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2022.10.21
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カテゴリ: 中城村



沖縄本島中部にある「中城村」の東海岸沿いに「北浜集落」と「南浜集落」があります。1879年の「廃藩置県」の後に那覇市「首里」から現在の「北浜」の土地に「ユカッチュ/士族」が移住してきたのが「北浜集落」の始まりだと伝わっています。この集落は戦前まで「仲松」姓が多かった事から「仲松屋取/ナカマツヤードゥイ」または隣接する「津覇集落」の外れに位置していたため「津覇ヌ下/チファヌシチャ」とも呼ばれていました。


(竜神宮の祠)

(竜神宮の祠内部)

「北浜集落」の東側で中城湾の海沿いに「旧北浜公民館/世代間交流人材育成防災避難拠点施設」があり、その敷地内に「竜神宮」の祠が建立されています。「旧北浜公民館」は戦前まで屋号「三男東リ小」の屋敷があり、周囲には「東リ小門中」の家々が点在していました。「東リ小のサーターヤー」で製糖作業する馬の水浴びをさせる「グムイ」が「旧北浜公民館」の南側に隣接していました。戦前の「竜神宮」の祠は現在の位置よりも北側にあったと伝わります。旧暦1月2日の仕事始めの伝統行事である「ハチウクシー/初興し」や、ヒヌカン(火の神)が昇天する旧暦12月24日の「フトゥチウガン/解き御願」で拝されています。海の航海と豊漁を祈願する「竜神宮」の祠は東側の海に向けて建てられ、祠の内部には石柱が祀られています。


(屋号浜仲松/仲松門中)

(屋号首里仲松/仲松門中)

「北浜集落」の「仲松門中」は「浜仲松・首里仲松」の2つの系統に分かれています。「浜仲松」は元祖彌眞二男の系統で「首里仲松」は彌眞四男の系統となっています。「仲間門中」は『首里系士族 洪氏 大宗 洪啓瑞南風原筑登之彌慶 名乗頭 彌(弥)』で本家は与那原町の我如古家、中元は那覇市首里にある仲尾次家です。「浜仲松」がまず先に首里から「北浜」に移住し、その後「首里仲松」が西原町兼久を経て移住しました。この「首里仲松」は「北浜」を中心に門中が発展し「仲松屋取」を形成したと伝わります。最初に「北浜」に来た「浜仲松」はその後分家して「北浜」の北側にある現在の吉の浦公園のテニスコート付近に移り「高江洲屋取」を形成しました。屋号「浜仲松」の屋敷は「竜神宮」の西側にあり、屋号「首里仲松」はスガチミチ(潮垣道)付近に屋敷を構えていました。


(屋号大宮平/宮平門中)

(ウドゥンジー/御殿地)

(ナントガー/ナーデーラーガー)

「北浜集落」の北側のスガチミチ(潮垣道)沿いに屋号「大宮平」の屋敷跡があり「宮平門中」は『首里系士族 阿氏 元祖山南王汪應祖次男阿衡基南風原按司守忠 名乗頭 守』です。北浜に移住した初代は「ブサータンメー」と呼ばれ、集落の子供達を集めて棒術を教えていたと伝わります。「ブサータンメー」は大屋にあたり屋号は「大宮平」でした。「大宮平」は大きな豪農で「宮平門中」が集中する集落北部にあった、かつて琉球王国の「尚家」が所有していた「ウドゥンジー/御殿地」をはじめ多くの土地を所有していました。屋号「大宮平」の北側には「ナントガー」という井戸があり、旧暦1月2日の「ハチウクシー/初興し」や旧暦12月24日の「フトゥチウガン/解き御願」で拝されています。「ナントガー」の西側には屋号「宮平」が隣接していた事から、この井戸は「ナーデーラーガー」とも呼ばれていました。


(ヌハガーラ/饒波川)

(ヌハグムイ/ヌハ橋/屋号大饒波)

(屋号伊集小)

(ナーシルダー)

