全6件 (6件中 1-6件目)
1
(鬼大城/大城賢雄の祖先の墓)沖縄本島北中城村にある「大城(おおぐすく)集落」は「歴史のさんぽ道」で知られ、周囲の自然環境と共存する沖縄の伝統的な集落形態を留めています。「大城集落」には民俗学的に価値のある拝所やカー(井泉)などの文化財が数多く残されており、旧暦7月17日には村のシンボルで守り神でもある旗頭が集落内を練り歩く「旗すがし」が行われます。また、隣接する「荻堂集落」と「大城集落」の成り立ちと関連する「兄弟棒」などの伝統行事が現在も行われ、有形無形の文化財と共に歴史的形態を多く残しています。(アガリガー/東井泉)「大城集落」の東側に「アガリガー(東井泉)」と呼ばれる井泉があり、集落の村ガー(共同井泉)の一つです。築造された年代は不明ですが、昔から「アガリガー」は主に集落東部の住民が洗濯、野菜洗い、水浴び等の生活用水として利用されました。戦前は旧正月2日(現在は1月3日)に集落の有志が水の恵みに感謝してハチウビー(初御水)の祈願をしています。現在も水源が豊富な「アガリガー」には石造りのウコール(香炉)が祀られ、一年を通じて住民が訪れて祈りを捧げています。(メーチュンナー/前喜友名)(ウカンジャーモーの拝所)(拝所の祠内部)「アガリガー」の西側で「大城集落」に通る県道146号線の北側には「大城遺跡」があります。この遺跡の「メーチュンナー(前喜友名)」と呼ばれる場所には森の丘があり、その頂上には「ウカンジャーモー」という平場が広がっています。この広場にはコンクリート製の「ウカンジャーモーの拝所」が南向きに建立されています。拝所の祠内部には霊石が祀られており、ヒラウコー(沖縄線香)が供えられています。祠内部の正面奥側には琉球石灰岩の大小様々な古い岩が積み重なり、その前方にはコンクリート製ブロックが幾つも積まれています。(アガリヌカー)「ウカンジャーモーの拝所」の南西側に「アガリヌカー」と呼ばれる井泉があります。このカー(井泉)は「大城集落」の大半の住民が飲料水として戦後に上水道が整備されるまで利用してきました。戦前は旧正月元日の早朝に子供達が井泉の水をワカミジ(若水)として汲み、ヒヌカン(火の神)や仏壇に供えて新しい年の家運隆昌と家族の健康を祈願しました。大正14年(1925)に井泉の上にコンクリートでゴミ除けの屋根が取り付けられ、1959年と2001年にそれぞれ改築されました。また、井泉には魔除けである2体のシーサーが設置され、井泉の水を悪霊から守っています。(ヌンドゥルチ/ノロ殿内)(ヌンドゥルチ内部)「アガリヌカー」の北側に「ヌンドゥルチ(ノロ殿内)」が東側に向けて建てられており、建物内部にはヒヌカン(火の神)、霊石、ウコール(香炉)が祀られています。この「ヌンドゥルチ」はかつて「大城集落」の祭祀を司った「大城ノロ」の屋敷があった場所に建てられた拝所です。ノロ(祝女)は琉球王府により正式に任命された神女であり、1つの集落から複数集落の祭祀組織を統率しました。各集落でノロの家柄は決まっており、ノロの住む住居はノロ殿内と呼ばれ、守護神としてヒヌカン(火の神)を祀っていました。(チュンナーニードゥクル/喜友名根所)(チュンナー根所の内部)「ヌンドゥルチ」の北側で「大城遺跡」の最北端に「チュンナーニードゥクル/喜友名根所」があります。「大城集落」の発祥に関わる根所で「宜野湾間切喜友名村」から移住して「大城集落」の始祖となった人物が住んでいた屋敷がありました。集落の祭事巡拝では「ヌンドゥルチ」のヒヌカン(火の神)の次に「チュンナー根所」を拝します。「チュンナー根所」は丘陵の南側斜面に位置するため、根所の敷地内は三段の段差を形成しています。戦前は敷地の中央にカヤブキヤー(茅葺屋)の母屋があり、その右手には瓦葺き造りの神アシャギ、更に左手側には家畜小屋が建っていたと伝わります。(チブガー/チブ井泉)(チブガー庭苑のシーサー)「チュンナー根所」の西側で県道146号線沿いに「チブガー(チブ井泉)」があり「大城集落」で最も古い村ガー(共同井泉)だと伝わります。「チブガー」は「大城集落」のウブガー(産井泉)で新生児のウブミジ(産井泉)として利用され、更に集落で死者が出た場合に身体を清める水も「チブガー」から汲んでいました。水量が多く住民の洗濯、野菜洗い、水浴びなどの生活用水に利用された貴重な井泉でした。また、多くの人達が「チブガー」に集まり出会いの場として大きな役割を果たしていました。「チブガー」に隣接する「チブガー庭苑」にはユニークなシーサーや東屋もあり、現在も住民の憩いの場として重宝されています。(イリヌカー/西井泉)「大城集落」の西側で県道146号線沿いに「イリヌカー(西井泉)」があります。