寺院 神社 巨木名木 公園 0
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一人と一匹UF66で散歩前から気になってました歩道橋「加良部一号橋」遺構や土木遺産ではないけど、ちょい古目のなかなか凝ったデザイン銘板半世紀以上前に作られたようですね。階段ぐるーっと弧を描いて登っていきます。このループ良いっすね~剥がれてるなこっちは下に落ちてるけど残ってる。幅はそれほど広くない欄干はアルミかな?。上から眺めたボンベルタ、はなのき台、赤坂公園 方面昔この近くの公団住宅に会社の寮があって住んでました警察署、駅、中台運動公園 方面下に横断歩道があるんで現在この橋を使う人はそんなに多くないと思います・・橋桁もゆるくアーチ状で良いっすこっち側は高さが違うんだろうからだろうけど普通かなこっち側の階段
2024.02.17
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一人と一匹JA11で散歩先日に続いて成田闘争の遺構(←成田闘争自体は現在も解決してるわけではありませんが・・・)「横堀鉄塔跡」にも行ってみました。先日訪れたA滑走路近くの「岩山鉄塔」は位置的に空港敷地内ではないのですがここ「横堀鉄塔」は飛地のように空港内に存在する反対派所有の敷地になります。「東峰神社」より奥深くまで侵入していくので徒歩では行くのは無理ではありませんが困難っすね(この道自体は空港の敷地では無いのですが、途中で通報されて面倒なことになる可能性あります)両側の安全鋼板の向こう側は侵入すると多分捕まります画像撮ると通報される気がしたので監視カメラや有人監視所は写してません。途中には一部未舗装路もあります。普通に車で行けるレベル2か所位だったか鉄塔近くにくるとトンネルで地下を進みます。真っ暗ではないっす。そして着きましたここっす。安全鋼板+まるでゴルフ場のような高さのあるフェンスで覆われています。「像の檻」とも呼ばれているそうです。鉄塔自体老朽化が進んでるように見えます。周りの草木や竹も伸び放題です。竹林が邪魔で見得ずらいらいっす鉄塔最上部は老朽化に伴い旧熱田派が撤去したそうです。ここの鉄塔撤去に機動隊が集結(第二次「横堀要塞」事件)している隙にマンホールから地下を通って侵入した反対派が管制塔占拠した「成田空港管制塔占拠事件」が起きました。柵で覆われてるので中には進入しないで外から眺めます。画像に無いけどこの場所すぐ近くにも(画像の逆側)監視所があり逐一こっちの行動を監視されてます。(無線機でこちらを見下ろしながら何やら通信してました・・一応目が合ったので軽く会釈しましたが睨みつけられました)奥に見えるのが団結小屋の「案山子亭」なのかな?手前に銅像が立ってます廃墟感が強いっす「沖縄靖国訴訟原告団」の団長で彫刻家の「金城実」が制作した「抗議する農民」象この先は空港敷地でもなく反対派敷地なんで不法侵入はしません・・この門は「空警隊」が出入りする為の物なのかなあピーチ機が見えますANAのエアバス A380型機「FLYING HONU」1号機「ラニ(Lani)」スパイクは当たり前だが、まるで興味ない様子・・ここは「岩山鉄塔」と違い、もろ空港敷地内の誘導路に影響がある場所ですんで将来的には和解できた時、もしくは法律により強制的に撤去される可能性があると思います。俺が成田に来たのが30年前で空港の第二旅客ターミナルが運用開始する直前だったので、この当時の機動隊や過激派の闘争は目の当たりにはしてませんが、住んでたアパートの裏手で車爆発されたり、「成田国際高校」敷地からロケット弾が「成田警察署」に発射されたり、「第二ターミナル」のエスカレーター下の便所がパイプ爆弾で爆破されたりと過激派の活動は続いていたようでした・・・昔居た会社の工場長の話では「空港通り」車で走ってるとマキビシ!?撒かれて10台ぐらいパンクさせられたとか空港に関係ない一般人も被害にあってたようです。現在でも沖縄で住民の了解が得られないうちに工事強行してるような事があります。成田闘争は話し合いで解決しようとしていた現地住民が部外者の過激派に焚きつけられて、双方死傷者が多数でて憎しみの連鎖の泥仕合になってしまった気がします。どんなことでも全員意見が一致でいかずに必ず少数でも半数でも反対する立場の者はいます。それを多数決や一方的な言い分で強行するとこのような事が起こると思います。今のイスラエルとパレスチナの問題も住民達が巻き込まれてハマス=パレスチナ民のようになって被害を受けてます。イスラエルも過去ユダヤ人が虐げられてきた立場でパレスチナ人に同じ事をしていますね。お互い追い出そうとすると行き場を失ってしまうので存在を否定してはダメです。お互いの譲歩、妥協、落しどころが難しいですが必要ですよね。
2024.01.21
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ここまで来たら前から気になっていた「岩山大鉄塔」も見に行きます。「航空科学博物館」や道路からも見えますが、道路からは門が閉ざされて近づけません。「芝山水辺の里」の先程の神社側の道歩いて行きます。こちら側も安全鋼板で囲まれているなあ・・・デジカメでズームしてみたけどこれ以上は無理かな。かつては制限表面上回る60.6mもあってA滑走路の離着陸を妨害する為の鉄塔も、開港前に強制撤去されてしまった(支援者と警察官に死傷者がでていたそうです)現在その上を悠々と飛行する旅客機「岩山闘争記念館」という名称で現在も存在してますが、このまま残されるのか分かりません。国や空港からしてみれば見たくもない施設なのでしょうが、現在は妨害目的は機能せず空港敷地内に邪魔になる事も無いのでこのまま残すべきだと思います。※この時は近づくことは無理だと諦めていましたが、行くことは確認できました。ただその道は不法投棄も多くまるで廃墟の肝試しの雰囲気もあるので、「芝山水辺の里」からちゃんと整備した道を作り、この施設の解説版等を設置して皆に見学してもらうようにしたほうが有意義な気がします。(この場所の地主は今でも空港反対の立場なのだとも思いますが)今現在空港を廃港にするのは現実的ではないのでお互い共存共栄できる道を作っていくべきですよね。
2024.01.15
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現在「三里塚小学校」の煉瓦作り門柱は三里塚に住んでいた時から気になっていた物です。朝だったんで学校脇の広めのスペースにチョイ停めて見学します。この門柱は「旧陸軍鉄道聯隊兵舎」にあったものを移築されたものだそうです。この立派な門柱をちゃんと残して今でも利用されている。すばらしいですね。今時は移築のコストだけ見て廃棄されてしまうことが多い気がします・・・前々前回?のブログで昔の三里塚の壁画に「三里塚小学校」になる前の「遠山小学校三里塚分教場」の絵にも描かれていますね。(現「三里塚小学校」が昭和25年~で「三里塚尋常小学校」が明治24年なんで「遠山小学校三里塚分教場」時代に移設された物と思われます)貴重な戦争遺構でもあります。右側の柱真ん中の柱左側の柱どれも保存状態が良く、清掃したりして大切にされているのが分かります。※「鉄道聯隊」は明治29年東京牛込河田町の陸軍士官学校において発足した「鉄道大隊」が起源。翌30年中野に移転。「義和団事件」「日露戦争」と活躍し、軍需物資・機材を確保する上で必要な線力と認められ、 明治41年「鉄道大隊」から「鉄道聯隊」へと昇格。千葉市へ移転。千葉市に「聯隊本部」「第一大隊」「第二大隊」「材料廠」習志野市津田沼に「第三大隊」が創設。大正7年鉄道聯隊は2個聯隊へと増強、 従来の千葉市にあった聯隊を「第一聯隊」津田沼にあった「第三大隊」を基幹として「第二聯隊」が発足。任務は軌道の敷設だけでなく、 路盤構築、鉄橋の爆破・架橋等多岐に渡ったようです。演習線は千葉市の「第一聯隊」から「第二聯隊」を経由して松戸市の「工兵学校」まで、 総延長は45kmに達しました。戦後もしばらく放置された 状態が続きやがて演習線の跡は「京成電鉄」が、「新京成電鉄」という子会社を設立して旅客営業を 始めました。演習線以外に「鉄道聯隊」が建設した路線は「県営鉄道野田線」「 多古線」「八街線」「大多喜線」「庁南線」「 小湊鉄道」「銚子鉄道」「北総鉄道(現在の北総開発鉄道とは全く無関係)」「南総鉄道」「 京成電気軌道」。
2024.01.04
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気になった良い雰囲気の郵便局「永治簡易郵便局 」(えいじかんいゆうびんきょく)丸ポストも当時のままかなペンキは塗り替えてるんだろうけど建物自体は古い造りのままっすね。格子や扉、電灯、壁なんか良いっすね~多分「旧永治郵便局」をそのまま簡易郵便局として使用してるんじゃないかな?丸ポストに昭36の文字があったんで昭和36年からある建物だと思う特別に有形文化財や産業遺産などには登録されていないようですが、このまま建て替えしないで使い続けてもらいたいものです。R356沿いにあった「旧津宮郵便局」は取り壊されて今は残ってません・・・
2023.07.07