屋号「大宮平」の南側に字津覇から中城湾に流れ込む川があり、屋号「大饒波」の屋敷前を流れていた事から「ヌハガーラ/饒波川」と呼ばれるようになったと伝わります。「ヌハガーラ」とスガチミチ(潮垣道)が交わる場所には「ヌハ橋/饒波橋」が架かっており、この橋の下の川底に窪地があったため「ヌハグムイ」と言われていました。この窪地は橋から飛び込めるほどの深さがあり子供達の恰好の遊び場であったそうです。「ヌハ橋」の南側にある屋号「伊集小」は「バクヨー/馬喰/博労」と呼ばれる家畜の仲買人をしており、更に「と殺」の専門知識を持っていた事から集落の人々から依頼を受けて家畜(馬・豚・山羊)を潰していました。この屋号「伊集小」の屋敷から東側にある土地には「ナーシルダー」という稲の苗を育てる田んぼがあり、隣接するクムイ(溜池)から水を引いてたと伝わります。


(屋号ウサー伊集/ボウシクマーが集まる場所)

(仲松カー神)

(仲松カー神の祠内部)

「仲松門中」の屋号「首里仲松」の北西側に屋号「ウサー伊集」の屋敷がありました。この家には「ボウシクマー/帽子編み」と呼ばれる人々が集まり帽子を編んでいました。戦前まで「ボウシクマー」は女性の副業で、サトウキビ栽培に並び貴重な収入源でした。編んだ帽子は那覇の卸売り会社に納品され本土に運ばれました。スガチミチ(潮垣道)と中通り(馬車道)のカジマヤー(十字路)を西側に100メートルほどの畑内に「仲松カー神」の祠が建立されています。戦前からある古井戸で旧暦1月2日の「ハチウクシー/初興し」や旧暦12月24日の「フトゥチウガン/解き御願」で拝されています。また、正月元旦のワカミジ(若水)や子供が産まれた時のウブミジ(産水)もこの井戸から汲まれていました。「仲松カー神」の祠にはウコール(香炉)が祀られており、祠内部には井戸が鎮座しています。


(南浜集落の大内のカー)

「南浜集落」は「安里屋取」と呼ばれるほど、集落のほとんどの世帯が「安里門中」でした。「安里門中」は『首里系士族 楽氏 元祖屋宜親雲上昌寔 名乗頭 昌』で本家は宜野湾市の長田にあります。「南浜集落」の「安里門中」は中元にあたり「大内」は最初に「南浜」に移住した家で、廃藩置県(1879年)後に首里から移ってきたと伝わります。「安里集落」は「和宇慶」の外れにあった事から「和宇慶ヌ下」と呼ばれています。「安里門中」が所有する『楽姓安里門中世系図』によると、元祖である「楽崇義安里筑登之親雲上昌茂」には7名の子供がいて、この子供達の系統が現在まで栄えていると記されています。屋号「大内」の敷地にはかつて「大内」の屋敷で使用していた井戸が現在も残されており「大内のカー」と呼ばれています。


(アサトガー/安里井戸)

(アサトガー/安里井戸)

(屋号ウフメー新屋の井戸)

(屋号ウフメー新屋の井戸)

「南浜集落」の「上屋取」と呼ばれる区画に屋号「大内」の敷地内に「アサトガー/安里井戸」という井戸があります。屋号「大内」が「南浜」に移住した際に利用していた井戸だと伝わり、戦前から集落の人々に拝されています。当時はこの場所からスガチミチ(潮垣道)を北側に進んだ屋号「浜與儀」から西側に広がる畑の中にありましたが、戦後の土地改良により現在地に移設されています。「南浜集落」の東側は「下屋取」と呼ばれ、この区画を流れる「ヲーキガーラ/ヲーキ川」沿いには屋号「ウフメー新屋」が使用していた井戸が現存しています。屋号「ウフメー新屋」はウミンチュ(海人)で、当時は主流であった素潜りを専門に漁をしていました。素潜りをするウミンチュは「シムワザ」または「裸潜り」と呼ばれていたと伝わります。







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最終更新日  2022.11.05 00:09:24
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