このカー(井泉)は「大城集落」の主に西側の住民が飲料水として利用されていました。大正11年(1922)に井泉の上にゴミ除けのコンクリート製屋根が設置されました。「イリヌカー」は水量が豊富であったため昭和10年(1935)頃に、この井泉を水源とした簡易水道が整備されました。「イリヌカー」の水は上の山へ続く琉球石灰岩の中に掘られた水路を通り石樋から流れ出します。言い伝えによると、19世紀後半に「大城」の屋号吉里の「ハブウスメー(ハブ爺さん)」と呼ばれた「新垣吉羊」さんが若い頃に勇敢に水路を掘ったと言われています。(ウフグシク/大城グスクの入口)(大城御嶽)(ウフグシク/大城グスクの拝所)「大城集落」の北側にある「上の杜」の琉球石灰岩丘陵の中央部に「ウフグシク(大城)グスク」があります。標高は150〜160mで最高部は北中城村で1番高い場所となります。グスクの頂上には「大城御嶽」があり数体の神が宿る琉球石灰岩が祀られ、ヒラウコー(沖縄線香)が供えられています。「北中城村史(1971年)」には「ウフグシクグスク」は「英祖王」の第三子である「中城王子」が居住したグスクであると伝わります。ちなみに「英祖王」は沖縄本島で最初に王朝を築いた"神の子"の王統とされる「天孫氏」の最後の王です。同じ北中城村には「英祖王」に王位を譲った「舜天王統」の第3代国王であった「義本王」の墓があります。(ウフグシク/大城グスクの石積み)(鬼大城/大城賢雄の祖先の石棺)(鬼大城/大城賢雄の祖先の石棺)「ウフグシク(大城)グスク」には戦前には沢山の石積みが残されていましたが、戦時中には旧日本軍機関銃座の造築にグスクの石積みが使われました。現在、石積みはグスクの北側に僅かに残されています。この石積みの向かい側には琉球石灰岩の2つの洞穴があり、それぞれに「鬼大城(大城賢雄)」の祖先の石棺が納められています。石棺にはヒラウコー(沖縄線香)が供えられています。ちなみに「鬼大城(ウニウフグシク)」は大城賢雄(後の越来賢雄)という15世紀の琉球武将です。石棺にはそれぞれジュウニフン(12本)のヒジュルウコー(火を付けない線香)がお供えされている事から「鬼大城/大城賢雄の祖先」の子孫が先祖供養として拝したと考えられます。(ミーグスクの入口)(ミーグスクの御嶽)(ミーグスクの火の神)「大城集落」の北側で「ウフグシク(大城)グスク」東側に隣接する丘陵に「ミーグスク」があります。「ミーグスク」の入口は琉球石灰岩の大岩が城門のように構えており、通路を進むと行き止まりの崖上に「ミーグスクの御嶽」があります。この御嶽には「ミーグスクの火の神」が祀られており「ニービヌフニ(ニービ石)」製の霊石が設置されています。琉球石灰岩の大岩に空洞穴があるように見えますが、上部の大岩が下部の岩の上に乗っている状態にあります。神の業として信仰の対象となったと推測され、かつて旧暦9月に集落行事として御嶽から「今帰仁」を遥拝していたと伝わります。「ミーグスク」は「大城集落」のルーツが「北山」の「今帰仁」にあると考えられる興味深いグスクとなっているのです。
2022.01.27
コメント(0)
(辺土名寿男 作)沖縄県北中城村安谷屋(あだにや)に「第一安谷屋交差点のシーサー群」があります。「第一安谷屋交差点」は「北中城インターチェンジ」入口に程近いため「北中城インター入口交差点」や「安谷屋西交差点」とも呼ばれています。県道81号(宜野湾北中城線)と県道29号(那覇北中城線)の交差点で、交通量が多い主要な道路で知られています。この交差点に「シーサーで景観を作る会」が主導して、北中城村を中心に活躍するプロとアマ15人の陶芸家による15体のシーサーが設置されています。シーサーは魔除けの役割があり、多くの車が行き交う「第一安谷屋交差点」で交通安全を祈願しています。(穴倉広美 作)(新垣正良 作)「第一安谷屋交差点」がある「安谷屋集落」では「ウマチー」と呼ばれる稲(旧暦2月)と麦(旧暦5月/6月)の収穫を祝う農耕に関わるお祭りが行われています。「ウマチー」は琉球王国時代の公的な祭祀で、明治時代以降は其々の月の15日に行われるようになりました。「安谷屋ウマチー」は「仲の神屋」「根所火の神」「安谷屋グスクの七殿」「イーヌ御嶽」「ウトゥーシ」「シムヌ御嶽」「邊土大主之墓」「熱田神屋」「瑞慶覧ヌンドゥンチ」「安谷屋ヌンドゥンチ」を巡り、神への感謝と集落の住民の健康を祈願します。ちなみに「仲(ナーカ)」は「安谷屋」発祥に関わる草分けの家筋だと伝わります。(青柳晃 作)(山下由美子 作)「安谷屋集落」では旧暦6月25日に「カシチー」という新米の収穫を祝う祭りが行われます。