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(村火の神/前兼久根神火神)「前兼久/まえがねく集落」は沖縄本島北部「恩納村/おんなそん」の西海岸線沿いにあり、集落の公民館の敷地に「村火の神」の祠が西側にある「前兼久漁港」の海に向かって建立されています。この「ヒヌカン/火の神」は1713年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」に『前兼久根神火神』と記されており、更に『稲穂祭三日崇・同稲穂祭之時、仙香・花米五合・麦神酒二器 谷茶・仲泊・前兼久・冨着四ケ村百姓。同大祭之時、仙香・花米五合・神酒二器 同上。年浴之時、仙香・神酒二 百姓中。ミヤ種子之時、仙香・花米五合・神酒二器 同上。竈廻之時、仙香・花米五合・神酒一。右四ケ村 百姓中 供之。前兼久根神ニテ祭祀也。』との記述があります。そのため「前兼久」はこの時代には「冨着」から独立した村として琉球王府に認められていた事になります。(村火の神/前兼久根神火神の祠内部)(龍宮神の拝所)(龍宮神の祠内部)「村火の神」の祠がある「前兼久公民館」の土地は、その昔この村を治めていた地頭代の「前兼久親雲上ペーチン」の屋敷跡であると伝わり、この「ヒヌカン/火の神」は「地頭代火の神」とも呼ばれています。祠内部には「村火の神」と記された石板の下に3体の霊石とウコール(香炉)が祀られています。「村火の神」に向かって右側に隣接して「龍宮神」が祀られる祠が海に向けて建立されています。この海の神様である「龍宮神」は1月2日の「フナオコシ/舟興し」で豊漁と海の安全、更に集落の繁栄と住民の無病息災が祈願されます。昔は祈願の後に漁民全員が舟で海に出て獲った魚を女性達が料理し、ご先祖様や海の神様にお供えしてから皆で食べ親睦を深めていました。この日の漁は「ハツウクシ/初興し」と呼ばれる仕事始めで、獲った魚は売ってはならず全て食べる決まりとなっていました。(前兼久トゥングヮー)(前兼久トゥングヮーの龍宮神)「前兼久集落」の西側には神が住むニライカナイに繋がる海が広がり、この理想郷の神が集落に来られる際には「前兼久トゥングヮー」で一時休憩されてから村に来臨すると信じられていました。この事から「前兼久トゥングヮー」の岩島は聖地とされ、この島を拝む事はニライカナイを拝する事と同じだと言われ、集落として昔から 崇められていました。「前兼久トゥングヮー」の岩窟に収められている古骨は集落の前代先祖の骨とされ、この島に死者を葬る事はニライカナイに葬る事と同じであると信じられていました。「前兼久トゥングヮー」は集落の中でも限られた人しか島に渡る事が出来ず、この島の東側には「龍宮」と記された赤い鳥居が建立されています。旧暦5月4日の「ウンガミ/海神祭」では「前兼久トゥングヮー」の周辺で100年以上続く「前兼久ハーリー」の伝統行事が行われ豊漁と航海の安全が祈願されます。(前兼久トゥングヮーの遥拝所)(ノロ御迎毛)「前兼久」の古老によると、幼い頃まで海を望む岩崖の上にウコール(香炉)が「前兼久トゥングヮー」に向けて祀られており、この遥拝所から「前兼久トゥングヮー」を拝していたと伝わっています。現在の遥拝所の岩崖は根本から削られて「Blue Entrance Kitchen」というレストランになっており、隣接する公衆トイレの裏側に岩崖の跡が僅かに残っています。「前兼久公民館」の敷地の東側の広場はかつて「山田ノロ」を迎える「ノロ御迎毛」でした。「前兼久村」が「冨着村」から独立する前まで「山田ノロ」は舟で「ノロ御迎毛」に来て休憩し、そこから「冨着古島」の丘陵に向い祭祀を行なっていたと言われています。因みに「山田ノロ」の管轄は「読谷山・冨着・谷茶・仲泊・久良波」で「冨着」から独立した「前兼久」は村の「前兼久根神」により祭祀が執り行われていました。