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「富津海浜の森」の中で「陸軍技術本部富津射場跡」の遺構をもう少し見学解説版ふむふむなるほど横から巨大蒲鉾、竹輪みたいな物体っすこのコンクリのトンネルは「射入窖」だそうです。トンネル内は行き止まりになっていてこの中に向かって実弾射撃で弾丸を試射してたみたい。奥の標的が置かれていたのか標的になってたのか壁1952?1952年ってことか?いたずらかな?天井部もしかしたら探せば銃弾めり込んでたかなあ内部はひんやりしてたなあ分厚いコンクリ所々鉄筋?が見える入口両サイドは石積続いてすぐ近くにあるこちら「監的塀」っす解説版ふむふむう~ん分厚い壁だあなかなか良いデザインの監的窓?内側草木だらけ内側から窓覗いてみます現代ではジャングル状態でこれじゃあ監的できないだろうなあっちの奥に「射入窖」があって、そこめがけてこの中央から射撃して両側の壁の穴からそれを観測していたのだろうか。お手植え松の道標?大和型戦艦の主砲「四十六糎砲」の42kmを凌駕する50.12kmの日本軍では最大射程の火砲にして日本軍唯一の列車砲「九〇式二十四糎列車加農」や帝国陸軍の火砲では最大の口径(410mm)・重量(318t)・威力を誇った「試製四十一糎榴弾砲(41H)」も射撃、保管されていた事があるとか・・・他にもあちこち「陸軍富津射場」の遺構はあるらしいけど子供と犬連れで帰りの時間もあるし、また今度の機会に残しときます。
2023.04.30
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「東京湾要塞」の一つ「陸軍富津元洲堡塁砲台」は大正時代に旧式化の為除籍となり、その後に「陸軍技術本部富津射場」昭和16年には「陸軍兵器行政本部第一技術研究所富津富津試験場」として使われていたそうです。先ほどの「陸軍富津元洲堡塁砲台跡」の「中の島」裏の橋を渡った先の「富津海浜の森」の中歩きます。う~んこの階段も遺構で間違いなさそうだなあ見つけました!あれっす!!小銃や機関銃などの発射速度や威力を見る監視所だとか言われてます。なんか巨大な土管の上にジオン軍のMSのモノアイみたいなドーム丸っこいドーム屋根の上には蔦が生えて髪の毛みたいだ~中から見た天井部この三か所の覗き窓?から観測してたのか~ちょうど木が黒目になった顔に見えるかみさん娘持ち上げて覗かせます横から見たとこまるで恐竜の背びれみたいだ背中側の上から娘「うう~!!」「無理~!」スパイクは当然登ろうとしない・・こちら向きだとピラミッドみたいな遺跡ぽいなつづく
2023.04.30
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この辺りには戦争遺構が色々残ってます。「富津公園」の「中の島」は「富津元洲堡塁砲台跡」になります。水堀?に架かるこの橋は公園化で近代作られたものかな?(←欄干とかは公園化の後付けですが、橋自体は遺構になるようです)この石垣は当時の物かな?土塁に囲まれた虎口みたいで水堀もあるし城跡の雰囲気がします。この辺のコンクリは?この石垣は多分当時物28cm榴弾砲6門、12cmカノン砲4門が配置されていたようでその台座らしき場所がいくつかあります。煉瓦積みが見えます。地下部分に弾薬庫があったようです(地下っていうか土塁の中?)崩れたのか公園化の際に侵入防止の為、埋められたっぽい・・・階段も遺構ぽいこの上のコンクリは公園化で後から被せて埋めたものに見えます。左手のテーブルみたいなのは「拓魂」と記されてるけど方位盤だった物のようです。(←左翼観測所の側遠機の台座跡だったようです)不自然な形状になってる階段公園としては意味不明な造りの階段になりますが遺構としてはちょい探検気分味わえます。煉瓦のアーチ型の入り口があります多分元は鉄の扉でも付いてたっぽい形してるな。弾薬庫なのか?(←左翼観測所の一部施設のようです)なんか暖炉やピザ窯みたいなアーチ状の窪みが3か所ありますな。なにを置いていたのでしょうか?なんか塞がれてるけど穴が開いてたっぽい。換気口?伝声管?弾薬庫の換気口だと思われる煙突柵の外にあるこのコンクリも遺構だと思う大谷石みたいなの積んであるこれは観測所?(←砲台長立台跡のようです)もう一つ反対側に降りる道当時の物なのか公園化で作り変えてるか微妙だけど元々あったであろう気がする階段橋が見えますこの橋は当時のままな気がするな。デザインも良い感じ真ん中部分は船が通過する為の高さ分上げてるのかな?橋渡る前の広場にあったこの花壇みたいな部分も遺構っぽいな貯水池みたいな物だったのかな?「明治百年記念展望塔」から見た「第一海堡」と「第二海堡」明治14年、外国艦隊の東京湾侵入に備え、先端部の海上に人工島の要塞である海堡(かいほ)を2ヶ所(第一海堡、第二海堡)、岬の根元に「富津元洲堡塁砲台」が作られたそうです。「第三海堡」は関東大震災により崩れて海中に没して航路の危険から平成12~19年に撤去されてしまいました。「第一海堡」は遠浅で昔は陸続きで渡れたこともあるとか言われてますが現在立ち入り禁止となってます。「第二海堡」は現在は上陸ツアーとかで見学できるらしい、一度はまじかで見てみたいもんです。解説版
2023.04.29
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帰宅時にふと目をやると、旧そうな橋梁コンクリ塗られた中に煉瓦積みの橋台が見える!詳細は分らんけど旧いもんに違い無いッす!あまり近づけないのと時間が無いのでじっくり見れませんでしたがなんか期待してない場所でお宝発見気分~。この下は多分用水路っぽいな。反対側からならもっと近づけそうだな。仕事があるんで今日は帰ります・・・
2023.02.19
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「海鹿島」の浜を散歩。なんかロープが登ってくれと垂れ下がってるんで一人で登ります上になんかあるのか?洞窟みたいなの期待したけどちょっとした窪んだ場所でしたね・・・なんか骸骨の横顔に見える地層がアートしてます上から他に登攀ルート?があったのでスパイクと行ってみます。頂上?見晴らし良いッす祠なんだこれは?(↑どうやら昔ここからアシカやトドを撃っていたらしいんで、その台座?この場所が「鉄砲台」らしいです。「海鹿島」と言う地名もアシカがいたから付いたんでしょうね。)一応遺構になるかな。それより気になったのがこの石垣これは剥がれ落ちた石垣の跡っぽいなどうみても人工物の跡っす「鉄砲台」の場所からも見えます暗渠みたいに水路?に蓋?四角い穴なんか自然ぽくないな、柱でも立ってた?城の石垣なわきゃないのは分るけどなにかぐるりと囲ってあるな戦争遺構でもなさそうだしおそらく昔ここで養殖でもしてた生簀の遺構かなあ~潮が引いて取り残されてた鮫の赤ちゃん
2023.02.12
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「地球の丸く見える丘」の近くになんか池があります。ちょっと立ち入り禁止ぽいんで近づけませんん~気になるなあ~なんかこの雰囲気は「石切山脈」に似ている帰宅後調べてみたけど地図に名前も無いまあまあの大きさではあるけどね・・・噂では笠間の「石切山脈」同様石切り場の跡地で雨水や地下水が溜まって池になったのでは。地主が個人なのか法人なのか分らないけど市や県ならちょっと整備して下まで見学できるようにしてもらえれば観光名所にもなりうる気がするけど
2023.02.12
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灯台の近くにあった「ディファレンシャルGPS」が無くなってました・・これは支柱の基礎部の遺構かな高いアンテナの姿は無く殺風景?全国27ヶ所千葉県には2箇所(もう一つは浦安)これはワイヤーのアンカーになってた部分だろうな1997年以来、22年にわたり海の安全に貢献してきたDGPSの役目は2019年3月に運用終了されたようです。宗谷岬から宮古島まで全国27の無線局があったそうですがもう見れないのかな?空の安全に貢献してきたVOR/DME同様GPSの精度や性能向上により廃止されてゆくのはなんだか寂しい物です。形あるものはいつかは無くなる物ですが機能させなくても形だけでも残して置いてもらいたかったなあ~DGPS局諸元局名 犬吠埼基準局ID 682 送信局 ID 641周波数 295.0kHz送信空中線位置北 緯 35-42-27東 経 140-52-05
2023.02.07
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県道79号の古いコンクリ橋「大総橋」欄干部分は新しそうですが親柱と手前は当時のままっぽい「おうふさはし」「昭和二十八年三月竣工」反射板みたいなのは近年に後付けされたっぽい「大總橋」良いデザイン川沿い向こうにスパイクと歩いて見ます「第二揚水機場付帯ポンプ場」この先は行き止まり・・なんだ!?あの斜面の構造物は!!意味が分りませんでした。帰宅後ちょっと調べてみたら「小堤の水渠跡」だそうで昔はこの上から水を引き込み埋められてる穴の跡からパイプ2本使って滝のように水が流れ出ていたとか・・・現在は使用されてませんがその代わり反対の「栗山川」から「両総用水機場」で汲み上げているという事でしょうかね。この上の台地上に川や湖があるわけでないのでどこから引っ張っていたのかどこに繋がっているのか謎だなあ~ここ以外にも遺構があるのかなあ~この段になってる広い所も水で満たされていたのでしょうか