集落の各家庭では収穫した糯米(もちごめ)を蒸して作った「カシチー」と呼ばれる強飯(おこわ)を神棚、仏壇、ヒヌカン(火の神)などに供えて、豊作と家族の健康を祈ります。「安谷屋カシチー」は「仲の神屋」「根所火の神」「イーヌ御嶽」「ウトゥーシ」「シムヌ御嶽」「ティラグヮー山」「久米島遥拝」「邊土大主之墓」「中城若松の墓(仲家のみ)」「熱田の神屋」「瑞慶覧ヌンドゥンチ」「安谷屋ヌンドゥンチ」を巡拝し豊年と住民の健康を祈り、夕方には「仲の庭」や「クシミチ(後道)」で綱引きが執り行われます。(比嘉泥佛 作)(外間裕 作)旧暦7月17日頃「安谷屋」では邪霊を鎮め集落の住民を守る「ウシデーク」という祭祀が執り行われています。「ウシデーク」とは沖縄諸島の伝統的な民族芸能で、集落の婦女子による集団舞踊の事です。しかし「安谷屋」では「ウシデーク」を踊った伝承が無く、なぜ「ウシデーク」という名称が付けられたかは謎に包まれています。「ウシデーク」では「仲の神屋」「根所火の神」「熱田の神屋」「瑞慶覧ヌンドゥンチ」「安谷屋ヌンドゥンチ」「アシビナー」の6箇所が巡拝されます。「ウシデーク」の供物として「ビンシー」と呼ばれる御願用具を持ち運べる木箱、ヒラウコー(沖縄線香)、泡盛が用意されます。(伊達政仁 作)(安里幸男 作)旧暦8月15日の中秋の名月では「十五夜拝み」「御月御祭(ウチチウマチー)」「御月御願(ウチチウガン)」として、小豆を表面にまぶした「フチャギ」と呼ばれる餅を神棚、仏壇、ヒヌカン(火の神)に供えます。この日、集落では綱引きや獅子舞、演舞や芝居などが演じられます。かつては「安谷屋」でも闘牛が行われたと伝わっています。「安谷屋十五夜」では「イームイ」と「アシビナー」で住民の健康と安全を祈願する祭祀が執り行われています。「十五夜」の御願ではヒラウコー(沖縄線香)とシルカビ(白紙)が用意され、屋外や井戸では線香に火を着けずにシルカビの上に置いて拝みます。(新垣考昭 作)(糸村昌祐 作)ムラガー(共同井戸)や祖先に縁のあるカー(井泉)を拝み、水に対する感謝や集落の繁栄、更に住民の健康を祈願するウビナディ(御水撫で)やウビー(御水)という祭祀が行われています。「安谷屋」では旧暦8月吉日に執り行われ「8月ウビー」と呼ばれており「仲の神屋」「根所火の神」「クサイヌカー」「クガニジガー」「イーヌカー」「イーヌ御嶽」「ウトゥーシ」「シムヌ御嶽」「タカヒージャー」「クルマガー」「ミートゥガー」「後原ヒージャーガー」「チブガー」「中城若松の墓」「邊土大主之墓」「ユージヌカー」「熱田の神屋」「瑞慶覧ヌンドゥンチ」「ウフカー」「安谷屋ヌンドゥンチ」の20箇所を巡拝します。(山内米一 作)(国吉安子 作)沖縄では旧暦12月に一年間に願い事をした神様に感謝して願を解くウグヮンブトゥチ(御願解き)、又はフトゥチウグヮン(解き御願)と呼ばれる祭祀が行われています。「安谷屋」では旧暦12月23日に「安谷屋フトゥチウグヮン」があり「仲の神屋」「根所火の神」「イーヌカー」「イーヌ御嶽」「ウトゥーシ」「シムヌ御嶽」「邊土大主之墓」「熱田の神屋」「瑞慶覧ヌンドゥンチ」「安谷屋ヌンドゥンチ」の10箇所を巡り、年始に祈願した事を解く拝みを行います。また「安谷屋」では新年を迎えると「8月ウビー」で拝む20箇所の拝所を巡る「正月ウビー」の御願が行われています。(佐野壽雄 作)(仲村実 作)「安谷屋」では「シマクサラシ」と呼ばれる、人々に災厄をもたらす悪霊や疫病が集落に入る事を防ぐ行事があります。御供物として牛や豚を屠殺(とさつ)してヒジャイナー(左縄)に肉や骨を結んで、集落の東西南北の出入口に張ります。ヒジャイナーを張る事により集落に結界をめぐらせ悪霊や疫病の侵入を防ぐ役割があります。祭祀の後に牛や豚の肉は村人で分けて食したと伝わります。「安谷屋」では旧暦2月1日に「シマクサラシ」が行われています。現在、北中城村で「シマクサラシ」の行事が残っているのは「和仁屋」と「安谷屋」の2集落のみとなっています。(第一安谷屋交差点)「第一安谷屋交差点のシーサー群」がある北中城村「安谷屋」には、昔から先人より大切に受け継げられる年中行事が執り行われています。御願の集落である「安谷屋」ならではの陶芸家の交通安全への強い願いが15体のシーサーに込められています。県道81号沿いには中城村文化協会や県立芸術大などが連携した「彫刻カジマヤー計画」で100基近い焼き物のオブジェが設置されており、村が推進する「田園文化村」計画を盛り上げています。「第一安谷屋交差点」は丁字路で、県道29号が県道81号に突き当る場所です。本来ならば沖縄では「石敢當」が設置されるポイントですが、力強い15体の魔除けシーサーが交通安全を祈願しているのです。
