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(浜崎御嶽/恩納グスク)沖縄本島北部の最南端で西海岸沿いに位置する「恩納村/おんなそん」に「恩納集落」があります。このムラは1531(嘉靖10)〜1623(天啓3)年に琉球王府により編纂された歌集である『おもろさうし』に「おんなやきしま」の語が度々見られ『おもろさうし第十七』は「恩納より上のおもろ御さうし」とされています。昔から「恩納集落」は琉球王国の中でも際立って関心が持たれた場所であると言われています。1673年に「読谷山間切」と「金武間切」の両地域から分割して新しく「恩納間切」が創設され、間切を統治する役所である「番所」もこの「恩納集落」に設置されました。さらに「恩納間切」を総領する役職である「親方惣地頭」も「恩納親方」と呼ばれていました。(恩納村多目的広場から見た恩納グスク)(恩納グスクの入り口)(浜崎御嶽の標識)(恩納グスクの頂上へ向かう山道)「万座毛」の近くにある「恩納村海浜公園ナビービーチ」から北側に約300mの場所に「恩納グスク」があり、丘陵の南側麓にグスクの入り口があります。『おもろさうし』が編纂される以前「恩納集落」には「赤平/アカヒラ血統」と「クーシー屋血統」の2つの古代部落が存在していました。この「恩納グスク」一帯は「赤平家」を中心とした血縁的集団が部落を形成し、部落の祖霊神である「恩納グスク」を拝所として生活を営んでいたと言われています。なお「恩納集落」の草分け的な創始家である「ニーチュ/根人」と「ニーガン/根神」はこの「赤平家」から出ています。この2つの古代部落が山間部から降り、現在「兼久」という地名なっている砂堆地で合併した土地が「恩納集落」の「古島」と呼ばれています。(浜崎御嶽の祠)(浜崎御嶽の祠内部)(平場にある霊石)(恩納グスクのアコウ)「恩納グスク」の南側頂上には平場があり「浜崎御嶽」の祠が建立されています。この御嶽は1713年に琉球王府により編纂された地誌である『琉球国由来記』に『浜崎嶽 神名 ヨリアゲノイベナヌシ 恩納村』と記されており『毎年三・八月、四度御物参之有祈願。且、年浴之時、仙香・花米五合宛・神酒二宛百姓中供之。恩納巫ニテ祭祀也。』との記述があります。祠内部にはウコール(香炉)が設置されており霊石が祀られ、御賽銭が供えられていました。「恩納グスク」の頂上には岩丘があり、約20年前まで西側に接して高さ約80cmの石垣に囲まれた施設跡がありました。その背後には石門があり降って岩丘の裏側に通じた石畳道となっていたと伝わります。さらに、この岩丘裏の岩陰の土中から人骨片が発掘され、戦前まで周辺には大きな人骨甕が2つ隠されていたと言われています。(崎浜御嶽のイビの大岩)(崎浜御嶽のイビに祀られる霊石)(崎浜御嶽のイビ)(崎浜御嶽のイビを囲む野面積み)「浜崎御嶽」の祠が向いている方向の山中には「浜崎御嶽」のイビ(威部)である岩丘が聳えており、この御嶽が鎮座する「恩納グスク」は琉球石灰岩を基盤とする標高20〜25mの丘陵に形成されています。グスク時代に構築された「恩納グスク」の前面は西海岸に面しており、現在も城壁と平場が確認できます。城壁は主に野面積みで、城壁やその周辺からはグスク土器やカムイ焼、中国製の青磁や石器、さらに獣骨や貝殻などが発掘されています。グスクの城壁の石積み技法は「野面積み→布積み→相方積み」へと変化して行ったと考えられ、現在の「恩納村」で「相方積み」の城壁が確認されているのは「恩納グスク」のみで、グスク時代初期の歴史の古いグスクであると言えます。