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布川敏和(ふかわ としかず、1965年8月4日 - 神奈川県川崎市出身)「 フックン 」
本木雅弘(もとき まさひろ、1965年12月21日 - 埼玉県桶川市出身)「 モックン 」
薬丸裕英(やくまる ひろひで、1966年2月19日 - 東京都武蔵村山市出身)「 ヤックン 」
中川昭一(なかがわ しょういち、1953年7月19日 - 東京都渋谷区出身)「 ゴックン 」
中川昭一(政界の峰岸徹)は、麻生太郎首相の盟友であり、2008年9月、麻生内閣のナンバー2の立場。財務相兼金融担当相に就任。この先の有力な総理候補の一人だった。
1)イタリア「もうろう会見」
2009年2月にイタリア、ローマで開かれた、先進7カ国財務相・中央銀行総裁会議(G7:じーせぶん)。
13日昼、羽田発特別便の約13時間のフライト中、機内でおおめの薬(風邪薬や腰痛の薬)と酒を飲んだ。
13日夕方(現地)にローマに到着した中川は、すぐにガイトナー米財務長官と日米財務相会談を行う。その後、G7夕食会があった。
夜、親しい新聞記者達4人懇談。サンドイッチと、ジントニック3、4杯を飲んだ。そして睡眠薬を服用して就寝した。
14日午前8時15分からイタリア経済財務省にてG7会合が始まった。中川は体調が悪かった。
G7昼食会でもワインが出た。(後の「ゴックンはしていない」)
中川は午後1時50分まで予定されていたG7昼食会を1時ごろ退席、宿泊先、「ザ・ウェスティン・エクセルシオール・ローマ(The Westin Excelsior Rome) 」ホテルに戻った。
中川はホテル1階のイタリアレストラン「ドネイ(Doney)」にて、財務省の玉木林太郎国際局長や日本から同行した女性記者3名、政務秘書官2名、知人、イタリア人通訳など数人で40分ほど会食した。(玉木はソムリエの資格があるという)
ブッフェの簡単なサラダとパスタ。中川本人が赤ワインを注文。(後に「口をつけた程度」、ドネイ支配人証言「グラス1杯程度」)
午後2時50分から約15分、同ホテル内でロシアのクドリン財務相と日露財務相会談を行う。麻生首相を「麻生大臣」と言い間違えたという。
その後、部屋に戻り30分ほど財務省幹部らと打ち合わせをした。(後に「打ち合わせは仕事。酒は飲んでない」)
そして、14日午後3時45分、まだ夕方前である。問題の記者会見が行われた。
中川は篠原尚之・財務官、白川方明・日本銀行総裁に挟まれて質問に答えた。
中川の回答は徐々にスローになり、つまりつまりになり、聞き取りにくく、質問とかみ合わず、カミまくり、焦点も定まらなくなった。
朦朧(もうろう)、酩酊(めいてい)、居眠り、酔っ払い、 泥酔 (でいすい)、へべれけ、むにゃむにゃ、しどろもどろ、ラリラリ、呂律(ろれつ)が回らない、フラフラ、深酒、時差ボケ、疲労、風邪薬、睡眠薬、あくび会見といわれた。
記者会見の前にはすでに呂律が回らない状態だったのに財務省関係者はなぜ会見させたのか。
なぜ、となりの、白川総裁らは顔色一つ変えなかったのか。
各メディアの記者も、なぜ、財務相の明らかな変調について何も質問しなかったのか。
さらに、この会見後すぐに、中川は財務省幹部や現地大使とともに、なぜ、元気に2時間も、バチカン市内を観光できたのか。
G7での成果、100年に一度の金融危機、世界金融危機支援としてIMFに1000億ドル「10兆円」の拠出の約束。IMF専務理事ストロスカーンの日本と中川に対する謝意と賛辞、「過去に例のない最大の貢献:世界が経済的、金融的に直面する試練に対し、多面的なアプローチで対処を続ける日本の主導的立場の賞賛」は、ほとんど報道されず、「もうろう会見」中川へのバッシングに終始した。
2)弁明
中川は、帰国後の国会で「ワインはお昼の乾杯でちょっと口に含んだだけ」「顆粒(かりゅう)と錠剤の風邪薬をたぶん倍くらい飲んだ。薬がききすぎて調子が悪くなった」などと釈明し、アルコールの影響を否定した。
「前の晩は飲んだが、会見前は飲んでいない」と述べた。後から「昼食会でワインをたしなんだ」「飲んだのをゴックンということであれば、ゴックンはしておりません」と付け加えた。
レストラン「ドネイ」では、「いつの間にかワインが置かれていた。そこにグラスがあった」「口をつけた程度」とした。
2月17日、中川は09年度予算案衆議院通過後の辞任を表明するが、野党5党は中川に対する問責決議案を提出。その後再度会見を開き、結局、即日辞任した。
その後、しばらく入院、身を隠した。
3)死去
同年、8月の衆院選では選挙用の断酒宣言。
結果は、北海道11区で民主党の候補に敗れ、比例代表での復活もできず落選した。議員バッジを失ったことにより更に酒量も増えたかもしれない。
中川が死亡しているのが発見されたのは10月4日。自宅二階の寝室のベッド上で、ポロシャツと短パン姿でうつぶせに倒れていた。ベッドに吐いた跡(寝ゲロ)があり、机の上に病院処方の睡眠薬の錠剤のシートがあった。
ベッドの横には、「JINRO」のビンが転がっていた。
中川は不眠気味で睡眠薬を服用していた。睡眠薬とアルコールの同時摂取が、徐々に健康を蝕んだか急性のショック症状を引き起こしたのかもしれない。この組み合わせは「もうろう会見」を思い出させる。
遺書がないことから、自殺の可能性も低いといわれた。56歳だった。
遺族は、中川の死因は急性心筋梗塞と説明した。
同月、比例北海道ブロックで自民党2枠の2位で復活当選の町村信孝が、衆議院北海道第5区の補欠選挙に出馬するために衆議院議員を辞職。中川がもし生きていれば、比例区で繰上げ当選していた。
衆議院本会議の財政演説で「渦中」を「うずちゅう」と読んだ、東京大学法学部政治学科卒の中川は、ホントに、「うずちゅうの人」になってしまい「アルちゅうの人」とよばれた。
献杯
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