(移設されたウーガー/大井/オカー)(ウーガー/大井/オカーがあった場所)(移設されたナカヌカー/中ヌ井/前ン当の井)(ナカヌカー/中ヌ井/前ン当の井があった場所)戦前まで「前兼久集落」の草分け家の「アガリカーニー/東川根」の屋敷の隣に「ウーガー/大井」があり「オカー」とも呼ばれていました。正月の早朝午前3時頃に「アガリカーニー」の家主か長男が集落の古島にある「ヒジャガー」からバケツ1杯の水を汲み「ウーガー」に注ぎ入れます。その後、村中の家々が新年初めの「ワカミジ/若水」を汲んで帰ったと言われています。また「ウーガー」の南側で「前兼久の御嶽」の丘陵麓にはかつて「ナカヌカー/中ヌ井」があり「前ン当の井」とも呼ばれていたと言われています。毎年1月と8月の「カーウガン/井御願」では「ヒジャガー・ウーガー・ナカヌカー」の三井が拝され、塩・線香・御花米を各井戸に供えて全戸主が参拝しました。「ウーガー」と「ナカヌカー」は「おんなサンセット海道」の工事により埋め立てられましたが、この海道沿いに各井戸跡が移設されて現在も拝されています。(ジッチャク/勢理客の墓)(ジッチャク/勢理客の墓の墓門)(前兼久貝塚跡)(恩納ナビーの銅像)「前兼久集落」北側の「メーガニクバル/前兼久原」に集落で拝される「ジッチャク/勢理客の墓」と呼ばれる岩陰墓があります。集落に関係する「按司」の墓であると言われており墓内には石厨子が納められています。この墓の周辺から青磁碗の直口口緑部と思われる小破片が発掘されています。さらに「ジッチャク/勢理客の墓」東側の「メータバル/前田原」は「前兼久貝塚」があった場所で、現在は沖縄郷土料理店の「風月楼恩納本店」やコンドミニアムホテルの「プリンスプラージュ」などが開発されています。「前兼久貝塚」は標高5mの海岸砂丘に立地しており、この土地から弥生〜平安時代並行期の土器片が確認されています。因みに「風月楼恩納本店」の入り口には「恩納村」で生まれたの琉球二大女流歌人である「恩納ナビー」の銅像と同歌人の代表歌が供覧されています。
2023.03.31
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(前兼久の御嶽)沖縄本島北部の「恩納村/おんなそん」に「前兼久/まえがねく集落」があり、沖縄の方言では「メーガニク」と呼ばれています。1721年に清の官僚であった「徐葆光/じょほこう」が著した琉球の地誌『中山伝信録/ちゅうざんでんしんろく』には「前兼久」は「下富津喜」と記されており、かつて「前兼久集落」は北側に隣接する「冨着集落」の一部であったと言われています。「前兼久」の名前は「冨着」から見て西側前方にある海岸の砂堆地(兼久)に立地していた事に由来していると伝わります。現在の「冨着集落」は北側海沿いの「シリカニクバル/志利兼久原」に人口が集中していますが、戦前までは山手の奥まった場所に部落がありました。その為、山の上から見て「前兼久」の位置は海沿いの砂地の手前にあった事になります。(前兼久の御嶽に登る階段)(前兼久の御嶽/祠内部)(北側にある集落の古島に向けられた霊石)(前兼久の御嶽から見た集落の古島方面)その昔「前兼久集落」は公民館の辺りから大きく分けて南側を「メーンダカリ/前村渠」北側を「クシンダカリ/後村渠」と呼んでいました。戦前になると集落の南から北に順に「メーグミ/前組」「メーヌナカグミ/前の中組」「クシヌナカグミ/後の中組」「クシグミ/後組」と区切られるようになったと伝わります。「前兼久集落」を南北に通る「恩納サンセット街道」沿いにある丘陵の階段を登ると頂上に「前兼久の御嶽」の拝所があり、赤瓦屋根の建物は「冨着集落」がある北側を背に建立されています。この祠の内部にはウコール(香炉)が祀られ、花瓶と湯呑設置されています。また、この建物の向かいの広場には、かつて「前兼久集落」が発祥した「古島」に向けられた霊石が祀られています。「前兼久の御嶽」は毎年1月2日の「ハチニガイ/初御願」で集落の住民により大切に拝されています。