2023.01.14
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この場所はもともとあった新川が埋められています。(昭和二十七年頃)十年位前までは旧いコンクリ橋「新川橋」が残っていましたが、今は欄干等も撤去されてしまっています。こうなると橋の面影はありませんな・・・近くに親柱?が残されてました。「新川橋」の文字が見えます。「玄人のわざ」?「昭和八年五月」橋が残っていた時の画像(千葉県の近代産業遺跡ホームページよりお借りしました)
2022.12.27
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三人と一匹RF5で出かけます。「北用水樋門」見学します「江連用水旧構宮裏樋門」と並び現存する茨城県最古(明治33年)の煉瓦造りの樋門国指定重要文化財の「横利根閘門」は大正10年小貝川周辺地域で、当時盛んに行われた利水事業に関し、今に残る唯一の土木構造物だそうです。解説板「利根町指定有形文化財」の標柱2018年(平成30年)には土木学会選奨の日本の近代土木遺産にも選ばれてます。竣工年1900(明治33)年樋門部 幅5.6m、高さ1.02m、煉瓦造り樋管部 幅1.5m、高さ1.5m、長さ6.56m、煉瓦造り設計者 茨城県技師工学士 関屋 忠正主として煉瓦の小口積みで造られ、アーチ状の樋管の内部も煉瓦造り。樋門のゲートの取り付け部や曲面施工された両側の翼壁の上部には石材が使われ、石の色と煉瓦の色のコントラストが樋門の彩色を際だたせてます。銘板北用水樋門の文字と設計者や工事監督者の名前、竣工年が刻まれているそうです。用水路逆側樋門としての機能は廃止されてます・・・なんか落ちてるもしかしてここに乗っかてた?ゴミが浮いてるのがちょっと残念この水路も良い感じだけど当時の物では無いかな~?煉瓦造りじゃないけど、この橋も古さは感じるな
2022.09.19
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三人と一匹RF5で散歩に出かけます。前から気になっていた場所。なんか地主の邸宅みたいなのがあるなと思ってました。「旧岩崎家末廣別邸」だそうです。入口の看板平成25年に富里市初の国登録有形文化財になりました。解説板令和2年12月から毎週日曜日に、敷地の一部について一般公開を行っています。残念ながら犬連れはNGのようでした・・・スパイクはかみさんと敷地外を散歩に行き、俺と娘で見学します。敷地は三菱地所より富里市に寄付され、公園化の計画だそうです。この時点ではこの林間は立ち入り禁止でした。現在は林間の小路や花畑前まで散策できるようです。国の文化財の建物と庭園の一部を外から見学になります。主屋は、昭和2年(1927)の建築建築面積491平米中庭をもつ大規模な木造平屋建、寄棟(よせむね)・桟瓦(さんがわら)葺きの屋根に銅板葺きの庇(ひさし)瓦葺。特に外周のガラス障子の意匠は秀逸、軽快で瀟洒な外観ちゃんと管理されてた為か富里市が修復したのか良好な状態だな。普通に住めそう。平屋の縁側良いよなあ~とても戦前の昭和初期の建築物に見えない竈かな?多分これも当時の遺構っぽい給水タンク塔?蛇口もレトロだな庭に咲いてた躑躅柵を設けてあって見学路となってます。巨木まではならないかな?多分楠と樅こちらも国の文化財になっている東屋昭和初期/平成7年改修木造平屋建、亜鉛鉄板葺、建築面積49平米土庇では柱に曲木、桁・垂木に磨き丸太、軒天井を蒲天井としています。外壁の仕上げはややピンク色の入った漆喰仕上げガラス越しに室内ちょっと覗きました。モミジ?もう一つ文化財に登録されてる石蔵があるのですが、立ち入り可能範囲からは見学できませんでした・・以下に岩崎久彌の解説岩崎久彌(ひさや)は、慶応元年(1865)8月25日、土佐国安芸郡井ノ口村(現高知県安芸市井ノ口)で、三菱の創設者である岩崎彌太郎(やたろう)とその妻、喜勢(きせ)の長男として誕生。久彌は慶応義塾、三菱商業学校に学んだ後、父、彌太郎が病没した翌明治19年(1886)に米国ペンシルベニア大学に留学、財政学などを学びます。同年、彌太郎の志を継いだ実弟の彌之助(やのすけ)は海運業から撤退という英断を下し、新たに「三菱社」を創設。鉱業や造船など、海上から陸上への事業に転身を果たします。また、明治26年(1893)には、商法の施行に際して製糸会社を設立するなど社業を拡充し、鉱業、銀行、造船、商事、地所などの諸事業でも大躍進を果たしました。久彌が社長を務めた期間は、国内で殖産興業、産業革命、重工業形成が重なった時期でもあり、時代の追い風に乗って叔父彌之助によって築かれた事業の近代化と新たな事業を興して三菱の多角経営化に努めました。三菱をより強い会社とした後の大正5年(1916)、久彌は従兄弟である岩崎小彌太(こやた)に社長の座を譲り、農牧事業へと邁進して行くことになりました。明治3年(1870)、かつて徳川幕府の直轄牧であった富里の地は、明治政府によって開墾地として利用されることとなります。これは幕府の終焉によって職を失った武士や商人など、「窮民(きゅうみん)」と呼ばれる人々を救済する目的として行われたものでした。しかし、元々農業経験のない人々によって開墾が行われたことや、自然災害が頻発したことから計画は思うように進まず、国の補助金制度も廃止となり、多くの開墾民が富里を去ることになります。明治8年(1875)、時の内務卿大久保利通の主導の下、「下総牧羊場(のちの下総御料牧場)」が開設されたことから、開墾地は政府に買い戻され、「獅子穴区(ししあなく)」と称されるようになりますが、経営の合理化から再び払下げの対象地となり、同15年(1882)には藤崎友十郎(富里初代村長)が購入を試みます。しかし、代金の納入に苦慮したことから同20年(1887)には払下げの願いを取下げ、その後すぐさま河村信吾が同地の購入を進めますが、同じく代金の納入に苦慮をしたことから、岩崎彌之助に依頼してこれを買い替えてもらうこととなり、これによって343町歩(およそ340ヘクタール)という広大な土地が、牧畜を目的として岩崎家の所有となりました。久彌が末廣農場の経営に乗り出す以前、農場主を務めたのが久彌の実弟、正彌でした。正彌は洋式の養鶏法を導入し、箸でちぎれるほど柔らかで上質な肉を生産することに成功していました。しかし、この肉は宮内省、大使館、帝国ホテル、料亭末廣のみに卸された高級品であり、一般の市場に出回ることはありませんでした。料亭末廣では鶏肉の刺身を出し、食通に好評を博していたとも言われています。このようなことから生産コストが高く、営利事業としては失敗に終わります。大正4年(1915)、正彌が東京の会社に異動となったのを機に、末廣農場の活動は一時休止状態となりますが、かねてから農牧事業を手掛けたいと夢見ていた久彌が農場を検分し、同8年(1919)から久彌自身が農場経営に携わって行くことになります。大正8年(1919)から農場経営に携わった久彌の農場経営スタイルは、久彌個人が出資して興した東山(とうざん)農事株式会社に事業を委託し、自らは経営と技術面について月に2、3度東京の本邸から通い、指導を行うというものでした。自己利益的な事業を実施するのではなく、農牧事業の改良に関する多くの研究を行い、その成果を逐次各方面の研究会などで発表し、提供していました。また、農場長であった橘 常喜(たちばなつねき)に対して、「我が国畜産会の改良進歩に資し得る模範的実験農場を作って貰いたい」という言葉を残しているように、人の為に役立つ農場を作りあげることこそが久彌の夢だったのです。この言葉のとおり、末廣農場では養鶏・養豚は言うに及ばず、最新の設備と機械を導入した先進的農法が実践され、日本の農牧研究に多くの功績を遺したと伝えられています。また、ハム、ソーセージ、ベーコンなど、加工食品の自家生産も行われたことから、ここに農場経営の一つの理想形が完成していたと言えるでしょう。これらの実績を認めた千葉県農業試験場では、末廣農場に対して白菜や西瓜の原々種栽培を委託しており、ここからも末廣農場の「技術力」と「信頼性」の高さをうかがい知ることができます。そして大正15年(1926)、久彌は農場内の別邸として「末廣別邸」を建築するのです。特に養鶏には力が注がれ、最高時には8,000羽が飼育されていたといわれています。年間産卵数は415万個、年間に300個以上の卵を産む鶏が50羽以上いるという好成績の農場でした。養豚は年間1,000頭を飼育し、ハム、ソーセージ、ベーコンの自家製造を行い、立川養豚場を通じて一般にも販売されました。農作物は試験農場を設置し、主に大豆、小麦などを生産していました。特に下総地方では収穫が難しかった大豆の多収穫方法を確立し、これらの実績が認められ白菜、西瓜の原種及び原々種の種の採取を委託されていました。アメリカ、ヨーロッパの最新機械を導入し、組織的な農場運営を実施していました。