2022.01.21
コメント(0)
(国頭方西海道/山田谷川方面出入口)「国頭方西海道(くにがみほうせいかいどう)」は琉球王国時代に、琉球王府により築かれた古街道です。首里を拠点に浦添山を通り、沖縄本島北部の国頭方面に続く「宿道(すくみち)」と呼ばれる街道です。琉球王国時代に整備された主要道は宿道(すくみち)と呼ばれ、沖縄本島西側を通る「中頭方西海道」「国頭方西海道」と東側を通る「中頭方東海道」「国頭方東海道」の4つの街道があります。恩納村山田の国道58号線から「山田グスク」に向かう場所に「山田谷川方面出入口」があり、歴史の深い「国頭方西方海道」が今日も現存しています。(山田谷川方面出入口の井戸)(山田谷川方面出入口の古井戸)「国頭方西方海道」の「山田谷川方面出入口」に4つの井戸があります。屋根付きの3つの井戸は左から「東大井戸」「久良波大主の井戸」「大木の井戸」があります。これらの井戸は1975年に本部町で開催された「沖縄国際海洋博覧会」の際、国道58号線の新装工事を行った為にこの地に移転されました。中央の「久良波大主の井戸」と右側の「大木の井戸」にはウコール(香炉)が祀られており、3つの井戸にはヒラウコー(沖縄線香)が供えられています。この合祀された井戸の脇には、昔からこの場にあったと考えられる古井戸が現存しています。(山田谷川の石畳道)(山田谷川の石矼)(山田谷川の石矼と石畳道)「国頭方西方海道」の山道を南側に進むと「山田グスク」北側の崖下に「山田谷川(さくがわ)の石矼」があります。「山田村」を横断する「山田谷川」は別名「ヤーガー」とも呼ばれています。この石矼は「ヤーガー」に架かっており、琉球石灰岩の野面(のづら)積みの桁の支えに中央部がせり上がったアーチ型の石矼を施しています。アーチ型にする事により石矼の強度が増す工法で、琉球王国時代の石矼造りの技術の高さが分かります。現在の石矼はこれまでにアーチ部分の6枚の石が崩れ落ちていた為、1989年(平成元年)に現在の姿に修復されています。(ヤーガーの水浴場)(水浴場周辺の琉球石灰岩)(水浴場から石矼に通じる岩間の通路)「山田谷川の石矼」の東側に奥まった場所に、山手に通じる岩間の通路があります。この細い通路を抜けると「ヤーガーの水浴場」が佇んでいます。この地点では「ヤーガー」は鍾乳洞窟の奥地から流れ出ており、洞窟の入口には流れが緩やかな水浴場となっています。「山田村」の住民の隠れた聖地として昔から人々に親しまれてきました。現在「ヤーガーの水浴場」にはウコール(香炉)が設置され、水の神様を祀る拝所となっています。この鍾乳洞窟から湧き出す水は、琉球石灰岩の細い岩間を通り抜け「山田谷川の石矼」の下を流れて行きます。(山田谷川の石矼の南側にある標識)(国頭方西方海道)(クシヌカー/後川)「ヤーガーの水浴場」の地にまつわる次のような琉歌が残されています。『山田谷川に思蔵つれて浴みて 恋しかたらたる仲のあしゃぎ』(訳 : 愛しい人と共に山田谷川で水を浴びて 仲の館で恋を語り合いたいものだ) 「山田谷川の石矼」の南側から「国頭方西方海道」は「山田グスク」西側の麓を通って行きます。しばらく進むと左手に「クシヌカー(後川)」と呼ばれる石積みで囲まれた井泉があります。「山田グスク」の丘陵から滲み出る水で「山田村」の貴重な水源として重宝されました。現在はウコール(香炉)が設置され、水の神様を崇める拝所となっています。(神アシャギ)(神アシャギの祠内部)「山田グスク」西側の麓に「神アシャギ」があり、祠内部には幾つもの霊石が祀られています。「神アサギ」とも呼ばれ、ノロ(祝女)が集落の祭祀を行う場所を言います。「山田ノロ」の管轄は「山田村」「久良波村」「冨着村」で、稲大祭のときに「山田ノロ」が「富着村」から帰ってきた翌日、祭祀が終わった報告を「山田グスク」「護佐丸先祖の墓」「殿内小」で御願(ウガン)をし、その後「神アシャギ」で村人の歓待を受けたと言われています。また、大正時代まではノロ、若ノロを含めて7人の「山田ノロ」が存在したと伝わっています。(山田グスクの石垣)(国頭方西方海道の石垣)かつて「山田グスク」の麓にあった「山田村」には「ノロ殿内(ヌルドゥンチ/ヌンドゥンチ)」と呼ばれる「山田ノロ」が暮らした住居がありました。その「ノロ殿内」は海に近い現在の恩納村山田に移動し、敷地内の「神屋(カミヤー)」と呼ばれる建物には「くらはぬるこもひ」と記された位牌があります。「山田ノロ」は「琉球国由来記(1713年)」には「山田巫」と記載されており、更に「山田ノロ」が「久良波村」と関わりがあった次の謡があります。