(恩納グスクの珊瑚岩)(隆起した珊瑚岩)(珊瑚岩の岩肌)(珊瑚岩の岩肌)「恩納グスク」の南東側に続く台地一帯に「城内之殿/グスクウチヌトゥン」があり、この土地には「赤平血統」の「マキョ」と呼ばれる古代部落が存在していました。『琉球国由来記』には『城内之殿 恩納村 稲穂祭之時、シロマシ一器・麦神酒二器百姓中、五水四合両惣地頭、供之。恩納巫ニテ祭祀也。』と記されています。ノロや根神である神女が集落の祭祀の際に歌う「ウムイ/オモイ」と呼ばれる神唄があります。恩納村で「ウムイ」が残っているのは「恩納集落」のみで「舟のウムイ・海のウムイ・山のウムイ・しらちなのウムイ」があります。その中の「海のウムイ」は次の通りとなっています。『海のおもい / 六月御祭 すくとい』"にれや うぇもの かれや うぇもの すぶくだら えーくだら うちみずる うちはだら いのなぎん ひしなぎん とさばにん やさばにん ちきてたぼり"
2023.01.27
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(吉の浦歌碑/吉の浦公園)沖縄本島中部にある「中城村/なかぐすくそん」の中央部に「当間/とうま集落」があり、この集落の東海岸線沿いに「吉の浦公園」があります。この公園には村民体育館、ごさまる陸上競技場、野球場、テニスコート、ゲートボール場、遊具等があり、村民を中心に利用される憩いの場となっています。この「吉の浦公園」の入り口に「吉の浦歌碑」が建立されており、歌碑には『とよむ中城 よしの浦のお月 みかげ照り渡て さびやないさめ』と刻まれています。この歌の意味は『有名な中城の よしの浦の月は 光美しく照り渡り さえぎるものもない』となっています。その昔「護佐丸・阿摩和利の乱」により混乱を極めた「中城村」の地ですが、今となれば天下は平和に治り何の災難もないという円満な世の中を歌っています。(吉の浦歌碑)(中城村のマンホール)「吉の浦歌碑」に記された歌は「国頭朝斉/くにがみちょうさい(1686-1747年)」により詠まれ「国頭親方」とも呼ばれた歌人であり唐名は「向秉乾」といいました。1718年に進貢正使として中国に渡り、さらに1925年には年頭慶賀使として薩摩に上国したと伝わります。「国頭朝斉」は「沖縄三十六歌仙/おきなわさんじゅうろっかせん」という琉球王国時代における代表的な歌人36名のうちの1人でした。琉球王国末期の著名な政治家であり歌人の「宜湾朝保/ぎわんちゅうほ」が1870年に編纂した沖縄初の和歌集『沖縄集』に「沖縄三十六歌仙」の歌が掲載されています。ちなみに首里出身の「宜湾朝保」は13歳で家を継ぎ宜野湾間切(現宜野湾市)を領して「宜野湾親方朝保」と呼ばれた琉球の「五偉人」の1人として知られています。現在、この歌は中城村のマンホールの蓋に採用されており、多くの人々に愛され親しまれています。(仲松門中/屋号大仲松の屋敷)(ウマアシグムイ跡)(中城村立吉の浦保育所のシーサー)廃藩置県後「当間集落」の海沿いにある小字「浜原/はまばる」に「仲松姓/洪氏」の人達が「屋取/ヤードゥイ」を形成し「高江洲屋取/タケーシヤードゥイ」または「当間の下/トーマヌシチャ」と称されていました。この土地を開拓した「仲松/ナカマチ門中」は首里士族の子孫で1879年以後に西原村仲伊保に移り住み、そこから「当間集落」の西側に移住したと言われています。その中でも最初に移り住んだのが最も海岸に近い屋号「大仲松」でした。「高江洲屋取」の住民は移住してきた当初は「当間集落」の豪農の家に住み込みで働き、お金を貯めて徐々に土地を増やしていったと言われています。