(前兼久の古島)(ヒジャガー/ウブガー)(ヒジャガー/ウブガーの湧き水)(ヒジャガー/ウブガーのウコール)「前兼久」の「古島」は現在の「前兼久集落」と「仲泊集落」の間にある山手側の丘陵にあったと伝わります。「前兼久」の「ウブガー/産井」である「ヒジャガー/比嘉川井」がこの古島の丘陵麓にあります。「ウブガー」の湧き水は部落で子供が産まれた際に産水として利用された他にも、元旦に生命を新しくする「スディミズ/若水」を汲み赤子の額に「ウビナディ/水撫で」をして健康祈願をしました。「前兼久集落」の古老によると昔は「ヒジャガー」東方の丘の上で毎年盛大な祭りが開催されて「前兼久」が分離してきた「冨着」の古島の方面に向かって遥拝が行われていたそうです。この「ヒジャガー」は「前兼久漁港」の東側に位置し、規模の大きい井戸には現在も水が豊富に湧き出ています。井戸には水の神様に感謝する祈願を行う「ウコール/香炉」が祀られており、毎年1月1日の「カーウガン/井戸御願」で大切に拝されています。(アガリカーニー/東川根)(アガリカーニー/東川根)(アガリカーニー/東川根の仏壇)「前兼久集落」の最高旧家と言われているのが草分け家の「アガリカーニー/東川根」で「前兼久の御嶽」の丘陵西側に屋敷がありました。現在、この敷地には「アガリカーニー」の「カミヤー/神屋」が建立されています。1月2日の「ハチニガイ/初御願」の際に集落の住民がこの「カミヤー」に集まり無病息災と集落の繁栄を祈願します。この家からは「ニーチュ/根人」や「ニーガン/根神」が出自し「前兼久」を管轄していた「山田ノロ」を祭祀の際に村に御迎えする「スバノ主」もこの血統から出たと言われています。また「アガリカーニー」の家は戦前から現うるま市「石川」に出向いて「冨着ペーグミー/親雲上」の位牌を拝していました。戦後になると「石川」からお迎えしたこの位牌を「カミヤー」に祀り大切に拝しています。「前兼久」は北側に隣接する「冨着」から分離した集落で「石川」から移り住んだ「冨着ペーグミー」が「冨着」の脇地頭を治めていました。そして、この人物の長男が「前兼久」の集落を草分けしたと伝わります。(冨着ペーグミー/親雲上の位牌)(カミヤー/神屋のヒヌカン/火の神)(カミヤー/神屋のトゥクシン/床の神)「前兼久集落」の古老によると、「アガリカーニー」の母親が生前(明治時代後半)に「アガリカーニー」の遠い先祖は「南風原/はえばる」の「宮平グスク」に祀られていると述べた事から、この草分けの旧家がその地を拝しに出向きました。それ以来「アガリカーニー」門中は正月の初御願と8月に「前兼久の御嶽」に登り「宮平グスク」を遥拝するようになり、それが集落全体の行事として広まり現在に至っています。「アガリカーニー」の「カミヤー」には、この旧家の先祖である「冨着ペーグミー」の位牌が祀られています。仏壇に向かって左側には「ヒヌカン/火の神」が祀られ、3体の霊石と古くから継承されるウコール(香炉)が設置されています。さらに仏壇に向かって右側には「カミヤー」を守護する「トゥクシン/床の神」のウコールが祀られています。5月4日のハーリーの際には「アガリカーニー」の「カミヤー」で海幸祈願が行われ、更に7月の盆踊りや綱引きなどの集落対抗行事の際には必ず「アガリカーニー」から祭りが始まります。
2023.03.24
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(イチグスク)沖縄本島北部の「恩納村/おんなそん」に「前兼久/まえがねく」という西海岸沿いの集落があります。沖縄の言葉で「メーガニク」と呼ばれるこの集落は「恩納村」の中で最も漁業が栄えており「前兼久漁港」を中心として多くの海産加工工芸品店が存在しています。この漁港と「前兼久公民館」に隣接する沿岸崖沿いには「イチグスク」の丘陵があり、グスクの北側には沖縄初の本格的なリゾートホテルである「ホテルムーンビーチ」があります。