『入るや入るや居しが出る人居らぬ 久良波ノンドンチ不審どころ』この他にも「久良波ノンドンチ」を「首里殿内」に言い換えた謡も残されています。(ウブガー/産川)(ウブガーの拝所)「山田グスク」の麓を通る「国頭方西方海道」は「山田村」を囲むように西側に続いて行きます。「山田村」の南側に「ウブガー(産川)」と呼ばれる石積みで囲まれた井戸があります。この井戸に隣接して石造りの祠が建てられており、ウコール(香炉)が祀られ水の恵みに感謝する拝所となっています。村で子供が産まれた時に「ウブガー」の水をウブミジ(産水)に使用し、汲んだ井戸の水に中指を浸して、おでこを3回撫でる「ウビナディ」で赤ちゃんの健康を祈願しました。また、正月には若水を汲み茶を沸かして飲んで新年の無病息災を祈りました。(メーガー/前川)(現存する国頭方西方海道の出入口)(歴史の道/文部科学省の境界標識)「山田グスク」の南側に「メーガー(前川)」と呼ばれる井戸があり、グスク南側の「護佐丸父祖の墓」の丘陵から滲み出た水が「メーガー」から湧き出ていたと考えられます。この周辺ほ水が豊富で水田による農業が盛んに行われていました。「山田グスク」周辺に琉球王国時代から現存する「国頭方西方海道」は「山田谷川方面出入口」から「山田村」の南側まで残されており「歴史の道」として文部科学省の境界標識が幾つも設置されています。「護佐丸」や琉球王国時代の人々が利用していた悠久の宿道は、ロマンと歴史が溢れる古街道となっているのです。
2022.01.14
コメント(0)
(オシアゲ森/後ノ御嶽)沖縄本島中部の西海岸にある「恩納村」に「山田グスク」があり、このグスクは標高約90mの琉球石灰岩台地に築かれた平山城です。「山田グスク」が築城された年数は不明ですが、うるま市にある「伊波グスク」の城主である「伊覇按司」から分家した家系で「護佐丸」の父祖以来が居城したグスクだと伝わります。「山田グスク」は古琉球の「三山時代」には「中山」勢力圏の北端に位置しており「北山」勢力圏との境界にあった重要なグスクで、更に「護佐丸」の最初の居城であったと言われています。(久良波大主の墓)(山田按司長男 亀千代/山田按司御娘 真音金の墓)(オシアゲ森の麓にある拝所)「山田グスク」の東側に隣接する丘陵は「琉球国由来記」(1713年)に「オシアゲ森 神名:サケノイベヅカサ」と記されている御嶽の森となっています。この丘陵の中腹にある鍾乳洞に「久良波大主(くらはうふぬし)の墓」があります。「山田グスク」がある土地は「古読谷山」と呼ばれ「山田村」と「久良波村」の2つの村がありました。この墓は「久良波村」の「大主」と呼ばれる「按司」の次に身分が高い有力者が葬られた古墓です。「久良波大主の墓」の隣には「山田按司長男 亀千代」「山田按司御娘 真音金」が合祀された墓がありウコール(香炉)が祀られています。(久良波大主の墓に隣接する鍾乳洞墓/左側)(久良波大主の墓に隣接する鍾乳洞墓/中央)(久良波大主の墓に隣接する鍾乳洞墓/右側)「久良波大主の墓」に隣接する崖は3つの鍾乳洞が口を開けており、それぞれが洞窟を利用した古琉球様式の古墓となっています。洞穴の入り口は岩や石で塞がれておりウコール(香炉)が祀られています。右側の鍾乳洞穴には「山田按司 門口大和之墓」と記されています。中央の鍾乳洞も左側の鍾乳洞も各々「山田按司」家系の墓である事が考えられます。「久良波村」の「大主」が「山田按司」の一族と同じ「オシアゲ森」の麓に葬られている理由は、昔から「山田村」と「久良波村」の繋がりが強く「久良波大主」も「山田按司」一族も同じ「今帰仁」にルーツがある事だと考えられます。(久良波大主の墓の標識がある分かれ道)(オシアゲ森の拝所)(オシアゲ森/後ノ御嶽)「久良波大主の墓」がある丘陵は「オシアゲ森」と呼ばれる御嶽の森で、昔から「古読谷山(山田)村」では神が住む聖地として崇められていました。「久良波大主の墓」の標識がある地点は森道が二股に分かれており、左に進むと「久良波大主の墓」があり、右に進むと「石川高原展望台」に向かう山道が続きます。この地点を右に進んだ直ぐ左側に「オシアゲ森」の頂上に続く獣道があります。丘陵を登り始めると拝所のウコール(香炉)が現れ、更に急峻の険道を進むと「オシアゲ森」の頂上に建立された「後ノ御嶽」の祠が姿を見せます。この祠は「今帰仁」に向けられて建てられており「古読谷山(山田)村」から遠く離れた根源の土地である「今帰仁」を崇めた御嶽だと考えられます。(後ノ御嶽の祠内部)(後ノ御嶽の水鉢)(オシアゲ森)「オシアゲ森」の御嶽が「後ノ御嶽」と名が付いた理由は「山田村」の東側に「山田グスク」が構えており、この御嶽の森は「山田グスク」から更に東側に位置します。