系統の家に屋号「大仲松/ウフナカマチ・御殿地/ウドゥンジ・井ヌ下/カーヌシチャ・上仲松/イーナカマチ・前砂原/メーシナバル・後砂原/クシシナバル」などがあります。かつて屋号「大仲松」の屋敷の東側には「仲松門中」が所有していたサーターヤー(製糖小屋)で働く馬を洗う「ウマアシグムイ」がありました。(屋号井ヌ下/沖縄そば専門店まるち中城店)(屋号井ヌ下の古井戸跡)(沖縄そば専門店まるち中城店/旧ちゅるげーそば)屋号「大仲松」の東側で「ウマアミシグムイ」の北側に「仲松門中」系統である屋号「井ヌ下」の屋敷があり、現在は「沖縄そば専門店まるち中城店」として営業しています。この沖縄そば店は築約80年の古民家を利用した地域でも非常に有名な沖縄そば店で、以前は「ちゅるげーそば」の店名で長年多くの地元住民から観光客にも愛されていました。この屋号「井ヌ下」の屋敷には古井戸跡がありウコール(香炉)が設置され水の神様を祀っています。現在、井戸の水は枯れていますが、かつては「高江洲屋取」の貴重な水源の一つとして重宝されていたと考えられます。また「高江洲屋取」には「カーラーヤー/瓦葺の家」が14軒あったと伝わります。当時「カーラーヤー」は金持ちの象徴で「当間集落」に移住した屋取の人々は当初財産がなかったため『人が2歩歩いたら自分は10歩歩く』と言って、一生懸命に財産を増やしたと伝わります。(スガチミチ/村道潮垣線/ンマイー)(龍宮神)(龍宮神の祠)(サチハマヌカー/崎浜ヌ井戸)屋号「井ヌ下」沿いには「スガチミチ/村道潮垣線」が南北に通っています。この道はかつて馬の走り方の美しさを競う「琉球競馬」が行われていた事から「ンマイー」とも呼ばれていました。この道沿いで屋取の「サーターヤー」が昔あった場所に「龍宮神」が祀られる祠が東の海に向けられ建立されています。この場所は海から約200m離れた内陸にありますが、大潮や台風の際には「スガチミチ」まで塩水が流れ込む自然被害が頻繁にありました。この「龍宮神」は海の安全を祈るためにこの位置に祀られたと考えられ、戦前から屋取の人々のみならず「当間集落」の住民に拝されていました。「龍宮神」の祠から北西側に約200mの場所には「サチハマヌカー/崎浜ヌ井戸」があります。戦前、この周辺は石山になっており、井戸は生活用水の為ではなく昔から拝所として拝まれていたと伝わります。(旧県道/村道吉の浦線)(屋号西前ン田小/旧雑貨屋)(屋号仲前ン田小/旧雑貨屋)「当間集落」の中心部を南北に通る「旧県道」に戦前まで馬車駆動が通っており、現在「村道吉の浦線」として人々の暮らしに欠かせない道路となっています。この道沿いにある屋号「西前ン田小」と、現在「中城観光協会」の西側にある屋号「仲前ン田小」は集落で2件あった「マチヤー/雑貨屋」でした。屋号「西前ン田」の雑貨屋では母屋の別棟で米や日曜日を販売していました。さらに屋号「仲前ン田小」の雑貨屋は母屋の軒下にトタン屋根を伸ばして営んでいました。この雑貨屋では酒や塩などの専売品や食用油、砂糖、米、灯油などタバコ以外の日用品は何でも売っていたそうです。この雑貨屋の家主は荷馬車を所有する「馬車ムチャー」であったため、那覇に砂糖樽を卸した帰りに様々な商品を仕入れていたと言われています。(ウマヌチミクマサー/蹄鉄師の作業場跡)(タバコヤー/ダンパチヤー/ソバヤー跡)(タムトゥガー)「旧県道/馬車駆動」沿いで「中城観光協会」の北側に、かつて「ウマヌチミクマサー/蹄鉄師」と呼ばれる馬車馬や農耕馬の蹄鉄を装蹄する職人の作業場がありました。「当間集落」の「トーママーチュー」は馬車駆動の中継地点であった事から、この場所で開業していたと考えられます。