JINさんの陽蜂農遠日記

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2024.01.29
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カテゴリ: JINさんの農園
「増上寺 徳川将軍家墓所」を後にして「安国殿」方向に戻ると 「徳川将軍家墓所」の北側
道路に沿った場所にも向かい合うように「​ 千躰子育地蔵菩薩 ​」👈リンク が並んでいた。



「安国殿」前の「 絵馬掛所(えまかけどころ) 」。



銅像聖観音立像 」と「 千躰子育地蔵尊 」。







西向観音堂 」。



港区の文化財 西向観音堂
西向観音は、現在三康図書館のある場所にあった観音山に西に向けて安置されていたもので、
現在の正則中学校あたりにあった地蔵山に東向きに安置された四菩薩像とともに、その間を通る
街道を見下ろす形をとっていました。
将軍家の菩提所である増上寺は格式が高く、庶民には近寄り難いところもありましたが、
この像は安国殿に安置されている黒本尊とともに多くの庶民の信仰が続いています。
平成四年三月三十日  港区文化財総合目録登録  港区教育委員会」



西向観世音菩薩像
鎌倉時代、執権・北条時頼公が観音山(現:東京タワー)に辻堂を建て、鎌倉街道に向けて
安置した石像の観音さまです。昭和50(1975)年、安国殿前に尊像を遷座、同55(1980)年
1月に観音堂落成。江戸三十三観音札所で聖観音像は子育て開運の利益広大と言われています と。



その横には、石仏が2体。



境内入口の石柱には「 江戸札所 二十一番 西向観音 」と刻み込まれていますが、
よく見ると左下に「橘右近謹」という文字が彫り込まれていた。
「橘右近」という人物がこの文字を揮毫した と。



奉般若心経壱萬巻納 」と。



可愛らしい石仏像。



さらに東に向かって進む。
左側・増上寺 西向観音堂の裏には増上寺北側の道路からも境内に入れる道が。



右手に 蘇鉄と三波石(さんばせき)
三波石は、群馬県藤岡市などで産出される岩石。
青緑色で白い縞模様があるものが、よく庭石などに利用されているのだ と。 



その手前には石灯籠の礎石か?ポツンと。



そして参道の石灯籠(左)。



参道の石灯籠(右)。



さらに北側の参道を東に向かって進む。



東京タワーを振り返る。



ここにも「 千躰子育地蔵菩薩 」が並んでいた。



千躰子育地蔵菩薩
子や孫の無事成長を祈って当寺ひまわり講の方々が中心となって、幼い子や孫への愛情の表れ
として、頭を守り、寒さをしのぐ為の「赤い帽子」「赤い前掛け」「風車」をお地蔵さまに
奉納しています。
地蔵菩薩像には触らないでください。」



千躰子育地蔵菩薩」 に近づいて。



千躰地蔵尊 」碑。



「南無阿弥陀佛・・・・」と。



TERA CAFE SHIEN ZOJOJI 」が左側に。



そして正面に見えて来たのが「 熊野(ゆや)神社 」。
元和10(1624)年、当寺第十三世正誉廓山上人が熊野権現を増上寺鎮守として東北の鬼門に
勧請したもの。
「熊野」は「クマノ」・「ユヤ」と二通りの呼称があるが、当山では「ユヤ」権現として
親しまれている と。
「熊野」は元々は、イヤ・ユヤが語源の始まりと記されています。 谷、山深い地域のことを
そう呼んだと。 それに、漢字の熊野をあてはめたと。
神武天皇が紀伊半島を超えて、大和(奈良県)に入った時に、熊にであったなどとの伝えも
ありますが、 単に、山深い・谷深いことの喩に、熊野と言う漢字を当てはめたのではと。
確かに、熊と野ですから、そう感じるのも不思議ではないのですが。
能を代表する曲の一つである『熊野』(ゆや) は、 世阿弥 の作であると。



石鳥居



扁額「熊野神社」



手水舎 」。



手水鉢 」。



「手水鉢」には 三本足の烏「八咫烏 (やたがらす、やたのからす)