その為「山田村」から見てグスクの後ろ側にある事から「後ノ御嶽」の名前が由来したと考えられます。祠内部には1基の鉄製ウコール、2基の陶器製ウコール、1基の石製ウコール、さらに3体の霊石が祀られています。「オシアゲ森」の頂上にある祠までの隘路は普段から人が立ち入る痕跡が確認されず、この「後ノ御嶽」の祠は「山田グスク」に関する文献やSNS等にも一切紹介されていません。その為、この「後ノ御嶽」を多くの人々に伝える事が、今回私が「後ノ御嶽」に"呼ばれた"意味だと認識しています。(遥拝嶽)(遥拝嶽の祠内部)(遥拝嶽の森)「山田村」の北側に「遥拝嶽」があり、森の頂に構える祠は「今帰仁」の方角に向けて建立されています。「後ノ御嶽」は「山田ノロ(神人)」のみが立ち入る事が出来た特別な拝所で「オシアゲ森」の頂上から「今帰仁」を拝む聖地でした。その為「山田村」の一般住民は「オシアゲ森」から西側に離れた森の「遥拝嶽」から「今帰仁」を祈っていたと考えられます。遥拝所は「お通し」または「うとうし」と呼ばれ、遠く離れた場所から神を祈る事が出来る拝所の事を言います。「山田村」があった場所に実際に立つと、目の前に「山田グスク」の丘陵、その後ろに「今帰仁」方向の海が見える「オシアゲ森」あり、一般の村人が「今帰仁」方向の海を臨む事が出来る一番の高台が「遥拝嶽」の森になっている事が良く分かります。(山田グスク中腹の護佐丸父祖の墓)(護佐丸父祖の墓)「山田グスク」の南側丘陵に「護佐丸父祖の墓」があり「山田グスク」城主であった護佐丸父祖一族の墓と言われています。琉球石灰岩洞穴を利用した古墓で、墓前には一族により建立された碑文の石碑があります。「護佐丸」を元祖とする琉球王国の士族である「毛氏豊見城」の子孫により建立された碑文には、墓の修復(1714年)や石碑の建立(1750年)などの内容が記されています。「護佐丸父祖の墓」には石造りのウコール(香炉)と花瓶が供えられ、現在でも「護佐丸」の子孫をはじめ多くの人々が拝みに訪れます。(護佐丸父祖の墓の碑文)(護佐丸父祖の墓の碑と鍾乳石灰岩)〈碑文の表側〉『往昔吾祖中城按司護佐丸盛春は元山田の城主に居給ふ其後読谷山の城築構ひ居住あるによりて此の洞に墓所を定め内は屋形作にて一族葬せ給ふ然処に幾年の春秋を送りしかは築石造材悉破壊に及び青苔のみ墓の口を閉せり爰におゐて康煕五十三年墓門修履石厨殿に造替し遺骨を奉納せつさて永代子々孫々にも忘す祀の絶さらんことを思ひ毎歳秋の彼岸に供物をさヽけまつる例となりぬ仍之石碑建之也 大清乾隆五年庚申十月吉日 すふ裔孫豊見城嶺親雲上盛幸記之』〈碑文の裏側〉『此碑文康煕五十三年雖為建置年来久敷文字不詳依之此節建替仕也書調人毛氏山内親方盛方彫調人毛氏又吉里之子盛庸』(琉球石灰岩のアーチ)(護佐丸父祖一族の墓)(豊見城家伊野波門中の修築記念)「護佐丸父祖の墓」に向かって右側に「護佐丸父祖一族の墓」と思われる古墓があり、琉球石灰岩の表面には「一九五二年九月吉日 修築 豊見城家伊野波門中」と刻まれています。「豊見城家伊野波門中」は琉球王府の行政の最高責任者(三司官)を務めた「伊野波親方盛紀」(1619−1688年)を系祖とし、琉球王国の士族の末裔である「毛氏豊見城殿内」の門中の一つです。この「毛氏豊見城殿内」の始祖が「護佐丸」である事から、中城村の「中城グスク」から東側にある「台グスク(デーグスク)」の麓に「護佐丸の墓」が「毛氏豊見城家」により築かれています。(山田グスク周辺の森)古琉球の「三山時代」に中山との争いに敗れた北山の「今帰仁王子」が現在のうるま市伊波に逃れた後に勢力を拡大し「伊波グスク」を築城しました。その「伊覇按司(今帰仁王子)」と一族関係にあった先代「山田グスク」城主の「古読谷山(山田)按司」には後継ぎがいなかった為、兄弟であった「伊波グスク」3代目城主の次男である「護佐丸」が養子に迎えられ「古読谷山(山田)按司」の地位を継ぎました。「護佐丸」は1416年に「尚巴志」の北山討伐に参戦して北山を滅ぼした後に「山田グスク」から4キロほど西に離れた「座喜味グスク」を築城し居城しました。「座喜味グスク」を築く際には「山田グスク」の石垣を壊して人の手で運んだと伝わっています。「山田グスク」は恩納村に残るグスクの中で最も主要なグスクの1つとして国指定の遺跡文化財となっているのです。
2022.01.12
コメント(0)