「イチグスク」は琉球石灰岩が隆起した岩塊で形成されており、崖下には現在も古墓が多数残されています。明治時代の後期に「前兼久集落」で「サッパイ」と呼ばれる「神ダーリ/神がかり」が発生し、集落の男女約10名が次々と何かに取り憑かれた様に突然に豹変してしまいました。(イチグスクの古墓/岩陰墓)(古墓のウコール)(イチグスクの風葬墓/岩陰墓)沖縄の組踊り(能や歌舞伎に近い琉球宮廷芸能)に登場する按司が語る「御殿言葉」を大声で叫び、集落を彷徨い歩いたため集落は大騒ぎになったと伝わっています。この不可解な出来事が起きて以来「前兼久」ではそれまで集落として拝していなかった「イチグスク」を拝む様になったと言われています。「前兼久」は元々「冨着村」に属しており、この村は現うるま市の「石川村」から移り住んだ「冨着親雲上/ペークミー」が脇地頭として村を治めていました。この「冨着親雲上」の長男が「冨着村」から独立した「前兼久」の草分けとして集落を開いたと言われています。そのため「イチグスク」の古墓に葬られている人々のルーツは「石川村」にあり、このグスクは「前兼久」の住民のみならず「石川」の人々からも大切に拝されました。(崖下の古墓)(崖下の古墓/岩陰墓)(仮墓とウコール)(岩塊に祀られたウコール)「前兼久」を開拓した先人が葬られた「イチグスク」を村として拝して来なかった事による祟りが「サッパイ」と呼ばれる「巫病/ふびゅう」を引き起こしたと集落の住民は考えたと推測されます。この「巫病」は沖縄におけるユタ、呪術者、巫がシャーマン(宗教的職能者)になる過程において罹患する心身の異常状態を意味し、沖縄では「神ダーリ」という言葉で広く認識されています。またシャーマニズムにおいて「巫病」は成巫過程の重要な試練とされ、一般的に思春期に発症する事が多いと言われています。症状は発熱、幻聴、神様が出てくる夢、重度になると昏睡、失踪、精神異常、異常行動などが現れます。シャーマニズムの信仰では「巫病」は神がシャーマンになる事を要請していると捉えられています。(イチグスクの岩崖)(鍾乳洞の風葬墓/岩陰墓)(イチグスクの古墓/岩陰墓)(崖下の石厨子)「巫病」を克服しシャーマンとなった者は神を自分の身に憑依させる事が出来て、神の代弁者になると信じられています。神によりシャーマンになる事を要請されると本人の意思で拒絶する事が困難であり、それを拒むと異常行動を引き起こして死亡する前例も見られます。「巫病」になった者は多くの場合、先達のシャーマンから神の要請に素直に従うよう勧められシャーマンの道へと導かれます。「巫病」は夢で与えられる神からの指示に従う事や、参拝や社会奉仕などを行って行くうちに解消されシャーマンとして完成すると言われています。沖縄の民間社会において「ユタ」と呼ばれるシャーマンは広く知られており、集落の個々の家や家族に関する運勢(ウンチ)、吉凶の判断(ハンジ)、禍厄の除災(ハレー)、の病気の平癒祈願(ウグヮン)など人々の私的な呪術信仰的な領域に関与しています。(イチグスクの岩崖)(イチグスクの古墓/岩陰墓)(イチグスクの古墓/岩陰墓)(イチグスクの浜)沖縄には昔から『医者半分、ユタ半分』という言葉があります。病気にかかると医者に診てもらう人と、ユタに相談する人が半々いるという意味します。ユタの能力は超自然的かつ神秘的で、その実体を裏付ける科学的根拠が無いためユタを装って金儲けをする人が現在も多数存在します。また、時の中央集権や近代化を進める権力層から幾度も弾圧や摘発を受けてきた歴史があります。「琉球王国行政官の蔡温によるユタ禁止令」「明治時代の自治体によるユタ禁止令」「大正時代のユタ征伐運動」「第二次世界大戦体制下でのユタ弾圧」など時代を経て、現在も沖縄にはシャーマンであるユタが存在し続けています。それと同時に沖縄には『ユタコーヤーヤ、チュオーラセー (ユタを買う人は、人々を争わせる人)』という言葉もあり、ユタにお金を払う事自体が問題の原因になると言われているのです。