大正12年(1923)には、小岩井農場の鈴木・縣(あがた)両技師と共に橘 常喜農場長に8カ月におよぶ海外視察を命じ、先進的な農場経営を学ばせています。三菱社長の任にある間、久彌は自己の趣味には幾分遠慮がちであったと伝えられ、社長の任を離れると一気に農牧事業へと傾倒していきます。久彌は政治というものに全くといっても良いほど関心がなく、大企業を率いたことがあるとはいえ、他と争うということを好みませんでした。自然に接し、大地を愛(いつく)しむという姿勢が久彌の性格そのものであったと言われています。晩年、農場の見回りを行う際にはステッキの先に小さな鎌を取り付けたものを携え、畑の中の雑草を見かけるとそれで刈り取っていたと言われており、その風姿は一介の農夫となんら変わるところはありませんでした。しかし、道端に古いわらじなどが捨ててあるのを見かけると「物にはそれぞれ使命があるものだから、最後までその使命をまっとうさせるようにしなければならぬ。古いわらじは堆肥にすれば、まだ十分に役立てることができる」と農場員に告げたというような逸話も遺されており、久彌がいかに農牧事業に打ち込み、物を大切に扱うという姿勢を貫いてきたかを物語っています。そんな手塩にかけた末廣農場の運命は、昭和20年(1945)の第二次世界大戦の終結から、昭和27年にかけてGHQによって実施された財閥解体と農地改革によって大きく変わることとなります。広大な農場の敷地のうち119ヘクタールは当時の富里村に譲渡(現市役所、富里中学校敷地など)され、198ヘクタールについては農場従業員の帰農者に払下げが行われました。養鶏と養豚の施設部分約40ヘクタールについては千葉県に譲渡され、千葉県畜産試験場として新たな一歩を踏み出すこととなりました。しかし、昭和30年代後半に至って計画された成田空港建設のためとして、千葉県は空港用地買い上げ農家の代替地として試験場を提供することとなり、末廣農場関係の施設は別邸とその周辺の土地のみとなりました。こうして久彌が愛情を注いだ末廣農場は歴史の表舞台から姿を消し、その業績は跡形もなく消え去ったのです。久彌は本邸を物納し、昭和24年(1949)6月21日に別邸へと移り住むこととなります。GHQの占領政策によって東京の本邸を物納することになった久彌は、昭和24年(1949)6月21日、末廣農場内に建てられた「末廣別邸(現七栄652番地24)」へと越してきます。しかし同年9月24日、大好きな鶏に囲まれながら起居する静かな余生を送ろうとする久彌にアダムストークス症候群(心臓病の一種)という病魔が襲いかかり、長い闘病生活を余儀なくされます。亡くなる前年の昭和29年(1954)には「もう2年、生かしておいてくれぬか。今、計画している事があるので、それをぜひやってみたい」と主治医に伝えたというように、闘病の身でありながらも農牧に関する研究への情熱を失うことはなかったのです。昭和30年(1955)、久彌は90歳という高齢を迎えました。決しておごることなく、すべてのものに感謝しながら「カントリージェントルマン」として農牧の改良に捧げた人生でしたが、高血圧と老衰の進行は医師も絶望視するほどとなり、同年12月1日にはさらに病状が悪化し、近親者一同が枕元に集います。そんな中、庭先の木の葉の落ちる音さえ聞き取れそうな静寂な息詰まる数時間が過ぎた夜半の1時15分、ついに久彌の激動の人生に幕が下されました。「苦痛はなく、眠るような大往生であった」と、岩崎久彌傳は伝えています。見学時にもらったパンフレットより
2022.04.20
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「浅間神社」の下になにやら水路跡があります。「万治堀跡」だそうで標柱がありました。現在は水は流れておらず木の葉がが溜まっています。この水路自体は江戸時代に千葉氏の遺臣戸井四郎の孫で八代村の名主戸井四郎左衛門が干ばつに苦しむ農民の為に尽力して農業用水路を完成させました。現在の遺構は昭和の時代にも「万治堀」を利用していた用水路の跡になるようです。「江川」の「橋川橋」付近から取水し台方、船形の山裾を回して八代まで6.5kmの長さがあったようです。もしかして八代の「弁天池」も一部だったのかな?こんな樹も根付いてますな・・
2022.02.03
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ついでに「阿見美浦バイパス」走って阿見まで行きます。たしか「霞ヶ浦海軍航空隊」の遺構がこの辺りにあるはず。「中郷児童公園」に車停めて付近散策「中郷保育所」隣の空き地に石碑があったので見てみます。※反対側には「霞ヶ浦海軍航空隊」の貯水池跡もあったみたいだけど見逃したな・・「海軍航空殉職者慰霊塔」「霞ヶ浦神社」の社号標しかしここに神社は無い。終戦時GHQ強制廃棄が命令されたが阿見町当局の配慮により、霞ヶ浦神社の拝殿は「中郷阿彌神社」境内に遷座されたとか。「茨城大学」体育館入口に残る「士官宿舎通用門門柱」「茨城大学」校門入口に残る「霞ヶ浦海軍航空隊本部」門柱「茨城大学」のグランド入口に残る「准士官宿舎」通用門の門柱解説板があるのも「霞ヶ浦海軍航空隊」の方位盤跡画像暗くて分らないけど多分これが「霞ヶ浦神社」社殿基礎跡じゃないかな?「蓄魂碑」これは海軍遺構じゃなくて「茨城大学農学部」の物でしょうこの解説板の遺構は見当たらなかった。(↑この解説板が置いてある大学施設の中に保存されてるようです)グランド前に残る「特務士官宿舎」通用門門柱なんかロープで張られた場所近くで犬散歩中の方が大学内に防空壕が残ってると言ってたけど違うかなあ?暗くて良く分からなかった。う~んこれは「霞空隊」の遺構じゃないか敷地内の木になった公孫樹暗くてスパイクも俺も黒猫いたのまったく気がつかなかった!目の前の道路犬散歩してた人何人かいました。たしか菜菜ちゃんだっけかな?この他にも、まだまだこの辺り遺構が残ってるようなんでそのうちまた散歩するかな
2021.08.01
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R465沿い走っていると前から気になる場所が見えていたので寄ってみます。今は使われていない旧隧道、廃隧道「佐室隧道」東側坑口鉄骨製のロックシェッド(雪崩や落石、土砂崩れなんかから守る覆道)があります。ガードレールの切れ目に車停めて歩きます。廃道は草に覆われてきてます。屋根上の土嚢袋から草が生えてきてます。植物の逞しさを感じますな。天然の草屋根っすね。H鋼に嵌め込まれてる板が所々外れてます。落石のせいか?木の板の劣化かな?想像通りフェンスで遮られていました・・・内側にはなにやら数字の書かれた黒いフレコンが大量に積み上げられてます。中身は砕石や土砂なのかなあ。産廃や除染作業の汚染土とかじゃないといいけど。なんかやばい威圧感ある。戻る途中スパイクがなにやらクンクンしてるんで見てみると、なんじゃこりゃ?狸や狐、鼠、猪の屍骸では無いな。ひょっとしてキョン?国道の現トンネル潜って反対側に廻ります。西側坑口こちらも黒いフレコンが詰め込まれてます。その上フェンスに草も覆われてます。手前の岩は落石じゃなくて持ち込まれて放棄した物?保管してる物?斫ったコンクリっぽい。奥に歩道用隧道が見えます。扁額「佐室隧道」副員4.7mは大型やワイドの4t車はすれ違えないよなあハマーならミラー倒してギリいけるか?あっちも塞がれてるけどスパイクと近くに行って覗いて来ます。ん?土嚢を乗り越えれば入れるんじゃない東側の坑口が見えます。こちらはフレコン詰め込まれてないっすね。赤い色した岩は鉄分なのかな竣工 昭和30年延長 72mこの「旗立山」?はいすみ市指定史跡「発坂峠」という戦国時代の古戦場跡でもあるみたいです。靖国鳥居がある。「旗立山」登山道登ると「佐室浅間神社」があるようです。登山道この山の中にどうやら旧日本軍の洞窟陣地があったらしい。しかし家族連れで他にも予定があったので、いつかまた来た時にでも・・・振り返った鳥居
2021.04.04
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廃線になった「鹿島鉄道鹿島鉄道線」の「鉾田駅」他の廃駅と違い敷地は「かしてつ」後「関鉄グリーンバス」のバスターミナルとして現在使われています。かつて「関東の駅百選」にも選ばれた駅舎は保存される運動もあったようですが、老朽化により解体されてしまいその姿を見ることはできません。遺構としてホームが現存しています。この煉瓦も遺構になるのかな「東日本大震災」液状化現象の影響で歪んで崩れています。草ボウボウで良い味でてます。これらもそうかな?草が生えてる分には良いんだけど、なんか不用品置き場?みたいなのはちょっと見苦しいよな。手前はバスターミナルのおそらくバス駐車スペース敷地の一部をかしてつの保存会が鉄道公園化するつもりでしたが計画が頓挫して買取動態保存されていた車両は「ほっとパーク鉾田」に移送されています。娘はまた石ころ拾ってるなんかこんなところは俺ににてるんかなあ震災や台風の爪跡は各地で残ってますな・・・1面1線(側線あり)ホームの地上駅1929年(昭和4年)5月16日 - 鹿島参宮鉄道の駅として開業。1939年(昭和14年)4月1日 - 従来よりも市街地よりに建設した新駅舎(鉾田B駅)で営業開始[8]1965年(昭和40年)6月1日 - 鹿島参宮鉄道と常総筑波鉄道が合併して関東鉄道が発足。関鉄鉾田線の駅となる。1979年(昭和54年)4月1日 ‐ 鉾田線が鹿島鉄道に分社化。2000年(平成12年) - 国土交通省(当時は運輸省)関東運輸局の第1回「関東の駅百選」に選定される。2007年(平成19年)4月1日 - 廃止。