三本足の烏[八咫烏]『 神々のお使い
日本書紀によると、
神武天皇が天下統治のため紀の国(和歌山県)の熊野に上陸した際に、東征中の
荒れすさぶる中で道に迷った時、日輪の中の天照大神より「天から八咫烏を使わそう。
その八咫烏が道案内をするであろう。八咫烏の飛びゆく後ろに付いて行きなさい。」と
いうおさとしがありました。そうして無事山越えを出来たという、まさに神のお導きと
いう言い伝えが残されています。
日輪の中に三本足の烏
ルーツは中国で、太陽の中に三本足の烏が住む(おそらく黒点であろう)と考えられ、
太陽は烏によって空を運ばれるとも考えられていました。
烏の足を三本とするのは、二本足は陰数の為、陽の数である「三」こそが太陽に
ふさわしいと考えられます。
日本に於いても、三本足の烏が太陽の象徴であると伝わったと推測されます。また時代に
よっては、「地・仁・勇」或いは「天・地・人」を表すとも言われています。
日の神、天照大神の子孫である天皇が三本足の烏と八咫烏が習合し、熊野の烏も三本に
なったものと考えられます。
シンボルマーク

天皇の即位の礼に立てられるのぼりの紋様には八咫烏が使われたそうですし、また天皇の
礼服の紋章には、日輪の中に八咫烏の刺繍が施されているそうです。近日身近なところでは、
サッカー日本代表が着ているユニフォームの胸に付いておりますマークも八咫烏です。
すなはち日本サッカー協会のシンボルマークとして用いられております。日本サッカーの
成長と勝利への導きを願っております。私共大本山増上寺みこし講も、昭和四十九年に
発足当時より八咫烏を代紋とさせて頂いております。お祭りの御神輿を通じて、結集した
四百余名が大本山増上寺より護国豊穣、天下泰平を導いて頂きたいと祈願しております。
このたび、みこし講発足三十年を記念して、熊野神社(境内)修復改修工事をさせて
頂きました。今回の工事の際にみこし講の大柱の前に、この水舎に向かって三箇所の
烏の足跡(保存有)が付いていたという縁起のよい事がありました。当熊野神社にも本物の
八咫烏がいると信じてみこし講一同も八咫烏のお導きを頂いてより高い志をもって、
一層の努力を心掛けてまいります。
皆様のご多幸とご発展をお祈りいたします。
    大本山増上寺熊野(ゆや)みこし講
           世話人 益子良通」



熊野三所大権現宮由来記
増上寺
鎮守中最大なものとして、本殿拝殿あり、大きさ不明なれど東照宮に次ぐものなりと
云う縁山志によれば、火災ありしも、明暦以来焼けたる事なし。
御神体は
熊野本宮大社 家津御子大神
(けつみこのおおかみ
熊野那智大社 大己貴命
(おおなむらのみこと
熊野速玉神社 伊弉諾尊
(いざなぎのみこと
以上の三御神体を祀り、故綿貫次郎翁のご指導により「大本山増上寺熊野みこし講」を
起こし、護持・奉賛しております。祭禮は毎年3月3日に古式にのっとり行なわれて
いましたが、近年は4月第3日曜日に定まる。
   大本山増上寺熊野みこし講』



大本山 増上寺 熊野みこし講 創立40周年記念碑」



大本山増上寺 熊野みこし講 創始者 綿貫次郎  創立40周年記念碑」



「西暦1974年(昭和49年)、故綿貫次郎翁(通称おじいちゃん)は毎日増上寺安国殿に
通い、奉仕活動を日課としていました。増上寺の繁栄を願い、若者達の力でお手伝いを
しようと関係のある神輿仲間に声をかけ、「熊野みこし講」を発足し行事に参加する様に
なりました。増上寺の鬼門である熊野神社の社が老朽化したため、復興を願いみこし講の
手づくりにて木の鳥居を建立。少しずつ改修を加え、現在の社殿及び玉垣が完成した
のです。江戸の町東京を愛する若者達の結集、これが「熊野みこし講」です。
綿貫のおじいちゃんの言葉、「身をもって奉仕する気持」を受け継ぎ、末永く後世に
つないで行ける様、ここに40周年を記念し石碑を建立いたします。
平成26年4月吉日
大本山増上寺 熊野みこし講
」。



「熊野神社」の「 社殿 」。



近づいて。



さらに。



熊野神社の社殿前から、石鳥居越しに東京タワーを見る。



ズームして。



「安国殿」、「東京タワー」を振り返って。



「喜壽記念 奉納桜 百本
昭和五十五年四月吉日
永谷キミ殿」



「三解脱門」の横の「山廊」を裏から見る。




                                ・・・​ もどる ​・・・



                 ・・・​ つづく ​・・・









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Last updated  2024.01.29 08:07:50
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