2023.03.17
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(前兼久トゥングヮ/仲泊トゥングヮ)沖縄本島北部の「恩納村/おんなそん)」の西海岸線沿いに「前兼久/まえがねく集落」があり、この集落は沖縄の方言で「メーガニク」と呼ばれています。「前兼久集落」には昔から「アーマンチュ/天人」に纏わる伝承話があります。「アーマンチュ」とは「ニライカナイ」という海の彼方にある理想郷に住む神を意味し、沖縄には「アーマンチュ」に関する「巨人伝説」や「アーマンチュの足跡」更には「アーマンチュの洞窟」など多くの伝承が存在しています。「前兼久集落」の古老によると、太古の昔の世は北からの波は南へ、南から来る波は北へと越えてゆくばかりで、当時の沖縄には土地は少なく海ばかりが広がっていました。そんな時「アマミキヨ/アマミク/阿摩美久」と「シネリキヨ/シネリク/志禰礼姑」という「アーマンチュ」と呼ばれる男女の二神が「ニライカナイ」から「国頭村/くにがみそん」の「阿須森/あすもり」に降臨しました。(仲泊海岸/仲泊トゥングヮ/前兼久トゥングヮ)(前兼久トゥングヮ)「阿須森」に降りた「アマミキヨ」と「シネリキヨ」が『人間をお与えください』と懇願すると女が2人、男が1人生まれました。彼らは海から貝を拾って洞穴の中で食べて暮らし始め、そこから沖縄の国が広がって行ったのです。更に、島々を造ろうと天秤棒で土を運んでいると途中で棒が折れてしまいました。その時に海に落ちた土が「前兼久」と「仲泊」の2つの海上の小島になり、それぞれ「前兼久トゥングヮ」と「仲泊トゥングヮ」と呼ばれるようになったと伝わっています。また「アーマンチュ」が天と地を分けた神話も沖縄にあります。『遥か昔、天と地は分かればかりで人間は狭い隙間を這いつくばっていました。そこに「アーマンチューメ」という巨人神が現れ、硬い岩場を見つけると両足を踏ん張り両手で天を支えて持ち上げて強く放ちました。すると天は遥か上空に昇り人間は歩いて暮らせるようになりました。』その時に出来たと言われる「アーマンチュ」の足跡が沖縄各地に伝わっています。(前兼久漁港から見た前兼久トゥングヮ)名護市羽地には次のような話が伝わっています。『昔、とても天が近く人間は困っていた。アマミキヨという人が真喜屋の大川と羽地の大川のトゥシという所に足を踏ん張って天を押し上げたそうだ。昔はその時の足跡が残っていた。』また、うるま市安慶名には『昔、天と地はくっ付いていて離れていなかった。そのため人々は這って歩いていた。アーマンチュが何処からか降りてきて那覇のユーチヌサキ(雪の崎)に立って天を持ち上げた。』という伝承が残されています。更に、南城市佐敷津波古には『130歳である福人の前にアーマンチュが現れ、長寿の大主の位と五穀の種を授けた。』と伝わり、渡名喜島には次のような伝説があります。『タカタンシーと呼ばれる場所には昔、アーマンチュの足跡だという大きな石の窪みがあった。大昔アーマンチュは粟国島と渡名喜島をひとまたぎで渡ったそうだ。次に久米島にひとまたぎで渡ろうとしたが、海に落ちて死んだそうだ。』(仲泊トゥングヮ/ヒートゥー島)「前兼久トゥングヮ」の南側約300mで恩納村立仲泊小学校の北西側約400mの位置に「仲泊トゥングヮ」の岩島があります。この島は地元の住民に「ヒートゥー島」と呼ばれており「ヒートゥー」とは「イルカ」を意味します。かつて沖縄本島北部の名護湾でサバニ(沖縄で古くから利用された漁船)に乗った漁師が湾内に入り込んだイルカを手投げ銛で仕留めた「ヒートゥー漁」が3月から5月にかけて行われていましたが「仲泊トゥングヮー」の周辺で「ヒートゥー漁」が行われていた詳細は確認されていません。しかし「仲泊海岸」は現在でもウミガメの産卵が確認されるほど美しい海なので、昔はこの「仲泊トゥングヮ」からイルカの群れが見られた事から「ヒートゥー島」と言われるようになったと推測されます。