2021.02.13
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「利根運河」近くにある「野田樋門」を見てみます。味のある煉瓦造りの樋門ですね。煉瓦はイギリス積?建設 1908年面壁の高さは2.2m、翼壁の高さは2.8mこちらは利根川側上に御影石の板が嵌めこまれています。上から見たところコの字の凹みに角落としと言われた木の板を何枚も出し入れして水量調節するゲートが付いていたと思われます。奥のあれはヒューム管とコンクリで作られたぽく見えるな。右側の安全鋼板で囲まれてる場所では砂や砕石の積み込み場所みたいな施設。真ん中に銘板が有るのかあったのかズームしても良く分からないなあ。川の裏側には煉瓦のアーチリング 普通煉瓦のみ 煉瓦小口の5重巻き立てだが、小口縦4巻の 上に小口横を巻き立てた非常に変わった様式だそうです。現在は水は流れてません。角落としの板出し入れする為の台座の御影石
2020.11.02
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「第一揚水機上」前の「水源橋」?旧道356には水源橋(すいげんきょう)の表示柱には銘板「源橋(みなもとばし)」?竣工昭和27年3月良い感じのコンクリ製欄干下の鉄骨は補強されたのかな。横にあったのは水管橋かな逆三角補剛形式
2020.10.18
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行方市八木蒔にある「鹿島鉄道八木蒔駅跡」に寄って行きます。気にしていれば道路から直ぐ近いので分かりませんが気にせずに走ってると通り過ぎそうな場所です。2007年(平成19年)鹿島鉄道の営業廃止にともない廃駅となった「鹿島鉄道鹿島鉄道線」の駅。単式ホーム1面1線の地上駅。無人駅で待合室が残ってます。待合室線路は撤去されて残っていませんがそのまま道は残っています。マウンテンバイクやオフロードバイクで旧線を周ってみるのも面白そうだなあ。13年前にはここを列車が走っていたのだろう・・ホームは自然に帰りそうな雰囲気で、解体撤去や作り変えて別の用途に使うなどせずにこのままで保って欲しい・・・駅名は看板が朽ちて無くなり枠だけが残ってます。近所の地図が書かれた看板でしょうか?椿も落ちてます。ひと気も無く静かな取り残された雰囲気。時間の経つスピードが異なる錯覚さえ覚えます。道路脇のこれも駅の遺構でしょう。踏切あったのかな?この朽ちた柵?もホームの一部反対側は藪化してるけど道は残されてるのかな。この砕石も線路の下に敷かれていたものでしょう。「銀河鉄道の夜」じゃないけど、ここに異世界に行く列車が来そうな雰囲気。1931年(昭和6年)2月1日 - 鹿島参宮鉄道の駅として開業。1943年(昭和18年)12月23日 - 休止。1951年(昭和26年)10月1日 - 営業再開。1965年(昭和40年)6月1日 - 鹿島参宮鉄道と常総筑波鉄道が合併して関東鉄道が発足。同社鉾田線の駅となる。1979年(昭和54年)4月1日 ‐ 鉾田線が鹿島鉄道に分社化。2007年(平成19年)4月1日 - 廃止。航空自衛隊百里基地への航空ジェット燃料による貨物輸送の収入によって、何とか経営が成り立っていたが、2001年(平成13年)8月に燃料輸送が終了したため、深刻な経営悪化に陥った(2002年〈平成14年〉4月1日に貨物営業は廃止)。これに対し、親会社である関東鉄道の経営支援、沿線自治体と茨城県による公的支援が5年間行われることとなり、廃線の危機は一旦回避された。2002年度からの5年間は、経営改善5カ年計画に基づき、軌道強化、鉄道利用者向け駐車場整備、自転車を車内に持ち込める「サイクル&トレイン」の運転、65歳以上を対象とする格安定期券の発売などの営業施策を実施した。2005年のつくばエクスプレスの開業により、関東鉄道が常総線や自社高速バスの利用者が減少し減収となったことを理由に、2007年度以降の経営支援を行わない方針とした。これを受け、親会社の支援なしでの鉄道経営は無理であるとして、鹿島鉄道は2006年(平成18年)3月30日に鹿島鉄道線の廃止届を国土交通省に提出した。2006年3月末時点での累積欠損額は、約2億5500万円に上っていた。2006年(平成18年)夏、2007年度以降も鉄道事業を継続する場合、5年間で車両新造、設備更新を含めて約11億円の支援が必要となると試算した。これに対し鹿島鉄道対策協議会は、中古車両の導入や寄付金の受け入れなどで、経費削減が可能とし、上限として約6億5000万円を提示した。また、後述するような存続運動が展開されたが、鉄道線は2007年(平成19年)4月1日に廃止Wikipediaより1982年 土曜ワイド劇場『戻り川心中』「千代ヶ浦駅」の撮影が常陸小川駅で行われた。1994年 『人間・失格〜たとえばぼくが死んだら』 最終回で教師の新見(加勢大周)がホームから突き飛ばされて列車に轢かれるシーンを撮影。1996年4月12日 - 6月28日 『若葉のころ』 (TBS系;KinKi Kids出演) “嘉野駅”として石岡駅が登場。 人通りの多い石岡南台駅としても撮影。 撮影のために4両編成の列車が運行された。2005年 『仮面ライダー響鬼』第7話 ヒビキが篭る山へ向かうために、安達明日夢(栩原楽人)が鹿島鉄道に乗り込む。 巴川駅で降りようと するも、寝過ごして常陸小川駅で降りる。2005年 『はるか17』 栃木県のローカル線という設定で登場。 玉造町駅が「栃木野駅」になったが、駅前にあったコイと玉のオブジェはそのまま写っている。2005年 『涙そうそう』2007年 『奇跡体験!アンビリバボー』「知られざる英雄 時速110kmの怪物に挑む」 2001年にアメリカオハイオ州で起きた「CSX8888号暴走事故」の再現映像の撮影が、暴走する貨物 列 車を牽引する機関車とそれを停止させる機関車として鹿島鉄道DD902形機関車・スム1000形貨車・ 関東鉄道DD502形機関車を使用して鹿島鉄道石岡駅および関東鉄道水海道車両基地で行われた。このとき、車体には実際にアクシデントを起こした「CSX」社のステッカーとナンバープレートが貼られていた。2009年 『コード・ブルー -ドクターヘリ緊急救命-』「新春スペシャル」 架空の鉄道会社、新千葉鉄道・西浦安発千葉山行き普通電車の脱線転覆事故現場シーンで旧鉾田駅周辺が使われた。車両のセットを長期に設営ができ、複線の軌道が存在し、ヘリコプターが着陸可能な場所として廃止後の当場所が選択。映画1988年 『1999年の夏休み』 舞台となった寄宿制学校の最寄り駅として坂戸駅が使われ、714が登場。1993年 『教祖誕生』 主に玉造町駅、常陸小川駅周辺で撮影。 駅構内のほか、車内の様子や駅周辺の街並みも登場。2005年 『疾走』2005年 『鉄道物語2』(DVD作品) オープニング映像にキハ431の出庫シーン。2007年 『あなたを忘れない』 エンドクレジットの「撮影協力」に鹿島鉄道がある。2007年 『そのときは彼によろしく』 主人公の少年時代と現在、友達と別れて列車に乗り込むシーンで2度登場。 廃線直前の2007年2月に玉造町駅で撮影。 廃線前の鹿島鉄道で最後にロケが行われた映像作品。2007年 『自虐の詩』 気仙沼から仙台へ行く鉄道として登場。桃浦駅およびその前後で撮影。2008年 『まぼろしの邪馬台国』 廃線後の2007年度に旧八木蒔駅でロケ。プロモーションビデオw-inds.『ageha』柴田淳『花吹雪』 全編に渡って、玉造町駅で撮影。ランクヘッド『夏の匂い』aiko『彼女』 回想シーンの中でDD901が登場
2020.07.19
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「佐倉城址公園」散歩中に見つけた佐倉連隊(陸軍歩兵第五十七聯隊)の遺構と思われるものです。紅葉見てるとなにやら古そうな階段見つけました。降りてみます。なんじゃこりゃ?何か地下施設の入口をブロックで埋めた跡が・・・なにかの貯蔵庫?煉瓦が一部露出してます。落ちてる煉瓦調べてみると戦跡巡りしてる方のHPによると陸軍病院に続く壕では無いかとの記述。どう見ても公園関連や城跡関連ではないので戦争遺構でまちがいなさそう。これもなにも解説板なんかないけど、前から気になっていた円形の基礎こちらも連隊遺構で間違い無さそう。何かの台座なのかなあ?壕もそうだけど佐倉城址公園内の戦争遺構で紹介されていない物がまだまだ現存してそうだな。12階段裏手の水路みたいなのもそれっぽいし・・まだ見たことないけど陸軍境界標もあるとか。
2020.04.26