更に「中城観光協会」の土地には戦前まで「タバコヤー/たばこ屋・ダンパチヤー/床屋・ソバヤー/そば屋」が軒を連ねていました。首里出身の人が床屋を営み「ダンパチヤーのターリー(父さん)」と呼ばれていたそうです。その後、長男に床屋を任せて「ターリー」は隣でタバコを販売していました。「ダンパチヤー」の北側に隣接して「ソバヤー」があり「山城」という名前の女性が沖縄そば屋を営んでいました。この「ソバヤー」は製糖作業で働く若者達で繁盛していたと伝わります。この「ソバヤー」の北東側には「タムトゥガー」と呼ばれる井戸があり、戦前は海石のカブイ(蓋)が付けられていました。昔は井戸の水量も豊富で良質な水であった事から豆腐作りに重宝されていたと言われています。
2023.01.20
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(トーママーチューの殿/ノロー殿)沖縄本島中部の西海岸沿いに「中城村/なかぐすくそん」があり、この村の中央部に「当間/とうま集落」があります。現在の「当間公民館」の敷地から国道329号線を含む西側一帯はかつて松の大木が生い茂る松林が広がり「トーママーチュー/当間松」と呼ばれていました。そこは沖縄の真夏の暑い太陽が照りつけても木陰になるため、集落の住民が涼みに集まる社交場として親しまれていました。お年寄りが孫を連れて遊ばせたり、昼寝をするといった平和な光景があったと言われています。また「トーママーチュー」の東側を通る旧県道には「西原製糖工場」に収穫したサトウキビを運搬するため「泡瀬」から「与那原」までの区間を南北に馬車駆動が敷設されていました。(トーママーチューの殿/向かって左側)(向かって左側の祠内部/火の神/氏神)(トーママーチューの殿/向かって右側)(向かって右側の祠内部/殿神)現在、かつて「トーママーチュー」と呼ばれた場所には「殿/トゥン」の祠が2つあり「ノロー殿/ノロードゥン」と呼ばれています。向かって左側の祠には「火の神/氏神」が祀られ、向かって右側には「殿神」が祀られています。戦前は「当間公民館」のゲートボール広場の南側に祠が建立されていましたが、戦後の国道建設に伴い現在の場所に移設されました。集落の「グングヮチウマチー/5月稲穂祭」と「ルクグヮチウマチー/6月稲大祭」の際には「当間集落」を管轄する「屋宜ノロ」により祭祀が執り行われました。「当間集落」は「泡瀬」と「与那原」の中間地点にあり「トーママーチュー」は馬とトロッコムチャー(サトウキビの運搬業者)が交代する交換所となっていました。そのため乗客の休憩場や馬に餌を与える場所として村内外の人々に広く知られていたと伝わります。(トーママーチュー)(旧県道/馬車駆動跡)(ミジャレーヌサンカク)(ミジャレー橋跡)「トーママーチュー」の西側にはかつて馬車駆動として使われていた「旧県道」が南北に通っており、この道は現在「県道吉の裏線」と呼ばれています。「旧県道」の南側の屋号「新仲門/ミーナカジョー」の屋敷の隣に「ミジャレーヌサンカク」と呼ばれる場所があり、戦前まで三角形の畑地となっていました。ちなみに「新仲門」の「仲門門中」は「義本王」3代目が元祖と伝えられており、本家は北中城村「字喜舎場」の屋号「上ヌ安里/イーヌアサト」と言われています。「ミジャレーヌサンカク」の土地は収穫したサトウキビの集積所として利用され、この地点から「旧県道」に敷設されたトロッコにサトウキビを積み込み馬に引かせて「西原製糖工場」へと運んでいました。この「ミジャレーヌサンカク」から更に南側には戦前まで「ミジャレー橋」という橋が架かっていました。