/解き御願」を行いました。(アガリメーウフヤ/東前大屋)(ニーチュヤー/根人屋)(ナカミチ/中道から見たニーチュヤー/根人屋)「御嶽」の登口と「ナカミチ/中道」の周辺一帯には「谷茶集落」の草分け的な古島旧家が軒を連ねており、集落の神職もこれらの旧家から輩出していました。かつては隣接する「冨着」を主柱として「仲泊・前兼久・谷茶」の四カ村が「山田ノロ」の管轄の下に合同祭祀を執り行っていました。「谷茶集落」にも独自に「ニーチュ/根人」や「ニーガン/根神」と称する神職が存在していました。「冨着神アサギ」での祭祀に「谷茶」を代表する神職として「根人」に相当する男子が「ウムイの主」になり「居神」も選定されていました。集落の「根人」と「根神」は「御嶽」の入り口にある旧家の「ニーチュヤー/根人屋」とその系統から出自していました。「山田ノロ」による「冨着神アサギ」での合同祭祀の他にも「谷茶集落」に祀られる「御嶽」で村出身の神職により独自的な祭祀が執り行われていたと伝わっています。(ニーチュヤー/根人屋のカミヤー/神屋)(ニーチュヤー/根人屋のカミヤー/神屋の仏壇)(ニーチュヒヌカン/根人火神)(ニーチュヒヌカン/根人火神の祠内部)「根人屋」の屋敷の南側に赤瓦屋根の「カミヤー/神屋」が建てられており、内部には3基のウコール(香炉)が設置された仏壇、2基の石造りウコールが祀られたヒヌカン(火の神)、1基のウコールが設置されたトゥクシン(床の神)が設けられています。この仏壇に向かって右側には観音図が祀られており、ウコール、湯呑、花瓶が設置されています。かつて「根人屋」の炊事場に2つの竈(カマド)があったと伝わります。竈に向かって右側が「根人火神」が祀られ「根神」が拝し、左側は「家庭火神」とされてきました。戦後になり「根人火神」は「御嶽」入り口の右側に祠を設けて移動され、その祠内部には更に2つの火神が祀られ「谷茶集落」の民間霊媒師である「ユタ/シャーマン」により拝されています。現在、この祠には10体の霊石が祀られ、3基のウコールと3つの湯呑が設置されています。(クラントゥー/蔵ン当のカミヤー/神屋)(シードヌヤー/勢戸ヌ屋の屋敷跡)(ウフヤー/大屋のカミヤー/神屋)(アガリ/東の屋敷跡)「谷茶集落」の「御嶽」の南側には他にも「クラン根/蔵ノ根・クラントゥー/蔵ン当・シードヌヤー/勢戸ヌ屋・ウフヤー/大屋・アガリ/東」の旧家屋敷がありました。「御嶽」で祭祀が執り行われた際、稲穂は「シードヌヤー」の「メーンター/前ン田」から三穂を収穫して神に捧げ、お供えする神酒もこの家で造られました。「山田ノロ」による「冨着神アサギ」での四村合同祭祀には「ウフヤー・アガリ」の両旧家から神女が1人づつ参加し「ニブトイ/根ブ取」と呼ばれる神人は「アガリ」が出席したと伝わります。桶の神酒を杓子で汲み、再び桶に戻す事を3回繰り返した後に改めて神酒を汲む「神酒起し」と呼ばれる儀式が神女達により行われました。正月と6月25日の年2回「御嶽」の清掃と枯木採取が3人の神女により行われ、〆縄は「ニブトイ」が張り巡らしたと言われています。(川端屋の屋敷跡地)(谷茶集落入り口の古墓)(タンチャバシ/谷茶橋)(タンチャバシ/谷茶橋の石碑)旧家「アガリ」の北側で「谷茶前浜」の近くに「川端屋」の屋敷跡地があります。この家は耕地が少ない「谷茶集落」でも土地持ちの裕福な家として有名でした。恩納間切の「南恩納・熱田」や金武間切の「屋嘉」などの集落に多くの水田を所有しており、その土地の住民に小作をさせていたと言われています。この「川端屋」から借金をした人は利子を労働で返済し、多くの日雇いも使用していたと伝わっています。「おんなサンセット海道」から「谷茶集落」の西側に入る位置に古墓があり墓門にはウコール(香炉)が設置されています。この墓の正面に流れる「メーンカー」には「谷茶橋」が掛けられており、川岸には『大正十二年十一月築設』と刻まれた、当時実際に使用されていたと思われる2本の石柱が記念碑として保存されています。その昔、この川には「ヤンバル/山原船」や村船の「入り船・アガリ船」が往来していたと伝わります。
2023.05.10
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