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「めがね橋」R461鉄橋の近くに駐車スペースがあります。そこから徒歩。途中ぬかるんでる所があったおお~ジャングルの中に現れた遺跡のような存在感!国道にあるこの看板は車で走ってると見難い正式名は「花貫川第一発電所第三号水路橋」国登録有形文化財です。「土木学会選奨土木遺産」の銘板「国登録有形文化財」の銘板長さが77.4m幅が2.1m高さ22.4m建築 大正7年鉄筋コンクリート造2連アーチ橋橋脚もカックイイっす現役の水路橋ですんで、ちゃんと水流れとります。気持ちよいです。想像以上にキレイだな(多分時々掃除してるんだろうな)このまま海パン穿いて流されたくなる国道に架かる橋が見えます。奥は「花貫ダム」のダム湖に繋がります。高萩における電気事業は、当初石炭を利用した火力発電が、大正元年に設立された多賀電気株式会社によって始められたが、事業拡張を図るため花貫川の水力を利用する花貫川第一発電所が大正7年に設置された。 取水口を中戸川鳥曾根に設け、水路は山の中腹を掘り抜き導水された。この導水のために谷に水路橋が設けられた。花貫川第一発電所第3号水路橋である。この水路橋の橋脚は沢の谷底から石を約15m積み上げ、その上部はコンクリートにより、両側の山に向かって2つのアーチが架けられている。これが眼鏡のように見えることから「めがね橋」と呼ばれており、現在も現役で使用されている高萩市の貴重な近代化遺産である。 めがね橋は「花園花貫県立自然公園」の地域にあり、周辺には花貫渓谷、名馬里ケ渕、花貫暖帯・温帯混合自然林など豊かな自然に囲まれている。
2020.04.05
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こちらも気になっていた建物「旧石川組製糸西洋館」国登録有形文化財入間市景観50選解説板木造レンガタイル貼り2階建西洋館だけどなんか和風の雰囲気も漂う東京帝国大学卒の室岡惣七の設計川越の宮大工・関根平蔵の施工なんかラーメンの丼の模様ぽいなこちらも国の登録文化財の別館煙突があるけど銭湯だったのかな?時々一般公開やコスプレ撮影会、ミニコンサートなんかもやってるようです。石川組製糸の創業者石川幾太郎が迎賓館として1921年に建設。旧石川組製糸西洋館本館と別館の2件が2001年(平成13年)11月20日に国の登録有形文化財2003年~入間市の所有ロケ地としても沢山使われているようですねTRICK2土曜ワイド劇場「家政婦は見た!」(第20作)金曜ナイトドラマ「帰ってきた時効警察」ライアーゲームRHプラス男装の麗人〜川島芳子の生涯〜ドラマ8「Q.E.D. 証明終了」名探偵の掟魔女裁判謎解きはディナーのあとでたぶらかし-代行女優業・マキ-土曜ワイド劇場「ミステリー作家六波羅一輝の推理2 京都・陰陽師の殺人」遺留捜査シリーズ赤と黒のゲキジョー「瀬在丸紅子の事件簿」FLASHBACK玉音放送を作った男たち日本のヴァイオリン王〜名古屋が生んだ世界のマエストロ 鈴木政吉物語〜グ・ラ・メ!〜総理の料理番〜刑事7人(シーズン2)(第8話)シリーズ・横溝正史短編集シリーズ・江戸川乱歩短編集インベスターZ探偵が早すぎる賭ケグルイ season2仮面ライダー龍騎牙狼-GARO-トミカヒーロー レスキューフォース戦国★男士仮面ライダージオウ稲村ジェーンスターフィッシュホテル愛と誠giftフローレンスは眠る帝一の國ラストレシピ〜麒麟の舌の記憶〜悪と仮面のルールうちの執事が言うことには東京喰種 トーキョーグール【S】蜃気楼(自主映画)テレビ番組ファミリーヒストリーシリーズ高田万由子(再現ドラマ)アートエンターテインメント 迷宮美術館(再現ドラマ)バラエティーニュース キミハ・ブレイク(再現ドラマ)非破壊検査PRESENTS 復興せよ!後藤新平と大震災2400日の戦い(再現ドラマ)中谷美紀 日本ノ宝、見ツケマシタ(再現ドラマ)NHKスペシャル「緒方貞子 戦争が終わらない この世界で」(再現ドラマ)北里研究所創立100周年・北里大学創立50周年 記念特番(再現ドラマ)ビットワールド(NHK)生きるを伝える(オープニング映像)戦火のマエストロ・近衛秀麿〜ユダヤ人演奏家の命を救った男(再現ドラマ)にっぽん!歴史鑑定(再現ドラマ)あらすじで楽しむ世界名作劇場(再現ドラマ)コズミックフロント(番組内ドラマ)音楽「DARLIN' 」(1990年) - D'ERLANGER「Lies and Truth」(1996年) - L'Arc〜en〜Ciel「君のためにできること」(2001年) - GACKT「宇宙に咲く」(2007年) - コミネリサ「愛が哀しいから」(2008年) - 徳永英明「moonless night(月無夜)」(2011年) - UNDER FOREST「それでは、また明日」(2012年) - ASIAN KUNG-FU GENERATION「from mouth」(2014年) - amber gris「黄昏昭和の駅前で」(2018年) - 亜沙「真夏の夜の匂いがする」(2019年) - あいみょんCM湖池屋 スコーンロッテ のど飴オンワード組曲(出演:石原さとみ)東京ガス ガスパッチョ(床暖房編)(出演:竹野内豊)ライオン ソフラン アロマリッチ(出演:栗山千明)アサヒ飲料 WONDA(出演:織田裕二)マルハニチロ 冷凍食品
2020.03.12
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スパイクと娘を実家に預けてRF5で出かけます。前から気になっていたこの建物興味ない人には素通りされる場所です。古い扉には薄っすら文字が見えます埼玉銀行?豊岡支店?老朽化してますが硝子などは割られていなくて廃墟にはなってません。入間市が所有保存してるそうです。目の前に解説板ありますね入間市指定有形文化財「旧黒須銀行本店」のようです1909年(明治42年)5月2日に完成年数回内部公開されてるみたい。黒須相互組合(1894年(明治27年)設立)を前身として1900年(明治33年)2月11日に設立総会を開き設立し、14日に営業認可され、28日に登記され、3月3日に営業を開始した。しかし、第一次世界大戦後の不況の影響を受け、1922年(大正11年)5月に武州銀行へ合併して消滅した。設立時の顧問には渋沢栄一が就任していた。その後、武州銀行は埼玉銀行を経て、現在は埼玉りそな銀行となっているWikipediaよりお札の新しいデザインになる渋沢栄一がかかわってたんだね!深谷市が生まれ育った地として有名ですが実業家なんで色々やってたみたいっす。おまけ付近にあった「布袋尊」?「霞川」にかかる「万世橋」後ろは「西武池袋線」とR16
2020.03.11
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「常安寺」の寺号標に写ってますが、門柱が煉瓦造りで良い感じでした。手抜きの焼過煉瓦のフランス積み1911(明治44)年11月建立煉瓦門の高さは約3.79m色も赤過ぎず瓦も使って和洋折衷画像は境内から振り返った門マジ卍~
2020.02.09
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R123戻り県道338号進みます。茂木町大字牧野にある「木須川の洞門」に寄ります。解説板かみさんと娘は危ないので俺とスパイクだけ近くまで行きました。この辺に車停めて歩きました。(この後デジカメのバッテリー切れで携帯での画像となります。)那珂川支流の木須川の洪水を防ぐため、長峰山の下を掘り取った、長さ47m、幅15m、高さ2.6mのトンネル。明治44(1911)年に工事を開始。大正5(1916)年に完成そんなに暑い日でもないけど、この中はヒンヤリ気持ちよかでした。前上に見えるのが県道274昔は洪水が酷かったようですが今は水量も控え目で想像できませんね。結構天井の岩が剥がれ落ちてるみたいでデカイのゴロゴロ転がってます・・発破で死者も出た工事だったそうですが、完成後は田畑や家屋の被害も減って地区の安定に貢献したようです。なかなか良い所でした。
2019.12.16
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お目当ての「北浦海軍航空隊跡」当時の水上機スリップ跡が現在も残っております。この辺は静かなもんですが、ちょいいくと水上バイクがわんさか走り回っています。(ここも鹿島海軍航空隊跡地と同様なかんじ・・・外人率が高い気がする。なんとなく昼間から高級車で乗りつけ騒いでる人達はYの付く職業なのでしょうかね?)なるべく車や水上バイクがわんさかいるとこ避けて撮ってます。「北浦レイクサイドホテル」屋上から滑走台550×45メーター左奥がブイブイ言わしてる人達。エンジン音と笑い声が聞こえてきます。戦時中に祖国のために戦う若者が真剣に訓練されてた場所ですが、現在は平和になった時代そんな面影も知らなければ分りません。同じ場所ですが感情の無いコンクリの遺構はどちらも眺めてきたのでしょう・・・説明はありませんが国有財産になってるようです。兵舎跡地は、現在「茨城大学広域水圏環境科学教育研究センター」「皇太子明仁殿下御行啓記念碑」があります。「北浦海軍航空隊跡地」と記されてます。北浦海軍航空隊の「格納庫の基礎」も残ってます。田んぼの畦道伝って近寄ります。アンカーボルトにナットが残ってます画像無いけどドック跡が釣堀になってるようです。地下施設や掩体もあったとか・・「白帆保育園」の門柱も古そうで遺構かと思えてしまうな。通称赤トンボといわれた93式水上中間練習機80機配備され軍人も2000名はいたそうです。昭和16年 鹿島海軍航空隊北浦分遣隊が設置。昭和17年 北浦海軍航空隊として独立。昭和20年 訓練部隊解隊。