(ビジュルグムイ)(サーターヤーヌメー/ウマアミシグムイ跡)(サーターヤーヌメーのカーラ)「ミジャレー橋跡」の東側に「ビジュルグムイ」という湧き水の溜池があり「ヘンザガー」とも称されていました。周辺は草に覆われていますが現在も水が湧き出ています。「ミジャレーヌサンカク」の北西側に「サーターヤーヌメー」と呼ばれる場所があり、隣接して「当間集落」の各組(集落における住民編成)が営む「サーターヤー/製糖小屋」が3箇所並んでいました。「上組/イーグミ」は屋号「前喜友名・亀前喜友名小」などが営み「中組/ナカグミ」は屋号「前喜屋武・上喜屋武・東喜屋武・新仲」などが運営し「下組/シチャグミ」の家が所有していました。かつて「サーターヤーヌメー」の側には「ウマアミシグムイ」という溜池があり「カーラ/川」に隣接している事から水量も多く「サーターヤー」で使った馬の体を洗う時に利用されていました。クムイ(溜池)の入り口から徐々に深くなり馬を洗う地点まで石が敷き詰められていました。製糖で使った馬は作業が夜遅くまで続いても必ず綺麗に洗ってから馬小屋に戻しました。もし馬を汚れたまま戻すと、馬の疲れが取れずに翌日に働く事が出来なかったと伝わります。(ガンヤー/龕屋跡)(ターチムイ)「サーターヤーヌメー」の北西側にかつて木造瓦葺きの「ガンヤー/龕屋」があった場所があります。火葬が一般化する以前は遺体を納めた棺桶を墓まで運ぶ「ガン/龕」と呼ばれる漆塗りの輿があり、それを収納しておく小屋は「ガンヤー」と言われていました。「ガン」を担ぐ人は体力がある青年が選ばれ「ガンカタミヤー」と呼ばれました。遺体を乗せた「ガン」を担いでいる時は、重さでどんなに肩が痛くても肩を左右に入れ替えてはいけなかった慣習がありました。もし途中で肩を入れ替えると、後ろで「ガン」を担ぐ人が早死にすると信じられていました。この「ガンヤー」の北側には2つの山の間に「ンナトゥガーラ」と称する道が通っており、この一帯は「ターチムイ/2つ森」と名付けられていました。なお、集落の住民の多くはこの森に薪を拾いに行っていました。(タントゥイモー)(上ヌ池ニー/イーヌイチニー)(上ヌ池/イーヌイチ跡)「当間集落」の西側で現在の「中城メモリアルパーク」の上方に「タントゥイモー」と呼ばれる丘陵があり、集落の祭祀に使用する神酒を造る為の稲を育てる「ナーシル/苗代」として利用され、旧暦の11月に稲ね発育を祈願する「タントゥイ/種子取」の行事が行われていました。また「タントゥイモー」周辺一帯は屋根ね葺き替えに使われる茅が生い茂る「カヤモー/茅毛」となっていました。「タントゥイモー」の東側には「上ヌ池ニー/イーヌイチニー」という、かつて松の木が生えていた場所があり「上ヌ池/イーヌイチ」という名前のクムイ(溜池)がありました。「タントゥイ」の行事の際には住民が松明を持って「タントゥイモー」から降りてきて「上ヌ池ニー」の広場を3回周って下方の「サーターヤー」近くの「ウマアシグムイ」まで下って行ったと言われています。(クボーウタキ/クボー御嶽)(クボーウタキ/クボー御嶽のウコール)(クボーウタキ/クボー御嶽の石碑)「当間集落」の南西側にある「小字久保原/クボーバル」と、隣接する「安里集落」の「字安里」の境界付近にある森の中に「クボーウタキ/クボー御嶽」があります。「シチャクボー/下クボー」や「安里クボー」とも呼ばれるこの御嶽は、1713年に琉球王府により編纂された『琉球国由来記』に『コバウノ嶽 神名 コバウ森御イベ 安里村』と記されており「安里集落」の拝所として書き述べられています。「クボーウタキ」のイビ(威部)にはウコール(香炉)が北向きに設置され、古いビジュル石(霊石)が建立され祀られています。御嶽の周辺にはマーニ(クロツグ)やクバ(ビロウ)が生い茂っており「安里集落」では稲の豊作祈願と収穫を祝う「グングヮチウマチー/5月ウマチー」と「ルクグヮチウマチー」の際に拝しています。