因みに沖縄本島北部ではイルカを食する習慣があります。スーパー等でもイルカ肉が販売されており、刺身や炒め料理で食されています。(仲泊トゥングヮの廃墟)(仲泊トゥングヮの湾曲橋)1975年(昭和50年)に本部町で開催された「海洋国際博覧会/Expo'75)の際に沖縄振興の流れで「仲泊トゥングヮ」にも開発計画が持ち上がりました。「仲泊集落」の北側にある「シーサイドドライブイン」が沖縄の本土復帰に伴い、内地からの観光客を見込んで「仲泊トゥングヮ」にイルカ料理専門の海上レストランとミニ水族館の建設に取り掛かりました。しかし「仲泊トゥングヮ」の小島に掛ける橋の建設許可が下りず、建設半ばで計画は頓挫してしまいました。さらに、この島には下水処理のインフラが無く、海を汚染させる恐れがあった事から地元のウミンチュ(漁師)から猛反対を受けていたと伝わります。現在も「仲泊トゥングヮ」には当時からの廃墟が残されたままとなっており、島の西側には岩塊とを結ぶ湾曲したコンクリート製の橋が掛かっています。(シーサイドドライブインから見た仲泊トゥングヮ)(イユミーバンタのアーマンチュの足跡)「仲泊集落」の南側にある「ルネッサンスリゾートオキナワ/旧ラマダ」の東側に「イユミーバンタ」と呼ばれる海の魚の群れを見る崖があります。この崖上には芝生の広場となっており、昔から「アーマンチュ」の足跡であると言われています。また恩納村「万座毛」や読谷村「残波岬」も「アーマンチュ」が足を置いた場所だった言い伝えがあります。更に沖縄市には次のような神話があります。『東南植物楽園の南側で「バシクブー」と呼ばれる場所にある「福地グシク」の丘陵は「アーマンチュ」が枕にしていた。』『東南植物楽園の敷地内にある「ナーカジ」と呼ばれる平場には「アーマンチュ」のかかとの跡が2つ残されている。』『東南植物楽園前の交差点で「ナーカジアジマー」と呼ばれ場所に「ジャンジャラーシー」と言う洞穴には「アーマンチュ」が踏んで歩いた足跡が残っている。』(仲泊のイユミーバンタ)(イユミーバンタからの絶景)石垣島から与那国に広がる八重山列島にも「アーマンチュ」の伝説があり、石垣島の「白保」には次のような伝承が残されています。『その昔、天の神がアーマンチュに天から降りて下界に島を創るように命じました。アマン神は土を槍矛でかき混ぜて島を形成し、アダン(阿檀)林の中で最初の生物であるヤドカリを創りました。その後、ヤドカリの穴から2人の男女が生まれた。』八重山の開闢神話の特色としてヤドカリが登場します。南西諸島ではヤドカリは「アマン」と呼ばれ、語源は「アーマンチュ」から来ていると考えられます。因みに 「アマン」はサンスクリット語、ヒンディー語、パンジャブ語、アラビア語、ウルドゥー語、ペルシア語で「平和、安全、無事、宿、保護」を意味する言葉である事も非常に興味深い点となっています。
2023.03.10
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(ヤラジヌシー)沖縄本島中部の西海岸に「嘉手納町/かでなちょう」があり、この町の面積の約82%がアメリカ空軍「嘉手納基地」に接収されている事で知られています。この「嘉手納町」の西側海沿いに「兼久/かねく集落」があります。この集落の「嘉手納マリーナ」と呼ばれる米軍保養施設に「シーサイドリストランテ」というレストランがあります。また、この施設の東側国道58号線沿いに「野国貝塚群」が残っており、南側には中国から甘薯を持ち帰り琉球にイモを伝えた「野国総管」が葬られた墓があります。「嘉手納マリーナ」の西側の海に「ヤラジヌシー」と呼ばれる孤島があり、地元の住民からは「ビジュルヌシー」と呼ばれています。この孤島は戦前まで住民が往来する事が出来た岩場の岬でしたが、米軍による強制的な砂利採掘により現在の姿となりました。