2019.11.18
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前から気になっていた建物を車内から眺めました「銚子市公正市民館」(旧財団法人公正会本館)なかなか眼を引くレトロな建物ですね。浜口儀兵衛商店の第10代店主悟堂氏が設立した財団法人公正会の本館公正図書館として使用。戦後は銚子市に移管大正15年4月の竣工おまけ銚子のマンホール波、鰯、カモメ、犬吠崎灯台がデザインされてるっぽいカラーバージョンもあるみたい。
2019.07.22
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「来宮神社」前のメガネトンネルが石積みのアーチの良い感じです。「来宮眼鏡橋」東海道線&新幹線の下を潜っています。竣工 大正七年右が「来宮架道橋」左が「来宮暗渠」元々は「来宮橋梁」竣工当時のトンネルは現在の姿と異なり、右側は深く掘りこまれ、そこを初川が流れていました。後年、交通量の増加に伴い川にふたをするかたちで、車道を増やしたようです。今でもこの下には水が流れているんですね。
2019.07.07
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近くの「旧学習院初等科正堂」国指定重要文化財(昭和48年)1899年築(明治32年)移築 1975年(昭和50年)設計 新家孝正建築面積 647.7m21階平屋建ての木造建築 スレート及び瓦棒銅板葺細部まで拘りの造りスパイクは入れないけど、中も公開されてます1983年発行の切手、近代洋風建築シリーズの第9集に描かれたそうです。AKB48の『言い訳Maybe』乃木坂46の『おいでシャンプー』のPV撮影にも使用されたみたい。近くの菜の花桜も咲き始めてますな。
2019.05.03
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一人と一匹UF66で散歩R409沿いに気になる土塁途中道路に分断されてるけど、中々の長さと高さの土塁が残っています。反対側振り返って上から畑の奥で消滅してる住宅造成で崩したんだろうな。R409渡った先にも続いてるR296で消滅してます。上から良い感じこれは城跡?調べたらこれは野馬土手だとか馬込めだとかいうものらしい・・・この一帯は昔から野馬が沢山いたらしいっす。この作られた土塁で馬を追い込み捕獲したようです。牧場関係も多かったしね。これも立派な遺構です。
2019.03.18
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三人と一匹RF5で出かけます。前から気になっていた、千葉市若葉区にある「千葉刑務所」刑期8年以上の初犯者(重罪初犯者)を収容する男子刑務所収容定員 1150名「オーム真理教」幹部 林郁夫や「足利事件(冤罪)」「神奈川金属バット両親殺害事件」「布川事件(冤罪)」「御殿場事件」の受刑者収容で有名です。明治40年築司法省の山下啓次郎の設計五大監獄の一つ(奈良監獄・千葉監獄・金沢監獄・長崎監獄・鹿児島監獄)放射状の獄舎等は残っていませんが本館と正門は現存しています。旧千葉監獄の遺構正門正門の表札両脇の丸み帯びた塔細かいところまで凝った作り今の建築では納期やコスト優先でありえない作りだろうね中から見た正門本館なかなか全体写すのが難しいかっこいいなあ「神は細部に宿る(God is in the details)」とはこういう事であるのだろう。今、復元とかじゃなくて一からこの手の設計できる人って少ないんじゃないかなあ~内部施設見学もあったようですが早く来場しなければ整理券ゲットできなさそう。現役施設なので撮影禁止はもちろん、スマホやカメラ等手荷物検査で厳重に持ち込み禁止されてるみたい。ついでにスパイクと周り散歩してきました。これらは見れば分かりますが当事の物ではありません。煉瓦風のタイルで雰囲気ちょい合わせてます。刑務所の壁は自力で這い上がりにくいように、角部分が弧を描いてアール付けられてますね。監視カメラもあるな。無骨な刑務所感がする監視小屋?フェンス越しに歩きやすい鉄の扉これも監視小屋?高さのある壁今回「矯正展」で見学したけど明治設計当時の建築建物は、矯正を優しく温かみのある心で向かえる柔の部分。その他の高い塀や監視施設、有刺鉄線、頑丈な扉等は絶対的な抑止力の剛の部分を感じましたね。
2019.01.05
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「常陸大子駅」構内にある水郡線営業所の転車台も見てみます。敷地内立ち入り禁止だと思うので外から眺めてみます。上路式バランスト型の18m級ピットはすり鉢状ガーターの上に乗って円周のレールを廻って転回するのでしょう。青い電話ボックスみたいなのの中で転回操作するのかな?実際に使われてるとこ見てみたかったなあ。おまけ友部SAで食った鯛焼きお好み鯛焼きカレー鯛焼きどちらもおいしかった。ちゃんと皮は鯛焼きしてたし、お土産奥久慈卵リッチなプリンのリングケーキこれもおいしかったな。只レジが長だの列なのに一つしか開いてなくて、あと2番目ぐらいで「お急ぎの方はあちらのコンビニのレジもご利用下さい」って早く言えよ~今更だろ~L700は車検継続せずに兄貴のお下がりRF5に乗り換える事になりました。L700にかみさん、娘、スパイク、俺の三人と一匹で出掛けるのはこれで最後となりました。今までありがとうL700!!
2018.10.21
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「総武鉄道上勝田第一アーチ橋」煉瓦造りの味のある陸橋アーチ部は煉瓦4枚巻き翼壁の天端には軒蛇腹明治30年総武鉄道開通時の建設径間3.66m高さ制限2.1m結構ぶつかって欠けてるとこありますな。抜け道的で交通量あるんで事故多いのかな。絵がかわいい更にチョイ離れたとこの小川の上の「上勝田第二橋梁」蔦に覆われて見にくいけど煉瓦造りのアーチ橋近くの道祖神
2018.09.11
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一人と一匹JA11で散歩成田市長沼 にある気になる橋RCの古そうな橋橋の名前は分かりません・・(本来表札のあった場所には何も付いてません)かなり痛んできてますなんか水門みたいなの付いてたのかな?奥に見える道幅の広い橋が今はメインとなっています。この鉄筋の曲がり具合車ぶつかったのかな?雰囲気のある橋です
2018.07.24
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一人と一匹JA11で散歩に行きます。前から気になっていた場所寄ってみます。成田線赤萩踏切近くの橋梁です。田んぼの道入って近くに行きます。レンガ造りの古い橋梁ですが軽く調べてみても分かりませんでした。用水路を跨いでます。奥に「旧中郷小学校」が見えます。良い感じの橋台H鋼の脇になにやら文字が見えますが、古いコンデジでズームしても読めません・・・多分ペンキ塗った業者とか年月なんだろうけど、この橋梁の正式名所が分かればよかったのに。
2018.07.15
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「総武本線第一鹿島川橋梁」を見てきます。ここには5本の線路が「高崎川」に掛かっています。そのうちの2本には古い煉瓦の橋台が今も使われています。こんな場所でも落書きされているのが残念明治30年架設されたものです。角張った船みたいな形は川の抵抗を減らす為かな?これも鉄道遺構?旧佐倉客貨車区の留置線照明塔
2018.07.02
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そのまま「八生村道路元標」の前を通って成田線の下潜ります。「旧成田鉄道松崎架道橋」でいいのかな?古い煉瓦造りの橋台明治34年「成田鉄道」開業時に作られた橋台をJR成田線我孫子支線で引き継いで使用されてます。
2018.07.01