(安波茶樋川)沖縄本島中南部の「浦添市」に古琉球より湧き出る「ヒージャー(樋川)」があり「ヒージャー」とは湧き水から樋で引いた井泉を言います。「浦添市安波茶」に「安波茶樋川(アハチャヒージャー)」があり、1713年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」にも記された井泉で、水道が整備される以前まで飲料水を汲む人、洗濯をする人、畑仕事の帰りに農具を洗う人など多くの住民が訪れました。地域住民の出会いや情報交換の場所としても賑わっていたと伝わります。(安波茶樋川の石樋)(安波茶樋川の名水)(安波茶樋川の洗い場)「安波茶樋川」は現在も木々が生い茂る湧き口から長い石樋を通じて豊富な水が流れ出しています。昔は石樋なの下部にタライを設置して水を受けていました。勢い良く注ぎ込む水がタライに当たる大きな音が特徴的であったと伝わっています。昭和30年代の大旱魃の際には周辺の井戸は全て枯れてしまいましたが「安波茶樋川」だけは枯れる事なく水が湧き出ていました。そのため離れた地域からも飲料水や洗濯の為に多くの人が訪れたそうです。「安波茶樋川」の周辺地域では最後まで稲作が行われていたほど水源に恵まれていたと伝わります。(澤岻樋川)「浦添市沢岻」に「澤岻樋川(タクシヒージャー)」があり、この井泉は1000年以上前に「澤岻集落」が発祥した頃から湧き出る名水として大切にされています。琉球王国時代、正月の朝には国王と国民の健康と長寿、国に繁栄と五穀豊穣を祈願した名泉です。また、元旦の朝一番に汲む「若水」を国王に献上した水として良く知られています。現在でも水量が多く湧き出ており、正月には沢山の人々が「澤岻樋川」に若返りの効果があるとされる「若水」を汲みに訪れます。(澤岻樋川の溜め池)(澤岻樋川の拝所)「澤岻樋川」は崖下の岩と「クチャ」と呼ばれる世界で沖縄でしか採れない泥岩の地層の間から水が湧き出て、自然のガマ(洞窟)に水が溜まる仕組みになっています。水量が豊富で非常に澄んだ水は大雨が降った後でも濁ることはありません。綺麗な水質を好むウナギやモクズガニの生息も確認されており、現在でも飲料水として周辺住民の生活に欠かせない名水となっています。「澤岻樋川」には拝所がありウコール(香炉)にヒラウコー(沖縄線香)がお供えされています。水の神様に水源の感謝を祈る神聖な場として地域の人々に崇められてらいるのです。(澤岻樋川のガマ)(澤岻樋川の水路)「澤岻ヒージャー」を管理する玉城弘さんによると、玉城さんの祖父母がまだ子供の頃に国王の健康と国の安泰を祈願する「首里城お水取り」と呼ばれる行事が行われており、元旦に巫女(ノロ)が白馬に乗って「澤岻樋川」で汲まれた水を首里城に届けたそうです。この白馬は「首里城お水取り」の行事の時のみ使われ、井戸にはこの白馬を繋ぐ専用の石が設置されていました。琉球王国に献上する水が湧き出る「澤岻樋川」は神聖な井泉として周辺住民の祈りの対象として崇められていたのです。(仲間樋川)(仲間樋川の石樋)(仲間樋川の溜池)「浦添市仲間」に「仲間樋川(ナカマヒージャー)」があります。「琉球国由来記(1713年)」にも記される歴史の長い「仲間樋川」は、その当時から井泉には石樋が掛けられていました。昭和10年に改修されコンクリートで溜池や平場が造られ井泉は拡張し、現在の石積みは戦前から残っているものとなります。子供が生まれた時の産水(ウブミジ)を汲んだウブガーであり、元旦に汲んだ若水(ワカミジ)を中指で浸し額を撫でるミジナディ(水撫で)と呼ばれる儀式で子供の健康を祈願しました。また、結婚式でも新郎新婦にミジナディを行い新婚夫婦の幸せを祈りました。(仲間樋川の平場)(仲間樋川の水槽)(仲間樋川のウマアミシ)琉球石灰岩の洞穴から湧き出た水は石造りの樋で導かれ溜池に注ぎ込み、飲料水から洗濯用水、雑用水から灌漑用水へと循環させて貴重な水の恵みを有効的に利用していました。「仲間樋川」の平場には3箇所に十字(約24 x 21cm/中央)が刻まれた場所があり、刻印はその位置から内側で洗濯をしてはいけない意味を示しています。平場の脇には石造りの水槽があり水を溜めて洗濯や行水が行われていました。最終的に湧き水はウマアミシと呼ばれる馬の水浴びをさせる場所に注ぎ込みます。更にウマアミシの水は農具や農作物を洗うためにも使用されていました。(平場に刻まれた十字/中央)(仲間樋川の竣工記念石碑)井泉は水の神が宿る神聖な場所として祈りの場所となっています。カー拝み(カーウガミ)はカーウガンや井戸詣(カーメー)とも呼ばれ、集落の年中行事で水の恵みへの感謝や住民の健康や集落の繁栄を祈願していました。現在でも旧暦の5月と6月のウマチー(豊作祈願/感謝祭)や12月の御願解きの祭祀の際に住民により拝まれています。首里に琉球王府が置かれる以前に220年間の繁栄を極めた「浦添グスク」周辺を潤したヒージャー(樋川)は、現在でも決して枯れる事なく聖なる水が湧き出ているのです。