当時はこの岩場に「兼久のビジュル」という拝所があり、戦前までは「メーヤールイグヮー/前屋良小のビジュル」の名称で知られていました。(移設された兼久のビジュル)(兼久のビジュルの入り口)(兼久のビジュル)沖縄戦後、米軍により破壊された「兼久のビジュル」は現在、北側のショッピングモール「ネーブルカデナ」に隣接する岩場に移設され祀られています。「嘉手納町」は「ハダカユー/裸世」と呼ばれる原始人が裸同然で生活していた旧石器時代や貝塚時代の頃から歴史があり「屋良・野国・嘉手納」の3部落が1番古いと伝わっています。これらの部落に昔から住んでいた人々を平民と呼び、一方で「兼久のビジュル」がある「兼久集落」は「ヤードゥイ/屋取集落」と呼ばれ、首里から移住した士族により集落が形成されました。「琉球処分」の過程で1879年(明治12)に琉球藩を廃して沖縄県を設置する「廃藩置県」が行われ、約500年間続いた琉球王国が崩壊しました。その後、首里に住んでいた士族は沖縄本島の各地に移住させられる「士族帰農」が進み「兼久集落」が誕生しました。(兼久のビジュルの祠)(祠内部のビジュル)士族育ちの移住者は農業が上手く行かず、自分で働いて食べていく事が非常に辛かったと言われています。首里の士族だった女性たちが周辺集落の田舎百姓である平民に頭を下げて、恵んで下さいと物乞いまでした苦しく厳しい話が伝わっています。首里から移住して新しい土地を開拓したため「兼久集落」には住民の心の拠り所である拝所や御嶽は存在していませんでした。そこで「兼久」の村人が恩納村「仲泊」の海岸からビジュル(霊石)を3体持ち帰り「ヤラジヌシー」の岩陰に祀りました。すると直ぐに「兼久集落」は子宝に恵まれ、それから集落ではこのビジュルを神として崇めて大切に拝するようになったそうです。「兼久集落」はこの土地に最初に移住した「亀島」という名前が多かったため「カメシマグヮーヤードゥイ/亀島小屋取」と呼ばれており、他には「福地・山入端・古謝」の3つの名前があったそうです。(兼久の井戸)(兼久の井戸)(亀島の井戸)(亀島の井戸)大正生まれの「兼久」の古老によると、戦前まで「ヤラジヌシー」の岩場には移住当時から大きな井戸があり、住民の生活用水として重宝されていたそうです。戦後、米軍がこの井戸を埋めてしまったため、井戸の魂を現在の「兼久のビジュル」に移設しました。戦前まで「兼久の井戸」は石が積まれており、潮の満ち引きの関係で大潮の時は井戸に沢山の水が溜まり、干潮の時は水量が少なくなったと言われています。しかし、不思議な事に井戸水は真水で塩は含まれていなく、水が含まれる地層の関係により水量が変化していたそうです。現在の「兼久のビジュル」にはもう1つの井戸も祀られており、首里から士族が移住して「亀島小屋取」と呼ばれるようになった頃に「亀島」という人物が掘った井戸であると伝わっています。こちらの井戸も戦後に米軍により埋められましたが、先人の井戸を粗末にしてはいけないと住民により移設されました。(兼久のビジュルの拝所)(兼久のビジュルの拝所)(兼久のビジュルの洞穴)(仲泊海岸)「兼久のビジュル」には「ヤラジヌシー」の魂を祀ったと考えられる大岩があり、岩の下にはウコール(香炉)が祀られています。恩納村の「仲泊海岸」から求めてきた「兼久のビジュル」の霊石は1955年(昭和30年)に現在の場所に移されました。この土地に祀られる「ビジュルヌタンメー/お爺さん・ビジュルヌウンメー/お婆さん・動物」で構成される3体の霊石は「兼久集落」における霊石信仰の対象として大切に崇められています。この御神体は旧暦の9月9日に御供物をして子供の健康と家内安全を祈願する慣わしとなっています。さらに、子宝を求めて夫婦が「子宝に恵まれますように」と「兼久集落」のみならず、周辺の地域からも一年を通して多数の参拝者が訪れています。
2023.03.03
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