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「ひたちなか市那珂湊運動公園」の隣にある「旧陸軍水戸飛行場跡」寄ってみます。「陸軍航空通信額学校」の門柱プロペラこのプロペラは昭和20年2月16日の艦載機大空襲の際に当飛行場から迎撃に飛び立ち激闘のすえ壮烈な自爆を遂げた戦友(不詳)の最期を偲ぶもので昭和51年8月11日日立港沖合の海底から引揚げられたものである手水鉢この御手洗みてらいはかつて本部前の航空神社に奉納されていたもので正面には当時の常陸教導飛行師団所属機が尾翼につけたマークが刻まれている二式複座戦闘機(キー45屠龍)のエンジン「ハ102」瑞星21型(ハ102)空冷複列星型14気筒乾燥重量:565 kg燃料:気化器式過給機:遠心式スーパーチャージャー1段2速離昇馬力 1,080HP/2,700RPM/ブースト+270mmHg公称馬力一速全開 1,055HP/2,600RPM/ブースト+180mmHg (高度2,800m)二速全開 950HP/2,600RPM/ブースト+180mmHg (高度5,800m)吊り下げられてるのは増槽?「水戸つばさの塔」設計製作 圓谷良夫施行 中野組石材工業株式会社昭和50年5月吉日 建立碑文散る桜 残る桜も 散る桜「ハウスベック少尉の顕彰碑」水戸砲術地区分遣隊長ハウスベック少尉は明朗快活なる典型的なアメリカ軍人として部下将兵及我々日本人の尊敬と親愛とを受け着任以来軍務に精励されて居たのである偶々昭和21年9月9日飛行訓練中事故に依り不幸にして殉職せられたる事は洵に痛惜に耐えない我々は此の遺徳を偲びて茲に碑を建て故少尉の不滅の徳を永久に讃へるものである譯文陸軍少尉グレゴリ―・シー・ハウスベック生年月日1925年(大正14年)4月30日北米合衆国ミシガン州サギナウ町水戸砲術地区分遣隊長昭和21年3月24日より同年9月9日死亡月日昭和21年9月9日
2018.05.22
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R125沿いに見える古い味のあるコンクリ橋(旧新利根橋)←R125の橋が新利根橋なのでこう呼んでるけど旧と新って切る場所間違うとなんか変だなたしか震災時に被害を受けて折れ線グラフのようになっていました。通行禁止になっていたのは覚えてましたが、久々に見たら撤去工事してるようでした・・・橋脚のみが残ってますがコンクリの欄干が良い感じだった橋桁は大部分無くなってました・・横の仮設ぽい橋はコベルコのクローラークレーンを通行させる為なのかな?新しく造りかえる?唯一残ってた最後の橋桁部分2つ断面が見えますな。ここは釣りのポイントのようで多くの釣師で賑わってました。撤去される前の姿※現在は完全に撤去されて跡形も無いです。幅も強度もありそうなんで仮設の橋残しといても良かったんじゃないのかなあ
2018.05.20
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「JR成田線我孫子支線大竹橋梁」見てみます。成田鉄道の開通時に築造された煉瓦造橋台の橋梁(明治34年 )現在もJR成田線で利用されてます。列車通過時に真下から見れそう~煉瓦造りは味がありますな。水路を跨いでます。
2018.05.14
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千葉県産業遺跡 「旧多古郵便局」1872(明治5)年,県内第一号の郵便局として多古,大総,野尻に開業した3局のうちのひとつ。1906(明治39)年に局舎が新築された。その後局舎の老朽化にともない,1942(昭和17)年に現在の建物に改築。木造モルタル仕上げ,総2階建,寄棟屋根に瓦葺お!ツバメの巣硝子越しに中を拝見一階が郵便業務二階が電話交換所だったらしい。正面の桜と葉、郵便マークの陶板装飾は良い感じ!その下の郵便受け?呼び出しベルかな?何か気になった建物があったので行ってみたら「多古町役場」でした。なかなか良いデザイン!アーチ状の窓や丸みを帯びた形が良いすね~細部にも拘ったデザインが良いな。直ぐ近くにあった古そうな住宅?こちら側の入口は新しそうスロープや手摺の感じは元診療所とか?しかし今は草ぼうぼうの生活感の無い状態。現在無住なのかな?廃墟になりそうな雰囲気・・道で見かけた変な石像
2018.04.07
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UF66で一人と一匹散歩に行きます。成田市江弁須になるのかなあ?R464挟んで「公津の杜公園」の反対側この辺りに成宗電気軌道の遺構があるはず・・・前に「成田福音教会」周辺や旧大袋駅辺りの廃線跡の道を散歩して捜しましたが見つかりませんでした。前回メボシ付けてた場所と違う位置で見つけることできました。成田駅周辺に残る土木遺産の第一、第二トンネルは廃線になった「電車道」ですが、もう一つの第三トンネルは軌道のあった築堤の下を潜る旧道の為のトンネルだったみたいです。公津の杜開発時に埋められてしまったようで現在使用されてません(できません)がトンネル上部アーチ上の煉瓦が遺構として現存していました。普通に道路を車で走ってて見れる場所では無いので、見つけたときは感動しました。コンクリで埋められて土や草木が覆っています。真夏なら草で埋もれて見つけられなかったかも・・・蔦や樹木の根が良い感じで、人工物が自然に還る途中の廃墟~遺跡感がたまりません。この石垣も当時の物でしょうかね。なにか物置でも置かれてしまったら全く人目につきません。途中の道で見かけたミニトラック埃かぶってるけど程度は良さげ521?ダットラかな?1300だし520かな?猫の足跡だらけ※このトンネルを見るのは不法侵入にはならないと思いますが、こういった場所では地元の方への気使いは忘れないようにしないとトラブルが起きて門や扉で閉められてしまう可能性があります。訪問する時は余所者が見学させてもらうつもりで臨みましょう。くれぐれも騒いだり、破壊したり、ゴミを捨てるなどは厳禁です。
2018.03.25
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ここも前から行きたかった場所です。「竹内農場赤レンガ西洋館跡」心霊スポットや廃墟マニアには有名な場所です。場所のめぼしはついてたんで寄ってみます。あれれ?もっと草木が生い茂る場所だったともってたけどきれいに整備されてるな~藪漕ぎせずに道からすぐ見えたなかなり木を伐採したみたいで明るくがらんとしてます・・・ちゃんと所有してる地主の方がいるのに不法侵入や肝試し、落書き、破戒、事故等が絶えないのでしょう・・・見やすくなって良いのですが周りにはネットが張られ近づけないのが残念です・・・どうせなら見学者に名前や住所など記名して公開すれば良いのになあ。屋根や1階2階の床が抜けて壁の煉瓦のみが残っています。なかなか味のある建物です大正九年築の歴史ある建造物です。ここの持ち主だった人は竹内 綱(たけうち つな)天保10年12月26日(1840年1月30日) - 大正11年(1922年)1月9日)土佐藩士、実業家、政治家。吉田茂(内閣総理大臣を務めた)は五男麻生太郎は外曾孫。このように周りはネットで覆われて近づけませんネットの網目からズームして画像に収めましたができたら建物の中から見学したかったなあ。「安久山の大シイ」のように維持管理費200円位とって公開すればよいと思うんだけどな。立ち入り禁止の張り紙と壁の落書きが残念硝子?板?の抜けた窓から中が少し見えます。この明るさと周りを整備したせいで廃墟感はだいぶ無くなってしまっただろうね。ネットで見つけた画像↓こんな風に体験したかった。朽ちた建物の中に芽生えた草や樹木がなんとも良い感じなんだろうなあ
2018.03.21
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「旧小野瀬邸」龍ケ崎市第一号となる国有形登録文化財大通りに面した木造2階建て一部平屋、間口5間、奥行3間、建築面積210㎡大正時代初期の建築物奥にある母屋は幕末から明治初期の建築だそう硝子越しに中を拝見魔除けの札金庫?きれいに保存されてます。雨水桶?金魚がいます鳥に食われないように長生きしてね脇道に標柱がありましたこの塀も良い感じ。当時の物?小野瀬忠兵衛家は干鰯商人として産をなした人みたい三代忠兵衛は明拾39年、龍崎農商銀行の創立発起人に、のち頭取四代忠兵衛は肥料・塩元捌,度量衡販売に加え、スタンダード石油代理店となり「龍ケ崎の筆忠」として知られ、龍崎農商銀行が五十銀行(常陽銀行の前身)と合併するや同行取締役五代忠兵衛は戦後衆議院議員をつとめ、龍ケ崎の発展のために尽力された人のようです。
2018.03.17
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旧諸岡邸赤レンガ門塀明治末期に建てられた貴重な近代化遺産2015年に移築復元されたものみたいです。東京駅と同じ貴重な覆輪目地すばらしいデザイン、良い味出てます。公園の忠魂碑乃木大将功徳の碑水飲み場だったんだろうコンクリ懐かしい感じの手洗い場近くで見かけたハイゼット4代目サブロク?S38かな?ナンバー無いけど最近まで使用されてたのかかなり程度は良さそうだな荷台の屋台?祭りに使ってた?今のハイゼットより断然良い顔
2018.03.16
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土浦駅ガード下辺り、土浦市川口にある「川口川閘門跡」寄ります。小さな公園に閘門とポンプが保存展示されてます。リベット止めの分厚い門扉良いですねえ揚水ポンプ&駆動モーター名盤は2種類ついてるけど中身巻き変えたのかな?電圧と出力は同じだけど周波数と極数が違うな減速機が無くて直結っぽいから西日本の60HZから東日本の50HZにして速度低下する分調整させるのにポール数を減らし対応したのかな?
2018.01.16
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