2023.01.14
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(山田ヌ殿/ヤマダヌトゥン)「当間集落」は沖縄本島中南部の西海岸に広がる「中城村/なかぐすくそん」の中央部にあります。「当間集落」の南北に通る国道331号線の西側に集落発祥の丘陵があり、国道の東側に広がった「屋取集落」の平地は中城湾まで続いています。「中城村役場」「中城観光協会」「吉の浦公園/ごさまる陸上競技場」など中城村の主要施設は「当間」に属しています。この集落は「久保原/グローバル・平原/ヒラバル・犬川原/イヌガーバル・佐久川原/サクガーバル・前原/メーバル・比嘉田原/ヒジャタバル・浜原/ハマバル」の7つの小字から成り立っており、琉球王国時代の「当間村」には現在の「北上原」の一部の「榕原/ガジバル・若南原/ワカナンバル」を含めた広い面積がありました。(山田ヌ殿/向かって右側)(山田ヌ殿/向かって左側)(山田ヌ殿/移設された拝所)「当間集落」の北西側に「山田ヌ殿/ヤマダヌトゥン」があります。屋号「山田」の北側に位置しており「山田門中」は集落の創始家とされ、ムラで行われる祭祀の中心的な役割を担ってきました。年中行事であるチナヒチ(綱引き)の際、先祖供養の為に列になり練り歩き「山田ヌ殿」に向います。集落の北側(イーグミ/上組)と南側(シチャグミ/下組)がお互いの隊列や踊りを乱す「ガーエー」と呼ばれる勝負をした後、めでたい先例である「カリー/嘉例」をつけて祈願しました。戦前は旧暦7月16日に行われる「ワラバーヂナ/子供綱引き」と翌日17日の「ニーセージナ/青年綱引き」があり、さらに7年毎(マール)に「ウフヂナ/大綱引き」が行われ「マールヂナ」とも呼ばれています。綱引きは集落の安泰と豊作を祈願する大切な行事で、どんな悪天候でも必ず行われたと伝わります。「山田ヌ殿」に向かって左側に隣接する祠は、かつて西側の畑の中にあったものが移設されたと言われています。(山田ヌ井戸/ヤマダヌカー)(山田ヌ井戸の湧き水)「山田ヌ殿」の北側に「山田ヌ井戸/ヤマダヌカー」があり「カブイ」と呼ばれる石積みの屋根が施されています。この井戸は現在も水が湧き出ており、旧暦1月2日に行われる「ハチウビー/御初水」は水に感謝する日とされ「山田ヌ井戸」は拝されています。この井戸がある屋号「山田」の家は「根人/ニーチュ/ニーンチュ」と呼ばれる集落創始の家系「根屋/ニーヤー」の当主で、かつては「当間集落」の祭祀を管轄した「屋宜ノロ」と共に祭事を司りノロの補佐役として重要な役割を担っていました。因みに「屋宜ノロ」は「当間・奥間・安里・屋宜」の4つのシマを管轄していました。「山田門中」は綱引きの際に使われる灯籠や旗頭などの保管場所となっていました。「イーグミ/北組」の旗頭には「和気」「協力一致」と記され「シチャグミ/南組」の旗頭は「清風」「南北豊年」となっています。(ヒージャーガー)(かつて松の木があった休憩場所)(ヒージャーのクムイ/溜池)(仲前ン田小のサーターヤー跡)「山田ヌ殿」の北側に「ヒージャーガー」と呼ばれる井戸跡があり、かつては正月に汲まれる若水として利用されていました。水源の北側丘陵の土砂崩れが起こる以前は水量が豊富で2mほどの水深があり子供達が水浴びをしたと伝わります。