2022.01.07
コメント(0)
(八重島公園のガジュマル)沖縄の方言で「明けまして おめでとうございます」は『イー ソーグヮチ デービル』または『イー ショーガチ デービル』と言います。正月の初詣に琉球八社などの神社に参拝する人々は多いですが、私は昨年お世話になったパワースポット、グスク、拝所、遺跡文化財の中から生活に直結する三箇所を厳選して参拝しました。大切な事は一年の初めに祈る心であり、昨年の感謝を神々に告げる事です。そして、自分自身の全てを形成した、ご先祖様に謝意を表する事であると考えています。(ハマガー)(ハマガーの拝所)(ハマガーの洞穴)(ハマガーの井泉)まず初めに参拝した場所は、うるま市の浜比嘉島にある「ハマガー」です。「アマミチューの墓」の西側丘陵中腹に「ノロ墓」があります。この墓に隣接する「按司墓」の鍾乳洞窟から滲み出た一滴一滴が、長い時間をかけて真下にある「ハマガー」の井泉に溜まっています。沖縄では昔から正月の若水を井泉から汲み仏壇に供えたり、茶を沸かして飲み一年の健康を祈ります。「ハマガー」は比嘉集落の「ウブガー」で子供が生まれた時の産水に使用され、更に元日に井戸の水を中指で額に3回つける「水撫で(ウビナディ)」の儀式で子供の健康を祈りました。若水には若返りの効果かあるとされ、正月には「明けましておめでとう、もう若返りましたか」と挨拶をしていたそうです。今回は正月という事でペットボトルに若水を汲み持ち帰り、自宅の四方や水回りに若水を用いて新年のお清めをしました。(インジングシクの石碑)(インジングシク頂上の拝所)(インジングシク頂上の石碑)(インジングシク中腹の鍾乳洞穴)ソーグヮチ参拝の二箇所目は沖縄市八重島にある「インジングシク(八重島グスク)」です。この聖地は私の自宅から一番近い御嶽グスクで、居住する地区の土地神として個人的に崇めています。八重島公園の敷地内にあるグスクの麓に「天帯子の結び 八重島真鶴繁座那志 中が世うみない母親」と記された石碑があります。グスクの頂上には霊石とウコール(香炉)が祀られた拝所の祠と「天帯子御世 八重島金満大主 中が世酉のみふし」と刻まれた石碑が建立されています。更にグスクの中腹には、人が入る事が出来ない狭さの鍾乳洞穴が地下深くに続いています。この洞穴もグスクの拝所として土地神が宿る聖域となっています。(ウナジャラウハカ)(ウナジャラウハカの標柱)(ウナジャラウハカの墓口)(花崎家中古之墓)最後に参拝した三箇所目は北中城村喜舎場にある「ウナジャラウハカ」です。この墓は初代中山王である「舜天王」の孫「義本王」とその「王妃」の墓です。ちなみに「花崎家」は「義本王」の直系子孫として、この森に中古之墓を設けています。「ウナジャラウハカ」がある高台の森は、私が勤務する会社が所在する地域の守り神として個人的に崇めている聖地です。さらに「義本王」の曽祖父は「源為朝」で、私自身の先祖も「源氏」である事から先祖の繋がりがある墓を参拝する事は、先祖への感謝を伝える意味で当然で大切な行為と言えます。(インジングシク頂上への石段)今回のソーグヮチ参拝で沖縄市八重島の「インジングシク」頂上にある「八重島金満大主」の石碑を参拝中に『神の声』が"聞こえ"ました。交流がある伊計島の「伊計ノロ」である中村ユキ子さんは私に「御嶽や拝所に行って『神の声』を聞けなかったら意味がない」と仰り、最近では「神様は何て言ってた?」と私に聞きます。以前は『神の声』を聞く意味や、聞く方法が全く分かりませんでした。しかし、最近では訪れる御嶽、拝所、ウナジャラウハカで『神の声』が"聞こえる"ようになっています。今回の参拝で私が"聞いた"内容は次のようなメッセージでした。(八重島金満大主の石碑)『自分自身をもっと大切にしなさい。人間には自分の「身体」と「魂」の2つが個別に宿っていて、その他にも「先祖の遺伝子(守護霊)」が我々の血液の中に存在します。自分の「身体」「魂」「先祖の遺伝子(守護霊)」の3要素のバランスで人間は成り立っているのです。自身の心と身体の健康だけでなく「先祖の遺伝子(守護霊)」の健康も同時に大切にしてあげる事が必要です』(インジングシク頂上の拝所祠内部)つまり、先祖があっての現在の自分がいるという事だと捉えています。我々は現代のみを生きていると考えがちですが、実は先祖代々から長年脈々と受け継がれた「生命」が確実に継続しているのです。今年も引き続き先祖と自然への感謝を忘れずに、沖縄のパワースポット、御嶽、グスク、拝所巡りを継続して沖縄を深く勉強し、先人が残してくれた遺跡文化財を大切にしようと思っています。
2022.01.02
コメント(0)
全6件 (6件中 1-6件目)
1