戦後に「ヒージャーガー」の水を利用する為に「山田ヌ殿」の敷地にタンクが設置され、集落の3箇所にパイプを通し簡易水道として利用されていました。現在この井戸跡の近くに鉄塔が建てられていますが、昔は大きな松の木があり地元の人達が休憩する場所として利用されていたそうです。「ヒージャーガー」の西側に「ヒージャー」のクムイ(溜池)があり、こちらも戦前は若水を汲んでいたと言われています。このクムイに隣接して屋号「仲前ン田小」が所有していた「サーターヤー/製糖小屋」があり、戦後は牛舎として利用されていました。(仲門前ヌ殿/メーヌトゥン)(仲門前ヌ殿/メーヌトゥンに向かって右側)(仲門前ヌ殿/メーヌトゥンに向かって左側)(仲門ヌ前/ナカジョーヌメー)「当間集落」の中央部に「仲門前ヌ殿/ナカジョーメーヌトゥン」があり、旧暦2月1日の悪疫祓いの行事である「ニングヮチャー」の際に拝されています。地元住民からは「ニングヮチャーヌトゥン」または、屋号「仲門/ナカジョー」の向かいに位置しているため「前ヌ殿/メーヌトゥン」と呼ばれていました。「仲門前ヌ殿」の敷地と隣接した道を含めた一帯は「仲門ヌ前/ナカジョーヌメー」と称され「ニングヮチャー」の行事では牛を潰し牛汁を炊き「仲門前ヌ殿」に供えました。また「仲門ヌ前」には集落の住民が集まり皆でそれを食しました。更に潰した牛の生血を「ギキチャー」と言うミカン科の木である「月橘/ゲッキツ」の枝葉に付けて持ち帰り、屋敷の四隅に魔除けとして挿したと伝わります。また集落の四隅にも同様に生血を付けた月橘の枝葉が設置されたと言われています。(仲門前ヌ殿のクムイ/溜池跡)(ムラガー/ウブガー)(屋号伊佐の井戸)「仲門前ヌ殿」の西側に隣接した場所にはかつてクムイ(溜池)があり防火用の水を溜めていました。昔の集落は茅葺きの家がほとんどで、火事が度々起きていたと言われています。この溜池から道を挟んだ場所に屋号「西仲門/イリナカジョー」の屋敷があり、敷地内には集落の共同井戸である「ムラガー」があります。昔から水が豊富に湧き出る井戸で、集落で子供が産まれた時に使用する「産水」を汲んでいた事から「産井戸/ウブガー」とも呼ばれていました。また、この井戸の北側にある屋号「久手堅」の脇に小高い丘があり豊富な水が湧き出ていました。その下方にある屋号「伊佐」には溢れ出た湧き水が堰き止められ、水が溜まる井戸が設置されていました。現在は堰き止めた石積みの前にコンクリート製の枠が設置されています。(ヌール道)(屋号眞境名小の井戸)(ノロの休憩場所)「仲門前ヌ殿」の南西側に「ヌール道」と呼ばれる道があり「グングヮチウマチー/5月稲穂祭・ルクグヮチウマチー/6月稲大祭」の時に「当間集落」で祭祀を終えた「屋宜ノロ」が「安里集落」に向かう際に通った道と言われています。屋号「眞境名小」の屋敷手前に大きなガジュマルの木があり、ノロはその木陰で休憩を取った後に現在国道331号線を通り「安里集落」に向かったと伝わります。古老の話によるとウマチーの祭祀の際に「ウンサダイ」と呼ばれるノロのお供は「屋宜ノロ」を乗せる駕籠を用意して担いでいましたが、ノロはそれには乗らず祭祀の際に着用する白装束だけ駕籠に置いて皆と共に歩いたとの伝承があります。その為「当間・奥間・安里・屋宜」の4つのシマを管轄した「屋宜ノロ」が全てのウマチー祭祀を終えるのは夜遅くだったと言われています。
2023.01.07
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(カニさんトンネル)沖縄本島北部の「ヤンバル/山原」の森に「大宜味村/おおぎみそん」があります。この自然豊かな村の最北端で西海岸線沿いに「カニさんトンネル」と呼ばれる隧道が通っています。「田嘉里川」河口の西側約200mの位置で「謝名城集落」の北側を通る国道58号線の地下にトンネルがあり、その名称の通りカニやヤドカリ等の甲殻類の為に造られたトンネルとなっています。「カニさんトンネル」の周辺は沖縄本島西海岸では珍しいマングローブ林があり、この場所には泥が溜まり穴を掘り易く涼しく、さらに餌も摂りやすいため「オカガニ」にとって良い住処となっています。それと同時に海岸へ渡る甲殻類の交通事故が多発する場所でもあります。甲殻類のロードキルを減少させる目的として1996年に「カニさんトンネル」が完成しました。(カニさんトンネルの陸側にある墓地)(カニさんトンネルの入り口)(カニさんトンネルの内部)「カニさんトンネル」の陸側には墓地の丘陵となっており「オカガニ」や「オカヤドカリ」が多数生息しています。トンネル内部を覗くと海岸に続いており甲殻類が上手くトンネルの入り口を見つけられるように誘導の為のコンクリート壁が設置されています。さらに通常は海岸に生えている木々を植えたり砂浜を敷き詰めて甲殻類がトンネルに入り易くする為の工夫がされています。「オカガニ」類は陸棲のカニで沖縄本島では「オカガニ・オオオカガニ・ヘリトリオカガニ・ムラサキオカガニ」の4種が生息しています。「オカガニ」は陸棲でありながら幼生期を海で過ごすため、繁殖期になるとメスのカニが放卵のために海岸に降りる習性があります。5〜12月の満月前後の夜に満潮時刻になると一斉に身体を震わせて放卵を開始します。(カニさんトンネルの海岸側)(海岸側から見たトンネル内部)(海岸側の波消しブロック)「オオヤドカリ」は亜熱帯の気温に適した生き物です。気温が15度を下回ると活動が鈍り仮死状態に陥り、この状態が長く続くと「オオヤドカリ」は生存できません。アダンやグンバイヒルガオ等の海浜植物の群落付近に生息し、昼間は石や岩の下に隠れています。一般的なヤドカリは海生で水上にあまり出ないのに対して「オオヤドカリ」は陸上で生活をする為、脚やハサミが太く頑丈である特徴があります。また陸上での生活に適応するために貝殻の内部に少量の水を蓄え、柔らかい腹部を乾燥から守り陸上でのエラ呼吸も可能となっています。「カニさんトンネル」の海岸側は波消しブロックに隣接しており、放卵する満潮時刻には海水が目の前に達ています。さらに、防波堤には「カニ渡りネット」が設けられトンネルを利用しない甲殻類も防波堤を上手く越える事が出来ます。(カニさんトンネルの案内板)(カニさんトンネル)沖縄の方言で「カンダクェーガニ」と言う「オカガニ」や、方言で「アーマン」と呼ばれ国の天然記念物に指定されている「オオヤドカリ」の他にも「カニさんトンネル」周辺には「ベンケイガニ」や「カクレイワガニ」も生息しています。周辺の防波堤には甲殻類が爪を引っ掛けて登る為の切り込みが刻まれ、垂直に立つ縁石に斜めの切り込みが入れられています。さらに甲殻類が道路に出ないように高さ50cmの「エコパネル」が設置され、横断水路の入り口斜面を穏やかにしたり上り易くする為の工夫が施されています。その結果「カニさんトンネル」設置後、甲殻類のロードキルの件数は減少しています。『内閣府 沖縄総合事務局 北部国道事務所』は甲殻類のロードキル撲滅に向けてドライバーに走行注意や減速運転を呼びかけています。
2023.01.01
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